更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>②
2019-10-30
新幹線で博多入りしたというのに早速乗り潰しが始まった。篠栗線~筑豊本線で折尾で乗り換え、更に若松へ向かう。だが、この折尾で早速「洗礼」を受けてしまった。折尾では、時刻表の地図の中では筑豊本線と鹿児島本線は普通に乗り換えができるようになっているが、実は過去の複雑な変遷の名残から若干ホームが離れて設置されている部分がある。

(画像はウィキペディアより。というより、私自身も3分の乗り換え時間で撮影したが、こちらのほうが画像が良かったため拝借した。やはり折尾駅の駅舎はこうでなくっちゃ。現在は解体されてしまったが、往年の姿が残っていた貴重な駅舎であった。)
筑豊本線と鹿児島本線は周知の通り短絡線で結ばれているが、かつては貨物が主体の線路であった。だが、沿線人口の増加などでその短絡線を通る旅客列車の運転本数が増加されるようになり、折尾付近を通る短絡線にもホームを設置する必要性に迫られ、そして現在の形になった。だが、やはり「短絡線」という部分もあり、やや仮設ホーム的な印象もある。「後付け」であるため改札も別で、今回の私が計画した旅の行程で「3分」という乗り換え時間は実にスリリングであった。計画段階から分かっていたものの、いざ実行してみるとまさに秒刻みの行動をしなければならず、あの風格ある駅舎も秒刻みのスケジュールで写真に収めるなど、全てを計算し、全てを計算通りに行動させないと後の行程に影響が出てしまうので必死であった。結果的には成功したが、もちろん疲労困憊であったのは言うまでもない。この初日のスケジュールは折尾での乗り換えに全身全霊を込めたため全てのスタミナを消費した印象であった。

(国鉄式の駅名標が残る若松。バックには駐車場やマンションが見るが、かつては多くの石炭列車がひしめき合っていた場所であった。常に貨物取扱No1の座を保ち、大きなヤードに煙が絶えないと聞いた。北九州の鉄道の歴史は石炭などの貨物輸送の歴史そのものであったろう。)
そんなクタクタな私を乗せた筑豊本線の列車は若松に着く。駅ホームの横にはすぐに新興住宅地が広がるが、実は周知の通り、かつては石炭積出港としてNo.1の実績を誇っていた駅でもあった。まさにその新興住宅地はかつて貨物側線が多く張り巡らされた場所でもあり、時間帯を問わず、常に駅構内では煙の匂いが絶えなかった存在であった。1980年代まではその名残を留めていたが、現在は先述の通り、その場所は住宅地に変身していてかつての面影は薄らいでいる。ただ嬉しかったのは、まだまだ「昭和」が感じられた事だ。駅舎の雰囲気や駅名標などが「国鉄」のまま残っており実に新鮮だった。「新鮮」という表現はおかしいが、なんだかかつて私が青春18で「いい旅チャレンジ20000km」に命をかけていた時代にタイムスリップしたような錯覚に陥ってしまったようだ。

(再び若松より。旅客用のホームを残し、かなり身軽になった印象だ。1980代までは確かに広いヤードが残っていたが、私の初訪時は現在の姿であった。)
初めて来たのになんだか懐かしさを感じる若松を折り返し折尾に戻って来る。そして小倉に抜け日田彦山線に乗り換えた。小倉では待ち時間が30分くらいあったので、北九州名物「かしわうどん」を頬張る。「かしわめし」は折尾駅の「名物」であるが、小倉では「駅そば」で再現。1月というのになぜか汗だくでいただいた。
そんな小倉駅で待つ日田彦山線の列車は懐かしのキハ40であった。2007年よりレールファン復活の私には実に懐かしい材料であった。だが、北九州の中枢である小倉から乗車する列車はそれなりに満員御礼で、とくに都市近郊の役割をしっかりと果たしている印象であった。かつて石炭で栄えた北九州も、時代とともに役割が変化し、鉄道の意味も変化していった。筑豊本線、日田彦山線に「轍(わだち)」を置いていくことによって私なりの歴史確認作業が進行していった。

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(画像はウィキペディアより。というより、私自身も3分の乗り換え時間で撮影したが、こちらのほうが画像が良かったため拝借した。やはり折尾駅の駅舎はこうでなくっちゃ。現在は解体されてしまったが、往年の姿が残っていた貴重な駅舎であった。)
筑豊本線と鹿児島本線は周知の通り短絡線で結ばれているが、かつては貨物が主体の線路であった。だが、沿線人口の増加などでその短絡線を通る旅客列車の運転本数が増加されるようになり、折尾付近を通る短絡線にもホームを設置する必要性に迫られ、そして現在の形になった。だが、やはり「短絡線」という部分もあり、やや仮設ホーム的な印象もある。「後付け」であるため改札も別で、今回の私が計画した旅の行程で「3分」という乗り換え時間は実にスリリングであった。計画段階から分かっていたものの、いざ実行してみるとまさに秒刻みの行動をしなければならず、あの風格ある駅舎も秒刻みのスケジュールで写真に収めるなど、全てを計算し、全てを計算通りに行動させないと後の行程に影響が出てしまうので必死であった。結果的には成功したが、もちろん疲労困憊であったのは言うまでもない。この初日のスケジュールは折尾での乗り換えに全身全霊を込めたため全てのスタミナを消費した印象であった。

(国鉄式の駅名標が残る若松。バックには駐車場やマンションが見るが、かつては多くの石炭列車がひしめき合っていた場所であった。常に貨物取扱No1の座を保ち、大きなヤードに煙が絶えないと聞いた。北九州の鉄道の歴史は石炭などの貨物輸送の歴史そのものであったろう。)
そんなクタクタな私を乗せた筑豊本線の列車は若松に着く。駅ホームの横にはすぐに新興住宅地が広がるが、実は周知の通り、かつては石炭積出港としてNo.1の実績を誇っていた駅でもあった。まさにその新興住宅地はかつて貨物側線が多く張り巡らされた場所でもあり、時間帯を問わず、常に駅構内では煙の匂いが絶えなかった存在であった。1980年代まではその名残を留めていたが、現在は先述の通り、その場所は住宅地に変身していてかつての面影は薄らいでいる。ただ嬉しかったのは、まだまだ「昭和」が感じられた事だ。駅舎の雰囲気や駅名標などが「国鉄」のまま残っており実に新鮮だった。「新鮮」という表現はおかしいが、なんだかかつて私が青春18で「いい旅チャレンジ20000km」に命をかけていた時代にタイムスリップしたような錯覚に陥ってしまったようだ。

(再び若松より。旅客用のホームを残し、かなり身軽になった印象だ。1980代までは確かに広いヤードが残っていたが、私の初訪時は現在の姿であった。)
初めて来たのになんだか懐かしさを感じる若松を折り返し折尾に戻って来る。そして小倉に抜け日田彦山線に乗り換えた。小倉では待ち時間が30分くらいあったので、北九州名物「かしわうどん」を頬張る。「かしわめし」は折尾駅の「名物」であるが、小倉では「駅そば」で再現。1月というのになぜか汗だくでいただいた。
そんな小倉駅で待つ日田彦山線の列車は懐かしのキハ40であった。2007年よりレールファン復活の私には実に懐かしい材料であった。だが、北九州の中枢である小倉から乗車する列車はそれなりに満員御礼で、とくに都市近郊の役割をしっかりと果たしている印象であった。かつて石炭で栄えた北九州も、時代とともに役割が変化し、鉄道の意味も変化していった。筑豊本線、日田彦山線に「轍(わだち)」を置いていくことによって私なりの歴史確認作業が進行していった。

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>①
2019-10-25
ハッキリ言って、私のブログの傾向として、どうも北方面に偏りがちな気がした。いやいや、私は沖縄ゆいレールを除いて全線制覇した身(北陸新幹線開通後は長野~金沢が新たに未制覇区間に加わるが)。北方面ばかりが能じゃない。南方面も魅力たっぷりな鉄道路線が多く存在するではないか・・・
そんな思いで、今回は九州の旅を紹介しようかと思う。だが、九州の鉄道路線制覇の道のりは実に長かった。そのため数回のカテゴリーに分けて紹介してみよう。

(1978年訪問時の宮崎駅にて。ここで機関車交換し、西鹿児島まで目指す寝台特急「富士」を牽引するDF50は非常に思い出深い。)
九州の初上陸は1978年の寝台特急「富士」から始まる。当時私は小学4年生であった。既に紹介しているが、当時、東京~西鹿児島まで24時間25分で運転されていた列車に私は始発から終点まで乗車した。そして583系のL特急「有明」に乗って熊本で下車、天草を抜け長崎へ。そして博多から新幹線で帰郷というスケジュールであった。
第2弾は1983年に鹿児島交通廃止の情報を受け「青春18」にて一路九州を目指した。

(時代も変わったものだ・・・新幹線と言えば0系のイメージが強い私であるが、こういった車両が開発されたことによって九州方面への到達時間が短くなった。今回の旅は新横浜より乗車。)
そして第3弾は今回紹介する旅となったわけである。が、今回紹介する旅においては2回目の訪問から25年が経過しており(当時)、果たしてどんな変化が私を待っているのであろうかと、期待と不安の門出であった。それを象徴するように、既に出発時の新幹線から早速車両が違う。この旅の出発は新横浜より新幹線で九州を目指す行程であった。現在の新横浜はこの駅を通る全て新幹線が停車する。かつての「こだま」のみが停車する地味なイメージは無い。神奈川県民にとってみればわざわざ東京まで出る必要がなくなり大変便利になった。そう、新横浜から「のぞみ」に乗ること自体が実に新鮮。鮮度抜群の700系で一気に博多を目指すのは実に気分が良い。というより、東京や横浜から新幹線で九州入りする概念が一般にあるかどうか・・・だから尚更自身の行動は実にいい選択肢を持っていると自身に表彰したいくらいの気持ちであった。

(JR化後は私の知らない車両が多くなった。しかし、利用者にとってみれば実に利用しやすい造りになっている。)
てなわけで、博多で新幹線を乗り捨てると早速「乗り潰し」が始まる。まず篠栗線と筑豊本線を経由して折尾に向かう。だが、この折尾駅で事件が起こった。果たしてその「事件」とは・・・

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そんな思いで、今回は九州の旅を紹介しようかと思う。だが、九州の鉄道路線制覇の道のりは実に長かった。そのため数回のカテゴリーに分けて紹介してみよう。

(1978年訪問時の宮崎駅にて。ここで機関車交換し、西鹿児島まで目指す寝台特急「富士」を牽引するDF50は非常に思い出深い。)
九州の初上陸は1978年の寝台特急「富士」から始まる。当時私は小学4年生であった。既に紹介しているが、当時、東京~西鹿児島まで24時間25分で運転されていた列車に私は始発から終点まで乗車した。そして583系のL特急「有明」に乗って熊本で下車、天草を抜け長崎へ。そして博多から新幹線で帰郷というスケジュールであった。
第2弾は1983年に鹿児島交通廃止の情報を受け「青春18」にて一路九州を目指した。

(時代も変わったものだ・・・新幹線と言えば0系のイメージが強い私であるが、こういった車両が開発されたことによって九州方面への到達時間が短くなった。今回の旅は新横浜より乗車。)
そして第3弾は今回紹介する旅となったわけである。が、今回紹介する旅においては2回目の訪問から25年が経過しており(当時)、果たしてどんな変化が私を待っているのであろうかと、期待と不安の門出であった。それを象徴するように、既に出発時の新幹線から早速車両が違う。この旅の出発は新横浜より新幹線で九州を目指す行程であった。現在の新横浜はこの駅を通る全て新幹線が停車する。かつての「こだま」のみが停車する地味なイメージは無い。神奈川県民にとってみればわざわざ東京まで出る必要がなくなり大変便利になった。そう、新横浜から「のぞみ」に乗ること自体が実に新鮮。鮮度抜群の700系で一気に博多を目指すのは実に気分が良い。というより、東京や横浜から新幹線で九州入りする概念が一般にあるかどうか・・・だから尚更自身の行動は実にいい選択肢を持っていると自身に表彰したいくらいの気持ちであった。

(JR化後は私の知らない車両が多くなった。しかし、利用者にとってみれば実に利用しやすい造りになっている。)
てなわけで、博多で新幹線を乗り捨てると早速「乗り潰し」が始まる。まず篠栗線と筑豊本線を経由して折尾に向かう。だが、この折尾駅で事件が起こった。果たしてその「事件」とは・・・

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第三セクター「野岩鉄道」出発進行!番外編・下今市
2019-10-20

おやっ?と一瞬思ってしまうが、一応野岩繋りであるのと、元々野岩鉄道は国鉄今市が起点だったということで「今市繋り」で紹介してみようと思う。
先述している私が中学年時代に所属していたクラブ活動「鉄道研究クラブ」が発行していた「えき」という季刊紙に私は開通前の野岩鉄道の記事を寄せていた。それによると、もともとは国鉄野岩線として日光線の今市から新藤原を経由して会津線会津滝ノ原までをつなぐ凄絶な計画であった。が、ご覧の通り今市から新藤原までの区間は東武鬼怒川線と並走するためやや無理があるのかなと中学生時代に思っていたが、事実、今市~新藤原間は工事が施工されていなかったようだ。つまり、最初から東武鬼怒川線の新藤原を起点として会津滝ノ原と接続させようという構想で建設していたのだろう。
もちろん、仮に今市~新藤原をあえて並走させたとしても当時の国鉄では東武と対等に勝負できるかどうかは既に答えがでてしまう。

堂々たる駅舎の下今市。JR今市とはやや距離がある。駅前の雰囲気はやや地味な印象であるが日光方面と鬼怒川方面への分岐点としての活躍で利用者も多い。そして近年ではSLが運転されるようになり、何となく東武鉄道のイメージとはまた違う雰囲気を見せてくれる。
いずれにしても「鬼怒川イコール東武」というイメージは、現在の日光にも象徴されているように、野岩線も「野岩鉄道」として浅草から直通列車が運転された方が「ほっとスパ・ライン」がよりいっそうアピール出来るだろう。そんな世間の流れから野岩鉄道は電化の追加工事をしたはずだ。
今こそ「リバティ」が浅草より直通されるが、かつては快速列車しか直通しておらず、非常にもったいないと感じた。やはりスペーシアを延長させ湯西川温泉や川治温泉、そして会津高原くらいまで顔を出してもらうと、いっそう「ほっとスパ・ライン」が活きてくるのではないかとずっと感じていた。


SL運転に併せリニューアルされたホームはあまり東武を感じさせないイメージだ。
そんな変遷のある野岩鉄道は、私的には、下今市が起点のようなイメージがいつまでも、そして今でも感じる。もちろん、新藤原は正式な起点であるが、新藤原では東武と野岩鉄道の区別がハッキリせず、中間駅としての活躍が当たり前のように思えるのは、終点の会津高原尾瀬口も同じであろう。この野岩鉄道はそこが最大の特徴かも知れない。
いずれにしても一般のお客様からすれば目的地に着くのに運営会社がコロコロ変わるのはあまり関係ない事であろう。重要なのは料金や快適さ、乗車時間などで、新藤原で東武から野岩に変わる事を意識するのは我々レールファンぐらいであろう。





私的に、東武にSLとは信じられない風景であった。だが、下今市にはそんなイメージを払拭してしまう「証拠品」が数多く見られた。
もし国鉄➡JRで野岩線が運営されてたとしたらどんな風景となっていたであろう。会津線は間違いなく野岩線に編入されるか新たな路線名で野岩線とともに活躍したかも知れない。そして横浜や君津、上総一ノ宮発の会津田島や会津若松行きがあるかも知れない。ただ、JRの場合だとこれくらいの距離なら新幹線をプッシュするだろうから、ある意味観光列車的なカラーでの列車か運転されるかも知れない。いろいろ想像してしまうが、現在のシーンで考えるなら、やはり私はスペーシアに拘りたい。「リバティ」はかなり私の考えに近い形で実現しているが、やはり私はスペーシアで実現してほしい。そんな夢を描いていると、スペーシアは大きく弧を描き、鬼怒川方面にゆっくりと消えていった。

「リバティ」初遭遇であった。最初は「何だ?」と思っていたが、旅を続けていくにつれその全貌が明らかに。これぞ私がかねてから描いていた「スペーシア、野岩鉄道乗り入れ」が違う形で実現していたのだ。





そして鬼怒川に向け「スペーシア」が野岩鉄道に向け右に折れていった。ホームからかなりの至近距離での分岐は迫力を感じる。

という事で、野岩鉄道は明日に向け羽ばたく。ここ下今市からのレールが会津若松まで繋がっているという事があまりイメージできない雰囲気であるが、もちろん野岩鉄道を経由してこそ会津若松へ到達出来る。いいね、野岩鉄道!
第三セクター「野岩鉄道」出発進行!⑦ 川治温泉
2019-10-15

意外にも「玄関口」的な雰囲気を醸し出す駅舎内では「パートのおばちゃん」的な駅員さんが迎えてくれた。「おばちゃん」と言ってはかなり失礼かも知れないが、野岩鉄道ではパートタイマー社員と思われる駅員さんが各々の駅に配置されている。イメージ的にはスーパーなどでレジを打つ感覚でのパートなのだろうか。もしそうなら私もぜひフルタイムで働いてみたい。
ただ、野岩鉄道の各駅で入場券を買うとレシートタイプで渡されるので何となく味気ないが、それでも野岩鉄道各駅で駅員がいるという事は凄いと思う。

だが、さすが「温泉」を名乗るだけあって、私の訪問時には下車客が多く見られた。地元の方というよりは観光的要素を含むファミリータイプの下車がほとんどで、またまた狙ったわけではないがではないが、普通列車同士の交換風景が見られた。その列車からの下車客であったが、やはら夏休みということもあり、こうした風景が見られるのはほのぼのとするが、駅舎を出ると意外にも若いカップルが送迎車を待つ風景がみられた。今やインターネット時代。素敵な宿をクリックひとつで検索する事ができる。川治温泉にやって来るとはなかなか渋いカップルではないか。いや、マイカー等でも不特定多数の若いカップルが川治温泉に訪れているかも知れないが・・・

さて、今回の記事を寄せるにあたって、私が中学時代に所属していた「鉄道研究クラブ」で発行していた「えき」という季刊誌を久々に引っ張り出し参考にしてみた。というのも、先述通り、私はこの季刊誌の編集長をしており、尚且つ野岩鉄道の記事を寄せているのだが、今読んでみると物凄い内容が書かれていた、というより、自身で調べて書いた記事にも関わらず、約36年の月日が流れ久々にみた自身の記事には、まるで自身が書いた記事とは思えないくらい「こんな記事を書いていたんだ」と思わされるほどの内容であった。
まず、「仮称」とされていた当時の駅名に驚いた。当時「仮称」とされていた駅名をそのまま現在の駅名になったのは、起点・終点を含めたったの2駅であった。そのひとつが今回紹介している川治温泉である。やはり当時からこの駅と五十里湖(仮称、現・湯西川温泉)は観光的な拠点にしようという思惑が見え隠れする大人の事情が当時は全くわからないまま記事にしていた。

かなり大きく掲載してしまったが、1981年会社設立当時のレールマップ。これは私が野岩鉄道から資料を取り寄せ、私が中学時代に所属していた「鉄道研究クラブ」で発行していた季刊誌「えき」の記事の一部で野岩鉄道を紹介している物である。実はこの記事は私が書いたもので、このマップも野岩鉄道野資料を元に描いたものだ。だが・・・ほとんど記憶に無い!
つまり「温泉」と仮称時代から駅名が設定されていたのはここ川治温泉のみであるが、開通前から当然ながら観光的要素の期待が込められている事が覗える。余談であるが、この野岩鉄道の記事を寄せている季刊誌の裏表紙には「青函トンネル・先進導坑が貫通!」という大ニュースを最大にアピールした私の記事も掲載されていた。当時、中学生の私自身が寄せた記事なのに記憶が薄く若干新鮮に目に飛び込んでくるシーンは、今も昔も変わらず鉄道を愛する自身への確認作業でもあったかも知れない。



正直言って思いつきで行った旅であったが、だからこその発見があったのかも知れない。だが、地元の方以外でこの駅に寄り温泉にいかないのは私くらいであろうか・・・

駅舎内は意外にもモダンというか、いかにも観光駅らしい雰囲気を醸し出していた。ただ、やはり手前の鬼怒川に比べたらややひっそりした印象である。








ここ川治温泉でも偶然ながら列車交換風景が見られた。夏休みともあって温泉方面へ行くと思われる乗客が数名下車。中には若いカップルも。

名前は分からないが、駅前にはでっかい山が。というか、野岩鉄道はとにかく山、山、山の印象。だが、こうした雰囲気の温泉に将来普通に来れる男にないたい気もする。

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第三セクター「野岩鉄道」出発進行! ⑥ 中三依温泉
2019-10-10

とにかく沿線には温泉が多く野岩鉄道、そして地元の方々もかなりアピールに力を入れていると思われるが、どうしても手前に「鬼怒川」がそびえ立ち、ある意味地味な印象を受けてしまうのは少々残念ではある。だが逆に「フルムーン」「ファミリー」的な立場の方には落ち着いた雰囲気を楽しめて良いかも知れない。
特に中三依温泉はそんな雰囲気を持ち合わせていると思われるが、駅としてはかなりシンプルで、島式ホーム一本となっている。私が訪問した時間帯は駅員不在であったが、雰囲気的に全ての時間帯で駅員はいないのであろう雰囲気であった。駅前もひっそりとしており、いわゆる私好みの駅であったのはある意味嬉しい発見であった。

そして何より、狙ったわけではないがまたまたホームにあがり暫くすると「リバティ」同士の列車交換風景が拝めたのは偶然の賜物だった。先述通り、以前から私が叫んでいた「スペーシア野岩鉄道へ延伸!」が別の形で実現したのを目の当たりにした瞬間でもあった。どうせなら東京メトロ・東横線経由で「みなとみらい発」「綱島発」なんていうのも有りかも知れない。もちろん、そのためには多額の投資が必要であろうか。
だが、かつて国鉄時代では大船で房総特急「わかしお」などが出現した時にはかなり驚愕な風景だった。そんな風景を横浜周辺で今の時代に目にしたら、大人の驚愕風景を見れるかも知れない。




レールではなく、別の手段での訪問は実に良い。ただ、鉄道会社には貢献できなくて申し訳ない思いであるが・・・野岩鉄道では有人駅がほとんどであるが、男鹿高原に続きこちらも駅員のいる風景ではなかった。





島式ホーム1本のシンプル風景。設立時期がほぼ同じかも知れないが、何となく三陸鉄道の風景に似ているような気がする。



そして島式ホームの両側にリバティが入線してきた!全く偶然のタイミングであったが、こうして揃ってのお目見えは今回の訪問で初の出来事であった。これがスペーシアだったら尚更輝いた風景であったかも知れない。

こんな体験も出来る中三依温泉であるが、やはり手前の鬼怒川温泉の華やかさに比べやや地味なイメージがある。

野岩鉄道での無人駅は珍しい部類になる。逆に華やか過ぎても野岩鉄道らしくないのかも知れないが・・・
第三セクター「野岩鉄道」出発進行!⑤ 湯西川温泉
2019-10-05

レールファンの間ではトンネル駅として有名であるが、道の駅と併設され、更にスパ施設もあるのがここ湯西川温泉である。欲を言えば簡易宿泊施設があると尚結構であるが、宿泊施設なら文字通り周囲に豊富にあろう。
駅としては棒線形の1面1線で小規模であるが、山岳地帯という地形的制約の関係からトンネル内に駅を作ったと思われる。事実、駅を出るとすぐに鉄橋があり、野岩鉄道の敷設の際の自己主張が見受けられる。
敷設の際、当初の計画ではDCによる旅客列車が10往復と中三依くらいの途中駅と今市間の区間列車が2往復程度予定されていた。だが今はどうだろう。野岩鉄道線内どころか隣の会津鉄道の会津田島までもが電化されている。この事ひとつとってもいかに野岩鉄道が期待されていたかおわかり頂けると思う。


「五十里湖」の駅名で開業予定であったが、いわゆる「ほっと・スパライン」をプッシュする関係から現在の駅名に変更されて開業したのであろう。もちろん、目の前には五十里湖が広がる。
ところで湯西川温泉のホームであるが、とにかく涼しい。真夏の蒸し暑い日に今回私は訪問したが、駅舎からホームにつながる通路に入った途端にひんやりする。冷房設備が見当たらなかったので、恐らくトンネル内という恩恵を受けての事であろう。
その通路では野岩鉄道全駅の写真などが掲示されており「手造り」的な微笑ましい光景が見られる。
いずれにしても四季問わず素敵な風景を魅せてくれる湯西川温泉。いつまでも目が離せない存在であろう。




駅舎より早速ホームへと繋がる通路を通ると、各駅の写真が展示されていた。そしてトンネルを抜けるとそこは・・・






トンネルを抜けるとそこはプラットホームであった。だが、そこはトンネル内であった・・・


ここは単なるトンネル駅ではなかった。土合や筒石のように長い階段を伝うだけでなく、なんとエレベーターという選択肢もあるのだ!


駅前に戻ってみると、これ、なって言いましたっけ・・・水陸両用のバスが待ち構えていた。さすが夏休み!

トンネルが終わるとすぐ鉄橋とは・・・野岩鉄道がいかにルートに対し自己主張しているかがよくわかる光景だ。

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