更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>⑤
2019-12-30
とんでもないこと・・・それは鹿児島中央から乗車する「はやとの風」にあった。相変わらず雨は「土砂」であったが、そんなことはおかまい無しに予定が進行していくはずであった。鹿児島を過ぎ「活火山」を拝むと隼人に到着。実はこの隼人の姿を見るのは1978年に乗った寝台特急「富士」以来実に32年ぶり(当時)!しかし若干リニューアルされているものの、その姿は殆ど昔のままであった。それなりに乗車する人もいる中、列車は「旧」鹿児島本線、つまり肥薩線に入っていく。だが・・・何やら様子がおかしい。霧島温泉に到着すると暫く列車は停泊した。

(「はやとの風」初体験!鹿児島中央にて485系とツーショット。お馴染み「あの人」のデザインであるが、このあととんでもないハプニングが待っていようとは・・・)
列車交換かと思っていたが、何やら女性車掌が車内を行ったり来たりする。また暫くして放送が入った。霧島温泉から先、豪雨で路盤が緩んでいるらしい。点検のため運転を見合わせるという旨。私はこの先の「いさぶろう・しんぺい」に乗車するため復帰を待った。だが一向に回復する気配はない。一部乗客はJRが用意したタクシーで目的地に向かうため準備をしていた。しかし私は列車に乗ることが目的。タクシーなどで「目的地」に向かうのは許されなかった・・・

(霧島温泉ではちょうど高校生の通学時間と遭遇した。と言っても午前11時頃であったので不思議な時間帯であったが、おそらく中間テストか何かであったのだろう。列車が来ない旨が知らされると、それぞれの家族などがマイカーで迎えに来ていた。とても「温泉」とはかけ離れた光景であるが・・・)
しかしながら、30分経っても一向に運転再開の気配がないのでついにギブアップ。無意識にタップしてしまった。完全に私のTKO負けだ。隼人に戻り鹿児島中央から新幹線で熊本に向かうしか道はなかった。早速車掌に相談。私の乗車券は「九州周遊きっぷ」、いわゆる昔の「ワイド」的なきっぷのため新幹線は別料金になるとの事。だが・・・ここでも私がかつて経験したような「国鉄」が活きていた!なんとその車掌、鹿児島中央の職員に連絡を取り、周遊きっぷでも新幹線を「代替輸送」として認めてもらうように配慮してくれたのだ!!私よりも20年くらいは年下であろう若い職員が30年くらい前に私が経験した「人情」みたいなもの再現してくれた・・・嬉しいぞ、JR九州!今でもその感謝を忘れない。鹿児島中央の職員にOKの確認が取れたため、私はJRの用意したタクシーでさっき懐かしく感じた隼人に戻った。

(鹿児島中央では周遊券で新幹線が乗車できる特例措置!お客様の立場に立って考えてくれる接客姿勢は素晴らしい。)
隼人に戻ってきた私は普通列車で鹿児島中央に向かった。そして新幹線の改札で「はやとの風」の車掌の意向を伝えると「どうぞ」と改札を開放してくれた。JR九州は良い!実に好感度の待遇であった。そして「別料金無し」で九州新幹線の初乗車。もちろん車両は「あの人」のデザインであろうから乗っていて安らぎ感たっぷりだ。当時はまだ新八代までであったが、それでもこんな形で制覇できた喜びは大きい。旅はどんなトラブルが待っているかわからない。だがしかし、そんな場面でも義理人情に触れた時の喜びは実に大きく記憶に残る。私は過去の旅で数多くのトラブルを経験したが、こうして救われる場面も多い。そんな幸運や喜びを再確認させてくれたのがJR九州の存在であった。

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(「はやとの風」初体験!鹿児島中央にて485系とツーショット。お馴染み「あの人」のデザインであるが、このあととんでもないハプニングが待っていようとは・・・)
列車交換かと思っていたが、何やら女性車掌が車内を行ったり来たりする。また暫くして放送が入った。霧島温泉から先、豪雨で路盤が緩んでいるらしい。点検のため運転を見合わせるという旨。私はこの先の「いさぶろう・しんぺい」に乗車するため復帰を待った。だが一向に回復する気配はない。一部乗客はJRが用意したタクシーで目的地に向かうため準備をしていた。しかし私は列車に乗ることが目的。タクシーなどで「目的地」に向かうのは許されなかった・・・

(霧島温泉ではちょうど高校生の通学時間と遭遇した。と言っても午前11時頃であったので不思議な時間帯であったが、おそらく中間テストか何かであったのだろう。列車が来ない旨が知らされると、それぞれの家族などがマイカーで迎えに来ていた。とても「温泉」とはかけ離れた光景であるが・・・)
しかしながら、30分経っても一向に運転再開の気配がないのでついにギブアップ。無意識にタップしてしまった。完全に私のTKO負けだ。隼人に戻り鹿児島中央から新幹線で熊本に向かうしか道はなかった。早速車掌に相談。私の乗車券は「九州周遊きっぷ」、いわゆる昔の「ワイド」的なきっぷのため新幹線は別料金になるとの事。だが・・・ここでも私がかつて経験したような「国鉄」が活きていた!なんとその車掌、鹿児島中央の職員に連絡を取り、周遊きっぷでも新幹線を「代替輸送」として認めてもらうように配慮してくれたのだ!!私よりも20年くらいは年下であろう若い職員が30年くらい前に私が経験した「人情」みたいなもの再現してくれた・・・嬉しいぞ、JR九州!今でもその感謝を忘れない。鹿児島中央の職員にOKの確認が取れたため、私はJRの用意したタクシーでさっき懐かしく感じた隼人に戻った。

(鹿児島中央では周遊券で新幹線が乗車できる特例措置!お客様の立場に立って考えてくれる接客姿勢は素晴らしい。)
隼人に戻ってきた私は普通列車で鹿児島中央に向かった。そして新幹線の改札で「はやとの風」の車掌の意向を伝えると「どうぞ」と改札を開放してくれた。JR九州は良い!実に好感度の待遇であった。そして「別料金無し」で九州新幹線の初乗車。もちろん車両は「あの人」のデザインであろうから乗っていて安らぎ感たっぷりだ。当時はまだ新八代までであったが、それでもこんな形で制覇できた喜びは大きい。旅はどんなトラブルが待っているかわからない。だがしかし、そんな場面でも義理人情に触れた時の喜びは実に大きく記憶に残る。私は過去の旅で数多くのトラブルを経験したが、こうして救われる場面も多い。そんな幸運や喜びを再確認させてくれたのがJR九州の存在であった。

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>④
2019-12-25
ちょっとした小細工とは?そう、鹿児島駅前より路面電車を制覇するためだ。普通に鹿児島中央から路面を制覇しようと考えたら実に効率が悪い。ならばと鹿児島から乗る事を考えると、路面電車が始発駅のため実に効率よく制覇できるではないか!って、わざわざ強調しなくても普通に分かる事であるが・・・

(小細工とは・・・こう言う事であった。鹿児島駅前から路面電車を制覇する事によって実に効率よく周れる。などと考えながら乗車していたのは当日では私のみであったろう・・・)
という事で、鹿児島から路面を万遍無く制覇して鹿児島中央から指宿枕崎線に乗車する。実は1983年以来の指宿訪問に、なんとなく懐かしさと緊張が同居していた。というのも、前回の訪問は小学校4年生であった。当然ながら当時とは物の見方や感性が全く違う事であろうから、というより、ほとんど当時の記憶が無いため、むしろ初めて制覇する感覚であった。私の指宿枕崎線の訪問は1978年である。その時は寝台特急「富士」で東京から遥々24時間かけてやって来た時だ。西鹿児島(当時)で指宿枕崎線に乗換たが、どんな車両に乗ったとか全く覚えていない。
それから5年後の1983年には「いい旅チャレンジ20000km」の関係から訪問しているので、その時は完全に「事務的」な処理に過ぎず、旅情などを確認する余裕がなかったのでこちらも記憶が殆ど無い。

(再利用的で申し訳ないが、1978年訪問時の指宿駅。現在では駅舎もリニューアルされ跨線橋ができたが、当時はある意味「相模線」と錯覚するほど類似点が多かった。もちろん現在は比較する事も出来ないが・・・)
そんな指宿枕崎線も今回の訪問で実に印象的になった。今回の旅ではこの地を宿泊地に選んだ。そう、お楽しみは砂風呂であった。前々回の訪問時には経験できなかった事。当時小学生であったが、子供ながらに砂風呂とやらを経験してみたかった。それから30年・・・実に長く辛い道のりであった、という事ではないが、やはり古くからの温泉街とあって「観光」しているなと言う気分になる。そんな砂風呂でデトックスし翌日に迎えた朝、体から毒素が全て抜けてとても爽やかな気分である・・・と言いたいところであるが、前日から空模様が気になっていた。そう、完全に外は「土砂」が降っていたのだ。ものすごい勢いの雨の中、私たちはタクシーで指宿駅に向かった。その時は単純に凄い雨だなと思っていただけであったが、この後とんでもない事が待っていたのだ!

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(小細工とは・・・こう言う事であった。鹿児島駅前から路面電車を制覇する事によって実に効率よく周れる。などと考えながら乗車していたのは当日では私のみであったろう・・・)
という事で、鹿児島から路面を万遍無く制覇して鹿児島中央から指宿枕崎線に乗車する。実は1983年以来の指宿訪問に、なんとなく懐かしさと緊張が同居していた。というのも、前回の訪問は小学校4年生であった。当然ながら当時とは物の見方や感性が全く違う事であろうから、というより、ほとんど当時の記憶が無いため、むしろ初めて制覇する感覚であった。私の指宿枕崎線の訪問は1978年である。その時は寝台特急「富士」で東京から遥々24時間かけてやって来た時だ。西鹿児島(当時)で指宿枕崎線に乗換たが、どんな車両に乗ったとか全く覚えていない。
それから5年後の1983年には「いい旅チャレンジ20000km」の関係から訪問しているので、その時は完全に「事務的」な処理に過ぎず、旅情などを確認する余裕がなかったのでこちらも記憶が殆ど無い。

(再利用的で申し訳ないが、1978年訪問時の指宿駅。現在では駅舎もリニューアルされ跨線橋ができたが、当時はある意味「相模線」と錯覚するほど類似点が多かった。もちろん現在は比較する事も出来ないが・・・)
そんな指宿枕崎線も今回の訪問で実に印象的になった。今回の旅ではこの地を宿泊地に選んだ。そう、お楽しみは砂風呂であった。前々回の訪問時には経験できなかった事。当時小学生であったが、子供ながらに砂風呂とやらを経験してみたかった。それから30年・・・実に長く辛い道のりであった、という事ではないが、やはり古くからの温泉街とあって「観光」しているなと言う気分になる。そんな砂風呂でデトックスし翌日に迎えた朝、体から毒素が全て抜けてとても爽やかな気分である・・・と言いたいところであるが、前日から空模様が気になっていた。そう、完全に外は「土砂」が降っていたのだ。ものすごい勢いの雨の中、私たちはタクシーで指宿駅に向かった。その時は単純に凄い雨だなと思っていただけであったが、この後とんでもない事が待っていたのだ!

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>③
2019-12-20
志布志からは旧・志布志線の代替バスで都城に向かう。志布志線はかなり廃線跡として数々の遺構が残っており、廃線マニアにとっては実に訪問し甲斐があるであろう。志布志から乗ったバスからもその跡が確認出来、例えば国道から大きくカーブして北に向かう道路が「いかにも」であるし、途中駅の数々も、例えば大隅松山や末吉、今町など至るところで確認できると聞いているが、私が実際に確認できたのは末吉駅であった。現在でも記念館のような形で保存されていたが、特にバスからその遺構が確認出来、踏切などはまさにリアル。まだ現役ではないかと錯覚してしまうほどであった。

(日南線終点の志布志は国鉄時代より若干駅が移転した。かつての駅があった場所はスーパーマーケットや駐車場に変身している。そしてかつてはそこから志布志線と大隅線が分岐し活気に満ちていた。そんな過去が想像できないくらいに現在はひっそりとしてしまった。)
ようやく街並みが開けてくると、街の中心に近い西都城を過ぎ都城に着く。定刻より5分~7分くらいの遅れであったが、小林方面に向かうには問題ない遅れであった。もちろん想定の範囲内である。
しかしこの都城を「みやこのじょう」と読むのはなんとなくロマンティックではなかろうか?1978年に寝台特急「富士」に乗り初めてこの駅を見た時に父が「トシロとは読まないんだなぁ」みたいな、大きな声でみんなにわかるような独り言を言っていたのを思い出した。実はそれ以来の今回の訪問は実に30年ぶり(当時)であった。しかしながら駅舎こそ変わったものの、ホームなど当時のものとほとんど変わっていなかった。懐かしい・・・まだまだ九州にはこうした昔の面影を残す場所が多く残っている。

(吉松はSL時代の面影をかなり残す。かつては「本線」であったが、高速道路の開通や時代の変遷などで完全に寂れてしまった。)
さて、私たちは都城から吉都線経由で隼人に向かう。途中、吉松からは肥薩線であるが、吉都線と直通であるため乗換は不要だ。肥薩線は翌日に「はやとの風」での再訪を予定している。とりあえず今日は「予行」という事で・・・
隼人からは「きりしま」に乗って鹿児島に向かった。国鉄時代には無い「特急列車」であったので新鮮であるが、かつてのイメージと違い区間ごとに細分化された列車設定は実に効率が良いと思う。私が九州に初上陸した時代にはこうした細分された輸送の部分は急行列車が担当していた。更に宮崎~鹿児島は非電化であったので普通列車はキハ20とかが運転され実にローカルムード満点であった。そして今回下車した鹿児島は昔と変わらぬ佇まい。特に貨物駅のように使われている斜めに敷かれた多くの線路は、かつてそちらが鹿児島駅の本体で、それこそ現在の肥薩線が「本線」であった名残であろう。かつての鹿児島本線は宮崎寄りから入線していたためその線路は全て宮崎側に向かっている。そんな中心的地位も現在は鹿児島中央駅に譲り、鹿児島駅自身は何だか「社長」から「会長」になり優雅に過ごしているような印象だ。

(鹿児島駅の線路配線は変形Yの字のような形になっており、宮崎方面に向かって線路が収束している。かつては肥薩線が「本線」であったための名残であるが、かつての鹿児島駅施設は現在でも貨物駅として使用されている。ちなみにウィキを開いてみたら、ご覧の写真と殆ど変わらないものが掲載されていた・・・が、これは私自身が撮影したものであるのであしからず!)
ある意味、鹿児島駅に下車した事は非常に有意義だったかも知れない。多分貴重な経験であろう。しかし、なぜ鹿児島中央ではなく鹿児島駅に下車したのか・・・それはちょっとした私の小細工が隠れていたのだ。

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(日南線終点の志布志は国鉄時代より若干駅が移転した。かつての駅があった場所はスーパーマーケットや駐車場に変身している。そしてかつてはそこから志布志線と大隅線が分岐し活気に満ちていた。そんな過去が想像できないくらいに現在はひっそりとしてしまった。)
ようやく街並みが開けてくると、街の中心に近い西都城を過ぎ都城に着く。定刻より5分~7分くらいの遅れであったが、小林方面に向かうには問題ない遅れであった。もちろん想定の範囲内である。
しかしこの都城を「みやこのじょう」と読むのはなんとなくロマンティックではなかろうか?1978年に寝台特急「富士」に乗り初めてこの駅を見た時に父が「トシロとは読まないんだなぁ」みたいな、大きな声でみんなにわかるような独り言を言っていたのを思い出した。実はそれ以来の今回の訪問は実に30年ぶり(当時)であった。しかしながら駅舎こそ変わったものの、ホームなど当時のものとほとんど変わっていなかった。懐かしい・・・まだまだ九州にはこうした昔の面影を残す場所が多く残っている。

(吉松はSL時代の面影をかなり残す。かつては「本線」であったが、高速道路の開通や時代の変遷などで完全に寂れてしまった。)
さて、私たちは都城から吉都線経由で隼人に向かう。途中、吉松からは肥薩線であるが、吉都線と直通であるため乗換は不要だ。肥薩線は翌日に「はやとの風」での再訪を予定している。とりあえず今日は「予行」という事で・・・
隼人からは「きりしま」に乗って鹿児島に向かった。国鉄時代には無い「特急列車」であったので新鮮であるが、かつてのイメージと違い区間ごとに細分化された列車設定は実に効率が良いと思う。私が九州に初上陸した時代にはこうした細分された輸送の部分は急行列車が担当していた。更に宮崎~鹿児島は非電化であったので普通列車はキハ20とかが運転され実にローカルムード満点であった。そして今回下車した鹿児島は昔と変わらぬ佇まい。特に貨物駅のように使われている斜めに敷かれた多くの線路は、かつてそちらが鹿児島駅の本体で、それこそ現在の肥薩線が「本線」であった名残であろう。かつての鹿児島本線は宮崎寄りから入線していたためその線路は全て宮崎側に向かっている。そんな中心的地位も現在は鹿児島中央駅に譲り、鹿児島駅自身は何だか「社長」から「会長」になり優雅に過ごしているような印象だ。

(鹿児島駅の線路配線は変形Yの字のような形になっており、宮崎方面に向かって線路が収束している。かつては肥薩線が「本線」であったための名残であるが、かつての鹿児島駅施設は現在でも貨物駅として使用されている。ちなみにウィキを開いてみたら、ご覧の写真と殆ど変わらないものが掲載されていた・・・が、これは私自身が撮影したものであるのであしからず!)
ある意味、鹿児島駅に下車した事は非常に有意義だったかも知れない。多分貴重な経験であろう。しかし、なぜ鹿児島中央ではなく鹿児島駅に下車したのか・・・それはちょっとした私の小細工が隠れていたのだ。

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>②
2019-12-15
日向市も高架駅になった。全く予備知識がなかったが、ちょうどこの頃に私も目が覚めてきた。既に外は明るくなっている。そして島式ホームに生まれ変わった日向市駅では実に多くの乗客がホームに列を作っていた。コロコロバッグを持っている乗客が多く、ほとんどの人が始発列車として、そして空港アクセスとして利用しているのが容易にわかる。中には学生もおり、座席に着くなり、早速参考書のような書物を開き自身の道を追求していた。そうか・・・最近の地方の学生は通学に特急列車を使うんだなぁ・・などと羨みながら、私は朝の酎ハイを空けていた。

(画像はウィキペディアより現在の日向市駅。ウィキでは旧駅舎も掲載されていたが、とても昭和的な駅舎であった。1978年に乗った寝台特急「富士」も日向市に停車したが、その時に初めてこの駅の存在を知った。当時の私にしてみたらかなり地味な印象であったが、月日が経ち感性も変わった私が再びタイムマシンで当時の日向市駅を訪れたらどう感じるであろうか・・・)
宮崎も高架化されスリムになり機能的に生まれ変わった。久々に、というより初めての「夜行特急列車」は実にこの気だるさが良い。かつて私が東北などに放浪していた時に乗った夜行列車に近い感覚であった。だが、その当時の夜行列車はリクライニングなどは当然皆無であったが・・・
そして宮崎空港に到着。私にとってこの宮崎空港駅は全く新しい存在だ。小倉から乗り換えなしで来れるのも良い。更にサプライズだったのが、今乗ってきた「ドリーム」が折り返し宮崎行きの普通列車に変身する事であった。思わず空港駅の改札職員に「○○時発の普通列車って、これ(ドリーム)が折り返すんですか?」と聞いてしまった。しかしながら、駅員さんに軽くうなずかれては・・・私の23年間のブランクは一体・・・

(何度も登場して申し訳ない写真であるが・・・宮崎空港にての「ドリーム」は今回紹介の旅で収めたものである。折り返しこの列車が普通列車になるとは実に贅沢!)
南宮崎で日南線に乗り換える。それも実に新鮮・・・であるが、宮崎発であったので座れるかどうかの不安があった。が、長年の経験と感がこの時に活きた!実に見事に的中。列車内はまるで午前8時頃の小田急線上り急行列車のようであった。旅先にて立ち席・・・実にいい経験であった。そんな列車も日南を過ぎる頃には典型的な「ローカル線」の風景になっていた。油津で更に先に進むために乗り換えるが、降りた乗客は4~5組くらいであったろう。

(油津は日南線の中心駅。実際に日南市の市街地の南西くらいに位置し利用者も多い。側線が何本かあった名残が見られる。)
油津から先に向かう列車の乗客はそれこそ2~3組であった中、私が日南線で一番訪問してみたかったのが終点の志布志であった。志布志線と大隅線を失いたった一面のホームになってしまった姿は、昔の志布志駅を知る者にしてみたら全く信じられない光景だ。現在の志布志駅は以前の場所より若干日南寄りに移転しているが、そのかつての跡地は現在商業施設や駐車場になっている。だが、その空間はかつて国鉄時代の志布志駅であった空間とひと目で解るものであった。もちろん私は現役時代に訪問はできなかったが、なぜか懐かしさが蘇ってきた。実に不思議な感覚であった。

(油津駅の駅舎を撮影してみた。油津と言えば付近に漁港もあり、この記事がアップされる頃には黄肌やびんちょうなどのマグロが旬を迎えていることであろう。もちろん「油津産」もスーパーなどの店頭に並んでいるはずだ。)
その場所からちょっとした狭い道を行くと都城や鹿屋方面へ向かうバス乗り場がある。もちろん、普通なら駅前の広い道を行くのであるが、私はあえて狭い路地のような道から行ってみた。事前にグーグルマップでリサーチしておいたのだ。南国をイメージさせてくれるかつての志布志駅は、なんとなく「故郷」の匂いを感じさせてくれる・・・そんな異次元的な空間であった。

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(画像はウィキペディアより現在の日向市駅。ウィキでは旧駅舎も掲載されていたが、とても昭和的な駅舎であった。1978年に乗った寝台特急「富士」も日向市に停車したが、その時に初めてこの駅の存在を知った。当時の私にしてみたらかなり地味な印象であったが、月日が経ち感性も変わった私が再びタイムマシンで当時の日向市駅を訪れたらどう感じるであろうか・・・)
宮崎も高架化されスリムになり機能的に生まれ変わった。久々に、というより初めての「夜行特急列車」は実にこの気だるさが良い。かつて私が東北などに放浪していた時に乗った夜行列車に近い感覚であった。だが、その当時の夜行列車はリクライニングなどは当然皆無であったが・・・
そして宮崎空港に到着。私にとってこの宮崎空港駅は全く新しい存在だ。小倉から乗り換えなしで来れるのも良い。更にサプライズだったのが、今乗ってきた「ドリーム」が折り返し宮崎行きの普通列車に変身する事であった。思わず空港駅の改札職員に「○○時発の普通列車って、これ(ドリーム)が折り返すんですか?」と聞いてしまった。しかしながら、駅員さんに軽くうなずかれては・・・私の23年間のブランクは一体・・・

(何度も登場して申し訳ない写真であるが・・・宮崎空港にての「ドリーム」は今回紹介の旅で収めたものである。折り返しこの列車が普通列車になるとは実に贅沢!)
南宮崎で日南線に乗り換える。それも実に新鮮・・・であるが、宮崎発であったので座れるかどうかの不安があった。が、長年の経験と感がこの時に活きた!実に見事に的中。列車内はまるで午前8時頃の小田急線上り急行列車のようであった。旅先にて立ち席・・・実にいい経験であった。そんな列車も日南を過ぎる頃には典型的な「ローカル線」の風景になっていた。油津で更に先に進むために乗り換えるが、降りた乗客は4~5組くらいであったろう。

(油津は日南線の中心駅。実際に日南市の市街地の南西くらいに位置し利用者も多い。側線が何本かあった名残が見られる。)
油津から先に向かう列車の乗客はそれこそ2~3組であった中、私が日南線で一番訪問してみたかったのが終点の志布志であった。志布志線と大隅線を失いたった一面のホームになってしまった姿は、昔の志布志駅を知る者にしてみたら全く信じられない光景だ。現在の志布志駅は以前の場所より若干日南寄りに移転しているが、そのかつての跡地は現在商業施設や駐車場になっている。だが、その空間はかつて国鉄時代の志布志駅であった空間とひと目で解るものであった。もちろん私は現役時代に訪問はできなかったが、なぜか懐かしさが蘇ってきた。実に不思議な感覚であった。

(油津駅の駅舎を撮影してみた。油津と言えば付近に漁港もあり、この記事がアップされる頃には黄肌やびんちょうなどのマグロが旬を迎えていることであろう。もちろん「油津産」もスーパーなどの店頭に並んでいるはずだ。)
その場所からちょっとした狭い道を行くと都城や鹿屋方面へ向かうバス乗り場がある。もちろん、普通なら駅前の広い道を行くのであるが、私はあえて狭い路地のような道から行ってみた。事前にグーグルマップでリサーチしておいたのだ。南国をイメージさせてくれるかつての志布志駅は、なんとなく「故郷」の匂いを感じさせてくれる・・・そんな異次元的な空間であった。

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>①
2019-12-10
さて、今回紹介する九州の旅は私がレールファンを復活しての九州制覇第2弾となった。今回の旅は、若干小銭ができたため急遽予定を立てた。日程的には2010年5月の3日間、GWも終わり世間的に行楽や帰省などのイベントが落ち着いている時期だ。つまり普段の生活の中で私は連休を取得しての旅となったわけだ。今回の目玉は「はやとの風」~「いさぶろう・しんぺい」と「ゆふいんの森」を初体験する事。だが、今回の旅は私の九州制覇旅行初のトラブルに遭遇することになった・・・とは言え、1983年の東北を始め、私は数々のトラブルを乗り越えてきた経験と知恵と「野生の感」がある。そんな私が培った英知をフルに発揮した今回の旅は、これまた初めての経験である「ドリームにちりん」を使うというアドベンチャー的な旅となった。私は旅をする時、常に新しい事・経験していない事を取り入れている。今回もこの「ドリーム」を始め初体験が盛りだくさんだ。という事で、今回は仕事を午前中に切り上げ、新横浜から新幹線に飛び乗ったのが午後6時近かった時間帯である。

(新横浜から新幹線で一路小倉へ。飛行機を使わず、地上の交通手段で九州へ向かうのは実に新鮮。)
夜の時間帯に下りの新幹線に乗車するのも初めての経験。なんとなく実に新鮮。だが、さすがの新幹線も新大阪を過ぎると徐々に乗客が減っていき、博多に着く頃には半分貸切状態であった。新幹線で小倉に着いたのが23時40分。すごい時間だ。乗り換える列車は23時52分発「ドリームにちりん」である。新幹線から在来線に乗り換えるのに12分・・・実にスリリングであったが、意外にも余裕があった。だが、それこそ意外に新幹線から「ドリーム」に乗り換える乗客が少なくない。自由席には長蛇とは言わないがそれなりの列ができている。果たして座れるのであろうか。しかも途中の小倉からの乗車だし・・・心配は無用であった。私の乗った車両はそれほど乗客もおらずほとんど貸切状態であった。

(この区間での今回の旅のフォトがなかったので過去の画像での紹介でよろしく・・・という事で、これは1978年に寝台特急「富士」で訪問した際の一枚である。「温泉」と付けなくても温泉街であるとわかる地名は日本に数多くあるが、ここ別府もその一つだ。)
「ドリームにちりん」については以前にも紹介しているのでそちらを参照にしていただきたいが、小倉から乗車後、早速車掌が回ってきた。しかも若い女性である!しかも夜の時間帯の勤務とは・・・大丈夫なのか?とよからぬ心配をしてしまったが、中津に着く頃には既に私の乗った車両は私達だけになってしまった。そう、小倉からの乗客のほとんどは「終列車」としてこのドリームを利用しているようだ。私のように車内改札の際に行き先を「空港まで」と伝える乗客はそう多くないであろう。もちろん全くのゼロという事ではないが、基本的に中津~日向市間はほとんど乗客が私のような「もの好き」などがシェアしているようなものかも知れない。

(同じく1978年の延岡である。さて・・・現在と比べていかがであろう。今回の旅でこの延岡は未明の訪問であったため状況がわからなかった。写真の1978年当時とどれくらい変わっているのか気になる。もちろん「貨物」の姿はないであろうが・・・)
大分では地上ホームにいた。1時間くらいの停車時間があったが、私はほとんど仮眠状態で記憶が意識がモウロウとしていた。だが、この地上時代も終焉を迎えるべく、半分完成した高架ホームを見上げる形で実に見事に堂々と仁王立ちしていた。「2日後に来るよな」などと心の中でつぶやきながら高架ホームを見上げるとは、意識がモウロウとしていないではないか!そんな印象深い大分駅であったが、現在は全てが完成し立派な高架駅になったと聞いた。私が大分駅に初めて訪れたのは1978年の寝台特急「富士」乗車時の事であった。もちろん下車はしていないが、ここ大分で後ろ何両か切り離し身軽になってい西鹿児島(当時)まで向かったのを覚えている。あれから30年以上が経ち再び訪れた・・・実に素晴らしく懐かしかった。

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(新横浜から新幹線で一路小倉へ。飛行機を使わず、地上の交通手段で九州へ向かうのは実に新鮮。)
夜の時間帯に下りの新幹線に乗車するのも初めての経験。なんとなく実に新鮮。だが、さすがの新幹線も新大阪を過ぎると徐々に乗客が減っていき、博多に着く頃には半分貸切状態であった。新幹線で小倉に着いたのが23時40分。すごい時間だ。乗り換える列車は23時52分発「ドリームにちりん」である。新幹線から在来線に乗り換えるのに12分・・・実にスリリングであったが、意外にも余裕があった。だが、それこそ意外に新幹線から「ドリーム」に乗り換える乗客が少なくない。自由席には長蛇とは言わないがそれなりの列ができている。果たして座れるのであろうか。しかも途中の小倉からの乗車だし・・・心配は無用であった。私の乗った車両はそれほど乗客もおらずほとんど貸切状態であった。

(この区間での今回の旅のフォトがなかったので過去の画像での紹介でよろしく・・・という事で、これは1978年に寝台特急「富士」で訪問した際の一枚である。「温泉」と付けなくても温泉街であるとわかる地名は日本に数多くあるが、ここ別府もその一つだ。)
「ドリームにちりん」については以前にも紹介しているのでそちらを参照にしていただきたいが、小倉から乗車後、早速車掌が回ってきた。しかも若い女性である!しかも夜の時間帯の勤務とは・・・大丈夫なのか?とよからぬ心配をしてしまったが、中津に着く頃には既に私の乗った車両は私達だけになってしまった。そう、小倉からの乗客のほとんどは「終列車」としてこのドリームを利用しているようだ。私のように車内改札の際に行き先を「空港まで」と伝える乗客はそう多くないであろう。もちろん全くのゼロという事ではないが、基本的に中津~日向市間はほとんど乗客が私のような「もの好き」などがシェアしているようなものかも知れない。

(同じく1978年の延岡である。さて・・・現在と比べていかがであろう。今回の旅でこの延岡は未明の訪問であったため状況がわからなかった。写真の1978年当時とどれくらい変わっているのか気になる。もちろん「貨物」の姿はないであろうが・・・)
大分では地上ホームにいた。1時間くらいの停車時間があったが、私はほとんど仮眠状態で記憶が意識がモウロウとしていた。だが、この地上時代も終焉を迎えるべく、半分完成した高架ホームを見上げる形で実に見事に堂々と仁王立ちしていた。「2日後に来るよな」などと心の中でつぶやきながら高架ホームを見上げるとは、意識がモウロウとしていないではないか!そんな印象深い大分駅であったが、現在は全てが完成し立派な高架駅になったと聞いた。私が大分駅に初めて訪れたのは1978年の寝台特急「富士」乗車時の事であった。もちろん下車はしていないが、ここ大分で後ろ何両か切り離し身軽になってい西鹿児島(当時)まで向かったのを覚えている。あれから30年以上が経ち再び訪れた・・・実に素晴らしく懐かしかった。

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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART1>⑨
2019-12-05
ハウステンボスで朝を迎えた私は、ある意味この地方特有の「ジンクス」に襲われる・・・そう、実は昨日の夜から「雨天」であったのだ。「長崎は今日も・・・」とは私の年代だと幼少時代にとても印象に残る歌であるが、実際問題どうなのであろう?気象学的に、科学的に、統計学的に、ある一定の定義で計算した場合、本当に長崎は「雨」なのか・・・私の場合、まさに計算されたかのような「雨」だった。もちろんハウステンボスは「雨」であった・・・とりあえずお土産だけでも買おうと散策するが、やはり慣れない事をするとこうしたジンクスが付いて回るのか・・・まぁ、このブログは「鉄道」を主題にしているためあえてハウステンボスについてはスペースを取らないが、なにせこの「雨」には実に悔しい思いをした。事実、予定を早めて予定より1本早い特急列車「ハウステンボス」に乗車変更を改札に申し出た頃から天候が回復してきた!まるで絵に書いたような素晴らしさ。全てが計算され尽くした印象であった・・・

(ハウステンボス駅で出発を待つ特急ハウステンボス。ご覧のとおりホームは濡れている。やはり長崎は今日も「雨」なのか・・・」)
そんなハウステンボスを「指のみ券」で博多に向かった。一回に限り乗車変更可能なルールに則り、特急「ハウステンボス」を楽しんだ。ほぼ貸切状態であったが、早岐で相棒の「みどり」を併合してパワーアップ。更に肥前山口から「かもめ」を・・・と言いたい所であるが、記憶が定かではない。

(今回の九州の旅は「石炭」など歴史的な面影と触れ合う機会が多かった。近い将来、訪問したい駅の標的を絞って是非とも実行してみたい。「昔訪ねた気動車ローカル線」から画像を拝借した筑後植木もそのひとつに挙げられるかも知れない。)
このあと博多から新幹線で帰郷する事になっているが、この時点で九州は北半分くらい制覇した。あと南半分とJR以外の私鉄各社が残っている。まだまだ九州に来る用事が無くなる事はない。と思っていたらその後2010年と2011年、この2回の訪問で九州においては全て制覇した事になった。その模様は再び九州の章を迎えた時に紹介するが、それは苦しく、実に長い道のりであった。初めて経験する事も含め実にスリリングかつハプニングの連続であった。ただ今回の旅において、ひとつの結論が出ている。それは・・・長崎は「今日も雨だった」・・・

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(ハウステンボス駅で出発を待つ特急ハウステンボス。ご覧のとおりホームは濡れている。やはり長崎は今日も「雨」なのか・・・」)
そんなハウステンボスを「指のみ券」で博多に向かった。一回に限り乗車変更可能なルールに則り、特急「ハウステンボス」を楽しんだ。ほぼ貸切状態であったが、早岐で相棒の「みどり」を併合してパワーアップ。更に肥前山口から「かもめ」を・・・と言いたい所であるが、記憶が定かではない。

(今回の九州の旅は「石炭」など歴史的な面影と触れ合う機会が多かった。近い将来、訪問したい駅の標的を絞って是非とも実行してみたい。「昔訪ねた気動車ローカル線」から画像を拝借した筑後植木もそのひとつに挙げられるかも知れない。)
このあと博多から新幹線で帰郷する事になっているが、この時点で九州は北半分くらい制覇した。あと南半分とJR以外の私鉄各社が残っている。まだまだ九州に来る用事が無くなる事はない。と思っていたらその後2010年と2011年、この2回の訪問で九州においては全て制覇した事になった。その模様は再び九州の章を迎えた時に紹介するが、それは苦しく、実に長い道のりであった。初めて経験する事も含め実にスリリングかつハプニングの連続であった。ただ今回の旅において、ひとつの結論が出ている。それは・・・長崎は「今日も雨だった」・・・

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