2013年、北陸大人旅⑦
2019-08-30
勝山から再びえちぜん鉄道で福井方面へ折り返した私は福井口で三国港方面へ乗り換え田原町で更に福井鉄道に乗り換える。そして路面電車で福井駅前まで来た時点で福井鉄道とえちぜん鉄道を完乗した事になるが、流石に夜9時10時だと体力的に迫りくるものがあった。だが「我、鉄道の申し子なり」とでも呟いてしまおうかと思うくらい私にも意地がある。福井駅前の電停に足を落とし瞬間に心中でガッツポーズ。人影まばらな宿泊地へのみちのりで「よし、福井は終わったな」と、次のターゲットに気持ちを走らせていた。

朝一番の新鮮な福井駅。高架化されすっかりスリムになった。高架化前の福井に私は訪問した事はないが、国鉄時代のスペースを有効活用していると思われ、特にロータリーや新幹線乗場のスペースに活用されている事であろう。ちなみに撮影したのは朝6時半頃であった記憶だが、東京近郊のような忙しい雰囲気はなく、実に穏やかな通勤通学風景に見えたのは気のせいであろうか。
翌日、金沢周辺の未乗車私鉄路線を訪問する。残念ながら私が北陸地方へ最初に足を踏み入れたのはミレニアム以降のため国鉄時代の経験はない。もちろんJR以外の私鉄に関しては経験も免疫もない。更にかなり路線が減ったなぁという印象であった。「加賀一の宮」はもちろん、「白山下」とか昔あったよなぁなど思いながら計画段階で時刻表を眺めていた。
そんな思いを抱きながら、現在進行形のナウな私鉄路線を確かめるべく特急「はくたか」を金沢で下車した。西金沢から出ている北鉄は後日に予定しているので今回は金沢から乗る北鉄を余すところ無く制覇しようという予定だ。

福井発の「はくたか」で金沢に向かう。その愛称は現在新幹線に受け継がれているが、更に福井までの延伸により新幹線の、そして福井駅の風景も変わってくる事であろう。
さて、新幹線開業待ち遠しい金沢は既に高架化されて久しいが、国鉄時代に比べたら格段に機能的に、そしてモダンな駅舎に生まれ変わった。そして新幹線用の用地と工事が将来を感じさせる。
地上時代に比べやや後退したイメージの金沢であるが、高架化の際には当然ながら新幹線が考慮されていた事であろう。確か高架化が1990年頃だったので、その頃から既に本気で新幹線が金沢に来る事をイメージしながら工事が進められていたという事になる。


超大都会!的な雰囲気を醸し出す北鉄金沢。地方私鉄ではここ金沢と長野電鉄の2ヶ所のみが一部区間で地下化されていると聞く。そんな金沢で待っていたのは元京王の車両であった!
そんな金沢から北鉄金沢へのりかえるが、なんと北鉄金沢は地下化され近代化されていたのだ!もちろん、かつての北鉄金沢とは違い、強いて言えば長野電鉄の長野駅風な雰囲気を醸し出す。ただ、やはり列車に乗ってみると北鉄金沢を抜ければ普通に北陸鉄道の景色が目に飛び込んでくる。そう、北鉄金沢附近のみがやたら大都会的風景なのだ。そんな風景を眺めながら、あまり聞き慣れない「内灘」という駅目指して列車は走り出していった。

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朝一番の新鮮な福井駅。高架化されすっかりスリムになった。高架化前の福井に私は訪問した事はないが、国鉄時代のスペースを有効活用していると思われ、特にロータリーや新幹線乗場のスペースに活用されている事であろう。ちなみに撮影したのは朝6時半頃であった記憶だが、東京近郊のような忙しい雰囲気はなく、実に穏やかな通勤通学風景に見えたのは気のせいであろうか。
翌日、金沢周辺の未乗車私鉄路線を訪問する。残念ながら私が北陸地方へ最初に足を踏み入れたのはミレニアム以降のため国鉄時代の経験はない。もちろんJR以外の私鉄に関しては経験も免疫もない。更にかなり路線が減ったなぁという印象であった。「加賀一の宮」はもちろん、「白山下」とか昔あったよなぁなど思いながら計画段階で時刻表を眺めていた。
そんな思いを抱きながら、現在進行形のナウな私鉄路線を確かめるべく特急「はくたか」を金沢で下車した。西金沢から出ている北鉄は後日に予定しているので今回は金沢から乗る北鉄を余すところ無く制覇しようという予定だ。

福井発の「はくたか」で金沢に向かう。その愛称は現在新幹線に受け継がれているが、更に福井までの延伸により新幹線の、そして福井駅の風景も変わってくる事であろう。
さて、新幹線開業待ち遠しい金沢は既に高架化されて久しいが、国鉄時代に比べたら格段に機能的に、そしてモダンな駅舎に生まれ変わった。そして新幹線用の用地と工事が将来を感じさせる。
地上時代に比べやや後退したイメージの金沢であるが、高架化の際には当然ながら新幹線が考慮されていた事であろう。確か高架化が1990年頃だったので、その頃から既に本気で新幹線が金沢に来る事をイメージしながら工事が進められていたという事になる。


超大都会!的な雰囲気を醸し出す北鉄金沢。地方私鉄ではここ金沢と長野電鉄の2ヶ所のみが一部区間で地下化されていると聞く。そんな金沢で待っていたのは元京王の車両であった!
そんな金沢から北鉄金沢へのりかえるが、なんと北鉄金沢は地下化され近代化されていたのだ!もちろん、かつての北鉄金沢とは違い、強いて言えば長野電鉄の長野駅風な雰囲気を醸し出す。ただ、やはり列車に乗ってみると北鉄金沢を抜ければ普通に北陸鉄道の景色が目に飛び込んでくる。そう、北鉄金沢附近のみがやたら大都会的風景なのだ。そんな風景を眺めながら、あまり聞き慣れない「内灘」という駅目指して列車は走り出していった。

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2013年、北陸大人旅⑥
2019-08-25
三国港で国鉄に触れた私は返す刀で福井に向かった。えちぜん鉄道の福井はJRの福井は不自然な空間を挟みやや離れた位置にある。だが大都会!さすが、その不自然な空間は将来の新幹線延伸に合わせ工事中の現場であった。近年ではこの新幹線高架にえちぜん鉄道のホームが仮設され話題を呼んでいたが、今回の旅では地上ホームであった。
かつての国鉄時代に一度でもいいから地上時代の福井を訪問してみたかったが願いは叶わず。高架化されたJRの福井が初訪問である。だが、あの弧を描くホームは健在。国鉄時代を彷彿させるようなあのカーブに停まる特急列車の姿は実に美しい。
そんな福井では今回の旅の宿泊地となっている。私は一旦妻を旅籠に残し、再びえちぜん鉄道の福井に向かう。
だがその前に、宿泊施設ではなんと19時まで夕食のカレーライスが無料ご奉仕だそうだ!現在時刻は18時20分。えちぜん鉄道の福井発は18時56分。私は一か八か勝負に出た。セルフサービスなのでカレーライスが出来上がるまでの待ち時間は無い。早速勝山行きの出発時間までの勝負が始まった。


(上)は私が2008年訪問した時の、そして(下)は1980年代頃国鉄時代の福井駅(=写真はダイナミック✩トナカイ提供)。2008年ではそれまで寝台特急、そして「雷鳥」などでも活躍した車両が普通列車として活躍していたシーンである。そして国鉄時代の福井は地上駅時代であり懐かしい「加越」が入線しているシーンであるが、やはりどちらもカーブを描くホームは福井の特徴でもある。
結論からいうと、私は2杯平らげた。流石に3杯目まで行ってしまうと時間との戦いになってしまう。もちろん3杯目も余裕で行けたが、ここは勝山行きに負けてしまった。八分目の腹を揺らしながら福井駅に足を急がせる。宿泊施設はJR福井の真前にあるが、えちぜん鉄道の福井駅までは意外に微妙な距離がある。

京福、いやえちぜん鉄道の福井から勝山目指す。一旦ホテルで食事を済ませてからの参戦であるので何となく気が緩む。しかも夜7時頃からだし・・・みたいな。
さて、これから勝山を目指すが、なんとか間に合った勝山行きは最終列車の一本か二本前であった。既に夜の時間帯では勝山に近付くほど窓の景色は真っ黒のスクリーンになっていく。
途中の永平寺口では永平寺へ向かう枝線を分岐していた名残を確認出来るかなぁ~等と思っていたが、やはりそのような目的ならば昼間の時間帯が最適なようだ。
真っ暗な景色が限りなく続く中、勝山に到着すると既に駅員の姿はなく、乗務員が駅舎内に消えていった。勝山では電留線もあり構内は広いが、 登録有形文化財に指定されている駅舎は露光が足りないので駅構内も含め撮影するのが困難であった。そして乗ってきた列車で折り返すのだが、夜の時間帯の上り列車では私が唯一の乗客であるくらい静寂に包まれていた。

終点の勝山駅であるが、夜8時頃のため駅外観が撮影できなかった。駅はリニューアル工事中であまり自由が利かなかったが、駅自体は静寂に包まれ駅らしくない雰囲気を醸し出していた。
若いレールファンの概念なら、ここ勝山が終点であるのが常識であろう。たが、かつてはここから先大野までレールが繋がっていた。私が子供の頃はJRの越前大野付近までレールがあったのだ。やや離れているので京福との乗り換え不便であったが「京福大野」 と名乗り大野市の中心部にあった。だが、国鉄の越美北線が開通して以来、典型的なモータリゼーションと国鉄との競合による利用者減で現在のような勝山終点の形になった。私が小学校入学前であったが、京福大野の写真は何かの雑誌で見た記憶がある。それは何か都会的なビルの下にホームが2本あった記憶で、イメージで言うと小田急の町田や東武鉄道の浅草的な感じであろうか。だが、先ほど触れたJRの越前大野からはやや離れており、両者で乗り換えをしようと思ったら、恐らくかつての小田急町田(旧・新原町田)と国鉄の原町田(現・町田)の関係よりも距離があろう乗り換えを強いられる事であろう。両者の距離は把握していないが、恐らくJR直方と筑豊直方くらいの距離はあろうか。歩くとなるとやや辛い思いをしなければならないかも知れない。


終点の勝山ではこんな車両が静態保存されていた。やはりここは昼間くるべきだったかなぁ~みたいな思いが過ぎったが・・・駅前はこの時間だと真っ暗で静寂に包まれ駅前らしい姿は無かった。
時間的にもアクセス的にも京福大野方面には行けなかったが、逆にその事で再びこの地に訪れ京福の歴史を触れる作業をしてみたい気持ちになった。現在の京福大野跡地は銀行に変身している事も当然確認済みでありGoogleマップでもビュー等で現在の姿を確認している。しかし現地に行ってこそ、その思いは、そして達成感はひと一倍であろう。
やはりまだ私は学生時代の癖が抜けないのか、計画を詰め込む事に美学を感じる面影がある。「大人旅」をしているつもりなのだが、やはり勝山より先が行かれないのが悔しくてたまらなかった。もちろん最初から計画するという術も無くはなかっただろう。それを「まだあまちゃん」と思うか「次に来れば」と思うか・・・いや、「次に来た時はもっと楽しくしてやろう!」と思える自分がそこにいるならば、私は既に「大人旅」に進化し深化したのだと自分に言い聞かせるしかない。いや、もしかしたらそれこそ大人旅なのであろう!と断言したくなるような今回の旅であった。

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かつての国鉄時代に一度でもいいから地上時代の福井を訪問してみたかったが願いは叶わず。高架化されたJRの福井が初訪問である。だが、あの弧を描くホームは健在。国鉄時代を彷彿させるようなあのカーブに停まる特急列車の姿は実に美しい。
そんな福井では今回の旅の宿泊地となっている。私は一旦妻を旅籠に残し、再びえちぜん鉄道の福井に向かう。
だがその前に、宿泊施設ではなんと19時まで夕食のカレーライスが無料ご奉仕だそうだ!現在時刻は18時20分。えちぜん鉄道の福井発は18時56分。私は一か八か勝負に出た。セルフサービスなのでカレーライスが出来上がるまでの待ち時間は無い。早速勝山行きの出発時間までの勝負が始まった。


(上)は私が2008年訪問した時の、そして(下)は1980年代頃国鉄時代の福井駅(=写真はダイナミック✩トナカイ提供)。2008年ではそれまで寝台特急、そして「雷鳥」などでも活躍した車両が普通列車として活躍していたシーンである。そして国鉄時代の福井は地上駅時代であり懐かしい「加越」が入線しているシーンであるが、やはりどちらもカーブを描くホームは福井の特徴でもある。
結論からいうと、私は2杯平らげた。流石に3杯目まで行ってしまうと時間との戦いになってしまう。もちろん3杯目も余裕で行けたが、ここは勝山行きに負けてしまった。八分目の腹を揺らしながら福井駅に足を急がせる。宿泊施設はJR福井の真前にあるが、えちぜん鉄道の福井駅までは意外に微妙な距離がある。

京福、いやえちぜん鉄道の福井から勝山目指す。一旦ホテルで食事を済ませてからの参戦であるので何となく気が緩む。しかも夜7時頃からだし・・・みたいな。
さて、これから勝山を目指すが、なんとか間に合った勝山行きは最終列車の一本か二本前であった。既に夜の時間帯では勝山に近付くほど窓の景色は真っ黒のスクリーンになっていく。
途中の永平寺口では永平寺へ向かう枝線を分岐していた名残を確認出来るかなぁ~等と思っていたが、やはりそのような目的ならば昼間の時間帯が最適なようだ。
真っ暗な景色が限りなく続く中、勝山に到着すると既に駅員の姿はなく、乗務員が駅舎内に消えていった。勝山では電留線もあり構内は広いが、 登録有形文化財に指定されている駅舎は露光が足りないので駅構内も含め撮影するのが困難であった。そして乗ってきた列車で折り返すのだが、夜の時間帯の上り列車では私が唯一の乗客であるくらい静寂に包まれていた。

終点の勝山駅であるが、夜8時頃のため駅外観が撮影できなかった。駅はリニューアル工事中であまり自由が利かなかったが、駅自体は静寂に包まれ駅らしくない雰囲気を醸し出していた。
若いレールファンの概念なら、ここ勝山が終点であるのが常識であろう。たが、かつてはここから先大野までレールが繋がっていた。私が子供の頃はJRの越前大野付近までレールがあったのだ。やや離れているので京福との乗り換え不便であったが「京福大野」 と名乗り大野市の中心部にあった。だが、国鉄の越美北線が開通して以来、典型的なモータリゼーションと国鉄との競合による利用者減で現在のような勝山終点の形になった。私が小学校入学前であったが、京福大野の写真は何かの雑誌で見た記憶がある。それは何か都会的なビルの下にホームが2本あった記憶で、イメージで言うと小田急の町田や東武鉄道の浅草的な感じであろうか。だが、先ほど触れたJRの越前大野からはやや離れており、両者で乗り換えをしようと思ったら、恐らくかつての小田急町田(旧・新原町田)と国鉄の原町田(現・町田)の関係よりも距離があろう乗り換えを強いられる事であろう。両者の距離は把握していないが、恐らくJR直方と筑豊直方くらいの距離はあろうか。歩くとなるとやや辛い思いをしなければならないかも知れない。


終点の勝山ではこんな車両が静態保存されていた。やはりここは昼間くるべきだったかなぁ~みたいな思いが過ぎったが・・・駅前はこの時間だと真っ暗で静寂に包まれ駅前らしい姿は無かった。
時間的にもアクセス的にも京福大野方面には行けなかったが、逆にその事で再びこの地に訪れ京福の歴史を触れる作業をしてみたい気持ちになった。現在の京福大野跡地は銀行に変身している事も当然確認済みでありGoogleマップでもビュー等で現在の姿を確認している。しかし現地に行ってこそ、その思いは、そして達成感はひと一倍であろう。
やはりまだ私は学生時代の癖が抜けないのか、計画を詰め込む事に美学を感じる面影がある。「大人旅」をしているつもりなのだが、やはり勝山より先が行かれないのが悔しくてたまらなかった。もちろん最初から計画するという術も無くはなかっただろう。それを「まだあまちゃん」と思うか「次に来れば」と思うか・・・いや、「次に来た時はもっと楽しくしてやろう!」と思える自分がそこにいるならば、私は既に「大人旅」に進化し深化したのだと自分に言い聞かせるしかない。いや、もしかしたらそれこそ大人旅なのであろう!と断言したくなるような今回の旅であった。

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2013年、北陸大人旅⑤
2019-08-20
福井鉄道で田原町に着いた私は更に驚かされる事になる。なんと昔ながらの木造的駅舎に己を包んだ駅風景は、さらにデルタ状になったホームに挟まれ不思議な色彩を醸し出していた。更にホーム横の柵の向こうには自転車が無数に置かれており、実質「パーク&ライド」を提唱しているかのような景色であった。


田原町で越前鉄道に乗り換える。デルタ地帯にある駅として私は吸い込まれてしまったが、非常に趣ある面構えであった。現在は福井鉄道がえちぜん鉄道に乗り入れているが、もっと前からそういう風景って会っても良かったんじゃねぇ?って思えません?
田原町よりえちぜん鉄道に乗り換えるのだが、ハッキリ言って聞き慣れない名称であった。えちぜん鉄道?つまり、かつての京福電気鉄道であったのだ。京福電気鉄道といえば私のイメージでは京福大野と東古市から別れる永平寺線が物凄く印象的であったが、現在は永平寺に向かう枝線はない。だが、色々な苦難を乗り越え、えちぜん鉄道として再出発出来たことは大きいではないか。そんな思いを抱きながらデルタ地帯の向かいのホームに向かった。

「西福井」は実に近代的な駅に映った!付近に大学がある事を示唆する駅名になっていたが、意外にも京福らしくない雰囲気を醸し出していたと思うのは私だけであろうか?
一番楽しみにしていたのは「アテンダント」と呼ばれる車掌的女性従業員が乗務している事だ。つまり乗客の世話役的な事をしているのだが、中にはレールファンからくるマニアックな質問などもしっかり答えられるよう、アテンダント同士で情報を共有している。
そんなアテンダントの苦労や逸話が書籍になって出版されている。
イメージチェンジに必至に頑張っているえちぜん鉄道に期待を膨らませながら乗車したが・・・

私の地元には古くから馴染みのある相模線があるが、何となくどこかで見たような駅名が・・・
結論からいうと、アテンダントは乗車していなかった。どうやらアテンダントが乗車する列車は限定されているのかも知れない。
ガッカリした私は「顔で笑って心で泣いて」ではないが、これから行く三国港への足取りは重かった。
途中「あわら湯のまち」では、つまりJRでいう「芦原温泉」ということになる。ということは並走している事になるが、正直言って私はこの事実をこの日まで知らなかった。たが、それよりも駅前が完全に温泉街的に「草津化」していたのでこの地に宿泊を決めればまたひと味違った旅ができたであろう。だが、私はまだ計画を詰め込む美学がまだ抜けきれていないようであった。


三国港はかつて国鉄の駅であった。駅に降り立つと、何となくオーラとでも言おうか、歴史的何かが伝わってくる雰囲気を醸し出す。それはホームの先にあるアーチをご覧いただければ一目瞭然であろう。
そして初めて見る三国港。京福とはこんなカラーを醸し出す鉄道だったのかと改めて知らされた。恐らくかつては港よりの運搬物により栄えた事であろう広い構内であったと思われる空間に別の建物があった。そして駅舎こそリニューアルされているが、私にはその歴史による重みを感じずにはいられなかった。そう、ここはかつて国鉄三国港駅であったからだ。経営母体こそ変わりその変遷は複雑であるが、現在でもその重厚さが伝わって来るのは、三国港駅が放つオーラとでも言おうか、何か格別な匂いを醸し出していた。
鉄道全線制覇を目指して全国を駆け巡っているわけであるが、確かに計画を詰め込む美学は以前と変わらないかも知れない。だが、ただ路線を制覇するだけでなく、こうした歴史の重みをオーラで感じ取れる様になった事は、僅かながらではあるが、私も年齢を重ね進歩したのかなと若干感じた場面でもあった。

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田原町で越前鉄道に乗り換える。デルタ地帯にある駅として私は吸い込まれてしまったが、非常に趣ある面構えであった。現在は福井鉄道がえちぜん鉄道に乗り入れているが、もっと前からそういう風景って会っても良かったんじゃねぇ?って思えません?
田原町よりえちぜん鉄道に乗り換えるのだが、ハッキリ言って聞き慣れない名称であった。えちぜん鉄道?つまり、かつての京福電気鉄道であったのだ。京福電気鉄道といえば私のイメージでは京福大野と東古市から別れる永平寺線が物凄く印象的であったが、現在は永平寺に向かう枝線はない。だが、色々な苦難を乗り越え、えちぜん鉄道として再出発出来たことは大きいではないか。そんな思いを抱きながらデルタ地帯の向かいのホームに向かった。

「西福井」は実に近代的な駅に映った!付近に大学がある事を示唆する駅名になっていたが、意外にも京福らしくない雰囲気を醸し出していたと思うのは私だけであろうか?
一番楽しみにしていたのは「アテンダント」と呼ばれる車掌的女性従業員が乗務している事だ。つまり乗客の世話役的な事をしているのだが、中にはレールファンからくるマニアックな質問などもしっかり答えられるよう、アテンダント同士で情報を共有している。
そんなアテンダントの苦労や逸話が書籍になって出版されている。
イメージチェンジに必至に頑張っているえちぜん鉄道に期待を膨らませながら乗車したが・・・

私の地元には古くから馴染みのある相模線があるが、何となくどこかで見たような駅名が・・・
結論からいうと、アテンダントは乗車していなかった。どうやらアテンダントが乗車する列車は限定されているのかも知れない。
ガッカリした私は「顔で笑って心で泣いて」ではないが、これから行く三国港への足取りは重かった。
途中「あわら湯のまち」では、つまりJRでいう「芦原温泉」ということになる。ということは並走している事になるが、正直言って私はこの事実をこの日まで知らなかった。たが、それよりも駅前が完全に温泉街的に「草津化」していたのでこの地に宿泊を決めればまたひと味違った旅ができたであろう。だが、私はまだ計画を詰め込む美学がまだ抜けきれていないようであった。


三国港はかつて国鉄の駅であった。駅に降り立つと、何となくオーラとでも言おうか、歴史的何かが伝わってくる雰囲気を醸し出す。それはホームの先にあるアーチをご覧いただければ一目瞭然であろう。
そして初めて見る三国港。京福とはこんなカラーを醸し出す鉄道だったのかと改めて知らされた。恐らくかつては港よりの運搬物により栄えた事であろう広い構内であったと思われる空間に別の建物があった。そして駅舎こそリニューアルされているが、私にはその歴史による重みを感じずにはいられなかった。そう、ここはかつて国鉄三国港駅であったからだ。経営母体こそ変わりその変遷は複雑であるが、現在でもその重厚さが伝わって来るのは、三国港駅が放つオーラとでも言おうか、何か格別な匂いを醸し出していた。
鉄道全線制覇を目指して全国を駆け巡っているわけであるが、確かに計画を詰め込む美学は以前と変わらないかも知れない。だが、ただ路線を制覇するだけでなく、こうした歴史の重みをオーラで感じ取れる様になった事は、僅かながらではあるが、私も年齢を重ね進歩したのかなと若干感じた場面でもあった。

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2013年、北陸大人旅④
2019-08-15
JR側の武生から「武生新」へ向かうが、まだ「越前武生」に馴染めない私がいた。いつから駅名が変わったのであろう。計画を立てている段階から「越前武生」と改名したのは知っていたが、いざ訪問するとなるとなんだか戸惑ってしまう。初めて訪れる土地なのになんだか複雑だ。

JR武生から少し歩くと「武生新」こと越前武生がある。何となく昭和チックな駅前風景が時代を物語る。
越前武生の改札を抜けると思いもよらぬ列車が私を待っていた。昭和35年製のあの列車だ!岐阜にいたかつての名鉄の車も顔を揃えて並んでいる。西の鉄道に疎い私でも一発でわかったほど岐阜の路面電車に馴染んでいる列車であった。おう、こんなところにいたか。初めて生で見る車なのになぜか懐かしい。1984年以来23年のブランクがあった私のレールファン歴は、私が想像していた以上に私自身が浦島太郎になっていたようだ。逆に何もかもが新鮮であるのだから面白い。そんな中にも福井鉄道のように「201」のような車両が待っているのだから、本当に旅とは何が起こるか分からない。いや、私が予備知識なさすぎなのか・・・
さて「201」は周知の通り古すぎて貴重な車両となっているが、低床化が進められている福井鉄道にとっても高床車か盛んであった昭和を感じ取れる貴重な車両ともなっている。しかも江ノ電のように高床車両が併用軌道を走るという、これもまた貴重な「今しか出会えない鉄道風景」となっている。

そしてホームへ入る。もちろん私の乗車する車両は左側だ。既に現在では引退されていると聞いている車両なので最後に貴重な体験をした事になる。
周知の通り福井鉄道は軌道区間と鉄道区間の駅ホームの高さが違っていたため、鉄道車両が軌道区間の駅に入る際に対する乗客の乗降時の不便さを解消するため列車のドアが開くと階段状のステップが自動で出てくる仕組みになっている。また、先述した名鉄車両の搬入に伴い、鉄道線の駅も全て低床車に対応したホームの高さに改良された。そのため始発の越前武生でも鉄道車両がステップを下げている姿か見れるのは嬉しい。ただ、現状だと障害者的な立場の方にはやや不利になってしまうので今後の対策が大きな課題であろう。いずれにしても鉄道車両は近い将来になくなり、ノンステップ式の低床車に置き換えられるのが現実的なのかもしれない。

とは言え、右側にはかつての名鉄的車両が活躍する。時代の波とともに福井鉄道も低床化が進められている。
さて「福井」に来て「岐阜」に乗ることは出来なかったが、多くの駅で何度か「岐阜」とすれ違いを見せた。レールファン的にはいい風景であるが、利用者的には昭和35年式の車両はどう感じるのであろうか。しかも福井駅付近では軌道線になるため道路に鉄道線の車両が入るとやたら巨大に感じる。まるでかつてのジャイアント馬場のように、実に巨大に見える。私の地元である神奈川県にも江ノ電が江ノ島~腰越間が軌道区間であるが、やはりいつ見てもその巨大さに変化はない。むしろダイナミックに思えてくる。しかも福井方では軌道区間が複線のため尚更だ。
そんな懐かしいご対面があった福井鉄道に「昭和」の私はある意味喜びを感じていた。だが、私はどちらかというと国鉄派だったので私鉄とはあまり縁が無かった。だが、今だからこそこうした地方の私鉄路線の素晴らしさに気付かされる。もちろん、私が若かった頃、私鉄に全く触れなかった訳でもないし興味が無かった訳でもない。単純に触れる回数が少なかっただけなのだ。当然ながら雑誌や図鑑、そしてコロタン文庫等でその勇姿を確認していた。だが、現地に訪問したり乗車できたのは極めて近年のレールファン復活後であるし、意識的に訪問したのは地元の私鉄路線を除けば鹿児島交通くらいであろう。本当はもっと私鉄路線に沢山訪問してみたかった。別府鉄道に丹後鉄道、そして南部縦貫鉄道やもっというと1円電車や下津井電鉄等・・・数え上げたらキリがない。だが、私が1970年代~1980年代に全国の鉄道路線を駆けずり回っていた頃は「いい旅チャレンジ20000km」が大ブームになっており、そちらの方が最優先であった。しかも学生のため行ったついでに私鉄に乗るという感覚や概念もなく経済的余裕も無かった。

低床化の理由のひとつに福井駅寄りの併用軌道にあると言えるであろう。私の地元に走る江ノ電も一部区間に併用軌道があるが、やはりあの江ノ電車両が道路を走っているのは今でも違和感を感じる。
今、こうしてかつての果たせずにいた夢をひとつひとつ実現させている。もちろん昭和の時に訪問していたらもっともっと違う風景が見れたであろう。だが今だからこそ経験出来る事もある。そんな思いをひとつひとつ噛み締めながら終点の田原町に向かった。

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2013年、北陸大人旅③
2019-08-10
私が学生時代に「いい旅チャレンジ」を敢行していた時では考えられないくらい快適である新幹線や特急列車を利用した今回の旅であるが「青春18」を利用して普通列車のみで全国を駆け巡っていたあの頃に比べ、逆に何か物足りないような気もする。「18」の頃はあれだけ特急や新幹線に乗りてーッ!と思っていたのに、いざ特急や新幹線などを使う一般的な旅になると、何かが違う。これ、なんだろう。青海川や私の好きな鯨波も一瞬で通過してしまう。そしてあの筒石も瞬く間に消えていった。やはり私は「線」より「点」の旅が好きなのであろうか。特急列車は目的地まで早く着くのはいいが、そこまでのプロセスが大切にされていない気がする。いや、快適過ぎてそうした細かい部分を見る事が疎かになってしまうのが嫌なのであろうか。何れにせよ、柏崎や直江津などの主要駅に着くとやはり胸騒ぎがするのだから列車の旅は何に乗っても良い!的な気持ちは変わらない。

恐らく、訪問当時は1982年以来約31年ぶりの訪問となった柏崎。とはいえ、本の僅かな停車時間で下車できなかったが、31年前の当時とほぼ変化は無かった分、懐かしさを感じた。
そんな思いを胸に抱きながら久々に富山のホームを見てワクワクし、間もなく金沢に到着した。2007年以来の訪問であり久々の緊張感であったが、ここでは下車せず、更に武生まで特急「サンダーバード」に乗りかえる。せっかく金沢まで来て単なる乗り換え駅としてのみ利用するなど恐れ多いかも知れないが「サンダーバード」の乗車は人生初なので何となく初々しい。

富山ではかなりの完成度で新幹線ホームが出現した。当時、期待に胸高まるのは地元の方々のみならぬ、我々も同じ気持ちであったろう。
さて、金沢から武生に向かうが、先程触れた「サンダーバード」という聞き慣れない、いや、私が以前国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」で全国を駆け巡っていた時代には考えられないような「ナウい」ネーミングであるが、考えてみたら「雷鳥」の直訳じゃねぇ?って感じてしまう。それよりもJRになってから「きらめき」「かがやき」「ムーンライト⚪⚪」など、ある意味幻想的なネーミングが増えた。「ホワイトアロー」「オーシャンアロー」など、国鉄時代には考えられないようなネーミングが増えていった。そんな思いを抱きながら乗る「サンダーバード」は実に新鮮。普通にレールファンなら当たり前田のクラッカーかも知れないが、2007年にレールファンを復活させ、更に「いい旅チャレンジ」の続きをひとり勝手に開催し全国をかけめぐる私にとっては何もかもが新しい。

富山と言えばこれであろう。「ぶりのすし」と併せ、この地方にくるならば是非とも賞味したい逸品である。
武生に着くと福井鉄道に乗り換えるが、JRとやや離れた位置に福井鉄道の武生駅があるため乗り換えにやや不安だ。たが、ホームに立つとまだまだ国鉄の香りが辺り一面漂ういい感じの駅であった。もう暫く滞在したい気持ちであるが、福井鉄道が私を待っている。初めて北陸方面の私鉄・・・JR以外の鉄道に触れるのも新鮮で胸ワクワク😃💕である。


武生で「サンダーバード」を下車。「雷鳥」ではないのが国鉄チックではない。やがて福井方面にも近い将来新幹線が延伸されるといっそ便利になる事であろう。
はやる気持ちを抑え福井鉄道の「武生新」に向かうが、思ったより距離があった。ホームに入るとなんだか昭和の雰囲気がこれでもか!と漂ってくる。「越前武生」と改名したのは今回の旅のお陰で知る事ができたが、昭和を知る私にとって、この新しい駅名はどうも馴染めずにいた。それもそのはず、「武生新」ではご覧の車両が待っていた。既に近い将来引退の噂があったが、こうして偶然出会ったのはある意味貴重であったのかも知れない。
周知の通り、福井鉄道は一部区間で「路面電車」に変身する。もし私が車を運転している最中ならば、こんな車両が道路にいたら間違いなく二度見をして事故を起こしそうになってしまうであろう。

「武生新」ではご覧の車両がお出迎え。往年の重みがものすごく伝わってくる。こうした車両が少しづつフェイドアウトしてしまうのは残念であるが我々に沢山の思い出をくれた功績は大きい。

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恐らく、訪問当時は1982年以来約31年ぶりの訪問となった柏崎。とはいえ、本の僅かな停車時間で下車できなかったが、31年前の当時とほぼ変化は無かった分、懐かしさを感じた。
そんな思いを胸に抱きながら久々に富山のホームを見てワクワクし、間もなく金沢に到着した。2007年以来の訪問であり久々の緊張感であったが、ここでは下車せず、更に武生まで特急「サンダーバード」に乗りかえる。せっかく金沢まで来て単なる乗り換え駅としてのみ利用するなど恐れ多いかも知れないが「サンダーバード」の乗車は人生初なので何となく初々しい。

富山ではかなりの完成度で新幹線ホームが出現した。当時、期待に胸高まるのは地元の方々のみならぬ、我々も同じ気持ちであったろう。
さて、金沢から武生に向かうが、先程触れた「サンダーバード」という聞き慣れない、いや、私が以前国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」で全国を駆け巡っていた時代には考えられないような「ナウい」ネーミングであるが、考えてみたら「雷鳥」の直訳じゃねぇ?って感じてしまう。それよりもJRになってから「きらめき」「かがやき」「ムーンライト⚪⚪」など、ある意味幻想的なネーミングが増えた。「ホワイトアロー」「オーシャンアロー」など、国鉄時代には考えられないようなネーミングが増えていった。そんな思いを抱きながら乗る「サンダーバード」は実に新鮮。普通にレールファンなら当たり前田のクラッカーかも知れないが、2007年にレールファンを復活させ、更に「いい旅チャレンジ」の続きをひとり勝手に開催し全国をかけめぐる私にとっては何もかもが新しい。

富山と言えばこれであろう。「ぶりのすし」と併せ、この地方にくるならば是非とも賞味したい逸品である。
武生に着くと福井鉄道に乗り換えるが、JRとやや離れた位置に福井鉄道の武生駅があるため乗り換えにやや不安だ。たが、ホームに立つとまだまだ国鉄の香りが辺り一面漂ういい感じの駅であった。もう暫く滞在したい気持ちであるが、福井鉄道が私を待っている。初めて北陸方面の私鉄・・・JR以外の鉄道に触れるのも新鮮で胸ワクワク😃💕である。


武生で「サンダーバード」を下車。「雷鳥」ではないのが国鉄チックではない。やがて福井方面にも近い将来新幹線が延伸されるといっそ便利になる事であろう。
はやる気持ちを抑え福井鉄道の「武生新」に向かうが、思ったより距離があった。ホームに入るとなんだか昭和の雰囲気がこれでもか!と漂ってくる。「越前武生」と改名したのは今回の旅のお陰で知る事ができたが、昭和を知る私にとって、この新しい駅名はどうも馴染めずにいた。それもそのはず、「武生新」ではご覧の車両が待っていた。既に近い将来引退の噂があったが、こうして偶然出会ったのはある意味貴重であったのかも知れない。
周知の通り、福井鉄道は一部区間で「路面電車」に変身する。もし私が車を運転している最中ならば、こんな車両が道路にいたら間違いなく二度見をして事故を起こしそうになってしまうであろう。

「武生新」ではご覧の車両がお出迎え。往年の重みがものすごく伝わってくる。こうした車両が少しづつフェイドアウトしてしまうのは残念であるが我々に沢山の思い出をくれた功績は大きい。

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2013年、北陸大人旅②
2019-08-05
上越新幹線「Max」で新潟に向かう私は、初めて乗車する越後湯沢~新潟間に胸ワクワクであった。何しろ開業当時の1982年11月15日以来の夢であった。ただ、開業当時からという事は、訪問当時で2013年。既に30年以上経過していた事になる。「10年ひと昔」の勘定だと既に「3」的な数字が舞い込んでくる。もちろんその間に時代は大きく変わり車両や駅の更新もなされ開業当時とは大きく異なる部分もあろう。そんな時代の変化も肌で感じる事ができる事に感謝したい思いだが、それより何よりこの時代に私を産んでくれた親に感謝であろう。と、私の存在意義まで触れてしまった今回の旅であるが、とにかく越後湯沢から先の上越新幹線を制覇しなければ、1980年~1990年まで開催された「いい旅チャレンジ20000km」のキャンペーンに対する自身の落とし前に片が付かない。既に時は2013年であるが、その落とし前を「とき」で決着をつけるのも悪くない。そんな事を考えながら私は「青春18」では味わえなかった新幹線の座席で、出発前にスーパーで購入した酎ハイを堪能しながら「米処」を目指した。

将来的に「過去の遺産」となってしまおう「Max」であるが、レギュラーとして乗車できた事はある意味貴重な体験として未来に残っていく事であろう。
新潟まで新幹線を乗れば私的には上越新幹線全線制覇であるが、実は今回も旅に参加した妻がいる。ただ、妻に関してはレールファンでもなく「いい旅チャレンジ」には全く関心もないし関係ないし関与しない立場のため、長岡で下車してもらい喫茶店ででも待っていてもらう事にした。理由はシンプルだ。北陸フリーきっぷは越後湯沢か長岡で在来線の乗り換えを条件としている。私のような「新潟経由」みたいなわがままをいう奴のために切符のルールを設定していない。と言うか、新潟まで行くのは私一人でいいわけだから、正規料金を別途支払うのなら私一人で充分!妻には長岡で降りてもらい、切符のルールにそむく私など単独で新潟へ向かえばそれでいい!そんなJR東の無言の挑戦状に、私はあえてそれを受ける事にした。

北陸新幹線が開通して、将来的に上越新幹線はどのように変化していくのであろう。「羽越新幹線」は、フル規格ではなくてもある意味実現出来そうな雰囲気であるが、もし実現すれば鶴岡、酒田などは飛躍的に利便性が高まる事であろう。
長岡の新幹線ホームは通過用の側線と相対式ホームのみのシンプルな構造だ。新潟県第二の都市の駅にしては何か物足りない印象である。だがそんな長岡にも果たせずにいる夢があった。それは、上越新幹線を敷設させるきっかけを作った、かつて日本の総理大臣であった人物の構想では、新潟から先「羽越新幹線」として延伸する際に長岡を2面6線にして待避可能とする計画があった。そしてその名残が今でも「幻の13番線」としても見受けられる事ができるのだ。浦佐や長岡の駅を見るたびに私は「角栄」に見えて仕方がない。まさに「象徴」であろう。

長岡駅は、ある意味「元総理」の象徴のように見えるのは私だけであろうか。「元首相」の思いが沢山鏤められている事を感じ取る事が出来る駅は、ある意味素晴らしい。
そんな「象徴」的な聖地に、私は自身の都合で妻を長岡に置き去りにし新潟から戻ってきたわけであるが、そんな罪作りな私は妻を駅構内の喫茶店から連れ出し、在来線ホームより特急「北越」に生まれて初めて乗車して金沢に向かった。私自身、レールファン全盛期であった1970年~1980年代ではあまり縁が無かった北陸地方に、こうして近年になって訪れる機会が増えてきた事は実に素晴らしく幸せであろう。もちろん、新幹線が開通したり北陸本線の一部が第三セクターに転換されたりした出来事は、昭和的レールファンである私には、あまり想像つかなく、想像を絶する出来事が現実になっているのは、なんとも言えぬ時代を感じるものだ。だが、こうして時代の変化を感じることができる事も幸せな事であろう。私は更に北陸の旅を極めるべく、未体験ゾーンの「私鉄」を目指し、車窓から日本海の荒波の感触を確かめていた。


人生初体験の「北越」は長岡から乗車した。車両的には、調べてみたら私が国鉄時代から馴染みのある485系の改造車である事は実に驚かされた。もちろん、レールファンの皆様にとっては何ら大した事の無い「一般常識」であろうが、当時の私にとって、23年のレールファンブランクはこうしたところに随所に出現していた。

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将来的に「過去の遺産」となってしまおう「Max」であるが、レギュラーとして乗車できた事はある意味貴重な体験として未来に残っていく事であろう。
新潟まで新幹線を乗れば私的には上越新幹線全線制覇であるが、実は今回も旅に参加した妻がいる。ただ、妻に関してはレールファンでもなく「いい旅チャレンジ」には全く関心もないし関係ないし関与しない立場のため、長岡で下車してもらい喫茶店ででも待っていてもらう事にした。理由はシンプルだ。北陸フリーきっぷは越後湯沢か長岡で在来線の乗り換えを条件としている。私のような「新潟経由」みたいなわがままをいう奴のために切符のルールを設定していない。と言うか、新潟まで行くのは私一人でいいわけだから、正規料金を別途支払うのなら私一人で充分!妻には長岡で降りてもらい、切符のルールにそむく私など単独で新潟へ向かえばそれでいい!そんなJR東の無言の挑戦状に、私はあえてそれを受ける事にした。

北陸新幹線が開通して、将来的に上越新幹線はどのように変化していくのであろう。「羽越新幹線」は、フル規格ではなくてもある意味実現出来そうな雰囲気であるが、もし実現すれば鶴岡、酒田などは飛躍的に利便性が高まる事であろう。
長岡の新幹線ホームは通過用の側線と相対式ホームのみのシンプルな構造だ。新潟県第二の都市の駅にしては何か物足りない印象である。だがそんな長岡にも果たせずにいる夢があった。それは、上越新幹線を敷設させるきっかけを作った、かつて日本の総理大臣であった人物の構想では、新潟から先「羽越新幹線」として延伸する際に長岡を2面6線にして待避可能とする計画があった。そしてその名残が今でも「幻の13番線」としても見受けられる事ができるのだ。浦佐や長岡の駅を見るたびに私は「角栄」に見えて仕方がない。まさに「象徴」であろう。

長岡駅は、ある意味「元総理」の象徴のように見えるのは私だけであろうか。「元首相」の思いが沢山鏤められている事を感じ取る事が出来る駅は、ある意味素晴らしい。
そんな「象徴」的な聖地に、私は自身の都合で妻を長岡に置き去りにし新潟から戻ってきたわけであるが、そんな罪作りな私は妻を駅構内の喫茶店から連れ出し、在来線ホームより特急「北越」に生まれて初めて乗車して金沢に向かった。私自身、レールファン全盛期であった1970年~1980年代ではあまり縁が無かった北陸地方に、こうして近年になって訪れる機会が増えてきた事は実に素晴らしく幸せであろう。もちろん、新幹線が開通したり北陸本線の一部が第三セクターに転換されたりした出来事は、昭和的レールファンである私には、あまり想像つかなく、想像を絶する出来事が現実になっているのは、なんとも言えぬ時代を感じるものだ。だが、こうして時代の変化を感じることができる事も幸せな事であろう。私は更に北陸の旅を極めるべく、未体験ゾーンの「私鉄」を目指し、車窓から日本海の荒波の感触を確かめていた。


人生初体験の「北越」は長岡から乗車した。車両的には、調べてみたら私が国鉄時代から馴染みのある485系の改造車である事は実に驚かされた。もちろん、レールファンの皆様にとっては何ら大した事の無い「一般常識」であろうが、当時の私にとって、23年のレールファンブランクはこうしたところに随所に出現していた。

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