1983年・春爛漫<青春18>③
2019-04-30
まる一日かけて「青春18」で乗車できる全ての列車を駆使し九州上陸というものすごい偉業を成し遂げた我々は、さらに「偉業」の行動に出る。
門司港から普通夜行列車「ながさき」に揺られて更に西へ向かったのだが、また更に深夜の肥前山口でまさかの今度は上りの「ながさき」を捕まえる。つまり上下の夜行普通列車「ながさき」を使い深夜ののりかえをする事で旅籠的役割をさせようというのだ!レールファンの間では「一般常識」かも知れないが、私にしてみたら人生で初の試みである!無事乗り換えることができるのか・・・いや、もしかしたら寝てしまい乗り過ごしてしまうのかも知れない・・・という緊張感から解放されず、とうとう眠れないまま肥前山口に2時54分に到着した。
そして即座に跨線橋を渡り、3時22分発の上り「ながさき」に乗り換える準備をする。いや、正確には「準備」というよりは時間も時間のためどこの施設も営業しておらず、ただひたすら待つだけだったが、待ち時間約30分がやたら長く感じたのは気のせいだったのか。
深夜の肥前山口はやたらと静まり返り、当然ながら我々しか人類はおらず、旧型客車の臭いがやたら恋しくなった。

画像はウィキより拝借した肥前山口構内。ここで数多くの列車が分割・併合が行われる。かつては寝台特急「さくら」などもここで切り離されていたが、その列車名が現在は新幹線で活躍していると思うとなんとなく感慨深い
上り「ながさき」では、座席はほぼ埋まっていたが二人旅の我々には座席に困る事はなかったが、どうせ鹿児島本線を南下すべく二日市で下車するのだら例え相席でも何ら不自由は無い。しかも二日市に5時7分に着いたら、乗り換える5時23分発の熊本行き普通列車は下りの始発だから全然座席が空いているだろう。そんな事を計画段階から予測できるまでに成長した当時中学生の私であるが、考えてみたら深夜から未明、明け方にかけて、よくこんな乗り換えを計画したものだ。
そして熊本着が7時49分の為、2時間以上も乗車する事になる。つまりここで完全に防犯機能が薄れ熟睡体勢に入いるであろう。仮に、途中駅で下車するという緊張感から解放され、万が一終点まで目が覚めなくても車掌に起こされるであろう。そこまでイメージしながら卓上で立案していたのだが、事実、熊本行き普通列車ではそんなイメージ通りに安心して熟睡できた。とはいえ久留米辺りまでは起きていたのだが・・・

ご覧の通り、久留米では天候的にあまり良くない風景になっているのがお分かりいただけたと思う。鉄道での旅であるから雨はあまり関係ないと思われがちであるが、この雨が後の鹿児島交通で大きく響く事になる。
熊本より南に向かう列車は接続が悪く9時11分の発車だ。しかも電化区間なのにDCの運用である。ならば三角線でも制覇してしまおうと考えるのが一般的であるが、それだと恐らく鹿児島本線の普通列車か一本遅れてて鹿児島交通との連絡が悪くなるのだろう。恐らく当時の私はそんな事を考え熊本での二時間待ちを敢行したはずだ。ただ、熊本での待ち時間は仰山あるので遅い朝食、というより早い昼食かもしれない食事を摂る事にした。
もちろん当時の熊本駅は現在のように新幹線がなかったので側線が沢山あり構内は広かった。現在はそれこそ側線跡地を新幹線ホームに利用しているので旅客駅としてスッキリ生まれかわった感じだ。

こちらは1978年訪問時に撮影した西鹿児島駅舎。我々世代なら懐かしい風景であろうが、私的に在来線と新幹線が直角に交わる現在の鹿児島中央は実に斬新でカッコイイ風景に思う。
さて、電化区間をDCに揺られ八代過ぎ出水に到着した我々は、ここから「電車」に乗り換えいよいよ西鹿児島に到着する。到着したのは14時11分!夜行列車を2回乗り、まる1日半以上かけようやく「18」で乗れる列車のみでたどり着いた西鹿児島。現在では新幹線のみで東京から鹿児島まで到達しようとすると半日潰れてしまうが、それでも格段の進歩。鹿児島に新幹線が来る事自体、私は画期的と思うが、30年前には考えられなかった。その時代に1日半かけて鹿児島に行くなど、どう考えても時間のロスだ。しかし学生である以上、経済的な制約があるため特急などの「別料金物」とは無縁の世
界であった。しかしながら、それを逆手に取り「楽しむ」という知恵を知らず知らずのうちに備えていた。

そしていよいよ鹿児島交通の列車に乗車する。枕崎で指宿枕崎線より乗り換えるが、ご覧の通り土砂降りの雨!駅舎は鹿児島交通所有のものでなかなか渋かった駅舎であったのを思い出す。しかし・・・森高千里ではないが、このあとも雨はずっと降り続いていた。
さて、1978年以来焼く5年ぶりに西鹿児島のホームに降り立ったわけであるが、小学校四年生から中学3年生に成長した私を西鹿児島はどう迎えてくれるか・・・入場券を買って駅で沢山写真を撮ろう!久々の西鹿児島をじっくり堪能したかったが・・・指宿枕崎線への乗り換え時間はなんと3分!自身が組んだ予定とはいえ、あまりに悲しい久々の再会であった。だが、感傷に浸っている暇はない。旅の目的は鹿児島に来ることではない。この先さらに「奥地」に進み「鹿児島交通」を制覇する事だ。それが目的でここまでやってきたのだから指宿枕崎線に揺られなければならないのだ。
指宿を過ぎ、枕崎に着いたのは17時3分。もう夕方だ。鹿児島交通が管理している枕崎駅の勇姿をカメラに納めたかったのだが、朝から降り続く雨音は更に激しくなってきた。仕方なく駅舎に身を寄せるが、国鉄の職員はいない。国鉄は駅業務を鹿児島交通に委託していたのだ。

車内改札の際に購入した鹿児島交通の乗車券。スペースの都合から横でアップしたので見づらくて申し訳無いが、この時から既に30年以上経過しているなんて、私自身信じられない思いである。
さて、約1時間のインターバルののちにいよいよ鹿児島交通に挑む。たが、枕崎の駅舎から眺める赤い列車には、更に激しくなる雨の飛沫が突き刺さる。写真に写る幼い姉妹もひとつの傘に身を寄せながら赤い車体に消えて行った。
枕崎より乗る鹿児島交通では、遠い昔に大活躍したであろう列車に乗り伊集院に向かう事になる。時刻表上では直通列車であるが、この時乗った列車は途中の加世田で乗り換えとなり、国鉄から譲り受けた旧・キハ10にバトンタッチされた。ワンウェイでありながら豪華二本立てとはなかなか贅沢ではないか❗今になって感じる鹿児島交通制覇の記憶は、30年以上経過した今でもハッキリと私の脳裏に刻み込まれている。
もちろん「18」ではなくしっかりと正規料金を支払い伊集院まで完乗し、そして今度は再び鹿児島本線を北上し「東京」目指していく。この際に鹿児島本線に乗った混合列車「2038レ」と鹿児島交通に関しては当ブログで別途紹介しているのでぜひご覧いただきたい。
さて、2038列車に揺られ八代に着いたのは深夜1時5分。乗った列車は混合列車、つまり貨物列車と旅客列車がひとつの編成となっているため貨物列車の役割も果たしている。旅客列車の終点は八代であるが、貨物列車は熊本が終点だ。旅客の車両は八代より先は「回送」という形で熊本へ向かう。しかし私達は八代よりもっと先に進みたい。いっそのこと、車掌にお願いして熊本まででも乗せてもらいたいと本気で考えていたが、断られるのは100パーセントだろう。ただ、八代より後発の急行「かいもん」が接続しているので、予定通り鳥栖まで「別料金」で向かう事にした。

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門司港から普通夜行列車「ながさき」に揺られて更に西へ向かったのだが、また更に深夜の肥前山口でまさかの今度は上りの「ながさき」を捕まえる。つまり上下の夜行普通列車「ながさき」を使い深夜ののりかえをする事で旅籠的役割をさせようというのだ!レールファンの間では「一般常識」かも知れないが、私にしてみたら人生で初の試みである!無事乗り換えることができるのか・・・いや、もしかしたら寝てしまい乗り過ごしてしまうのかも知れない・・・という緊張感から解放されず、とうとう眠れないまま肥前山口に2時54分に到着した。
そして即座に跨線橋を渡り、3時22分発の上り「ながさき」に乗り換える準備をする。いや、正確には「準備」というよりは時間も時間のためどこの施設も営業しておらず、ただひたすら待つだけだったが、待ち時間約30分がやたら長く感じたのは気のせいだったのか。
深夜の肥前山口はやたらと静まり返り、当然ながら我々しか人類はおらず、旧型客車の臭いがやたら恋しくなった。

画像はウィキより拝借した肥前山口構内。ここで数多くの列車が分割・併合が行われる。かつては寝台特急「さくら」などもここで切り離されていたが、その列車名が現在は新幹線で活躍していると思うとなんとなく感慨深い
上り「ながさき」では、座席はほぼ埋まっていたが二人旅の我々には座席に困る事はなかったが、どうせ鹿児島本線を南下すべく二日市で下車するのだら例え相席でも何ら不自由は無い。しかも二日市に5時7分に着いたら、乗り換える5時23分発の熊本行き普通列車は下りの始発だから全然座席が空いているだろう。そんな事を計画段階から予測できるまでに成長した当時中学生の私であるが、考えてみたら深夜から未明、明け方にかけて、よくこんな乗り換えを計画したものだ。
そして熊本着が7時49分の為、2時間以上も乗車する事になる。つまりここで完全に防犯機能が薄れ熟睡体勢に入いるであろう。仮に、途中駅で下車するという緊張感から解放され、万が一終点まで目が覚めなくても車掌に起こされるであろう。そこまでイメージしながら卓上で立案していたのだが、事実、熊本行き普通列車ではそんなイメージ通りに安心して熟睡できた。とはいえ久留米辺りまでは起きていたのだが・・・

ご覧の通り、久留米では天候的にあまり良くない風景になっているのがお分かりいただけたと思う。鉄道での旅であるから雨はあまり関係ないと思われがちであるが、この雨が後の鹿児島交通で大きく響く事になる。
熊本より南に向かう列車は接続が悪く9時11分の発車だ。しかも電化区間なのにDCの運用である。ならば三角線でも制覇してしまおうと考えるのが一般的であるが、それだと恐らく鹿児島本線の普通列車か一本遅れてて鹿児島交通との連絡が悪くなるのだろう。恐らく当時の私はそんな事を考え熊本での二時間待ちを敢行したはずだ。ただ、熊本での待ち時間は仰山あるので遅い朝食、というより早い昼食かもしれない食事を摂る事にした。
もちろん当時の熊本駅は現在のように新幹線がなかったので側線が沢山あり構内は広かった。現在はそれこそ側線跡地を新幹線ホームに利用しているので旅客駅としてスッキリ生まれかわった感じだ。

こちらは1978年訪問時に撮影した西鹿児島駅舎。我々世代なら懐かしい風景であろうが、私的に在来線と新幹線が直角に交わる現在の鹿児島中央は実に斬新でカッコイイ風景に思う。
さて、電化区間をDCに揺られ八代過ぎ出水に到着した我々は、ここから「電車」に乗り換えいよいよ西鹿児島に到着する。到着したのは14時11分!夜行列車を2回乗り、まる1日半以上かけようやく「18」で乗れる列車のみでたどり着いた西鹿児島。現在では新幹線のみで東京から鹿児島まで到達しようとすると半日潰れてしまうが、それでも格段の進歩。鹿児島に新幹線が来る事自体、私は画期的と思うが、30年前には考えられなかった。その時代に1日半かけて鹿児島に行くなど、どう考えても時間のロスだ。しかし学生である以上、経済的な制約があるため特急などの「別料金物」とは無縁の世
界であった。しかしながら、それを逆手に取り「楽しむ」という知恵を知らず知らずのうちに備えていた。

そしていよいよ鹿児島交通の列車に乗車する。枕崎で指宿枕崎線より乗り換えるが、ご覧の通り土砂降りの雨!駅舎は鹿児島交通所有のものでなかなか渋かった駅舎であったのを思い出す。しかし・・・森高千里ではないが、このあとも雨はずっと降り続いていた。
さて、1978年以来焼く5年ぶりに西鹿児島のホームに降り立ったわけであるが、小学校四年生から中学3年生に成長した私を西鹿児島はどう迎えてくれるか・・・入場券を買って駅で沢山写真を撮ろう!久々の西鹿児島をじっくり堪能したかったが・・・指宿枕崎線への乗り換え時間はなんと3分!自身が組んだ予定とはいえ、あまりに悲しい久々の再会であった。だが、感傷に浸っている暇はない。旅の目的は鹿児島に来ることではない。この先さらに「奥地」に進み「鹿児島交通」を制覇する事だ。それが目的でここまでやってきたのだから指宿枕崎線に揺られなければならないのだ。
指宿を過ぎ、枕崎に着いたのは17時3分。もう夕方だ。鹿児島交通が管理している枕崎駅の勇姿をカメラに納めたかったのだが、朝から降り続く雨音は更に激しくなってきた。仕方なく駅舎に身を寄せるが、国鉄の職員はいない。国鉄は駅業務を鹿児島交通に委託していたのだ。

車内改札の際に購入した鹿児島交通の乗車券。スペースの都合から横でアップしたので見づらくて申し訳無いが、この時から既に30年以上経過しているなんて、私自身信じられない思いである。
さて、約1時間のインターバルののちにいよいよ鹿児島交通に挑む。たが、枕崎の駅舎から眺める赤い列車には、更に激しくなる雨の飛沫が突き刺さる。写真に写る幼い姉妹もひとつの傘に身を寄せながら赤い車体に消えて行った。
枕崎より乗る鹿児島交通では、遠い昔に大活躍したであろう列車に乗り伊集院に向かう事になる。時刻表上では直通列車であるが、この時乗った列車は途中の加世田で乗り換えとなり、国鉄から譲り受けた旧・キハ10にバトンタッチされた。ワンウェイでありながら豪華二本立てとはなかなか贅沢ではないか❗今になって感じる鹿児島交通制覇の記憶は、30年以上経過した今でもハッキリと私の脳裏に刻み込まれている。
もちろん「18」ではなくしっかりと正規料金を支払い伊集院まで完乗し、そして今度は再び鹿児島本線を北上し「東京」目指していく。この際に鹿児島本線に乗った混合列車「2038レ」と鹿児島交通に関しては当ブログで別途紹介しているのでぜひご覧いただきたい。
さて、2038列車に揺られ八代に着いたのは深夜1時5分。乗った列車は混合列車、つまり貨物列車と旅客列車がひとつの編成となっているため貨物列車の役割も果たしている。旅客列車の終点は八代であるが、貨物列車は熊本が終点だ。旅客の車両は八代より先は「回送」という形で熊本へ向かう。しかし私達は八代よりもっと先に進みたい。いっそのこと、車掌にお願いして熊本まででも乗せてもらいたいと本気で考えていたが、断られるのは100パーセントだろう。ただ、八代より後発の急行「かいもん」が接続しているので、予定通り鳥栖まで「別料金」で向かう事にした。

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1983年・春爛漫<青春18>②
2019-04-25
東京より恒例の「大垣夜行」に乗った私は予定通り人生で初めて「大垣ダッシュ」を経験し、そして東海道線と山陽本線を駆使して只管西へ向かう。途中神戸、姫路、岡山、広島、小郡、門司と乗り換える。「神戸」の乗り換えは「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するためであるが、先発の列車でも神戸で一本遅らせても姫路から乗り換える列車が同じになるのでわざわさ神戸で下車し証明写真を撮影したわけだ。

1978年に撮影した防府駅。寝台特急「富士」に乗車時に撮影したが、当時、東京発の寝台特急で「富士」は西日本ではなかなか渋い駅に停車した。
岡山を過ぎ広島付近ではちょうど帰宅時間帯にぶつかり、私達の座席も他の乗客と相席になりやや狭苦しい思いもしたが、概ね相席になることは無かった。
そして小郡では39分の待ち時間があり、なんとか新幹線に乗ってもらおうという魂胆が見え隠れするが、私は頑なに普通列車に拘った。というか「18」なのだから選択肢が限定されてしまうので普通列車に乗らざるを得ないのだが・・・


2012年に訪問した新山口こと小郡。国鉄時代には観光用にSL運転され話題になり現在に至っている。、行政的には山口市が小郡町と合併する事により現在の駅名となったが、かつての小郡駅時代は現在よりも更に複雑な構内配線であった。
39分待って小郡より普通列車に揺られ関門トンネルを抜けるといよいよ九州入りを果たすが、現地の「門司」に着いたのは22時01分。夜10時の到着だ。門司港発の「ながさき」に乗るのは22時40分である。果てして座れるのか・・・と思いきや、意外と待っている乗客は少なく、密かな読み通り、待ち時間を少なくして効率の良い計画・行程となった。
門司港に着いたのは22時16分なのでインターバルは30分を切った約25分。待ち時間中、退屈する時間は無かったが、普段見れない列車達に些かの興奮も隠しきれない。
例えば、別のホームには夜行急行「かいもん」とボンネット仕様の特急「有明」、更には夜行急行の「日南」など、いつかは乗ってみたいと思う列車ばかり。もちろん「収め」に取り掛かるが、写真だけでは物足りない。・・・
自慢のカメラを被写体に向けるが、二人旅の為、一人は「座席確保」の為に列に並ぶ。やはり旅はチームワークが大切であろう。

「ながさき」の待ち時間に門司港で撮影した特急「有明」。門司港に有明が姿を現すのはある意味時間帯が限られているので珍しい部類であるかも知れないが、そういった意味ではグッドタイミングであったかも知れない。隣には分かり辛いが、夜行急行「かいもん」が出発を待っていた。
いっそ急行「かいもん」に本当は乗りたかったが、きっぷがそれを許さない。私たちは予定通り「ながさき」に乗り込まなければならなかった。ところで普通列車なのに「ながさき」という愛称が冠されているが、その理由は「寝台車の連結」があるからだ。僅か1両であるが、普通列車に寝台車が連結されているのは、今考えたらすごい違和感!しかも20系以前の客車・・・10系の客車寝台である!
しかし私たちは当然ながら寝台車ではない普通座席である。寝台を利用する場合、寝台料金はもちろんだが、別途運賃を払わなければならないからだ。つまり「18」を持っているにもかかわらず運賃を払わなければならないという、なんとも不経済な旅となってしまうのだ。当時中学生だった私には一円たりとも無駄にできないのであった。

同じく門司港発の夜行急行列車「日南」。日豊本線経由で西鹿児島(当時)を目指すが宮崎~西鹿児島間はなんと普通列車に変身してしまう!確か20系客車での運用であったのでこれは完全に儲け物であろう。
さて、定刻に門司港を出発した「ながさき」は途中、博多までは眉毛の無い「へんなおじさん」に絡まれていささか嫌な思いをしたが、それ以降は「寝る体勢」になる。「ながさき」は文字通り長崎行であるが、途中早岐で佐世保行を切り離す。「途中早岐で切り離す・・・」この「早岐で切り離す」がポイントで、この「ながさき」は大村線経由で長崎に向かう事になる。つまり昔の「長崎本線」のルートをそのまま再現している事になるのだ!これは大変貴重であり、古式ゆかしき伝統的な列車であるのだ!だが私達は長崎まで向かわず、途中の肥前山口でこの伝統的な列車を捨てる事になる予定だ。なぜ・・・レールファンなら既にお気付きと思われるが、果してその真相は・・・

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1978年に撮影した防府駅。寝台特急「富士」に乗車時に撮影したが、当時、東京発の寝台特急で「富士」は西日本ではなかなか渋い駅に停車した。
岡山を過ぎ広島付近ではちょうど帰宅時間帯にぶつかり、私達の座席も他の乗客と相席になりやや狭苦しい思いもしたが、概ね相席になることは無かった。
そして小郡では39分の待ち時間があり、なんとか新幹線に乗ってもらおうという魂胆が見え隠れするが、私は頑なに普通列車に拘った。というか「18」なのだから選択肢が限定されてしまうので普通列車に乗らざるを得ないのだが・・・


2012年に訪問した新山口こと小郡。国鉄時代には観光用にSL運転され話題になり現在に至っている。、行政的には山口市が小郡町と合併する事により現在の駅名となったが、かつての小郡駅時代は現在よりも更に複雑な構内配線であった。
39分待って小郡より普通列車に揺られ関門トンネルを抜けるといよいよ九州入りを果たすが、現地の「門司」に着いたのは22時01分。夜10時の到着だ。門司港発の「ながさき」に乗るのは22時40分である。果てして座れるのか・・・と思いきや、意外と待っている乗客は少なく、密かな読み通り、待ち時間を少なくして効率の良い計画・行程となった。
門司港に着いたのは22時16分なのでインターバルは30分を切った約25分。待ち時間中、退屈する時間は無かったが、普段見れない列車達に些かの興奮も隠しきれない。
例えば、別のホームには夜行急行「かいもん」とボンネット仕様の特急「有明」、更には夜行急行の「日南」など、いつかは乗ってみたいと思う列車ばかり。もちろん「収め」に取り掛かるが、写真だけでは物足りない。・・・
自慢のカメラを被写体に向けるが、二人旅の為、一人は「座席確保」の為に列に並ぶ。やはり旅はチームワークが大切であろう。

「ながさき」の待ち時間に門司港で撮影した特急「有明」。門司港に有明が姿を現すのはある意味時間帯が限られているので珍しい部類であるかも知れないが、そういった意味ではグッドタイミングであったかも知れない。隣には分かり辛いが、夜行急行「かいもん」が出発を待っていた。
いっそ急行「かいもん」に本当は乗りたかったが、きっぷがそれを許さない。私たちは予定通り「ながさき」に乗り込まなければならなかった。ところで普通列車なのに「ながさき」という愛称が冠されているが、その理由は「寝台車の連結」があるからだ。僅か1両であるが、普通列車に寝台車が連結されているのは、今考えたらすごい違和感!しかも20系以前の客車・・・10系の客車寝台である!
しかし私たちは当然ながら寝台車ではない普通座席である。寝台を利用する場合、寝台料金はもちろんだが、別途運賃を払わなければならないからだ。つまり「18」を持っているにもかかわらず運賃を払わなければならないという、なんとも不経済な旅となってしまうのだ。当時中学生だった私には一円たりとも無駄にできないのであった。

同じく門司港発の夜行急行列車「日南」。日豊本線経由で西鹿児島(当時)を目指すが宮崎~西鹿児島間はなんと普通列車に変身してしまう!確か20系客車での運用であったのでこれは完全に儲け物であろう。
さて、定刻に門司港を出発した「ながさき」は途中、博多までは眉毛の無い「へんなおじさん」に絡まれていささか嫌な思いをしたが、それ以降は「寝る体勢」になる。「ながさき」は文字通り長崎行であるが、途中早岐で佐世保行を切り離す。「途中早岐で切り離す・・・」この「早岐で切り離す」がポイントで、この「ながさき」は大村線経由で長崎に向かう事になる。つまり昔の「長崎本線」のルートをそのまま再現している事になるのだ!これは大変貴重であり、古式ゆかしき伝統的な列車であるのだ!だが私達は長崎まで向かわず、途中の肥前山口でこの伝統的な列車を捨てる事になる予定だ。なぜ・・・レールファンなら既にお気付きと思われるが、果してその真相は・・・

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1983年・春爛漫<青春18>①
2019-04-20
鹿児島交通廃止!の情報を風の噂で察知した私は、早速訪問予定を組むことにした。廃止予定日は1983年3月31日と発表された。後に記すが、結果的に沿線住民などとのやり取りもあり廃止は延期されたのだが、あくまで「延期」であり、結果的に後日その運命を免れない「Xデー」がやって来る事になる。私は延期の事実を知らされないまま「Xデー」に鹿児島に着くよう予定を組むが、なんと「青春18」で鹿児島入りするという無謀な計画を立案した!参加者は私と「鉄道研究クラブ」の部員1名の合計2名での出陣である。前回紹介した「何も言えなくて・・・夏」に登場したあのメンバーである。ということで、中学2年から3年にステップアップする春休みに「部活」ではなくあくまで「個人」の旅が始まった。

画像はウィキより拝借した鹿児島交通。廃止直前は台風による被害を受けて一部で不通区間が出た。その後復旧することなく全線廃止となったが、私の訪問時は最初に発表された廃止日である1983年3月31日であった。
さて、あくまでも「個人の旅」の為、相方といつものように「西寒川駅」より出発し「大垣夜行」に乗る恒例の行程となった。もちろん、前回紹介したように現在のような「ムーンライトながら」的な風景ではなく、グリーン車以外は全て自由席のため東京駅で約3時間待ち座席を確保する。たが今回も二人旅の為、ボックス席には面識のない二人と同席となる。

(現在はJR東海の所属となった静岡。いわゆる「大垣夜行」の到着の際は「べんと~~っ!」の掛け声とともに駅弁を売りに来るのは地味に有名かも知れない光景であった。)
ということで、いつものように東京を出発した165系の大垣夜行であるが、途中、東海地区は「快速」となり主要駅のみの停車となる。だが「18」による長旅は既に3回目となり大垣夜行の勝手もわかるようになってきたし旅の術も身につけ慣れたものになってきた。全く生意気になったものだ。
大垣夜行は先述通り、途中、東海地区では主要駅のみ停車する快速的運転となるが、名古屋付近にちょうど良い時間に到着するよう途中駅で時間調整する。そのため静岡や浜松等での停車時間が長い。そしてその停車時間に「フレートライナー」等の貨物列車にガンガン抜かれる。私たちは旅の初日の為、夜行列車では当然興奮状態で熟睡できないが、特に途中の静岡では深夜の時間帯なのになぜか「駅弁」を売りに来る!この駅弁は私にとって憧れのアイドル的存在だ。たが、当時中学生の私にはかなりの高嶺の花のため今一歩が踏み出せない。そう思うと尚更腹の虫が泣いてくる。それと一緒に売っているプラスチック容器に入った暖かいお茶もまた美味い!であろう。残念ながら静岡の駅弁購入は夢に破れてしまったが、誰もが憧れる(?)素敵な駅弁であろう。

(「大垣ダッシュ」の次に乗り換えがやってくる米原。ただ、ここでは北陸方面への乗り換えもあるためいささかリスクは分散されるイメージであるが、実際はいかに・・・)
やがて名古屋を過ぎ終点大垣に着くと、恒例の「大垣ダッシュ」を初めて経験する事になる。レールファンならご存じの光景であるが、レールファン以外の方のために「タイムボカン」風に説明しよう。大垣より先、米原方面へ乗り換えるため、次の列車目指し座席確保に皆命を懸ける。だが次の列車の乗り場が同一ホームではないため跨線橋を大勢の乗り換え客が「ダッシュ」するという光景がみられるのだ。それは現在も「ムーンライトながら」に引き継がれていたが、その「ムーンライト」も臨時化されて久しい。しかも本数が減少しているので「フェードアウト」もしかねない状況ではあるのだが、これからも是非走り続けてほしいのだ。しかし、なぜ大垣での乗り換が同一ホームではないのだろうか。JRがわざわざ意図的に同一ホームにしないのだろうか。これはある意味「いじめ」ではないのか。やはり同一ホームで乗り換えは必要事項であろう。

(画像はウィキより拝借した大垣夜行。JRになってからはご覧のような「ムーンライトながら」として全席指定となり、国鉄時代の特急車両が充てられるようになった。レギュラーはJR東海の車両であったが、現在は定期便がなくなり、国鉄時代にデビューした185系が充てられ、臨時列車ながら生き残っている。)
さて、座席は無事確保できこれより只管西へ向かう。かつては「ザ・ビートルズ(ずーとるびではない!)」の前座も務めた事のある超ビッグバンド(?)の「ゴー・ウエスト」というタイトルの曲にでも乗った気分で私は「門司港」を目指した。

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画像はウィキより拝借した鹿児島交通。廃止直前は台風による被害を受けて一部で不通区間が出た。その後復旧することなく全線廃止となったが、私の訪問時は最初に発表された廃止日である1983年3月31日であった。
さて、あくまでも「個人の旅」の為、相方といつものように「西寒川駅」より出発し「大垣夜行」に乗る恒例の行程となった。もちろん、前回紹介したように現在のような「ムーンライトながら」的な風景ではなく、グリーン車以外は全て自由席のため東京駅で約3時間待ち座席を確保する。たが今回も二人旅の為、ボックス席には面識のない二人と同席となる。

(現在はJR東海の所属となった静岡。いわゆる「大垣夜行」の到着の際は「べんと~~っ!」の掛け声とともに駅弁を売りに来るのは地味に有名かも知れない光景であった。)
ということで、いつものように東京を出発した165系の大垣夜行であるが、途中、東海地区は「快速」となり主要駅のみの停車となる。だが「18」による長旅は既に3回目となり大垣夜行の勝手もわかるようになってきたし旅の術も身につけ慣れたものになってきた。全く生意気になったものだ。
大垣夜行は先述通り、途中、東海地区では主要駅のみ停車する快速的運転となるが、名古屋付近にちょうど良い時間に到着するよう途中駅で時間調整する。そのため静岡や浜松等での停車時間が長い。そしてその停車時間に「フレートライナー」等の貨物列車にガンガン抜かれる。私たちは旅の初日の為、夜行列車では当然興奮状態で熟睡できないが、特に途中の静岡では深夜の時間帯なのになぜか「駅弁」を売りに来る!この駅弁は私にとって憧れのアイドル的存在だ。たが、当時中学生の私にはかなりの高嶺の花のため今一歩が踏み出せない。そう思うと尚更腹の虫が泣いてくる。それと一緒に売っているプラスチック容器に入った暖かいお茶もまた美味い!であろう。残念ながら静岡の駅弁購入は夢に破れてしまったが、誰もが憧れる(?)素敵な駅弁であろう。

(「大垣ダッシュ」の次に乗り換えがやってくる米原。ただ、ここでは北陸方面への乗り換えもあるためいささかリスクは分散されるイメージであるが、実際はいかに・・・)
やがて名古屋を過ぎ終点大垣に着くと、恒例の「大垣ダッシュ」を初めて経験する事になる。レールファンならご存じの光景であるが、レールファン以外の方のために「タイムボカン」風に説明しよう。大垣より先、米原方面へ乗り換えるため、次の列車目指し座席確保に皆命を懸ける。だが次の列車の乗り場が同一ホームではないため跨線橋を大勢の乗り換え客が「ダッシュ」するという光景がみられるのだ。それは現在も「ムーンライトながら」に引き継がれていたが、その「ムーンライト」も臨時化されて久しい。しかも本数が減少しているので「フェードアウト」もしかねない状況ではあるのだが、これからも是非走り続けてほしいのだ。しかし、なぜ大垣での乗り換が同一ホームではないのだろうか。JRがわざわざ意図的に同一ホームにしないのだろうか。これはある意味「いじめ」ではないのか。やはり同一ホームで乗り換えは必要事項であろう。

(画像はウィキより拝借した大垣夜行。JRになってからはご覧のような「ムーンライトながら」として全席指定となり、国鉄時代の特急車両が充てられるようになった。レギュラーはJR東海の車両であったが、現在は定期便がなくなり、国鉄時代にデビューした185系が充てられ、臨時列車ながら生き残っている。)
さて、座席は無事確保できこれより只管西へ向かう。かつては「ザ・ビートルズ(ずーとるびではない!)」の前座も務めた事のある超ビッグバンド(?)の「ゴー・ウエスト」というタイトルの曲にでも乗った気分で私は「門司港」を目指した。

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1982年・何も言えなくて・・・夏⑥
2019-04-15
前回乗車した下りの「山陰」は満員御礼であったが、今回の上り「山陰」は若干空席があった。ひとり・ふたりなら余裕で途中駅から乗車可能であったろう。と教訓を得たが、実は翌年の3月に「18」で九州を訪問した帰りに利用した「山陰」では途中、豊岡からの乗車であった。もちろん教訓を生かしたはずであったが・・・結果はデッキで寝る事になってしまった。青春18が浸透してきて普通夜行列車が軒並み満員御礼となり、上りの夜行普通列車にもこうした現象が徐々に起こりはじめていた。恐らくこれは「山陰」に限っての事なのかそれとも・・・

(以前にも紹介したが大垣駅の入場券は近鉄(当時)と駅を共用していたので80円と格安であった。大垣からは美濃赤坂支線と樽見線を制覇。樽見線と言えば現在も「樽見鉄道」として第三セクターで運営されている。しかも神海~樽見が延伸され、私の訪問時より姿が変わった。当時は「美濃神海」として樽見線の終点であった棒線の神海駅も、現在は交換可能駅として生まれ変わった。
さて、上り「山陰」で京都に向かうが、到着は翌朝5時24分だ。そして5時28分発の東海道線上り普通列車に乗り換えなければならない。乗り換え時間僅か4分!一般的に考えたら4分の乗り換え時間はある意味余裕が感じらるであろう。だが、レールファンであるがゆえに京都駅の事情は残念ながら多少の知識はある。しかも時刻表であれば駅構造もしっかりと記されている。故にその事がかえって私をブルーにさせた。

(懐かしさ満点の3代目京都駅舎はウィキより画像を拝借した。国鉄時代を含め私の京都駅はこのイメージが強い。現在はすっかりモダンになったが、一時期は「のぞみ」が通過する場面もあった。)
京都駅・・・レールファンなら事情はご存じであろうが、あえてここで説明しよう(タイムボカンではないが)。
京都駅の1番線ホームは当時日本一の長さであった。当時の1番線が現在の0番線となり山陰ホームの30番線以降とつながっているが、当時の山陰ホームは「山陰1(番線)」「山陰2(番線)」とよばれ1番線とつながっていた。つまり、内容的に現在とほぼ変わらないが、山陰ホームが増設され電化された事が大きく変貌した事である。そして1番線から0番線に変わった事だ。
そんな「日本一」のホームから跨線橋を使い別のホームにいる東海道線に乗り換えるなんて、せめて同一ホームにしてくれよと言いたくなるようなダッシュをしなければ座席確保ができないであろう。
特に現在のJR東海の東海道線・静岡や浜松などでも似たような乗り換えが多いので何度かご意見申した事があるが、もちろんJR側の都合もあろう。だが、何とか階段を使わずに乗り換えできるパターンを多くしてもらいたいものだ。
厳しい現実の中、京都に着く頃には座席を捨て、デッキに出てスタンバイしておこうと、旅慣れない少年なりに知恵を振り絞っていた。

(国鉄時代は終点であった現在の神海駅。当時は棒線化されていたが、当然島式ホームに備えた空間が準備されていた。しかし、まさか本当に延伸されるとは思いもしなかった。)
京都に到着すると、命をかけたダッシュが始まり、お陰で次の列車の座席は確保できた。その後安心しきったのか、爆睡状態で大垣に向かう。そしてあえ無く樽見線、そして東海道支線の美濃赤坂までを制覇した。特に樽見線は廃止情報が出ており、乗車意欲が湧いてしまう。私の訪問当時は美濃神海が終点であったが、現在は周知の通り、経営母体は変わったものの、樽見まで延伸された。まさか延伸されるとは思わなかったが、旅客のみでの経営ではなかなか辛い風景となろう。
樽見線、東海道支線どちらの順番でも大垣に着く時間は確か変わらなかった記憶であったが、美濃赤坂への支線が「東海道」を名乗る辺り、なかなかの渋さを感じる。大垣は近鉄を含め数多くの分岐を持つ駅として幼い頃から非常に興味があった。「幼い頃」という表現は適当ではないかも知れないが、「いつかは駅の配線を解読したい!」と常々考えていたものだ。というより、こんな事を考えてる少年はハッキリ言って「普通」というカテゴリーには入りにくいであろうと今になって感じるのだが・・・
そんな大垣で旅の一段落を終え、後は東海道で湘南地区に帰郷するのみとなった。大垣からは117系快速で一気に浜松へ。そして更に湘南目指して・・・
今回の旅は先ほどから述べていたが「上り夜行は空いている」という教訓を得た事であった。長野、亀山で2時間以上の待ち時間はハッキリ言って無駄な時間であったが、とても貴重な無駄な体験をした時間でもあった。「山陰」を含め私の乗車したこれらの夜行列車は現在運転されていない。そして「18」を使用しながら「大垣夜行」を利用しない唯一の長旅でもあった。

(尾鷲と同じくたった一度だけの訪問経験である新宮。現在は東海と西日本の境界駅として活躍するが、実際問題「電化」「非電化」の境界駅でもあり同じ紀勢本線でも新宮を境に全くカラーが異なる。)
湘南地区に住んでいると、ほとんどが「大垣夜行」を利用して西に向かう事になる。今回は珍しく北に向かう事になったが、実はこの時の計画段階では「東北」「北海道」等も視野に入れていた。しかし「北」に向かうにはどうしても「駅寝」を組み込まなければならない関係から外れた。いや「18」を使っての普通列車のみの旅ではやたらと歩留まりが悪い。特に北海道に関しては「18」のみだとかえって経済的にも不利になろう。
この旅の計画や実際の乗車記録を振り返ると絶対に「もったいない箇所」が無数にあった。今の私が当時の時刻表で計画を組んでみたらもっと違う計画が絶対にできたはずだ。いや、必ずできる!「魚沼線」や「蒲原鉄道」、弥彦線の東三条~越後長沢など、なぜもっと頭を使いこれらに乗ろうと努力しなかったのか・・・

(ウィキより画像を拝借した美濃赤坂。旅客駅としては地味な部類であるが、現在でも貨物列車が活躍する貴重な駅である。)
全く関係無い話であるが、2013年にプロレスラー・小橋建太が引退した。プロレスに興味ない方はわからないかも知れないが、私は勿論デビュー当時の若手時代より知っている。ちょうどバブル期くらいに台頭してきて1990年代後半にはトップレスラーの仲間入りを果たすが、怪我が多く晩年は試合数が激減していた。ただ、真っ直ぐなファイトスタイルは多くのファンを魅了してきたが、とうとう「引退」という言葉で自身の未来を報告する時間がやってきてしまった。
引退セレモニーの中で彼は「プロレスとはなんですか?」との問いに「青春でした」と答えた。「青春の握り拳」なる名フレーズもある小橋のこの言葉に私は若干ウルッと来てしまった。そしてその時フッと思った。私は何気に鉄道に「青春」を求めているのではないかと。特に私は小橋ファンというわけではないが(というより三沢光晴のファンであるが)、この引退セレモニーを観て小橋という人間が一段と好きになった。小橋は素晴らしいレスラーであった。

(まさか私のブログにレスラーが登場するとは思わなかったが・・・これがプロレスラー・小橋建太。もしかしたら我々は「18きっぷ」に、彼のような「青春」を求めているのかもしれない。画像はウィキペディアより。)
数多くの「トクトクきっぷ」が発売される中、この青春18きっぷは誕生してから今も人気が高い。そしてシーズンになると夜行普通列車が臨時ながら復活する。
普通列車限定のこのきっぷに私たちは一体何を求めているのであろうか。ハッキリ言って私は普通列車の座席より「グランクラス」の方が快適だと思う。できれば普通列車の移動は避けたい。こんな事を考えるようになったのは最近であるが、やはり年をとったのか・・・とは言え「18」を使って旅に出る事もやはり好きだ。何だか発言が矛盾しているが、やはりあの普通列車に揺られて景色を眺めるとかつての自分に巡り会えるような気がする。
多分私はこういった「青春」を求めて「18」を使い旅に出るのだと最近になって気づいた。「誰もが」とは言わないが、やはり皆「青春」を求めて旅に出るのであろう。だから今でも人気が高い「青春18」の存在があるのではと思わされる。勿論「リーズナブル」ということも否定できないが・・・
しかし、現在運転されてない夜行列車の数々も経験できた事は大きい。大きいが、完全に歩留まり悪い計画をしたこの旅に同行した同級生には大変に申し訳ない事をした感じだ。一言謝っておきたかったのだが・・・何も言えなくて・・・夏。

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(以前にも紹介したが大垣駅の入場券は近鉄(当時)と駅を共用していたので80円と格安であった。大垣からは美濃赤坂支線と樽見線を制覇。樽見線と言えば現在も「樽見鉄道」として第三セクターで運営されている。しかも神海~樽見が延伸され、私の訪問時より姿が変わった。当時は「美濃神海」として樽見線の終点であった棒線の神海駅も、現在は交換可能駅として生まれ変わった。
さて、上り「山陰」で京都に向かうが、到着は翌朝5時24分だ。そして5時28分発の東海道線上り普通列車に乗り換えなければならない。乗り換え時間僅か4分!一般的に考えたら4分の乗り換え時間はある意味余裕が感じらるであろう。だが、レールファンであるがゆえに京都駅の事情は残念ながら多少の知識はある。しかも時刻表であれば駅構造もしっかりと記されている。故にその事がかえって私をブルーにさせた。

(懐かしさ満点の3代目京都駅舎はウィキより画像を拝借した。国鉄時代を含め私の京都駅はこのイメージが強い。現在はすっかりモダンになったが、一時期は「のぞみ」が通過する場面もあった。)
京都駅・・・レールファンなら事情はご存じであろうが、あえてここで説明しよう(タイムボカンではないが)。
京都駅の1番線ホームは当時日本一の長さであった。当時の1番線が現在の0番線となり山陰ホームの30番線以降とつながっているが、当時の山陰ホームは「山陰1(番線)」「山陰2(番線)」とよばれ1番線とつながっていた。つまり、内容的に現在とほぼ変わらないが、山陰ホームが増設され電化された事が大きく変貌した事である。そして1番線から0番線に変わった事だ。
そんな「日本一」のホームから跨線橋を使い別のホームにいる東海道線に乗り換えるなんて、せめて同一ホームにしてくれよと言いたくなるようなダッシュをしなければ座席確保ができないであろう。
特に現在のJR東海の東海道線・静岡や浜松などでも似たような乗り換えが多いので何度かご意見申した事があるが、もちろんJR側の都合もあろう。だが、何とか階段を使わずに乗り換えできるパターンを多くしてもらいたいものだ。
厳しい現実の中、京都に着く頃には座席を捨て、デッキに出てスタンバイしておこうと、旅慣れない少年なりに知恵を振り絞っていた。

(国鉄時代は終点であった現在の神海駅。当時は棒線化されていたが、当然島式ホームに備えた空間が準備されていた。しかし、まさか本当に延伸されるとは思いもしなかった。)
京都に到着すると、命をかけたダッシュが始まり、お陰で次の列車の座席は確保できた。その後安心しきったのか、爆睡状態で大垣に向かう。そしてあえ無く樽見線、そして東海道支線の美濃赤坂までを制覇した。特に樽見線は廃止情報が出ており、乗車意欲が湧いてしまう。私の訪問当時は美濃神海が終点であったが、現在は周知の通り、経営母体は変わったものの、樽見まで延伸された。まさか延伸されるとは思わなかったが、旅客のみでの経営ではなかなか辛い風景となろう。
樽見線、東海道支線どちらの順番でも大垣に着く時間は確か変わらなかった記憶であったが、美濃赤坂への支線が「東海道」を名乗る辺り、なかなかの渋さを感じる。大垣は近鉄を含め数多くの分岐を持つ駅として幼い頃から非常に興味があった。「幼い頃」という表現は適当ではないかも知れないが、「いつかは駅の配線を解読したい!」と常々考えていたものだ。というより、こんな事を考えてる少年はハッキリ言って「普通」というカテゴリーには入りにくいであろうと今になって感じるのだが・・・
そんな大垣で旅の一段落を終え、後は東海道で湘南地区に帰郷するのみとなった。大垣からは117系快速で一気に浜松へ。そして更に湘南目指して・・・
今回の旅は先ほどから述べていたが「上り夜行は空いている」という教訓を得た事であった。長野、亀山で2時間以上の待ち時間はハッキリ言って無駄な時間であったが、とても貴重な無駄な体験をした時間でもあった。「山陰」を含め私の乗車したこれらの夜行列車は現在運転されていない。そして「18」を使用しながら「大垣夜行」を利用しない唯一の長旅でもあった。

(尾鷲と同じくたった一度だけの訪問経験である新宮。現在は東海と西日本の境界駅として活躍するが、実際問題「電化」「非電化」の境界駅でもあり同じ紀勢本線でも新宮を境に全くカラーが異なる。)
湘南地区に住んでいると、ほとんどが「大垣夜行」を利用して西に向かう事になる。今回は珍しく北に向かう事になったが、実はこの時の計画段階では「東北」「北海道」等も視野に入れていた。しかし「北」に向かうにはどうしても「駅寝」を組み込まなければならない関係から外れた。いや「18」を使っての普通列車のみの旅ではやたらと歩留まりが悪い。特に北海道に関しては「18」のみだとかえって経済的にも不利になろう。
この旅の計画や実際の乗車記録を振り返ると絶対に「もったいない箇所」が無数にあった。今の私が当時の時刻表で計画を組んでみたらもっと違う計画が絶対にできたはずだ。いや、必ずできる!「魚沼線」や「蒲原鉄道」、弥彦線の東三条~越後長沢など、なぜもっと頭を使いこれらに乗ろうと努力しなかったのか・・・

(ウィキより画像を拝借した美濃赤坂。旅客駅としては地味な部類であるが、現在でも貨物列車が活躍する貴重な駅である。)
全く関係無い話であるが、2013年にプロレスラー・小橋建太が引退した。プロレスに興味ない方はわからないかも知れないが、私は勿論デビュー当時の若手時代より知っている。ちょうどバブル期くらいに台頭してきて1990年代後半にはトップレスラーの仲間入りを果たすが、怪我が多く晩年は試合数が激減していた。ただ、真っ直ぐなファイトスタイルは多くのファンを魅了してきたが、とうとう「引退」という言葉で自身の未来を報告する時間がやってきてしまった。
引退セレモニーの中で彼は「プロレスとはなんですか?」との問いに「青春でした」と答えた。「青春の握り拳」なる名フレーズもある小橋のこの言葉に私は若干ウルッと来てしまった。そしてその時フッと思った。私は何気に鉄道に「青春」を求めているのではないかと。特に私は小橋ファンというわけではないが(というより三沢光晴のファンであるが)、この引退セレモニーを観て小橋という人間が一段と好きになった。小橋は素晴らしいレスラーであった。

(まさか私のブログにレスラーが登場するとは思わなかったが・・・これがプロレスラー・小橋建太。もしかしたら我々は「18きっぷ」に、彼のような「青春」を求めているのかもしれない。画像はウィキペディアより。)
数多くの「トクトクきっぷ」が発売される中、この青春18きっぷは誕生してから今も人気が高い。そしてシーズンになると夜行普通列車が臨時ながら復活する。
普通列車限定のこのきっぷに私たちは一体何を求めているのであろうか。ハッキリ言って私は普通列車の座席より「グランクラス」の方が快適だと思う。できれば普通列車の移動は避けたい。こんな事を考えるようになったのは最近であるが、やはり年をとったのか・・・とは言え「18」を使って旅に出る事もやはり好きだ。何だか発言が矛盾しているが、やはりあの普通列車に揺られて景色を眺めるとかつての自分に巡り会えるような気がする。
多分私はこういった「青春」を求めて「18」を使い旅に出るのだと最近になって気づいた。「誰もが」とは言わないが、やはり皆「青春」を求めて旅に出るのであろう。だから今でも人気が高い「青春18」の存在があるのではと思わされる。勿論「リーズナブル」ということも否定できないが・・・
しかし、現在運転されてない夜行列車の数々も経験できた事は大きい。大きいが、完全に歩留まり悪い計画をしたこの旅に同行した同級生には大変に申し訳ない事をした感じだ。一言謝っておきたかったのだが・・・何も言えなくて・・・夏。

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1982年・何も言えなくて・・・夏⑤
2019-04-10

(確か浜松で撮影した117系。「新快速」では無く「快速」というのが憎い。当時は新鋭であり東海地区に出現したのが実に新鮮で斬新であった。)
東海道線で名古屋まで向かう私に東海道線の記憶がほとんどない。という事はしっかりと熟睡しているという事であるが、もちろん乗換時にはちゃんと目が覚めて乗り換えをしている。なんとも不思議な体質に変化してしまったが、同伴の友人をちゃんと起こして次の列車に乗り換える辺り「いい旅チャレンジ」が本能として私の身体に染み付いてしまったようだ。
そんな中、浜松からは新鋭の117系のに乗る。当時は東海地区初登場的なムードでなかなか乗っていて優越感があった。転換式クロスシートであったが、前年には関西地区で「新快速」として153系から置き換わった117系を散々乗ったので内容はわかっていた。だが、いざ東海地区で乗車するのは初々しい。関東では185系もデビューして間もない頃だったので、何となく鉄道風景に新時代が到来したイメージを少年ながらに感じていた。

(さて・・・亀山では「はやたま」に乗車するため約3時間の待ち時間を設定した。当時は座席確保に必要な時間との考えからであったが、夜行の上り列車では混雑度関係無し!であった。同じ上り列車では当時の「大垣夜行」と「山陰」以外は待ち時間無しでも座席を確保出来た。あくまで私の経験上からではあるが・・・)
そんな東海道をすり抜け、名古屋に着くと関西本線に乗り換える。亀山から「はやたま」に乗るためだが、前回の春休みに訪れた時の関西本線・名古屋~亀山は非電化であった。今回の訪問では電化されたばかり。そのため、同区間を走る夜行普通列車「はやたま」は天王寺~名古屋から天王寺~亀山に短縮されてしまった。そのため名古屋から亀山までは「電車」で移動しなければならない。
亀山に14時6分に着いたが、前回乗車した旧型客車ではなく「湘南電車」のため何となく味気無い。そしてここ亀山で17時21分発の「はやたま」を待つが、なんと3時間近くの待ち時間だ。もちろん事前に自身で計画した事であるが、やはり「大垣夜行」の「並ばないと席を確保できない」というイメージからこういう予定を組んでしまったのだ。
結論からいうと、先述通り「夜行列車の上りは空いている!」という方程式に見事にハマった訳で、3時間の待ち時間は全く必要なく、それこそ発車2分くらい前に乗車しても座席選び放題であった。

(既に夜の時間帯となっていた尾鷲。私が唯一紀勢本線を訪問したのが今紹介している旅であるが、あれからどのように変わったのか、近い将来訪問してみたい。)
さて、3時間もの待ち時間、いったい何をしていたのであろう・・・と思うほど列車はのんびりと紀勢本線を進行していく。列車番号こそ下りであるが、実質的に上り列車であろう。旧型客車のみの編成は、新宮から寝台車を連結して初めて「はやたま」となるが、新宮までは完全にローカル列車だ。しかも学生諸君は夏休みの為帰宅組の学生は僅少。とは言え亀山~一身田~津辺りは部活帰りの学生君がそれなりにいたが、当時私も学生でありある意味同業者であろう。
やがて日本一短い駅名の「津」に着くが、停車時間がわずかなため欲しかった入場券が買えず・・・たが、この辺りは近鉄王国。ザ・キングダム近鉄である。料金でもスピードでも勝負できない国鉄側に軍配が挙がる事はない事実を象徴する風景がホームを彩っていた。
尾鷲に着くころには完全に最終列車的風景となっていたが、やがて先述の通り新宮で寝台を連結した後「はやたま」として夜行列車に変身。そろそろ終焉を迎える10系寝台が余生を楽しんでいるかのように、いや、まだまだ現役たぞ!と我々に誇示するかのようにその存在感をアピールしていた。
やがて列車は夜行列車的風景を100%醸し出しながら未明の和歌山に到着する。普段なら、というか日中なら和歌山県を代表する駅として利用者がホームを連ねるであろうが、3時台の駅風景は全く人を寄せ付けない雰囲気であった。
そんな和歌山を去り「921列車」は天王寺に5時ちょうどに到着。1秒の狂いもない!しかしながら当時はそれほど感じなかったが、今考えたらあの天王寺のホームに旧型客車+10系寝台の夜行列車が停車するとは、何とも超アンマッチな風景・・・手動のドアが煌めく衝撃!まるで武藤敬司の「フラッシング・エルボー」のように一瞬ストロボがキラキラッと輝く風景であった。
天王寺で大阪環状線にのりかえ大阪まで出る。更に東海道線と山陽本線で岡山まで一気に辿り着いた。
岡山では伯備線に乗り換えるのだが、この伯備線もちょうど電化されたばかりであった。既に紹介した前回の「青春18」の旅では電化前の伯備線を備中神代~岡山まで乗車している。つまり非電化時代の伯備線であるが、その時は新見でキハ181の「やくも」を拝んだ。しかし今回の旅では電化後のため371系振子式の「やくも」のお披露目であった。前回訪問時の時とは明らかに風景が違う。普通列車でさえ「湘南電車」であった。新見の、そして備中高梁の風景が一躍都会的風景になる。東北・上越新幹線開業の時代には、全国各地の鉄道風景に革命が起きているようなイメージであった。

この旅では伯備線が電化直後であった。新見で収めた「やくも」は、同じ年の3月に訪問した時のキハ181からご覧の車両にグレードアップ。陰陽連絡の機能が一段と高まった。)
伯備線で北上し山陰方面に出るが、ちょうどこの時期は伯備線と併せて山陰本線の伯耆大山~知井宮(現・西出雲)までの電化が開業し、11月に開業予定である上越新幹線開業に合わせて弥彦線と越後線が電化されるなど「苦しい懐事情」の国鉄であった中、かなりの高速化が図られた。特に山陰本線の一部電化区間はそれなりの都市が連なるため乗客も少なくない。実際、2013年に再訪の際も米子~松江辺りは立席客が出るほどの盛況ぶり。しっかりと「鉄道」としての役割を果たしていた。やはり電化せねばならない事情であろう。
そんな電化区間を新鋭の115系で米子に到着した。境線を制覇してから再び米子に戻ってくる。するともう16時16分、つまり夕方になっている。上り列車の夜行は始発時間が早い。出雲市を19時23分に出発する。米子からもちろん乗車できるが、まだ時間に余裕があるため、というより確実に座りたいため出雲市に向かう事になっている。ただ、出雲市では約一時間しか待ち時間がないため少々不安であるが・・・
当時、山陰本線の普通列車の主役は「旧型客車」だ。DLに牽引されながら、途中で伯備線の115系と列車交換する。ちょうど新旧交代の時期でもあったが、今考えるとすごく不思議な光景だ。

(電化直後の出雲市駅。まだ地上時代で構内には側線も多くあった。実はこの駅では小さな思い出があり、旧型客車で出雲市駅に到着したのだが、いち早く「山陰」に乗車したいため列車が止まるのを待てずに若干止まる直前にホームに足を預けた。すると思ったよりもスピードがあり私はホームで「ひとり一本背負い」を敢行。2回転半くらいはしたか・・・相方に「なにやってんの?」と言われたのは述べるまでもないが、私にとってみれば衝撃でカメラも若干やられてしまい悲しい一撃であった。ちなみに私は小学校時代に柔道をやっていた関係から受身には自身があったが・・・皆様、列車を下車する際には列車が完全に停車してからにしましょう!)
出雲市から夜行普通列車「山陰」に乗り換えるが待ち時間が1時間。私の中ではこの「1時間」が足りないくらいに感じたが、今回の旅に使用している夜行列車は上越を除き全て「上り」である。普通夜行列車のイメージとして「大垣夜行」を最初に経験したせいか、2~3時間待たないと座れないというのがあった。しかしこの「山陰」もそうだが、上りに関してはそれほどまで神経質にならなくてもちゃんと座席を確保できる事を気付かされた。それは始発時間が早いため地元の方の「ローカル列車」の役割もある。そのため短距離客が多いため、必ずどこかの座席が空くというものだ。
先ほどまでいた米子を通り過ぎ、列車は京都目指して更にのんびりと加速していった。

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1982年・何も言えなくて・・・夏④
2019-04-05
18時30分に長野を出た「中央夜行」は、ほぼ「空気輸送90%」状態で新宿目指したが、松本でなんと1時間の小休止。松本に来る途中「姨捨」では「100万ドルの夜景」を拝められるはずであるがやや薄暗い。だが、スイッチバックは非常に興味あり、列車の進行方向がたびたび変わる風景はワクワクする。そして松本での1時間待ちは、普通なら駅そばや信州味噌でも堪能しようが、どうしても座席が気になり席を離れることが出来なかった。というか、普通夜行列車は終点駅の到着時間があまり早すぎてもその後の接続列車等の事も考えなければならないであろうから、ある程度途中駅で時間調整しなければならない。そのため、例えば松本などのように一時間待ちなんかザラではない。だからその気になれば駅そばなど余裕で食べられる。そう考えると旅のアクセントにもなろう。

(長野駅で列車を待っているとこんな列車がやってきた。当時、全線電化区間を走るDC急行で有名であった「赤倉」は急行列車としてはかなり風格があった。)
座席でひたすら待つ一時間のインターバル後、松本を出るとすぐに塩尻に到着。この時の塩尻はちょうど駅が移転した直後で真新しいホームが迎えてくれたが、たった5分くらいしか停車時間が無く、じっくりと観察できなかった。
というのも、以前の塩尻は名古屋方面からくる特急列車等(しなの、ちくま等)は松本方面に向かうのにここ塩尻でスイッチバックの形をとっていた。つまり中央線同士での直通はスイッチバックしなくて済んだのだが、いわゆる中央西線と篠ノ井線はお互いに乗り入れの際、塩尻で進行方向を変えなければならない。たが、現在の中央線の運転系統を見てわかるように、塩尻を境に東京方面からも名古屋方面からもほぼ全ての列車が松本方面に向かう。つまり駅の配線と実態が合ってなかったわけだ。これは歴史的背景によるものであるが、21世紀を目前とした時代にこの配線は時代遅れとなってしまった。
だが、この不便さを解消しようと国鉄は起き上がった。塩尻駅の配線のみを変えてスイッチバックを解消させるのは困難なので、駅自体を数百メートル移転、地図上で寝ていた「人」の文字を起こした「人」の文字の形になるよう「名」より「実」を取った形となった。

(2014年に訪問した姨捨。現在でもスイッチバックが残る貴重な駅となったが、私の訪問時にはなんと貨物列車までスイッチバックしていった。)
そして現在、JR中央線の境界駅となっている事もあるが、国鉄時代からも「東線」と「西線」の旅客直通列車はほぼ皆無に等しく、もしそのような運転がある場合4番線を介してスイッチバックをさせれば対応できる配線となり実に機能的な駅に変身した。塩尻を通過する列車は中央西線の旧線を利用した短絡線を使えばスイッチバックしなくて済むような、実に効率の良い配線となった。
松本方面への乗り場は基本1番線か5番線となり事前に確認が必要であるが、その他の各方面へは基本的な乗り場が決まっているので利用する側もわかりやすい、実に芸術的な配線となった。もちろん、当時の国鉄の財政を考えればかなりの勇気を必要としたであろう。だが30年以上経過した現在でもその姿はほぼ健在であり、当時の国鉄の英断に拍手を送りたい気持ちになる。


(「かけめぐる青春」でも紹介した2014年訪問時の塩尻。1982年8月のこの旅でも訪問しているが、そのときは現在の塩尻駅に切り替わった直後の訪問であった。その時から既に30年以上経過しているが、現在も当時とほぼ同じ形でしっかり機能しているのが素晴らしい。当時の国鉄の英断に拍手!)
さて、そんな生まれ変わって間もない塩尻をたった5分の停車時間で出た中央夜行の上り列車はようやく「夜行」の雰囲気になってきたのだが、我々がうとうとしかけた頃に事件が起こった。確か日野春辺りであったと思うが、駅ではない場所で列車がいきなり急停車したのだ。何が起こったのかわからなかったが、暫くして車掌が慌ただしく動き回る。5分、10分と時間が経ち、全く列車が動き出す気配が無かったが、車内放送などによる案内も無かった。それほど乗客が乗っていないという事もあろうが、何かしらお知らせみたいな物が欲しかったのは正直な所だ。暫くして列車の外で何やら警察とか保線みたいな人がやってきたりと大騒ぎになっていた。しかも私たちが座っている座席付近だ。いろいろ話を聞いてみるとどうやら人身事故があったらしい。詳しい状況は分からなかったが、車掌が行き来している中、他の乗客が車掌に問い合わせていたのだ。その話を私は後からその乗客にお伺い立てた。そして窓を開け外を再び確認。はっきり言って蚊が入ってくるが、それより作業をしているのがちょうど私たちが座っている付近の真下付近のため非常に変な気分であった。

(2009年訪問時の「ムーンライト信州」は白馬駅にて。かつての「アルプス」からの流れでの夜行列車であることは周知の通りであるが、1982年当時はこういう車両が快速夜行列車などに使用される事などは全く持って考えられなかった。「18」でも乗車できるとは、時代も変わったものだ。)
無事作業が終わったらしく、車掌のアナウンスが入り間もなく出発。定刻より40分~1時間位の遅れでようやく出発した。車内放送などで長時間停車していた理由の説明があるかと思ったが、結局何も音沙汰の無いまま列車は新宿に向けて走り出した。
そんな事件がありながら新宿には定刻の4時23分に到着。見慣れた景色だ。車内放送で昨夜の説明が無かったのは乗客が僅少だった事と、恐らく途中の甲府や他の主要駅などの停車時間を考えたら1時間くらいになるため新宿には定刻で到着できるであろうという予測が車掌や運転手達にはあったのであろう。
だがこの中央夜行、通称「山男列車」は下り列車はかなりの乗車率で、それこそ現在においての「ムーンライト」が座席指定してるのもうなずける。そして下りしか設定がないが、文字通り「山男」は帰りも夜行列車で朝帰りするとは考えにくい。そう考えてみるとなかなか特徴ある列車であると今になって感じる。ただ、個人的な意見として583系などの車両を充てていただくと非常に価値が出てくると思うのだが・・・
そんな夜行列車は何事もなかったかのように時は過ぎて行った。中央夜行ではあまり寝れなかったが、東京から東海道線で今度は名古屋を目指す列車では完全に「爆睡」であった。完全に体質が昼夜逆転してしまったようだ。

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(長野駅で列車を待っているとこんな列車がやってきた。当時、全線電化区間を走るDC急行で有名であった「赤倉」は急行列車としてはかなり風格があった。)
座席でひたすら待つ一時間のインターバル後、松本を出るとすぐに塩尻に到着。この時の塩尻はちょうど駅が移転した直後で真新しいホームが迎えてくれたが、たった5分くらいしか停車時間が無く、じっくりと観察できなかった。
というのも、以前の塩尻は名古屋方面からくる特急列車等(しなの、ちくま等)は松本方面に向かうのにここ塩尻でスイッチバックの形をとっていた。つまり中央線同士での直通はスイッチバックしなくて済んだのだが、いわゆる中央西線と篠ノ井線はお互いに乗り入れの際、塩尻で進行方向を変えなければならない。たが、現在の中央線の運転系統を見てわかるように、塩尻を境に東京方面からも名古屋方面からもほぼ全ての列車が松本方面に向かう。つまり駅の配線と実態が合ってなかったわけだ。これは歴史的背景によるものであるが、21世紀を目前とした時代にこの配線は時代遅れとなってしまった。
だが、この不便さを解消しようと国鉄は起き上がった。塩尻駅の配線のみを変えてスイッチバックを解消させるのは困難なので、駅自体を数百メートル移転、地図上で寝ていた「人」の文字を起こした「人」の文字の形になるよう「名」より「実」を取った形となった。

(2014年に訪問した姨捨。現在でもスイッチバックが残る貴重な駅となったが、私の訪問時にはなんと貨物列車までスイッチバックしていった。)
そして現在、JR中央線の境界駅となっている事もあるが、国鉄時代からも「東線」と「西線」の旅客直通列車はほぼ皆無に等しく、もしそのような運転がある場合4番線を介してスイッチバックをさせれば対応できる配線となり実に機能的な駅に変身した。塩尻を通過する列車は中央西線の旧線を利用した短絡線を使えばスイッチバックしなくて済むような、実に効率の良い配線となった。
松本方面への乗り場は基本1番線か5番線となり事前に確認が必要であるが、その他の各方面へは基本的な乗り場が決まっているので利用する側もわかりやすい、実に芸術的な配線となった。もちろん、当時の国鉄の財政を考えればかなりの勇気を必要としたであろう。だが30年以上経過した現在でもその姿はほぼ健在であり、当時の国鉄の英断に拍手を送りたい気持ちになる。


(「かけめぐる青春」でも紹介した2014年訪問時の塩尻。1982年8月のこの旅でも訪問しているが、そのときは現在の塩尻駅に切り替わった直後の訪問であった。その時から既に30年以上経過しているが、現在も当時とほぼ同じ形でしっかり機能しているのが素晴らしい。当時の国鉄の英断に拍手!)
さて、そんな生まれ変わって間もない塩尻をたった5分の停車時間で出た中央夜行の上り列車はようやく「夜行」の雰囲気になってきたのだが、我々がうとうとしかけた頃に事件が起こった。確か日野春辺りであったと思うが、駅ではない場所で列車がいきなり急停車したのだ。何が起こったのかわからなかったが、暫くして車掌が慌ただしく動き回る。5分、10分と時間が経ち、全く列車が動き出す気配が無かったが、車内放送などによる案内も無かった。それほど乗客が乗っていないという事もあろうが、何かしらお知らせみたいな物が欲しかったのは正直な所だ。暫くして列車の外で何やら警察とか保線みたいな人がやってきたりと大騒ぎになっていた。しかも私たちが座っている座席付近だ。いろいろ話を聞いてみるとどうやら人身事故があったらしい。詳しい状況は分からなかったが、車掌が行き来している中、他の乗客が車掌に問い合わせていたのだ。その話を私は後からその乗客にお伺い立てた。そして窓を開け外を再び確認。はっきり言って蚊が入ってくるが、それより作業をしているのがちょうど私たちが座っている付近の真下付近のため非常に変な気分であった。

(2009年訪問時の「ムーンライト信州」は白馬駅にて。かつての「アルプス」からの流れでの夜行列車であることは周知の通りであるが、1982年当時はこういう車両が快速夜行列車などに使用される事などは全く持って考えられなかった。「18」でも乗車できるとは、時代も変わったものだ。)
無事作業が終わったらしく、車掌のアナウンスが入り間もなく出発。定刻より40分~1時間位の遅れでようやく出発した。車内放送などで長時間停車していた理由の説明があるかと思ったが、結局何も音沙汰の無いまま列車は新宿に向けて走り出した。
そんな事件がありながら新宿には定刻の4時23分に到着。見慣れた景色だ。車内放送で昨夜の説明が無かったのは乗客が僅少だった事と、恐らく途中の甲府や他の主要駅などの停車時間を考えたら1時間くらいになるため新宿には定刻で到着できるであろうという予測が車掌や運転手達にはあったのであろう。
だがこの中央夜行、通称「山男列車」は下り列車はかなりの乗車率で、それこそ現在においての「ムーンライト」が座席指定してるのもうなずける。そして下りしか設定がないが、文字通り「山男」は帰りも夜行列車で朝帰りするとは考えにくい。そう考えてみるとなかなか特徴ある列車であると今になって感じる。ただ、個人的な意見として583系などの車両を充てていただくと非常に価値が出てくると思うのだが・・・
そんな夜行列車は何事もなかったかのように時は過ぎて行った。中央夜行ではあまり寝れなかったが、東京から東海道線で今度は名古屋を目指す列車では完全に「爆睡」であった。完全に体質が昼夜逆転してしまったようだ。

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