Return to my しずてつ ~静岡市内、しない、ナツ~ プロローグ
2020-07-30
新型コロナウィルス感染拡大による自粛要請を受け外出、または県を跨ぐ移動について制限されていたが、ようやく自粛要請の解除を受けて初めて県外に取材に出た。だが再び感染が拡大し「第二波」とも受け取れる現象が出てきている。
解除直後の某月某日、会社からの意向で私は早めの夏期休暇を取得し、隣の静岡県に向かった。ただ、解除になったからといってコロナが完全に収束(終息)したわけではない。東京都知事などが連日のように口にしていた「withコロナ」、つまりこれから先はコロナと共存していかなければならないという環境の中で生活しなければならないということ事である。もちろん感染対策をしっかりやらないと自分はともかく、他の人に感染させないようにする事が大切な事であろう。

あまり関連性がないが、今回の旅ではこんな場所にも寄ってみた。静岡地区では清水~島田辺りで利用者が多いが、そのピンポイント区間列車で折り返し駅として活躍するのがここ奥津。本来なら清水で折り返し等の作業があったほうが効率が良いのであろうが、清水では折り返しの設備が無いためここ奥津まで列車がやって来る。駅前は静かな印象であったが、ちょっと歩いて国道に出てみるとかなりの賑わいを見せていた。
静岡といえば新幹線の駅が県内に5駅もあり全国最多であるが、特に浜名湖や伊豆、熱海、そして富士山と、名所や名物も何かと多い。
そんな静岡県の中心部である静岡市に目を向けると、市内では静岡鉄道がレールそしてバス路線共に網の目を張っている。今回、かねてから気になっていた静岡鉄道にスポットを充てじっくりと観察してみたい。とはいえ、私が幼少時代の時に活躍していた車両も新しい車両との入れ替えが進み、かつての車両は近い将来に全て現役から退く事が決定している。旧の車両を見れるのも最後のタイミングとなり、私もそれに合わせる形になったが、ある意味最初は意識していなかったのが、いざ行くと決まれば必ず旧車両を収めてやる!という頑なな決意の元での出航となった。
しかしながら今回の取材はコロナ対策により全てを車で行動。ホームには入らず全てを外部からの取材に徹底した。そのためホームの風景などの撮影はできなかったが、外側から見る事により、普段から定期的に利用している地元の皆様により近い気持ちになれた気がした。

今回はこの車両を写真に収める最後のチャンスと位置づけ果敢に挑んだ。割と巡り合うチャンスに恵まれかなりの数を収めるのに成功したが、更に後に紹介する長沼にある車両基地ではオリジナルカラーに出会えた!
さて今回の静岡鉄道であるが、2000年から2010年頃までは利用者的にはかなり苦戦していたとの報告があるが、急行を復活させた2011年頃からはやや上昇傾向にある。かつては終日急行列車も設定され速達的なアピールもあったが、JRが東静岡を設置する前後より、かなり下り坂になってきた印象である。だが、それより前に、実は上越新幹線が開業した1982年11月15日に国鉄がダイヤ改正した時期とやや関連性があるような気もする。というのも、当時の国鉄は「短編成、高頻度運転」というテーマで都市輸送力アップで増収を図ったのが丁度このダイヤ改正からであった。

最新の静鉄車両はこんな感じです!昭和人間の私にとって全く静鉄のイメージがつかない車両であるが、地元の方にとっては非常に頼もしい存在であろう。
例えば沼津~浜松間を例にすると、普通列車設定が沼津発浜松行きを30分間隔で8両編成の列車を設定してたとしよう。その列車を、例えば4両編成にして、切り離した4両編成の列車を興津~島田間に設定し沼津~浜松行の間にはめ込めば、静岡発着の列車が15分間隔で運転される事になる。こんなイメージでピンポイントで運転本数を増やして利便性をアピールした感じであったと思う。試験的に広島地区などで導入され、静岡地区は1984年より導入され「スルガシャトル」なる名称で新しい仲間も増えスタートした進化系が現在の形である静岡発10分ヘッド運転であろう。その辺りの国鉄~JRの動きにやや静鉄が影響を受けた印象も少なからずあろう。

昭和的な車両は姿を消すことが決定している。こちらも同じく新型車両。近い将来、こちらのモデルに全て入れ替わり、私がよく知る静岡鉄道的な車両はフェードアウトして「オリジナル」が見れなくなる日が遅かれ早かれやってくるのは寂しい限りであるが・・・
そんな静岡鉄道であるが、鉄道路線名は静岡清水線であり、文字通り完全に地域密着型で地元民の愛着を感じずにいられないので、思い切って全駅を巡ってみた。各々の駅の印象等はこれから綴っていこうと思うが、JR、コロナと厳しい戦いがこれからも続いて行く中、是非とも頑張っていただきたい思いである。

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解除直後の某月某日、会社からの意向で私は早めの夏期休暇を取得し、隣の静岡県に向かった。ただ、解除になったからといってコロナが完全に収束(終息)したわけではない。東京都知事などが連日のように口にしていた「withコロナ」、つまりこれから先はコロナと共存していかなければならないという環境の中で生活しなければならないということ事である。もちろん感染対策をしっかりやらないと自分はともかく、他の人に感染させないようにする事が大切な事であろう。

あまり関連性がないが、今回の旅ではこんな場所にも寄ってみた。静岡地区では清水~島田辺りで利用者が多いが、そのピンポイント区間列車で折り返し駅として活躍するのがここ奥津。本来なら清水で折り返し等の作業があったほうが効率が良いのであろうが、清水では折り返しの設備が無いためここ奥津まで列車がやって来る。駅前は静かな印象であったが、ちょっと歩いて国道に出てみるとかなりの賑わいを見せていた。
静岡といえば新幹線の駅が県内に5駅もあり全国最多であるが、特に浜名湖や伊豆、熱海、そして富士山と、名所や名物も何かと多い。
そんな静岡県の中心部である静岡市に目を向けると、市内では静岡鉄道がレールそしてバス路線共に網の目を張っている。今回、かねてから気になっていた静岡鉄道にスポットを充てじっくりと観察してみたい。とはいえ、私が幼少時代の時に活躍していた車両も新しい車両との入れ替えが進み、かつての車両は近い将来に全て現役から退く事が決定している。旧の車両を見れるのも最後のタイミングとなり、私もそれに合わせる形になったが、ある意味最初は意識していなかったのが、いざ行くと決まれば必ず旧車両を収めてやる!という頑なな決意の元での出航となった。
しかしながら今回の取材はコロナ対策により全てを車で行動。ホームには入らず全てを外部からの取材に徹底した。そのためホームの風景などの撮影はできなかったが、外側から見る事により、普段から定期的に利用している地元の皆様により近い気持ちになれた気がした。

今回はこの車両を写真に収める最後のチャンスと位置づけ果敢に挑んだ。割と巡り合うチャンスに恵まれかなりの数を収めるのに成功したが、更に後に紹介する長沼にある車両基地ではオリジナルカラーに出会えた!
さて今回の静岡鉄道であるが、2000年から2010年頃までは利用者的にはかなり苦戦していたとの報告があるが、急行を復活させた2011年頃からはやや上昇傾向にある。かつては終日急行列車も設定され速達的なアピールもあったが、JRが東静岡を設置する前後より、かなり下り坂になってきた印象である。だが、それより前に、実は上越新幹線が開業した1982年11月15日に国鉄がダイヤ改正した時期とやや関連性があるような気もする。というのも、当時の国鉄は「短編成、高頻度運転」というテーマで都市輸送力アップで増収を図ったのが丁度このダイヤ改正からであった。

最新の静鉄車両はこんな感じです!昭和人間の私にとって全く静鉄のイメージがつかない車両であるが、地元の方にとっては非常に頼もしい存在であろう。
例えば沼津~浜松間を例にすると、普通列車設定が沼津発浜松行きを30分間隔で8両編成の列車を設定してたとしよう。その列車を、例えば4両編成にして、切り離した4両編成の列車を興津~島田間に設定し沼津~浜松行の間にはめ込めば、静岡発着の列車が15分間隔で運転される事になる。こんなイメージでピンポイントで運転本数を増やして利便性をアピールした感じであったと思う。試験的に広島地区などで導入され、静岡地区は1984年より導入され「スルガシャトル」なる名称で新しい仲間も増えスタートした進化系が現在の形である静岡発10分ヘッド運転であろう。その辺りの国鉄~JRの動きにやや静鉄が影響を受けた印象も少なからずあろう。

昭和的な車両は姿を消すことが決定している。こちらも同じく新型車両。近い将来、こちらのモデルに全て入れ替わり、私がよく知る静岡鉄道的な車両はフェードアウトして「オリジナル」が見れなくなる日が遅かれ早かれやってくるのは寂しい限りであるが・・・
そんな静岡鉄道であるが、鉄道路線名は静岡清水線であり、文字通り完全に地域密着型で地元民の愛着を感じずにいられないので、思い切って全駅を巡ってみた。各々の駅の印象等はこれから綴っていこうと思うが、JR、コロナと厳しい戦いがこれからも続いて行く中、是非とも頑張っていただきたい思いである。

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栄光の小田急ロマンスカーNSE
2020-07-25
今でこそ気軽に乗れるロマンスカーであるが、私が小学生時代にはかなり高嶺の花的イメージで、それこそ乗車には一万円くらいするのかと、なかなか近付けずにいた。たが、勇気を出して初めて乗車したロマンスカーがNSEであった。私が小学校低学年の時はよくひとりで東京や上野はもちろん、なぜか西方面に魅力を感じ、小田原、沼津、そして静岡とどんどん足を伸ばしていった。当時の静岡は高架化工事の真っ最中で、確か上りか下りのどちらかが完成していて、子供なりにすごいなと感じていた。
ただ、いくら西方面を攻めても新幹線と「湘南電車」しか見る事ができず、ある意味上野のような華やかさがないので何か物足りないような気がしていた。


所有のプラレール車両で失礼いたしま~す、的な思いであるが、そんなプラレール車両でも貴重となったNSE。私のロマンスカー史上では一番好きな車両である小田急の英雄である。
そんな中、小田原へ行った時は上野に寄った後、新宿よりロマンスカーに乗り小田原を目指したのであった。ただ、特急券の買い方とかわからず車内で購入した記憶である。そして売店で冷凍みかんを買いいざ小田原まで。
私の記憶だと確か1977年頃だったと思うが、当時は新宿~小田原間の停車駅が無かったイメージで、町田や本厚木などから乗車するという方法すら思い付かなかったが、私がこの時乗ったNSEも小田原までノンストップであった。
やがて女性のアテンダントらしき乗務員がやって来たので特急券の買い方や座席の位置などを確認した。ただ、当時は指定席の意味もあまりわからなかったのか、空席目立ち座席選び放題の車内で私は窓側に座った。
普段から国鉄しか利用していなかったので何もかもが新鮮で、国鉄では見かけない駅名標や車輌も珍しく、増して私鉄の特急列車に乗るのだからこれはすごいことであった。

画像はウィキより転用させていただいたNSE。やはり女性アテンダントが乗車していると「箱根に行くぞ!」という気合が入る。
というか、冒頭で私は「よくひとりで」と表現したが、これはどうやら珍しい事らしい。周りの友達とかに「よくひとりで行けるね」と言われた。その「ひとりで」とはひとりだと心細いとか迷子になったらどうするとかの意味ではなく、よく親がひとりで出かける事を許したものだなという事だ。もちろん迷子云々はあるだろうが、私にしてみたら日本の鉄道路線図は頭の中に入っていたし、駅名だって東海道線なら東京から順番に全駅言えた(当時)ので周りが思うほどの事件的なものではなかった。
とまぁ、こんな調子であるから私の親も放っておいたのといちいちついていくのが面倒だったのだろう。

私がNSEに初乗車した当時は「あさぎり」として活躍していたSSE。短絡線を経由し御殿場線に乗り入れる姿は素晴らしいであったろう。これも一度乗車してみたかった。(画像はウィキより)
さて、初のロマンスカーに乗り小田原で下車した私は東海道線のホームに向かった。普通なら箱根まで行ってしまうのだろうがやはりまだまだ子供だったのだろう。箱根よりも小田原の方が国鉄がいて安心だったのかもしれない。そして、狙って東海道線のホームではNSEと0系新幹線が上下でクロスする写真を収めた。本来なら皆様に披露したいところであるが、実は当時、いわゆるバカチョンカメラしか所有しておらず、望遠レンズによる撮影ではないので交点部分が非常に小さくスモールに写っているため非常に伝わりにくいのと、写真自体の所在が分からないためお見せすることができないのだ。ただ、私の記憶にはしっかりと脳裏に焼き付いているため、脳裏にある画像をプリントアウトする機械みたいなのをドラえもんに借りれば恐らく素敵な画像を紹介できる事であろう。
同じ頃に活躍したSSEは当時「あさぎり」として御殿場まで活躍していたが、私は見た事がない。いや、正確には見た事があるかも知れないのだが記憶にない。そしてLSEは近年まで活躍していたが、デビュー直前には東海道線で試運転を行っていて茅ヶ崎~平塚間の馬入橋付近で撮影したりしていたので親しみもあった。
だが、歴代ロマンスカーの中でどれかひとつ名車を挙げろといわれたらやはり私はNSEを真っ先に挙げたい。その理由は、私と同世代の方や昭和を知る方なら私の気持ちが一番分かるであろう。
ただ、いくら西方面を攻めても新幹線と「湘南電車」しか見る事ができず、ある意味上野のような華やかさがないので何か物足りないような気がしていた。


所有のプラレール車両で失礼いたしま~す、的な思いであるが、そんなプラレール車両でも貴重となったNSE。私のロマンスカー史上では一番好きな車両である小田急の英雄である。
そんな中、小田原へ行った時は上野に寄った後、新宿よりロマンスカーに乗り小田原を目指したのであった。ただ、特急券の買い方とかわからず車内で購入した記憶である。そして売店で冷凍みかんを買いいざ小田原まで。
私の記憶だと確か1977年頃だったと思うが、当時は新宿~小田原間の停車駅が無かったイメージで、町田や本厚木などから乗車するという方法すら思い付かなかったが、私がこの時乗ったNSEも小田原までノンストップであった。
やがて女性のアテンダントらしき乗務員がやって来たので特急券の買い方や座席の位置などを確認した。ただ、当時は指定席の意味もあまりわからなかったのか、空席目立ち座席選び放題の車内で私は窓側に座った。
普段から国鉄しか利用していなかったので何もかもが新鮮で、国鉄では見かけない駅名標や車輌も珍しく、増して私鉄の特急列車に乗るのだからこれはすごいことであった。

画像はウィキより転用させていただいたNSE。やはり女性アテンダントが乗車していると「箱根に行くぞ!」という気合が入る。
というか、冒頭で私は「よくひとりで」と表現したが、これはどうやら珍しい事らしい。周りの友達とかに「よくひとりで行けるね」と言われた。その「ひとりで」とはひとりだと心細いとか迷子になったらどうするとかの意味ではなく、よく親がひとりで出かける事を許したものだなという事だ。もちろん迷子云々はあるだろうが、私にしてみたら日本の鉄道路線図は頭の中に入っていたし、駅名だって東海道線なら東京から順番に全駅言えた(当時)ので周りが思うほどの事件的なものではなかった。
とまぁ、こんな調子であるから私の親も放っておいたのといちいちついていくのが面倒だったのだろう。

私がNSEに初乗車した当時は「あさぎり」として活躍していたSSE。短絡線を経由し御殿場線に乗り入れる姿は素晴らしいであったろう。これも一度乗車してみたかった。(画像はウィキより)
さて、初のロマンスカーに乗り小田原で下車した私は東海道線のホームに向かった。普通なら箱根まで行ってしまうのだろうがやはりまだまだ子供だったのだろう。箱根よりも小田原の方が国鉄がいて安心だったのかもしれない。そして、狙って東海道線のホームではNSEと0系新幹線が上下でクロスする写真を収めた。本来なら皆様に披露したいところであるが、実は当時、いわゆるバカチョンカメラしか所有しておらず、望遠レンズによる撮影ではないので交点部分が非常に小さくスモールに写っているため非常に伝わりにくいのと、写真自体の所在が分からないためお見せすることができないのだ。ただ、私の記憶にはしっかりと脳裏に焼き付いているため、脳裏にある画像をプリントアウトする機械みたいなのをドラえもんに借りれば恐らく素敵な画像を紹介できる事であろう。
同じ頃に活躍したSSEは当時「あさぎり」として御殿場まで活躍していたが、私は見た事がない。いや、正確には見た事があるかも知れないのだが記憶にない。そしてLSEは近年まで活躍していたが、デビュー直前には東海道線で試運転を行っていて茅ヶ崎~平塚間の馬入橋付近で撮影したりしていたので親しみもあった。
だが、歴代ロマンスカーの中でどれかひとつ名車を挙げろといわれたらやはり私はNSEを真っ先に挙げたい。その理由は、私と同世代の方や昭和を知る方なら私の気持ちが一番分かるであろう。
栄光のEF81 300番台
2020-07-20
EF81といえば真っ先に赤っぽい交直両用電気機関車をイメージするが、国鉄、昭和を知る人間なら誰しも「関門トンネル」を思い浮かべるであろう。特に東京や新大阪からやってくるブルートレインに乗ると、下関~門司間では関門トンネル専用の、いわゆる「銀釜」と呼ばれるステンレス製の電気機関車に交換され、ホーム先端部ではギャラリーが多数いたものだ。
私の知る限りではEF30とペアで関門トンネルの作業に充たっていたが、個人的にはEF81がお気に入りであった。
私もこの区間は1974年に乗車した寝台特急「富士」で経験したが、なぜか写真が残っていない。宮崎でも機関車交換が行われDF50で西鹿児島(当時)まで完乗したが、なぜかDF50の写真は残っている。ちなみにこの日乗車した「富士」の関門トンネル機関車はEF30であった。

今回はウィキペディアよりの画像であるEF81の300番台。いわゆる「銀釜」として親しまれてきたが、そう遠くない将来に全滅するであろう貴重な昭和の風景である。私が1978年に寝台特急「富士」で東京から西鹿児島まで乗車した時、下関で機関車交換が有りEF81が来ると期待していたのだが、やってきたのはEF30であった・・・(EF30ファンの皆様、ごめんなさい)
コロタン文庫やケイブンシャの鉄道誌等では昭和の時代を彩る華やかな優等列車が紹介されているが、その中にステンレスのEF81に牽引される急行「阿蘇」「くにさき」が紹介されている。14系客車が使用されオール座席の夜行急行列車であったが、当時(1970年代)としては特急列車並みの車両編成でありパッと見ブルートレインさながらであった。私は関東在住のため気軽に見たりすることはできなかったが、それでも豪華な風格が漂ってきたのを感じ取っていた。
現在は機関車そのものがなくなっていき貨物列車専用とは言わないが、旅客列車での運用はすっかり姿を消したが、再びブルートレインを牽引する日が来たなら、それはそれは素晴らしい1日となろう。
私の知る限りではEF30とペアで関門トンネルの作業に充たっていたが、個人的にはEF81がお気に入りであった。
私もこの区間は1974年に乗車した寝台特急「富士」で経験したが、なぜか写真が残っていない。宮崎でも機関車交換が行われDF50で西鹿児島(当時)まで完乗したが、なぜかDF50の写真は残っている。ちなみにこの日乗車した「富士」の関門トンネル機関車はEF30であった。

今回はウィキペディアよりの画像であるEF81の300番台。いわゆる「銀釜」として親しまれてきたが、そう遠くない将来に全滅するであろう貴重な昭和の風景である。私が1978年に寝台特急「富士」で東京から西鹿児島まで乗車した時、下関で機関車交換が有りEF81が来ると期待していたのだが、やってきたのはEF30であった・・・(EF30ファンの皆様、ごめんなさい)
コロタン文庫やケイブンシャの鉄道誌等では昭和の時代を彩る華やかな優等列車が紹介されているが、その中にステンレスのEF81に牽引される急行「阿蘇」「くにさき」が紹介されている。14系客車が使用されオール座席の夜行急行列車であったが、当時(1970年代)としては特急列車並みの車両編成でありパッと見ブルートレインさながらであった。私は関東在住のため気軽に見たりすることはできなかったが、それでも豪華な風格が漂ってきたのを感じ取っていた。
現在は機関車そのものがなくなっていき貨物列車専用とは言わないが、旅客列車での運用はすっかり姿を消したが、再びブルートレインを牽引する日が来たなら、それはそれは素晴らしい1日となろう。
栄光のEF58
2020-07-15
私のブログでは「駅」に関する記事がやたらと多い事に皆様もお気づきであろうと思われるが、たまにはではないがちょっと最近気になる機関車があるのでここに紹介してみたい。

私がつい最近まで所有していたプラレールのEF58。ご覧の通り、ブルートレインの歴代機関車を並べてみた。プラレールでも凄く雰囲気と存在感のあるEF58は国鉄時代の機関車としては名作であろう。
「最近気になる」と言ったが、その「気になる」は既に昭和の時代に大活躍しており、平成ではフェードアウトしていき、令和の現在では既に風前の灯火である。そもそも「お召し列車」としてのイメージも強いEF58であるが、直流電気機関車の中では国鉄時代を知る者にとって特別な存在だったのではないか。私の知る当時の東京発寝台特急はEF65 500番台が主力で、後に1000番台に移行された時代に、東京発では唯一のEF58牽引である寝台急行「銀河」は特異に煌めく存在であった。
また、貨物列車もEF58で牽引されていたが「フレートライナー」EF66も主力で活躍しており茅ヶ崎駅の相模線と東海道線の間にある貨物側線を通過する貨物列車を見るのがひとつの楽しみでもあった。特に夕方5時頃にはDH10が牽引する貨物列車も通過したり時には停車したりでかなり茅ヶ崎では退屈する事なく相模線の待ち時間を過ごしたものだ。

写真はダイナミック✩トナカイ提供の日本版「オリエント・エクスプレスもどき」だそうだ。詳細は不明だが、撮影場所は東海道線・茅ヶ崎の十間坂付近で、よく見ると東海道貨物線を走っている。今こそ湘南ライナーなど貨物線に旅客が走ることはそれほど珍しい事ではないが、撮影当時ではかなりレアだったと思う。1983~1984年頃に撮影されたと推測。
私の経験からEF58が牽引した列車で印象に残っているのが、まずはサロンエクスプレス東京バージョンの「踊り子」だ。若い世代で踊り子が「客車」ということにまずイメージつかないかも知れないが、さらにEF58牽引というのが泣かせる。もちろん観光を目的とした臨時列車なのだが、サロンエクスプレスというのが時代を感じるでろう。私も撮影したのだが、後輩の「ダイナミック☆トナカイ」も茅ヶ崎で撮影してるのでこちらを紹介したい。というより、以前にも紹介したが、私の写真が紛失状態ということもありお力添えして頂いたということである。

こちらもダイナミック✩トナカイの、恐らく1982~1983年頃に撮影された臨時特急「踊り子」のサロンエクスプレス東京バージョン。運転窓に屋根付きのEF58は今思うと実に「いいね」を何度もクリックしたくなるような感じだ。
もうひとつは大磯で撮影した14系座席バージョンの特急「平和」だ。当日はギャラリーが多数いて、映像的に残念な結果となってしまったが、カラーリングもレトロ調に変更され貴重な部類になる。また、同じバージョンで日本版オリエントエクスプレスが運転されたらしいが、その撮影にダイナミック☆トナカイが撮影に成功しているのでこちらも紹介したい。

最後は私が撮影した臨時特急「平和(ちなみにピンフではないのであしからず)」。東海道線・大磯での撮影で1983年頃だったと思うのだが、パンタが切れ、更に他のギャラリーも入ってしまいやや残念な思いであるが、貴重な写真には変わらない!
私は神奈川県民で東海道線的な関わりが多かったが、上野方面では寝台特急や客車急行列車を多数牽引しており一度でいいから夜の上野で写真撮影をすれば良かったと今になって思う。親戚も東京は三ノ輪にいたし、例えば急行「越前」や24時近くに上野を出発する寝台急行「新星」や急行「妙高」なども撮影できたはず。もちろん朝早くから上り列車の到着を待ってといったパターンもあるが、当時は小学生~中学生だったし社会的制約もあっただろう。そのわりには中学生時代には「青春18」を駆使して全国を駆け巡ったりしていたので、後は自身の発想と行動力だなと今になり実感している。
そんな個人的な事はともかく、EF58が名車である事には変わらない。「客車」という概念が古くなってしまった現在、こうした機関車は役目を終えたり出番の減少などで見る機会が極端に少なくなった。だが、ブルートレインを牽引するEF58を再び見てみたいと思うのは私だけであろうか・・・

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私がつい最近まで所有していたプラレールのEF58。ご覧の通り、ブルートレインの歴代機関車を並べてみた。プラレールでも凄く雰囲気と存在感のあるEF58は国鉄時代の機関車としては名作であろう。
「最近気になる」と言ったが、その「気になる」は既に昭和の時代に大活躍しており、平成ではフェードアウトしていき、令和の現在では既に風前の灯火である。そもそも「お召し列車」としてのイメージも強いEF58であるが、直流電気機関車の中では国鉄時代を知る者にとって特別な存在だったのではないか。私の知る当時の東京発寝台特急はEF65 500番台が主力で、後に1000番台に移行された時代に、東京発では唯一のEF58牽引である寝台急行「銀河」は特異に煌めく存在であった。
また、貨物列車もEF58で牽引されていたが「フレートライナー」EF66も主力で活躍しており茅ヶ崎駅の相模線と東海道線の間にある貨物側線を通過する貨物列車を見るのがひとつの楽しみでもあった。特に夕方5時頃にはDH10が牽引する貨物列車も通過したり時には停車したりでかなり茅ヶ崎では退屈する事なく相模線の待ち時間を過ごしたものだ。

写真はダイナミック✩トナカイ提供の日本版「オリエント・エクスプレスもどき」だそうだ。詳細は不明だが、撮影場所は東海道線・茅ヶ崎の十間坂付近で、よく見ると東海道貨物線を走っている。今こそ湘南ライナーなど貨物線に旅客が走ることはそれほど珍しい事ではないが、撮影当時ではかなりレアだったと思う。1983~1984年頃に撮影されたと推測。
私の経験からEF58が牽引した列車で印象に残っているのが、まずはサロンエクスプレス東京バージョンの「踊り子」だ。若い世代で踊り子が「客車」ということにまずイメージつかないかも知れないが、さらにEF58牽引というのが泣かせる。もちろん観光を目的とした臨時列車なのだが、サロンエクスプレスというのが時代を感じるでろう。私も撮影したのだが、後輩の「ダイナミック☆トナカイ」も茅ヶ崎で撮影してるのでこちらを紹介したい。というより、以前にも紹介したが、私の写真が紛失状態ということもありお力添えして頂いたということである。

こちらもダイナミック✩トナカイの、恐らく1982~1983年頃に撮影された臨時特急「踊り子」のサロンエクスプレス東京バージョン。運転窓に屋根付きのEF58は今思うと実に「いいね」を何度もクリックしたくなるような感じだ。
もうひとつは大磯で撮影した14系座席バージョンの特急「平和」だ。当日はギャラリーが多数いて、映像的に残念な結果となってしまったが、カラーリングもレトロ調に変更され貴重な部類になる。また、同じバージョンで日本版オリエントエクスプレスが運転されたらしいが、その撮影にダイナミック☆トナカイが撮影に成功しているのでこちらも紹介したい。

最後は私が撮影した臨時特急「平和(ちなみにピンフではないのであしからず)」。東海道線・大磯での撮影で1983年頃だったと思うのだが、パンタが切れ、更に他のギャラリーも入ってしまいやや残念な思いであるが、貴重な写真には変わらない!
私は神奈川県民で東海道線的な関わりが多かったが、上野方面では寝台特急や客車急行列車を多数牽引しており一度でいいから夜の上野で写真撮影をすれば良かったと今になって思う。親戚も東京は三ノ輪にいたし、例えば急行「越前」や24時近くに上野を出発する寝台急行「新星」や急行「妙高」なども撮影できたはず。もちろん朝早くから上り列車の到着を待ってといったパターンもあるが、当時は小学生~中学生だったし社会的制約もあっただろう。そのわりには中学生時代には「青春18」を駆使して全国を駆け巡ったりしていたので、後は自身の発想と行動力だなと今になり実感している。
そんな個人的な事はともかく、EF58が名車である事には変わらない。「客車」という概念が古くなってしまった現在、こうした機関車は役目を終えたり出番の減少などで見る機会が極端に少なくなった。だが、ブルートレインを牽引するEF58を再び見てみたいと思うのは私だけであろうか・・・

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夏色の相模鉄道③ 相鉄いずみ野線
2020-07-10
相鉄いずみ野線は二俣川から分岐されるが、開業当初から旅客輸送を目的として建設され、神中鉄道時代における砂利輸送などの貨物を主体とした輸送とは全く異なり、完全に将来を見越した設計となっている。
もともとは現在の湘南台より更に進み香川付近で相模線と交差し平塚まで到達する延伸計画があるのは有名な話であるが、新幹線が倉見付近に駅を新設する計画が浮上したのを受け平塚までの延伸がペンディングされ、途中で分岐点を設けるか倉見までの延伸に専念するか検討中であった。2009年に平塚までの延伸免許が期限切れになることを受け10年の延長更新がなされたが、現在は倉見までの延伸が具体化したらしく、藤沢市遠藤付近にある慶應義塾大学付近までの延伸がほぼ具体化しているようだ。


今回も「地理院地図」による現在と1961年頃の比較。いずみ野駅であるが、二俣川から本気で平塚まで延伸をかんがえていたのか・・・は別として、全くの不毛地帯に駅を作ることによって「開発」というマジックをいかに活用するかは当時の相鉄の方針であった。このいずみ野線に相鉄が大きな期待がかけられていたのが伺える一面である。
これはあくまで個人的な意見と見解であるが、新幹線の倉見駅は構想から既にウン十年経過しているのと、新横浜~小田原間に駅を作ると新幹線の所要時間が遅くなるためやや疑問もある。もちろんリニアが開通したらひとつの手段として有効であろうと思うが、自身がかつて倉見に在住していた経験から、恐らく駅が新設されてもあまり意味を持たないようなイメージもある。もちろん「のぞみ」が停車すればまた大きな変化があると思うが、こだまのみの停車駅では相鉄を延伸するほど需要があるかどうかというイメージである。



そして平塚延伸によりポイントとなるのが香川とここ湘南台である。上から現在と1974年頃と1961年頃での比較である。湘南台は周知の通り市営地下鉄と相鉄が小田急と接続するようになり発展目覚しく、急行停車駅である長後と立場が逆転してしまった。それは中央林間と南林間との関係にも似たような部分もあるが、後はいずみ野線と市営地下鉄の速達性をいかに進めるかによって今後の未来の展開が決まってくるであろう。
では平塚延伸はどうか。平塚から東京方面へは間違いなくJRの方がスピード面で勝るが、湘南台方面へは便利になり有効であろう。ただ、どれだけのパイがあるかを考えると、やはりスピード面でJRに勝たなければ大きなパイは拾えないであろう。ただ、香川は移転して相模線との交点を乗換駅にすれば一気に価値が上がるであろうし、湘南みずきに住まわれる方のアクセスも向上するであろう。ただ、湘南みずきの広大な土地はもともと平塚延伸のために所有していた相模鉄道の土地である。現在宅地化されているが、その中に平塚までの線路敷設予定地も含まれていたはずなので今後の展開が気になる。逆にいうと、平塚延伸を断念し宅地化のみに専念したかも知れない。もし本気で平塚まで延伸するなら香川付近は地下化するしかないであろう。
さて、今回具現化されようとしている慶應義塾大学付近であるが、まだまだ開発の余地があるので将来的に住宅やマンションなどの建設も行われるであろう。もちろん大学生たちの通学には重宝するであろうが、その先の延伸に関しても開発の余地はあるので期待して良いであろう。現在、慶應義塾大学方面へは、特に利用者の多いラッシュ時などには「ツインライナー」と呼ばれる、わかりやすく言えば2両編成のバスが頻繁に運行されている。利用者数や将来的な見解を見ても慶応大学付近までの延伸は妥当であろうと思う。そしてかしわ台の章でも述べたが、車両基地を新たに作れるくらいの土地の余裕があるので、今後の活用次第であろう。
かつての砂利輸送から神中鉄道の買収、更に本線を国に買収され元の神中鉄道が現在の相鉄になり更にJRに乗り入れ都心までの運転が可能になり、また更に延伸計画がある。留まる事を知らない相模鉄道は一体どこまで、そしていつまで進化を続けるのだろう。今一番「ナウい」のは、もしかしたら相鉄かも知れない。
もともとは現在の湘南台より更に進み香川付近で相模線と交差し平塚まで到達する延伸計画があるのは有名な話であるが、新幹線が倉見付近に駅を新設する計画が浮上したのを受け平塚までの延伸がペンディングされ、途中で分岐点を設けるか倉見までの延伸に専念するか検討中であった。2009年に平塚までの延伸免許が期限切れになることを受け10年の延長更新がなされたが、現在は倉見までの延伸が具体化したらしく、藤沢市遠藤付近にある慶應義塾大学付近までの延伸がほぼ具体化しているようだ。


今回も「地理院地図」による現在と1961年頃の比較。いずみ野駅であるが、二俣川から本気で平塚まで延伸をかんがえていたのか・・・は別として、全くの不毛地帯に駅を作ることによって「開発」というマジックをいかに活用するかは当時の相鉄の方針であった。このいずみ野線に相鉄が大きな期待がかけられていたのが伺える一面である。
これはあくまで個人的な意見と見解であるが、新幹線の倉見駅は構想から既にウン十年経過しているのと、新横浜~小田原間に駅を作ると新幹線の所要時間が遅くなるためやや疑問もある。もちろんリニアが開通したらひとつの手段として有効であろうと思うが、自身がかつて倉見に在住していた経験から、恐らく駅が新設されてもあまり意味を持たないようなイメージもある。もちろん「のぞみ」が停車すればまた大きな変化があると思うが、こだまのみの停車駅では相鉄を延伸するほど需要があるかどうかというイメージである。



そして平塚延伸によりポイントとなるのが香川とここ湘南台である。上から現在と1974年頃と1961年頃での比較である。湘南台は周知の通り市営地下鉄と相鉄が小田急と接続するようになり発展目覚しく、急行停車駅である長後と立場が逆転してしまった。それは中央林間と南林間との関係にも似たような部分もあるが、後はいずみ野線と市営地下鉄の速達性をいかに進めるかによって今後の未来の展開が決まってくるであろう。
では平塚延伸はどうか。平塚から東京方面へは間違いなくJRの方がスピード面で勝るが、湘南台方面へは便利になり有効であろう。ただ、どれだけのパイがあるかを考えると、やはりスピード面でJRに勝たなければ大きなパイは拾えないであろう。ただ、香川は移転して相模線との交点を乗換駅にすれば一気に価値が上がるであろうし、湘南みずきに住まわれる方のアクセスも向上するであろう。ただ、湘南みずきの広大な土地はもともと平塚延伸のために所有していた相模鉄道の土地である。現在宅地化されているが、その中に平塚までの線路敷設予定地も含まれていたはずなので今後の展開が気になる。逆にいうと、平塚延伸を断念し宅地化のみに専念したかも知れない。もし本気で平塚まで延伸するなら香川付近は地下化するしかないであろう。
さて、今回具現化されようとしている慶應義塾大学付近であるが、まだまだ開発の余地があるので将来的に住宅やマンションなどの建設も行われるであろう。もちろん大学生たちの通学には重宝するであろうが、その先の延伸に関しても開発の余地はあるので期待して良いであろう。現在、慶應義塾大学方面へは、特に利用者の多いラッシュ時などには「ツインライナー」と呼ばれる、わかりやすく言えば2両編成のバスが頻繁に運行されている。利用者数や将来的な見解を見ても慶応大学付近までの延伸は妥当であろうと思う。そしてかしわ台の章でも述べたが、車両基地を新たに作れるくらいの土地の余裕があるので、今後の活用次第であろう。
かつての砂利輸送から神中鉄道の買収、更に本線を国に買収され元の神中鉄道が現在の相鉄になり更にJRに乗り入れ都心までの運転が可能になり、また更に延伸計画がある。留まる事を知らない相模鉄道は一体どこまで、そしていつまで進化を続けるのだろう。今一番「ナウい」のは、もしかしたら相鉄かも知れない。
夏色の相模鉄道② かしわ台
2020-07-05
前回アップした海老名の章でも述べたが、ここかしわ台は相鉄の中では比較的新しい駅である。それまであった大塚本町を廃止しかしわ台とさがみ野に分散させた形にしてかしわ台に車両基地を作った。車両基地ができる前はとんでもない山の中で、正直言って「出る」環境であったろう。
ただ、元々の大塚本町の利用者にも不便の無いようかつての大塚本町駅舎はかしわ台駅東口として、ホームは連絡通路として近年まで使用されてきた。しかしながら駅舎は改築されかつての駅舎は姿をけしたものの、現在も「かしわ台駅」として利用されている。


今回も「地理院地図」にお世話になった。現在と1961年頃のかしわ台比較。かしわ台付近の本線は車両基地の中に消え、改めてルート変更された部分に新たに駅を設置しているのがわかる。特にご覧になってお分かりと思うが、現在のかしわ台駅設置前は一面大自然であった。写真では平面であるが、実際にはかなり立体的で段差が多く、駅設置や車両基地の設置にもかなりの苦労が伺えるであろう。
さて、ここかしわ台であるが、実は私の親戚宅の最寄り駅であり幼少期は再三に渡り訪問していた。ちょうどかしわ台が開業して間もないくらいからで、それまで住んでいた横浜は戸部の団地を離れかしわ台に一軒家を購入したのだ。私も引っ越しの手伝いに行ったりしたが、当時のかしわ台駅界隈はかなり発展途上で、しかも山を開拓して宅地化したため坂が非常に多い。親戚宅もかなりの急坂を登るため車だとひっくり返りそうな、いわばひとりバックドロップ状態にもなりかねないくらいの角度である。体感であるが、恐らく大井川鐵道のアブト区間よりも
ウン百パーミル急である。しかしながらその頂点にある親戚宅の窓からはかしわ台駅がハッキリと見えるので、幼少期はずっと窓を眺めていたものだ。周りから見たらなんて大人しい子供なのだろうと誤解されていたかも知れない。
だがそこから見る風景は、かしわ台の横全景とわいわないがかなりのパノラマ度で、それこそ旧大塚本町のホーム見えるが、幼少時はそこを自転車置場か何かと思っていた。しかしながら、その「自転車置場」からかしわ台駅まではかなりの距離があり、大塚本町をかしわ台としての再利用は苦渋の決断であったと思う。だが、そうして大塚本町の利用者の事もちゃんと考える辺り、会社としての姿勢は評価されよう。
現在と1961年頃との比較を可動式の地図で示してみた。ご覧の通り、地形的制約と将来的な見解が浅かった事からバスロータリー等のスペースが無いのがわかる。現在も駅前はやや狭さを否定できず、更にバスロータリー等のスペースが無い事から、特に朝のラッシュ時等は不便を感じる場面も少なくない。
そんなかしわ台の駅界隈も宅地化が進みスーパー銭湯やスーパーマーケットなどが進出しいくらか賑やかになったものの、地形的制約から駅前はロータリーなどのスペースはなく、バスなどの交通機関でのアプローチはかなり不便を強いられ安全面でも不安な材料を抱えている。
私が、引っ越し直後の親戚宅へ訪問時では先述通りの発展途上であったので現在の姿が想像できなかったが、それ以来の現在、もちろん住宅や商業施設が劇的に増えたものの、イメージ的には昔と変わらぬままの印象である。
ただ、将来的にも他社からの乗り入れが増えて車両基地もキャパ不足気味になるのではと心配材料もあるが、多分その辺りも相鉄は計算しているであろう。
ただ、個人的な意見としては、相模線の入谷付近にはまだ土地に余裕があるので、たとえば相鉄厚木線を使い相模国分から分岐して入谷に直接向かうルートを作るか、JR海老名の手前付近で分岐させ一旦厚木まで行き、戻る形で入谷に向かうかになると思う。ただ、手間はかかるものの土地はそれなりにあるので有効であろう。でもなければ、湘南台よりの延伸により慶應義塾大学付近に駅ができるのであれば、まだまだ土地に余裕があるので思いきってこの慶應義塾大学付近新駅に車両基地を併設するという手もある。いずれにしてもこれは私の勝手な想像であって、実際には法律的な制約や経済的なやりくりもあるので現実的かどうかは不明であるが、ひとつの案としては有効であろうかも知れない。
ただ、元々の大塚本町の利用者にも不便の無いようかつての大塚本町駅舎はかしわ台駅東口として、ホームは連絡通路として近年まで使用されてきた。しかしながら駅舎は改築されかつての駅舎は姿をけしたものの、現在も「かしわ台駅」として利用されている。


今回も「地理院地図」にお世話になった。現在と1961年頃のかしわ台比較。かしわ台付近の本線は車両基地の中に消え、改めてルート変更された部分に新たに駅を設置しているのがわかる。特にご覧になってお分かりと思うが、現在のかしわ台駅設置前は一面大自然であった。写真では平面であるが、実際にはかなり立体的で段差が多く、駅設置や車両基地の設置にもかなりの苦労が伺えるであろう。
さて、ここかしわ台であるが、実は私の親戚宅の最寄り駅であり幼少期は再三に渡り訪問していた。ちょうどかしわ台が開業して間もないくらいからで、それまで住んでいた横浜は戸部の団地を離れかしわ台に一軒家を購入したのだ。私も引っ越しの手伝いに行ったりしたが、当時のかしわ台駅界隈はかなり発展途上で、しかも山を開拓して宅地化したため坂が非常に多い。親戚宅もかなりの急坂を登るため車だとひっくり返りそうな、いわばひとりバックドロップ状態にもなりかねないくらいの角度である。体感であるが、恐らく大井川鐵道のアブト区間よりも
ウン百パーミル急である。しかしながらその頂点にある親戚宅の窓からはかしわ台駅がハッキリと見えるので、幼少期はずっと窓を眺めていたものだ。周りから見たらなんて大人しい子供なのだろうと誤解されていたかも知れない。
だがそこから見る風景は、かしわ台の横全景とわいわないがかなりのパノラマ度で、それこそ旧大塚本町のホーム見えるが、幼少時はそこを自転車置場か何かと思っていた。しかしながら、その「自転車置場」からかしわ台駅まではかなりの距離があり、大塚本町をかしわ台としての再利用は苦渋の決断であったと思う。だが、そうして大塚本町の利用者の事もちゃんと考える辺り、会社としての姿勢は評価されよう。
現在と1961年頃との比較を可動式の地図で示してみた。ご覧の通り、地形的制約と将来的な見解が浅かった事からバスロータリー等のスペースが無いのがわかる。現在も駅前はやや狭さを否定できず、更にバスロータリー等のスペースが無い事から、特に朝のラッシュ時等は不便を感じる場面も少なくない。
そんなかしわ台の駅界隈も宅地化が進みスーパー銭湯やスーパーマーケットなどが進出しいくらか賑やかになったものの、地形的制約から駅前はロータリーなどのスペースはなく、バスなどの交通機関でのアプローチはかなり不便を強いられ安全面でも不安な材料を抱えている。
私が、引っ越し直後の親戚宅へ訪問時では先述通りの発展途上であったので現在の姿が想像できなかったが、それ以来の現在、もちろん住宅や商業施設が劇的に増えたものの、イメージ的には昔と変わらぬままの印象である。
ただ、将来的にも他社からの乗り入れが増えて車両基地もキャパ不足気味になるのではと心配材料もあるが、多分その辺りも相鉄は計算しているであろう。
ただ、個人的な意見としては、相模線の入谷付近にはまだ土地に余裕があるので、たとえば相鉄厚木線を使い相模国分から分岐して入谷に直接向かうルートを作るか、JR海老名の手前付近で分岐させ一旦厚木まで行き、戻る形で入谷に向かうかになると思う。ただ、手間はかかるものの土地はそれなりにあるので有効であろう。でもなければ、湘南台よりの延伸により慶應義塾大学付近に駅ができるのであれば、まだまだ土地に余裕があるので思いきってこの慶應義塾大学付近新駅に車両基地を併設するという手もある。いずれにしてもこれは私の勝手な想像であって、実際には法律的な制約や経済的なやりくりもあるので現実的かどうかは不明であるが、ひとつの案としては有効であろうかも知れない。