2013年、北陸大人旅①
2019-07-30
私がこのブログを初めて約7年が経過した。最近、暫く私のブログでは自身の若かりし頃の旅を若干リメイク気味に紹介してきたが、まだまだ紹介したい旅は沢山ある。そこで今回は久々に近年の旅を紹介してみよう。
さて、今回は2013年に訪問した北陸の旅を紹介してみたい。2013年というと北陸新幹線がまだ長野までの、いわゆる「長野新幹線」的な時代であった。東京から北陸方面へ行く場合、越後湯沢や長岡などで在来線特急列車に乗り換えなければならない。
そんな風景が当たり前だった時代の旅であるが、北陸方面の現場に着くと、既に新しい時代を迎え入れる準備は万全であり、いつ新時代の扉を開けても良い雰囲気であった。

以前に「ムーンライトえちご」に乗車した時に高崎で撮影した寝台特急「北陸」。2007年には実際に乗車して金沢まで行ったがその時はまだレールファン復活前であった。途中、深夜の長岡では「トワイライトエクスプレス」とかち合う場面も。
北陸方面へ向かうには既に寝台特急「北陸」や急行「能登」の選択肢は無い。もちろん「妙高」や「越前」などの急行列車なども遠い過去に葬られていた。朝一番に北陸の地を踏む事は出来ない旅行程の組み立てに、さすがの私も寂しさを拭い切れない思いであった。ならばと朝一番で家を出るしかない!と当然誰でも考える行程を提案するしかなかった。
今回は「北陸フリー切符」という、ある意味周遊券的な性格の部類になる切符を使う。という事は指定された区間なら特急列車の自由席が利用できるわけだ。これは頼もしい。
ただ今回、どうせ北陸方面へ行くならと、途中経路から少し外れ新潟まで上越新幹線の制覇に乗り出す事にした。実は当時、上越新幹線は私にとって越後湯沢~新潟間は未制覇路線であったので片付けなければならないからであった。今まで乗らなかったのが不思議なくらい一片の空白地帯であったのだが、上越新幹線開業当時は「青春18」が主力だったのでほとんど縁がなかった。開業当時から知る私にとって、開業から30年以上も経過してからの初乗りとは、何となく感慨深い。当時よりの車両は既に無くなり、全く新しいタイプの車両が登場。そしてその車両も更新時期を迎え更に新しい車両が登場している。

2007年頃(だったと思う)に撮影した小田急5000系は本厚木にて。私自身、まだ本厚木に居を移してからそれほど時間が経過していなかったので、本厚木で下車する事自体が何となく新鮮であった印象だ。
という事で今回は、現在の最寄り駅である本厚木より始発列車で新宿を目指した。
相模大野からロマンスカー「さがみ62号」で一気に新宿へ。かつて私が「青春18」を駆使し普通列車のみで九州や四国に行っていた時代とは違う。ロマンスカーや後に乗る新幹線を使う「大人の旅」はまたひと味違った経験ができる事だろう。

今回の旅で撮影した「Max」。新潟での撮影であるが、Maxとは「マルチ・アメニティ・エクスプレス」の略である事は周知の通り。16両編成にすると最大1634人の乗車が可能で世界最大であり、まさに「マックス」の新幹線である。来年辺りに姿を消す噂が流れているが、もっともっと活躍して欲しかったと思うのは私だけであろうか。
さて、新宿からは「東京都区内」の特権を利用してJR中央線で東京へ向かう。さすが日本の「頂点」東京駅だ。通勤客や出張、そして「女ふたり旅」などの旅行客などが入り交じり老若男女が右往左往している。幼い頃から何度も来ている東京駅であるが、これから新幹線ホームへ向かうと思うと何となく優越感たっぷりだ。高校時代から約20年以上レールファンを離れていた関係から、東京駅の変貌に驚いたのは2007年であった。かつて東京から新幹線に乗るという事は「西」に向かう事を意味した。だが今は違う。北へ向かう事も、そして日本海側へ行く事もできる。時代も変わったものだと改めて実感した私は、上越新幹線名物でもある「Max」で新潟を目指す事になった。

にほんブログ村

にほんブログ村
さて、今回は2013年に訪問した北陸の旅を紹介してみたい。2013年というと北陸新幹線がまだ長野までの、いわゆる「長野新幹線」的な時代であった。東京から北陸方面へ行く場合、越後湯沢や長岡などで在来線特急列車に乗り換えなければならない。
そんな風景が当たり前だった時代の旅であるが、北陸方面の現場に着くと、既に新しい時代を迎え入れる準備は万全であり、いつ新時代の扉を開けても良い雰囲気であった。

以前に「ムーンライトえちご」に乗車した時に高崎で撮影した寝台特急「北陸」。2007年には実際に乗車して金沢まで行ったがその時はまだレールファン復活前であった。途中、深夜の長岡では「トワイライトエクスプレス」とかち合う場面も。
北陸方面へ向かうには既に寝台特急「北陸」や急行「能登」の選択肢は無い。もちろん「妙高」や「越前」などの急行列車なども遠い過去に葬られていた。朝一番に北陸の地を踏む事は出来ない旅行程の組み立てに、さすがの私も寂しさを拭い切れない思いであった。ならばと朝一番で家を出るしかない!と当然誰でも考える行程を提案するしかなかった。
今回は「北陸フリー切符」という、ある意味周遊券的な性格の部類になる切符を使う。という事は指定された区間なら特急列車の自由席が利用できるわけだ。これは頼もしい。
ただ今回、どうせ北陸方面へ行くならと、途中経路から少し外れ新潟まで上越新幹線の制覇に乗り出す事にした。実は当時、上越新幹線は私にとって越後湯沢~新潟間は未制覇路線であったので片付けなければならないからであった。今まで乗らなかったのが不思議なくらい一片の空白地帯であったのだが、上越新幹線開業当時は「青春18」が主力だったのでほとんど縁がなかった。開業当時から知る私にとって、開業から30年以上も経過してからの初乗りとは、何となく感慨深い。当時よりの車両は既に無くなり、全く新しいタイプの車両が登場。そしてその車両も更新時期を迎え更に新しい車両が登場している。

2007年頃(だったと思う)に撮影した小田急5000系は本厚木にて。私自身、まだ本厚木に居を移してからそれほど時間が経過していなかったので、本厚木で下車する事自体が何となく新鮮であった印象だ。
という事で今回は、現在の最寄り駅である本厚木より始発列車で新宿を目指した。
相模大野からロマンスカー「さがみ62号」で一気に新宿へ。かつて私が「青春18」を駆使し普通列車のみで九州や四国に行っていた時代とは違う。ロマンスカーや後に乗る新幹線を使う「大人の旅」はまたひと味違った経験ができる事だろう。

今回の旅で撮影した「Max」。新潟での撮影であるが、Maxとは「マルチ・アメニティ・エクスプレス」の略である事は周知の通り。16両編成にすると最大1634人の乗車が可能で世界最大であり、まさに「マックス」の新幹線である。来年辺りに姿を消す噂が流れているが、もっともっと活躍して欲しかったと思うのは私だけであろうか。
さて、新宿からは「東京都区内」の特権を利用してJR中央線で東京へ向かう。さすが日本の「頂点」東京駅だ。通勤客や出張、そして「女ふたり旅」などの旅行客などが入り交じり老若男女が右往左往している。幼い頃から何度も来ている東京駅であるが、これから新幹線ホームへ向かうと思うと何となく優越感たっぷりだ。高校時代から約20年以上レールファンを離れていた関係から、東京駅の変貌に驚いたのは2007年であった。かつて東京から新幹線に乗るという事は「西」に向かう事を意味した。だが今は違う。北へ向かう事も、そして日本海側へ行く事もできる。時代も変わったものだと改めて実感した私は、上越新幹線名物でもある「Max」で新潟を目指す事になった。

にほんブログ村

にほんブログ村
スポンサーサイト
レールファン復活後、初の北海道遠征⑦
2019-07-25

(「室蘭本線」とは名乗っているが・・・沼ノ端~岩見沢は別の路線名を名乗っても差し支えないくらいいい味を醸し出している。この栗丘などはその典型であろう。)
さて、今回の旅のハイライトは「北斗星」にあった。レールファン復活前から「北斗星」の存在は知っていたが、まさか・・・ロイヤルに乗車できるとは!その模様も既にお伝えしているが、こうしてキーボードを叩いている瞬間でも当時の事を思い出す。とにかくこのロイヤルは奇跡的なキャンセル待ちから産まれた副産物であった。しかしながら「制覇」という宿命からか「北斗星」の乗車は札幌ではなく苫小牧となってしまった。それでもロイヤルで帰郷出来るのであるから贅沢極まりない。そんな「贅沢」を堪能しながら関東方面を目指した。

(「北斗星」初体験!しかもロイヤルである!!!これは私のレール人生でも非常に大きなウェートを占めることになった。)
今思えば実に濃縮された旅であった。乗りつぶしの宿命か、時間との制約が要求される中、なんというか余裕を持って旅ができた。そして帰りのアクセスも寝台特急という贅沢な選択。同伴した妻に対しては「ドヤ顔」で最終日を迎えることができた。ロイヤルはふたりで使用したが、当然ながら補助ベッドを拵えての参戦である。室内にはテレビも付いるが、基本的には韓流映画が繰り返し放映されるのみであった。恐らく7回以上は観たであろう。それより・・・

(私が乗車した「北斗星」のロイヤル車内。被写体は妻なので皆様には非常に申し訳ない気持ちでイッパイであるが・・・それより、補助ベッドを出せば2人でも使用できるスグレモノ。一編成に4部屋しか無いのも大変貴重な存在だ。)
北斗星の「ロイヤル」で過ごす時間は実に素敵であった。青函トンネルを通過している頃は若干意識があったものの、ハッキリ言って意識朦朧であった。そんな中・・・約30分遅れで運転している北斗星からは若干ながら北斗七星が車窓に映る。明け方であるからもう本州に入ってからの事であろう。「もりおか」の駅名標を見るのも懐かしく感じるが、半分夢の中でもあった。そんな中で北斗七星は夜明けとともにだんだん柄杓(ひしゃく)の形が薄らいでいく姿がわかる。そんな北斗七星の姿を見ていると、まるで自身の将来を私にアピールしているかのようにも思えた。この時の旅より既に7年もの月日が経過しているが(2015年現在)、現在はそのアピール通り臨時に格下げされてしまった。

(上野駅に到着した「北斗星」。寝台特急というカテゴリーは、我々に数多くのドラマを提供してくれた。完全に「昭和」という概念なのであろうか「平成」に入ると減少していく一方であった。)
最近になって特に感じるが、現在は「こうしてこうしたらこうなる」みたいな事がよくわかる様になって来た。例えば「この場所をこういう角度から訪問してみたら面白いな」みたいな感じであろうか。そんな事が昔はわからなかったのでがむしゃらに乗りつぶしを敢行していた。そして、それは消化試合的な旅に過ぎなかった。しかし、レールファン復活後は、なんというか、表現しにくいが「余裕の旅」とでも言おうか、そんな旅ができるようになった感じがする。もちろん自身の成長の過程からの副産物でもあろうが、私が23年くらいレールファンでなかった時代に吸収した事も大きいと思う。レールファンではなかった時代・・・私はそんな時代に後悔は無い。レールファンを離れていたからこその感性があると今も肌で感じる事がある。であるが、がむしゃらだった時代の旅も随分と貴重な旅をしていたんだなと今になって思う。その時間帯はいくらお金を積んでも買えない財産である。過去の自分に感謝、そして協力してくれた周りの人々に感謝・・・という事か。薄らいでいくひしゃく型の星の配列を見ながらそんな事を考えていた。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
レールファン復活後、初の北海道遠征⑥
2019-07-20
昨日と同じ宿泊施設で一夜を明かした私は、最終日の今日、留萌本線に向かう。なんと朝9時半発の「スーパーカムイ」で深川に向かうスケジュール。何ともゆっくりな出発であるが、本数が限られている札沼線を制覇するにはこうなってしまう。逆に朝の時間帯はゆっくりできて、それこそ「旅行気分」であったが、目指す留萌本線はある意味私が楽しみにしていた路線でもあった。というのも、1980年代には訪問する事が実現できなかったため、今回はその思いが果たせることになる。とは言え、後述するが留萌では羽幌線を失いかなり寂しくなった。

(私の乗ってきた「スーパーカムイ」。確か当時は新型車両であったと思うが、私の知る限り「いしかり」「ライラック」「ホワイトアロー」とネーミングが変化し、現在は「カムイ」に落ち着いているが、かつて「カムイ」は「かむい」として急行列車の名称でもあった。)
さて「スーパーカムイ」に乗った私は深川に到着。先述したが深名線を失い若干寂しくなった感があるが、かつては深名線とホームを共用していた留萌本線であるが、現在は当然ながら「専用」となっている。というより「本線」と名乗りながら地方交通線とのホーム共用は、どういう印象を持たれるであろうか・・・
というより、かつては石炭輸送で清栄を成した留萌本線である。羽幌線を始め、数多くの石炭積出路線を分岐していたし石炭のみならず、恐らく留萌では鰊(にしん)などの輸送もあったであろう。どちらにしても鉄道が「主役」であった頃の時代の典型的な例であろう。

(留萌では、確か30分くらい待ち時間があった記憶だ。かつては羽幌線を分岐し、更に石炭輸送の貨物列車が多くひしめく貨物側線も多数あったが、現在はご覧の通り・・・)
留萌で乗り換えがあったため暫く散策する事ができた。そういえば、私のブログのタイトルの写真は、実はこの駅・・つまり留萌駅で撮影されたものである。この留萌本線に関しては既に紹介しているが、かつての清栄が考えられないほど、現在は完全に「ローカル線」となっていた。特に留萌駅では羽幌線を失った事が非常に大きな出来事であったように感じた。かつては貨物側線がたくさん張り巡らされて、特に留萌本線と羽幌線を結ぶ跨線橋は、それこそ茅ヶ崎の跨線橋よりも長かったかもしれない(という例えは伝わりにくいかもしれないが・・・)が、現在は途中で途切れている。かつての羽幌線と貨物側線の場所は何かの会社的設備や広場のようになっていてその名残を簡単に推測できるが、とにかくだだっ広い印象であった。現在、1面2線を残し全て撤去されてしまった姿は、なんとなく抜け殻のようでもあった。哀愁漂う留萌本線・・・私は何だかこの留萌本線を放っておかずにはいられない衝動にかられてしまった。

(最近になって「話題」となった増毛駅。我々レールファン的に「感覚」ではわかっているものの、いざ実際の出来事となると・・・)
留萌本線を制覇した私は深川より岩見沢に向かう。そう、室蘭本線を制覇するためだ。というより、この室蘭本線の存在が、かつてから北海道制覇を企てる際にネックとなっていた存在であった岩見沢~苫小牧間である。今回は思い切り先手を打とうと制覇に踏み切った。だが、意外にも面白みがあり、単なる制覇の予定であるはずが、機会があれば再訪したい衝動になる・・・そんな魅力が溢れていた。例えて言うなら・・・BSの番組で(現在はCSのTBSチャンネルでも)放送されている「吉田類の酒場放浪記」に出てきそうな居酒屋にも似た雰囲気を醸し出していて実に味がある。「噛めば噛むほど」いい味が出てくる、そんな魅力たっぷりな室蘭本線の岩見沢~苫小牧間であった。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村

(私の乗ってきた「スーパーカムイ」。確か当時は新型車両であったと思うが、私の知る限り「いしかり」「ライラック」「ホワイトアロー」とネーミングが変化し、現在は「カムイ」に落ち着いているが、かつて「カムイ」は「かむい」として急行列車の名称でもあった。)
さて「スーパーカムイ」に乗った私は深川に到着。先述したが深名線を失い若干寂しくなった感があるが、かつては深名線とホームを共用していた留萌本線であるが、現在は当然ながら「専用」となっている。というより「本線」と名乗りながら地方交通線とのホーム共用は、どういう印象を持たれるであろうか・・・
というより、かつては石炭輸送で清栄を成した留萌本線である。羽幌線を始め、数多くの石炭積出路線を分岐していたし石炭のみならず、恐らく留萌では鰊(にしん)などの輸送もあったであろう。どちらにしても鉄道が「主役」であった頃の時代の典型的な例であろう。

(留萌では、確か30分くらい待ち時間があった記憶だ。かつては羽幌線を分岐し、更に石炭輸送の貨物列車が多くひしめく貨物側線も多数あったが、現在はご覧の通り・・・)
留萌で乗り換えがあったため暫く散策する事ができた。そういえば、私のブログのタイトルの写真は、実はこの駅・・つまり留萌駅で撮影されたものである。この留萌本線に関しては既に紹介しているが、かつての清栄が考えられないほど、現在は完全に「ローカル線」となっていた。特に留萌駅では羽幌線を失った事が非常に大きな出来事であったように感じた。かつては貨物側線がたくさん張り巡らされて、特に留萌本線と羽幌線を結ぶ跨線橋は、それこそ茅ヶ崎の跨線橋よりも長かったかもしれない(という例えは伝わりにくいかもしれないが・・・)が、現在は途中で途切れている。かつての羽幌線と貨物側線の場所は何かの会社的設備や広場のようになっていてその名残を簡単に推測できるが、とにかくだだっ広い印象であった。現在、1面2線を残し全て撤去されてしまった姿は、なんとなく抜け殻のようでもあった。哀愁漂う留萌本線・・・私は何だかこの留萌本線を放っておかずにはいられない衝動にかられてしまった。

(最近になって「話題」となった増毛駅。我々レールファン的に「感覚」ではわかっているものの、いざ実際の出来事となると・・・)
留萌本線を制覇した私は深川より岩見沢に向かう。そう、室蘭本線を制覇するためだ。というより、この室蘭本線の存在が、かつてから北海道制覇を企てる際にネックとなっていた存在であった岩見沢~苫小牧間である。今回は思い切り先手を打とうと制覇に踏み切った。だが、意外にも面白みがあり、単なる制覇の予定であるはずが、機会があれば再訪したい衝動になる・・・そんな魅力が溢れていた。例えて言うなら・・・BSの番組で(現在はCSのTBSチャンネルでも)放送されている「吉田類の酒場放浪記」に出てきそうな居酒屋にも似た雰囲気を醸し出していて実に味がある。「噛めば噛むほど」いい味が出てくる、そんな魅力たっぷりな室蘭本線の岩見沢~苫小牧間であった。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
レールファン復活後、初の北海道遠征⑤
2019-07-15

(2009年に訪問した時の旭川。当時はまだ高架化工事中であったので富良野線と函館本線との間にはやや距離があった。現在は高架化が完成しかなりスリムに変身した。)
地上時代の旭川を過ぎ滝川に着く。滝川はまだまだ昭和の面影が残る素敵な物件であろう。後年の旅ではこの滝川は宿泊の地として活躍したが、深名線を分岐していた深川とともに実に味わい深く、言わば「兄弟」のような雰囲気を醸し出している。この滝川で下車するというのも実に新鮮であるが、ここからバスで新十津川に向かうのも新鮮。札沼線を制覇するのにはそれこそ1980年代には散々計画を企てていたが、それこそ計画で終わっていた。しかしながらこういう形で実現するのも感慨深いものがある。

(滝川駅からバスに乗り「新十津川役場」のようなバス停の名称であった記憶であるが、そこでバスを下車。そして若干徒歩を要すると華奢な駅舎が見えてきた。付近には大きな病院や集落があり、鉄道的な需要があるような感じもするが・・・)
そんなバスの旅も10分~15分くらいで終了。新十津川駅までは「新十津川役場」みたいなバス停から若干徒歩を要する。新十津川駅は実に素敵な駅で、まさに「理想」であった。新十津川駅の中心部にあるが、駅前に商店街などの施設は無い。喉が渇いたので何か飲料を購入しようかと付近を散策したが、結局駅前にある診療受付時間が終了した大きな病院の中にある自販機が唯一であった。しかしながらこの大きな病院は付近の住民にしたら頼りになる存在であろう。

(新十津川より「最終列車」で札幌に向かう。ご存知の通り、路線名にある「沼」とは留萌本線の石狩沼田の事である。最近、この留萌本線のニュースでレールファン始め地元の方などの話題を集めているが・・・)
約30分くらいのインターバルであったろうか、実に短い時間に感じたが、辺りは既に暗くなって来た。若干宗谷本線の長旅の疲労が体を過るが、それでもこの札沼線は癒される存在であった。そんな新十津川から列車に乗り札幌に着いたのが21時46分。途中の石狩当別で乗換たが、こちらは既に都会の雰囲気を醸し出しており、とても「札沼線」とは呼べない存在である。新十津川~北海道医療大学間を「学園都市線」と呼べるかどうかとい事とほぼ類似するであろう。これほど明暗別れたカラーの違う路線も珍しい。石狩当別で乗り換えたとは言え、札沼線で入る札幌駅は実に斬新で新鮮味溢れる風光明媚な旅情であった。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
レールファン復活後、初の北海道遠征④
2019-07-10
翌日の朝、私は再び札幌から北を目指した。予定表を見てみると・・・やたらと乗り換え駅が少ない!この日のスケジュールは4~5駅くらいしか記されていない。という事は・・・列車の乗車時間が長いという事になる。確かに予定的には札幌から宗谷本線を往復し、滝川からバスで新十津川に出て札沼線で札幌に帰ってくるというシンプルなスケジュール。ただ列車に乗っているだけで楽でいいと思われるであろうが、実際に行動してみたらこれが実に苦痛極まりない!これは一種の修行、いや、苦行であろう・・・やはり列車の旅は適度に乗り換えがあったほうがいいかも知れない。とは言え、関西の私鉄を制覇した時のように10分乗ったら乗り換え、5分乗ったら折り返し・・・なんていうスケジュールも逆に体力勝負となるが・・・

(札沼線とツーショット中の「スーパー宗谷」。札沼線は現在、一部区間で複線・電化されここ数年で一気に飛躍した路線である。そういえば札幌駅であるが、新幹線が到達した日には現在の1.2.3番線が新幹線ホームになるとされているらしい。)
という事で、この日は札幌を8時半出発の「スーパー宗谷」での移動となった。稚内到着がなんと昼間の1時半である!5時間も同じ列車に閉じ込められてしまうのか、とは自身が考えたスケジュールなのでクレームのつけようがない。実際に、ハッキリ言ってエコノミー症候群にでもなってしまいそうな雰囲気が漂ったが、途中の北星や智北などの秘境駅や音威子府などでは「下車したい!」との気持ちが募る程いい感じであった。というより、宗谷本線は特急列車でサーっと通りすぎるのではなく、普通列車でじっくり訪問するのが「常識」なのであろう。後年には音威子府の下車を実現させているが、まだまだ乗り足りない、というよりひと駅ひと駅じっくりと訪問してみたい路線のひとつであろう。


(終点の稚内にて。時間の制約から「最北端」をあまり楽しめなかったが、小学生くらいから一度は訪問してみたいと思っていたので念願叶った感じであった。しかし、その当時より側線の数が激減しややスリムになった印象であった。)
稚内に到着すると、隣のホームにいる「サロベツ」で折り返し札幌方面へ向かう予定だ。約20分のインターバルが実に足りないくらいであったが、急ぎ足で撮影を終え食料を調達するためになんと出発5分前に駅前のスーパーに駆け込んだ!というよりよくこの地に店を営業していてくれたものかと感謝の雨あられであったが、もし間に合わなかったら・・・の思いからもしっかりと地元の名産を選んでいた。ハッキリ言って列車の車内販売はあてにできないのでじっくりと時間をかけたのだ。と言っても実際にかかった時間は1分ほどだったろうが。発車1分前に列車のドアを潜ったのでギリギリセーフであったが、旅先で駆け込み乗車とは実にスリリング。皆様、決して真似をしなでいただきたい!

(稚内からは「サロベツ」で折り返す。待ち時間が確か20分くらいあったがアッという間に時間が過ぎてしまった。そういえば近年「サロベツ」は一時期車両の不具合から運転見合わせ状態であったが、現在は復活している。)
さて、帰りはさっき見た景色をリフレインで見るのであるから何とも言えない雰囲気であった。乗りつぶしのための旅であるから仕方ないし色気もない。だが、2回目の音威子府は流石に下車してしまおうかと本気で思った。「あの人」の蕎麦が無性に食べたくなったのだ。この時の思いが後年の音威子府駅訪問に繋がってくるのであるが、実現までに実に7年もの歳月が費やされてしまった。逆によく7年の間に廃業せずにいてくれたものであると感謝せずにいられなかった。その時の模様はこちらで紹介しているので是非!

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村

(札沼線とツーショット中の「スーパー宗谷」。札沼線は現在、一部区間で複線・電化されここ数年で一気に飛躍した路線である。そういえば札幌駅であるが、新幹線が到達した日には現在の1.2.3番線が新幹線ホームになるとされているらしい。)
という事で、この日は札幌を8時半出発の「スーパー宗谷」での移動となった。稚内到着がなんと昼間の1時半である!5時間も同じ列車に閉じ込められてしまうのか、とは自身が考えたスケジュールなのでクレームのつけようがない。実際に、ハッキリ言ってエコノミー症候群にでもなってしまいそうな雰囲気が漂ったが、途中の北星や智北などの秘境駅や音威子府などでは「下車したい!」との気持ちが募る程いい感じであった。というより、宗谷本線は特急列車でサーっと通りすぎるのではなく、普通列車でじっくり訪問するのが「常識」なのであろう。後年には音威子府の下車を実現させているが、まだまだ乗り足りない、というよりひと駅ひと駅じっくりと訪問してみたい路線のひとつであろう。


(終点の稚内にて。時間の制約から「最北端」をあまり楽しめなかったが、小学生くらいから一度は訪問してみたいと思っていたので念願叶った感じであった。しかし、その当時より側線の数が激減しややスリムになった印象であった。)
稚内に到着すると、隣のホームにいる「サロベツ」で折り返し札幌方面へ向かう予定だ。約20分のインターバルが実に足りないくらいであったが、急ぎ足で撮影を終え食料を調達するためになんと出発5分前に駅前のスーパーに駆け込んだ!というよりよくこの地に店を営業していてくれたものかと感謝の雨あられであったが、もし間に合わなかったら・・・の思いからもしっかりと地元の名産を選んでいた。ハッキリ言って列車の車内販売はあてにできないのでじっくりと時間をかけたのだ。と言っても実際にかかった時間は1分ほどだったろうが。発車1分前に列車のドアを潜ったのでギリギリセーフであったが、旅先で駆け込み乗車とは実にスリリング。皆様、決して真似をしなでいただきたい!

(稚内からは「サロベツ」で折り返す。待ち時間が確か20分くらいあったがアッという間に時間が過ぎてしまった。そういえば近年「サロベツ」は一時期車両の不具合から運転見合わせ状態であったが、現在は復活している。)
さて、帰りはさっき見た景色をリフレインで見るのであるから何とも言えない雰囲気であった。乗りつぶしのための旅であるから仕方ないし色気もない。だが、2回目の音威子府は流石に下車してしまおうかと本気で思った。「あの人」の蕎麦が無性に食べたくなったのだ。この時の思いが後年の音威子府駅訪問に繋がってくるのであるが、実現までに実に7年もの歳月が費やされてしまった。逆によく7年の間に廃業せずにいてくれたものであると感謝せずにいられなかった。その時の模様はこちらで紹介しているので是非!

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
レールファン復活後、初の北海道遠征③
2019-07-05
そういえば、私がかつて勤めていた会社に室蘭出身の人がいた。その人は郷ひろみと年齢的に同じくらいなので私よりも10年以上も先輩である。とある日、私は通常の会話の中で「出身はどちらですか?」的な会話をしていた。「北海道です」との事なので「北海道はどちらで?」と振ると「室蘭」という答えが返ってきた。「あぁ、昔は石炭輸送でSLとか活躍していてすごかったみたいですね」と言ったら「えっ、随分詳しいね」と驚きを隠せない表情をしていた。室蘭と言って、まさか自身の幼少時代の事を言われるとは思わなかったのであろう。そう、年代的には石炭積出で清栄していた頃はまだまだ物心付きかけた頃であったろう。
私が小学校に入学する頃には追分でSL最後の活躍が見られた時代であった。というより、私が物心着いた頃には既にSLという機関車自体馴染みのないものであったし生活の一部からは既に遠ざかっていた時代でもあった。やはり10年も年の差があると経験する数もかなり違うなと染み染み実感した時でもあった。

(室蘭駅の駅舎は現在4代目と聞いた。何回か移転を繰り返し多くの変遷があると聞いているが、やはり「黒ダイヤ」時代の清栄に比べたらかなりひっそりとした印象であろう。)
そんな室蘭も、時代が変わり役目も変わった。多くの変遷があり駅舎も何回か建て替えられたようであるが、駅構内はとにかく昔の面影が伝わってくるくらい広い。が、とにかく「昔は線路があったんだろうな」的な空間がほとんどであった。そしてかつては線路があったと思われる空間には商業施設や駐車場にも変身していた。土地の有効利用的な面においては実に実用的ではあるが、ある意味、そういう姿になっている事だけでも既に鉄道は「主役」の時代ではない事を察する。

(同じく室蘭にて撮影。駅周辺はかなり広い空間が存在し商業施設などが誕生しているが、その空間は、かつてレールが沢山敷かれていたであろう事が容易に推測できる。)
そういえば東室蘭~室蘭は既に複線化されているが、これも石炭時代の名残である。現在では単線でも充分に機能すると思われるが、あえて複線のまま現在も維持しているのがいい。だが、この区間を走る列車は現在全て普通列車である。とは言え、例えば特急列車の車両も普通列車としてこの区間を乗り入れてくるため、タイミングが良ければ優雅な気分で移動できるかも知れない。
そしてこの区間で忘れてはいけないのが、レールファンにはお馴染みの母恋駅の存在であろう。お馴染みの駅弁は、蓋を開けると大きな北寄(ホッキ)貝が必要以上にアピールしてくる。北寄貝と言えば、青森県の三沢でも大々的にアピールしているが、こちらの母恋も負けてはいないであろう。つい先日も、某路線バスの旅でその模様が放送され「健在」である事が確認できた。

(1983年10月に訪問した際の札幌駅風景。被写体は「ライラック」であるが、当時は地上駅時代であったのは先述通りである。この旅では札幌駅で約4時間の列車待ち合わせがあったが、インターネットなど発達していない時代であったので事前調査などできず、ただただ駅で過ごすという時間が過ぎていった。とは言え当時は中学生であったので「レール」にしか興味なかったが・・・)
そんな私は、実はタイミングよく特急列車の車両での普通列車でこの区間を乗車していた。つまり室蘭から直接札幌に向かえてしまうのだ。久々に見る苫小牧や、1983年訪問時は「千歳空港」であった南千歳を通り過ぎ終点の札幌に到着。今回の宿泊地として既に予定してる。1983年訪問時は地上駅であったが、既に高架駅に生まれ変わっていた。とは言え、高架駅の札幌駅は今回の訪問が初めてではなく、実は1993年に社員旅行で訪問しているので既に免疫が出来上がっていた。というより1983年の訪問時が国鉄として、そして地上駅としての最初で最後の訪問であった。当時は廃止される報告を受けた白糠線制覇のために訪れたのであるが、その事で貴重な副産物が付いてきたわけだ。社員旅行の時に訪問した札幌駅は、地上時代に比べ全体がやや後退した印象でかなりスリムになっていた。そして旧・駅舎と新しい現在の高架駅との間には更地的な空間があり、ひと目で生まれ変わったなという雰囲気が伝わってきた。もちろん、現在のその空間は周知の通りである。今回の旅で訪れた札幌駅であるが、北海道の中心駅らしく実に機能的に、そして堂々とした「主(あるじ)」の姿は、とても逞しく凛々しい印象でもあった。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
私が小学校に入学する頃には追分でSL最後の活躍が見られた時代であった。というより、私が物心着いた頃には既にSLという機関車自体馴染みのないものであったし生活の一部からは既に遠ざかっていた時代でもあった。やはり10年も年の差があると経験する数もかなり違うなと染み染み実感した時でもあった。

(室蘭駅の駅舎は現在4代目と聞いた。何回か移転を繰り返し多くの変遷があると聞いているが、やはり「黒ダイヤ」時代の清栄に比べたらかなりひっそりとした印象であろう。)
そんな室蘭も、時代が変わり役目も変わった。多くの変遷があり駅舎も何回か建て替えられたようであるが、駅構内はとにかく昔の面影が伝わってくるくらい広い。が、とにかく「昔は線路があったんだろうな」的な空間がほとんどであった。そしてかつては線路があったと思われる空間には商業施設や駐車場にも変身していた。土地の有効利用的な面においては実に実用的ではあるが、ある意味、そういう姿になっている事だけでも既に鉄道は「主役」の時代ではない事を察する。

(同じく室蘭にて撮影。駅周辺はかなり広い空間が存在し商業施設などが誕生しているが、その空間は、かつてレールが沢山敷かれていたであろう事が容易に推測できる。)
そういえば東室蘭~室蘭は既に複線化されているが、これも石炭時代の名残である。現在では単線でも充分に機能すると思われるが、あえて複線のまま現在も維持しているのがいい。だが、この区間を走る列車は現在全て普通列車である。とは言え、例えば特急列車の車両も普通列車としてこの区間を乗り入れてくるため、タイミングが良ければ優雅な気分で移動できるかも知れない。
そしてこの区間で忘れてはいけないのが、レールファンにはお馴染みの母恋駅の存在であろう。お馴染みの駅弁は、蓋を開けると大きな北寄(ホッキ)貝が必要以上にアピールしてくる。北寄貝と言えば、青森県の三沢でも大々的にアピールしているが、こちらの母恋も負けてはいないであろう。つい先日も、某路線バスの旅でその模様が放送され「健在」である事が確認できた。

(1983年10月に訪問した際の札幌駅風景。被写体は「ライラック」であるが、当時は地上駅時代であったのは先述通りである。この旅では札幌駅で約4時間の列車待ち合わせがあったが、インターネットなど発達していない時代であったので事前調査などできず、ただただ駅で過ごすという時間が過ぎていった。とは言え当時は中学生であったので「レール」にしか興味なかったが・・・)
そんな私は、実はタイミングよく特急列車の車両での普通列車でこの区間を乗車していた。つまり室蘭から直接札幌に向かえてしまうのだ。久々に見る苫小牧や、1983年訪問時は「千歳空港」であった南千歳を通り過ぎ終点の札幌に到着。今回の宿泊地として既に予定してる。1983年訪問時は地上駅であったが、既に高架駅に生まれ変わっていた。とは言え、高架駅の札幌駅は今回の訪問が初めてではなく、実は1993年に社員旅行で訪問しているので既に免疫が出来上がっていた。というより1983年の訪問時が国鉄として、そして地上駅としての最初で最後の訪問であった。当時は廃止される報告を受けた白糠線制覇のために訪れたのであるが、その事で貴重な副産物が付いてきたわけだ。社員旅行の時に訪問した札幌駅は、地上時代に比べ全体がやや後退した印象でかなりスリムになっていた。そして旧・駅舎と新しい現在の高架駅との間には更地的な空間があり、ひと目で生まれ変わったなという雰囲気が伝わってきた。もちろん、現在のその空間は周知の通りである。今回の旅で訪れた札幌駅であるが、北海道の中心駅らしく実に機能的に、そして堂々とした「主(あるじ)」の姿は、とても逞しく凛々しい印象でもあった。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村