レールファン復活後、初の北海道遠征②
2019-06-30
函館に着いた私は「スーパー」の付かない北斗に乗り換え東室蘭を目指す。「白鳥」と「北斗」は乗り換えに便利なように島式ホームの両側にお互いに停車し、階段を使わなくても済むように優しい配慮をしているのは素晴らしい。これって非常に大事であると私は思う。というのも、かつて(というより現在もであるが)私は「18」を使い散々全国を廻っていた。その時にポイントとなるのが「東海道線」であった。特にJR東海の区間では豊橋、浜松、静岡などでは必ずと言っていいほど階段を使う乗り換えを要求してきた。同一ホームで乗り換える機会がある時は本当にラッキーであるとしか言い様がないくらい私は相性が悪かった。

(2009年訪問時の函館駅にて。今回紹介している旅は初夏であったが、写真の訪問時は3月であった。昔の面影を残しつつ、近年の輸送形態に使用しやすいように設備が若干変更されている。しかしながら昔の面影もしっかり残っているのは実に良い!)
全く私事であるが、かつて私は一度JR東海に、同一ホームの乗換に関した「ご意見」をした事がある。返ってきた答えは・・・要約すると「乗り換え時間を充分にとってあるのでご理解ください」的な内容であった。でも普通に考えて他社では普通に同一ホームでの乗り換えを日常的に配慮している。素人の考えであろうが、同一ホームの乗り換えを配慮するのはそう難しい事ではないであろう。例え同一ホームでない乗換をしなければならない場面があったとしても、少しの努力で解消できそうであるが・・・と、やたらと同一ホームでの乗り換えに拘ってみたが、皆様はどういうご意見であろうか。


(「北斗」の新旧比較。上はお馴染み1983年訪問時で下は今回の旅での一枚である。両方とも札幌での撮影であるが、1983年当時は札幌はまだ地上駅であった。時代も代わり、スピード、そして役割も変化してきたが「北斗」という名は未だに健在であるのは嬉しい。)
と、話は脱線してしまったが(という表現は「鉄道」を主題としているブログとしては相応しくないかもしれないが)、函館では、私が初めて北海道に上陸した1983年10月以来の訪問で懐かしい。特にあの弧を描くホームが実に印象的であるが、なんとなく貨物側線が減り島式ホームが2本増えたのが実に印象的であった。確か、かつては頭端式ホームではなかったはずであるが、駅舎も建て替えられすっかりリニューアルしているし、頭端式に生まれ変わったホームも実に新鮮である。ある意味、実質「階段を使わない」乗り換えも実現している。

(画像はウィキペディアより、東室蘭駅舎。随分と近代的になっている。そして構内は広く「わたれーる」なる長い跨線橋も出現し、複線同士の分岐はかなり複雑な配線であろう。)
さて、そんな函館を「北斗」で離れ、さっき通った五稜郭を過ぎると北海道特有の景色が出現する。特に大沼辺りの雄大さは圧巻、とは大袈裟かも知れないが、車窓から見える羊蹄山は世界遺産的な鉄道車窓であろう。とは私らしくない表現かも知れないが、北の大地は何もかもが素晴らしい。そんな大自然を列車に乗りながら楽しめるのが素晴らしいJR北海道は実に素敵な存在である。
秘境駅で有名な小幌など本当に瞬時に、しかも簡単に通り過ぎ東室蘭に着いた。これより先室蘭へ向かう。現在の感覚で見たら「支線」的であろうが、その昔は貨物積出常上位的数値であった。そう、現在の姿が想像できないくらいの清栄時代があったのだ。その面影を探るべく、ちょっと改札を出てみた。

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(2009年訪問時の函館駅にて。今回紹介している旅は初夏であったが、写真の訪問時は3月であった。昔の面影を残しつつ、近年の輸送形態に使用しやすいように設備が若干変更されている。しかしながら昔の面影もしっかり残っているのは実に良い!)
全く私事であるが、かつて私は一度JR東海に、同一ホームの乗換に関した「ご意見」をした事がある。返ってきた答えは・・・要約すると「乗り換え時間を充分にとってあるのでご理解ください」的な内容であった。でも普通に考えて他社では普通に同一ホームでの乗り換えを日常的に配慮している。素人の考えであろうが、同一ホームの乗り換えを配慮するのはそう難しい事ではないであろう。例え同一ホームでない乗換をしなければならない場面があったとしても、少しの努力で解消できそうであるが・・・と、やたらと同一ホームでの乗り換えに拘ってみたが、皆様はどういうご意見であろうか。


(「北斗」の新旧比較。上はお馴染み1983年訪問時で下は今回の旅での一枚である。両方とも札幌での撮影であるが、1983年当時は札幌はまだ地上駅であった。時代も代わり、スピード、そして役割も変化してきたが「北斗」という名は未だに健在であるのは嬉しい。)
と、話は脱線してしまったが(という表現は「鉄道」を主題としているブログとしては相応しくないかもしれないが)、函館では、私が初めて北海道に上陸した1983年10月以来の訪問で懐かしい。特にあの弧を描くホームが実に印象的であるが、なんとなく貨物側線が減り島式ホームが2本増えたのが実に印象的であった。確か、かつては頭端式ホームではなかったはずであるが、駅舎も建て替えられすっかりリニューアルしているし、頭端式に生まれ変わったホームも実に新鮮である。ある意味、実質「階段を使わない」乗り換えも実現している。

(画像はウィキペディアより、東室蘭駅舎。随分と近代的になっている。そして構内は広く「わたれーる」なる長い跨線橋も出現し、複線同士の分岐はかなり複雑な配線であろう。)
さて、そんな函館を「北斗」で離れ、さっき通った五稜郭を過ぎると北海道特有の景色が出現する。特に大沼辺りの雄大さは圧巻、とは大袈裟かも知れないが、車窓から見える羊蹄山は世界遺産的な鉄道車窓であろう。とは私らしくない表現かも知れないが、北の大地は何もかもが素晴らしい。そんな大自然を列車に乗りながら楽しめるのが素晴らしいJR北海道は実に素敵な存在である。
秘境駅で有名な小幌など本当に瞬時に、しかも簡単に通り過ぎ東室蘭に着いた。これより先室蘭へ向かう。現在の感覚で見たら「支線」的であろうが、その昔は貨物積出常上位的数値であった。そう、現在の姿が想像できないくらいの清栄時代があったのだ。その面影を探るべく、ちょっと改札を出てみた。

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レールファン復活後、初の北海道遠征①
2019-06-25
2007年、約23年振りにレールファン復活宣言をした私は久々の北海道制覇を企てた。それは2008年6月の事。今回の旅はなんといっても「北斗星」の乗車を初体験する事だ。しかもロイヤル!その模様は以前にも紹介しているが、我が人生においても大変貴重な体験となった。

(レールファン復活後初の東北新幹線!1988年に運転免許取得のため福島へ向かった時以来であった。当然当時は200系であったが、時代も変わり八戸まで延伸された新幹線は実に新鮮であった。)
そんなわけで、北海道へのアプローチはもちろん「レール」だ。東北新幹線に乗るのも久々。1988年の合宿免許取得に福島は飯坂温泉へと旅立っていった時以来である。今回の旅では既に八戸まで延伸された状態での東北新幹線であったので、八戸で乗り換えが発生するのも実に新鮮であった。八戸と言えば・・・ちょっと個人的には蒼い思い出があるのであるが・・・一応「燃えるような大恋愛」とでも言おうか、そのお相手の実家のある場所でもある。まぁ、私が10代の頃であるが、なんて事を記すとブログのテーマからかなりかけ離れてしまうため割愛するが・・・八戸駅は八戸の市街地からはかなり離れており、周知の通り本八戸が市街地の中心部にある。八戸駅は、今回の旅では下車しなかったが、後年に宿泊した事がある。もちろん「蒼い思い出」時代にも宿泊してはいるが、その時は本八戸であった。八戸の駅前はかなりひっそりとしていて静かな時間が過ぎていったが、それでも新幹線の駅ができて若干ながら賑やかさが増したのであろう。

(八戸駅で「白鳥」に乗り換える。私の感覚だと「白鳥」は大阪~青森の特急的なイメージであるが・・・時代も変わったものだ。更に現在は八戸駅に「白鳥」はやって来なくなってしまった。)
そんな思い出の八戸も、今回は乗り換えに過ぎない。「随分と変わったなぁ~」と八戸駅の印象であった新幹線ホームを在来線ホームから見ると真新しい。1983年以来の訪問であったが、貨物側線が新幹線ホームに変わったのを横目に「スーパー白鳥」が私たちを待っている姿も実に印象的であった。そして「スーパー白鳥」で青函トンネルを越える・・・皆様には大げさに聞こえるかも知れないが、この旅での出来事は全て新しさ尽くめで実に新鮮であった。かつては「上野発の夜行列車」などで青森から「連絡船」に乗って北海道を目指したものであるが、2016年頃には新幹線で北海道に上陸出来るようになるとは・・・

(1983年に北海道初上陸してから25年の歳月を経て再び上陸。とはいえ、その間に3回ほど北海道へは訪問しているが、それは全て「鉄道以外」の旅であった。「鉄道専科」では実に久々である。写真は1983年訪問時の函館である。弧を描くホームが実に印象的で素晴らしい。)
そんな青森駅も、下車はしなかったが実に久々であった。だが・・・何か様子がおかしい。そう、かつての印象から比べかなりスリムになっていたのだ。青函連絡船がまだ健在の頃はもの凄い広大なヤードの中に旅客ホームがポツリとある印象で、四六時中休むまもなく列車が行き来していた。ところが今回の旅では車掌の合図により座席の向きを変える、そんな中間地点に過ぎない印象であった。貨物側線などが大幅に撤去され、日本海と太平洋を貫く「本線」を一気に束ねるあの「大・青森駅」の影はかなり薄い。
今回の旅の行き先は「北海道」である。だが、やはり「汽車旅」とは目的地まで行く道中も「旅」となる。これは以前にもこのブログで述べているが、、やはりそういう事を感じる事ができるのも鉄道ならではだ。だが・・・鉄道の旅とは「哀愁」を感じる場面が多い。やはり鉄道は「昔」であるのか。だが、私はそんな鉄道を放ってはおけない。というより好きでたまらない。そんな思いを胸に抱き、いざ北海道へ「再上陸」した。

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(レールファン復活後初の東北新幹線!1988年に運転免許取得のため福島へ向かった時以来であった。当然当時は200系であったが、時代も変わり八戸まで延伸された新幹線は実に新鮮であった。)
そんなわけで、北海道へのアプローチはもちろん「レール」だ。東北新幹線に乗るのも久々。1988年の合宿免許取得に福島は飯坂温泉へと旅立っていった時以来である。今回の旅では既に八戸まで延伸された状態での東北新幹線であったので、八戸で乗り換えが発生するのも実に新鮮であった。八戸と言えば・・・ちょっと個人的には蒼い思い出があるのであるが・・・一応「燃えるような大恋愛」とでも言おうか、そのお相手の実家のある場所でもある。まぁ、私が10代の頃であるが、なんて事を記すとブログのテーマからかなりかけ離れてしまうため割愛するが・・・八戸駅は八戸の市街地からはかなり離れており、周知の通り本八戸が市街地の中心部にある。八戸駅は、今回の旅では下車しなかったが、後年に宿泊した事がある。もちろん「蒼い思い出」時代にも宿泊してはいるが、その時は本八戸であった。八戸の駅前はかなりひっそりとしていて静かな時間が過ぎていったが、それでも新幹線の駅ができて若干ながら賑やかさが増したのであろう。

(八戸駅で「白鳥」に乗り換える。私の感覚だと「白鳥」は大阪~青森の特急的なイメージであるが・・・時代も変わったものだ。更に現在は八戸駅に「白鳥」はやって来なくなってしまった。)
そんな思い出の八戸も、今回は乗り換えに過ぎない。「随分と変わったなぁ~」と八戸駅の印象であった新幹線ホームを在来線ホームから見ると真新しい。1983年以来の訪問であったが、貨物側線が新幹線ホームに変わったのを横目に「スーパー白鳥」が私たちを待っている姿も実に印象的であった。そして「スーパー白鳥」で青函トンネルを越える・・・皆様には大げさに聞こえるかも知れないが、この旅での出来事は全て新しさ尽くめで実に新鮮であった。かつては「上野発の夜行列車」などで青森から「連絡船」に乗って北海道を目指したものであるが、2016年頃には新幹線で北海道に上陸出来るようになるとは・・・

(1983年に北海道初上陸してから25年の歳月を経て再び上陸。とはいえ、その間に3回ほど北海道へは訪問しているが、それは全て「鉄道以外」の旅であった。「鉄道専科」では実に久々である。写真は1983年訪問時の函館である。弧を描くホームが実に印象的で素晴らしい。)
そんな青森駅も、下車はしなかったが実に久々であった。だが・・・何か様子がおかしい。そう、かつての印象から比べかなりスリムになっていたのだ。青函連絡船がまだ健在の頃はもの凄い広大なヤードの中に旅客ホームがポツリとある印象で、四六時中休むまもなく列車が行き来していた。ところが今回の旅では車掌の合図により座席の向きを変える、そんな中間地点に過ぎない印象であった。貨物側線などが大幅に撤去され、日本海と太平洋を貫く「本線」を一気に束ねるあの「大・青森駅」の影はかなり薄い。
今回の旅の行き先は「北海道」である。だが、やはり「汽車旅」とは目的地まで行く道中も「旅」となる。これは以前にもこのブログで述べているが、、やはりそういう事を感じる事ができるのも鉄道ならではだ。だが・・・鉄道の旅とは「哀愁」を感じる場面が多い。やはり鉄道は「昔」であるのか。だが、私はそんな鉄道を放ってはおけない。というより好きでたまらない。そんな思いを胸に抱き、いざ北海道へ「再上陸」した。

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1984年8月・「青春18」、88ヶ所は無理だったけど四国国鉄線全線制覇の旅⑥
2019-06-20
海部を後にした私は、小松島線に乗り換えるために「南小松島」で下車した。なぜ南小松島なのかは、以前に紹介した「廃止路線を訪ねて⑧ 小松島線」でも触れている。確か事前に南小松島で下車する計画をしていたかのような表現をしていたが、実際はちょっと違う。
数々の旅で身に付いた知恵として、街で銭湯を探す際に「煙突」を目印にしていた。つまり車窓から煙突を見つけると、そこには銭湯がある確率が高い。車窓を眺めていると何やら銭湯と思われる煙突が見え隠れした。わずかな隙間から煙突に「♨」を確認!そこは「南小松島」であった。もう湯船に身を沈めなくなって3日が過ぎており、そろそろ「潮時」と感じていた矢先の出来事だ。

(こちらは小松島駅。小松島線は各方面から列車が乗り入れていたが、急行「よしの川」は小松島線内は普通列車になる。画像はウィキペディアより。)
当初の計画では中田で17時44分着、17時57分の小松島線に乗り換え折り返し、徳島に18時41分に到着する予定であった。しかし徳島から高徳本線の高松行は20時26分までない。小松島を次の列車に乗っても結局この列車に乗ることになる。そこまで確認すると、もういけません。南小松島から小松島までの距離を車掌に確認すると「確信」に変わる。急きょ予定を変更して「♨」にお世話になる事にした。南小松島17時41分着。小松島線の小松島港は19時47分発。充分とは言えないが時間がある。私は大きな賭けに出た。

(廃止された小松島港駅。小松島駅構内にありフェリーとの乗換の便宜が図られた。画像はウィキペディアより。)
結局銭湯作戦も大成功に終わりサッバリとした身なりで小松島港駅に向かう。小松島港駅は小松島駅構内にあり、フェリーとの乗り換えの為便宜上に作られた駅だ。公の記録では「臨時駅」としてあたかも別の駅として扱われていたが、小松島駅からも余裕で見えるため完全に同じ駅として考えても良いであろう。だが、小松島駅は小松島港へ行く列車専用のホームを持ち、小松島駅止まりの列車は行き止まり式の「本来の」ホームに発着する。なんだか複雑な構造であるが、現存していたらさぞかし人気者であったろう。
そんな小松島線を難なく制覇すると、高徳本線で高松まで行けば四国内の「国鉄全線制覇」となる。高松に着いたのは22時35分であった。
さて、これまで紹介してきたなかで何かお気付きであろうか?そう、この旅の行程は夜行列車を「宿」とする関係上、必ず高松に戻ってくる仕組みとなっていたのだ。もちろん、夜行列車の「上り」を使う手もあったが、やはり高松から乗車すると安心感があった。そんなわけでわざわざ高松に戻ってきたわけである。しかし、またあの「猥褻おじさん」がいないかと若干不安であったが、ここで予定を変更するわけにはいかない。私は勇んで高松のホームで待つ事にした。

(鳴門線が分岐する池谷駅。鳴門線と高徳線でホームがYの字に分かれている非常に特殊な配線である。画像はウィキペディアより。)
四国の国鉄全線制覇はしたが、これから帰路に着くためまたまた731D中村夜行にお世話になる。とりあえず例の「おじさん」には遭遇しなかったので一安心。この旅で3回目の乗車であるが、最後の731Dは琴平までの乗車となる。ここで上りの中村夜行764Dに乗り換えて高松に向かう。琴平に1時53分着で2時20分発。終点高松では3時36分着で連絡船は3時52分発。宇野に4時52分に着き、宇野線が5時2分の発車だ。こんな乗り換えを深夜から未明にかけてやらせるなんて、国鉄はいったい何を考えているのか!しかし、クレームつけながらもそれを利用している私も私だが・・・このあと私は岡山から津山線に乗り津山に向かった。

(高架前の高知駅改札。もうこの光景は見られない。2007年訪問。)
とりあえずこの後の模様は機会があったら紹介してみたいが、基本的に「青春18」で四国を制するには「731D」の存在が無ければ2日間での制覇は難しかったであろう。また、私は先ほど「津山に向かった」と記したが、四国内にとどまり「新改」や「坪尻」を訪問する手もあったかなと、今になって当時の時刻表を見ながら考えてしまった。しかし、当時は「いい旅チャレンジ20000km」の制覇路線を稼ぐため「ひとつでも多く」の感覚から、計画を「詰め込む」のが美学となっていた。そしてこの旅を最後に、しばらく鉄道から遠ざかる事となる・・・

(画像はウィキペディアより、再び登場させていただいた1982年当時の高松駅。手前のうどん店が若干ホームに向かって斜め気味になっているが、これは連絡船への通路が手前にあるためである。このうどん店、現在はホームと直角になたったが健在!)
1984年と言えば、某ハードロックミュージシャンが「1984」というアルバムを発表。その中に「ジャンプ」「ホット・フォー・ティーチャー」等が収録されている。いわゆる、こういう「洋楽」がブームとなり私も音楽活動を始める切っ掛けとなるが、基本「BOSS」の影響が大きい。そんな中学生から高校生にステップアップした私は鉄道以外の「夢中になれるもの」を探し求めた。そう、新しい「何かを」をも求め更に進化する「ジャンプ」を始めたのだ。その時から23年後、私は再び乗り潰しを「チャレンジ」する決意をする。そして現在はその成果が実り、沖縄の「ゆいレール」を除く鉄道路線全線制覇を果たした。
この1984年の四国の旅は、私の中では記憶が薄い部類に入るが、決して無駄な旅ではなかった。一番印象に残っているのは、小松島で見つけた「銭湯」だ。今でもハッキリと小松島の街並みを思い出すことができる。小松島線の印象は薄いが小松島の街並みは記憶が鮮明という、鉄道を乗りつぶしてる人物が発する言葉としてはいささか疑問が残りそうな発言ではあるが、逆に「鉄道以外」での新たな「発見」をすることができるようになり、子供から大人への「ジャンプ」の過程だった気もする。
昔と同じ事を今もやっているという、何とも「因果」なものであると、自分自身思う。大人になり「ものの見方」が変わったが、鉄道を「見る目」は今も昔も変わらない気がする。いや、変わったかも知れないが、やはりあの「輝かしい」中学生時代の「鉄道ファン全盛期」の時の「見る目」を忘れないでいたい。そう、それでいい。いつまでも鉄道と無邪気に戯れていても、決して悪くはないであろう。あくまで「道楽」である事も変わりは無いのだから・・・

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数々の旅で身に付いた知恵として、街で銭湯を探す際に「煙突」を目印にしていた。つまり車窓から煙突を見つけると、そこには銭湯がある確率が高い。車窓を眺めていると何やら銭湯と思われる煙突が見え隠れした。わずかな隙間から煙突に「♨」を確認!そこは「南小松島」であった。もう湯船に身を沈めなくなって3日が過ぎており、そろそろ「潮時」と感じていた矢先の出来事だ。

(こちらは小松島駅。小松島線は各方面から列車が乗り入れていたが、急行「よしの川」は小松島線内は普通列車になる。画像はウィキペディアより。)
当初の計画では中田で17時44分着、17時57分の小松島線に乗り換え折り返し、徳島に18時41分に到着する予定であった。しかし徳島から高徳本線の高松行は20時26分までない。小松島を次の列車に乗っても結局この列車に乗ることになる。そこまで確認すると、もういけません。南小松島から小松島までの距離を車掌に確認すると「確信」に変わる。急きょ予定を変更して「♨」にお世話になる事にした。南小松島17時41分着。小松島線の小松島港は19時47分発。充分とは言えないが時間がある。私は大きな賭けに出た。

(廃止された小松島港駅。小松島駅構内にありフェリーとの乗換の便宜が図られた。画像はウィキペディアより。)
結局銭湯作戦も大成功に終わりサッバリとした身なりで小松島港駅に向かう。小松島港駅は小松島駅構内にあり、フェリーとの乗り換えの為便宜上に作られた駅だ。公の記録では「臨時駅」としてあたかも別の駅として扱われていたが、小松島駅からも余裕で見えるため完全に同じ駅として考えても良いであろう。だが、小松島駅は小松島港へ行く列車専用のホームを持ち、小松島駅止まりの列車は行き止まり式の「本来の」ホームに発着する。なんだか複雑な構造であるが、現存していたらさぞかし人気者であったろう。
そんな小松島線を難なく制覇すると、高徳本線で高松まで行けば四国内の「国鉄全線制覇」となる。高松に着いたのは22時35分であった。
さて、これまで紹介してきたなかで何かお気付きであろうか?そう、この旅の行程は夜行列車を「宿」とする関係上、必ず高松に戻ってくる仕組みとなっていたのだ。もちろん、夜行列車の「上り」を使う手もあったが、やはり高松から乗車すると安心感があった。そんなわけでわざわざ高松に戻ってきたわけである。しかし、またあの「猥褻おじさん」がいないかと若干不安であったが、ここで予定を変更するわけにはいかない。私は勇んで高松のホームで待つ事にした。

(鳴門線が分岐する池谷駅。鳴門線と高徳線でホームがYの字に分かれている非常に特殊な配線である。画像はウィキペディアより。)
四国の国鉄全線制覇はしたが、これから帰路に着くためまたまた731D中村夜行にお世話になる。とりあえず例の「おじさん」には遭遇しなかったので一安心。この旅で3回目の乗車であるが、最後の731Dは琴平までの乗車となる。ここで上りの中村夜行764Dに乗り換えて高松に向かう。琴平に1時53分着で2時20分発。終点高松では3時36分着で連絡船は3時52分発。宇野に4時52分に着き、宇野線が5時2分の発車だ。こんな乗り換えを深夜から未明にかけてやらせるなんて、国鉄はいったい何を考えているのか!しかし、クレームつけながらもそれを利用している私も私だが・・・このあと私は岡山から津山線に乗り津山に向かった。

(高架前の高知駅改札。もうこの光景は見られない。2007年訪問。)
とりあえずこの後の模様は機会があったら紹介してみたいが、基本的に「青春18」で四国を制するには「731D」の存在が無ければ2日間での制覇は難しかったであろう。また、私は先ほど「津山に向かった」と記したが、四国内にとどまり「新改」や「坪尻」を訪問する手もあったかなと、今になって当時の時刻表を見ながら考えてしまった。しかし、当時は「いい旅チャレンジ20000km」の制覇路線を稼ぐため「ひとつでも多く」の感覚から、計画を「詰め込む」のが美学となっていた。そしてこの旅を最後に、しばらく鉄道から遠ざかる事となる・・・

(画像はウィキペディアより、再び登場させていただいた1982年当時の高松駅。手前のうどん店が若干ホームに向かって斜め気味になっているが、これは連絡船への通路が手前にあるためである。このうどん店、現在はホームと直角になたったが健在!)
1984年と言えば、某ハードロックミュージシャンが「1984」というアルバムを発表。その中に「ジャンプ」「ホット・フォー・ティーチャー」等が収録されている。いわゆる、こういう「洋楽」がブームとなり私も音楽活動を始める切っ掛けとなるが、基本「BOSS」の影響が大きい。そんな中学生から高校生にステップアップした私は鉄道以外の「夢中になれるもの」を探し求めた。そう、新しい「何かを」をも求め更に進化する「ジャンプ」を始めたのだ。その時から23年後、私は再び乗り潰しを「チャレンジ」する決意をする。そして現在はその成果が実り、沖縄の「ゆいレール」を除く鉄道路線全線制覇を果たした。
この1984年の四国の旅は、私の中では記憶が薄い部類に入るが、決して無駄な旅ではなかった。一番印象に残っているのは、小松島で見つけた「銭湯」だ。今でもハッキリと小松島の街並みを思い出すことができる。小松島線の印象は薄いが小松島の街並みは記憶が鮮明という、鉄道を乗りつぶしてる人物が発する言葉としてはいささか疑問が残りそうな発言ではあるが、逆に「鉄道以外」での新たな「発見」をすることができるようになり、子供から大人への「ジャンプ」の過程だった気もする。
昔と同じ事を今もやっているという、何とも「因果」なものであると、自分自身思う。大人になり「ものの見方」が変わったが、鉄道を「見る目」は今も昔も変わらない気がする。いや、変わったかも知れないが、やはりあの「輝かしい」中学生時代の「鉄道ファン全盛期」の時の「見る目」を忘れないでいたい。そう、それでいい。いつまでも鉄道と無邪気に戯れていても、決して悪くはないであろう。あくまで「道楽」である事も変わりは無いのだから・・・

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1984年8月・「青春18」、88ヶ所は無理だったけど四国国鉄線全線制覇の旅⑤
2019-06-15

(1982年に訪問時の阿波池田。1984年の旅では、ここから徳島本線に乗り換えた。)
徳島本線は吉野川に沿って阿波池田から徳島までを走る。途中「学駅」は、かつての入場券ブームのさ中、縁起担ぎか「入学」の意味で話題になった。急行は停車しなかったが駅員は配置されておりちゃんと入場券もあったため全国各地から郵送依頼が殺到したと聞く。だが驚いた事に、現在も硬券の入場券を販売していいるのだ!2010年に無人駅になってしまったが、「入学」シーズンになると駅員が配置され駅でも購入できるらしい。また、JR四国の主要駅であれば学駅の入場券があるというのだ!これは実に素晴らしい。現在も硬券で「入学」できるとは、実にドラマチック・・・

(入場券ブームで一役買った「学」。縁起担ぎで現在も入場券が売れてると聞く。画像はウィキペディアより。)
さて、徳島本線を制覇すると佐古で乗換え鳴門へ向かう。佐古と言えば1993年に高架化され島式ホーム一本になり、実にスリムに変身した。徳島~佐古間はかつて徳島本線と高徳本線の「二重戸籍区間」として有名であった。この区間は現在も複線区間であるが、かつての名残か「単線並列」として扱われる。だが、徳島本線の戸籍は徳島から佐古に変更された。なんだか複雑な変遷であるが、せっかく高架化したのだから「複線区間」として機能させればもっと違ったダイヤの組み方があったかも知れないであろうが・・・

(高架化された佐古。徳島との間は単線並列扱いであるが、現在は徳島線の起点は佐古に変更されている。画像はウィキぺディアより。)
そんな佐古駅から鳴門までの直通列車で鳴門線をやっつけて折り返し徳島に到着。小一時間のインターバルを利用し昼食を平らげた後、今度は牟岐線を制覇しに一気に海部まで直通列車で向かう。
途中、中田からはかつて小松島線が分岐していた。私の訪問時ももちろん健在であったため制覇しなければならない。小松島線の制覇の時間は、牟岐線を海部から折り返して来た時にちゃんと用意してある。

(この旅の数少ない写真の中、この海部は写真が現存した!1984年8月の、まさにこの旅の訪問時の貴重な一枚。)
海部と言えば、現在は「阿佐海岸鉄道」が接続しているが、私の訪問時には海部から先は無く工事中であった。とはいっても、当時の国鉄の「事情」の関係から名ばかりの工事中で海部から先へ続く線路の無いスペースが非常に寂しく目に飛び込んでくる。しかしそのスペースも、現在はしっかりとレールが敷かれ列車が通るが・・・やはり奈半利と接続されて「阿佐線」として機能してこそ、との思いもあるが、現実問題は厳しいであろう。だが、このブログで「仮想・阿佐線の旅」としても紹介したが、やはり「徳島⇔高知(室戸経由)」みたいな特急のサボが見られると実に興奮冷めやらぬであろう。

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1984年8月・「青春18」、88ヶ所は無理だったけど四国国鉄線全線制覇の旅④
2019-06-10
宇和島で約2時間のインターバルの後、当然ながら予讃本線は普通列車で伊予大洲を目指した。伊予大洲といえば、あの名作映画「男はつらいよ」で「寅次郎と殿様」のロケ地として登場。真野響子がマドンナ役で、寺尾聰が「警察官」として自転車で登場するという、なんともコミカルな作品だ。城下町の街並みが美しく、昭和の風景がある意味新鮮であり見応えがある。そんな伊予大洲から五郎にて内子線に乗り換える。そう、私の訪問当時は当時のまさか本当に現在の姿になるとは全く思わなかった。だが、内子線の五郎~新谷間を廃止し伊予大洲~新谷間と内子~向井原間を新設させ新設区間を予讃線とし、残った内子線をそのまま内子線として残したのは、当時の国鉄財政事情をそのまま反映させたイメージである。特に内子駅などは完全に内子線時代とは違う場所に移設されたし、新谷などの駅も内子線時代とは全く違う姿に変身している。当時の内子線は「83線区」による廃止候補的なイメージであったが、私個人の考えとしては予讃線に編入しても良かったんじゃない?的イメージである。ただ、現在も時刻表の地図では内子線の新谷~内子間のみ妙なブルー区間が出来上がってしまっている。ただでさえJRの複雑な運賃計算であるが、更に輪をかけて複雑になっている姿が何となく複雑な思いである。

(2012年訪問時の下灘駅。内子線と内山線(当時)がドッキングして予讃線の短絡線が開通すると、支線に転落し交換設備も外された。かつてここにキハ180的な特急列車が通っていたとは信じられないであろう。)
そんな内子線も難なく制覇すると、五郎で予讃本線に乗換え高松目指す。現在は「旧線」となる伊予長浜経由で松山で乗換え、伊予西条着が21時58分だ。もうこんな時間になると景色も見えず、只管「仮眠」をとる事になる。伊予西条から先は既に高松行きの普通列車は無く、接続列車は急行「うわじま12号」しかない。これもとりあえず予定通りであるが、急行列車は快適で速い!何せずっと普通列車であるのだから。
そんな急行「うわじま」で高松に着いたのは0時19分だ。「青春18」を保持しながら急行を途中で利用、別途2500円くらいだと思ったが、更に高松からは例の731D中村夜行を利用するので「宿代」と思えば大変リーズナブルであろう。


(地上時代の高知駅。写真は2007年訪問時で高架化直前であったが、1984年訪問時と全く変わっていなかった。)
731Dは高松発0時46分だ。待ち時間なんと27分。それなのになんとあの「リクライニングシート」に余裕で座れたのだ!これは奇跡に近い。だが、この「宿」、今回は高知までの乗車である。残念ながら中村までの乗客ではない。しかしながらもう既に1982年に経験済みの為勝手がわかる。ということは実にやりやすい。高知で折り返して阿波池田から徳島本線の処理に向かうという訳だ。
高知には4時18分着と少々早いが、土讃本線を代表する駅、以前と違い何かしらあるだろうと思っていたが・・・やはり2年前と同じく、店という店は全てシャッターが降りている。何もない。折り返す列車は5時10分発の224列車、確かDF50が牽引する、通称「レッド・トレイン」である。

(レッド・トレインのイメージ。写真は1983年盛岡駅にて。四国にもこんな車両がDF50に牽引されて運転されていた。ちなみにホームのプレハブ小屋みたいな建物の前にあるバッグは私所有のものである。)
土讃本線と言えば「新改」「坪尻」は大変有名どころであるが、私は完全に夢の中・・・全く記憶に無い。だが乗り換える阿波池田付近ではしっかりと目が覚めるから不思議だ。高知から乗った列車は人影疎らであった車内も、阿波池田に着くころには「部活諸君」をはじめとする「通学連中」や「通勤客」で埋め尽くされていたが、私と同じく阿波池田で殆どが下車。乗客が入れ替わる瞬間であった。
そしていよいよ「吉野川」に沿って徳島目指す。もちろん「普通列車」での参戦だ。

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(2012年訪問時の下灘駅。内子線と内山線(当時)がドッキングして予讃線の短絡線が開通すると、支線に転落し交換設備も外された。かつてここにキハ180的な特急列車が通っていたとは信じられないであろう。)
そんな内子線も難なく制覇すると、五郎で予讃本線に乗換え高松目指す。現在は「旧線」となる伊予長浜経由で松山で乗換え、伊予西条着が21時58分だ。もうこんな時間になると景色も見えず、只管「仮眠」をとる事になる。伊予西条から先は既に高松行きの普通列車は無く、接続列車は急行「うわじま12号」しかない。これもとりあえず予定通りであるが、急行列車は快適で速い!何せずっと普通列車であるのだから。
そんな急行「うわじま」で高松に着いたのは0時19分だ。「青春18」を保持しながら急行を途中で利用、別途2500円くらいだと思ったが、更に高松からは例の731D中村夜行を利用するので「宿代」と思えば大変リーズナブルであろう。


(地上時代の高知駅。写真は2007年訪問時で高架化直前であったが、1984年訪問時と全く変わっていなかった。)
731Dは高松発0時46分だ。待ち時間なんと27分。それなのになんとあの「リクライニングシート」に余裕で座れたのだ!これは奇跡に近い。だが、この「宿」、今回は高知までの乗車である。残念ながら中村までの乗客ではない。しかしながらもう既に1982年に経験済みの為勝手がわかる。ということは実にやりやすい。高知で折り返して阿波池田から徳島本線の処理に向かうという訳だ。
高知には4時18分着と少々早いが、土讃本線を代表する駅、以前と違い何かしらあるだろうと思っていたが・・・やはり2年前と同じく、店という店は全てシャッターが降りている。何もない。折り返す列車は5時10分発の224列車、確かDF50が牽引する、通称「レッド・トレイン」である。

(レッド・トレインのイメージ。写真は1983年盛岡駅にて。四国にもこんな車両がDF50に牽引されて運転されていた。ちなみにホームのプレハブ小屋みたいな建物の前にあるバッグは私所有のものである。)
土讃本線と言えば「新改」「坪尻」は大変有名どころであるが、私は完全に夢の中・・・全く記憶に無い。だが乗り換える阿波池田付近ではしっかりと目が覚めるから不思議だ。高知から乗った列車は人影疎らであった車内も、阿波池田に着くころには「部活諸君」をはじめとする「通学連中」や「通勤客」で埋め尽くされていたが、私と同じく阿波池田で殆どが下車。乗客が入れ替わる瞬間であった。
そしていよいよ「吉野川」に沿って徳島目指す。もちろん「普通列車」での参戦だ。

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1984年8月・「青春18」、88ヶ所は無理だったけど四国国鉄線全線制覇の旅③
2019-06-05
妙な出来事があった中、ようやく解放されたわが身であるが、とりあえずホームで731Dの列を作る。もちろん列の先頭は私だ。そんな私はただ単に「リクライニングシート」で快適に旅をしたいだけなのだが、グリーン料金無しでグリーン車に乗れるのがいい。
以前にも紹介したが、私の乗る731D、通称「中村夜行」は中村に着くと、折り返し急行「あしずり」に変身するが、幸か不幸か折り返す窪川までは普通列車だ。もちろん「18」の私にとっては非常に好都合である。窪川からの急行「あしずり」は一部指定席の表示があるが、その指定席の車両は「グリーン車」の車両を使用する。もちろんグリーン料金は取らず指定席料金で乗車できるが、こと「731D(上り764D)」はこの「グリーン車」も通常料金で「解放」なのだから破格の対応であろう。もちろんそれを利用しないわけがない。知っている「勝ち組」はその車両に列を作り、バッチリリクライニングスタイルで中村を目指すわけだ。

(731Dのイメージ。編成の中の1両に「グリーン車」が連結されていた。別料金なしで解放の為、その座席を確保するのに皆命を懸ける。写真はウィキペディアより、高松駅にて。)
さて、今夜の「宿」は中村向けて出発したが、もちろん「坪尻」「新改」等には停車しない。そして高知以西は当時初めての乗車、というより終点まで行くのだから寝過ごすという事が無いので気が楽だ。しかも今乗っている列車が中村で折り返し、更に窪川まで行くのだから、かえって都合がいい。私は無邪気な気持ちでリクライニングに身を預けた。
高知で目が覚めたが「降りなくていい!」の気持ちから再び仮眠。このころには列車で寝るのも慣れたものだ。しっかりと睡眠できる。だが、ひとり旅である。貴重品の管理はしっかりとして、いざというときには目が覚めるように努めた。と言っても目が覚めるかどうかは別問題だが・・・
窪川辺りでは朝日がとても新鮮で、景色もいい。リクライニングシートをフルに活用してまた寝る。
やがて中村に着くと荷物はそのままに「制覇の証」を撮影。だがやや体が重い。リラックスし過ぎて逆に疲れが取れ過ぎたのか、あまりの快適さに体がついていかなかったのかも知れない。撮影を終え今乗ってきた列車で窪川まで折り返す。もちろんグリーン車だ。
深夜未明の乗り換えをしない快適さを味わいながら、逆に快適過ぎて重くなった体を引きずりながら窪川で予土線に乗り換える。約30分のインターバルなので実に接続が良い。


(2007年訪問時の土佐久礼駅。付近にある「土佐大正市場」に、旬であるカツオ丼を食べに行った。カツオ刺身を追加注文すると、なんと400円(当時)であった!お買い得なのは言うまでもない)
予土線といえば、現在は観光用のトロッコ列車なども運転され四万十川を満喫できる素晴らしい路線として売出しているが、ある意味、線形などの制約により高速よりも「トロッコ向き」の路線になってしまっておりJR四国にしてみたら経営的に重たい路線であろう。だが全通したのは意外と新しく1974年だ。もちろんCTC化されているので交換駅でも駅員無配置の場合が多く、駅利用者も恐らく2桁台の場合が殆どであろう。
そんな予土線を何気なく制覇すると宇和島に11時半に到着。乗り換える予讃本線の列車は13時22分の松山行だ。特急列車なら接続列車があるが、私の所有する切符は「18」である。次の普通列車に乗るため約2時間の待ち合わせ時間は当然「ランチタイム」となるだろう。もちろん、計画段階からわかっている事。早速、後でじっくり見よう頭端式ホームを横目に改札に向かう。確か駅前食堂かどこかで「カツ丼」か何かを食べた記憶だ。駅前の食堂でご飯を食べる。しかも既にバイトができる年齢なので食堂で支払う料金も自身で稼いだものだ。ひとりで見知らぬ土地での食事は実に新鮮であった・・・15歳の夏。

(2007年訪問時の江川崎駅。ローカルムードたっぷりである。車窓からの四万十川の眺めが素敵だ。)

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以前にも紹介したが、私の乗る731D、通称「中村夜行」は中村に着くと、折り返し急行「あしずり」に変身するが、幸か不幸か折り返す窪川までは普通列車だ。もちろん「18」の私にとっては非常に好都合である。窪川からの急行「あしずり」は一部指定席の表示があるが、その指定席の車両は「グリーン車」の車両を使用する。もちろんグリーン料金は取らず指定席料金で乗車できるが、こと「731D(上り764D)」はこの「グリーン車」も通常料金で「解放」なのだから破格の対応であろう。もちろんそれを利用しないわけがない。知っている「勝ち組」はその車両に列を作り、バッチリリクライニングスタイルで中村を目指すわけだ。

(731Dのイメージ。編成の中の1両に「グリーン車」が連結されていた。別料金なしで解放の為、その座席を確保するのに皆命を懸ける。写真はウィキペディアより、高松駅にて。)
さて、今夜の「宿」は中村向けて出発したが、もちろん「坪尻」「新改」等には停車しない。そして高知以西は当時初めての乗車、というより終点まで行くのだから寝過ごすという事が無いので気が楽だ。しかも今乗っている列車が中村で折り返し、更に窪川まで行くのだから、かえって都合がいい。私は無邪気な気持ちでリクライニングに身を預けた。
高知で目が覚めたが「降りなくていい!」の気持ちから再び仮眠。このころには列車で寝るのも慣れたものだ。しっかりと睡眠できる。だが、ひとり旅である。貴重品の管理はしっかりとして、いざというときには目が覚めるように努めた。と言っても目が覚めるかどうかは別問題だが・・・
窪川辺りでは朝日がとても新鮮で、景色もいい。リクライニングシートをフルに活用してまた寝る。
やがて中村に着くと荷物はそのままに「制覇の証」を撮影。だがやや体が重い。リラックスし過ぎて逆に疲れが取れ過ぎたのか、あまりの快適さに体がついていかなかったのかも知れない。撮影を終え今乗ってきた列車で窪川まで折り返す。もちろんグリーン車だ。
深夜未明の乗り換えをしない快適さを味わいながら、逆に快適過ぎて重くなった体を引きずりながら窪川で予土線に乗り換える。約30分のインターバルなので実に接続が良い。


(2007年訪問時の土佐久礼駅。付近にある「土佐大正市場」に、旬であるカツオ丼を食べに行った。カツオ刺身を追加注文すると、なんと400円(当時)であった!お買い得なのは言うまでもない)
予土線といえば、現在は観光用のトロッコ列車なども運転され四万十川を満喫できる素晴らしい路線として売出しているが、ある意味、線形などの制約により高速よりも「トロッコ向き」の路線になってしまっておりJR四国にしてみたら経営的に重たい路線であろう。だが全通したのは意外と新しく1974年だ。もちろんCTC化されているので交換駅でも駅員無配置の場合が多く、駅利用者も恐らく2桁台の場合が殆どであろう。
そんな予土線を何気なく制覇すると宇和島に11時半に到着。乗り換える予讃本線の列車は13時22分の松山行だ。特急列車なら接続列車があるが、私の所有する切符は「18」である。次の普通列車に乗るため約2時間の待ち合わせ時間は当然「ランチタイム」となるだろう。もちろん、計画段階からわかっている事。早速、後でじっくり見よう頭端式ホームを横目に改札に向かう。確か駅前食堂かどこかで「カツ丼」か何かを食べた記憶だ。駅前の食堂でご飯を食べる。しかも既にバイトができる年齢なので食堂で支払う料金も自身で稼いだものだ。ひとりで見知らぬ土地での食事は実に新鮮であった・・・15歳の夏。

(2007年訪問時の江川崎駅。ローカルムードたっぷりである。車窓からの四万十川の眺めが素敵だ。)

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