懐かしの盟友たち・アゲイン⑫ 渾身の117系
2021-08-30
さて今回は117系一色にしてみよう。117系といえば関西地区を走る「新快速」として名を馳せたが、東海地区でも「快速」として活躍し185系と並ぶ当時の新型車両の代表作と言えるであろう。と勝手に決めつけてしまったが、やはり関西地区の新快速は153系からの置き換わりで登場した117系は実に斬新で新鮮な息吹を関西地区に吹き込んだ。国鉄がJRになって以降は新型車両の登場により段々と地方に振り分けられてきたが、最近では広島地区や山口方面で活躍している姿を見た。現在は「WEST EXPRESS 銀河」などに改造され余生を送っている。

まずは2009年に広島地区制覇の旅の際に倉敷にて撮影した「サンライナー」。よく見ると117系ではないか!と思わず叫びたくなってしまった当時を思い出す。車体番号からしてかなり初期の車両と思われるが、塗装ひとつでこんなにもイメージが変わるものかと、特に117系には感じてしまう。

どこの駅で撮影したか記憶が定かではないが「和歌山色」と呼ばれるものである。ややイメージに戸惑うが、紛れもなく117系である。恐らく山陽本線で撮影した記憶であるが、塗装が違うので117系とはすぐにわからなかった。

2012年に厚狭で撮影した117系であるが、咄嗟に撮影したため少々斜めって申し訳ない気持ちである。ライトの部分に帯が無いと、何となくのっぺらぼう的なイメージになってしまうのは私だけの感覚か。せっかくグリーンのラインが入っているのならオレンジも入れていっその事湘南色にしてしまったらもっと美しくなりそうな気がしなくもないが・・・

そして最後はオリジナル塗装の117系は1983年4月に浜松にて撮影。青春18きっぷでの旅をこの頃に覚え、夜行普通列車も数多く乗車してきた。大阪では既に体験していた117系であるが、浜松で見るとまた違った存在感が際立っていた。

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まずは2009年に広島地区制覇の旅の際に倉敷にて撮影した「サンライナー」。よく見ると117系ではないか!と思わず叫びたくなってしまった当時を思い出す。車体番号からしてかなり初期の車両と思われるが、塗装ひとつでこんなにもイメージが変わるものかと、特に117系には感じてしまう。

どこの駅で撮影したか記憶が定かではないが「和歌山色」と呼ばれるものである。ややイメージに戸惑うが、紛れもなく117系である。恐らく山陽本線で撮影した記憶であるが、塗装が違うので117系とはすぐにわからなかった。

2012年に厚狭で撮影した117系であるが、咄嗟に撮影したため少々斜めって申し訳ない気持ちである。ライトの部分に帯が無いと、何となくのっぺらぼう的なイメージになってしまうのは私だけの感覚か。せっかくグリーンのラインが入っているのならオレンジも入れていっその事湘南色にしてしまったらもっと美しくなりそうな気がしなくもないが・・・

そして最後はオリジナル塗装の117系は1983年4月に浜松にて撮影。青春18きっぷでの旅をこの頃に覚え、夜行普通列車も数多く乗車してきた。大阪では既に体験していた117系であるが、浜松で見るとまた違った存在感が際立っていた。

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懐かしの盟友たち・アゲイン⑪
2021-08-25
かつて公開したフォトを拡大して再度公開している今回のシリーズであるが、私自身も割に懐かしめのフォトが出てきて撮影当時を思い出す。よく我々は古くなった物を処分してしまう傾向が少なからずあるが、一定の期間を過ぎると逆に価値が出てくるから面白い。私はどちらかというと古いものを取っておくタイプではあるが、最近は処分してしまう場合も少なくない。いや、処分してしまってから「あぁ~っ、とっておけばよかった」と思う場面もチラホラあるので、そういう意味では処分する時によく考えてから行動に移す場面が多くなってきた。

お馴染み南部縦貫鉄道は野辺地にて1983年に撮影。急行「八甲田」で朝一番に下車した私は大湊線に乗り換える際に停車中の南部縦貫鉄道の一番列車が偶然にも停車していたので思わず跨線橋よりシャッターを切ったのだが、この東北の旅では南部縦貫鉄道の制覇予定を組み込んでいなかったのが今になってはものすごく悔やまれる。

私のブログでは超お馴染みのフォトである電化直前の関西本線富田浜にて撮影。1982年3月であるが、大垣夜行を名古屋で乗り捨て、接続する関西本線の一番列車がご覧の列車であった。DL率いる旧型客車での運用は現在では全く信じられない光景であるが、ご覧の通り車両の上には架線が張り巡らされており、今か今かと電化開業を待つばかりのムードであった。

こちらのお馴染みのフォトであるが、拡大するとやはり迫力が違う。1983年4月に撮影した筑肥線区間電化直後の唐津にて撮影。真新しい島式ホーム2面4線の唐津は文字通り生まれ変わり、それまでの「唐津」「東唐津」「山本」と行き先によって使い分けていた唐津市民も、この新しい高架化された唐津に統一され非常に便利になった。

こちらは2008年7月に撮影したひたちなか海浜鉄道の阿字ヶ浦にて。側線には「茨城交通」が停泊していたが、もちろん現役であろう姿ではなかった。阿字ヶ浦よりの延伸計画がささやかれる中、当時は全くそのような気配を感じなかったが、現在はかなり具現化しているようで、2024年に延伸開業予定となっている事が発表されている。私の訪問時にはホームのかさ上げや安全柵などは設置されおらず、シーズンになると上野からの臨時列車が運転されていた名残を感じる必要以上に有効長の長いホームが真っ直ぐ海に向かい伸びていた記憶であった。

こちらも私のブログではお馴染みの80系湘南色は中央本線・辰野で1982年8月に撮影。右隣に停車しているスカ色の115系は中央線の夜行普通列車・長野発新宿行きで、私が乗っていた列車である(夜行列車が115系ですよ、115系!)。辰野でやや停車時間があったので跨線橋を渡り即効で撮影した。もちろん入場券も買ったが、現在は塩嶺トンネルが開通し、辰野には特急列車がやってこなくなってしまった。80系は当時でも異色に映り、ちょうどこの頃より飯田線の車両が新型の119系に置き換わる過渡期であったので、これが最後の撮影だなと子供ながらに感じていた。しかしながら80系実際に乗車してみたかったが叶わず・・・残念!
例えばこんな話がある。某書籍により「鉄道アナリスト」と「全駅制覇」の対談が実現したが(レールファンならこの表現でこの2名をお察しいただけると思われるが)、その対談の中で国鉄時代の古い車両について鉄道アナリストは「最新の車両等をターゲットに旅をしている。古い車両は博物館に飾っておくもの」と表現したが、全駅制覇は「都会ではほとんど残っていない古い車両や駅を求め地方へ旅をするのが楽しみ」と表現。同じ鉄道でも人によって楽しみ方や視点が違うのは当然である。鉄道以外の他のジャンルにおいても言えるが、だからこそ面白いっていう事だ!私はどちらかというと、最近は「全駅制覇」の方の考えにやや近いかも知れないが、やはり国鉄時代の車両や駅が現在も活躍していると非常に嬉しくなる。というか、私のブログをご覧になればお分かりになると思うが、私の場合は本当に国鉄時代の記事には力が入ってしまう。今回もそんな思いをブログに載せて、昭和の方はもちろん、平成や令和(?)の方もじっくりと国鉄を楽しんでいただけたら幸いである。

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お馴染み南部縦貫鉄道は野辺地にて1983年に撮影。急行「八甲田」で朝一番に下車した私は大湊線に乗り換える際に停車中の南部縦貫鉄道の一番列車が偶然にも停車していたので思わず跨線橋よりシャッターを切ったのだが、この東北の旅では南部縦貫鉄道の制覇予定を組み込んでいなかったのが今になってはものすごく悔やまれる。

私のブログでは超お馴染みのフォトである電化直前の関西本線富田浜にて撮影。1982年3月であるが、大垣夜行を名古屋で乗り捨て、接続する関西本線の一番列車がご覧の列車であった。DL率いる旧型客車での運用は現在では全く信じられない光景であるが、ご覧の通り車両の上には架線が張り巡らされており、今か今かと電化開業を待つばかりのムードであった。

こちらのお馴染みのフォトであるが、拡大するとやはり迫力が違う。1983年4月に撮影した筑肥線区間電化直後の唐津にて撮影。真新しい島式ホーム2面4線の唐津は文字通り生まれ変わり、それまでの「唐津」「東唐津」「山本」と行き先によって使い分けていた唐津市民も、この新しい高架化された唐津に統一され非常に便利になった。

こちらは2008年7月に撮影したひたちなか海浜鉄道の阿字ヶ浦にて。側線には「茨城交通」が停泊していたが、もちろん現役であろう姿ではなかった。阿字ヶ浦よりの延伸計画がささやかれる中、当時は全くそのような気配を感じなかったが、現在はかなり具現化しているようで、2024年に延伸開業予定となっている事が発表されている。私の訪問時にはホームのかさ上げや安全柵などは設置されおらず、シーズンになると上野からの臨時列車が運転されていた名残を感じる必要以上に有効長の長いホームが真っ直ぐ海に向かい伸びていた記憶であった。

こちらも私のブログではお馴染みの80系湘南色は中央本線・辰野で1982年8月に撮影。右隣に停車しているスカ色の115系は中央線の夜行普通列車・長野発新宿行きで、私が乗っていた列車である(夜行列車が115系ですよ、115系!)。辰野でやや停車時間があったので跨線橋を渡り即効で撮影した。もちろん入場券も買ったが、現在は塩嶺トンネルが開通し、辰野には特急列車がやってこなくなってしまった。80系は当時でも異色に映り、ちょうどこの頃より飯田線の車両が新型の119系に置き換わる過渡期であったので、これが最後の撮影だなと子供ながらに感じていた。しかしながら80系実際に乗車してみたかったが叶わず・・・残念!
例えばこんな話がある。某書籍により「鉄道アナリスト」と「全駅制覇」の対談が実現したが(レールファンならこの表現でこの2名をお察しいただけると思われるが)、その対談の中で国鉄時代の古い車両について鉄道アナリストは「最新の車両等をターゲットに旅をしている。古い車両は博物館に飾っておくもの」と表現したが、全駅制覇は「都会ではほとんど残っていない古い車両や駅を求め地方へ旅をするのが楽しみ」と表現。同じ鉄道でも人によって楽しみ方や視点が違うのは当然である。鉄道以外の他のジャンルにおいても言えるが、だからこそ面白いっていう事だ!私はどちらかというと、最近は「全駅制覇」の方の考えにやや近いかも知れないが、やはり国鉄時代の車両や駅が現在も活躍していると非常に嬉しくなる。というか、私のブログをご覧になればお分かりになると思うが、私の場合は本当に国鉄時代の記事には力が入ってしまう。今回もそんな思いをブログに載せて、昭和の方はもちろん、平成や令和(?)の方もじっくりと国鉄を楽しんでいただけたら幸いである。

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懐かしの盟友たち・アゲイン⑩
2021-08-20
今回は比較的近年に撮影したものと昭和の時代に撮影した物をランダムに織り交ぜてみた。千代田線以外は全てアナログ撮影であるが、平成になってもあえてアナログを使用していた事にこだわりを感じていただけたら幸いである。

こちらは2009年の一発目の旅である1月に撮影した紀州鉄道は紀伊御坊にて。写真の604は、当時現役であった603の部品確保用としての役割であったが、2010年に解体されたとウィキの報告がある。個人的な意見であるが、西御坊~日高川を復活していただいてキハ600を運転していただいたら最高なひと時であろうと思う。

続いてこちらは既に紹介している急行「能登」と同じタイミングで撮影した高崎でのショットであるが、右隣に停車中の列車は私が乗車していた「ムーンライトえちご」である。残念ながら失敗作であったが、あえて載せた気持ちを察して頂ければ幸いである。

こちらは2008年頃に取手で撮影した「常磐線」と表現していいのか分からないが、営団、いや、東京メトロ車両の6000系。綾瀬までは常磐線であるが、綾瀬では常磐線との乗り換えは不可能で、綾瀬と北千住の関係は非常に複雑である。私は千代田線を直通し、そのまま大手町からロマンスカーで帰郷したが、地下鉄内のロマンスカーはやはり不思議な感覚であった。

こちらは1982~1983年頃に西高島平で撮影した都営6000系。という事はもちろん都営にての現役時代である。これはお馴染み私が所属していた中学の「部活」での撮影であるが、現在は同種の車両が秩父鉄道の5000系として活躍している。

最後はご存知箱根登山鉄道であるが、こちらも1982年頃に撮影。当時新鋭だった1000形も現在はベテランの域に達した。隣の113はこの撮影の3年後に廃車されたとウィキの報告にあった。

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こちらは2009年の一発目の旅である1月に撮影した紀州鉄道は紀伊御坊にて。写真の604は、当時現役であった603の部品確保用としての役割であったが、2010年に解体されたとウィキの報告がある。個人的な意見であるが、西御坊~日高川を復活していただいてキハ600を運転していただいたら最高なひと時であろうと思う。

続いてこちらは既に紹介している急行「能登」と同じタイミングで撮影した高崎でのショットであるが、右隣に停車中の列車は私が乗車していた「ムーンライトえちご」である。残念ながら失敗作であったが、あえて載せた気持ちを察して頂ければ幸いである。

こちらは2008年頃に取手で撮影した「常磐線」と表現していいのか分からないが、営団、いや、東京メトロ車両の6000系。綾瀬までは常磐線であるが、綾瀬では常磐線との乗り換えは不可能で、綾瀬と北千住の関係は非常に複雑である。私は千代田線を直通し、そのまま大手町からロマンスカーで帰郷したが、地下鉄内のロマンスカーはやはり不思議な感覚であった。

こちらは1982~1983年頃に西高島平で撮影した都営6000系。という事はもちろん都営にての現役時代である。これはお馴染み私が所属していた中学の「部活」での撮影であるが、現在は同種の車両が秩父鉄道の5000系として活躍している。

最後はご存知箱根登山鉄道であるが、こちらも1982年頃に撮影。当時新鋭だった1000形も現在はベテランの域に達した。隣の113はこの撮影の3年後に廃車されたとウィキの報告にあった。

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懐かしの盟友たち・アゲイン⑨
2021-08-15
さて今回も駅でさりげなく撮影した車両たちを紹介しよう。近年のものと1980年代のものを合わせての紹介となるが、特に江ノ電は私の地元でもあり昭和の風景が懐かしい。恐らく全て紹介済の写真であるが、こうして拡大してみると更に迫力が増す。ただ、1980年代に私は北陸方面は未踏の地であったので地上時代の福井・金沢等を知らないのは心残りである。

2008年の福井か金沢であったと思うが457系か475系の交直両用電車。かつては急行「くずりゅう」などに使用されていたと思われるが、北陸本線は新潟寄りと米原寄りの2箇所でデッドセクションがあるのでこうした車両は必須であったろう。残念ながら東京寄りの東海道では見かかれた事がなかったのであまり馴染みがなかったが、上野に行けば急行「まつしま」などで極希にお目にかかれた。

こちらは小淵沢で撮影した215系であるが、なんと今年(2021年)に運用を終了してしまったとウィキの報告があり驚いた。デビューが1992年であるからまだまだいけるであろうと思うのだが、かなり勿体無いイメージでもある。座席を改良して「ムーンライト」などに転用しても面白そうであったが・・・ムーンライトやライナー自体の設定がなくなってしまった現在ではその使い道が思い浮かばないのは残念である。例えば相鉄とJRの相互乗り入れ車両などに使ってみるのはいかがですかね・・・


続いては1982年頃と思われる、お馴染み私の中学時代の「部活」で撮影した腰越~江ノ島間の江ノ電である。撮影当時は既にそれまでの「江ノ島鎌倉観光」から「江ノ島電鉄」に社名が変更されていたが、江ノ島鎌倉観光時代から江ノ電の愛称で親しまれてきたため、社名変更があっても昔からの愛称で全然違和感無く、むしろ社名と一致してスッキリ感がでたイメージだった。

続いては1982年頃に鶯谷で撮影した山手線113系である。こちらは部活ではなくあくまで個人での撮影であるが、などと一枚の写真を見てよく覚えているなと自分でも感心してしまうが、鶯谷では上野を出発した列車が地上階と高架階の線路がちょうど合流する地点にあるため、上野に行かなくても鶯谷でいっぺんに写真に収める事ができる利点があった。特急撮影のついでに収めた山手線が今や貴重な一枚になるとは・・・

最後は1981年頃に武蔵白石で撮影した、ご存知鶴見線である。現在は車両更新の関係から大川支線の起点は安善に変更されたが、それでも随分と窮屈なスペースに駅とホームを作ったものだと感心してしまう。もちろん、島式ホーム右側は貨物列車も通るのだが、本当に貨物列車が通っていたのかと心配してしまうくらいの空間であった。

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2008年の福井か金沢であったと思うが457系か475系の交直両用電車。かつては急行「くずりゅう」などに使用されていたと思われるが、北陸本線は新潟寄りと米原寄りの2箇所でデッドセクションがあるのでこうした車両は必須であったろう。残念ながら東京寄りの東海道では見かかれた事がなかったのであまり馴染みがなかったが、上野に行けば急行「まつしま」などで極希にお目にかかれた。

こちらは小淵沢で撮影した215系であるが、なんと今年(2021年)に運用を終了してしまったとウィキの報告があり驚いた。デビューが1992年であるからまだまだいけるであろうと思うのだが、かなり勿体無いイメージでもある。座席を改良して「ムーンライト」などに転用しても面白そうであったが・・・ムーンライトやライナー自体の設定がなくなってしまった現在ではその使い道が思い浮かばないのは残念である。例えば相鉄とJRの相互乗り入れ車両などに使ってみるのはいかがですかね・・・


続いては1982年頃と思われる、お馴染み私の中学時代の「部活」で撮影した腰越~江ノ島間の江ノ電である。撮影当時は既にそれまでの「江ノ島鎌倉観光」から「江ノ島電鉄」に社名が変更されていたが、江ノ島鎌倉観光時代から江ノ電の愛称で親しまれてきたため、社名変更があっても昔からの愛称で全然違和感無く、むしろ社名と一致してスッキリ感がでたイメージだった。

続いては1982年頃に鶯谷で撮影した山手線113系である。こちらは部活ではなくあくまで個人での撮影であるが、などと一枚の写真を見てよく覚えているなと自分でも感心してしまうが、鶯谷では上野を出発した列車が地上階と高架階の線路がちょうど合流する地点にあるため、上野に行かなくても鶯谷でいっぺんに写真に収める事ができる利点があった。特急撮影のついでに収めた山手線が今や貴重な一枚になるとは・・・

最後は1981年頃に武蔵白石で撮影した、ご存知鶴見線である。現在は車両更新の関係から大川支線の起点は安善に変更されたが、それでも随分と窮屈なスペースに駅とホームを作ったものだと感心してしまう。もちろん、島式ホーム右側は貨物列車も通るのだが、本当に貨物列車が通っていたのかと心配してしまうくらいの空間であった。

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懐かしの盟友たち・アゲイン⑧
2021-08-10
さて今回は青春18きっぷでの旅で出会った車両を紹介しよう。全て1982年~1983年の撮影であるが、この時期の写真紹介の多さから、いかにこの頃精力的に活動していたかがお分かりいただけるであろう。

ご存知、小野田線の本山支線は1983年4月に雀田で撮影。「いい旅チャレンジ20000km」の企画がなければ恐らく訪問していなかったであろう小野田線は、この企画ならではのおかげで日本全国に足を運ぶきっかけとなったひとつであろう。と同時に、結果的に貴重な写真を結果的に収めてるのもいい旅チャレンジのお陰だと思う。

こちらは鹿児島本線のどこかの駅で撮影した「交流電車」であるが、恐らく田代とか基山辺りだったと思われる。確か当時の国鉄は交流電車の車両数が少なかった記憶で、九州とかでは電化区間では普通列車はDCが主力だった気がした。特に佐世保線などではその置き換えとして583系を改良した車両が投入された記憶で、RJ誌などではブラインド式のカーテンを珍しそうにくるくる回す通学途中の高校生の写真が掲載されていた記憶である。

こちらは大網で撮影した東金線。かつてはスイッチバックだった大網が改良され現在の形になった。今でもその名残は若干見られ、旧大網駅は保線区的な設備になっているみたいであるが、外房線の旧線を利用した短絡線は貨物列車取扱終了以降は撤去され別の施設になり名残はほとんどないと聞いた。

1982年3月、木次線制覇後の備後落合にて撮影したキハ20はたらこ色だったのが少々残念であったが、当時、相模線では既にキハ30に置き換わり、私が好きであったキハ20が撤退してしまっていた時期なので、乗車の際は非常に胸ときめいた!宍道から乗ってきた木次線は一旦出雲横田で運転終了となり、急行「ちどり」に追い抜かれた後、宍道からの列車から1両切り離され備後落合行きになったのがこの車両であった。

最後は豊橋で撮影したスカ色80系。先に紹介している「パノラマカー」の隣に停車していた記憶であるが、屋根を支える柱に注目していただきたい。もちろん現存しないであろうが使用済みのレールが材料として使用されているのがわかる。豊橋はご存知、日本初の民衆駅で第一号となる。

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ご存知、小野田線の本山支線は1983年4月に雀田で撮影。「いい旅チャレンジ20000km」の企画がなければ恐らく訪問していなかったであろう小野田線は、この企画ならではのおかげで日本全国に足を運ぶきっかけとなったひとつであろう。と同時に、結果的に貴重な写真を結果的に収めてるのもいい旅チャレンジのお陰だと思う。

こちらは鹿児島本線のどこかの駅で撮影した「交流電車」であるが、恐らく田代とか基山辺りだったと思われる。確か当時の国鉄は交流電車の車両数が少なかった記憶で、九州とかでは電化区間では普通列車はDCが主力だった気がした。特に佐世保線などではその置き換えとして583系を改良した車両が投入された記憶で、RJ誌などではブラインド式のカーテンを珍しそうにくるくる回す通学途中の高校生の写真が掲載されていた記憶である。

こちらは大網で撮影した東金線。かつてはスイッチバックだった大網が改良され現在の形になった。今でもその名残は若干見られ、旧大網駅は保線区的な設備になっているみたいであるが、外房線の旧線を利用した短絡線は貨物列車取扱終了以降は撤去され別の施設になり名残はほとんどないと聞いた。

1982年3月、木次線制覇後の備後落合にて撮影したキハ20はたらこ色だったのが少々残念であったが、当時、相模線では既にキハ30に置き換わり、私が好きであったキハ20が撤退してしまっていた時期なので、乗車の際は非常に胸ときめいた!宍道から乗ってきた木次線は一旦出雲横田で運転終了となり、急行「ちどり」に追い抜かれた後、宍道からの列車から1両切り離され備後落合行きになったのがこの車両であった。

最後は豊橋で撮影したスカ色80系。先に紹介している「パノラマカー」の隣に停車していた記憶であるが、屋根を支える柱に注目していただきたい。もちろん現存しないであろうが使用済みのレールが材料として使用されているのがわかる。豊橋はご存知、日本初の民衆駅で第一号となる。

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懐かしの盟友たち・アゲイン⑦
2021-08-05
今回は私鉄車両を中心にお届けしよう。これもまた1980年代が中心となるが、気が付けば私も小学生時代から日本中を駆け巡っていた。特に中学時代に登場した「青春18のびのびきっぷ」は実にセンセーショナルで、特急などには乗車できないものの、当時子供であった私は非常に重宝した切符であった。その切符が現在でも販売されているということは実に感慨深いものであるが、普通(快速)夜行列車が全滅してしまった現在ではなかなか効率的な移動が出来ないのはやや残念である。
ただ、当時中学生であった私には宿に泊まるという事は経済的に勇気がいる事で、やはり夜行列車の活躍なくして全線制覇への道は開かれなかったであろう。何度もこのブログで発言しているが、もし583系版の快速「ムーンライト」が運転されていたならば、絶対に乗ってみたかった。もちろん座席と寝台のコラボ編成であるなら尚更である。

こちらは超何度もこのブログにて紹介している写真であるが、1983年3月31日に指宿枕崎線の枕崎で撮影した鹿児島交通の車両である。この列車に乗り伊集院を目指した。時刻表上では伊集院行きであったが、当日は加世田で乗り換えであった。手前に写っている少女2名は当然ながら地元の乗客であったのだがその事実を知らずに熟睡していたので私が「終点だよ」と声を掛けてあげたが、何故か不思議そうな顔をしていた。やはり通常は直通運転だったのであろう。当時、廃止のXデーがこの日であるとの報道があったのでそれに合わせての訪問であったが、ご覧の通り通常の風景であった。後日に廃止が撤回されたのか延期されたのかの事実を知ったが、その年の夏に豪雨の被害を受け、その翌年の1984年に廃止された。つまりこれがある意味ラストチャンスだったのだ。

こちらは1983年(だったと思う)の春休みに中学時代の「部活(鉄道研究クラブ)」での遠征の際に豊橋で撮影した「パノラマカー」である。当日は「大垣夜行」から清水港線制覇の後、二俣線(現在の天竜浜名湖鉄道)を豊橋からの乗車前に撮影した。周知の通り飯田線と名鉄でホームを共用しており「18きっぷ」のまま名鉄ホームで撮影ができた。ご覧の通り、小田急ロマンスカー的なマスクは非常に愛嬌ある。

こちらは熊谷で撮影した秩父鉄道。当日は東武熊谷線廃止情報を聞き参戦したのであったが、ご覧の通り手前に車止があり、島式ホームであったが列車交換が出来ない仕組みになっていた。この車止めの先(写真手前)に東武熊谷線の発着ホームがあり、秩父鉄道に間借りしているイメージで同一ホームでの発着であった。

こちらは1983年頃であったと思う上信電鉄。多分高崎付近であると思われるが、当時は乗車経験が無く、ただただ見つめるだけであった。初の制覇が実現したのは2008年8月であった。

米原~彦根間(恐らく彦根付近)で撮影された近江鉄道だと思っていたが、正直全く記憶にない写真である。どなたかご教示いただければ幸いであるが、1982~1983年頃に撮影した国鉄路線と暫く並走する区間で撮影。
~ツイッターからご教示いただいて、ほぼ弘南鉄道である事が判明した!情報ありがとうございます!!

最後は超記憶にある別府鉄道の車両は高砂線乗車時に野口付近で1983年4月に撮影した。今では実際に別府鉄道を制覇できなかった事を悔やむが、運転本数の関係から、とにかく制覇には苦労する。もちろん、近隣を走る播但線飾磨支線や福知山線の尼崎港支線等の組みわせ手の制覇は至難の業であった。結局制覇したのは高砂線や三木線、北条線など加古川線やその枝線のみで、別府鉄道他飾磨支線等の制覇は夢で終わってしまった。

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ただ、当時中学生であった私には宿に泊まるという事は経済的に勇気がいる事で、やはり夜行列車の活躍なくして全線制覇への道は開かれなかったであろう。何度もこのブログで発言しているが、もし583系版の快速「ムーンライト」が運転されていたならば、絶対に乗ってみたかった。もちろん座席と寝台のコラボ編成であるなら尚更である。

こちらは超何度もこのブログにて紹介している写真であるが、1983年3月31日に指宿枕崎線の枕崎で撮影した鹿児島交通の車両である。この列車に乗り伊集院を目指した。時刻表上では伊集院行きであったが、当日は加世田で乗り換えであった。手前に写っている少女2名は当然ながら地元の乗客であったのだがその事実を知らずに熟睡していたので私が「終点だよ」と声を掛けてあげたが、何故か不思議そうな顔をしていた。やはり通常は直通運転だったのであろう。当時、廃止のXデーがこの日であるとの報道があったのでそれに合わせての訪問であったが、ご覧の通り通常の風景であった。後日に廃止が撤回されたのか延期されたのかの事実を知ったが、その年の夏に豪雨の被害を受け、その翌年の1984年に廃止された。つまりこれがある意味ラストチャンスだったのだ。

こちらは1983年(だったと思う)の春休みに中学時代の「部活(鉄道研究クラブ)」での遠征の際に豊橋で撮影した「パノラマカー」である。当日は「大垣夜行」から清水港線制覇の後、二俣線(現在の天竜浜名湖鉄道)を豊橋からの乗車前に撮影した。周知の通り飯田線と名鉄でホームを共用しており「18きっぷ」のまま名鉄ホームで撮影ができた。ご覧の通り、小田急ロマンスカー的なマスクは非常に愛嬌ある。

こちらは熊谷で撮影した秩父鉄道。当日は東武熊谷線廃止情報を聞き参戦したのであったが、ご覧の通り手前に車止があり、島式ホームであったが列車交換が出来ない仕組みになっていた。この車止めの先(写真手前)に東武熊谷線の発着ホームがあり、秩父鉄道に間借りしているイメージで同一ホームでの発着であった。

こちらは1983年頃であったと思う上信電鉄。多分高崎付近であると思われるが、当時は乗車経験が無く、ただただ見つめるだけであった。初の制覇が実現したのは2008年8月であった。

米原~彦根間(恐らく彦根付近)で撮影された近江鉄道だと思っていたが、正直全く記憶にない写真である。どなたかご教示いただければ幸いであるが、1982~1983年頃に撮影した国鉄路線と暫く並走する区間で撮影。
~ツイッターからご教示いただいて、ほぼ弘南鉄道である事が判明した!情報ありがとうございます!!

最後は超記憶にある別府鉄道の車両は高砂線乗車時に野口付近で1983年4月に撮影した。今では実際に別府鉄道を制覇できなかった事を悔やむが、運転本数の関係から、とにかく制覇には苦労する。もちろん、近隣を走る播但線飾磨支線や福知山線の尼崎港支線等の組みわせ手の制覇は至難の業であった。結局制覇したのは高砂線や三木線、北条線など加古川線やその枝線のみで、別府鉄道他飾磨支線等の制覇は夢で終わってしまった。

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