~昭和な風景~
2021-02-25
私のブログは特に国鉄時代の記事が多く、平成生まれの方には少々「古くてわからな~い」などと感じている方も多々おられる事であろう。そんな中、ダメ押しで申し訳ないが、少々昭和を感じていただく内容を紹介してみたい。

一応鉄道が主題のブログなので関連画像を。2013年に訪問した時の相模線、原当麻駅舎。橋上駅舎となりかつてのイメージは全く無い。非電化時代は原当麻始発の列車もあったが、駅前にはスーパー等の商業施設も充実しており、住むにはとても良い環境かも知れない。
現在、私の勤務地はJR相模線の番田付近にあるが、その職場からカーナビの案内では「9分」の表示がされるあるスポットに行ってきた。仕事帰りに気軽に行けるのがとても気楽でいい感じであるが、最近ではこのスポットもかなり有名になっており、県内はおろか県外からも多数の来店があると聞く。クチコミはもちろん、最近ではメディアにも顔を出すようになりますますパワーアップした感がある。特に若者層等の来店が目立っていた。もちろん私のような昭和的人間も少なくなく、幅広い年齢層での人気を得ているようだ。
それは相模原にある中古タイヤの販売店で、鉄道の最寄駅は原当麻や番田辺りであろうが、公共交通アクセスでは横浜線・相模原からバスも出ているので意外に便利かも知れない。

こちらが現在大人気のスポット「相模原中古タイヤ市場」である。駐車場から即座に大量の自販機がズラリと並んでいるのが一発でわかる。これはワクワクものだ!
さて、ここの中古タイヤ市場であるが、その名物はなんといっても「自販機」である!超懐かしいレトロ自販機が今も現役でズラリと多数並んでる。特に懐かしさを感じるのが「うどん・そば」や「ハンバーガー」等の食べ物自販機で、私のような昭和世代では子供の頃にドライブインやゲームセンターなどで見た懐かしいものばかりだ。
かつて私は相模線・西寒川駅付近に在住していた時期があったが、車で数分の場所に通称「ニーヨン」と呼ばれるドライブイン的なゲームセンターがあり、夜になると父にたまに連れて行ってもらったり、自身でも仲間とテーブルゲームをやりに行っていたので、うどん・そばやハンバーガーの自販機が実に懐かしく感じる。特にハンバーガーは、出来上がりのその匂いは正に当時そのままの再現であった!そのハンバーガーやうどん等を食べるテーブルが当時流行した「インベーダー」や「パックマン」であった(他にもトランキライザーガンやギャラクシアンなどもあった記憶であるがお分かり頂けますか?)。

ど~ですか!この自販機の数々。特に「ハンバーガー」が懐かしい!


特に麺類の自販機が充実。「アルギンZ」の自販機も超レア!「男には男の武器がある。シャキーン!」なんてコピーだったような・・・


そして「うどん・そば」からは肉そばを購入。値段表示がなかったので500円玉を入れたら100円のお釣りがあった。そしてトーストサンドも懐かしい!熱々のトーストが出てくるが、特性銀紙に包まれて熱いので、引っ掛けてあるトングを使用する。こちらは次回訪問時にチャレンジ!
うどん・そばの自販機は当時見てはいたが実際に買った記憶がが無いので今回が初となるのは何かワクワクする。「ニーヨン」ではその自販機の裏方でおばちゃん達が一生懸命仕出しの作業的な風景を見た記憶であるが、その自販機の補充用のラーメンやうどん等はおばちゃん達が作っていたのかどうか、ちょっと気になる。そして今回は買わなかったがカップヌードルの自販機も懐かしい。確か父が何度か買っていた記憶で、私も一緒に食べたような記憶もある。


ラーメンも懐かしい!ノーマルとチャーシューが選べる。そして私は「あったかメニュー」よりカツ丼を購入。
更にビン入りのペプシ自販機は、当時父が勤めていたガソリンスタンドにも置いてあり、しっかりとした記憶がある(ガソリンスタンドに置いてあったのはビン入りコーラの自販機だったかも)。栓抜きも自販機にちゃんとあり、抜かれた栓がちゃんと下のポケットに落ちる仕組みになっているのも当時のままだ!


高校とかにあったよね!ブリックパックはみんな飲んでたかも!そしてハンバーガーも購入。これはテイクアウトして酒の肴に・・・
そんな懐かしの自販機を求め仕事帰りに立ち寄って試したのは、先述のハンバーガーと肉そば。更にラーメンとカツ丼を食べた。お味の方は・・・正直ラーメンは麺が独特の香りであったが、そばはそれなりによかった。というかその雰囲気もあって味より懐かしさが勝ったイメージであった。うどん・そばの自販機では値段の表示されていないのもあったり、カツ丼も出来上がりにムラがあって冷たい部分もあったりで少々困惑する場面もあったが、雰囲気的には大量の昭和を感じる事が出来て全体的にベターな内容であろう。次回の訪問時には自販機はもちろん、スタッドレスタイヤのホイールでも物色しながら楽しみたい「人気スポット」であった。

そして極めつけはこれでしょう!世界で最初に市販されたレトルト食品の自販機。しかもパッケージはお馴染み松山容子!「仁鶴バージョン」の自販機は超レアでしょう!

帰宅してハンバーガーを頬張る。室内が少々乱れていて申し訳ないが・・・

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一応鉄道が主題のブログなので関連画像を。2013年に訪問した時の相模線、原当麻駅舎。橋上駅舎となりかつてのイメージは全く無い。非電化時代は原当麻始発の列車もあったが、駅前にはスーパー等の商業施設も充実しており、住むにはとても良い環境かも知れない。
現在、私の勤務地はJR相模線の番田付近にあるが、その職場からカーナビの案内では「9分」の表示がされるあるスポットに行ってきた。仕事帰りに気軽に行けるのがとても気楽でいい感じであるが、最近ではこのスポットもかなり有名になっており、県内はおろか県外からも多数の来店があると聞く。クチコミはもちろん、最近ではメディアにも顔を出すようになりますますパワーアップした感がある。特に若者層等の来店が目立っていた。もちろん私のような昭和的人間も少なくなく、幅広い年齢層での人気を得ているようだ。
それは相模原にある中古タイヤの販売店で、鉄道の最寄駅は原当麻や番田辺りであろうが、公共交通アクセスでは横浜線・相模原からバスも出ているので意外に便利かも知れない。

こちらが現在大人気のスポット「相模原中古タイヤ市場」である。駐車場から即座に大量の自販機がズラリと並んでいるのが一発でわかる。これはワクワクものだ!
さて、ここの中古タイヤ市場であるが、その名物はなんといっても「自販機」である!超懐かしいレトロ自販機が今も現役でズラリと多数並んでる。特に懐かしさを感じるのが「うどん・そば」や「ハンバーガー」等の食べ物自販機で、私のような昭和世代では子供の頃にドライブインやゲームセンターなどで見た懐かしいものばかりだ。
かつて私は相模線・西寒川駅付近に在住していた時期があったが、車で数分の場所に通称「ニーヨン」と呼ばれるドライブイン的なゲームセンターがあり、夜になると父にたまに連れて行ってもらったり、自身でも仲間とテーブルゲームをやりに行っていたので、うどん・そばやハンバーガーの自販機が実に懐かしく感じる。特にハンバーガーは、出来上がりのその匂いは正に当時そのままの再現であった!そのハンバーガーやうどん等を食べるテーブルが当時流行した「インベーダー」や「パックマン」であった(他にもトランキライザーガンやギャラクシアンなどもあった記憶であるがお分かり頂けますか?)。

ど~ですか!この自販機の数々。特に「ハンバーガー」が懐かしい!


特に麺類の自販機が充実。「アルギンZ」の自販機も超レア!「男には男の武器がある。シャキーン!」なんてコピーだったような・・・


そして「うどん・そば」からは肉そばを購入。値段表示がなかったので500円玉を入れたら100円のお釣りがあった。そしてトーストサンドも懐かしい!熱々のトーストが出てくるが、特性銀紙に包まれて熱いので、引っ掛けてあるトングを使用する。こちらは次回訪問時にチャレンジ!
うどん・そばの自販機は当時見てはいたが実際に買った記憶がが無いので今回が初となるのは何かワクワクする。「ニーヨン」ではその自販機の裏方でおばちゃん達が一生懸命仕出しの作業的な風景を見た記憶であるが、その自販機の補充用のラーメンやうどん等はおばちゃん達が作っていたのかどうか、ちょっと気になる。そして今回は買わなかったがカップヌードルの自販機も懐かしい。確か父が何度か買っていた記憶で、私も一緒に食べたような記憶もある。


ラーメンも懐かしい!ノーマルとチャーシューが選べる。そして私は「あったかメニュー」よりカツ丼を購入。
更にビン入りのペプシ自販機は、当時父が勤めていたガソリンスタンドにも置いてあり、しっかりとした記憶がある(ガソリンスタンドに置いてあったのはビン入りコーラの自販機だったかも)。栓抜きも自販機にちゃんとあり、抜かれた栓がちゃんと下のポケットに落ちる仕組みになっているのも当時のままだ!


高校とかにあったよね!ブリックパックはみんな飲んでたかも!そしてハンバーガーも購入。これはテイクアウトして酒の肴に・・・
そんな懐かしの自販機を求め仕事帰りに立ち寄って試したのは、先述のハンバーガーと肉そば。更にラーメンとカツ丼を食べた。お味の方は・・・正直ラーメンは麺が独特の香りであったが、そばはそれなりによかった。というかその雰囲気もあって味より懐かしさが勝ったイメージであった。うどん・そばの自販機では値段の表示されていないのもあったり、カツ丼も出来上がりにムラがあって冷たい部分もあったりで少々困惑する場面もあったが、雰囲気的には大量の昭和を感じる事が出来て全体的にベターな内容であろう。次回の訪問時には自販機はもちろん、スタッドレスタイヤのホイールでも物色しながら楽しみたい「人気スポット」であった。

そして極めつけはこれでしょう!世界で最初に市販されたレトルト食品の自販機。しかもパッケージはお馴染み松山容子!「仁鶴バージョン」の自販機は超レアでしょう!

帰宅してハンバーガーを頬張る。室内が少々乱れていて申し訳ないが・・・

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お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 東北編(後編)
2021-02-20
1984年バージョンでの東北制覇立案である。1984年のダイヤ改正でもPC(客車)普通列車はまだまだ健在で、廃止が予定されていた日中線などもDCに置き換えられずに活躍していた。また、東北本線や奥羽本線などにもPCはまだまだ健在であったが、徐々に50系客車に置き換えられており、旧型客車の終焉の時代を迎えていた時代でもあった。ただ、五能線では1983年に乗車した旧型客車による普通列車は1984年の改正ですべてDCに置き換えられており、客車列車自体の終焉も迎えてた時期でもあろう。

東北はすでに1983年に国鉄全線制覇しているが、今回の1984年バージョンの立案では国鉄以外の私鉄路線を全て含めてみた。ただ、この立案で使用する切符はもちろん「東北ワイド」であるが、東京発の有効期限が10日であるのに対し計画では12日と完全にオーバーしている。もっと効率の良い方法はあろうが、やはり私鉄を含めるとなかなか厳しい立案となるので私鉄をあきらめるかワイドを2枚用意するかのどちらかの選択になると思われる。「いや、私なら10日で収まりました!」という意見もあろうかと思われるので、もしそのようなご意見あったら是非報告が欲しい所存である。

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続きを読むをクリックすると1983年8月に私が実際に東北乗りつぶしを敢行した行程を貼ってある。既にこのブログでも紹介しているが、夜行列車で下車駅を乗り過ごし山形の運転停車で下車させてもらった事や、今でいう「ゴロンとシート」のような形で20系のB寝台を座席として開放していた臨時急行「おが」の乗車なども掲載されている。前回アップで掲載した計画バージョンとの違いを比較していただき、如何に1983年の東北の旅がサバイバルであったかをご覧頂ければ幸いである。

東北はすでに1983年に国鉄全線制覇しているが、今回の1984年バージョンの立案では国鉄以外の私鉄路線を全て含めてみた。ただ、この立案で使用する切符はもちろん「東北ワイド」であるが、東京発の有効期限が10日であるのに対し計画では12日と完全にオーバーしている。もっと効率の良い方法はあろうが、やはり私鉄を含めるとなかなか厳しい立案となるので私鉄をあきらめるかワイドを2枚用意するかのどちらかの選択になると思われる。「いや、私なら10日で収まりました!」という意見もあろうかと思われるので、もしそのようなご意見あったら是非報告が欲しい所存である。

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続きを読むをクリックすると1983年8月に私が実際に東北乗りつぶしを敢行した行程を貼ってある。既にこのブログでも紹介しているが、夜行列車で下車駅を乗り過ごし山形の運転停車で下車させてもらった事や、今でいう「ゴロンとシート」のような形で20系のB寝台を座席として開放していた臨時急行「おが」の乗車なども掲載されている。前回アップで掲載した計画バージョンとの違いを比較していただき、如何に1983年の東北の旅がサバイバルであったかをご覧頂ければ幸いである。
お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 東北編(前編)
2021-02-15
1983年に私は東北の旅は既に終えているが、1984年2月ダイヤ改正バージョンで立案してみた。1983年に実際に東北を訪問した際は、極めて波乱万丈な旅となってしまった。当初の計画より現地でかなり手を加え変更したり、夜行列車乗車の際に下車駅で寝過ごしてしまい運転停車の駅で下車させてもらったり、夜行列車からの乗り換えで山形で「始発」を待合室で待っていた時には現地の人に声をかけられどこかへ連れていかれそうになったり…例えその人に悪意はなくても「受けてはいけない親切」ってあるものだよねと肌で感じたりと、何かと勉強になったりもした、いわば「人生のターニングポイント」的な旅であった。

1979年訪問時の青森では、これから乗車する急行「津軽」の12系車両が一緒に収まっていた。青森発の上り「津軽」は青森を確か15時30分頃の出発であったのでめちゃめちゃ早い出発となる。寝台も連結されていたのでできれば寝台で帰郷したかったのだが、この時は座席であった。ちなみに1979年当時、私は小学校5年生であった。
ただ、計画自体は「ここをこうすれば」的な思いが後から後から出てくるものであり、1984年の時刻表を開き改めてその思いをぶつけてみた。1983年の時のように急行「おが」などの臨時列車を使わず全て定期便を使う事と、旅籠は必ず「夜行列車」という条件を付けての立案となる。もちろん夜行列車は寝台特急をフルに使うと「ヒルネ」の区間がない列車がほとんどのため莫大な経費がかかるので、ワイド周遊券特有のルールをフルに活用し「八甲田」「十和田」「津軽」などの急行列車を頻繁に使う事となる。ただ、周遊区間に入るまでの列車は東北上越新幹線開業に伴い在来線の特急.急行列車が激減したため乗車できる列車が限られてしまうが、それでも東北本線などの急行列車はまだまだ健在だったため現地までは周遊券のみで旅ができたのがラッキーであろう。

現在は由利高原鉄道として活躍している羽後矢島。1983年訪問当時のものであるので当然ながら国鉄時代である。今回、1984年での立案で紹介しているが、1983年訪問時では東北の私鉄各線を制覇しなかったので、できればタイムマシンに乗って栗原電鉄や南部縦貫鉄道などを制覇してみたい気持であった。
しかしながら2月改正の時点ではまだ三陸鉄道が開通前で、普代~田老や岩泉までは国鉄バスで移動しなければならないが、1983年の段階では八戸線の始発を八戸発で南に下れば普代から路線バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉へたどり着けたが、1984年の改正では北山崎展望台から先のバスが減便され岩泉方面への道が閉ざされてしまった。田老方面へもかなりの待ち時間になり、数ヵ月後に開通した三陸鉄道を利用した方が確実に効率的であろう。今回の立案では八戸線と久慈線を往復し八戸へ戻る事にしたが、やはり普代~田老、岩泉のルートが使えないのは実に大きな痛手である。

1982年に誕生した特急「たざわ」。新幹線連絡特急として活躍したが、現在は周知の通り、ミニ新幹線「こまち」としてグレードアップして活躍中。(この写真はダイナミック☆トナカイ提供)
1980年代では「急行全廃」がささやかれ、新幹線開業やダイヤ改正の度に急行列車が徐々にフェードアウトしていった。とはいえ、まだまだ全国では急行列車が活躍していたので周遊券利用の際は実に大きな活躍をしたイメージだ。
そんな状況下での立案をしてみたが、皆様はどういう印象を持たれるだろうか。次回アップでその詳細を紹介してみよう。

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続きをクリックすると1983年8月に敢行した東北旅の元計画がご覧頂ける。次回アップの東北旅の実際の行程とかなり食い違う場面があり、如何に現地ではサバイバルな旅であったかお分かりいただける事であろう。もちろん、実際の旅で起こった新庄を下車しそこなって山形での運転停車で下車させてもらった事等は最初から計画に組み込めないため私も予定外の行動に当時は必死だった。もちろん、そんな経験があるからこそ現在のような適応能力があるのは言うまでもないが・・・(って、完全無欠の能力ではないが)

1979年訪問時の青森では、これから乗車する急行「津軽」の12系車両が一緒に収まっていた。青森発の上り「津軽」は青森を確か15時30分頃の出発であったのでめちゃめちゃ早い出発となる。寝台も連結されていたのでできれば寝台で帰郷したかったのだが、この時は座席であった。ちなみに1979年当時、私は小学校5年生であった。
ただ、計画自体は「ここをこうすれば」的な思いが後から後から出てくるものであり、1984年の時刻表を開き改めてその思いをぶつけてみた。1983年の時のように急行「おが」などの臨時列車を使わず全て定期便を使う事と、旅籠は必ず「夜行列車」という条件を付けての立案となる。もちろん夜行列車は寝台特急をフルに使うと「ヒルネ」の区間がない列車がほとんどのため莫大な経費がかかるので、ワイド周遊券特有のルールをフルに活用し「八甲田」「十和田」「津軽」などの急行列車を頻繁に使う事となる。ただ、周遊区間に入るまでの列車は東北上越新幹線開業に伴い在来線の特急.急行列車が激減したため乗車できる列車が限られてしまうが、それでも東北本線などの急行列車はまだまだ健在だったため現地までは周遊券のみで旅ができたのがラッキーであろう。

現在は由利高原鉄道として活躍している羽後矢島。1983年訪問当時のものであるので当然ながら国鉄時代である。今回、1984年での立案で紹介しているが、1983年訪問時では東北の私鉄各線を制覇しなかったので、できればタイムマシンに乗って栗原電鉄や南部縦貫鉄道などを制覇してみたい気持であった。
しかしながら2月改正の時点ではまだ三陸鉄道が開通前で、普代~田老や岩泉までは国鉄バスで移動しなければならないが、1983年の段階では八戸線の始発を八戸発で南に下れば普代から路線バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉へたどり着けたが、1984年の改正では北山崎展望台から先のバスが減便され岩泉方面への道が閉ざされてしまった。田老方面へもかなりの待ち時間になり、数ヵ月後に開通した三陸鉄道を利用した方が確実に効率的であろう。今回の立案では八戸線と久慈線を往復し八戸へ戻る事にしたが、やはり普代~田老、岩泉のルートが使えないのは実に大きな痛手である。

1982年に誕生した特急「たざわ」。新幹線連絡特急として活躍したが、現在は周知の通り、ミニ新幹線「こまち」としてグレードアップして活躍中。(この写真はダイナミック☆トナカイ提供)
1980年代では「急行全廃」がささやかれ、新幹線開業やダイヤ改正の度に急行列車が徐々にフェードアウトしていった。とはいえ、まだまだ全国では急行列車が活躍していたので周遊券利用の際は実に大きな活躍をしたイメージだ。
そんな状況下での立案をしてみたが、皆様はどういう印象を持たれるだろうか。次回アップでその詳細を紹介してみよう。

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続きをクリックすると1983年8月に敢行した東北旅の元計画がご覧頂ける。次回アップの東北旅の実際の行程とかなり食い違う場面があり、如何に現地ではサバイバルな旅であったかお分かりいただける事であろう。もちろん、実際の旅で起こった新庄を下車しそこなって山形での運転停車で下車させてもらった事等は最初から計画に組み込めないため私も予定外の行動に当時は必死だった。もちろん、そんな経験があるからこそ現在のような適応能力があるのは言うまでもないが・・・(って、完全無欠の能力ではないが)
お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 九州編(後編)
2021-02-10
さて、今回も予告通り九州制覇の立案をしてみた。当時は北九州にまだ路面電車が健在で、筑豊電気鉄道と連携していたが、周知の通り現在は黒崎~熊西間は筑豊電気鉄道に組み込まれている。
そして意外にも路面電車が現在でも活躍しているのが熊本と長崎で、かなりの数の路線網での制覇はやや時間が読めない部分もある。平成に入り私は実際に制覇したが、特に長崎では観光客の利用も多く、日中でも立席客がいる場面もあった。
また、意外にパズルが解けない部分が上山田線と漆生線の関係や朝の時間帯での糸田線と伊田線の関係で、接続が意外に厳しかったのもやや辛い。特に上山田線は下山田で漆生線が接続するが、実際の運転系統では上山田で分断され、飯塚との間で往復運転をして漆生線と下山田~豊前川崎で一体化している。そこで気になるのが漆生線と上山田線の事実上の接点である嘉穂信号場の存在だ。当時中学生~高校生時代であった私であるが、関西本線の中在家信号場とともにこの嘉穂信号場は実に気になる存在で、その輝きもひと際群を抜いていた。
そして今回の立案で驚いたのが先述した室木線であった。1984年では既に廃止対象路線として名を連ねていたが、1984年のダイヤ改正からDCによる運転に切り替わっていた!それまではPC(客車列車)による運転で「いつか室木線に乗ってみたい!」と思っていたので非常に残念な気持ちである。私の中で室木線がDCに変更された記憶が薄く、正直「えっ?」という思いであった。
また、今回の立案では1984年当時に思いつかなかった西鉄宮地岳線(現在の貝塚線)から香椎で国鉄に乗り換える大技を披露した事だ。実際にこの乗り換えは平成に入ってからの訪問で実践しており、なかなか手応えある乗り換えパターンであったのだが、当時は全くこういう事を思いつかなかったので「古い中での新しい提案」として私の成長を感じる場面でもあった。
更に黒木線から鹿児島本線→佐賀線のパターンは1983年春に実践しており、黒木から乗り換えなしで佐賀線へ向かうのは1984年でも健在であったのが嬉しい。

苦労するのが宮原線である。往復できるのは夕方の1便のみであろうため、この一往復に賭けるために計画を遡って立てる。土曜日であれば日中に1往復運転があるのでそちらに合わせるともっとバリエーションが広がるのだが、ここはあえて定期列車にこだわってみた。
そして帰りは長崎から寝台特急!この奮発は実際にやってみたかったと今になって思う。
実際に計画を組んでみて、昼間の時間帯での接続にやや問題はあるものの、意外になんとかなるものだ。鹿児島交通再制覇とともに、タイムマシンに乗り実践してみたい九州の旅であった。

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そして意外にも路面電車が現在でも活躍しているのが熊本と長崎で、かなりの数の路線網での制覇はやや時間が読めない部分もある。平成に入り私は実際に制覇したが、特に長崎では観光客の利用も多く、日中でも立席客がいる場面もあった。
また、意外にパズルが解けない部分が上山田線と漆生線の関係や朝の時間帯での糸田線と伊田線の関係で、接続が意外に厳しかったのもやや辛い。特に上山田線は下山田で漆生線が接続するが、実際の運転系統では上山田で分断され、飯塚との間で往復運転をして漆生線と下山田~豊前川崎で一体化している。そこで気になるのが漆生線と上山田線の事実上の接点である嘉穂信号場の存在だ。当時中学生~高校生時代であった私であるが、関西本線の中在家信号場とともにこの嘉穂信号場は実に気になる存在で、その輝きもひと際群を抜いていた。
そして今回の立案で驚いたのが先述した室木線であった。1984年では既に廃止対象路線として名を連ねていたが、1984年のダイヤ改正からDCによる運転に切り替わっていた!それまではPC(客車列車)による運転で「いつか室木線に乗ってみたい!」と思っていたので非常に残念な気持ちである。私の中で室木線がDCに変更された記憶が薄く、正直「えっ?」という思いであった。
また、今回の立案では1984年当時に思いつかなかった西鉄宮地岳線(現在の貝塚線)から香椎で国鉄に乗り換える大技を披露した事だ。実際にこの乗り換えは平成に入ってからの訪問で実践しており、なかなか手応えある乗り換えパターンであったのだが、当時は全くこういう事を思いつかなかったので「古い中での新しい提案」として私の成長を感じる場面でもあった。
更に黒木線から鹿児島本線→佐賀線のパターンは1983年春に実践しており、黒木から乗り換えなしで佐賀線へ向かうのは1984年でも健在であったのが嬉しい。

苦労するのが宮原線である。往復できるのは夕方の1便のみであろうため、この一往復に賭けるために計画を遡って立てる。土曜日であれば日中に1往復運転があるのでそちらに合わせるともっとバリエーションが広がるのだが、ここはあえて定期列車にこだわってみた。
そして帰りは長崎から寝台特急!この奮発は実際にやってみたかったと今になって思う。
実際に計画を組んでみて、昼間の時間帯での接続にやや問題はあるものの、意外になんとかなるものだ。鹿児島交通再制覇とともに、タイムマシンに乗り実践してみたい九州の旅であった。

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お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。1984年ダイヤ改正版 九州編①
2021-02-05
さて前回に引き続き、今度は九州バージョンを立案してみた。今回の九州に関しても1983年の東北旅行から帰郷して間もなく構想していたのでいずれはの思いがあったのだが実現できなかった。
九州に関しても周知の通りエネルギー革命以前は、特に北九州で鉄道が石炭輸送に大きく貢献しており、現在でもその名残をとどめる箇所が少なくない。
しかしながらその多くが廃止され、北海道ほどではないか鉄道空白地帯が出来上がってしまった。1984年は、その空白地帯に鉄道がまだ健在であった最後の時代であろう。ただ残念なのが、1984年のダイヤ改正で夜行普通列車「ながさき」が廃止されたり室木線の車両がPCからDCに変更されたりと、近代化、合理化の波がしっかりと押し寄せてきた印象でもあった。

こちらは1983年3月に訪問した当時の鹿児島交通・南多布施。背景でお分かりのように素敵な駅舎が存在していた。残念ながら下車はできなかったが、駅舎の重みが車内からでも充分に伝わってきた。
今回の1984年ダイヤ改正当時、私は中学3年~高校生になったばかりであるが、そんな成長著しい中の旅を想定して立案してみた。当時は私の好きな日田彦山線の呼野はまだスイッチバックが健在であり、そして赤字日本一にも輝いた添田線など、訪問してみたい箇所が多数存在した。もちろんそれら全てを制覇する立案であるが、前回と同じ条件として宿は全て夜行列車であるのと、国鉄以外の私鉄路線も全て込みでチャレンジしてみた。
結局のところ当時の呼野には訪問できなかったが、近年に同じく好きであった採銅所とともに呼野の訪問に成功している。だが、スイッチバックは既になくなり勾配上のホームだけが取り残された形となっていたが、スイッチバック時代のホーム等はまだ健在であったので面影を確認する事に成功しただけでもおおきな収穫であったと思う。

こちらの呼野は2016年に訪問。既にスイッチバックは使用停止になり残骸だけが残っていた。そして駅舎も取り壊されリニューアルの最中でもあった。
そして、1983年には鹿児島交通の廃止が3月31日にエックスデーと噂されたが、延期されしばらく営業していたが、その後水害にあい、1984年の3月に廃止されてしまった。今回の立案では最後の鹿児島交通も含まれているのである意味貴重な立案となったのだが、復旧されなかったのは非常に残念な思いである。
では次回のアップで今の私が立案した九州鉄道路線制覇の旅を公開してみよう。

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続きを読むをクリックすると、1984年に立案した当時の九州制覇計画が貼り付けてある。結局北海道計画とともに御蔵入りになってしまったが、もし実行していたら北海道とともに人生最大の旅になった事は間違いない。
九州に関しても周知の通りエネルギー革命以前は、特に北九州で鉄道が石炭輸送に大きく貢献しており、現在でもその名残をとどめる箇所が少なくない。
しかしながらその多くが廃止され、北海道ほどではないか鉄道空白地帯が出来上がってしまった。1984年は、その空白地帯に鉄道がまだ健在であった最後の時代であろう。ただ残念なのが、1984年のダイヤ改正で夜行普通列車「ながさき」が廃止されたり室木線の車両がPCからDCに変更されたりと、近代化、合理化の波がしっかりと押し寄せてきた印象でもあった。

こちらは1983年3月に訪問した当時の鹿児島交通・南多布施。背景でお分かりのように素敵な駅舎が存在していた。残念ながら下車はできなかったが、駅舎の重みが車内からでも充分に伝わってきた。
今回の1984年ダイヤ改正当時、私は中学3年~高校生になったばかりであるが、そんな成長著しい中の旅を想定して立案してみた。当時は私の好きな日田彦山線の呼野はまだスイッチバックが健在であり、そして赤字日本一にも輝いた添田線など、訪問してみたい箇所が多数存在した。もちろんそれら全てを制覇する立案であるが、前回と同じ条件として宿は全て夜行列車であるのと、国鉄以外の私鉄路線も全て込みでチャレンジしてみた。
結局のところ当時の呼野には訪問できなかったが、近年に同じく好きであった採銅所とともに呼野の訪問に成功している。だが、スイッチバックは既になくなり勾配上のホームだけが取り残された形となっていたが、スイッチバック時代のホーム等はまだ健在であったので面影を確認する事に成功しただけでもおおきな収穫であったと思う。

こちらの呼野は2016年に訪問。既にスイッチバックは使用停止になり残骸だけが残っていた。そして駅舎も取り壊されリニューアルの最中でもあった。
そして、1983年には鹿児島交通の廃止が3月31日にエックスデーと噂されたが、延期されしばらく営業していたが、その後水害にあい、1984年の3月に廃止されてしまった。今回の立案では最後の鹿児島交通も含まれているのである意味貴重な立案となったのだが、復旧されなかったのは非常に残念な思いである。
では次回のアップで今の私が立案した九州鉄道路線制覇の旅を公開してみよう。

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