相模線 ヘビー・ローテーション☆アゲイン④相武台下
2020-05-30
つい最近まで木造駅舎があった相武台下であるが、近代化の波と老朽化が押し寄せ、駅舎が撤去されてしまった。ただ、同じく相模線の倉見や社家より後に開業したのだから倉見等と同じ造りの重厚なコンクリート製であったならもっとこれから先も活躍出来たであろう。

相武台下の旧駅舎。現在は駅舎がなくなりシンプルな入口となり駅前はやや整備された。
ただ、駅の周囲は戸建住宅が建ち並ぶが、相模川寄りはほとんど住宅的なものがなく、大正、昭和の時代に近い風景がみられる。そして何より、相模川へと向かう貨物側線跡が現在でもハッキリと確認する事ができる。もちろんレールは撤去されているが、航空写真で見ると鉄道特有のカープの描き方のため非常に分かりやすい。今回も「地理院地図」より画像を紹介する。


「地理院地図」の1961~1969年撮影(上)と現在(下)の比較。ご覧の通り、相模川へ向かう砂利線跡が現在でもはっきりと確認できる。現在この砂利線跡は道路に転用されているが、自動車が通れないよう各交差入口にはポールのようなものが立っている。
この場所に駅が設置された理由としては、やや距離はあるがかつての座間市(座間町?村?)の中心部的市街地があるということだ。貨物、旅客の両面で期待できる要素が詰まっていたということになる。更に米軍座間キャンプにも近く、かつては実際に引き込み線があったと聞いたことがある。そんな事を思うと実に重要なポジションであったのかがわかるではないか。

相武台下付近の砂利線分岐点を拡大してみた。1961年頃であるが、ちょうど砂利採取の貨物が廃止される直前か直後くらいの画像であるので砂利線がハッキリと確認できる。
さて今回、地元民ながら生まれて初めて相武台下をじっくりと観察する事となった。もちろん過去にも何度か訪れた事はあるし、何より一時期は仕事で駅前の商店等に納品していた事もあったのである意味身近に感じていたし私好みの渋い駅である事も十二分にわかっていた。ただ、今回の取材を通じて更に魅力あふれる駅だなと改めて実感したのだが、残念なのはかつてからあった木造駅舎がなくなってしまった事。
相武台下といえば昭和50年代に車を運ぶ貨車「」か、暫く側線に留置されていた事。茅ヶ崎~寒川(西寒川)間は幼少期から散々乗車していた相模線であるが、寒川より北方面は乗るタイミングが少なく貴重であった。更に厚木以北だとほとんど乗る機会が無く、それはそれは貴重な時間であった。そんな中で見た相武台下の風景は実に新鮮であり斬新、西寒川のそれとはまた違った異次元の空間であった。
グーグルマップより相武台前の砂利線分岐点付近を掲載してみた。分岐点付近は私有地的なイメージであるが、ここから相模川へ向かって行く痕跡がはっきりと確認できる。

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相武台下の旧駅舎。現在は駅舎がなくなりシンプルな入口となり駅前はやや整備された。
ただ、駅の周囲は戸建住宅が建ち並ぶが、相模川寄りはほとんど住宅的なものがなく、大正、昭和の時代に近い風景がみられる。そして何より、相模川へと向かう貨物側線跡が現在でもハッキリと確認する事ができる。もちろんレールは撤去されているが、航空写真で見ると鉄道特有のカープの描き方のため非常に分かりやすい。今回も「地理院地図」より画像を紹介する。


「地理院地図」の1961~1969年撮影(上)と現在(下)の比較。ご覧の通り、相模川へ向かう砂利線跡が現在でもはっきりと確認できる。現在この砂利線跡は道路に転用されているが、自動車が通れないよう各交差入口にはポールのようなものが立っている。
この場所に駅が設置された理由としては、やや距離はあるがかつての座間市(座間町?村?)の中心部的市街地があるということだ。貨物、旅客の両面で期待できる要素が詰まっていたということになる。更に米軍座間キャンプにも近く、かつては実際に引き込み線があったと聞いたことがある。そんな事を思うと実に重要なポジションであったのかがわかるではないか。

相武台下付近の砂利線分岐点を拡大してみた。1961年頃であるが、ちょうど砂利採取の貨物が廃止される直前か直後くらいの画像であるので砂利線がハッキリと確認できる。
さて今回、地元民ながら生まれて初めて相武台下をじっくりと観察する事となった。もちろん過去にも何度か訪れた事はあるし、何より一時期は仕事で駅前の商店等に納品していた事もあったのである意味身近に感じていたし私好みの渋い駅である事も十二分にわかっていた。ただ、今回の取材を通じて更に魅力あふれる駅だなと改めて実感したのだが、残念なのはかつてからあった木造駅舎がなくなってしまった事。
相武台下といえば昭和50年代に車を運ぶ貨車「」か、暫く側線に留置されていた事。茅ヶ崎~寒川(西寒川)間は幼少期から散々乗車していた相模線であるが、寒川より北方面は乗るタイミングが少なく貴重であった。更に厚木以北だとほとんど乗る機会が無く、それはそれは貴重な時間であった。そんな中で見た相武台下の風景は実に新鮮であり斬新、西寒川のそれとはまた違った異次元の空間であった。
グーグルマップより相武台前の砂利線分岐点付近を掲載してみた。分岐点付近は私有地的なイメージであるが、ここから相模川へ向かって行く痕跡がはっきりと確認できる。

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相模線 ヘビー・ローテーション☆アゲイン② 川寒川
2020-05-25
川寒川・・・寒川に約20年くらい住み、そして幼少期より過ごしてきた私にとってその場所を特定するのは非常に困難であった。
川寒川とは、相模線が開業当時に相模鉄道として茅ヶ崎から寒川間が開業したときにできた駅であった。駅といっても旅客を扱うのではなく、採取した砂利を積み込む貨物駅として寒川駅の構内側線扱いでの駅であった。川寒川は寒川から更に数百メートル西へ進み寒川神社の参道入口付近から本線と枝分かれして更に数百メートル進んだ場所にあるためとても「構内側線」とは思えない場所にあったが、当時のいろいろな手続き上のやりくりがあったのだろう。おかけで現在でもインターネットを開くと川寒川のデータや資料が少ない。ならは私がそこにひとつ加えてみたいというスケベ心もでてきてしまう。
まぁそん事より、とにかく川寒川とは何か?を早速紹介してみよう。

画像は「地理院地図」より1961~1969年撮影のものである。この写真の撮影時は既に川寒川への貨物支線は廃止されていたが、廃止から20年以上経過していた事となる。しかしながら航空写真からもかなりの痕跡をたどる事ができるのが素晴らしい。寒川からは西寒川へと向かう「寒川支線」も分岐されていたが、現在でもその廃線跡が遊歩道や、一之宮公園内ではレールも残っている貴重な「資料」として現在も受け継がれている。
川寒川は先述の通り、相模線開通時に誕生した駅で、採取した砂利を積み出す、いわば貨物駅であった。
当時の相模線の母体である相模鉄道は地元の融資により設立されているが、その中にはあの「湘南ビール」でお馴染みの熊沢酒造の先代の名も連ねていた。全くの余談であるが、妻の母者が若い頃、その熊沢酒造の息子と付き合っていたらしい。だが、他の男性からもモーションを受けたらしく、結局そのモーションを受けた男性に「鞍替え」したのだが、それが現在の旦那様・・・つまり私の義理の父者なのだ。って全くプライベートな話になってしまったが、それはともかく、その熊沢氏が株主であった関係からであろう都合から現在の相鉄いずみ野線の延伸計画に香川付近を通り平塚に抜けるルートが計画されていた。つまり、香川付近はまさに熊沢氏が広大な土地を所有していた関係からであろうという事からそんな延伸ルートが計画されていた。
そして寒川から先の西寒川方面への支線については近年まで旅客輸送として健在だった事は地味に有名で、私自身も小学校入学前から高校2年生頃まで西寒川の駅前に住んでいた経緯からその思い入れも強い。ただ、川寒川に関しては情報がほとんど無く、場所の特定も近年まで誤った情報の影響から本来の場所ではない場所を川寒川と特定していた。

同じく画像は「地理院地図」より1961~1969年撮影の相模線本線と川寒川への分岐部分を拡大してみた。写真撮影当時で廃止から20年以上経過しているのだが、かなりの痕跡を確認する事ができる。
だが・・・最近になって「国土地理院」監修の1961年~1969年頃の航空写真を何気なく見ていたら、町にある道路の変遷と共に川寒川の場所を何気なく特定できてしまった。便利なのは現在の航空写真と重ねてその場所等を比較して特定できる事。
その航空写真を使い特定した川寒川の場所は寒川町と平塚市を繋ぐ神川橋付近、現在の遊技場からスポーツ公園の野球グラウンド付近であった!現在全く面影なし!しかも中学時代はそのスポーツ公園で野球をしたりマラソンをしたりしていた!なんと私は川寒川で野球をしていた事になる!!あれほど謎に包まれた川寒川であったが、まるで狐に騙された思いであった。しかもその遊技場で何度かパチンコした事や道路を挟み対面にあるカラオケや焼き肉店等で過ごした事もあり、何かと川寒川と知らないうちに接触していた事になる。

そして「地理院地図」よりの現在の航空写真である。川寒川駅付近は高速道路や神川橋の土台や築堤と遊技場になり完全に面影や痕跡は無いが、分岐点付近は道路として目久尻川付近まで残っているのは先に紹介した写真と同じ光景である。
某鉄道アナリストの著書を参考にして特定していた場所は寒川神社の参道付近にある「参集殿」付近より相模川方面に折れた先の水道局付近であった。私は20数年それを信じていたが、脆くも崩れ去ってしまった。その資料を信じる根拠として、その付近には相模川に沿って背の低い築堤が寒川から倉見を経て社家辺りまで続いていたため、その築堤の一部を「砂利線跡」と思い込んでいたからだ。そしてそれを砂利線と思った根拠としては、その築堤上には相模川から採集された砂利を積んだトロッコやナベトロから築堤下の線路に停車中のホッパー車に積み下ろす的な写真を昔の倉見駅の写真で同様の光景を何かのタイミングで見たからであった。つまりその築堤こそ川寒川の名残と信じていたからであった。
現在の考えでは、その築堤は単純にかつての相模川の堤防の名残であると推測するが、もしかしたら倉見付近では倉見駅構内にかなり近づくため、実際に砂利線が一部の築堤を使用していたかも知れない。いずれにしても川寒川の場所は以前に私が特定していた場所ではなかった事、そして正確な場所をかなり高い解析度で確認できた事である。
画像はグーグルマップより、上記ふたつ前の画像の「グーグルマップ地点」の画像である。レールがあったという面影は無く完全に生活道路となっているが、こうして違った形で痕跡が残っているのも嬉しい。我が地元にこんなに奥深い鉄道風景があるなんて、ある意味得した気持ちである。ちなみに道の先にあるのは目久尻川で、かつては当然ながら鉄道橋があったはずであるが、現在は全く面影や痕跡はない。

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川寒川とは、相模線が開業当時に相模鉄道として茅ヶ崎から寒川間が開業したときにできた駅であった。駅といっても旅客を扱うのではなく、採取した砂利を積み込む貨物駅として寒川駅の構内側線扱いでの駅であった。川寒川は寒川から更に数百メートル西へ進み寒川神社の参道入口付近から本線と枝分かれして更に数百メートル進んだ場所にあるためとても「構内側線」とは思えない場所にあったが、当時のいろいろな手続き上のやりくりがあったのだろう。おかけで現在でもインターネットを開くと川寒川のデータや資料が少ない。ならは私がそこにひとつ加えてみたいというスケベ心もでてきてしまう。
まぁそん事より、とにかく川寒川とは何か?を早速紹介してみよう。

画像は「地理院地図」より1961~1969年撮影のものである。この写真の撮影時は既に川寒川への貨物支線は廃止されていたが、廃止から20年以上経過していた事となる。しかしながら航空写真からもかなりの痕跡をたどる事ができるのが素晴らしい。寒川からは西寒川へと向かう「寒川支線」も分岐されていたが、現在でもその廃線跡が遊歩道や、一之宮公園内ではレールも残っている貴重な「資料」として現在も受け継がれている。
川寒川は先述の通り、相模線開通時に誕生した駅で、採取した砂利を積み出す、いわば貨物駅であった。
当時の相模線の母体である相模鉄道は地元の融資により設立されているが、その中にはあの「湘南ビール」でお馴染みの熊沢酒造の先代の名も連ねていた。全くの余談であるが、妻の母者が若い頃、その熊沢酒造の息子と付き合っていたらしい。だが、他の男性からもモーションを受けたらしく、結局そのモーションを受けた男性に「鞍替え」したのだが、それが現在の旦那様・・・つまり私の義理の父者なのだ。って全くプライベートな話になってしまったが、それはともかく、その熊沢氏が株主であった関係からであろう都合から現在の相鉄いずみ野線の延伸計画に香川付近を通り平塚に抜けるルートが計画されていた。つまり、香川付近はまさに熊沢氏が広大な土地を所有していた関係からであろうという事からそんな延伸ルートが計画されていた。
そして寒川から先の西寒川方面への支線については近年まで旅客輸送として健在だった事は地味に有名で、私自身も小学校入学前から高校2年生頃まで西寒川の駅前に住んでいた経緯からその思い入れも強い。ただ、川寒川に関しては情報がほとんど無く、場所の特定も近年まで誤った情報の影響から本来の場所ではない場所を川寒川と特定していた。

同じく画像は「地理院地図」より1961~1969年撮影の相模線本線と川寒川への分岐部分を拡大してみた。写真撮影当時で廃止から20年以上経過しているのだが、かなりの痕跡を確認する事ができる。
だが・・・最近になって「国土地理院」監修の1961年~1969年頃の航空写真を何気なく見ていたら、町にある道路の変遷と共に川寒川の場所を何気なく特定できてしまった。便利なのは現在の航空写真と重ねてその場所等を比較して特定できる事。
その航空写真を使い特定した川寒川の場所は寒川町と平塚市を繋ぐ神川橋付近、現在の遊技場からスポーツ公園の野球グラウンド付近であった!現在全く面影なし!しかも中学時代はそのスポーツ公園で野球をしたりマラソンをしたりしていた!なんと私は川寒川で野球をしていた事になる!!あれほど謎に包まれた川寒川であったが、まるで狐に騙された思いであった。しかもその遊技場で何度かパチンコした事や道路を挟み対面にあるカラオケや焼き肉店等で過ごした事もあり、何かと川寒川と知らないうちに接触していた事になる。

そして「地理院地図」よりの現在の航空写真である。川寒川駅付近は高速道路や神川橋の土台や築堤と遊技場になり完全に面影や痕跡は無いが、分岐点付近は道路として目久尻川付近まで残っているのは先に紹介した写真と同じ光景である。
某鉄道アナリストの著書を参考にして特定していた場所は寒川神社の参道付近にある「参集殿」付近より相模川方面に折れた先の水道局付近であった。私は20数年それを信じていたが、脆くも崩れ去ってしまった。その資料を信じる根拠として、その付近には相模川に沿って背の低い築堤が寒川から倉見を経て社家辺りまで続いていたため、その築堤の一部を「砂利線跡」と思い込んでいたからだ。そしてそれを砂利線と思った根拠としては、その築堤上には相模川から採集された砂利を積んだトロッコやナベトロから築堤下の線路に停車中のホッパー車に積み下ろす的な写真を昔の倉見駅の写真で同様の光景を何かのタイミングで見たからであった。つまりその築堤こそ川寒川の名残と信じていたからであった。
現在の考えでは、その築堤は単純にかつての相模川の堤防の名残であると推測するが、もしかしたら倉見付近では倉見駅構内にかなり近づくため、実際に砂利線が一部の築堤を使用していたかも知れない。いずれにしても川寒川の場所は以前に私が特定していた場所ではなかった事、そして正確な場所をかなり高い解析度で確認できた事である。
画像はグーグルマップより、上記ふたつ前の画像の「グーグルマップ地点」の画像である。レールがあったという面影は無く完全に生活道路となっているが、こうして違った形で痕跡が残っているのも嬉しい。我が地元にこんなに奥深い鉄道風景があるなんて、ある意味得した気持ちである。ちなみに道の先にあるのは目久尻川で、かつては当然ながら鉄道橋があったはずであるが、現在は全く面影や痕跡はない。

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相模線 ヘビー・ローテーション☆アゲイン① プロローグ
2020-05-20
かつて私は再三に渡り、相模線についての見解を偉そうに豪語してきた。地元民ということ事もあって「俺は誰よりも相模線について知ってるぞ!」的な姿勢を貫いて来た感じがあったのだが・・・それは大きな勘違いであった!
私にとっての相模線は恋人のようなものでもあり、そして廃止された西寒川は母のような存在でもある。
相模線の歴史は実に奥深く、そして複雑な変遷をもつのだが、その紐を解けば解く程に奥深くに引きずり込まれて行くような気がする。

毎度お馴染みの西寒川駅の晩年の姿。画像はキハ30であるが、かつてはキハ20、キハ10などが活躍していた。更に2色塗装から、いわゆる「たらこ」の一色塗装へと変化していったのもこの時代である。
相模線の細かい歴史については「こちら」を参照していただくとして、大雑把に要約すると、とにかく相模線と砂利輸送は切っても切れない縁である事、そして関東大震災の復興時にその砂利輸送で会社が大きく潤い現在の形に近い形で路線を伸ばした事、そして何より近年では貨物輸送で活躍した西寒川(寒川支線)が廃止され茅ヶ崎~橋本間が電化された事、更に相模線に海老名駅が誕生したという事が大きな出来ごとであろう。更には相模線は元々相模鉄道であったが、国に買収され経営母体が代わった事、つまり国鉄として運営されていた事が最も重要な出来事であったろう。

大正時代より今も使用されている倉見駅の駅舎。関東大震災の教訓を生かし重厚に造られている事で現在でも使用できるのであろう、今も残る貴重な建築物となっている。
近年にインターネットが急速に発達して誰でも気軽に細分化された資料をリアルタイムで確認することができるようになった。
相模線の砂利輸送の歴史については私も当然ながら幼い頃より知っていたが、何せ写真など昔の映像画像を確認する術がなく、想像とか仮説、更には図書館等の資料や当時の生き証人的な伝説等に頼る他無かった。たが現在はインターネットで昭和30年代頃の航空写真を見れるようになった。もちろん、それ以前の航空写真も見てみたいが、恐らく技術的に記録が無いであろう。たが、昭和30年代の航空写真でも充分に砂利輸送の名残や廃線跡、そして相模線から枝分かれする数々の貨物引込み線を確認する事ができた。更に驚くべきは、お年玉としてなんと建設中だった東海道新幹線のルートをハッキリと確認できた事!これが一番の収穫でもあった。

「地理院地図」よりの1961~1969年に撮影された航空写真である。東海道新幹線開業が1964年、更に私が生まれたのが1969年であるからかなり貴重な画像である。ご覧のように新幹線が斜めに突っ切る工事中の姿がハッキリとわかる、という事は1961~1962年頃の撮影である事が判断できる。
で、今回はその奥深き歴史については私が新たに得た情報を皆様に公開し、そして私よりも知識豊富な先輩方達に少しでも近づき、そして仲間入りしたい気持ちである。

この画像は寒川文書館から拝借させていただいた昭和18年の倉見駅風景である。写真中央には貨物側線があり列車が停車しているが、更に左側には段差をつけた貨物側線がありそこに列車が停車してる。つまりこの段差によりナベトロ等で相模川より採取した砂利を貨物列車に移す際の作業が軽減され効率がよくなるという発想であろう。現在この段差部分の貨物側線は日本鉱業の従業員用駐車場になっているが、ものすごく貴重な写真である。
※今回の「相模線 ヘビーローテーション✩アゲイン」シリーズは新型コロナウィルス感染拡大防止による自粛要請により取材を自粛したため「地理院地図」と「グーグルマップ」の活用、更に過去に撮影した写真を含めて記事を作成いたしました。

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私にとっての相模線は恋人のようなものでもあり、そして廃止された西寒川は母のような存在でもある。
相模線の歴史は実に奥深く、そして複雑な変遷をもつのだが、その紐を解けば解く程に奥深くに引きずり込まれて行くような気がする。

毎度お馴染みの西寒川駅の晩年の姿。画像はキハ30であるが、かつてはキハ20、キハ10などが活躍していた。更に2色塗装から、いわゆる「たらこ」の一色塗装へと変化していったのもこの時代である。
相模線の細かい歴史については「こちら」を参照していただくとして、大雑把に要約すると、とにかく相模線と砂利輸送は切っても切れない縁である事、そして関東大震災の復興時にその砂利輸送で会社が大きく潤い現在の形に近い形で路線を伸ばした事、そして何より近年では貨物輸送で活躍した西寒川(寒川支線)が廃止され茅ヶ崎~橋本間が電化された事、更に相模線に海老名駅が誕生したという事が大きな出来ごとであろう。更には相模線は元々相模鉄道であったが、国に買収され経営母体が代わった事、つまり国鉄として運営されていた事が最も重要な出来事であったろう。

大正時代より今も使用されている倉見駅の駅舎。関東大震災の教訓を生かし重厚に造られている事で現在でも使用できるのであろう、今も残る貴重な建築物となっている。
近年にインターネットが急速に発達して誰でも気軽に細分化された資料をリアルタイムで確認することができるようになった。
相模線の砂利輸送の歴史については私も当然ながら幼い頃より知っていたが、何せ写真など昔の映像画像を確認する術がなく、想像とか仮説、更には図書館等の資料や当時の生き証人的な伝説等に頼る他無かった。たが現在はインターネットで昭和30年代頃の航空写真を見れるようになった。もちろん、それ以前の航空写真も見てみたいが、恐らく技術的に記録が無いであろう。たが、昭和30年代の航空写真でも充分に砂利輸送の名残や廃線跡、そして相模線から枝分かれする数々の貨物引込み線を確認する事ができた。更に驚くべきは、お年玉としてなんと建設中だった東海道新幹線のルートをハッキリと確認できた事!これが一番の収穫でもあった。

「地理院地図」よりの1961~1969年に撮影された航空写真である。東海道新幹線開業が1964年、更に私が生まれたのが1969年であるからかなり貴重な画像である。ご覧のように新幹線が斜めに突っ切る工事中の姿がハッキリとわかる、という事は1961~1962年頃の撮影である事が判断できる。
で、今回はその奥深き歴史については私が新たに得た情報を皆様に公開し、そして私よりも知識豊富な先輩方達に少しでも近づき、そして仲間入りしたい気持ちである。

この画像は寒川文書館から拝借させていただいた昭和18年の倉見駅風景である。写真中央には貨物側線があり列車が停車しているが、更に左側には段差をつけた貨物側線がありそこに列車が停車してる。つまりこの段差によりナベトロ等で相模川より採取した砂利を貨物列車に移す際の作業が軽減され効率がよくなるという発想であろう。現在この段差部分の貨物側線は日本鉱業の従業員用駐車場になっているが、ものすごく貴重な写真である。
※今回の「相模線 ヘビーローテーション✩アゲイン」シリーズは新型コロナウィルス感染拡大防止による自粛要請により取材を自粛したため「地理院地図」と「グーグルマップ」の活用、更に過去に撮影した写真を含めて記事を作成いたしました。

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いつか、その日が来る日まで・・・⑰ 鵡川
2020-05-15

かつては富内線を分岐していた鵡川であるが、私が訪問した時にはその面影は広い構内にのみやや感じる事がてきたのだが、レールが剥がされただ無駄に広い空間が多かったのは寂しい限りであった。




現在の駅舎になったのはJR発足直後の1987年とウィキに記されていた。もちろん何度かメンテナンスされているであろうが、それでも時間の経過を感じさせない空間である。
基本的に北海道の鉄道の役割は開拓部落などからの物資輸送や、そしてなんと言っても石炭輸送の活躍が非常に大きかった。つまり、沿線人口が少なくても貨物輸送で利益が潤うシーンが全国各地で見られたものであった。ただ北海道の場合、もともと人口の少ない場所にレールが敷かれているのに、時代と共に貨物輸送が無くなり旅客輸送だけで利益を上げようというのは無理な話。特に炭鉱路線は炭鉱の閉山と共にその炭鉱で働く従業員と家族の流出により、例えば万字線の万字炭山ように、閉山により現在のような無人地帯になってしまっては列車を走らせる意味がない。そのような事象が各地で起こり、北海道の鉄道路線は全盛期の半分以下になってしまった。更にはモータリゼ-ション
富内線の富内はもともと辺富内(へとない)と言っていたが、先輩達がいつしか「辺」を取り除いてしまい富内となった経緯がある。また終点の日高町からは占冠まで伸びる夢の路線が計画されていたが、それこそ夢に終わってしまった。もし開通していたとしてもいずれ廃止の運命を辿るであろうが、日高山脈を貫くのだから相当の費用と労力を必要としたであろう。とはいえ、占冠まで鉄路があったとしたら、ここ鵡川はまた違った顔を見せてくれた事であろう。



ウィキによると、この駅舎に接するホームは現在使用されていないらしい。構内踏切を渡った対向の島式ホームより列車は発着している。
さて、今回はレンタカーでの訪問となったが、駅前は一応ロータリーが整っており一大ターミナルの雰囲気をかもしだしていたが、私の訪問時には人影がなくひっそりとしていた。しかし、今回の旅で今まで巡ってきた駅との決定的な違いは列車がやって来るということだ。









ご覧の通り、駅の構造は2面3線で3番線より富内線が発着していたが、現在3番線はレールが撤去されていた。駅舎側のホームも使用していないため実質2番線のみ使用の棒線型ホームという事になる。
そして交換設備はもちろんあるのだが、恐らく現在の状況なら苫小牧~鵡川まで1閉塞での運転であろう。苫小牧~沼ノ端や鵡川まで、鉄路の変遷にやや激しい経緯があるのだが、そう遠くない将来にここ鵡川にも列車がやって来なくなる日が来るであろう。さらに宗谷本線や根室本線、更には留萌本線なども一部、または全部の廃止が囁かれている中、我々はどう鉄道と向き合えばいいのだろう。もしかして新幹線が札幌まで到達した時には既にその答えが出ているとしたら…


駅前ロータリーではこんなオブジェが建っていた。だが、現在は無人駅とは!国鉄時代から知っている私にしてみたらここ鵡川が無人駅なんて信じられない感じだ。
今回の「いつか、その日が来る日まで・・・」シリーズはこれで千秋楽となるが、鵡川~苫小牧間もいずれ廃止の声を聞く時がやってくるであろう。そして将来的に高速道路が静内まで到達し更に浦河までが最終目的地と聞く。襟裳を通り広尾を抜け帯広まで高速道路が繋がったら、それこそかつての国鉄時代の構想となる。果たして路線名はどうなっていたのだろう。日高本線と広尾線はそのままで、様似~広尾間は「襟裳線」となったのか、それとも国鉄バスの路線名をそのまま使い苫小牧~帯広間を全て「日勝線」と称するのか・・・みたいな夢は膨らむ。ただ、現状を考えると、もし実現していたとしてもいずれは現在と同じ道をたどったであろう。
石勝線に「トマム」があるが、その名の由来はもちろんアイヌ語であるのだが、一説には「苫小牧から鵡川を通り、行き着く先がトマム」という事であるらしい。その事からトマムは漢字で表記すると「苫鵡」となる。つまり苫小牧から武川を通り行き着く先」の「行き着く先」の役割が実は富内線で、日高町から先の計画線では「行き着く先」は占冠であった。

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いつか、その日が来る日まで・・・⑯ 静内
2020-05-10

日高本線で一番の要衝駅であり沿線最大の都市でもある静内。列車が来なくなって久しいが、それでも駅前は活気に満ちていた。ちょうど学生諸君の帰宅時間ということもあったが、駅前にはバスロータリーもあり大都市の風格を見せるも各駅停車しかやってこない駅では少々物足りない気もする。とはいえ、既に列車もやってこない状況ではあるが、切符売場を覗くと、なんとJRの職員がいるではないか❗て事はみどりの窓口も営業中?ということになる。
たた、札幌に出るのには意外に近そうであるがなかなか便利が良くないイメージである。しかし、近年には日高自動車道が開通し将来的にも静内にインターチェンジができる予定であるため、そんなイメージは払拭されよう。


静内の駅は街の中心機能を任されているイメージである。もちろん現在列車はやって来ないが、街の「顔」として今日も働いている。そして私の訪問時はみどりの窓口も営業していた事を考えると静内はまだ活きている!
さて、前回訪問の2009年では普通列車で苫小牧から様似までを往復したが、その時静内で16分の停車時間があった。その時、素敵な香りが駅舎の方から私を誘っていたが、なんと立ち食い蕎麦屋がある事を初めて知らされたのだ。16分で果たして完食することが出来るのだろうか…そんな不安から結局食べず終いであったが、今考えたら余裕で完食できた事だろうと思う。なので今回の訪問で「必ず❗」と思っていたが、いざ現地に着くと、その場所は固くカーテンで閉ざされていた。だが、恐らく廃業とかではなく単純に営業時間外か定休日的な趣であったので次回の訪問で「必ず❗」的な感情が湧いてきた。もちろん、JRの動向により駅自体がどう変化するかにも寄るが、基本的には暫く現状維持的なイメージであろう。





駅の構造は、イメージ的に相対式ホームであり1番線は駅舎に接している国鉄式である。様似からここまで訪問してきて一番構内が広く感じるのは当然であるが、列車がやって来ない今、街の雰囲気とは裏腹にこの駅の空間だけ静寂としていた。
さて、今回のシリーズはここ静内までと次回アップの鵡川で千秋楽となるが、日高本線の末端部訪問を振り返ってみると、やはり寂れ方がかなり大きく時代に取り残されたイメージであった。かつては日高支庁の中心であった浦河も、駅としては完全に役目を終えたイメージであったし、もし襟裳経由で広尾までレールが繋がっていたとしても、現在と同じ運命を辿っていた事であろう。
特急「えりも」がもし運転されていたら停車駅はどんな感じなのだろう。そんな事を中学生時代に考えた事もあった。
札幌、千歳空港(現.南千歳)、苫小牧、静内、浦河、様似、襟裳、広尾、大樹、帯広
こんな感じだろうか。週末は愛国と幸福に臨時停車的なイメージでもいい。


前回の訪問時から気になっていたご覧の屋根付きホーム。何となく昔見たプラレールの「ちかてつのえき」的な雰囲気を醸し出すのがとても魅力的!
そんな夢を見せてくれた日高本線は、いつしか支線を持たない本線となり、そして我々が見てきた赤字ローカル線の行く末を、日高本線も同じく辿ろうとしている。なぜ鉄道はいつも哀愁を感じなければいけないのであろう。そんな事を考えながら鵡川に向けアクセルを踏み込んだ。

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いつか、その日が来る日まで・・・⑮東静内
2020-05-05

静内のひとつとなりにあるからそれなりに利用者があるのでは?と思っていたら案の定多かった。と行っても一桁であるのだから利用者がいるかいないかの勝負である。
ウィキによると「かつて当駅の所在地は捫別(もんべつ)と称していたが、地名に合わせて駅名も捫別にすると同音の地名が道内各地にあり紛らわしくなるため、静内町の東方に位置することから東静内とした。地名は駅名に合わせてのちに改称されたものである」と記されていた。つまり元の地名から駅名に合わせ地名が変更されたという事である。ある意味、愛知県の豊田市のように「車の町」として自動車メーカーの名に合わせて市名を変更したケースに類似しているようである。
さて、ここ東静内もかつては島式ホームであった名残を感じる。つまり列車交換ができたという事であるが、隣の駅が静内という事もあり、それほど列車交換は多く行われなかったであろう。
そして駅舎であるが、ここも旧駅舎からいわゆる貨車駅になりそして現在の駅舎に改築されたという経緯がある。やはり貨車駅は一般に評判的には良くないのであろうか。

ウィキによると1994年より現在の駅舎になったとの報告があった。とても20年以上経っているとは思えないメンテナンスぶりに脱帽であるが、このままフェードアウトさせるのは勿体無い。






ご覧の通り島式ホームの名残を充分に感じる事ができる現在である。やはり静内のとなりという事もあるのか、周囲に生活感を感じるのが嬉しい。


昭和、感じるよね?とは言うものの、私の志向から全国のレール施設を周る事が多いが、改めて思うことは「昭和に比べかなり設備などが簡素化された」という事。もちろん、メンテナンス的な経費やその他もろもろの経費を抑える目的もあるが、その一方で駅舎のリニューアル等JRのやる気も感じる場面もあるのが嬉しい。

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