瀬音ゆかしき杜の都 ④
2020-12-30
安積永盛を過ぎ郡山に着くが、在来線のみの時代はここ郡山や後に出てくる福島などは東北本線の要衝として大きな存在であった。現在は新幹線の一部列車の通過があるのは今でこそ当たり前であるが、そんな「やまびこ」の登場に当時は実にカルチャーショックであった!それこそ新幹線がまだ開通していない時代では上野を出発した列車が仙台と盛岡しか停車しないのはありえない世界であったからである。

郡山駅の入場券は前回の紹介で新幹線の切符売り場で購入と報告したが、ご覧の通り、新幹線の切符売り場で購入すると赤文字印刷で区別される。
最初に郡山を通ったのは1979年に急行「津軽」での帰郷の際であったが、実際に下車したのはお馴染み1983年8月の東北一周の旅の時である。確か日中線を乗り終え磐越西線から急行「八甲田」への乗り換えのためであった。そしてわざわざ新幹線切符売場まで行き窓口で入場券を買ったのだ。その他、駅前を散策するとか名物を提供する飲食店に入るとかは一切無し❗如何に私が鉄道少年であったかがお分かりいただけるであろう。

確か会津若松で撮影した485系の「あいづライナー」。昭和を知る者にとって、この車両を「快速」で乗車できるとは実に時代の変化を感じる。
そんな郡山も乗り換えるのみであったが、一際目を引くものが別のホームに停車していた。それは485系と思われる快速「あいづ」のあかべこペイントバージョンであった!おう、こんなところでまだ国鉄が残っていたか!私は思わず少年時代にもどってしまったかのように無邪気にレンズを向けていた。「そうだよな、昔は特急(あいづ)で頑張ってたもんな。上野でよく見かけたよ。今はここまで来ないと会えないのか」みたいな会話を(いや、ハタから見たら単純に独り言であろうが)しながら再び次の列車の待つホームへ足を急がせた。

東北本線の黒磯以北で普通列車の旧型客車運用の置き換えとして活躍した旧・583系。確か同じ時期に佐世保線や長崎本線でも583系のこうした運用がされた記憶であるが、いずれにしても普通列車として運用するにはなんとも贅沢な使い方かも知れない。
かつては電気機関車牽引の旧型客車による普通列車が主力であったが、時期を同じくして583系改造版の普通列車も加わり、郡山付近から段々と旧型客車が消えて行くタイミングでもあった。
確か、今回の旅を終え、再び後日訪問の郡山では583系バージョンの快速「あいづ」も見た!いや、会津若松だったであろうか。いずれにしでもこうした昭和の名車が、形はどうあれ最後の活躍をしている勇姿を見れただけでも今回の旅の価値は上がったであろう。
郡山を後にした私は、福島より一旦東北本線に別れを告げ「あぶくま経由」で杜の都を目指す事にした。

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鉄道全線完全制覇の旅

郡山駅の入場券は前回の紹介で新幹線の切符売り場で購入と報告したが、ご覧の通り、新幹線の切符売り場で購入すると赤文字印刷で区別される。
最初に郡山を通ったのは1979年に急行「津軽」での帰郷の際であったが、実際に下車したのはお馴染み1983年8月の東北一周の旅の時である。確か日中線を乗り終え磐越西線から急行「八甲田」への乗り換えのためであった。そしてわざわざ新幹線切符売場まで行き窓口で入場券を買ったのだ。その他、駅前を散策するとか名物を提供する飲食店に入るとかは一切無し❗如何に私が鉄道少年であったかがお分かりいただけるであろう。

確か会津若松で撮影した485系の「あいづライナー」。昭和を知る者にとって、この車両を「快速」で乗車できるとは実に時代の変化を感じる。
そんな郡山も乗り換えるのみであったが、一際目を引くものが別のホームに停車していた。それは485系と思われる快速「あいづ」のあかべこペイントバージョンであった!おう、こんなところでまだ国鉄が残っていたか!私は思わず少年時代にもどってしまったかのように無邪気にレンズを向けていた。「そうだよな、昔は特急(あいづ)で頑張ってたもんな。上野でよく見かけたよ。今はここまで来ないと会えないのか」みたいな会話を(いや、ハタから見たら単純に独り言であろうが)しながら再び次の列車の待つホームへ足を急がせた。

東北本線の黒磯以北で普通列車の旧型客車運用の置き換えとして活躍した旧・583系。確か同じ時期に佐世保線や長崎本線でも583系のこうした運用がされた記憶であるが、いずれにしても普通列車として運用するにはなんとも贅沢な使い方かも知れない。
かつては電気機関車牽引の旧型客車による普通列車が主力であったが、時期を同じくして583系改造版の普通列車も加わり、郡山付近から段々と旧型客車が消えて行くタイミングでもあった。
確か、今回の旅を終え、再び後日訪問の郡山では583系バージョンの快速「あいづ」も見た!いや、会津若松だったであろうか。いずれにしでもこうした昭和の名車が、形はどうあれ最後の活躍をしている勇姿を見れただけでも今回の旅の価値は上がったであろう。
郡山を後にした私は、福島より一旦東北本線に別れを告げ「あぶくま経由」で杜の都を目指す事にした。

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鉄道全線完全制覇の旅
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瀬音ゆかしき杜の都 ③
2020-12-25
宇都宮から更に普通列車で黒磯へ向かう。途中、那須塩原に着くが、ご存知、那須塩原は東北新幹線開業時にローカル駅前にであった東那須野を改称したものである。西那須野と黒磯の間にあるのと新幹線が、特に東那須野~黒磯付近は在来線とかなりの接近する。恐らく最初は黒磯に新幹線の駅を作る意図があったのではないかと思えてしまうくらいに接近するのだが、やはり日本を代表する避暑地のひとつである那須高原を控え、西那須野側との調整があったのかも知れない。現在は那須塩原が観光拠点として完全に確立されているイメージで、その役割は大きいであろう。だが、今回の私の旅は、そうした観光とは全く無縁の旅なので何もなかったかのように通りすぎる事にする。

今回の旅は自身で撮影した写真が少ないためウィキペディアを少々活用させて頂く。かつては特急列車など停車しない地味な駅であった東那須野は、東北新幹線開業と同時に新幹線停車駅として活躍する事になり一気に注目を浴びる事となった。
さて、いよいよ黒磯で乗り換えるが、ご存知、デッドセクションのある駅で、交流、直流電化の境界線である。そのため、ほぼすべての普通列車はここで乗り換えとなり貨物列車も恐らく機関車交換を余儀なくされるであろう。ただ、かつての寝台特急などは黒磯通過のためとなりの宇都宮で交直両用機関車に交換されるパターンもあった。
たが、今回の旅は普通列車である。つまり直流電車から交流電車にのりかえるのであるが…
国鉄時代の1980年代頃までは黒磯より先の区間は交流電気機関車が牽引する雑種の旧型客車での運行であった!そして郡山や福島でまた旧型客車の普通列車に乗り換える。こんなパターンを、この時代を知る者なら「18」等で経験されている方も少なくないであろう。東北本線は東北新幹線が開業してからもなお、在来線ではこうしたのんびりとした時間が過ぎていったのだ。

そして黒磯もウィキペディアより。ご存知、国鉄時代からデッドセクションのある駅として知られてきたが、現在はデッドセクションの位置がややずれて、黒磯駅構内には交流電車が入線できない形となった。
そんな時代も過去の遺産となってしまい、今回の旅で私が乗り換えた列車は交流電車である。しかもかつての名残である有効長の長いホームを活かし同じホームの端と端での乗り換えであった。これは新しいパターンだ。現在でこそ四国の松山などでよく見かけるシーンであるが、ただ、出るドアによっては長い徒歩を要する難点はある。いずれにしても国鉄時代の「黒磯より先」の楽しみが無くなってしまったのは残念であるが、普通列車のみで行く本線の旅は格別なものがある。東海道線とは違う、何か別の意味での趣や情緒、風情・・・そういった「別の文化」を肌で感じる事が出来る、そんな楽しさが凝縮されているような東北本線の魅力がそこにはあった。

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今回の旅は自身で撮影した写真が少ないためウィキペディアを少々活用させて頂く。かつては特急列車など停車しない地味な駅であった東那須野は、東北新幹線開業と同時に新幹線停車駅として活躍する事になり一気に注目を浴びる事となった。
さて、いよいよ黒磯で乗り換えるが、ご存知、デッドセクションのある駅で、交流、直流電化の境界線である。そのため、ほぼすべての普通列車はここで乗り換えとなり貨物列車も恐らく機関車交換を余儀なくされるであろう。ただ、かつての寝台特急などは黒磯通過のためとなりの宇都宮で交直両用機関車に交換されるパターンもあった。
たが、今回の旅は普通列車である。つまり直流電車から交流電車にのりかえるのであるが…
国鉄時代の1980年代頃までは黒磯より先の区間は交流電気機関車が牽引する雑種の旧型客車での運行であった!そして郡山や福島でまた旧型客車の普通列車に乗り換える。こんなパターンを、この時代を知る者なら「18」等で経験されている方も少なくないであろう。東北本線は東北新幹線が開業してからもなお、在来線ではこうしたのんびりとした時間が過ぎていったのだ。

そして黒磯もウィキペディアより。ご存知、国鉄時代からデッドセクションのある駅として知られてきたが、現在はデッドセクションの位置がややずれて、黒磯駅構内には交流電車が入線できない形となった。
そんな時代も過去の遺産となってしまい、今回の旅で私が乗り換えた列車は交流電車である。しかもかつての名残である有効長の長いホームを活かし同じホームの端と端での乗り換えであった。これは新しいパターンだ。現在でこそ四国の松山などでよく見かけるシーンであるが、ただ、出るドアによっては長い徒歩を要する難点はある。いずれにしても国鉄時代の「黒磯より先」の楽しみが無くなってしまったのは残念であるが、普通列車のみで行く本線の旅は格別なものがある。東海道線とは違う、何か別の意味での趣や情緒、風情・・・そういった「別の文化」を肌で感じる事が出来る、そんな楽しさが凝縮されているような東北本線の魅力がそこにはあった。

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瀬音ゆかしき杜の都
2020-12-20
通勤客に混ざりながらの東海道線は、早い時間から立ち席客も少なくない車内から見る風景が懐かしい。時代の変化により建物や町並みも変化していくが、私が最も印象深いのが東戸塚である。1980年に開業したのだが、まだ駅前は建物すら疎らで区画整備されてはいるものの、いわゆる駅前的な賑やかさとは全く遠い存在の景色であった。かつての新百合ケ丘とその雰囲気は類似するかも知れないが、現在の姿からは想像できない発展途上の東戸塚が小学生ながらに非常に興味をそそられた。東戸塚が出来る前には戸塚~保土ヶ谷間に確か「←戸塚 東戸塚 保土ヶ谷→」の看板が沿線にあり、それが横須賀線・総武線直通運転と併せて実現するということは実に画期的で、東海道線・横須賀線分離運転と併せて大船~東京間が劇的に変化する時代をともに生きてきた事の素晴らしさを今になって感じる・・・って、横須賀線の記事で別途コーナーができそうなので、この件は別の機会にするとして・・・

画像はウィキペディアより。現在は「大都会」となった東戸塚。昭和55年開業当時はまだまだ駅前は発展途上であったが、当時、車窓から眺める横浜銀行がポツリと目立つ駅前風景が実に印象的であった。
上野東京ラインがまだ確立されていない時代であるため、当然ながら東京で東海道線から山手線に乗り換え上野よりいよいよ東北本線に乗り「杜の都」を目指す。というより仙台まででは普通列車で行っても今日中には着く計算なのでそれほど急ぐ旅ではない。上野で小一時間の休憩を取り、立ち食いそばにて遅い朝食を摂る事にした。
始発が上野であるから、しかも下り列車であるから当然ながら座席に余裕があるであろうとの予測であったが、やはりそこは日本国の首都・東京である。いい感じの乗車率で座席の余裕もあまりないくらいの出発であるが、山手線や上り列車の事を考えると時間帯にしては贅沢な旅であろう。プラス尾久にある車両基地の風景も見れるのであるから尚更だ。

「平成」の旅案内をしているのになぜか「昭和」になってしまうのが私のいけないところか・・・私の子供の頃は東海道線でバリバリ活躍していた。のだが、まさか現在のように東京をスルーして「上野・東京ライン」的な運転系統が活躍するとは当時全く思わなかった。
ニューフェイスのさいたま新都心「駅」を初めて確認し大宮を過ぎる。上野から乗車している列車は「ラビット」であるが、宇都宮まで乗り換え無しで行けるのは嬉しい。というか、この「ラビット」、2020年現在、上野・東京ラインが確立された現在でもちゃんと上野発を厳守しているのは実に好ましい!もちろん東海度線横・須賀線等の直通の快速も運転されているが、上野発のみの快速に「ラビット」を名乗らせるJR東の伝統を守る姿勢は実に評価出来る・・・って、別に私は評論家でも何でもないのだが、現在は福島~仙台間に「仙台シティラビット」も加わりますます「ラビット」の勢力が拡大されている辺りに力強さを感じる。

画像はウィキペディアより。現在の上野・東京ラインで活躍する車両は、現在神奈川県から埼玉、群馬・栃木方面へ乗り換えなしで行けるのが凄い。とは言え、まさか小田原辺りから宇都宮とかまで毎日乗車される方はそう多くないと思われるが、それでもそういう方たちにしたら格段に利便性が向上した事であろう。
そんな「ラビット」に乗り久々の東北本線風景は見ていて飽きないが、特に私からすれば「ニューフェイス」の東鷲宮は貨物駅に併設する形で東北新幹線大宮暫定開業時に旅客駅を併設する形で開業した。上り線のみ高架化され特殊な構造に目を惹くが、ここがレールファンにはたまらない素材であろうと思うのは私だけであろうか?ただ、残念なのは国鉄時代末期頃には完全に貨物が衰退し全国的に貨物の設備が持て余し気味なった事であるが、例えば新宿などはその貨物の設備があったお陰で旅客ホームを増設できたし、主要都市駅の高架化の際もこうした貨物設備や側線のスペースを再利用する事でスムーズに駅やその都市の再開発に貢献できたのだから、良い意味で無駄にならずに現在に至る姿は素晴らしい事だ。
そんな思いが一気に掠めると「ラビット」の終点、宇都宮のホームが窓の外に近づいてきた。

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鉄道全線完全制覇の旅

画像はウィキペディアより。現在は「大都会」となった東戸塚。昭和55年開業当時はまだまだ駅前は発展途上であったが、当時、車窓から眺める横浜銀行がポツリと目立つ駅前風景が実に印象的であった。
上野東京ラインがまだ確立されていない時代であるため、当然ながら東京で東海道線から山手線に乗り換え上野よりいよいよ東北本線に乗り「杜の都」を目指す。というより仙台まででは普通列車で行っても今日中には着く計算なのでそれほど急ぐ旅ではない。上野で小一時間の休憩を取り、立ち食いそばにて遅い朝食を摂る事にした。
始発が上野であるから、しかも下り列車であるから当然ながら座席に余裕があるであろうとの予測であったが、やはりそこは日本国の首都・東京である。いい感じの乗車率で座席の余裕もあまりないくらいの出発であるが、山手線や上り列車の事を考えると時間帯にしては贅沢な旅であろう。プラス尾久にある車両基地の風景も見れるのであるから尚更だ。

「平成」の旅案内をしているのになぜか「昭和」になってしまうのが私のいけないところか・・・私の子供の頃は東海道線でバリバリ活躍していた。のだが、まさか現在のように東京をスルーして「上野・東京ライン」的な運転系統が活躍するとは当時全く思わなかった。
ニューフェイスのさいたま新都心「駅」を初めて確認し大宮を過ぎる。上野から乗車している列車は「ラビット」であるが、宇都宮まで乗り換え無しで行けるのは嬉しい。というか、この「ラビット」、2020年現在、上野・東京ラインが確立された現在でもちゃんと上野発を厳守しているのは実に好ましい!もちろん東海度線横・須賀線等の直通の快速も運転されているが、上野発のみの快速に「ラビット」を名乗らせるJR東の伝統を守る姿勢は実に評価出来る・・・って、別に私は評論家でも何でもないのだが、現在は福島~仙台間に「仙台シティラビット」も加わりますます「ラビット」の勢力が拡大されている辺りに力強さを感じる。

画像はウィキペディアより。現在の上野・東京ラインで活躍する車両は、現在神奈川県から埼玉、群馬・栃木方面へ乗り換えなしで行けるのが凄い。とは言え、まさか小田原辺りから宇都宮とかまで毎日乗車される方はそう多くないと思われるが、それでもそういう方たちにしたら格段に利便性が向上した事であろう。
そんな「ラビット」に乗り久々の東北本線風景は見ていて飽きないが、特に私からすれば「ニューフェイス」の東鷲宮は貨物駅に併設する形で東北新幹線大宮暫定開業時に旅客駅を併設する形で開業した。上り線のみ高架化され特殊な構造に目を惹くが、ここがレールファンにはたまらない素材であろうと思うのは私だけであろうか?ただ、残念なのは国鉄時代末期頃には完全に貨物が衰退し全国的に貨物の設備が持て余し気味なった事であるが、例えば新宿などはその貨物の設備があったお陰で旅客ホームを増設できたし、主要都市駅の高架化の際もこうした貨物設備や側線のスペースを再利用する事でスムーズに駅やその都市の再開発に貢献できたのだから、良い意味で無駄にならずに現在に至る姿は素晴らしい事だ。
そんな思いが一気に掠めると「ラビット」の終点、宇都宮のホームが窓の外に近づいてきた。

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鉄道全線完全制覇の旅
瀬音ゆかしき杜の都①
2020-12-15
2008年夏、この歳になって子供の頃に聴いた歌に感動を覚えるシーンがあり、それがきっかけで仙台の鉄道路線制覇に乗り出すとは思わなかった。
それは、さとう宗幸が歌う「青葉城恋唄」であり、宮城県のご当地ソングとして現在も根付いているのは凄い。これほど奥が深い歌は無いであろうが、その件については後程触れることにしよう。
そんな歌に魅せられて旅立ったのが先述した2008年8月であり、仙台の七夕に合わせて計画を組んだ。仙台までは何と「青春18」での参戦であり、それこそさとう宗幸が全盛だった頃に発売された「青春18のびのびきっぷ」を握りしめ全国各地に繰り出した私の少年時代を思い出す旅となった。



今回の旅の始まりは海老名からである。JRと小田急・相鉄との間は長い通路で結ばれていて、その長い通路には商業施設の建設が予定されている。ただ、海老名駅前はイオンやダイエー(グルメシティ)が既にある中、海老名中央公園に丸井が、そして更には相模線と小田急の間にはららぽーとも近年にオープンし激戦区に変わった。
かつての私は「西寒川」がホームグラウンドであったが、20008年の今回の旅はJR海老名よりの出発となった。相模線の上り始発に乗るのは私が旅出る時のパターンのひとつであるが、海老名からというのはそう多くないので新鮮だ。ただ、この日は東京近郊の周遊ではなく「杜の都」へ向かうためある程度の覚悟が必要だ。久々に「本線」と名の付く路線を普通列車のみで踏破しなければならない体力はあるのか…
そしてその先にある七夕に向けスタミナ配分できるのか…
期待と不安を胸に相模線の「半自動扉」の「開」ボタンを力強く押した。

画像はミックスマテリアル様提供の1970年代の寒川駅である。現在の寒川駅のみを知る者にとって全く考えられない光景であろう。当時、側線に旧型客車が留置されていたが、いつの間にかどこかへ消えてしまったのは残念である。
さて、相模線からの東海道線で東京へ出るパターンは、旅立ちの駅こそ違えど私の小学生時代から変わらぬ風景で、ある意味懐かしい部分もあるが、その間に非電化~電化へと変貌を遂げ首都圏のローカル線であった相模線も近代化の仲間入りをした。
と言いたいところであるが単線ながら非電化時代と変わらない列車交換駅の配置のため、とにかく交換駅での待ち合わせが多い。そのため格段にスピードアップしたわけではなく、ある意味昔の名残を残した近代化となった。ただ、寒川~茅ヶ崎間は複線にしないとラッシュ時は限界であろう通勤風景を目の当たりにするのが正直なところだ。
そんな相模線の一番列車を下車し茅ヶ崎の長い跨線橋を渡り東海道線上り列車で東京を目指した。

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鉄道全線完全制覇の旅
それは、さとう宗幸が歌う「青葉城恋唄」であり、宮城県のご当地ソングとして現在も根付いているのは凄い。これほど奥が深い歌は無いであろうが、その件については後程触れることにしよう。
そんな歌に魅せられて旅立ったのが先述した2008年8月であり、仙台の七夕に合わせて計画を組んだ。仙台までは何と「青春18」での参戦であり、それこそさとう宗幸が全盛だった頃に発売された「青春18のびのびきっぷ」を握りしめ全国各地に繰り出した私の少年時代を思い出す旅となった。



今回の旅の始まりは海老名からである。JRと小田急・相鉄との間は長い通路で結ばれていて、その長い通路には商業施設の建設が予定されている。ただ、海老名駅前はイオンやダイエー(グルメシティ)が既にある中、海老名中央公園に丸井が、そして更には相模線と小田急の間にはららぽーとも近年にオープンし激戦区に変わった。
かつての私は「西寒川」がホームグラウンドであったが、20008年の今回の旅はJR海老名よりの出発となった。相模線の上り始発に乗るのは私が旅出る時のパターンのひとつであるが、海老名からというのはそう多くないので新鮮だ。ただ、この日は東京近郊の周遊ではなく「杜の都」へ向かうためある程度の覚悟が必要だ。久々に「本線」と名の付く路線を普通列車のみで踏破しなければならない体力はあるのか…
そしてその先にある七夕に向けスタミナ配分できるのか…
期待と不安を胸に相模線の「半自動扉」の「開」ボタンを力強く押した。

画像はミックスマテリアル様提供の1970年代の寒川駅である。現在の寒川駅のみを知る者にとって全く考えられない光景であろう。当時、側線に旧型客車が留置されていたが、いつの間にかどこかへ消えてしまったのは残念である。
さて、相模線からの東海道線で東京へ出るパターンは、旅立ちの駅こそ違えど私の小学生時代から変わらぬ風景で、ある意味懐かしい部分もあるが、その間に非電化~電化へと変貌を遂げ首都圏のローカル線であった相模線も近代化の仲間入りをした。
と言いたいところであるが単線ながら非電化時代と変わらない列車交換駅の配置のため、とにかく交換駅での待ち合わせが多い。そのため格段にスピードアップしたわけではなく、ある意味昔の名残を残した近代化となった。ただ、寒川~茅ヶ崎間は複線にしないとラッシュ時は限界であろう通勤風景を目の当たりにするのが正直なところだ。
そんな相模線の一番列車を下車し茅ヶ崎の長い跨線橋を渡り東海道線上り列車で東京を目指した。

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鉄道全線完全制覇の旅
風立ちぬ~今は秋OR冬?⑤
2020-12-10
石勝線の魅力はなんだろう?と自問自答しながら綴ってみたが、果たしてハッキリとした見解が記されていたであろうか。そして皆様に伝わったであろうか。多分どちらも満たされてはいなかったかも知れない。
ただ、ハッキリとわかることは炭坑路線が観光路線に変化した事。更に道東アクセスの役割をプラスし当時の最新設備を投資し飛躍し活躍してきた事。
ただ、沿線人口の減少やライバルである高速道路の出現で石勝線を取り巻く環境が大きく変わり、当初の思惑とは違った時代の流れを歩んでいる事も確かで、開業当時から駅や信号場の減少や格下げも目立ち北海道での鉄道経営の厳しさを改めて思いし知らされたイメージである。

夕張線の一部は特急列車が走るため改良された。開業当時、夕張線に特急列車が走る事自体強い衝撃を受けたが、現在ではその夕張線の一部であった駅も信号場等に格下げされてしまいJR北海道の厳しい現実がひしひしと伝わってくる。東追分もそのひとつだ。
それでも石勝線の新線区間はもともと人口希少地帯を走るのだから、ある程度の計算は出来ていたであろう。例えばオサワなどでわかるように駅としてではなく開業当初から信号場として現れているのは典型的な例であろうが、それでも計画当初は駅としての構想があったのだから、如何に石勝線が地元の悲願であったかお分かりであろう。
しかし、悲願が達成されよう頃にはそこに生活は無く、豊かな自然とのゴースト化した一部の集落が残るのみで、唯一、占冠が「大都会」としてリゾートと共に現在も活きているのはある意味奇跡と言っても良いくらい素晴らしい事である!そんな哀愁漂う石勝線が私は愛おしくてたまらないのであろう。

石勝線開業時には想像もしなかった建物が石勝線沿線に登場した!しかもバブル期には「リゾート」と呼ぶにふさわしい内容であったので私も憧れの存在であった。駅名も石勝高原から現駅名のトマムに改称されるほどその衝撃は凄かった。
二十歳くらいの頃、私は彼女とかとトマムのツインタワーやガレリアスイートに宿泊するのが密かな夢であった。二十代でその夢は果たせなかったが、そんな夢を抱いてしまう魅力がトマムにはある。そし2014年にはレンタカーで石勝線の各信号場と駅を巡ったが全てではなかった。
乗り潰しを主体として近年までライフワークだった名残からあまりリピートするという習慣や感覚が私には少ないように感じる中、再び三たびリピートしてきたのは石勝線のみである。
「もう、お腹いっぱい?」
いやいや、全然!私にはまだ知らない石勝線が無数にある。いや、あるはずだしもっと知りたい。石勝線の魅力について考えてみたが結論は出ない。いや、逆に完璧に魅力が全てわかってしまったら魅力が無くなってしまいそうな気がする。
魅力探しの旅…それは永遠に続きそうな気がする。だから石勝線の旅は面白いのかも知れない。

最後に鹿ノ谷であるが・・・全盛期は夕張鉄道との接続駅でもあった。広い構内が炭鉱時代の盛栄を無言で語りかけているが、現在はレールそのものがなくなってしまった。私的には新夕張~夕張はそのまま夕張線でもよかった気がするのだが、なぜ石勝線になったのか・・・その真意は如何に!

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鉄道全線完全制覇の旅
ただ、ハッキリとわかることは炭坑路線が観光路線に変化した事。更に道東アクセスの役割をプラスし当時の最新設備を投資し飛躍し活躍してきた事。
ただ、沿線人口の減少やライバルである高速道路の出現で石勝線を取り巻く環境が大きく変わり、当初の思惑とは違った時代の流れを歩んでいる事も確かで、開業当時から駅や信号場の減少や格下げも目立ち北海道での鉄道経営の厳しさを改めて思いし知らされたイメージである。

夕張線の一部は特急列車が走るため改良された。開業当時、夕張線に特急列車が走る事自体強い衝撃を受けたが、現在ではその夕張線の一部であった駅も信号場等に格下げされてしまいJR北海道の厳しい現実がひしひしと伝わってくる。東追分もそのひとつだ。
それでも石勝線の新線区間はもともと人口希少地帯を走るのだから、ある程度の計算は出来ていたであろう。例えばオサワなどでわかるように駅としてではなく開業当初から信号場として現れているのは典型的な例であろうが、それでも計画当初は駅としての構想があったのだから、如何に石勝線が地元の悲願であったかお分かりであろう。
しかし、悲願が達成されよう頃にはそこに生活は無く、豊かな自然とのゴースト化した一部の集落が残るのみで、唯一、占冠が「大都会」としてリゾートと共に現在も活きているのはある意味奇跡と言っても良いくらい素晴らしい事である!そんな哀愁漂う石勝線が私は愛おしくてたまらないのであろう。

石勝線開業時には想像もしなかった建物が石勝線沿線に登場した!しかもバブル期には「リゾート」と呼ぶにふさわしい内容であったので私も憧れの存在であった。駅名も石勝高原から現駅名のトマムに改称されるほどその衝撃は凄かった。
二十歳くらいの頃、私は彼女とかとトマムのツインタワーやガレリアスイートに宿泊するのが密かな夢であった。二十代でその夢は果たせなかったが、そんな夢を抱いてしまう魅力がトマムにはある。そし2014年にはレンタカーで石勝線の各信号場と駅を巡ったが全てではなかった。
乗り潰しを主体として近年までライフワークだった名残からあまりリピートするという習慣や感覚が私には少ないように感じる中、再び三たびリピートしてきたのは石勝線のみである。
「もう、お腹いっぱい?」
いやいや、全然!私にはまだ知らない石勝線が無数にある。いや、あるはずだしもっと知りたい。石勝線の魅力について考えてみたが結論は出ない。いや、逆に完璧に魅力が全てわかってしまったら魅力が無くなってしまいそうな気がする。
魅力探しの旅…それは永遠に続きそうな気がする。だから石勝線の旅は面白いのかも知れない。

最後に鹿ノ谷であるが・・・全盛期は夕張鉄道との接続駅でもあった。広い構内が炭鉱時代の盛栄を無言で語りかけているが、現在はレールそのものがなくなってしまった。私的には新夕張~夕張はそのまま夕張線でもよかった気がするのだが、なぜ石勝線になったのか・・・その真意は如何に!

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鉄道全線完全制覇の旅
風立ちぬ~今は秋OR冬?④
2020-12-05
さて、石勝線の魅力について私なりに「なぜ?」を自分に問うたが、中にはこんなこともあった。
日本で初の普通列車設定無しの区間が誕生したことだ。そして新夕張~新得間では楓絡みで変則的な運賃計算が発生した。

石勝線で最も個性的であり変遷の多い駅であろう楓。本線上には旅客ホームがあるのだが、定期列車でこのホームに列車が停車する事はとうとう無かった。かつて存在した中線跡は現在ペンペン草の真っ最中であった。
石勝線開業当時はご存じ、普通列車は旧夕張線のラインを受け継ぐダイヤとなっており、いわゆる「登川支線」は新夕張~楓間で折り返し運転で設定されていた。ちなみに新しい楓は基本的に登川と旧楓の中間辺りに設置されたとの報告があるのだが、実際には旧楓寄りのイメージだったと思う。そして新らしい楓の利用者予測は開業当時で100人であった。これは旧楓と登川の利用者を単純に合計した数値らしいが、果たして当時の当事者は本気でこの数値を肯定していたのであろうか?残念ながら結果は皆様も既にご承知であろう。

続いてこちらはトマム。石勝高原時代には無かった長い跨線橋は星野リゾートまで続く。もちろん特急列車でしかやってこれない。
そんな楓は開業当時は中線一本を持ち、更に本線上にホームを持つが、それとは別に普通列車専用の独立ホームを持つ特殊な構造であった。この事ひとつでも超魅力を感じるのだが、また更に楓~新得では普通列車の設定が無く、またまた更に楓は特急列車や急行列車が通過(運転停車を覗く)するため楓から楓以東方面に行くには一旦新夕張に出て新得方面の特急列車等に乗り換えるという面倒な工程が発生する。もちろん楓~新夕張間の往復運賃は不要であるが、それにしても実際に年間でどれ程このルートでの利用があるかは別として、利用者にしてみたらなんとも面倒であろう。

石勝線開業当時は夜行急行列車「まりも」を除く全ての列車が停車していた占冠。現在はその座をトマムに譲っているが、村の人たちにとっては重要な存在であろう。もちろん普通列車はやってこないが・・・
そして、なんといっても新夕張~新得間の相互利用では特急や急行の利用は自由席に限り特急料金不要の特例ができた!これは凄い大盤振る舞いだ。では「青春18」はどうするの?という疑問が出てくるが、確か当時の時刻表などの案内には書いてなかった。しかし、私のブログに最近よく登場する「種村直樹の汽車旅相談室」にはこの石勝線の「18」に対するルールが紹介されていたが、種村氏は「18きっぷは普通列車専用のため新夕張~新得間の特急列車利用はできません」的な内容が記されていた。「あれっ?」と思われる方も少なくないであろう。当時のグレーゾーンにおいて種村氏は「乗れない」とハッキリとした見解を示していたが、青函トンネルの海峡線時代を含め皆様には現在の正しいルールが既にお分かりであろう。というより、青春18ひとつ取っても「一筋縄ではいかない」ところに石勝線の魅力を感じるのかも知れない。
もしかしたらこれから先の未来に、こうした「石勝線化」される路線が増えていくのであろうか。特に北海道辺りに顕著に見られると思われ、例えば宗谷本線や石北本線など、特に幹線系において可能性があるであろう。
普通列車がやってこない
本当にこんな駅や路線が近い将来増えていくのであろうか。石勝線が開通してから34年が経過した。34年前といえば国鉄時代であるが、既にこんなに前の時代から現在の形である唯一無二の路線が確立されていたのだ。

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鉄道全線完全制覇の旅
日本で初の普通列車設定無しの区間が誕生したことだ。そして新夕張~新得間では楓絡みで変則的な運賃計算が発生した。

石勝線で最も個性的であり変遷の多い駅であろう楓。本線上には旅客ホームがあるのだが、定期列車でこのホームに列車が停車する事はとうとう無かった。かつて存在した中線跡は現在ペンペン草の真っ最中であった。
石勝線開業当時はご存じ、普通列車は旧夕張線のラインを受け継ぐダイヤとなっており、いわゆる「登川支線」は新夕張~楓間で折り返し運転で設定されていた。ちなみに新しい楓は基本的に登川と旧楓の中間辺りに設置されたとの報告があるのだが、実際には旧楓寄りのイメージだったと思う。そして新らしい楓の利用者予測は開業当時で100人であった。これは旧楓と登川の利用者を単純に合計した数値らしいが、果たして当時の当事者は本気でこの数値を肯定していたのであろうか?残念ながら結果は皆様も既にご承知であろう。

続いてこちらはトマム。石勝高原時代には無かった長い跨線橋は星野リゾートまで続く。もちろん特急列車でしかやってこれない。
そんな楓は開業当時は中線一本を持ち、更に本線上にホームを持つが、それとは別に普通列車専用の独立ホームを持つ特殊な構造であった。この事ひとつでも超魅力を感じるのだが、また更に楓~新得では普通列車の設定が無く、またまた更に楓は特急列車や急行列車が通過(運転停車を覗く)するため楓から楓以東方面に行くには一旦新夕張に出て新得方面の特急列車等に乗り換えるという面倒な工程が発生する。もちろん楓~新夕張間の往復運賃は不要であるが、それにしても実際に年間でどれ程このルートでの利用があるかは別として、利用者にしてみたらなんとも面倒であろう。

石勝線開業当時は夜行急行列車「まりも」を除く全ての列車が停車していた占冠。現在はその座をトマムに譲っているが、村の人たちにとっては重要な存在であろう。もちろん普通列車はやってこないが・・・
そして、なんといっても新夕張~新得間の相互利用では特急や急行の利用は自由席に限り特急料金不要の特例ができた!これは凄い大盤振る舞いだ。では「青春18」はどうするの?という疑問が出てくるが、確か当時の時刻表などの案内には書いてなかった。しかし、私のブログに最近よく登場する「種村直樹の汽車旅相談室」にはこの石勝線の「18」に対するルールが紹介されていたが、種村氏は「18きっぷは普通列車専用のため新夕張~新得間の特急列車利用はできません」的な内容が記されていた。「あれっ?」と思われる方も少なくないであろう。当時のグレーゾーンにおいて種村氏は「乗れない」とハッキリとした見解を示していたが、青函トンネルの海峡線時代を含め皆様には現在の正しいルールが既にお分かりであろう。というより、青春18ひとつ取っても「一筋縄ではいかない」ところに石勝線の魅力を感じるのかも知れない。
もしかしたらこれから先の未来に、こうした「石勝線化」される路線が増えていくのであろうか。特に北海道辺りに顕著に見られると思われ、例えば宗谷本線や石北本線など、特に幹線系において可能性があるであろう。
普通列車がやってこない
本当にこんな駅や路線が近い将来増えていくのであろうか。石勝線が開通してから34年が経過した。34年前といえば国鉄時代であるが、既にこんなに前の時代から現在の形である唯一無二の路線が確立されていたのだ。

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