夏色の相模鉄道① 海老名
2020-06-30
前回の「相模線・ベビーローテーション」シリーズより引き続き今回も航空写真等を交えながら紹介したいと思うが、周知の通り、相模線と相模鉄道は切っても切れない縁であり、相模線の前身は相模鉄道であった。そして現在の相鉄本線の前身は神中鉄道だったという複雑な変遷を持つ。そして厚木駅は相模鉄道と神中鉄道の接続駅であり相鉄厚木線は「本線」であった。
やがて神中鉄道を相鉄が買収し元々の相鉄本線である相模線が国に買収され現在に至るわけであるが、地方の鉄道が次々と衰退したり廃止されていく中で、相模鉄道は令和になった現在でも進化している。車両的な事はもちろんであるが、いずみ野線が湘南台まで延伸されたり、西谷からJRに乗り入れたりと近年の発展は留まる事を知らない。さらに新横浜方面への延伸も決定し、私たちがイメージしていた相鉄カラーが完全に変わった感じだ。


今回も緊急事態宣言の自粛要請に伴い「地理院地図」より参考にしてみたい。現在と1961年頃との比較であるが、駅が数百メートル移転しているのがわかる。移転前で相鉄が小田急に乗り入れる形で本厚木までの運転を実現していた。
それこそかつては砂利輸送が主体であった頃や資金不足で横浜までの延伸に苦労したとか、それぞれのいろいろなエピソードが現在では想像できないくらいに「準大手」のイメージは今はない。しかしながら海老名寄りでは相模国分から分岐する相鉄厚木線の存在や旧大塚本町の駅舎はかしわ台の駅舎として活躍(現在は改築された)していたりと、まだまだ昔の面影が少なくない。
そんな歴史の紐を解くべく、今回も「地理院地図」の航空写真を活用させていただいて「Google Map」のストリートビューと併せて相模鉄道の変遷を追ってみたい。


かつての海老名を拡大してみた。同じく「地理院地図」より現在と1961年との比較。かつての海老名駅は完全に相鉄と小田急の通過地点の一部になり完全にホームがあった面影はない。ただ、駅前の道路等はかつての名残があり現在も雰囲気は残っているが、ご覧の通りかなり狭く、もちろんロータリー的なスペースもない。もし現在移転していなかったら大変な事になっていただろう。
海老名といえば現在は相鉄の起点であるが、元々は厚木が起点だったためこちらは「後輩」という事になる。相模鉄道の気持ちとしては相模川の対岸にある厚木市にまで鉄路を敷きたかったであろうが、技術的な部分と資金難などの問題から実現せず、先に相模川に橋を架ける事に成功した小田急線を介す事で本厚木に乗り入れを実現させている。
しかしながら小田急が利用者増による列車増発と海老名に車両基地を作る関係から海老名駅自体が現在の位置に移設された際に相鉄の乗り入れがなくなった。更に、後述するが海老名と大塚本町の間に相鉄の車庫を作り車庫付近に駅を設置するため大塚本町をかしわ台とさがみ野に分割させかしわ台を車庫に隣接させる駅として機能させた。


旧・海老名から至近距離にある相模国分信号場の新旧比較。ご覧の通り、旅客駅時代と規模的に殆んど変わっていないのがわかる.。現在も旅客ホームは健在であるが、ホームに接するレールは撤去されている。
そんな事もあり、小田急線の海老名駅が移設するに合わせて相鉄も移設されますます本厚木への乗り入れが困難な状況になった。国鉄末期には相模線にも海老名駅が開設され乗り換えに便利になり、近年ではロマンスカーも停車するようになった。駅前も発展が目覚ましく、気がついたら何もなかった駅前にはビナウォークやららぽーとが進出し本厚木よりも大都会的なイメージに変身した。
現在の相模国分をグーグルマップのストリートビューにてご覧頂こう。ご覧の通り、まだまだ昔の面影を残す。特にホームの有効長が現役時代のままである。恐らく2両編成が限界であろう姿は「砂利輸送」の時代を彷彿させる。
激変した海老名であるが、そんな中、異彩を放つ隣の相模国分信号場の存在を忘れてはならない。かつては旅客駅であったが、現在は厚木線を分岐する役割となっているが、かつての旅客ホームも健在だ。もちろん関係者しか利用できないよう外部からの侵入を防ぐ仕組みになっている。だが、ホームの長さは我々がイメージしている相鉄には程遠いくらい華奢な存在である。なんたって車両2~3両分しかないため車両基地7は更に横浜方面へ進むとかしわ台到着前に相鉄車庫が見えてくるのでレールファンは確認作業に忙しいと思うが、かなり楽しめるであろう。現に私がそうなのであるから。
最後は可動地図で新旧の海老名駅比較をしてみたい。かつて周囲は本当に田んぼなどしか無かった事がよくわかるであろう。私の記憶でも小学生中学生時代では現在の海老名駅前が想像できないくらいの発展途上であった。

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やがて神中鉄道を相鉄が買収し元々の相鉄本線である相模線が国に買収され現在に至るわけであるが、地方の鉄道が次々と衰退したり廃止されていく中で、相模鉄道は令和になった現在でも進化している。車両的な事はもちろんであるが、いずみ野線が湘南台まで延伸されたり、西谷からJRに乗り入れたりと近年の発展は留まる事を知らない。さらに新横浜方面への延伸も決定し、私たちがイメージしていた相鉄カラーが完全に変わった感じだ。


今回も緊急事態宣言の自粛要請に伴い「地理院地図」より参考にしてみたい。現在と1961年頃との比較であるが、駅が数百メートル移転しているのがわかる。移転前で相鉄が小田急に乗り入れる形で本厚木までの運転を実現していた。
それこそかつては砂利輸送が主体であった頃や資金不足で横浜までの延伸に苦労したとか、それぞれのいろいろなエピソードが現在では想像できないくらいに「準大手」のイメージは今はない。しかしながら海老名寄りでは相模国分から分岐する相鉄厚木線の存在や旧大塚本町の駅舎はかしわ台の駅舎として活躍(現在は改築された)していたりと、まだまだ昔の面影が少なくない。
そんな歴史の紐を解くべく、今回も「地理院地図」の航空写真を活用させていただいて「Google Map」のストリートビューと併せて相模鉄道の変遷を追ってみたい。


かつての海老名を拡大してみた。同じく「地理院地図」より現在と1961年との比較。かつての海老名駅は完全に相鉄と小田急の通過地点の一部になり完全にホームがあった面影はない。ただ、駅前の道路等はかつての名残があり現在も雰囲気は残っているが、ご覧の通りかなり狭く、もちろんロータリー的なスペースもない。もし現在移転していなかったら大変な事になっていただろう。
海老名といえば現在は相鉄の起点であるが、元々は厚木が起点だったためこちらは「後輩」という事になる。相模鉄道の気持ちとしては相模川の対岸にある厚木市にまで鉄路を敷きたかったであろうが、技術的な部分と資金難などの問題から実現せず、先に相模川に橋を架ける事に成功した小田急線を介す事で本厚木に乗り入れを実現させている。
しかしながら小田急が利用者増による列車増発と海老名に車両基地を作る関係から海老名駅自体が現在の位置に移設された際に相鉄の乗り入れがなくなった。更に、後述するが海老名と大塚本町の間に相鉄の車庫を作り車庫付近に駅を設置するため大塚本町をかしわ台とさがみ野に分割させかしわ台を車庫に隣接させる駅として機能させた。


旧・海老名から至近距離にある相模国分信号場の新旧比較。ご覧の通り、旅客駅時代と規模的に殆んど変わっていないのがわかる.。現在も旅客ホームは健在であるが、ホームに接するレールは撤去されている。
そんな事もあり、小田急線の海老名駅が移設するに合わせて相鉄も移設されますます本厚木への乗り入れが困難な状況になった。国鉄末期には相模線にも海老名駅が開設され乗り換えに便利になり、近年ではロマンスカーも停車するようになった。駅前も発展が目覚ましく、気がついたら何もなかった駅前にはビナウォークやららぽーとが進出し本厚木よりも大都会的なイメージに変身した。
現在の相模国分をグーグルマップのストリートビューにてご覧頂こう。ご覧の通り、まだまだ昔の面影を残す。特にホームの有効長が現役時代のままである。恐らく2両編成が限界であろう姿は「砂利輸送」の時代を彷彿させる。
激変した海老名であるが、そんな中、異彩を放つ隣の相模国分信号場の存在を忘れてはならない。かつては旅客駅であったが、現在は厚木線を分岐する役割となっているが、かつての旅客ホームも健在だ。もちろん関係者しか利用できないよう外部からの侵入を防ぐ仕組みになっている。だが、ホームの長さは我々がイメージしている相鉄には程遠いくらい華奢な存在である。なんたって車両2~3両分しかないため車両基地7は更に横浜方面へ進むとかしわ台到着前に相鉄車庫が見えてくるのでレールファンは確認作業に忙しいと思うが、かなり楽しめるであろう。現に私がそうなのであるから。
最後は可動地図で新旧の海老名駅比較をしてみたい。かつて周囲は本当に田んぼなどしか無かった事がよくわかるであろう。私の記憶でも小学生中学生時代では現在の海老名駅前が想像できないくらいの発展途上であった。

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相模線 ヘビー・ローテーション☆アゲイン⑦ 社家
2020-06-25
相模線の砂利採取は北限で恐らく相武台下までだと思われるが、それまでの途中駅でもかなり砂利採取からの輸送に対し貢献してきた事をこれまで紹介してきた。今回でこの「相模線 ベビーローテーション☆アゲイン」シリーズは千秋楽を迎えるが、最後に社家を紹介してみよう。
社家の駅舎は倉見同様に重厚なコンクリート製であるのは以前にも紹介して周知の通りであるが、ここ社家からも砂利線が分岐していた。
現在の社家駅風景は「グーグルマップ」より「ストリートビュー」にて拝借した。倉見の駅舎とほぼ同じ造りであるのは関東大震災の教訓からである事は先述通りである。
現在、砂利採取の貨物側線があった場所はマンションとなってしまい面影が全く無いが、私が小学生の頃くらいまではその側線が健在であったし、撤去されたあとの更地などを何度も見た事があるので非常に馴染みがある。だが、当然ながら砂利採取は終了していたはずなので広い構内をもて余していた感があった。
そんな社家の側線空間も、現在はマンションに変わり旅客駅としての社家に対しバックアップ的な存在になっている。つまり相模川付近まで伸びていた砂利線も併せてかつての面影は全くと言って良いほど無い。あるのは「あの側線跡にマンションが建つんだ~」と子供ながらに感じ、そして暫く月日が流れた後に「でっかいマンションだな~」と激変した車窓を眺めていた記憶である。

「地理院地図」の画像より1961年頃撮影の社家駅航空写真。社家から分岐する砂利線が大きく弧を描がき相模川へ伸びているのがわかる。大きなカーブの最中に列車の留置ができるくらいのスペースがある事がハッキリ確認できるが、既にこの頃は砂利採取は終了している。それにしてはハッキリとした痕跡が残っているのが素晴らしい。
もともと私は西寒川駅前在住であったので寒川以北の相模線沿線風景はそれほど頻度の高い回数で見たことは無かったが、高校生くらいから倉見に居を移したため、相模線以外でも寒川以北の風景を見る頻度が高くなった。
そんな中、当時は知らなかったが門沢橋~社家間にも相模川に向かう砂利側線が、というより恐らくナベトロ又は馬車鉄道のようなトロッコ路線であろう地味な貨物線があった。つい最近その存在を知るわけだが、現在は道路に転用されていたり住宅になっていたりで面影は無い。

そして社家の現在であるが、完全に昔の面影は無い。貨物側線だった場所にはマンションが建ち駅周囲は完全に激変した。
さて旅客駅としての社家であるが、先述のコンクリート製の駅舎の存在感は大であるが、付近に有馬高校がある事もあり学生の利用も少なくない。そのためスプリング式のポイントがある島式ホームには跨線橋が設置された。ただ、跨線橋が設置されたり駅舎がリニューアルされたりしてるのは相模線の各駅全体にいえるのたが、やはり砂利輸送にかわり旅客輸送が主体となり、その旅客も年々増加傾向であったのだからであろう。更には電化され若干ながらスピードもアップした。ただ、どうも複線化する勇気は無いようで、列車交換駅も非電化時代と変わらないためどうしてもそれ以上のスピードアップができないのが現実である。特に寒川~茅ヶ崎間は複線化しないともったいないくらい利用者が増えた。ちなみに現在の寒川の1日の乗降客は1万2千人位であるが、昭和50年代では7~8千人くらいであったのでほぼ倍近くくらいまで増えた。
寒川だけでなく他の相模線各駅も利用者が増え、社家も以前は400人くらいであったのが現在は4千人を超えるくらいにまで増えた。もう完全に砂利輸送時代のイメージはなくなっているであろう。
航空写真の比較でも完全に砂利線の形跡がゼロになっているのがわかるが、砂利輸送の設備はそれなりに広かったのもお分かりいただけると思うので、この社家も相当量の砂利が採取されていたのであろう。
上記の1961年頃の社家駅界隈を可動式で掲載してみた。地図を広域で見てみると相模川の川幅の変化がわかる。そしてかつての砂利採取場は高速道路になり水道局的な設備になってしまいかつての面影は殆んど無い。
相模線のかつての姿を航空写真で比較するという私自身初の試みであったが、今回はかなり収穫があり、そして相模線の砂利輸送の実態がハッキリと現実的な歴史として実感を得たイメージである。もちろん自家用車で現地に訪問できなくもないが、というより最近は転勤した関係から相武台下付近はほぼ毎日車で通ってるためちょっと寄り道‥みたいな事もできなくもないが、やはり今は「緊急事態宣言」の最中(記事執筆当時)であるためできる限り協力していかなければならない。逆にこうした時だからこそ新しい発見ができたのも正直なところである。
こうした中、私は仕事があり、そして健康状態が維持できている事は本当に幸せなんだと改めて実感しているが、とにかく早期に収束してほしい限りである。そしてこの経験を次回に必ず活かし、例えば国の対応や事務処理等のタイムラグをなくしスピーディーに行動するなどハッキリとした形で政府と国民がギブアンドテイクになれば日本の素晴らしさを世界にもっと知ってもらえる事になるであろう。

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社家の駅舎は倉見同様に重厚なコンクリート製であるのは以前にも紹介して周知の通りであるが、ここ社家からも砂利線が分岐していた。
現在の社家駅風景は「グーグルマップ」より「ストリートビュー」にて拝借した。倉見の駅舎とほぼ同じ造りであるのは関東大震災の教訓からである事は先述通りである。
現在、砂利採取の貨物側線があった場所はマンションとなってしまい面影が全く無いが、私が小学生の頃くらいまではその側線が健在であったし、撤去されたあとの更地などを何度も見た事があるので非常に馴染みがある。だが、当然ながら砂利採取は終了していたはずなので広い構内をもて余していた感があった。
そんな社家の側線空間も、現在はマンションに変わり旅客駅としての社家に対しバックアップ的な存在になっている。つまり相模川付近まで伸びていた砂利線も併せてかつての面影は全くと言って良いほど無い。あるのは「あの側線跡にマンションが建つんだ~」と子供ながらに感じ、そして暫く月日が流れた後に「でっかいマンションだな~」と激変した車窓を眺めていた記憶である。

「地理院地図」の画像より1961年頃撮影の社家駅航空写真。社家から分岐する砂利線が大きく弧を描がき相模川へ伸びているのがわかる。大きなカーブの最中に列車の留置ができるくらいのスペースがある事がハッキリ確認できるが、既にこの頃は砂利採取は終了している。それにしてはハッキリとした痕跡が残っているのが素晴らしい。
もともと私は西寒川駅前在住であったので寒川以北の相模線沿線風景はそれほど頻度の高い回数で見たことは無かったが、高校生くらいから倉見に居を移したため、相模線以外でも寒川以北の風景を見る頻度が高くなった。
そんな中、当時は知らなかったが門沢橋~社家間にも相模川に向かう砂利側線が、というより恐らくナベトロ又は馬車鉄道のようなトロッコ路線であろう地味な貨物線があった。つい最近その存在を知るわけだが、現在は道路に転用されていたり住宅になっていたりで面影は無い。

そして社家の現在であるが、完全に昔の面影は無い。貨物側線だった場所にはマンションが建ち駅周囲は完全に激変した。
さて旅客駅としての社家であるが、先述のコンクリート製の駅舎の存在感は大であるが、付近に有馬高校がある事もあり学生の利用も少なくない。そのためスプリング式のポイントがある島式ホームには跨線橋が設置された。ただ、跨線橋が設置されたり駅舎がリニューアルされたりしてるのは相模線の各駅全体にいえるのたが、やはり砂利輸送にかわり旅客輸送が主体となり、その旅客も年々増加傾向であったのだからであろう。更には電化され若干ながらスピードもアップした。ただ、どうも複線化する勇気は無いようで、列車交換駅も非電化時代と変わらないためどうしてもそれ以上のスピードアップができないのが現実である。特に寒川~茅ヶ崎間は複線化しないともったいないくらい利用者が増えた。ちなみに現在の寒川の1日の乗降客は1万2千人位であるが、昭和50年代では7~8千人くらいであったのでほぼ倍近くくらいまで増えた。
寒川だけでなく他の相模線各駅も利用者が増え、社家も以前は400人くらいであったのが現在は4千人を超えるくらいにまで増えた。もう完全に砂利輸送時代のイメージはなくなっているであろう。
航空写真の比較でも完全に砂利線の形跡がゼロになっているのがわかるが、砂利輸送の設備はそれなりに広かったのもお分かりいただけると思うので、この社家も相当量の砂利が採取されていたのであろう。
上記の1961年頃の社家駅界隈を可動式で掲載してみた。地図を広域で見てみると相模川の川幅の変化がわかる。そしてかつての砂利採取場は高速道路になり水道局的な設備になってしまいかつての面影は殆んど無い。
相模線のかつての姿を航空写真で比較するという私自身初の試みであったが、今回はかなり収穫があり、そして相模線の砂利輸送の実態がハッキリと現実的な歴史として実感を得たイメージである。もちろん自家用車で現地に訪問できなくもないが、というより最近は転勤した関係から相武台下付近はほぼ毎日車で通ってるためちょっと寄り道‥みたいな事もできなくもないが、やはり今は「緊急事態宣言」の最中(記事執筆当時)であるためできる限り協力していかなければならない。逆にこうした時だからこそ新しい発見ができたのも正直なところである。
こうした中、私は仕事があり、そして健康状態が維持できている事は本当に幸せなんだと改めて実感しているが、とにかく早期に収束してほしい限りである。そしてこの経験を次回に必ず活かし、例えば国の対応や事務処理等のタイムラグをなくしスピーディーに行動するなどハッキリとした形で政府と国民がギブアンドテイクになれば日本の素晴らしさを世界にもっと知ってもらえる事になるであろう。

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相模線 ヘビー・ローテーション✩アゲイン⑥ 厚木(後編)
2020-06-20
ところで相模線は砂利輸送においてかなりの活躍をしたわけだが、実はここ厚木には小田急との短絡線が存在した。相模線と小田急での短絡とはあまりイメージつかないが、これは軍事的な要素が含まれていて、いわゆる東海道線の代替え・迂回路線として国から要請を受け作られた短絡線である。航空写真で見てみるとその存在がハッキリとわかる。さらにその短絡線には何本か側線があり、貨物列車が留置される。現在はもちろん撤去されているが、空間だけはそのままの形で再利用されているので非常にわかりやすい。
小田急短絡線の現在をグーグルマップで表現させていただいた。団地の通路が小田急から斜めに弧を描くようにカーブしている点に面影を感じる。ただ、ここに住んでおられる方の中にこの場所がかつて短絡線だった歴史を知る方がいたら是非お会いして話を伺ってみたい。
また、相模線側ではその短絡線の分岐点の手前で相模川へ伸びる砂利輸送引き込み線が分岐されていて、かつての相模興業の正門より侵入する形を取っていた。そのため短絡線から直接引き込み線に侵入する事ができない構造となっていたが、この短絡線と砂利線とは密接な関係が無いので直通の必要性は無かったが、本当に分岐点が紙一重なので少々勿体無いイメージも個人的にした。




厚木駅界隈を拡大してみた。上から1961年頃、1974年頃、1988年頃、現在の順番であるが、先述通り、小田急のホームが若干移動しているのがハッキリわかる。そして小田急短絡線や相模工業への砂利引き込み線も、現役時代の原型をほぼとどめながら現在に至っているのも感じる事ができる。
私が幼少の頃はその引き込み線をハッキリと見ていたが、既に使用されていなかったと思われ、やがて気づかぬうちに撤去され砂利輸送の盛栄は完全に過去に葬られていた。
その引き込み線の名残は現在でもハッキリと確認できる。某祭典場の駐車場であるが、相模線から胃袋のような形で膨らみ弧を描いて旧相模興業手前で収束している。つまり引き込み線途中で列車交換ができたという事である。更に旧相模興業内の砂利採取場は広い!相当量の砂利採取量があったであろう。
相模工業砂利引き込み線の現在をグーグルマップで覗いてみた。某祭典場の駐車場にハッキリとその名残を感じる事ができる。
更に厚木の重要性を知る事として、1970年代~1990年代頃駅の北側にセメント工場への引き込み線もあった。セメント工場から貨物を積んだ列車は一旦厚木駅構内に入線し、スイッチバックの形で進行方向を変え相鉄厚木線を介して横浜方面へと運転されていた。西横浜辺りから国鉄に乗り入れ東海道貨物線を経由したと思われるが、晩年は西横浜の短絡線が廃止され相模線を介して茅ヶ崎経由で横浜方面への輸送に変更されていた。
相模線と相鉄線は切っても切れない縁でもあるのだが、かつては貨物輸送が非常に重要だった事が非常に伝わってくる。関東大震災の復興でレンガの材料となる砂利を輸送する事で大きく潤ってきた相模鉄道~相模線であるが、電化され205系が走る現在、特に若い世代がその面影を感じるのが難しい作業となっているであろう。私でさえかつてキハ10やキハ20が主力だった時代が信じられないくらい発展目覚しい相模線の各駅と沿線である。
厚木界隈の比較を「地理院地図」で見てみたい。1961年頃(上)と現在であるが、上の画像では小田急短絡線と相模工業への引き込み線がハッキリと確認できる。

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小田急短絡線の現在をグーグルマップで表現させていただいた。団地の通路が小田急から斜めに弧を描くようにカーブしている点に面影を感じる。ただ、ここに住んでおられる方の中にこの場所がかつて短絡線だった歴史を知る方がいたら是非お会いして話を伺ってみたい。
また、相模線側ではその短絡線の分岐点の手前で相模川へ伸びる砂利輸送引き込み線が分岐されていて、かつての相模興業の正門より侵入する形を取っていた。そのため短絡線から直接引き込み線に侵入する事ができない構造となっていたが、この短絡線と砂利線とは密接な関係が無いので直通の必要性は無かったが、本当に分岐点が紙一重なので少々勿体無いイメージも個人的にした。




厚木駅界隈を拡大してみた。上から1961年頃、1974年頃、1988年頃、現在の順番であるが、先述通り、小田急のホームが若干移動しているのがハッキリわかる。そして小田急短絡線や相模工業への砂利引き込み線も、現役時代の原型をほぼとどめながら現在に至っているのも感じる事ができる。
私が幼少の頃はその引き込み線をハッキリと見ていたが、既に使用されていなかったと思われ、やがて気づかぬうちに撤去され砂利輸送の盛栄は完全に過去に葬られていた。
その引き込み線の名残は現在でもハッキリと確認できる。某祭典場の駐車場であるが、相模線から胃袋のような形で膨らみ弧を描いて旧相模興業手前で収束している。つまり引き込み線途中で列車交換ができたという事である。更に旧相模興業内の砂利採取場は広い!相当量の砂利採取量があったであろう。
相模工業砂利引き込み線の現在をグーグルマップで覗いてみた。某祭典場の駐車場にハッキリとその名残を感じる事ができる。
更に厚木の重要性を知る事として、1970年代~1990年代頃駅の北側にセメント工場への引き込み線もあった。セメント工場から貨物を積んだ列車は一旦厚木駅構内に入線し、スイッチバックの形で進行方向を変え相鉄厚木線を介して横浜方面へと運転されていた。西横浜辺りから国鉄に乗り入れ東海道貨物線を経由したと思われるが、晩年は西横浜の短絡線が廃止され相模線を介して茅ヶ崎経由で横浜方面への輸送に変更されていた。
相模線と相鉄線は切っても切れない縁でもあるのだが、かつては貨物輸送が非常に重要だった事が非常に伝わってくる。関東大震災の復興でレンガの材料となる砂利を輸送する事で大きく潤ってきた相模鉄道~相模線であるが、電化され205系が走る現在、特に若い世代がその面影を感じるのが難しい作業となっているであろう。私でさえかつてキハ10やキハ20が主力だった時代が信じられないくらい発展目覚しい相模線の各駅と沿線である。
厚木界隈の比較を「地理院地図」で見てみたい。1961年頃(上)と現在であるが、上の画像では小田急短絡線と相模工業への引き込み線がハッキリと確認できる。

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相模線 ヘビー・ローテーション☆アゲイン⑥ 厚木(前編)
2020-06-15
「厚木」駅と名乗っているが、実際の所在地は海老名市なのは地味に有名な話で、厚木市は相模川を挟んで対岸にある。そして厚木市にある市の代表駅は小田急線の相模厚木から改称された本厚木である。
なぜ小田急が厚木を名乗っていないのかは歴史的背景によるものだが、更になぜ対岸の駅が厚木と名乗っているかは、やはり対岸の厚木の方が海老名よりメジャーだったという事であろうか。つまり千葉県浦安にあるのに「東京ディズニーランド」と名乗っているのと同じような感覚であろう。とはいえ浦安にあるからといって「浦安ディズニーランド」となのらなければいけないという法律や法則などないわけで、対岸の海老名市にあるからといって「厚木」を名乗ってはいけないという訳でもないのであえてメジャーの選択をしたのだろう。本当は相模川に橋を架け厚木まで到達させたかったであろうが、当時の技術的な部分と資金的部分が殆どの理由で実現できなかったと思われるのだが、後に開通した小田急は相模川に橋を架け厚木市まで鉄路を到達させ厚木市に駅を設置するのに成功した。


今回も「地理院地図」よりフォローいただいた。厚木駅周辺の1961年頃(上)と現在(下)の比較である。小田急のホームの位置が若干ズレているのは、相模川の鉄橋架け替えがあったためで、開業当時よりやや北側に移設された。
後から開通した小田急は厚木市に駅を設置する際に駅名に頭を悩ませた事であろうが、最初のネーミングである相模厚木より今の本厚木の方がしっくりくるしロマンスカー停車駅としての風格もでてくる。かつては相鉄が海老名より小田急線を介して本厚木まで乗り入れていた事を思うと、やはり厚木という場所は昔の人が見てもメジャーだったのであろう。
そんな「メジャー」とは裏腹に、相模線の「厚木」は鉄道設備や運転上のやりとりについてはかなり重要なポジションであるが、所在地周辺は海老名の中心部でもなければ市街地があるわけでもない。開業当時から今もずっと厚木駅前はのどかな時間が過ぎている。
もちろん開業当時から比べれば辺り一面には住宅やマンションが建ち並びいくらか賑わいを見せるが、やはりどこか庶民的なムードがいつになく漂う。


小野田セメント専用線と旧・厚木駅構内の変遷を「地理院地図」にて比較してみたい。上が1974年、下が現在であるのだが、現在は完全に小野田セメントの専用線はもちろん、工場も住宅に変化していて当時の面影を感じる事ができない。
さてそんな厚木であるが、砂利輸送時代的にはどうだったのだろう。その答は?それはそれは重要なポジションであり現在の相鉄本線の前身である神中鉄道との接続駅でもあった。そして相模線沿線で採取された砂利は神中鉄道を介して横浜方面へと送られていった。その接続駅であった名残が相鉄厚木線と厚木にある相鉄の電留線である。もともとその電留線も貨物用として使用していたもので、厚木駅自体も現在より若干橋本寄りの線路が沢山ある場所であった。やがて小田急が開通し、その交点付近に「乗降場」として旅客設備を作ったのが現在の厚木駅の原型である。多分、イメージ的には昔の小松島線小松島と小松島港や野上電気鉄道の日方と連絡口のような関係だったのであろう。

7年くらい前に撮影した厚木駅の新旧ホームの共演。というか、この時から7年経過した現在でも旧ホームが残るのはある意味嬉しい。ちなみに左側が新ホームで駅舎と直結し小田急との乗り換えに便利になった。
私が幼少時代から経験し知っている国鉄時代には既に現在の形になっていて、下り列車は正式に厚木駅となった乗降場に停車したあと、ホームが無くなった旧厚木駅の場所で列車交換が行われていた。上り列車はその逆となるわけだが、記憶だと確か職員専用の細い島式ホームがあり、そこで列車交換時にタブレットの受け渡しが行われていた。相模線に海老名が開設されてからはほとんどその場所で列車交換風景を見る事がなくなったが、それでも昔の名残を現在でも感じる事ができるのは嬉しい。
更にJRになった現在では駅舎から相模線のホームに行く場合、側線と相模線のレールを構内踏切で渡らなければならず、列車横行の際には構内踏切が遮断され小田急の乗り換え時などには支障を来たしていた。そして利用者も増えていった事から安全面での問題も考慮した理由から、近年に側線を撤去しその側線のあった場所に新たに棒線型ホームを設置して構内踏切を使用せずに乗り換え等ができるようになりとても便利になった。しかしながら資金的な関係から旧ホームも取り壊されずに現存しているので、もしかしたら新旧ホームの姿を記録できるチャンスが今しかないかも知れない。
<おまけ>橋脚架け変えにより残った旧線の橋桁が現在でも残る。ちなみに私用の関係からの外出の際に本日もこの場所をマイカーで通ったが、今でもハッキリと残っていた。
※今回の記事も航空写真は「地理院地図」、ストリートビューはグーグルマップを利用させていただきました。

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なぜ小田急が厚木を名乗っていないのかは歴史的背景によるものだが、更になぜ対岸の駅が厚木と名乗っているかは、やはり対岸の厚木の方が海老名よりメジャーだったという事であろうか。つまり千葉県浦安にあるのに「東京ディズニーランド」と名乗っているのと同じような感覚であろう。とはいえ浦安にあるからといって「浦安ディズニーランド」となのらなければいけないという法律や法則などないわけで、対岸の海老名市にあるからといって「厚木」を名乗ってはいけないという訳でもないのであえてメジャーの選択をしたのだろう。本当は相模川に橋を架け厚木まで到達させたかったであろうが、当時の技術的な部分と資金的部分が殆どの理由で実現できなかったと思われるのだが、後に開通した小田急は相模川に橋を架け厚木市まで鉄路を到達させ厚木市に駅を設置するのに成功した。


今回も「地理院地図」よりフォローいただいた。厚木駅周辺の1961年頃(上)と現在(下)の比較である。小田急のホームの位置が若干ズレているのは、相模川の鉄橋架け替えがあったためで、開業当時よりやや北側に移設された。
後から開通した小田急は厚木市に駅を設置する際に駅名に頭を悩ませた事であろうが、最初のネーミングである相模厚木より今の本厚木の方がしっくりくるしロマンスカー停車駅としての風格もでてくる。かつては相鉄が海老名より小田急線を介して本厚木まで乗り入れていた事を思うと、やはり厚木という場所は昔の人が見てもメジャーだったのであろう。
そんな「メジャー」とは裏腹に、相模線の「厚木」は鉄道設備や運転上のやりとりについてはかなり重要なポジションであるが、所在地周辺は海老名の中心部でもなければ市街地があるわけでもない。開業当時から今もずっと厚木駅前はのどかな時間が過ぎている。
もちろん開業当時から比べれば辺り一面には住宅やマンションが建ち並びいくらか賑わいを見せるが、やはりどこか庶民的なムードがいつになく漂う。


小野田セメント専用線と旧・厚木駅構内の変遷を「地理院地図」にて比較してみたい。上が1974年、下が現在であるのだが、現在は完全に小野田セメントの専用線はもちろん、工場も住宅に変化していて当時の面影を感じる事ができない。
さてそんな厚木であるが、砂利輸送時代的にはどうだったのだろう。その答は?それはそれは重要なポジションであり現在の相鉄本線の前身である神中鉄道との接続駅でもあった。そして相模線沿線で採取された砂利は神中鉄道を介して横浜方面へと送られていった。その接続駅であった名残が相鉄厚木線と厚木にある相鉄の電留線である。もともとその電留線も貨物用として使用していたもので、厚木駅自体も現在より若干橋本寄りの線路が沢山ある場所であった。やがて小田急が開通し、その交点付近に「乗降場」として旅客設備を作ったのが現在の厚木駅の原型である。多分、イメージ的には昔の小松島線小松島と小松島港や野上電気鉄道の日方と連絡口のような関係だったのであろう。

7年くらい前に撮影した厚木駅の新旧ホームの共演。というか、この時から7年経過した現在でも旧ホームが残るのはある意味嬉しい。ちなみに左側が新ホームで駅舎と直結し小田急との乗り換えに便利になった。
私が幼少時代から経験し知っている国鉄時代には既に現在の形になっていて、下り列車は正式に厚木駅となった乗降場に停車したあと、ホームが無くなった旧厚木駅の場所で列車交換が行われていた。上り列車はその逆となるわけだが、記憶だと確か職員専用の細い島式ホームがあり、そこで列車交換時にタブレットの受け渡しが行われていた。相模線に海老名が開設されてからはほとんどその場所で列車交換風景を見る事がなくなったが、それでも昔の名残を現在でも感じる事ができるのは嬉しい。
更にJRになった現在では駅舎から相模線のホームに行く場合、側線と相模線のレールを構内踏切で渡らなければならず、列車横行の際には構内踏切が遮断され小田急の乗り換え時などには支障を来たしていた。そして利用者も増えていった事から安全面での問題も考慮した理由から、近年に側線を撤去しその側線のあった場所に新たに棒線型ホームを設置して構内踏切を使用せずに乗り換え等ができるようになりとても便利になった。しかしながら資金的な関係から旧ホームも取り壊されずに現存しているので、もしかしたら新旧ホームの姿を記録できるチャンスが今しかないかも知れない。
<おまけ>橋脚架け変えにより残った旧線の橋桁が現在でも残る。ちなみに私用の関係からの外出の際に本日もこの場所をマイカーで通ったが、今でもハッキリと残っていた。
※今回の記事も航空写真は「地理院地図」、ストリートビューはグーグルマップを利用させていただきました。

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相模線 ヘビー・ローテーション✩アゲイン⑤ 四之宮~西寒川
2020-06-10

1961年頃の寒川支線の様子である。寒川支線は寒川から分岐するが、寒川駅構内の線路が一旦収束して単線になり、分岐点Aで再び分岐されしばらく単線並列のような形で寒川神社参道付近まで併走する。そして分岐点Bで本線と別れ西寒川に到達する。
相模線の西寒川といえば、かつて私が在住していた場所であるが、実はそこから先、砂利輸送のための貨物線及び海軍工場への引き込み線が伸びていた。私が住んでいた頃はその事は知らなかったし意識もしなかった。であるが、四之宮に関しては何となくであるが知っていて、西寒川から先に向かい四之宮方面へと向かう道路の右脇に空間が有り、そこが四之宮へと続いていた鉄道路線跡だなとは何となく子供心的にわかっていた。だが、そこから分岐して工場へ伸びる引き込み線があるとは!そういえば、西寒川方面に斜めに向いている工場の門があった記憶で、恐らくその斜めに向いている原因こそ引き込み線の名残であろう。現在もその門は会社が変わった今もあるのだが、やや門の造りと角度が違うような・・・


今回のシリーズでおなじみとなった「地理院地図」による駅紹介。今回は新型コロナウィルスによる自粛要請を受け取材を自粛している関係から今回のような形でのブログ記事となっているのだが、私的にはこういった地図の利用もあるのかとひとつ学習した感じである。上下で時代の変化を示しているが、上が1961年頃、下が現在の西寒川付近から四之宮付近の全体像である。
であるが、地理院地図で1960年代の航空写真を見ると一目瞭然、その引き込み線がハッキリと確認できる。相模線・寒川支線はかつては支線でなく本線であった証であるとともに砂利輸送と軍事輸送においてかなり重要なポジションであったのが地図だけ見てもかなり伝わってくる。先述通り、私が西寒川駅前に在住していた頃には既に四之宮への鉄路も工場への引き込み線も無かったが、こうして地図を見ていると、当時の景色が浮かんでくるようだ。


そして西寒川から海軍工場への引き込み線の比較。上は同じく1961年頃で下が現在の状況であるが、上の画像では大きく弧を描くカーブがハッキリと確認できる一方、下の画像の現在でもその名残であるカーブの部分が確認できるものの、一部が圏央道の下敷きになってしまっているのが少々残念である。
さて四之宮であるが、駅名の由来は以前にも紹介した記憶があるが改めて報告すると、対岸の平塚市に四之宮という地区があるのだが、相模川を超え対岸の寒川町までその地区の区域は被っていた場所に四之宮駅があったためであると伝えられている。ちなみに四之宮とは、相模の国、つまり神奈川県には寒川神社があり、その場所は「一之宮」である(実際の寒川神社の所在は宮山であるが)。そして東海道線には「二宮」があり、更に平塚には四之宮が・・・つまり神様が守っている場所的な意味なのであろう。確かに私が住んでいた西寒川駅前の住所は寒川町一之宮であるのだが、その先にすぐ四之宮があるとは何とも感慨深い。
そんな旧・四之宮付近には小学生時代などによく行ったものだ。そこにはスポーツ公園があり、よく野球に行ったりしたものだ。もちろん先に紹介した旧・川寒川跡にあるスポーツ公園にも野球場があり、そこにも野球等で訪れていた。つまり私と相模線は切っても切れない縁という事である!


四之宮付近を拡大し1961年頃と現在の比較である。相模川砂利積出Aで採取された砂利は相模川砂利積出Bまで運ばれるが、実際の四之宮駅はここB地点であると思われる。そして四之宮駅と表記している地点まで構内側線が伸びていたと思われ、意外に四之宮駅構内は広いイメージである。そして相模川砂利積出A付近とB付近では恐らく段差があったため、B付近では道路がΩ状になっているのがわかるのだが、相模川砂利積出Aの現在は完全に相模川に水没してしまった。更に現在の旧・四之宮駅付近はスポーツ公園の野球グラウンドになってしまって全く面影がない。ちなみに1961年では砂利採取は行われておらず、西寒川~四之宮間は既に廃止になっているとの公式記録がある。廃止されたのが1944年となっているので廃止から15年以上経っているのだがこれほどにもハッキリと痕跡が残っているのはスゴイ!というか、実際は砂利採取していたんじゃねぇ?って思えてしまうほどハッキリと確認できる。
四之宮の航空写真に注目していただきたいのだが、西寒川駅前の道路に寄り添うように四之宮への線路が続いているが、四之宮付近で大きくカーブし相模川に限りなく近づいて四之宮駅に着くのがハッキリとわかる。そして四之宮の手前で相模川に続く砂利道が複数確認でき、ここで砂利採取をしていたのが容易に判断できる。現在このカーブの部分は相模川の堤防の一部に埋まってしまい面影を確認する事はできない。更に先述通り、四之宮駅も野球場や湘南銀河大橋などの橋脚などに転用されてしまい、そこに駅があった事すら感じる事ができない。幼少時代に何度も自転車で訪れていたが、その時でさえ既に駅の面影を感じる事ができなかった。砂利採取、そして貨物輸送はこの時既に完全に過去へ葬られていたのだ。
上下で1961年頃と現在の可動式画像で掲載してみた。特に1961年頃の四之宮付近がわかる大変貴重な資料としてこれからも私は研究していく予定である。家から近い事もありいずれ現地でライブの姿を確認したい気持ちである。ただ、旧・四之宮付近では自家用車を駐車するスペースが無いため訪問にはやや苦労するかもしれないが・・・
晩年の寒川支線は既に私が過去にお伝えした通り、営業最終日にはTBSラジオの局員も取材に駆けつけそれなりに話題になった。だが、いわゆる「83線区」などにノミネートされていたわけでも無く、ある意味地味な引き際であった。だが最終日には全国から多くのレールファンも駆けつけ開業以来初であろう壮大な賑わいとなった。私がレールファンになるきっかけを作ってくれた西寒川駅であるが、その歴史は知れば知るほど奥が深い。
現在の西寒川付近をグーグルマップにて掲載してみた。画像を動かすと、画像右側の八角広場(旧・西寒川駅)より道路の右側に空間が見えてくるが、まさにそこが四之宮へ続く線路があった場所である。高速道路と交差する付近にはかつてトラック等が停まっていて会社のような場所であった記憶であるが、現在は更地になりハッキリと鉄道の歴史を感じる空間となった。
今回の記事も「地理院地図」と「グーグルマップ」から引用させていただきました。

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相模線 ヘビー・ローテーション☆アゲイン② 入谷
2020-06-05
入谷といえば「営団地下鉄」、もとい、「東京メトロ」とか首都高速の出入口などを思い浮かべるであろうが、神奈川県にある相模線の駅で「入谷」と名の付く駅がある。
相模線の中では利用者が一番少なく、駅の周りは田畑に覆われものすごく地味に感じる。まるでこの場所だけ時が止まったようだ。今回もまた「地理院地図」の1961~1969年撮影の画像を使用させていただいたのだが、この当時と現在で、もちろん時代的の変化はあるが、入谷駅の周辺の風景はそれほど変化が無いイメージである。

現在では信じられないが、入谷からは砂利専用の貨物線が分岐していた。といっても人車、又は馬車鉄道等の「ナベトロ」と呼ばれるトロッコ路線であった。画像は「地理院地図」より
ただ、近年は宅地化の波が押し寄せそれなりに賑やかさを感じるが、基本的には昔のイメージがまだ残る印象だ。
単純に「なぜこんな場所に駅があるんだろう」と、我々の世代ならつい考えてしまうが、基本的に鉄道とは大量輸送手段でありもともとは貨物輸送が主体であった。
だから大量輸送こそその能力を発揮する。鉄道というと、日本では旅客輸送のイメージが強いが、例えばオーストラリアやアメリカ等は貨物輸送が非常に重要な位置を占めている。
かつては日本も鉄道による貨物輸送が盛んであったが、高速道路の発達と共にその位置をトラックなどに譲る事になってしまった。しかし、青函トンネル等に象徴されるように、新幹線と貨物列車との共用によりお互いの増発やスピードアップに支障を来すほど貨物列車の重要性がまだまだ高い場所もある。

そして現在の入谷駅周辺。砂利採取場の痕跡等は全く無いに等しいのだが、入谷駅付近では砂利線の痕跡がハッキリと確認できる。この写真が撮影された当時は既に砂利線は恐らく廃止されしようされていなかったはずなのでまさに貴重な光景だ。画像は「地理院地図」より。
入谷駅のかつてはそんな重要性を備えた貨物主体の駅であった。その証拠に、昭和30年代の航空写真を見てみると、入谷付近では貨物側線と相模川方面に向かう砂利輸送用の、いわゆるトロッコ線跡がハッキリと確認できるのが実に興味深い。
そして今の時代でも現地ではその名残が比較的容易に確認できる。
更に座架依(ざかえ)橋(厚木市と座間市を繋ぐ相模川に架かる橋)より眺める下界は、砂利輸送時代の昭和を今も残す貴重な風景となっている。それこそいまにも砂利輸送のトロッコ列車がやって来そうだ。

そして相模線から砂利線が分岐される箇所を拡大してみた。本線から弧を描いて分かれていく砂利線跡がハッキリと確認できる。分岐された砂利線は道路に寄り添うように相模川方面へと向かっていく。画像は「地理院地図」より。
そしてグーグルマップより、本線から分岐する砂利線の現在の姿。弧を描く姿は現在も健在である。砂利線は本線としばらく並走して入谷に合流する。

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相模線の中では利用者が一番少なく、駅の周りは田畑に覆われものすごく地味に感じる。まるでこの場所だけ時が止まったようだ。今回もまた「地理院地図」の1961~1969年撮影の画像を使用させていただいたのだが、この当時と現在で、もちろん時代的の変化はあるが、入谷駅の周辺の風景はそれほど変化が無いイメージである。

現在では信じられないが、入谷からは砂利専用の貨物線が分岐していた。といっても人車、又は馬車鉄道等の「ナベトロ」と呼ばれるトロッコ路線であった。画像は「地理院地図」より
ただ、近年は宅地化の波が押し寄せそれなりに賑やかさを感じるが、基本的には昔のイメージがまだ残る印象だ。
単純に「なぜこんな場所に駅があるんだろう」と、我々の世代ならつい考えてしまうが、基本的に鉄道とは大量輸送手段でありもともとは貨物輸送が主体であった。
だから大量輸送こそその能力を発揮する。鉄道というと、日本では旅客輸送のイメージが強いが、例えばオーストラリアやアメリカ等は貨物輸送が非常に重要な位置を占めている。
かつては日本も鉄道による貨物輸送が盛んであったが、高速道路の発達と共にその位置をトラックなどに譲る事になってしまった。しかし、青函トンネル等に象徴されるように、新幹線と貨物列車との共用によりお互いの増発やスピードアップに支障を来すほど貨物列車の重要性がまだまだ高い場所もある。

そして現在の入谷駅周辺。砂利採取場の痕跡等は全く無いに等しいのだが、入谷駅付近では砂利線の痕跡がハッキリと確認できる。この写真が撮影された当時は既に砂利線は恐らく廃止されしようされていなかったはずなのでまさに貴重な光景だ。画像は「地理院地図」より。
入谷駅のかつてはそんな重要性を備えた貨物主体の駅であった。その証拠に、昭和30年代の航空写真を見てみると、入谷付近では貨物側線と相模川方面に向かう砂利輸送用の、いわゆるトロッコ線跡がハッキリと確認できるのが実に興味深い。
そして今の時代でも現地ではその名残が比較的容易に確認できる。
更に座架依(ざかえ)橋(厚木市と座間市を繋ぐ相模川に架かる橋)より眺める下界は、砂利輸送時代の昭和を今も残す貴重な風景となっている。それこそいまにも砂利輸送のトロッコ列車がやって来そうだ。

そして相模線から砂利線が分岐される箇所を拡大してみた。本線から弧を描いて分かれていく砂利線跡がハッキリと確認できる。分岐された砂利線は道路に寄り添うように相模川方面へと向かっていく。画像は「地理院地図」より。
そしてグーグルマップより、本線から分岐する砂利線の現在の姿。弧を描く姿は現在も健在である。砂利線は本線としばらく並走して入谷に合流する。

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