更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>⑧
2019-11-30
島原半島の西側のバスで通り諫早に向かうが、途中小浜温泉を通る。高校時代の修学旅行でこの小浜温泉に宿泊したが・・・何か見た景色。そう、実は1978年に寝台特急「富士」に乗った時の旅の行程でここ、小浜温泉に宿泊したのだ。しかも宿泊先の景色も何だか見たような・・・もしかしたら同じ宿泊先を利用したのかもしれない。何だか懐かしさを感じる。なんとなく小学生時代のクラスメイトにでも再会したような・・・かつて家族旅行で訪問した時の記憶が蘇ってきた。

(島鉄バスはウィキペディアよりの画像。砂浜沿いにある小浜温泉は修学旅行でも参戦したが、久々の訪問でも以前と変わらぬ姿で私を迎えてくれた。)
なんて過去の記憶に浸っているのも良いが、バスは既に5~6分遅れて運転されている。小浜温泉を過ぎた頃には完全に我々の貸切バスになってしまった。諫早が近づいても乗客は増えもしなければ減りもしない。そう、完全に貸切のまま諫早駅に到着した。時間的に確か15~20分くらい遅れて到着した。予定していた大村線は既に出発してしまい、予定の列車より1本後の列車で本日の宿泊先に向かう。という事で待ち時間が40分くらいあるので駅舎内にあるミスドーに身を任せた。私がミスドーとは・・・なんとなく「月と鼈(すっぽん)」ではあるが、逆に国鉄時代には考えられない風景であった。駅舎内にファーストフード的な店舗が軒を構えるとは。私のよな人物がドーナツを頬張りながら列車を待つとは・・・1980年代の自分にはありえない光景だ。まずドーナツを食べるという概念が、いや習慣が無い。実に不思議な体験・・・今までの私に無い文化であるが、若干ながらリニューアルされてはいるものの昔ながらの駅舎やホームは風情豊かだ。その中になるミスドー・・・私的には実に異次元空間に感じた。

(今回の旅は写真が少ないためウィキの力を拝借する機会が多い。諫早駅は若干のリニューアルこそあるものの、ほとんど昔のままの姿を感じる事ができる。)
さて、大村線に揺られ宿泊先へ向かう。大村線と言えばご存知、旧・長崎本線のルートであった路線だ。1980年代までは夜行普通列車「ながさき」が大村線経由で運転されており、旧・長崎本線の伝統を守る唯一の列車でもあった。長崎~門司港間で運転されていた夜行普通列車「ながさき」は、途中の早岐で佐世保行(発)の列車が分割・併合されていた。長崎本線の分割・併合と言えば「肥前山口」が当たり前の現在、かつてのSL時代ではこの早岐が非常に重要なポジションであった。佐世保線が早岐でスイッチバックの形をとっているのはそのためである。

(こちらもウィキよりの画像で「シーサイドライナー」。長崎と佐世保を結ぶ重要な路線である大村線は、かつて長崎本線であった事は周知の通りである。)
その大村線も現在は「シーサイドライナー」なる快速列車が運転され、佐世保と長崎を結ぶ重要な役割を担っている。そして、更に大きな変化が加わったと言えばあの「ハウステンボス」であろう。私の今回の宿泊地でもある「ハウステンボス」は、オランダ的なテーマパークとして度々ドラマやCMなどにも登場する。そう、今回の旅の中では最大のイベントとなったこのハウステンボスを体験する事・・・これもかつての私の概念には無かった事だ。妻を同伴するようになり、こうした観光的な要素も取り入れないとある意味クレームが来そうなので、あえてこうして予定に組み込んだが・・・お楽しみは翌日にし、本日は宿泊先の「ハウステンボス」で一足先に欧風の文化に触れながら束の間の安らぎを求めていった。

オランダ的なテーマを持つハウステンボス。経営再建に向け現在進行形であるが、こういったイベントものを私の鉄道旅に取り入れる事になったのは近年の事。鉄道ばかりの旅も良いが、このような事を旅の行程に組み込む事もある意味良いかも知れない。画像はウィキより。)

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(島鉄バスはウィキペディアよりの画像。砂浜沿いにある小浜温泉は修学旅行でも参戦したが、久々の訪問でも以前と変わらぬ姿で私を迎えてくれた。)
なんて過去の記憶に浸っているのも良いが、バスは既に5~6分遅れて運転されている。小浜温泉を過ぎた頃には完全に我々の貸切バスになってしまった。諫早が近づいても乗客は増えもしなければ減りもしない。そう、完全に貸切のまま諫早駅に到着した。時間的に確か15~20分くらい遅れて到着した。予定していた大村線は既に出発してしまい、予定の列車より1本後の列車で本日の宿泊先に向かう。という事で待ち時間が40分くらいあるので駅舎内にあるミスドーに身を任せた。私がミスドーとは・・・なんとなく「月と鼈(すっぽん)」ではあるが、逆に国鉄時代には考えられない風景であった。駅舎内にファーストフード的な店舗が軒を構えるとは。私のよな人物がドーナツを頬張りながら列車を待つとは・・・1980年代の自分にはありえない光景だ。まずドーナツを食べるという概念が、いや習慣が無い。実に不思議な体験・・・今までの私に無い文化であるが、若干ながらリニューアルされてはいるものの昔ながらの駅舎やホームは風情豊かだ。その中になるミスドー・・・私的には実に異次元空間に感じた。

(今回の旅は写真が少ないためウィキの力を拝借する機会が多い。諫早駅は若干のリニューアルこそあるものの、ほとんど昔のままの姿を感じる事ができる。)
さて、大村線に揺られ宿泊先へ向かう。大村線と言えばご存知、旧・長崎本線のルートであった路線だ。1980年代までは夜行普通列車「ながさき」が大村線経由で運転されており、旧・長崎本線の伝統を守る唯一の列車でもあった。長崎~門司港間で運転されていた夜行普通列車「ながさき」は、途中の早岐で佐世保行(発)の列車が分割・併合されていた。長崎本線の分割・併合と言えば「肥前山口」が当たり前の現在、かつてのSL時代ではこの早岐が非常に重要なポジションであった。佐世保線が早岐でスイッチバックの形をとっているのはそのためである。

(こちらもウィキよりの画像で「シーサイドライナー」。長崎と佐世保を結ぶ重要な路線である大村線は、かつて長崎本線であった事は周知の通りである。)
その大村線も現在は「シーサイドライナー」なる快速列車が運転され、佐世保と長崎を結ぶ重要な役割を担っている。そして、更に大きな変化が加わったと言えばあの「ハウステンボス」であろう。私の今回の宿泊地でもある「ハウステンボス」は、オランダ的なテーマパークとして度々ドラマやCMなどにも登場する。そう、今回の旅の中では最大のイベントとなったこのハウステンボスを体験する事・・・これもかつての私の概念には無かった事だ。妻を同伴するようになり、こうした観光的な要素も取り入れないとある意味クレームが来そうなので、あえてこうして予定に組み込んだが・・・お楽しみは翌日にし、本日は宿泊先の「ハウステンボス」で一足先に欧風の文化に触れながら束の間の安らぎを求めていった。

オランダ的なテーマを持つハウステンボス。経営再建に向け現在進行形であるが、こういったイベントものを私の鉄道旅に取り入れる事になったのは近年の事。鉄道ばかりの旅も良いが、このような事を旅の行程に組み込む事もある意味良いかも知れない。画像はウィキより。)

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>⑦
2019-11-25
博多から「白いかもめ」に乗り一気に諫早に向かった。初めて乗る885系は実に新鮮。もちろん狙っての乗車であったが、「西九州フリーきっぷ」のため「指のみ(指定席料金不要で座席指定できる旅行会社の業界用語)」で乗車できる。そう、そういえば言い忘れていたが、今回の九州の旅は旅行会社オリジナルのフリーきっぷである。長崎方面がフリーのため特急も指定席料金不要で乗車できる。もちろん予め座席指定を申し出るのであるが、指定席が料金不要とは「ワイド周遊券」よりも非常に優越感を得る感じがする。そして885系と言えば、あのアザラシみたいな愛嬌あるフォルムはお馴染みの「あの人」がデザイン。実にJR九州らしい車体である。

(博多から「白いかもめ」で諫早に向かう。885系初体験の私は実にワクワクしていた。)
諫早からは早速島原鉄道を体験する。その模様はこちらで紹介しているが、ハッキリ言って島原までは「女学生」達で犇めき合っていた。だが、廃線予定区間(当時)に入ると我々の貸切状態であった。だが、風景は実に良い!我々レールファンが最も好む普段のローカルな鉄道風景が延々と展開されていた。ただ、乗車したのは私のイメージしていた「国鉄形車両」ではなく、近年に流行したレールバス風のDCであった。「残念」と言ってしまっては申し訳ないが、やはりあの往年の車両で加津佐まで行ってみたかったというのが私の本音であった。だが「レールバス風」でも島原を体験できただけでも今や貴重なものとなってしまった。ただ、加津佐駅の駅舎は現在でもバスの待合室のような形で使われているらしい。それだけでも将来的には「文化遺産」的存在になるかも知れない。

(加津佐に着く頃には既に辺りが暗くなり始めていた。DCで折り返すよりバスで島原半島の西側を行く方が所用時間が1時間くらい短い。しかも島原鉄道のフリーきっぷでバスも乗車できる!実に経済性が良い!)
さて、加津佐に着いた私は再び諫早に戻るため路線バスに揺られることにした。あえて列車では折り返さずに小浜温泉経由で島原半島を一周する形を選択したのだ。なぜか・・・それは島原鉄道のフリーきっぷにあった。温泉も利用できるこのフリーきっぷは、同じく島原鉄道が運営する路線バスも「乗り放題」であったからだ。そう、たまには路線バスで街の風景を楽しむのもいいではないか。そんな選択が後々に冷や汗をかく事になろうとは、この時想像すらしなかった。

(2代目であろう駅舎は現在も路線バスの待合室のような形で使用されていると聞いた。末永く残ってもらいたいものであるが・・・)
路線バスは学校帰りの生徒たちでほぼ満員御礼であったが、ちょっと待った。この学生諸君たちは実に爽やかで礼儀正しい。そして何より、私たちが乗車してくると自分の席を立ち、そして我々に譲ってくれようとしているではないか!って、言い方は宜しくないかもしれないが、まだまだ私は席を譲っていただくような年齢ではないと自身では思っているが・・・それより、そうした学生諸君の気持ちが嬉しいではないか!座席の事だけでなく、他にも周りの人への気遣いやマナーなど、大変に教育されていると言ってはおかしいが、というより、自身が心からそういう行動をしているようで素晴らしい。路線バスひとつでもこうした体験ができたのであるからこの旅を計画し実行した甲斐があったしレールファン冥利に尽きるのではないか、とさえ感じてしまった。
さて・・・現在、島原半島の西側のバス乗車シーンを紹介しているが、あくまで「路線バス」である。そう、まるで「太川陽介」のような気分であるが、列車よりも時間の正確さに劣るのが気になるところである。その「気になるところ」が現実になってしまった・・・しかもこれから諫早に向かい、更に大村線でハウステンボスの宿泊地へ向かう予定だ。果たして間に合うのか・・・

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(博多から「白いかもめ」で諫早に向かう。885系初体験の私は実にワクワクしていた。)
諫早からは早速島原鉄道を体験する。その模様はこちらで紹介しているが、ハッキリ言って島原までは「女学生」達で犇めき合っていた。だが、廃線予定区間(当時)に入ると我々の貸切状態であった。だが、風景は実に良い!我々レールファンが最も好む普段のローカルな鉄道風景が延々と展開されていた。ただ、乗車したのは私のイメージしていた「国鉄形車両」ではなく、近年に流行したレールバス風のDCであった。「残念」と言ってしまっては申し訳ないが、やはりあの往年の車両で加津佐まで行ってみたかったというのが私の本音であった。だが「レールバス風」でも島原を体験できただけでも今や貴重なものとなってしまった。ただ、加津佐駅の駅舎は現在でもバスの待合室のような形で使われているらしい。それだけでも将来的には「文化遺産」的存在になるかも知れない。

(加津佐に着く頃には既に辺りが暗くなり始めていた。DCで折り返すよりバスで島原半島の西側を行く方が所用時間が1時間くらい短い。しかも島原鉄道のフリーきっぷでバスも乗車できる!実に経済性が良い!)
さて、加津佐に着いた私は再び諫早に戻るため路線バスに揺られることにした。あえて列車では折り返さずに小浜温泉経由で島原半島を一周する形を選択したのだ。なぜか・・・それは島原鉄道のフリーきっぷにあった。温泉も利用できるこのフリーきっぷは、同じく島原鉄道が運営する路線バスも「乗り放題」であったからだ。そう、たまには路線バスで街の風景を楽しむのもいいではないか。そんな選択が後々に冷や汗をかく事になろうとは、この時想像すらしなかった。

(2代目であろう駅舎は現在も路線バスの待合室のような形で使用されていると聞いた。末永く残ってもらいたいものであるが・・・)
路線バスは学校帰りの生徒たちでほぼ満員御礼であったが、ちょっと待った。この学生諸君たちは実に爽やかで礼儀正しい。そして何より、私たちが乗車してくると自分の席を立ち、そして我々に譲ってくれようとしているではないか!って、言い方は宜しくないかもしれないが、まだまだ私は席を譲っていただくような年齢ではないと自身では思っているが・・・それより、そうした学生諸君の気持ちが嬉しいではないか!座席の事だけでなく、他にも周りの人への気遣いやマナーなど、大変に教育されていると言ってはおかしいが、というより、自身が心からそういう行動をしているようで素晴らしい。路線バスひとつでもこうした体験ができたのであるからこの旅を計画し実行した甲斐があったしレールファン冥利に尽きるのではないか、とさえ感じてしまった。
さて・・・現在、島原半島の西側のバス乗車シーンを紹介しているが、あくまで「路線バス」である。そう、まるで「太川陽介」のような気分であるが、列車よりも時間の正確さに劣るのが気になるところである。その「気になるところ」が現実になってしまった・・・しかもこれから諫早に向かい、更に大村線でハウステンボスの宿泊地へ向かう予定だ。果たして間に合うのか・・・

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>⑥
2019-11-20
前章では博多南と原田で随分スペースをとてしまったが、お陰様で「長期連載」が確定してしまったようなものだ。という事で早速話を先に進めよう。

(桂川ではご覧の通り、通勤時間帯に遭遇。時間帯からやや外れているとは言え、ここは大都市近郊。とてもかつての「石炭」のイメージは無い。)
桂川に出た私は篠栗線で長者原に向かった。そう、香椎線を制覇するためだ。この「長者原」であるが、国鉄時代には無かった駅だ。その歴史についてはこの場であえて触れなくても皆様の方がご存知であろう。だが、この長者原の役割は非常に大きく、逆に何故国鉄時代に作らなかったのか不思議でしょうがないくらいだ。最近は「武蔵小杉」にも横須賀線(正式な名称ではない)が停車するようになった。それを考えるとこの長者原は逆に「運命」だったのであろう。それを象徴するかのように、この駅の利用者は実に多い。開業当時は篠栗線・香椎線とも棒線ホームであったが、篠栗線ホームは電化と同時に島式ホームに変身した。そんな長者原で香椎線に乗り換える。事前調査では十字クロスの立体交差と知っていたため3分の乗り換えは余裕であろうと思っていた。ところが・・・いざ実行してみると、香椎線のホームに着いた途端に列車が入線してきた!言い方を変えれば計算された乗り換え時間と言いたいところであるが、つまりギリギリという表現が正解であろう。

(画像はウィキより。香椎線のホームから篠栗線を望む長者原駅の風景。国鉄時代には実現しなかった駅設置であったが、JR化されたからこそ実現したのであろう。今では利用者数的にも要衝の位置にある。)
香椎線は時刻表では国鉄時代に比べ格段に列車本数が増加したが、実際には非電化のまま、昔のままの雰囲気を残していた。篠栗線から香椎線に乗り換えると若干のギャップがある。まずは宇美へ。宇美と言えば、かつてはご存知、勝田線との接続駅であった。勝田線とは100mくらい離れていたが、勝田線の宇美駅は終点ではなく、隣の筑前勝田が終点であった。懐かしい・・・私は訪問できずに終わってしまったが、あの網の目のような北九州の路線網の中で実に印象深かった宇美駅。香椎線の宇美駅は、現在はかなり規模が縮小されややコンパクトになった印象だ。

(かつては勝田線との接続駅であった宇美。勝田線とは100mくらい離れていたが、もし現存していたら博多まで乗り換えなしの直通列車で便利であったろう。ただ、廃止当時は併走する路線バスに押されていたのも確かな事実だ。)
そして折り返して今度は西戸崎に向かった。もちろんさっき乗り換えた長者原を通り過ぎる。西戸崎を折り返して香椎で鹿児島本線に乗り換え博多へ向かった。乗り潰しならではの行動が象徴されるシーンだ。だがこの博多からこの旅の第2章が始まる。そう、私が今回の旅のテーマを「九州」と決めた理由・・・それは「島原鉄道」にあった。島原外港~加津佐間が廃止されるとの情報を受け「ならば」と思い立ったからだ。当時はレールファンを復活してまだ日が浅かったが、もちろんこの島原鉄道の事情は知っている。だからレールファン休業時代の空白を埋めるのにそう時間はかからなかった。しかしながら未開の地。いったいどんな列車が私を待っているのであろう。博多から「白いかもめ」に揺られながら「まだ見ぬ恋人」に会うかのような思いであった。

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(桂川ではご覧の通り、通勤時間帯に遭遇。時間帯からやや外れているとは言え、ここは大都市近郊。とてもかつての「石炭」のイメージは無い。)
桂川に出た私は篠栗線で長者原に向かった。そう、香椎線を制覇するためだ。この「長者原」であるが、国鉄時代には無かった駅だ。その歴史についてはこの場であえて触れなくても皆様の方がご存知であろう。だが、この長者原の役割は非常に大きく、逆に何故国鉄時代に作らなかったのか不思議でしょうがないくらいだ。最近は「武蔵小杉」にも横須賀線(正式な名称ではない)が停車するようになった。それを考えるとこの長者原は逆に「運命」だったのであろう。それを象徴するかのように、この駅の利用者は実に多い。開業当時は篠栗線・香椎線とも棒線ホームであったが、篠栗線ホームは電化と同時に島式ホームに変身した。そんな長者原で香椎線に乗り換える。事前調査では十字クロスの立体交差と知っていたため3分の乗り換えは余裕であろうと思っていた。ところが・・・いざ実行してみると、香椎線のホームに着いた途端に列車が入線してきた!言い方を変えれば計算された乗り換え時間と言いたいところであるが、つまりギリギリという表現が正解であろう。

(画像はウィキより。香椎線のホームから篠栗線を望む長者原駅の風景。国鉄時代には実現しなかった駅設置であったが、JR化されたからこそ実現したのであろう。今では利用者数的にも要衝の位置にある。)
香椎線は時刻表では国鉄時代に比べ格段に列車本数が増加したが、実際には非電化のまま、昔のままの雰囲気を残していた。篠栗線から香椎線に乗り換えると若干のギャップがある。まずは宇美へ。宇美と言えば、かつてはご存知、勝田線との接続駅であった。勝田線とは100mくらい離れていたが、勝田線の宇美駅は終点ではなく、隣の筑前勝田が終点であった。懐かしい・・・私は訪問できずに終わってしまったが、あの網の目のような北九州の路線網の中で実に印象深かった宇美駅。香椎線の宇美駅は、現在はかなり規模が縮小されややコンパクトになった印象だ。

(かつては勝田線との接続駅であった宇美。勝田線とは100mくらい離れていたが、もし現存していたら博多まで乗り換えなしの直通列車で便利であったろう。ただ、廃止当時は併走する路線バスに押されていたのも確かな事実だ。)
そして折り返して今度は西戸崎に向かった。もちろんさっき乗り換えた長者原を通り過ぎる。西戸崎を折り返して香椎で鹿児島本線に乗り換え博多へ向かった。乗り潰しならではの行動が象徴されるシーンだ。だがこの博多からこの旅の第2章が始まる。そう、私が今回の旅のテーマを「九州」と決めた理由・・・それは「島原鉄道」にあった。島原外港~加津佐間が廃止されるとの情報を受け「ならば」と思い立ったからだ。当時はレールファンを復活してまだ日が浅かったが、もちろんこの島原鉄道の事情は知っている。だからレールファン休業時代の空白を埋めるのにそう時間はかからなかった。しかしながら未開の地。いったいどんな列車が私を待っているのであろう。博多から「白いかもめ」に揺られながら「まだ見ぬ恋人」に会うかのような思いであった。

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>⑤
2019-11-15
翌日の朝、宿泊先を後にした私は乗り鉄「らしい」行動に出る。博多から単発の乗り潰し・・・そう「博多南線」だ。博多南線と言えばご存知、新幹線の車庫への引き込み線である。その車庫の片隅にホームを設け、旅客輸送に充てようというスグレモノ。一見「副収入」のようにも思えるが、ウィキで乗車人員を確認したらなんと1万2千人くらいの人が1日平均で利用しているではないか!これは驚きであった。もちろん博多近郊とあって通勤客がほぼ占めている事であろうが、JRもこの数値をある程度予想していたのかという疑問が生まれた。私の予想だともう少し低い数値で見積もっていたと思われるが、私自身が実際に体験して納得した。

(博多南へ向かった列車はご覧の車両であった。撮影は博多南から折り返し博多駅を下車して撮影したものであるが、まさかこれが0系最後の体験となるとは思わなかった。)
博多から博多南へ向かう列車はJR西カラーの「0系」であった。いずれこの車両はなくなるとは感じていたが、私の予想よりも早い時期にそれは訪れてしまった。晩年は初期カラーへ塗装し直し、自身の晩年に華を飾った。0系は、私の世代だと新幹線のイメージそのもの。幼少時代から植えつけられた斬新なフォルムは実に印象深く憧れの存在でもあった。そんな列車が引退していく・・・時代の変化とともに新陳代謝の激しい新幹線は、あの500系までも「こだま専用」のような存在になってしまった。博多南線は非常に短い区間であるが、そんな新幹線の歴史を改めて教えてくれた。

(画像はウィキペディアより、博多南駅。ご覧の通り、新幹線の車庫に隣接する形となっているが博多近郊にあるため「回送などを使う」という発想は実に効率が良いかも知れない。いかにも「北綾瀬」的な考え方だ。
博多南へ向かう列車は全く持って回送状態。私以外の乗客が見当たらないから新幹線の歴史などを車窓に投影してしまうのだが・・・折り返す列車は多分たくさん乗客が乗ってくるだろうなぁとある程度予想していた。「今のうちに(座席の)いい場所を確保しておこう!」と私は座席を物色しだした。そして博多南に近づくと、予想通りとんでもない光景が私を待っていた。片面しかないホームには人・人・人!!スーツ姿の男女がホーム一面に群れをなしていた。「どーですか!お客さん」とでも言わんばかりの人間の山。回送がてらの車両を利用してお客様が利用するのだからこれほど効率よく利益を出せる商品はない!行きは貸切状態の列車であったが、帰りは自由席が立ち席客が出るほどであった。おかげで駅名標を撮影し損ねたではないか!私は通勤客のひとりとなって博多へ折り返した。

(博多からはこんな車両で原田に向かった。JR化後の車両であるから私には全く形式とか特徴が分からない。だが、非常に乗り心地がよく、デザインも「あの人」がなされたであろう印象が。)
博多南線を制覇すると、今度は普通列車で原田へ向かった。そう、あの「筑豊本線」に乗車するためだ。筑豊本線が原田から出ているのはこのご時世に不思議な現象になってしまった。今から50年位前まではこの事象で正解であったのだが、21世紀の風景にはとても似合わない。というより役割がない。だが、現在還暦や古希をお迎えになられた方なら筑豊本線のこの区間の盛栄時代をご存知かも知れない。私の場合はDLが旧型客車を牽引するローカルな姿は中学生頃であった。そんな哀愁漂う筑豊本線の現在はDCの一両編成単行であるが、車両は変われど、なんというか雰囲気とかは昔のままであろう。というよりローカル線の基本のようなものかも知れない。

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(博多南へ向かった列車はご覧の車両であった。撮影は博多南から折り返し博多駅を下車して撮影したものであるが、まさかこれが0系最後の体験となるとは思わなかった。)
博多から博多南へ向かう列車はJR西カラーの「0系」であった。いずれこの車両はなくなるとは感じていたが、私の予想よりも早い時期にそれは訪れてしまった。晩年は初期カラーへ塗装し直し、自身の晩年に華を飾った。0系は、私の世代だと新幹線のイメージそのもの。幼少時代から植えつけられた斬新なフォルムは実に印象深く憧れの存在でもあった。そんな列車が引退していく・・・時代の変化とともに新陳代謝の激しい新幹線は、あの500系までも「こだま専用」のような存在になってしまった。博多南線は非常に短い区間であるが、そんな新幹線の歴史を改めて教えてくれた。

(画像はウィキペディアより、博多南駅。ご覧の通り、新幹線の車庫に隣接する形となっているが博多近郊にあるため「回送などを使う」という発想は実に効率が良いかも知れない。いかにも「北綾瀬」的な考え方だ。
博多南へ向かう列車は全く持って回送状態。私以外の乗客が見当たらないから新幹線の歴史などを車窓に投影してしまうのだが・・・折り返す列車は多分たくさん乗客が乗ってくるだろうなぁとある程度予想していた。「今のうちに(座席の)いい場所を確保しておこう!」と私は座席を物色しだした。そして博多南に近づくと、予想通りとんでもない光景が私を待っていた。片面しかないホームには人・人・人!!スーツ姿の男女がホーム一面に群れをなしていた。「どーですか!お客さん」とでも言わんばかりの人間の山。回送がてらの車両を利用してお客様が利用するのだからこれほど効率よく利益を出せる商品はない!行きは貸切状態の列車であったが、帰りは自由席が立ち席客が出るほどであった。おかげで駅名標を撮影し損ねたではないか!私は通勤客のひとりとなって博多へ折り返した。

(博多からはこんな車両で原田に向かった。JR化後の車両であるから私には全く形式とか特徴が分からない。だが、非常に乗り心地がよく、デザインも「あの人」がなされたであろう印象が。)
博多南線を制覇すると、今度は普通列車で原田へ向かった。そう、あの「筑豊本線」に乗車するためだ。筑豊本線が原田から出ているのはこのご時世に不思議な現象になってしまった。今から50年位前まではこの事象で正解であったのだが、21世紀の風景にはとても似合わない。というより役割がない。だが、現在還暦や古希をお迎えになられた方なら筑豊本線のこの区間の盛栄時代をご存知かも知れない。私の場合はDLが旧型客車を牽引するローカルな姿は中学生頃であった。そんな哀愁漂う筑豊本線の現在はDCの一両編成単行であるが、車両は変われど、なんというか雰囲気とかは昔のままであろう。というよりローカル線の基本のようなものかも知れない。

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>④
2019-11-10
田川後藤寺から再び日田彦山線に乗り夜明に行く。んっ?夜明?事情を知らない方がこの記事を読んだら意味不明であろう。そう、日田彦山線の終点の駅は「夜明」というのだ。なんともロマンチックな駅名であろう。だが、私はそれほどロマンティストでもないし、この駅で「夜明け」を待っていたらそれこそ明日の行程が狂ってしまう。それを象徴するかのように、この駅では3分の乗り換えである。自身が決めた事だし、それにさほど大きな駅では無いから3分もあれば余裕で乗り換えられると思っていた。だが・・・夜明に着き運転手に切符を見せると「列車の乗り換えをしますか?」と聞かれた。私はうなずくと、どうやら交換列車に連絡をしたみたいだ。

(見よ、このブレ具合!たった3分の乗り換え時間の中で収めた駅名標であるが、ホームの有効長が長く、跨線橋もホームの端にあるためこの3分という乗り換え時間が短いくらいだ。というより、この夜明駅についた頃は「夜明」ではなく「夕暮れ」であった。)
そしていざ乗り換えをすると、その「連絡」の意味がわかった。そう、かつての名残からか、1両・2両編成の普通列車にはとても持て余すほど有効長があるホームでの乗り換えはやたらと歩く距離が長い。しかもホームの先端に跨線橋があるためなおさらだ。もちろん「3分」という時間で間に合わなくはない。しかしながら、我々はやたら小走りになり階段も駆け足で上がった。乗り換える側の列車が、私たちが列車に乗った事を確認するとドアを閉めた。3分という時間内で乗り換えができたが、なんとなくのギリギリ感で皆様を待たせてしまった印象であった。

(画像はウィキより。私の訪問時と塗装は違うが形式は同じであるDC。車内は明るく「らしい」デザインであるが、訪問時は下校時間とぶつかり、満員御礼であった。)
日田彦山線の列車は「国鉄型」であったが、乗り換える久大本線は「JR式」であった。黄色い車体の箱は高校生で満員御礼である。だが、なぜか2名用のボックス席が空いていた。まるで私たちを待っていたかのように。高校生達は皆立っている中、私たちは申し訳ない気持ちでその座席についた。クッションではなく木製の座席だ。ハーフボックス席とでも言おうか、2名だけの「個室」のような独特の空間。北九州独特の「なまり」を放つ高校生の会話をBGMに我々は久留米を目指す。久留米からは普通列車で鳥栖まで移動。鳥栖より「リレーつばめ」で博多に向かった。この「鳥栖よりリレーつばめ」というのがなかなか渋い。まるで木戸修の「脇固め」のようにキラキラ光る!そう、それは「いぶし銀」のように・・・と、自己満足の世界に浸りながら本日の宿となる博多で下車。そして私たちは九州最大の街のネオンに消えていった。

(そして同じくウィキよりの画像。久大本線の下校ラッシュ時の中、ご覧の席が私たちを迎えてくれた。なんというか、夜明のような地味な駅からの乗車でよく座席が空いていたものだ。)

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(見よ、このブレ具合!たった3分の乗り換え時間の中で収めた駅名標であるが、ホームの有効長が長く、跨線橋もホームの端にあるためこの3分という乗り換え時間が短いくらいだ。というより、この夜明駅についた頃は「夜明」ではなく「夕暮れ」であった。)
そしていざ乗り換えをすると、その「連絡」の意味がわかった。そう、かつての名残からか、1両・2両編成の普通列車にはとても持て余すほど有効長があるホームでの乗り換えはやたらと歩く距離が長い。しかもホームの先端に跨線橋があるためなおさらだ。もちろん「3分」という時間で間に合わなくはない。しかしながら、我々はやたら小走りになり階段も駆け足で上がった。乗り換える側の列車が、私たちが列車に乗った事を確認するとドアを閉めた。3分という時間内で乗り換えができたが、なんとなくのギリギリ感で皆様を待たせてしまった印象であった。

(画像はウィキより。私の訪問時と塗装は違うが形式は同じであるDC。車内は明るく「らしい」デザインであるが、訪問時は下校時間とぶつかり、満員御礼であった。)
日田彦山線の列車は「国鉄型」であったが、乗り換える久大本線は「JR式」であった。黄色い車体の箱は高校生で満員御礼である。だが、なぜか2名用のボックス席が空いていた。まるで私たちを待っていたかのように。高校生達は皆立っている中、私たちは申し訳ない気持ちでその座席についた。クッションではなく木製の座席だ。ハーフボックス席とでも言おうか、2名だけの「個室」のような独特の空間。北九州独特の「なまり」を放つ高校生の会話をBGMに我々は久留米を目指す。久留米からは普通列車で鳥栖まで移動。鳥栖より「リレーつばめ」で博多に向かった。この「鳥栖よりリレーつばめ」というのがなかなか渋い。まるで木戸修の「脇固め」のようにキラキラ光る!そう、それは「いぶし銀」のように・・・と、自己満足の世界に浸りながら本日の宿となる博多で下車。そして私たちは九州最大の街のネオンに消えていった。

(そして同じくウィキよりの画像。久大本線の下校ラッシュ時の中、ご覧の席が私たちを迎えてくれた。なんというか、夜明のような地味な駅からの乗車でよく座席が空いていたものだ。)

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>③
2019-11-05
日田彦山線は、乗車していて実に歴史を感じる路線であると改めて感じた。まず呼野。周知の通りスイッチバックの駅であった事でその名を知られているが、もともと勾配上にあったホームだけが残り、その他のスイッチバック設備は全て撤去されてしまった。そしてその隣の駅はズバリ「採銅所」である。もう何も説明する必要がないであろう。いかにも「ナウい」駅名ではないのは明白だが、駅設備も開設当時のものがかなり残っていた印象であった。気が付けば座席から身を乗り出し、その車窓に釘付けになっていた。

(その名もズバリ「採銅所」。この駅名だけでも日田彦山線の訪問意欲をそそるではないか!昔からの佇まいはなかなかの訪問価値がありそうだ。)
田川後藤寺で下車し一旦後藤寺線を制覇するため新飯塚に向かった。途中、船尾では実に「昭和」を感じる風景に出会った。レールファンにはとくに周知の事実であるが、目の当たりにすると実に実感するというか胸に染みる光景であった。そう、ここはかつて石灰石の積出駅として栄えたが、現在はそのだだっ広い更地の構内がかつての面影をとどめる程度になっている。真っ白に染まった駅舎がその存在をアピールしていたが、現在はその駅舎も取り壊され寂しくなってしまった。船尾の歴史を確認するためちょっとウィキを覗いてみた。するととんでもないことが判明!輸送量を見てびっくりした。1935年では、利用者がなんと11万人!そして貨物がなんと140万トン!1日平均で旅客だと304人程度であるが、貨物は3800トンになる。私は数学が不得手のためこの数値がどういうものか分からないが、この船尾駅のひとつの物差しになる事に変わりはない。だが、この貨物の数値は間違えなく船尾駅の大部分の収入を支えていた事であろう。

(船尾駅の石灰石積出はなくなったが、だだっ広い構内はかつての盛栄を無言で語りかけていた。構内では1社のみ残るセメント工場がある。)
かつての北九州の鉄道路線網は、それこそ東京の地下鉄路線図より複雑であった。現在はものすごくスッキリとした感じであるが、この船尾を見た途端に「北九州の鉄道」が私に何かを語りかけてきた。当時の「国鉄」を彷彿させるような光景・・・私は思わず座席を立ち上がってしまった。船尾に来る前は田川後藤寺で乗り換えをしているが、こちらも「国鉄」の風景・・・だが、船尾は更に「国鉄」が凝縮された感じであった。しかしながら現在は「面影」のみ。私は全国の鉄道路線を放浪したが、ローカル方面には必ず「かつて」というキーワードが見え隠れし「盛栄」という過去が潜んでいる。そう、鉄道には必ず歴史がある。

(画像は「昔訪ねた気動車ローカル線」より、1998年の筑前庄内。「国鉄」ではなく、現在の「JR」に近い雰囲気。とはおかしな表現かもしれないが、JR化されて10年が経ち、JRがそろそろ全国的に馴染んできた時期であったろう。)
そういえば、最近NHKの番組で「ファミリーヒストリー」という番組を視た。多分再放送であったろうが、ロックバンド「くるり」の岸田繁の先祖の歴史が綴られていた。私は「くるり」自体全く知らなかったが、祖先の方々は、それは素晴らしい方ばかりで感動してしまう。本人はそんな祖先の歴史をまるで映画館の観客席で映画を観るようにモニターで内容を観る、という番組だ。そして本放送では梅宮辰夫が登場する。梅宮家の歴史が、それこそ細かく調べ上げられで、本人も知らないような事ばかりが登場する。そして涙・・・当然であろう。もし自分の先祖の歴史がモニターで視聴できたら・・・と思うし、自身がその立場であったら感動するであろう。
船尾駅を見つめていると、なんだか北九州の歴史を、いや、鉄道そのものの歴史を見ているようにも感じた。ほんの一瞬の停車時間なのに、なんとなくその時間が何分にも何時間にも感じたのはなぜだろう・・・

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田川後藤寺で下車し一旦後藤寺線を制覇するため新飯塚に向かった。途中、船尾では実に「昭和」を感じる風景に出会った。レールファンにはとくに周知の事実であるが、目の当たりにすると実に実感するというか胸に染みる光景であった。そう、ここはかつて石灰石の積出駅として栄えたが、現在はそのだだっ広い更地の構内がかつての面影をとどめる程度になっている。真っ白に染まった駅舎がその存在をアピールしていたが、現在はその駅舎も取り壊され寂しくなってしまった。船尾の歴史を確認するためちょっとウィキを覗いてみた。するととんでもないことが判明!輸送量を見てびっくりした。1935年では、利用者がなんと11万人!そして貨物がなんと140万トン!1日平均で旅客だと304人程度であるが、貨物は3800トンになる。私は数学が不得手のためこの数値がどういうものか分からないが、この船尾駅のひとつの物差しになる事に変わりはない。だが、この貨物の数値は間違えなく船尾駅の大部分の収入を支えていた事であろう。

(船尾駅の石灰石積出はなくなったが、だだっ広い構内はかつての盛栄を無言で語りかけていた。構内では1社のみ残るセメント工場がある。)
かつての北九州の鉄道路線網は、それこそ東京の地下鉄路線図より複雑であった。現在はものすごくスッキリとした感じであるが、この船尾を見た途端に「北九州の鉄道」が私に何かを語りかけてきた。当時の「国鉄」を彷彿させるような光景・・・私は思わず座席を立ち上がってしまった。船尾に来る前は田川後藤寺で乗り換えをしているが、こちらも「国鉄」の風景・・・だが、船尾は更に「国鉄」が凝縮された感じであった。しかしながら現在は「面影」のみ。私は全国の鉄道路線を放浪したが、ローカル方面には必ず「かつて」というキーワードが見え隠れし「盛栄」という過去が潜んでいる。そう、鉄道には必ず歴史がある。

(画像は「昔訪ねた気動車ローカル線」より、1998年の筑前庄内。「国鉄」ではなく、現在の「JR」に近い雰囲気。とはおかしな表現かもしれないが、JR化されて10年が経ち、JRがそろそろ全国的に馴染んできた時期であったろう。)
そういえば、最近NHKの番組で「ファミリーヒストリー」という番組を視た。多分再放送であったろうが、ロックバンド「くるり」の岸田繁の先祖の歴史が綴られていた。私は「くるり」自体全く知らなかったが、祖先の方々は、それは素晴らしい方ばかりで感動してしまう。本人はそんな祖先の歴史をまるで映画館の観客席で映画を観るようにモニターで内容を観る、という番組だ。そして本放送では梅宮辰夫が登場する。梅宮家の歴史が、それこそ細かく調べ上げられで、本人も知らないような事ばかりが登場する。そして涙・・・当然であろう。もし自分の先祖の歴史がモニターで視聴できたら・・・と思うし、自身がその立場であったら感動するであろう。
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