広島。そこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。⑩
2021-05-30
広島への旅の記録のはずなのに、既に場所は岡山に移動していた。水島を制覇し倉敷より岡山入りしたが、やはり岡山はデカイ!古くから四国への玄関口、そして四国からの玄関口として多くの人が行き交ったであろう。私は何度も岡山を訪れているが、来る度にそれを感じる。かつての青森や函館、高松のように連絡船の設備は持っていなかったものの、それは玄関口として相応しい風格がある。

順番が前後するが、岡山から帰郷の際の写真である。この旅ではこんな風景が見られる時代であった。つい最近であるはずなのだがなぜか懐かしく感じる。
そういえば「新幹線3時間説」というのを某鉄道評論家が語っていた。つまり目的地までの移動で4時間を越えると飛行機などを使う可能性が高くなるということであるが、東京からその説を当てはめると丁度岡山あたりになる。東京を基準に考えた場合、実際に岡山以遠はやや苦戦しているらしいが、ただ、山口県に関しては4時間を越えるが、空港の位置関係や所要時間から新幹線需要がかなりあるらしく、特に新山口や徳山などは多くの「のぞみ」が振り分けて停車する。

岡山市の路面電車に乗るのはもちろん初!北から札幌・函館・広島・松山・高知・長崎・熊本・鹿児島、そして東京・神奈川・富山・滋賀などの一部区間で路面を走る全てを制覇してきた私であるが、やはり路面電車はいつ乗ってもワクワク感が良い。生活の一部になっている地元の方は実に羨ましい!
そんな岡山は、昭和47年まで山陽新幹線の終点であったため、岡山以西では在来線の特急や急行が頻繁に運転されていた。恐らくこの頃には「月光型」581系~583系が最盛期で活躍していたであろうが、急行列車も最盛期で活躍していたはずだ。そしてSLの時代もそろそろ終焉を向かえ、正に新しい時代の幕開け的な時間であったろう。
そのような時代を乗り越え現在も岡山では路面電車が活躍している。

初代「たま電車」の7100形。超低床化が進む中、現在も活躍する。運転免許を取得する際に一応路面電車に関する部分も学習するが、正直、私は生活の一部ではないため実際の現場ではかなり戸惑う事であろう。ただ、ちょっと足を伸ばせば江ノ島があるため、若干ながらそこで実戦経験を積める。
今回の旅にて私の訪問時に運用されていた車両はほぼまだまだ活躍しているようであるが、その車両達も1980年代からの置き換えであるので、一番古くても40年近く経とうとしているので、徐々に新鋭の「MOMO」に変わっていく事であろう。やや寂しい気もするが、もしかしたら新旧混在の現在が一番貴重な時間かも知れない。
そんな思いを胸に抱き、いざ清輝橋へ。地元の方は日常であろうが、こちらは非日常。道路上に列車が走っている事自体不思議な感覚。もちろん私の地元にある江ノ電でも一部区間において路面を走るので路面電車気分を味わえるのであるが、どちらかというと京阪のびわ湖浜大津付近のような感覚であるので、やはり「本場」の路面電車とはまた違った雰囲気を醸し出す。

東山停留所(現・東山・おかでんミュージアム駅停留場)で撮影した7300形。未だ健在と聞くが、既に貴重な存在になりつつあるであろう。
清輝橋に着いたらそのまま即時に折り返し、今度は柳川で東町方面にのりかえる。しかしながら私の路面電車乗車史上初のとんでもないサプライズがあった。
それは「小橋」という停留所であったが、何せ「青春の握りこぶし」的な停留所のため駅名標を写真に収めようとしたが、なんとホームが無い!もちろん駅名標も無い!道路の上の方「小橋」を表す看板がにキョトンと佇みながら張り付いている道路の真ん中に安全地帯的な狭い空間があるのみである。ホームの無い駅は、恐らくとなりの中納言と共に唯一の存在であろう。ただ、普通に考えても危険なイメージであるが、実際に事故もおきており早急の改善薬が必要であろう。


「青春の握りこぶし!」的な路面電車の駅(というより停留所)であるが、なんとホームがない!しかも駅名標も無い!ご覧の駅を表す表示(写真上)が道路にあるのみで、道路中央に安全地帯があるのみである(写真下、画像はウィキペディアより)。正直いって「安全」とは言えない構造であり実際に事故も過去にあった関係から改善の要望が出されているが、スペース等の都合から改善が進まないのが現状である。
今回の広島の旅を振り返ってみると、私特有の「詰め込み」的な計画を垣間見れる事がおわかりであろう。かつての私の旅はこんな感じで進行していった。「詰め込みの美学」とでも言おうか、せっかく行くのだから乗ってしみたい的な思いがある。正しい、間違えは別として、そんな旅をずっとしてきた。そのお陰もあって、現在ではピンスポットでの旅ができるようになった。とはいえ、それは私が勝手に「全線制覇」などのテーマを掲げているからそう感じるだけであって、普通ならピンスポットでの旅が何の抵抗もなくできるであろう。
しかしながら、形はどうあれ、私は度に出れば楽しいと感じるし、過去にもかなり貴重な旅をしたなと我ながらに思う。

車窓ギリギリの駅名標には迫力を感じる。「路面電車」というより「浪漫電車」という方がお似合いかも知れない。
そして現在、感染症と戦う毎日の中で、私はつくづく旅ができるということ自体が幸せなんだなと改めて感じる事ができた。
広島と岡山がベースとなった今回の旅は制覇した鉄道のバリエーションが実に豊富であった。国鉄がありJRがあり、そして新都市交通から路面電車まで…これだけバリエーション豊富な都市はなかなか類をみないであろう。広島。まさしくそこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。

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順番が前後するが、岡山から帰郷の際の写真である。この旅ではこんな風景が見られる時代であった。つい最近であるはずなのだがなぜか懐かしく感じる。
そういえば「新幹線3時間説」というのを某鉄道評論家が語っていた。つまり目的地までの移動で4時間を越えると飛行機などを使う可能性が高くなるということであるが、東京からその説を当てはめると丁度岡山あたりになる。東京を基準に考えた場合、実際に岡山以遠はやや苦戦しているらしいが、ただ、山口県に関しては4時間を越えるが、空港の位置関係や所要時間から新幹線需要がかなりあるらしく、特に新山口や徳山などは多くの「のぞみ」が振り分けて停車する。

岡山市の路面電車に乗るのはもちろん初!北から札幌・函館・広島・松山・高知・長崎・熊本・鹿児島、そして東京・神奈川・富山・滋賀などの一部区間で路面を走る全てを制覇してきた私であるが、やはり路面電車はいつ乗ってもワクワク感が良い。生活の一部になっている地元の方は実に羨ましい!
そんな岡山は、昭和47年まで山陽新幹線の終点であったため、岡山以西では在来線の特急や急行が頻繁に運転されていた。恐らくこの頃には「月光型」581系~583系が最盛期で活躍していたであろうが、急行列車も最盛期で活躍していたはずだ。そしてSLの時代もそろそろ終焉を向かえ、正に新しい時代の幕開け的な時間であったろう。
そのような時代を乗り越え現在も岡山では路面電車が活躍している。

初代「たま電車」の7100形。超低床化が進む中、現在も活躍する。運転免許を取得する際に一応路面電車に関する部分も学習するが、正直、私は生活の一部ではないため実際の現場ではかなり戸惑う事であろう。ただ、ちょっと足を伸ばせば江ノ島があるため、若干ながらそこで実戦経験を積める。
今回の旅にて私の訪問時に運用されていた車両はほぼまだまだ活躍しているようであるが、その車両達も1980年代からの置き換えであるので、一番古くても40年近く経とうとしているので、徐々に新鋭の「MOMO」に変わっていく事であろう。やや寂しい気もするが、もしかしたら新旧混在の現在が一番貴重な時間かも知れない。
そんな思いを胸に抱き、いざ清輝橋へ。地元の方は日常であろうが、こちらは非日常。道路上に列車が走っている事自体不思議な感覚。もちろん私の地元にある江ノ電でも一部区間において路面を走るので路面電車気分を味わえるのであるが、どちらかというと京阪のびわ湖浜大津付近のような感覚であるので、やはり「本場」の路面電車とはまた違った雰囲気を醸し出す。

東山停留所(現・東山・おかでんミュージアム駅停留場)で撮影した7300形。未だ健在と聞くが、既に貴重な存在になりつつあるであろう。
清輝橋に着いたらそのまま即時に折り返し、今度は柳川で東町方面にのりかえる。しかしながら私の路面電車乗車史上初のとんでもないサプライズがあった。
それは「小橋」という停留所であったが、何せ「青春の握りこぶし」的な停留所のため駅名標を写真に収めようとしたが、なんとホームが無い!もちろん駅名標も無い!道路の上の方「小橋」を表す看板がにキョトンと佇みながら張り付いている道路の真ん中に安全地帯的な狭い空間があるのみである。ホームの無い駅は、恐らくとなりの中納言と共に唯一の存在であろう。ただ、普通に考えても危険なイメージであるが、実際に事故もおきており早急の改善薬が必要であろう。


「青春の握りこぶし!」的な路面電車の駅(というより停留所)であるが、なんとホームがない!しかも駅名標も無い!ご覧の駅を表す表示(写真上)が道路にあるのみで、道路中央に安全地帯があるのみである(写真下、画像はウィキペディアより)。正直いって「安全」とは言えない構造であり実際に事故も過去にあった関係から改善の要望が出されているが、スペース等の都合から改善が進まないのが現状である。
今回の広島の旅を振り返ってみると、私特有の「詰め込み」的な計画を垣間見れる事がおわかりであろう。かつての私の旅はこんな感じで進行していった。「詰め込みの美学」とでも言おうか、せっかく行くのだから乗ってしみたい的な思いがある。正しい、間違えは別として、そんな旅をずっとしてきた。そのお陰もあって、現在ではピンスポットでの旅ができるようになった。とはいえ、それは私が勝手に「全線制覇」などのテーマを掲げているからそう感じるだけであって、普通ならピンスポットでの旅が何の抵抗もなくできるであろう。
しかしながら、形はどうあれ、私は度に出れば楽しいと感じるし、過去にもかなり貴重な旅をしたなと我ながらに思う。

車窓ギリギリの駅名標には迫力を感じる。「路面電車」というより「浪漫電車」という方がお似合いかも知れない。
そして現在、感染症と戦う毎日の中で、私はつくづく旅ができるということ自体が幸せなんだなと改めて感じる事ができた。
広島と岡山がベースとなった今回の旅は制覇した鉄道のバリエーションが実に豊富であった。国鉄がありJRがあり、そして新都市交通から路面電車まで…これだけバリエーション豊富な都市はなかなか類をみないであろう。広島。まさしくそこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。

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広島。そこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。⑨
2021-05-25
倉敷といえば美景観地区として有名処である。そして観光だけでなく、コンビナートや自動車等の工業地帯としても名高い。その工業地帯に網の目を張っていた鉄道がある。ただ、モータリゼーションや経済の低迷など様々な要因の要因により全盛期よりも運転本数や路線の縮小があったが、それでも旅客列車に関しては昭和の時代より格段に増便され利用しやすくなった。

倉敷市で私を待っていた車両は「MRT300形」と名乗り近年によく見掛かるタイプのDCであるが、水島仕様となっているらしい。かつてのキハ20的な車両をイメージしていたせいか少々戸惑ったが、今では当たり前の「ワンマン」が水島でも日常の風景になっていた。
今回「水島」の制覇をかなり楽しみにしていた私だが、イメージしていたキハ20のDCではなく、いわゆるレールバス的な「今風の」車両であった。
「ワンマン」の表示が当たり前になった地方における現在の鉄道シーンであるが、水島も例に漏れずワンマン運転であった。基本、水島は「臨海鉄道」であるから貨物が主体の鉄道路線であるのだが、倉敷市を出てみて旅客列車の運転本数が格段に増えた理由がわかった。確かに周辺では住宅など新しいものが多く、交通量も増えた事であろう。特に水島地区ではその対応で浦田から水島までは高架化された区間を走しる。私が想像していた以上に水島「らしくない」風景であったが、貨物列車との交換風景が加わると、いっそ「らしく」なる。水島では貨物線を分岐するが、それが「臨海鉄道」の醍醐味であり、旅客専門の時刻表には掲載されていない「隠れキャラ」の存在が水島をいっそ引き立てる。

中心的存在の水島では列車交換のため少々停車時間があった。貨物主体の鉄道路線ではあるが、旅客も大切にしてくれる社風は車両や駅名標などにもちゃんと現れている。
さて、列車は会社名にもなっている水島を過ぎ、終点の三菱自工前に着いた。子供の頃はこの駅名の意味が全くわからなかったが…、なるほど、三菱自動車への通勤に一役買っているわけであるが、辺りは確かに工業地帯である。しかし自動車工場的な派手な建築物は見当たらない。いや、目の前が自動車工場なのかも知れないが、断定できるわけでもない。ただひとつ言えるのは、三菱自工前イコール水島の制覇となることだ。ただ、旅客的には終点であるがレールがここで途切れてはいない。終点であるのだがやたらシンプルな駅であり1面1線であるがホームの無い側線もあるため、あたかも複線のような形状をしている。
そしてその先の途切れていないレールは「倉敷貨物ターミナル」という本当の終点までレールは繋がっていた。もちろん私はその終点までは関係者ではないので列車では到達できない。しかしながらやたらとポイントが数多く存在し大きな波を打っている。三菱自工前の先にあるレールがやたら気になって仕方がない。せっかく水島を制覇したのにそちらに集中できず、ただもや付いた気持ちだけが夏の湿った空気にさらされた思いであった。

三菱自工前のホームは割に狭いイメージであった。失礼ながら、左側の道路には倉敷貨物ターミナルから徒歩でここまでこられたのであろう「同業者」の姿が。私も是非行ってみたかったが、何しろ残暑厳しい8月の終わりには厳しい選択肢であった。
私の乗ってきた車両は回送という形で倉敷貨物ターミナル方面へ去っていった。だが…三菱自工前のホームからさっきまで乗っていた車両君が倉敷貨物ターミナル駅構内の一部に溶け込んでいるのが見える。そうか「貨物ターミナル」といっても旅客車両の留置線も兼ねているのだなと、改めて倉敷貨物ターミナルの偉大さを思い知らされた。
後年に私はレンタカーで倉敷貨物ターミナルを訪問してるが、なにしろ旅客駅ではないためいる場所がない。増して鉄柵で囲まれているため何気に見学しにくい。ただ、三菱自工前の百万倍くらいの広大な構内を眺めているだけでもかなりの自己満足になるが、やはり許可を得てじっくり中でも観察したいものだ。

旅客列車が一旦倉敷貨物ターミナルに向かったあと、三菱自工前には貨物列車がやって来た。連結している車両の荷物は少なかったものの、この時はある意味素敵なプレゼントとなった。
そうこうしているうちに間もなく倉敷に向かう列車がやって来る時間だ。三菱自工前のホームより先ほど乗ってきた列車がわずかに動き出した。どうやらその列車が倉敷市行きとなり我々を乗せてくれるようだ。
ホームで列車を待っていると「同業者」と思われる方が望遠レンズ付きのカメラを片手に倉敷貨物ターミナル方面からこちらにやって来た。どうやら徒歩であの広大な「ターミナル」まで訪問してきたらしい。よくぞ、この残暑厳しい水島界隈を徒歩で散策されてきたものだと尊敬の念を感じてしまう。素晴らしい。私も行きたかったのにとついつい羨んでしまう。

後年に訪問した倉敷貨物ターミナル。許可を取って中まで見学させてもらいたかったが、外から眺めているだけでも何となくのワクワク感。三菱自工前のホームからもこの倉敷貨物ターミナルのヤードをしっかりと眺めることができる。水島臨海鉄道は別枠で改めて記事にしてみよう。
やがて倉敷市行きの列車がやって来た。もちろん私がかつて鉄道誌でみた国鉄型の車両ではなかった。ただ、振り替えるとそこには枝分かれする路線やヤードいっぱいに広がる貨物列車達の群れが遠くでひしめいており、まさしくそこは「貨物列車のワンダーランド」であった。

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倉敷市で私を待っていた車両は「MRT300形」と名乗り近年によく見掛かるタイプのDCであるが、水島仕様となっているらしい。かつてのキハ20的な車両をイメージしていたせいか少々戸惑ったが、今では当たり前の「ワンマン」が水島でも日常の風景になっていた。
今回「水島」の制覇をかなり楽しみにしていた私だが、イメージしていたキハ20のDCではなく、いわゆるレールバス的な「今風の」車両であった。
「ワンマン」の表示が当たり前になった地方における現在の鉄道シーンであるが、水島も例に漏れずワンマン運転であった。基本、水島は「臨海鉄道」であるから貨物が主体の鉄道路線であるのだが、倉敷市を出てみて旅客列車の運転本数が格段に増えた理由がわかった。確かに周辺では住宅など新しいものが多く、交通量も増えた事であろう。特に水島地区ではその対応で浦田から水島までは高架化された区間を走しる。私が想像していた以上に水島「らしくない」風景であったが、貨物列車との交換風景が加わると、いっそ「らしく」なる。水島では貨物線を分岐するが、それが「臨海鉄道」の醍醐味であり、旅客専門の時刻表には掲載されていない「隠れキャラ」の存在が水島をいっそ引き立てる。

中心的存在の水島では列車交換のため少々停車時間があった。貨物主体の鉄道路線ではあるが、旅客も大切にしてくれる社風は車両や駅名標などにもちゃんと現れている。
さて、列車は会社名にもなっている水島を過ぎ、終点の三菱自工前に着いた。子供の頃はこの駅名の意味が全くわからなかったが…、なるほど、三菱自動車への通勤に一役買っているわけであるが、辺りは確かに工業地帯である。しかし自動車工場的な派手な建築物は見当たらない。いや、目の前が自動車工場なのかも知れないが、断定できるわけでもない。ただひとつ言えるのは、三菱自工前イコール水島の制覇となることだ。ただ、旅客的には終点であるがレールがここで途切れてはいない。終点であるのだがやたらシンプルな駅であり1面1線であるがホームの無い側線もあるため、あたかも複線のような形状をしている。
そしてその先の途切れていないレールは「倉敷貨物ターミナル」という本当の終点までレールは繋がっていた。もちろん私はその終点までは関係者ではないので列車では到達できない。しかしながらやたらとポイントが数多く存在し大きな波を打っている。三菱自工前の先にあるレールがやたら気になって仕方がない。せっかく水島を制覇したのにそちらに集中できず、ただもや付いた気持ちだけが夏の湿った空気にさらされた思いであった。

三菱自工前のホームは割に狭いイメージであった。失礼ながら、左側の道路には倉敷貨物ターミナルから徒歩でここまでこられたのであろう「同業者」の姿が。私も是非行ってみたかったが、何しろ残暑厳しい8月の終わりには厳しい選択肢であった。
私の乗ってきた車両は回送という形で倉敷貨物ターミナル方面へ去っていった。だが…三菱自工前のホームからさっきまで乗っていた車両君が倉敷貨物ターミナル駅構内の一部に溶け込んでいるのが見える。そうか「貨物ターミナル」といっても旅客車両の留置線も兼ねているのだなと、改めて倉敷貨物ターミナルの偉大さを思い知らされた。
後年に私はレンタカーで倉敷貨物ターミナルを訪問してるが、なにしろ旅客駅ではないためいる場所がない。増して鉄柵で囲まれているため何気に見学しにくい。ただ、三菱自工前の百万倍くらいの広大な構内を眺めているだけでもかなりの自己満足になるが、やはり許可を得てじっくり中でも観察したいものだ。

旅客列車が一旦倉敷貨物ターミナルに向かったあと、三菱自工前には貨物列車がやって来た。連結している車両の荷物は少なかったものの、この時はある意味素敵なプレゼントとなった。
そうこうしているうちに間もなく倉敷に向かう列車がやって来る時間だ。三菱自工前のホームより先ほど乗ってきた列車がわずかに動き出した。どうやらその列車が倉敷市行きとなり我々を乗せてくれるようだ。
ホームで列車を待っていると「同業者」と思われる方が望遠レンズ付きのカメラを片手に倉敷貨物ターミナル方面からこちらにやって来た。どうやら徒歩であの広大な「ターミナル」まで訪問してきたらしい。よくぞ、この残暑厳しい水島界隈を徒歩で散策されてきたものだと尊敬の念を感じてしまう。素晴らしい。私も行きたかったのにとついつい羨んでしまう。

後年に訪問した倉敷貨物ターミナル。許可を取って中まで見学させてもらいたかったが、外から眺めているだけでも何となくのワクワク感。三菱自工前のホームからもこの倉敷貨物ターミナルのヤードをしっかりと眺めることができる。水島臨海鉄道は別枠で改めて記事にしてみよう。
やがて倉敷市行きの列車がやって来た。もちろん私がかつて鉄道誌でみた国鉄型の車両ではなかった。ただ、振り替えるとそこには枝分かれする路線やヤードいっぱいに広がる貨物列車達の群れが遠くでひしめいており、まさしくそこは「貨物列車のワンダーランド」であった。

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広島。そこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。⑧
2021-05-20
以前に私は「本線と呼ばれる路線を普通列車で旅するのは実に良い」的な事をこのブログでも述べた記憶であるが、特に旧型客車でボックスシートのそれは格別なもので、例えば1980年代前半頃までに運転されていた五能線や倉吉線などのそれとはまた違った風味を醸し出していた。奥羽本線や羽越本線、更には東北本線など東北方面では50系に順次置き換わりつつあったものの、まだまだ頑張っていた旧型客車の普通列車は、他では計り知れない唯一無二の究極旅であった。もちろんそれを現在の、しかも山陽本線や東海道線に求める事はナンセンスであろうが、それでも115(113)系や117系などのボックスシートに座ればまた違った格別さが味わえるであろう。

山陽本線ではこうした「国鉄」が活躍している。もちろん終焉に近づいていることであろうが、いや、もう既に地区によっては新型車両に置き換わっている事であろうが、こうした風景をいつまでも残して欲しいものだ。
しかしながら近年では国鉄車両がめっきり減って私の知らない形式の車両が増え若干戸惑いを隠せないでいるが、それでもロングシートでない限り私にとってまほろばな旅が待っているであろう。
私の今回の訪問時では、山陽本線においてはまだまだ「まほろば」が活躍している。そして「18」のシーズンという事もプラス要素になろうが、意外にも利用者は多い。都市間輸送の役割をしっかりと担っているのは素晴らしい事であるが、もちろん、旅をする側からすれば人数少ない方が何となくリラックスした旅が楽しめそうでもあるが、それでも普通列車であるが故ののんびりとした旅が楽しめるであろう。やはり福山城を眺めながらの高架化された福山は何となく優越感がありあまる。


倉敷では伯備線と合流するが、塗装は違えど電化された当時と同じ形式の車両が活躍していた。こうした「国鉄」を見るとホッとした気持ちになるのは私だけか?
やがてかつての「玉島」である新倉敷を過ぎ倉敷に到着するのだが、私よりも諸先輩の方は、特に地元の方は新倉敷よりも玉島の方が馴染み深く通じやすいみたいだ。いわゆる東北新幹線でいう「東那須野」や「磐城西郷」などのように「那須塩原」や「新白河」での呼び名が当たり前である現在で、恐らく私と同世代や先輩方には、特に地元の方には「東那須野」でも通じるであろう事と何となく似ている。
新幹線の駅としては新倉敷はわりとジミな部類に入るであろうが、倉敷は美景観地区としても有名処で、数多くの旅番組などのメディアに顔を出す。更に観光だけではなくコンビナートや自動車の街として日本のGNPを支えてきた「水島」を控え、それらを輸送する手段として鉄道も大きく貢献してきた。
その「輸送する手段」が倉敷から水島臨海鉄道が網の目を張って活躍してきた。もちろん貨物のみの活躍だけでなく旅客もしっかりと貢献している。

そして・・・塗装はオリジナルの塗装ではないが、「新快速」の国鉄バージョンもいた。153系の置き換えとして1979年に登場してから実に40年以上経過している事になる。1981年に開催された博覧会「ポートピア」に私が参戦した時には既に関西地区に153系新快速の姿は無く、117系の新快速に斬新な衝撃を受けた。同じ時期に登場した関東地区の185系とやや雰囲気的に似ていたが、近年には「引退」等の話題が主流になり時代の流れを感じる。
もちろん私は初乗りであるが、以前から「私鉄全線全駅」や「私鉄駅名全百科」などに顔を出していた事で気になっていた水島臨海鉄道であるが、今回は「旅客列車」のみの乗車のため、その全貌が半分も確認できないのは残念で少々物足りない気持ちもあった。ただ、この想いが後にレンタカーでの再訪のきっかけになるのだが、いずれにしてもその一部でも垣間見る事ができれば次回に繋がるのではないか。そんな思いを胸に、開いたワンマンの扉のステップをしっかりと確かめた。

倉敷のホームから「倉敷市」が見えた。次なるターゲットは「水島」だ!

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山陽本線ではこうした「国鉄」が活躍している。もちろん終焉に近づいていることであろうが、いや、もう既に地区によっては新型車両に置き換わっている事であろうが、こうした風景をいつまでも残して欲しいものだ。
しかしながら近年では国鉄車両がめっきり減って私の知らない形式の車両が増え若干戸惑いを隠せないでいるが、それでもロングシートでない限り私にとってまほろばな旅が待っているであろう。
私の今回の訪問時では、山陽本線においてはまだまだ「まほろば」が活躍している。そして「18」のシーズンという事もプラス要素になろうが、意外にも利用者は多い。都市間輸送の役割をしっかりと担っているのは素晴らしい事であるが、もちろん、旅をする側からすれば人数少ない方が何となくリラックスした旅が楽しめそうでもあるが、それでも普通列車であるが故ののんびりとした旅が楽しめるであろう。やはり福山城を眺めながらの高架化された福山は何となく優越感がありあまる。


倉敷では伯備線と合流するが、塗装は違えど電化された当時と同じ形式の車両が活躍していた。こうした「国鉄」を見るとホッとした気持ちになるのは私だけか?
やがてかつての「玉島」である新倉敷を過ぎ倉敷に到着するのだが、私よりも諸先輩の方は、特に地元の方は新倉敷よりも玉島の方が馴染み深く通じやすいみたいだ。いわゆる東北新幹線でいう「東那須野」や「磐城西郷」などのように「那須塩原」や「新白河」での呼び名が当たり前である現在で、恐らく私と同世代や先輩方には、特に地元の方には「東那須野」でも通じるであろう事と何となく似ている。
新幹線の駅としては新倉敷はわりとジミな部類に入るであろうが、倉敷は美景観地区としても有名処で、数多くの旅番組などのメディアに顔を出す。更に観光だけではなくコンビナートや自動車の街として日本のGNPを支えてきた「水島」を控え、それらを輸送する手段として鉄道も大きく貢献してきた。
その「輸送する手段」が倉敷から水島臨海鉄道が網の目を張って活躍してきた。もちろん貨物のみの活躍だけでなく旅客もしっかりと貢献している。

そして・・・塗装はオリジナルの塗装ではないが、「新快速」の国鉄バージョンもいた。153系の置き換えとして1979年に登場してから実に40年以上経過している事になる。1981年に開催された博覧会「ポートピア」に私が参戦した時には既に関西地区に153系新快速の姿は無く、117系の新快速に斬新な衝撃を受けた。同じ時期に登場した関東地区の185系とやや雰囲気的に似ていたが、近年には「引退」等の話題が主流になり時代の流れを感じる。
もちろん私は初乗りであるが、以前から「私鉄全線全駅」や「私鉄駅名全百科」などに顔を出していた事で気になっていた水島臨海鉄道であるが、今回は「旅客列車」のみの乗車のため、その全貌が半分も確認できないのは残念で少々物足りない気持ちもあった。ただ、この想いが後にレンタカーでの再訪のきっかけになるのだが、いずれにしてもその一部でも垣間見る事ができれば次回に繋がるのではないか。そんな思いを胸に、開いたワンマンの扉のステップをしっかりと確かめた。

倉敷のホームから「倉敷市」が見えた。次なるターゲットは「水島」だ!

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広島。そこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。⑦
2021-05-15
スカイレール制覇後は帰郷のため新幹線に乗り東京方面へ向かうのだが、ただ広島から乗ってしまっては、せっかく西に来たのだから勿体無い。ここは岡山に向かい当時未乗だった水島臨海鉄道と岡山の路面電車を一気に制覇してしまおうと予め計画しておいた。更に呉線も初乗りという事で一旦広島へ向かい呉線も制覇する。スカイレールを制覇して瀬野に戻ってきたのが午前9時。まだまだ時間に余裕がある。

広島に戻ってきたら可部線の車両が停まっていた。恐らくフェードアウトしていくであろう(いや、もうフェードアウトしたか?)国鉄型の車両は、我々レールファンにとっては貴重な存在。
早速広島より呉線ホームに向かった。呉線はもっと113系的な車両が活躍していると思っていたが、広ではご覧の車両が迎えてくれた。私がイメージしていた車両とは違っていたので少々ためらったが、それでも瞬時に状況を飲み込み呉方面へ向かったのであった。呉線はご存知、かつては軍事的要素が沢山詰まっており国家として重要な役割をしていたが、現在は広島の通勤圏内として活躍している。そして同じく鉄道の要衝としても重要なのが広の存在である。広より東方面は運転本数が一気に減るため予め時刻表などでの確認が必要となるが、基本的にはそれほど不便なダイヤではないので利用しやすいであろう。
途中、一般的にはわりと地味であろう仁方があるが、昭和世代ならお分かりであろう「仁堀航路」が懐かしい響きである。相方の堀江まで本州と四国を結ぶ連絡船として活躍したが、鉄道との相互関係としては乗り場と駅がやや離れている事と、他にも競合他社がひしめきあっていた事など様々な要素が絡み合う中、遂に力尽きてしまった。ただ、宮脇俊三氏などの諸先輩方の著書にもたびたび登場する事もありレールファンの間では広く認知されていたと思う。ただ、運転本数が少ない事と駅から連絡船乗り場までの経路がわかりづらい等様々な要因の中、どうしても私は制覇する事ができなかった。今のようにインターネットが発達していたら、当時の私の行動もかなり違っていただろう。ただ、今回は通りすぎただけで残念であるが、いずれそうした痕跡さがしの旅に出るのも楽しそうである。

広ではご覧の車両がお出迎えであった。もっと113系的な湘南色のイメージをしていたので少々戸惑ったが、難なく三原方面へ向かった。
ということで広で乗り換え三原より山陽本線で倉敷に向かう。三原といえばかつては地上駅であったが私にその記憶がなぜか薄い。高架化されたのはJR化後であるし国鉄時代も何度か通っているはずなのだが、何故か地上時代の風景を思い出せないのは何故だろうか。今回の旅で初めて高架化後の三原に降り立ったのだが、シンプルでとてもきれいな駅であった。新幹線の駅が設置されるにあたってふたつ隣の尾道との間で争奪戦が蹴り広げられたらしいが、現在ではその尾道にも新幹線の駅が設置されている。実際、近年に新尾道から新山口まで新幹線を利用したが、私にしてみたら「新尾道」という概念自体国鉄時代には無かった感覚なのでものすごく新鮮なイメージを感じた。ある意味リアス的な地形の元、強引に新幹線の駅を作ったイメージでもあるが、ちゃんと待避線と通過線があり、山の中に作った新神戸や熱海などの窮屈なイメージはなかった。
しかしながらこうしたローカル色の濃いタイプの新幹線利用は恐らくこの時が初であろう。東京から、新横浜から乗る、降りるだけが新幹線じゃないと改めて思い知らされた感じであった




後年に訪問した尾道(上)と新尾道(中・下)。尾道と新尾道はやや離れているので徒歩での乗り換えにはやや時間がかかるが、両者は路線バスで結ばれている。訪問前は地形的に新幹線の駅を作るスペースにはやや苦戦しているのではと勝手にイメージしていたが、ご覧の通り意外に広い。「レールスター」も軽快に!
さて、呉線といえば昭和を知る者にとってみれば、寝台特急「安芸」とは懐かしい響きであろう。今では考えられないが、昭和50年に誕生し、53年には廃止された短命の寝台特急であったが、なぜか私の中ではとても印象深く記憶に残っている。何故か?それは確かコロタン文庫かケイブンシャの某書籍で当時最新の24系25型での写真が掲載されているのを見たからで、一度でいいから新大阪から西に向かう寝台特急に乗ってみたいというきっかけを作ってくれた列車でもあったからであろう。
残念ながら新大阪から西方面の寝台特急乗車の夢は幻に終わった。そんな夢を思い出させてくれる呉線の風景を後にして「水島」の待つ倉敷へと向かった。

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広島に戻ってきたら可部線の車両が停まっていた。恐らくフェードアウトしていくであろう(いや、もうフェードアウトしたか?)国鉄型の車両は、我々レールファンにとっては貴重な存在。
早速広島より呉線ホームに向かった。呉線はもっと113系的な車両が活躍していると思っていたが、広ではご覧の車両が迎えてくれた。私がイメージしていた車両とは違っていたので少々ためらったが、それでも瞬時に状況を飲み込み呉方面へ向かったのであった。呉線はご存知、かつては軍事的要素が沢山詰まっており国家として重要な役割をしていたが、現在は広島の通勤圏内として活躍している。そして同じく鉄道の要衝としても重要なのが広の存在である。広より東方面は運転本数が一気に減るため予め時刻表などでの確認が必要となるが、基本的にはそれほど不便なダイヤではないので利用しやすいであろう。
途中、一般的にはわりと地味であろう仁方があるが、昭和世代ならお分かりであろう「仁堀航路」が懐かしい響きである。相方の堀江まで本州と四国を結ぶ連絡船として活躍したが、鉄道との相互関係としては乗り場と駅がやや離れている事と、他にも競合他社がひしめきあっていた事など様々な要素が絡み合う中、遂に力尽きてしまった。ただ、宮脇俊三氏などの諸先輩方の著書にもたびたび登場する事もありレールファンの間では広く認知されていたと思う。ただ、運転本数が少ない事と駅から連絡船乗り場までの経路がわかりづらい等様々な要因の中、どうしても私は制覇する事ができなかった。今のようにインターネットが発達していたら、当時の私の行動もかなり違っていただろう。ただ、今回は通りすぎただけで残念であるが、いずれそうした痕跡さがしの旅に出るのも楽しそうである。

広ではご覧の車両がお出迎えであった。もっと113系的な湘南色のイメージをしていたので少々戸惑ったが、難なく三原方面へ向かった。
ということで広で乗り換え三原より山陽本線で倉敷に向かう。三原といえばかつては地上駅であったが私にその記憶がなぜか薄い。高架化されたのはJR化後であるし国鉄時代も何度か通っているはずなのだが、何故か地上時代の風景を思い出せないのは何故だろうか。今回の旅で初めて高架化後の三原に降り立ったのだが、シンプルでとてもきれいな駅であった。新幹線の駅が設置されるにあたってふたつ隣の尾道との間で争奪戦が蹴り広げられたらしいが、現在ではその尾道にも新幹線の駅が設置されている。実際、近年に新尾道から新山口まで新幹線を利用したが、私にしてみたら「新尾道」という概念自体国鉄時代には無かった感覚なのでものすごく新鮮なイメージを感じた。ある意味リアス的な地形の元、強引に新幹線の駅を作ったイメージでもあるが、ちゃんと待避線と通過線があり、山の中に作った新神戸や熱海などの窮屈なイメージはなかった。
しかしながらこうしたローカル色の濃いタイプの新幹線利用は恐らくこの時が初であろう。東京から、新横浜から乗る、降りるだけが新幹線じゃないと改めて思い知らされた感じであった




後年に訪問した尾道(上)と新尾道(中・下)。尾道と新尾道はやや離れているので徒歩での乗り換えにはやや時間がかかるが、両者は路線バスで結ばれている。訪問前は地形的に新幹線の駅を作るスペースにはやや苦戦しているのではと勝手にイメージしていたが、ご覧の通り意外に広い。「レールスター」も軽快に!
さて、呉線といえば昭和を知る者にとってみれば、寝台特急「安芸」とは懐かしい響きであろう。今では考えられないが、昭和50年に誕生し、53年には廃止された短命の寝台特急であったが、なぜか私の中ではとても印象深く記憶に残っている。何故か?それは確かコロタン文庫かケイブンシャの某書籍で当時最新の24系25型での写真が掲載されているのを見たからで、一度でいいから新大阪から西に向かう寝台特急に乗ってみたいというきっかけを作ってくれた列車でもあったからであろう。
残念ながら新大阪から西方面の寝台特急乗車の夢は幻に終わった。そんな夢を思い出させてくれる呉線の風景を後にして「水島」の待つ倉敷へと向かった。

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広島。そこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。⑦
2021-05-10
広電を制覇した翌日の朝、今度は瀬野に向かい「スカイレール」を制覇する。「スカイレール」については以前にもこのブログにて紹介しているが、何たってこれは凄い❗と思うことがある。鉄道という乗り物の最大の長所であり特徴は「大量輸送」であるのだが、このスカイレールに関してはこの定義は当てはまらないであろう事である。一見して「ゴンドラ」であるが、やはりこれも「鉄道」である。そしてこのスカイレールは勾配には強いらしく、山の斜面を宅地化したようなみどり坂ニュータウンには、特にみどり中央付近の住民の方々にはとても有効な交通手段であろう。いずれにしても法規上は「鉄道」というカテゴリーにくくられている以上は、例え終点に用事が無くても私は「制覇」の名の元に乗らなければならない。

これが噂のスカイレール。ほぼゴンドラ的なイメージであるが、一応法規上は「鉄道」である(もちろんゴンドラも鉄道の部類に入る)。
という事で、私はJR瀬野の改札を出た。するとどうだろう、我が地元、神奈川は江ノ島にある湘南モノレールにそっくりな軌道が早速山肌に貼りついている。しかもスティーブウィリアムスのバックドロップよりもかなりの急角度である。つまりこのニュータウンの交通手段はスカイレールが一番適しているだろう。。まさにスカイレールの特徴が十二分に発揮されたのではなかろうか。そんな思いで「天空の線路」を見上げた。

瀬野駅前にあるスカイレールサービスの乗り場「みどり口」。ご覧の通り、駅前から既に急角度のレールが山肌に張り付いている。更に先に進むと更にとんでもない急角度になる!
車両は「鉄道」であるが恐らく連結などの作業は不可能であろう一両編成の単行列車であるが、定員は37名とウィキに記されていた。座席は前4席、後4席の計8席で、肌感覚では15~16名も乗ればフルハウスであろう。一応「鉄道」らしくつり革もあるが、やはり着席してみどり中央へ向かいたい。
途中駅は「みどり中街」のみで、次は終点のみどり中央であるが、両方とも住宅地にあり、観光名物や大きな商業施設があるわけでもない。つまり完全なるニュータウンみどり坂の住民のための交通手段であり、私のような部外者が立ち入る事はほとんど無いに等しいであろう「聖地」となっている。ただ、みどり中街より瀬野側に住んでいらっしゃる方々はあえてスカイレールに乗らなくても徒歩で5~10分程度で瀬野に着いてしまうためスカイレールをどのタイミングで利用するかに大きな決断を強いられる事であろう。

振り返ると・・・スティーブウィリアムスのバックドロップ並みの急角度な景色が待ち受けていた!一気にこの高さまで登ってくる凄い鉄道なスカイレール!
さて、終点のみどり中央に着く頃にちょっと振り返ってみたが、とにかく景色が凄い角度だ!
まるで我が地元の湘南モノレールのようだった。だが、その比にならないくらいのバックドロップを喰らったような衝撃的な角度が私の後に展開されていた。
そして終点のみどり中央に着くと降車専用ホームより車両はまるでタイガーマスクのラウンディングボディプレスのように旋回し乗車専用ホームへと向かう。私は一旦改札に向かうが、降車専用ホームからの出口に改札は無かった。つまりフリー!切符の回収も無かった。そして駅前に降りたつと住宅街が一面に広がり、大きな商業施設や地元の名物を売りにするグルメ店等は無い。完全にみどり坂ニュータウンのために作られた、他に追随を許さない唯一無二の「短距離交通」なのである。

終点のみどり中央では降車専用ホームで乗客を降ろすとその先のご覧の場所でラウンディングして乗車ホームに到着する。
かつて私の地元・神奈川は横浜に「ドリームランド」という遊園施設があった。そこには東海道線の大船までを結ぶ、通称「ドリームランドモノレール」があった。私が生まれる前に休止になってしまったので私は乗車経験がないが、それでも列車の通らないモノレールの軌道や、ドリームランド駅付近にある車庫に停泊していたボロボロに錆びた車両が生々しく放置され、子供ながらに一度は乗車して見たい気持ちが常にあった。ドリームランド遊園地への利用者とともに、ドリームランド付近に団地的居住施設「ドリームハイツ」を建設し、モノレールでのアクセスを売りに入居アピールをしていた。残念ながらモノレールは設計ミスにより故障や軌道に亀裂が入るなどの問題を起こし「モノレール史上最大の失敗」と言われ休止に追い込まれた。その後30年以上放置されている間の姿を見ながら文字通り、ある意味復活の夢を見続けていたのだが、2004年に正式に廃止されるまでの間に復活する事はなかった。
みどり坂ニュータウンでは、遊園地こそないものの、スカイレールがしっかりとした設計の中住民の足となってしっかりと頑張っている。私の見る限りでは当時のドリームランドモノレールよりも軌道や橋脚が重厚な設計のイメージであった。もちろん規模も距離もドリームとは比較できないが、なぜかスカイレールの走る姿が頼もしく映った。もしかしたら一般的にこのスカイレールという鉄道はマニアックな話題かも知れない。しかしながらなぜか私の胸の奥には「制覇」のみでは語れない何かが胸に深く刻み込まれた気持ちがした。

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これが噂のスカイレール。ほぼゴンドラ的なイメージであるが、一応法規上は「鉄道」である(もちろんゴンドラも鉄道の部類に入る)。
という事で、私はJR瀬野の改札を出た。するとどうだろう、我が地元、神奈川は江ノ島にある湘南モノレールにそっくりな軌道が早速山肌に貼りついている。しかもスティーブウィリアムスのバックドロップよりもかなりの急角度である。つまりこのニュータウンの交通手段はスカイレールが一番適しているだろう。。まさにスカイレールの特徴が十二分に発揮されたのではなかろうか。そんな思いで「天空の線路」を見上げた。

瀬野駅前にあるスカイレールサービスの乗り場「みどり口」。ご覧の通り、駅前から既に急角度のレールが山肌に張り付いている。更に先に進むと更にとんでもない急角度になる!
車両は「鉄道」であるが恐らく連結などの作業は不可能であろう一両編成の単行列車であるが、定員は37名とウィキに記されていた。座席は前4席、後4席の計8席で、肌感覚では15~16名も乗ればフルハウスであろう。一応「鉄道」らしくつり革もあるが、やはり着席してみどり中央へ向かいたい。
途中駅は「みどり中街」のみで、次は終点のみどり中央であるが、両方とも住宅地にあり、観光名物や大きな商業施設があるわけでもない。つまり完全なるニュータウンみどり坂の住民のための交通手段であり、私のような部外者が立ち入る事はほとんど無いに等しいであろう「聖地」となっている。ただ、みどり中街より瀬野側に住んでいらっしゃる方々はあえてスカイレールに乗らなくても徒歩で5~10分程度で瀬野に着いてしまうためスカイレールをどのタイミングで利用するかに大きな決断を強いられる事であろう。

振り返ると・・・スティーブウィリアムスのバックドロップ並みの急角度な景色が待ち受けていた!一気にこの高さまで登ってくる凄い鉄道なスカイレール!
さて、終点のみどり中央に着く頃にちょっと振り返ってみたが、とにかく景色が凄い角度だ!
まるで我が地元の湘南モノレールのようだった。だが、その比にならないくらいのバックドロップを喰らったような衝撃的な角度が私の後に展開されていた。
そして終点のみどり中央に着くと降車専用ホームより車両はまるでタイガーマスクのラウンディングボディプレスのように旋回し乗車専用ホームへと向かう。私は一旦改札に向かうが、降車専用ホームからの出口に改札は無かった。つまりフリー!切符の回収も無かった。そして駅前に降りたつと住宅街が一面に広がり、大きな商業施設や地元の名物を売りにするグルメ店等は無い。完全にみどり坂ニュータウンのために作られた、他に追随を許さない唯一無二の「短距離交通」なのである。

終点のみどり中央では降車専用ホームで乗客を降ろすとその先のご覧の場所でラウンディングして乗車ホームに到着する。
かつて私の地元・神奈川は横浜に「ドリームランド」という遊園施設があった。そこには東海道線の大船までを結ぶ、通称「ドリームランドモノレール」があった。私が生まれる前に休止になってしまったので私は乗車経験がないが、それでも列車の通らないモノレールの軌道や、ドリームランド駅付近にある車庫に停泊していたボロボロに錆びた車両が生々しく放置され、子供ながらに一度は乗車して見たい気持ちが常にあった。ドリームランド遊園地への利用者とともに、ドリームランド付近に団地的居住施設「ドリームハイツ」を建設し、モノレールでのアクセスを売りに入居アピールをしていた。残念ながらモノレールは設計ミスにより故障や軌道に亀裂が入るなどの問題を起こし「モノレール史上最大の失敗」と言われ休止に追い込まれた。その後30年以上放置されている間の姿を見ながら文字通り、ある意味復活の夢を見続けていたのだが、2004年に正式に廃止されるまでの間に復活する事はなかった。
みどり坂ニュータウンでは、遊園地こそないものの、スカイレールがしっかりとした設計の中住民の足となってしっかりと頑張っている。私の見る限りでは当時のドリームランドモノレールよりも軌道や橋脚が重厚な設計のイメージであった。もちろん規模も距離もドリームとは比較できないが、なぜかスカイレールの走る姿が頼もしく映った。もしかしたら一般的にこのスカイレールという鉄道はマニアックな話題かも知れない。しかしながらなぜか私の胸の奥には「制覇」のみでは語れない何かが胸に深く刻み込まれた気持ちがした。

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広島。そこは素晴らしき鉄道ワンダーランドだった。⑥
2021-05-05
広島市内で一夜を明かし翌日は朝から路面電車と広島高速交通、つまり新都市交通を制覇し1日が終わる日程となっている。そう、広島の路面電車を制覇するにはやはり約1日が必要となってくる。それだけ複雑かつ営業キロが長いということであるが、まずは広島「駅」から一番長い距離の宮島口までを制覇することにした。市内から路面電車で宮島まで行く。これは素晴らしい事だ。モータリゼ-ションの世の中で、公共の、しかも路面電車で「世界遺産」に向かうとは、実にワクワク震えが来るような新鮮な気持ち他ならない。もちろん一部では専用軌道も走るが、それでも雰囲気満点であろう。しかも宿に連泊のため必要最低限の所持品で済む。身軽でありながら鉄道路線制覇路線をまたひとつ増やしながら観光も楽しむ私であった。

世界遺産となった宮島への玄関口・宮島フェリー乗り場は、シーズンになれば「青春18」でも乗れる。約10分ほどので宮島に到着するが、海に浮かぶあの鳥居の風景が近付くにつれ胸が高鳴る思いである。
残暑厳しい宮島を後にして、再び広島の路面電車制覇に乗り出す。のはいいのだが、江波や土橋、本通りなど、馴染みのない駅名ばかりでどう制覇していいのか迷ってしまう。国鉄→JRであれば得意分野であるのだが、いわゆる「私鉄」の全線制覇は近年に目指した課題であったため、新しく覚える駅名の位置関係がなかなか掴めないでいた。いや、こうして実践を重ねる事により新たな知識を蓄えればそれでいいではないか。わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい。そんなコピーが出てきそうな今回の旅である。

かつて大阪市内を走っていた900形が現在は広電で活躍するが、ウィキによると「建造から60年近くが経過しており、特に足回りは大阪市電1001形から数えると90年以上に達する。これに伴い、1000形の導入によって本格的な廃車が始まり、2020年12月現在は913のみの1両が残り、広島電鉄で一般運用を行う車両の中でも古参である。」と記されていた。つまり、写真の車両は既に広電から退いていることになる貴重な一枚となった。

そしてこちらの750形であるが、写真の763も2014年に廃車になったらしく、こちらも貴重な一枚となってしまた。
広島市内の路面電車では、わずかな知識の元「宇品ってどこ行った?」的な思いもあったが、本町付近のデルタ線をどうするかというテーマもあった。宇品→広島港というのは納得材料であったが、デルタΔ地帯を漏れなく丁寧に処理するかどうか…結論から言うと「丁寧に処理する」であった。逆に、そうでなければ全線制覇にはならない。つまり小田急の新松田と松田の関係のように、わざわざ「あさぎり(現在はふじさん)」に乗りJRと小田急の短絡線も制覇しなければ自身が納得しないという事だ。だが、何せ広電は初めてなので事前にしっかり計画をしておかなければならない。私は隈無くチェックを入れ本町より「新都市交通」の乗り場に向かった。

そしてこちらは現在も活躍する3800形。ウィキによれば「路面電車である市内線と鉄道線である宮島線を直通運用出来る車両で、床面高を780mmと従来より低くしている。」と記されているスグレモノであるが、現在、写真の3806は市内線専用になっているらしい。

そしてこちらは昨年の2020年に廃車になってしまった3004。かつては西鉄の北九州線や福岡市内線などで活躍していた懐かしい車両である。
ところが、この乗り換えが暑い!8月も終わりに近付いているのだが、残暑厳しい中でのりかえはダメージが蓄積する。某レスラーのように、流れる汗を人差し指でワイパーしながら新都市交通の改札をくぐり抜けた。
さて、これより新都市交通に乗るのだが、路線名は「広島高速交通」である。「高速」であるかどうかの判断は皆様に委ねるとして、この新都市交通の概念というか定義については定まったものが無いらしく、解釈が幅広い。主にモノレールやゆりかもめなどがそのカテゴリーに属するが、広島高速交通については兵庫県にある「ポートライナー」がパイオニアだった記憶である。ポートライナーといえば1981年に開催された万博「ポートピア81」で、私も当時は座席臨時急行銀河に乗り今考えてみれば人生初の友達同士による宿泊付きの鉄道旅として参戦した。関西方面では117系がデビューして間もない時期であり、斬新なクリーム色の中央にある「新快速」の表示がやけに新鮮であったのがとても印象的であった。その117系も現在では終焉の時期にあるとは時代を感じる。


広島高速交通の終着駅・広域公園前。ここから更に延伸計画があるのだがコストの関係から単線での延伸が具体化しているのだが、開業予定等の具体的な発表がされていない。
さて、広島高速交通(通称・アストラムライン)は広島市内を逆Uの字状に走るが、途中で新白島で山陽本線に、そして先述した大町で可部線と連絡する。そして終点の広域公園前からは西広島までの延伸計画があり、これが完成すると本当の意味での「“逆さのU字型”路線の完成」としている。コストの関係から単線での開業予定としているが、いずれにしても地元の方にとっては非常に便利になるであろうアストラムラインの未来像である。
「高速交通」に揺られながら窓を眺めていたら、ふとかつての記憶が車窓に写し出され、昨日の事のように、そして少年のように胸の高鳴りを感じていた。

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世界遺産となった宮島への玄関口・宮島フェリー乗り場は、シーズンになれば「青春18」でも乗れる。約10分ほどので宮島に到着するが、海に浮かぶあの鳥居の風景が近付くにつれ胸が高鳴る思いである。
残暑厳しい宮島を後にして、再び広島の路面電車制覇に乗り出す。のはいいのだが、江波や土橋、本通りなど、馴染みのない駅名ばかりでどう制覇していいのか迷ってしまう。国鉄→JRであれば得意分野であるのだが、いわゆる「私鉄」の全線制覇は近年に目指した課題であったため、新しく覚える駅名の位置関係がなかなか掴めないでいた。いや、こうして実践を重ねる事により新たな知識を蓄えればそれでいいではないか。わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい。そんなコピーが出てきそうな今回の旅である。

かつて大阪市内を走っていた900形が現在は広電で活躍するが、ウィキによると「建造から60年近くが経過しており、特に足回りは大阪市電1001形から数えると90年以上に達する。これに伴い、1000形の導入によって本格的な廃車が始まり、2020年12月現在は913のみの1両が残り、広島電鉄で一般運用を行う車両の中でも古参である。」と記されていた。つまり、写真の車両は既に広電から退いていることになる貴重な一枚となった。

そしてこちらの750形であるが、写真の763も2014年に廃車になったらしく、こちらも貴重な一枚となってしまた。
広島市内の路面電車では、わずかな知識の元「宇品ってどこ行った?」的な思いもあったが、本町付近のデルタ線をどうするかというテーマもあった。宇品→広島港というのは納得材料であったが、デルタΔ地帯を漏れなく丁寧に処理するかどうか…結論から言うと「丁寧に処理する」であった。逆に、そうでなければ全線制覇にはならない。つまり小田急の新松田と松田の関係のように、わざわざ「あさぎり(現在はふじさん)」に乗りJRと小田急の短絡線も制覇しなければ自身が納得しないという事だ。だが、何せ広電は初めてなので事前にしっかり計画をしておかなければならない。私は隈無くチェックを入れ本町より「新都市交通」の乗り場に向かった。

そしてこちらは現在も活躍する3800形。ウィキによれば「路面電車である市内線と鉄道線である宮島線を直通運用出来る車両で、床面高を780mmと従来より低くしている。」と記されているスグレモノであるが、現在、写真の3806は市内線専用になっているらしい。

そしてこちらは昨年の2020年に廃車になってしまった3004。かつては西鉄の北九州線や福岡市内線などで活躍していた懐かしい車両である。
ところが、この乗り換えが暑い!8月も終わりに近付いているのだが、残暑厳しい中でのりかえはダメージが蓄積する。某レスラーのように、流れる汗を人差し指でワイパーしながら新都市交通の改札をくぐり抜けた。
さて、これより新都市交通に乗るのだが、路線名は「広島高速交通」である。「高速」であるかどうかの判断は皆様に委ねるとして、この新都市交通の概念というか定義については定まったものが無いらしく、解釈が幅広い。主にモノレールやゆりかもめなどがそのカテゴリーに属するが、広島高速交通については兵庫県にある「ポートライナー」がパイオニアだった記憶である。ポートライナーといえば1981年に開催された万博「ポートピア81」で、私も当時は座席臨時急行銀河に乗り今考えてみれば人生初の友達同士による宿泊付きの鉄道旅として参戦した。関西方面では117系がデビューして間もない時期であり、斬新なクリーム色の中央にある「新快速」の表示がやけに新鮮であったのがとても印象的であった。その117系も現在では終焉の時期にあるとは時代を感じる。


広島高速交通の終着駅・広域公園前。ここから更に延伸計画があるのだがコストの関係から単線での延伸が具体化しているのだが、開業予定等の具体的な発表がされていない。
さて、広島高速交通(通称・アストラムライン)は広島市内を逆Uの字状に走るが、途中で新白島で山陽本線に、そして先述した大町で可部線と連絡する。そして終点の広域公園前からは西広島までの延伸計画があり、これが完成すると本当の意味での「“逆さのU字型”路線の完成」としている。コストの関係から単線での開業予定としているが、いずれにしても地元の方にとっては非常に便利になるであろうアストラムラインの未来像である。
「高速交通」に揺られながら窓を眺めていたら、ふとかつての記憶が車窓に写し出され、昨日の事のように、そして少年のように胸の高鳴りを感じていた。

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