「青春18」で伊賀の里から近江へ・・・②
2021-09-30
「ムーンライトながら」で名古屋に着いた私は、関西本線に乗り換える黄金パターンで西へ向かう。私が「大垣夜行」から名古屋で関西本線に乗り換えるパターンを初めて経験したのは青春18きっぷが登場した1982年の3月である。当時、乗り換える関西本線の普通列車はDLが牽引する旧型客車であり、その年の5月には名古屋~亀山間が電化される直前であった。この事はこのブログで何度も紹介してきたが、更に電化直後の1982年8月にも同じパターンで関西本線を訪れている。その時から25年以上経ってからも、形は変われど同じ事をしているとは…

南四日市は国鉄時代に伊勢線の起点駅であったが、伊勢線が三セク化された時にとなりの河原田に起点が変更されたため関西本線のみの駅となった。かつては貨物列車も発着する「一般駅」であったが、現在は定期便の貨物列車の発着が無い。
亀山より更に関西本線で西へ進むが、こちらは昔のまま非電化である。DCこそ新しいJRのものであるが、駅設備は国鉄時代を思わせる場面も少なくない。特に後程登場する柘植などは、あのカーブしたホームは懐かしさを感じる。
そんな関西本線のDCに乗り伊賀上野に向かうのだが、2両編成の列車は意外にもフルハウス状態であり「本線」としての風格を感じる。ならばと、更なる増結を願いたいものでもあるが、やはり18シーズンだけの特殊な風景なのであろうか。

亀山から先の西へ向かう区間は非電化のためご覧の列車がお出迎えしてくれた。
伊賀上野に着くと初の伊賀鉄道にご対面したが、やはり車両先頭の「特殊メイク」が目を引く。周知の通り近鉄本体より切り離され第2の人生を送っているのだが、2007年の頃よりそれまでの近鉄車両から現在の「松本零士仕様」に更新され、特に私の好きな色である青い車両が現れると一気に胸がはずむ。もし藤子不二雄仕様だったら、当然ながらもっと深いブルーになり「どんぐりまなこにへの字口」のキャラクターになっていたであろう事であろう。赤い車両の方のキャラクターはその弟であろうか。
ただ、駅設備はかなり昔の面影を残し1982年に初訪した時とイメージ的にはほぼ変わらなかった印象であった。
「懐かしい…」
「前回は部活で来たよな…」
部活とは、いわゆる「鉄道研究グラブ」という中学で所属していたクラブ活動である事は何度もこのブログで紹介してきたが、鉄道を主題とする部活動は、中学校としては全国的に見ても珍しいらしく、そこに所属していた私も希少価値者であろう。いや、正確に言うと「変わり者」だったのかも知れない。しかし、それまで2~3人で活動していた当部活が、私の世代が入学したら一気に15~20人の大所帯になってしまうのだから「我々世代」は強かった!

かつては東海道の宿場町として栄えた関。近隣の岐阜にも同じく「関」があるが、そちらは刃物の街として全国に知られている。
などと話がそれてしまったが、改めて、伊賀鉄道はJRの伊賀上野から近鉄の伊賀神戸を結ぶ全長16.6キロの路線で、途中には沿線最大の都市である上野市もありさぞかし賑わっていようかと思われるが、近鉄本体から分離されたという事は経営的につらい日々を送って来たのであろうという事がわかる。
現在は設備等を伊賀市が所有し伊賀鉄道がそれを借用し運営する方式になっているが、近年にそうした鉄道事業の運営方式が法律化されわかりやすくなった。それまでの「神戸高速鉄道」のように設備所有は神戸高速鉄道、列車を走らせるのは阪急や阪神のような事例も「第3種」「第2種」のようにハッキリ区別され明確になったが、やや曖昧な部分もあり、鉄道経営の複雑さが窺える。何れにしても現在の鉄道経営はいろいろな工夫や努力がなされ維持されている事が素晴らしい。
装いを新たに伊賀鉄道はどこかタイムスリップした面影を残しつつ、沿線最大の都市.上野市に向け大きくカーブを切った。

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南四日市は国鉄時代に伊勢線の起点駅であったが、伊勢線が三セク化された時にとなりの河原田に起点が変更されたため関西本線のみの駅となった。かつては貨物列車も発着する「一般駅」であったが、現在は定期便の貨物列車の発着が無い。
亀山より更に関西本線で西へ進むが、こちらは昔のまま非電化である。DCこそ新しいJRのものであるが、駅設備は国鉄時代を思わせる場面も少なくない。特に後程登場する柘植などは、あのカーブしたホームは懐かしさを感じる。
そんな関西本線のDCに乗り伊賀上野に向かうのだが、2両編成の列車は意外にもフルハウス状態であり「本線」としての風格を感じる。ならばと、更なる増結を願いたいものでもあるが、やはり18シーズンだけの特殊な風景なのであろうか。

亀山から先の西へ向かう区間は非電化のためご覧の列車がお出迎えしてくれた。
伊賀上野に着くと初の伊賀鉄道にご対面したが、やはり車両先頭の「特殊メイク」が目を引く。周知の通り近鉄本体より切り離され第2の人生を送っているのだが、2007年の頃よりそれまでの近鉄車両から現在の「松本零士仕様」に更新され、特に私の好きな色である青い車両が現れると一気に胸がはずむ。もし藤子不二雄仕様だったら、当然ながらもっと深いブルーになり「どんぐりまなこにへの字口」のキャラクターになっていたであろう事であろう。赤い車両の方のキャラクターはその弟であろうか。
ただ、駅設備はかなり昔の面影を残し1982年に初訪した時とイメージ的にはほぼ変わらなかった印象であった。
「懐かしい…」
「前回は部活で来たよな…」
部活とは、いわゆる「鉄道研究グラブ」という中学で所属していたクラブ活動である事は何度もこのブログで紹介してきたが、鉄道を主題とする部活動は、中学校としては全国的に見ても珍しいらしく、そこに所属していた私も希少価値者であろう。いや、正確に言うと「変わり者」だったのかも知れない。しかし、それまで2~3人で活動していた当部活が、私の世代が入学したら一気に15~20人の大所帯になってしまうのだから「我々世代」は強かった!

かつては東海道の宿場町として栄えた関。近隣の岐阜にも同じく「関」があるが、そちらは刃物の街として全国に知られている。
などと話がそれてしまったが、改めて、伊賀鉄道はJRの伊賀上野から近鉄の伊賀神戸を結ぶ全長16.6キロの路線で、途中には沿線最大の都市である上野市もありさぞかし賑わっていようかと思われるが、近鉄本体から分離されたという事は経営的につらい日々を送って来たのであろうという事がわかる。
現在は設備等を伊賀市が所有し伊賀鉄道がそれを借用し運営する方式になっているが、近年にそうした鉄道事業の運営方式が法律化されわかりやすくなった。それまでの「神戸高速鉄道」のように設備所有は神戸高速鉄道、列車を走らせるのは阪急や阪神のような事例も「第3種」「第2種」のようにハッキリ区別され明確になったが、やや曖昧な部分もあり、鉄道経営の複雑さが窺える。何れにしても現在の鉄道経営はいろいろな工夫や努力がなされ維持されている事が素晴らしい。
装いを新たに伊賀鉄道はどこかタイムスリップした面影を残しつつ、沿線最大の都市.上野市に向け大きくカーブを切った。

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「青春18」で伊賀の里から近江へ・・・①
2021-09-25
さて今回の旅は、私の中では比較的地味な部類の旅であった近江鉄道と伊賀鉄道の制覇旅を紹介してみよう。
私は湘南地区に在住しているため、北海道や九州などの旅は大がかりになり念入り綿密な制覇計画をたてるのだが、中京地区は青春18きっぷでも比較的容易に立案しやすいため一泊二日の連休でもコンスタントに繰り返せば必ず制覇できるであろうみたいな思いがあった。そんな考えから中京地区の路線制覇は定番である「ムーンライトながら」と「18きっぷ」との黄金タッグで数回に分け地道に制覇していく戦法をとっていた。

今回の制覇テーマでもある近江鉄道。私の知る近江鉄道のイメージとは違い、随分とモダンな車両がお出迎えしてくれた。現在の主力車両であるイエローカラーは、今や地方では常識となった「ワンマン」の文字が。
その幾つかの中から今回は伊賀鉄道や近江鉄道をペアで紹介したいが「いい旅チャレンジ20000km」をテーマにしてきた私にとってはこうした地方私鉄路線が実に新鮮であり、国鉄ばかりを乗り潰してきたので未知数でもあった。しかしながらこうした地方私鉄路線は昔ながらの設備を使用してる場合が少なくなく、小学生時代などにコロタン文庫で見ていた当時の懐かしい車両や駅舎にも出会えそうな気がしてくる。いや、もし出会えたらそれは貴重な体験となることであろう。

思わず「ニンニンニンニン!」と言ってしまいそうなラッピング車両であるが、何かどこかで見た事がある・・・と思っていたら、なんと東急の車両ではないか!このような場所で「東京」が見られるとは!もちろん「ワンマン」の表示が。
ところで私は1984年から2007年までレールファン休業中であったが、ここに出てくる「伊賀鉄道」とは初めて聞く単語であった。国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」で全国を駆け巡っていた私であったが、私鉄に関してはやや疎い部分があった。調べていくうちに「なんだ、昔の近鉄か!」とアンサーがでるわけであるが、国鉄時代の「いい旅チャレンジ20000km」時代に制覇できなかった路線と、更に私鉄全線を加え鉄道路線全線制覇を企てたのが2007年であったのだから、こうして未知なる私鉄が出てくる場面も少なくない。えちぜん鉄道や叡山電車も昔は京福だったので実に新鮮な響きであったし、国鉄やJRから第三セクターに移管さたれた路線にも個性溢れる名前が登場したのも斬新であった。例えば「山形鉄道フラワー長井線」や、最近では「えちごトキめき鉄道」など国鉄時代からは想像も付かないネーミングとなっているのは、私の世代では子供の頃にこのようなネーミングが将来的に登場すると誰が想像していたであろうか。
そんな新風景を求めながらの今回の旅の支度は「ムーンライトながら」の指定券をいつもの旅行会社に発注した。もちろん「青春」付きで…

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私は湘南地区に在住しているため、北海道や九州などの旅は大がかりになり念入り綿密な制覇計画をたてるのだが、中京地区は青春18きっぷでも比較的容易に立案しやすいため一泊二日の連休でもコンスタントに繰り返せば必ず制覇できるであろうみたいな思いがあった。そんな考えから中京地区の路線制覇は定番である「ムーンライトながら」と「18きっぷ」との黄金タッグで数回に分け地道に制覇していく戦法をとっていた。

今回の制覇テーマでもある近江鉄道。私の知る近江鉄道のイメージとは違い、随分とモダンな車両がお出迎えしてくれた。現在の主力車両であるイエローカラーは、今や地方では常識となった「ワンマン」の文字が。
その幾つかの中から今回は伊賀鉄道や近江鉄道をペアで紹介したいが「いい旅チャレンジ20000km」をテーマにしてきた私にとってはこうした地方私鉄路線が実に新鮮であり、国鉄ばかりを乗り潰してきたので未知数でもあった。しかしながらこうした地方私鉄路線は昔ながらの設備を使用してる場合が少なくなく、小学生時代などにコロタン文庫で見ていた当時の懐かしい車両や駅舎にも出会えそうな気がしてくる。いや、もし出会えたらそれは貴重な体験となることであろう。

思わず「ニンニンニンニン!」と言ってしまいそうなラッピング車両であるが、何かどこかで見た事がある・・・と思っていたら、なんと東急の車両ではないか!このような場所で「東京」が見られるとは!もちろん「ワンマン」の表示が。
ところで私は1984年から2007年までレールファン休業中であったが、ここに出てくる「伊賀鉄道」とは初めて聞く単語であった。国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」で全国を駆け巡っていた私であったが、私鉄に関してはやや疎い部分があった。調べていくうちに「なんだ、昔の近鉄か!」とアンサーがでるわけであるが、国鉄時代の「いい旅チャレンジ20000km」時代に制覇できなかった路線と、更に私鉄全線を加え鉄道路線全線制覇を企てたのが2007年であったのだから、こうして未知なる私鉄が出てくる場面も少なくない。えちぜん鉄道や叡山電車も昔は京福だったので実に新鮮な響きであったし、国鉄やJRから第三セクターに移管さたれた路線にも個性溢れる名前が登場したのも斬新であった。例えば「山形鉄道フラワー長井線」や、最近では「えちごトキめき鉄道」など国鉄時代からは想像も付かないネーミングとなっているのは、私の世代では子供の頃にこのようなネーミングが将来的に登場すると誰が想像していたであろうか。
そんな新風景を求めながらの今回の旅の支度は「ムーンライトながら」の指定券をいつもの旅行会社に発注した。もちろん「青春」付きで…

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1990年代の夢のカード
2021-09-20
相模線の車両が今秋に変更されるらしい!約30年ぶりの車両更新で相模線に新風が巻き起こる事になるが、前回の更新はDCから電車への更新の為相模線にとってみれば歴史的な車両更新であった。とは言え、現在の車両が走る沿線風景を拝める時間がものすごく限定されてきたため近いうちに現在の車両での風景をなるべく早いタイミングで押さえたい。「会社の帰りにでもいつでも行ける」なんて思っていたらいつの間にか時間が経ってしまうため、もう今週中にでも撮影に行くつもりである。
ある程度写真が撮影できたらこのブログでも紹介していきたい。

2021年11月18日より運用を開始したE131系500番台。約30年ぶりの車両更新が行われる相模線で「今しか見れない鉄道風景(2021年12月現在)、新旧車両の共存が見られる時間は限られている。早速最初に投稿した記事の写真と差替えさせていただいた寒川駅での新鋭E131系の交換風景。
さて、主題である鉄道とは全くかけ離れてしまうが、相模線が電化された1991年といえば私はその頃はレールファン休業中で、プロレスにものすごくハマっていた。当時現役であったレスラーで夢のカードを頭の中で妄想するのが日常で、常に毎週「週刊プロレス」と「週刊ゴング」を購入していた。今でこそベテランの域である「闘魂三銃士」こと武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋は、新日本プロレスではまだまだ若手であったが、全日本プロレスの三沢光晴、川田利明、小橋建太など、後の主力選手も若手の時代で長州力や藤波辰爾、そしてジャンボ鶴田等は既にピークを過ぎかかった頃に達していた。ちょうどこの世代の違いの戦いを売りにして全日本プロレスは天龍源一郎が抜けた後も連日会場は満員御礼であったし、新日本プロレスも「G-1クライマックス」が初めて開催され大穴の蝶野正洋が初代の優勝者となり、毎年恒例の「1・4闘強導夢(東京ドーム)」が定着したのもこの頃であった。
さて、いきなりであるが、そんな頃私が頭に描いていた「夢のオールスター」の対戦カードを紹介してみよう。
週刊ゴング主催
1991年○月○日東京ドーム
⑨日米スペシャルドリームマッチ 三冠選手権試合 60分1本勝負
チャンピオン チャレンジャー
ジャンボ鶴田 VS ハルク・ホーガン
⑧超世代スペシャルタッグマッチ 60分1本勝負
ジャイアント馬場&三沢光晴 VS アントニオ猪木&武藤敬司
⑦メガトンバトル6人タッグマッチ 60分1本勝負
天龍源一郎&長州力&藤波辰己 VS スタン・ハンセン&ビックバン・ベイダー&スコット・ノートン
⑥日米ドリームタッグマッチ第二弾 60分1本勝負
橋本真也&蝶野正洋 VS テリー・ゴーディ&スティーブ・ウィリアムス
⑤日米ドリームタッグマッチ第一弾 60分1本勝負
川田利明&小橋健太 VS スタイナーブラザーズ(リック&スコット)
④究極ジュニア頂上決戦 ジュニアヘビー級&IWGPジュニア統一タイトルマッチ60分1本勝負
渕正信 VS 獣神サンダーライガー
③有刺鉄線デスマッチ 45分1本勝負
田上明 VS 大仁田厚
②スペシャルドリームマッチ45分1本勝負
ラッシャー木村&永源遥&大熊元司&菊池毅 VS ブロンドアウトローズ(スーパーストロングマシン&後藤達俊&ヒロ斉藤&保永昇男)
①オープニングマッチ30分1本勝負
百田光雄 VS ブラック・キャット
全くプロレスに興味無い方には非常に伝わりにくいかも知れないが、興味ある方には大変興味深い夢のカードであろう。
ただ、④のジュニア選手権試合はノンタイトルながら2001年に実現しているが、絶対に実現できなかったのはセミファイナルの⑧試合であると思われ、武藤と三沢の絡みは当時超ドリームカードであった。だが2004年にパートナーは違えど武藤VS三沢は実現した。本当に実現不可能なのが③の田上VS大仁田のアンマッチカードであろう。しかしながら長州力やグレート・ムタとの有刺鉄線試合を実現させた大仁田なら、もしかして僅かな可能性があったかも知れない。
ちなみに今回のカード選考でUWF系の選手の参戦は見送ったが、1995年にはUWFインターナショナルと新日本プロレスの対抗戦で武藤VS高田が実現している。
そして注目が⑦であるが、当時天龍源一郎は全日本プロレスを脱退しSWS(メガネスーパー・ワールド・スポーツ)に移籍し、成長した三沢光晴等の超世代軍である若手選手との絡みは永遠に無いと思われていたが、三沢光晴がノアを立ち上げてから天龍と超世代軍との絡みは全て実現したし、さらに天龍と闘魂三銃士との絡みも天龍が後のWAR(レッスル・アンド・ロマンス)に移籍した時に実現している。そんな無限の可能性がある天龍を藤波と長州のタッグでハンセン・ベイダー・ノートンと戦わせたら面白いであろう。もちろん天龍とハンセンは何度も組んだり戦ったりしているが、天龍とベイダー・ノートンとの絡みが注目であろうと思う。
こうして見てみると当時夢のカードと言われていたものも、月日の経過とともに実現してきたし、闘魂三銃士と超世代との絡みも実現しているが、その選手たちも既に他界した選手や引退した選手がほとんどであり、当時ヤングライオンと呼ばれた選手等の若手選手に世代交代している。

2021年11月撮影の205系500番台。「お疲れ様!」と声をかけてあげたくなるのだが、偶然にも期間限定のヘッドマークを冠し堂々の入線。写真は入谷で撮影。
相模線もこれから車両の世代交代が始まろうとしている。力道山をSLに例えたら、ジャイアント馬場やアントニオ猪木はDC、三沢光晴や武藤敬司は205系500番台、そして新世代の内藤哲也や棚橋弘至などが新鋭のE-131系に例えられるのかも知れないが、皆様はどういう印象をお持ちであろうか。
追記で当時の全日本プロレスとUWFでの夢のカードを見積もってみた。これは全く実現不可であったが、想像するだけでお面白かった。

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ある程度写真が撮影できたらこのブログでも紹介していきたい。

2021年11月18日より運用を開始したE131系500番台。約30年ぶりの車両更新が行われる相模線で「今しか見れない鉄道風景(2021年12月現在)、新旧車両の共存が見られる時間は限られている。早速最初に投稿した記事の写真と差替えさせていただいた寒川駅での新鋭E131系の交換風景。
さて、主題である鉄道とは全くかけ離れてしまうが、相模線が電化された1991年といえば私はその頃はレールファン休業中で、プロレスにものすごくハマっていた。当時現役であったレスラーで夢のカードを頭の中で妄想するのが日常で、常に毎週「週刊プロレス」と「週刊ゴング」を購入していた。今でこそベテランの域である「闘魂三銃士」こと武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋は、新日本プロレスではまだまだ若手であったが、全日本プロレスの三沢光晴、川田利明、小橋建太など、後の主力選手も若手の時代で長州力や藤波辰爾、そしてジャンボ鶴田等は既にピークを過ぎかかった頃に達していた。ちょうどこの世代の違いの戦いを売りにして全日本プロレスは天龍源一郎が抜けた後も連日会場は満員御礼であったし、新日本プロレスも「G-1クライマックス」が初めて開催され大穴の蝶野正洋が初代の優勝者となり、毎年恒例の「1・4闘強導夢(東京ドーム)」が定着したのもこの頃であった。
さて、いきなりであるが、そんな頃私が頭に描いていた「夢のオールスター」の対戦カードを紹介してみよう。
週刊ゴング主催
1991年○月○日東京ドーム
⑨日米スペシャルドリームマッチ 三冠選手権試合 60分1本勝負
チャンピオン チャレンジャー
ジャンボ鶴田 VS ハルク・ホーガン
⑧超世代スペシャルタッグマッチ 60分1本勝負
ジャイアント馬場&三沢光晴 VS アントニオ猪木&武藤敬司
⑦メガトンバトル6人タッグマッチ 60分1本勝負
天龍源一郎&長州力&藤波辰己 VS スタン・ハンセン&ビックバン・ベイダー&スコット・ノートン
⑥日米ドリームタッグマッチ第二弾 60分1本勝負
橋本真也&蝶野正洋 VS テリー・ゴーディ&スティーブ・ウィリアムス
⑤日米ドリームタッグマッチ第一弾 60分1本勝負
川田利明&小橋健太 VS スタイナーブラザーズ(リック&スコット)
④究極ジュニア頂上決戦 ジュニアヘビー級&IWGPジュニア統一タイトルマッチ60分1本勝負
渕正信 VS 獣神サンダーライガー
③有刺鉄線デスマッチ 45分1本勝負
田上明 VS 大仁田厚
②スペシャルドリームマッチ45分1本勝負
ラッシャー木村&永源遥&大熊元司&菊池毅 VS ブロンドアウトローズ(スーパーストロングマシン&後藤達俊&ヒロ斉藤&保永昇男)
①オープニングマッチ30分1本勝負
百田光雄 VS ブラック・キャット
全くプロレスに興味無い方には非常に伝わりにくいかも知れないが、興味ある方には大変興味深い夢のカードであろう。
ただ、④のジュニア選手権試合はノンタイトルながら2001年に実現しているが、絶対に実現できなかったのはセミファイナルの⑧試合であると思われ、武藤と三沢の絡みは当時超ドリームカードであった。だが2004年にパートナーは違えど武藤VS三沢は実現した。本当に実現不可能なのが③の田上VS大仁田のアンマッチカードであろう。しかしながら長州力やグレート・ムタとの有刺鉄線試合を実現させた大仁田なら、もしかして僅かな可能性があったかも知れない。
ちなみに今回のカード選考でUWF系の選手の参戦は見送ったが、1995年にはUWFインターナショナルと新日本プロレスの対抗戦で武藤VS高田が実現している。
そして注目が⑦であるが、当時天龍源一郎は全日本プロレスを脱退しSWS(メガネスーパー・ワールド・スポーツ)に移籍し、成長した三沢光晴等の超世代軍である若手選手との絡みは永遠に無いと思われていたが、三沢光晴がノアを立ち上げてから天龍と超世代軍との絡みは全て実現したし、さらに天龍と闘魂三銃士との絡みも天龍が後のWAR(レッスル・アンド・ロマンス)に移籍した時に実現している。そんな無限の可能性がある天龍を藤波と長州のタッグでハンセン・ベイダー・ノートンと戦わせたら面白いであろう。もちろん天龍とハンセンは何度も組んだり戦ったりしているが、天龍とベイダー・ノートンとの絡みが注目であろうと思う。
こうして見てみると当時夢のカードと言われていたものも、月日の経過とともに実現してきたし、闘魂三銃士と超世代との絡みも実現しているが、その選手たちも既に他界した選手や引退した選手がほとんどであり、当時ヤングライオンと呼ばれた選手等の若手選手に世代交代している。

2021年11月撮影の205系500番台。「お疲れ様!」と声をかけてあげたくなるのだが、偶然にも期間限定のヘッドマークを冠し堂々の入線。写真は入谷で撮影。
相模線もこれから車両の世代交代が始まろうとしている。力道山をSLに例えたら、ジャイアント馬場やアントニオ猪木はDC、三沢光晴や武藤敬司は205系500番台、そして新世代の内藤哲也や棚橋弘至などが新鋭のE-131系に例えられるのかも知れないが、皆様はどういう印象をお持ちであろうか。
追記で当時の全日本プロレスとUWFでの夢のカードを見積もってみた。これは全く実現不可であったが、想像するだけでお面白かった。

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廃止路線を訪ねて② 東武熊谷線(リメイク版・後編)
2021-09-15
上熊谷まで秩父鉄道と並走し、上熊谷も秩父鉄道と共同使用となってるが、その先は大きくカーブし妻沼に向け大きく北上していく。基本的には軍事輸送目的で敷かれた路線のため旅客輸送で銭儲けをしようという沿線風景ではない。確かに首都圏でもあるし住宅も多いが、まだまだ農業的な風景が印象深いイメージであった。

単独駅としては唯一の中間駅である大幡。かつては東北地方に「大畑」も存在したが、現在は両方とも過去のものになってしまった。我々が想像する東武鉄道とはややかけ離れたイメージの駅である。
上熊谷と妻沼の間に唯一の中間駅「大幡」がある。やや地元の利用者数名が下車したが、基本的に私の乗った列車は廃止情報が流れてからの参戦のため「その道の」乗客が9割9分7厘3毛くらいを占めていた。もちろんそれらの乗客は同じ顔ぶれのまま次の終点・妻沼まで変わることはなかった。
すでに棒線化されたホームは私のような「同業者」たちで溢れ、それ以外の乗客は僅少に近い。とはいえ、熊谷からそれほど離れていないため朝晩は利用がそれなりにあると思われる。運転本数も、記憶は薄いが日中でも一時間に一本あったはずだ。
とりあえず可愛い単行1両の列車から離れて早速入場券を求めに駅舎へむかった。更に駅舎を撮影しようと駅前に出ると「熊谷線廃止反対」の看板が目に飛び込んできたが、その文字はなぜか弱々しい印象であった。既に廃止が決定されてはいるが、せめてもの最後の抵抗であろうか。

そして終点の妻沼であるが、大幡とほぼ変わらないイメージであった。私の記憶だとホームは大幡と共に砂利を盛り上げ縁をコンクリートで仕上げた感じであった。
ホームに戻る際に車両に向けシャッターを切ってみた。当時は全く季節感覚無く景色等に興味無かったが、その写真を見てみると桜の花が満開になっている。つまり春休み辺りに訪問した事が裏付けられるが、当然ながら無意識の撮影でありターゲットは車両のみであった。そしてよく見ると、列車の左側が不自然な空間になっており、かつての盛栄が伺えた。まさか小泉までの延伸による準備ではなかろうが、もし仮に小泉まで延伸されたら「パレオエクスプレス」が乗り入れたりしたら面白かったかも知れない。「太田発三峰口」が実現していたら、熊谷ではスイッチバックしなければならないイベントが発生する。逆に熊谷線のDCが羽生方面へ乗り入れるのもありだったかも知れない。勿論現実的ではないが、想像するだけでも楽しいではないか。

ご覧の通り、素敵な造りの妻沼駅舎には東武の歴史を感じる事が出来る。「廃止反対」の文字があるのは最後の抵抗か。
東武熊谷線廃止は、丁度国鉄赤字ローカル線廃止ブームの波に乗ったイメージで同じ時期に散っていった。我々レールファンは鉄道の運営に関する書物を見た時必ず「モータリゼーション」という単語を目にする。鉄道路線廃止とモータリゼーションは切っても切れない縁なのであろうか。とは言え、沿線ではそれなりに宅地化されている部分も少なくない。地理院地図で航空写真を見て現在と当時を比較した場合、特に妻沼付近は駅の東側に大きな変化を感じた。とは言え、もし熊谷線が現存していたら何らかの形で数値の変化があったであろうが、遅かれ早かれ熊谷線の寿命はそう長くはなかったであろう。

妻沼駅全景、といっても地上からの撮影のためホームと列車しか被写体に無いが、ホーム左側には不自然な空間がある。かつては貨物側線などがあった事が想像出来る。
1980年代はローカル線廃止ブームの真っ只中であったが、私は「廃止」と聞くとすぐにそこへ駆けつけた。もちろん当時は子供だったため遠方は無理であったが、東京近郊だけでもかなりの路線が廃止になる情報が舞い込んで来たのでその度に出向いていた。それでも子供なりに「将来は貴重になる」などと思いながら熊谷線に向けシャッターを切っていたが、廃止から40年近く経ち、その意味や重みが最近になって物凄くわかるようになってきた。ただ、私にとっては「西寒川」ほど地元ではないので熊谷線は一度きりの訪問であったが、ほぼ毎日のように利用していた地元の方々は複雑な気持ちであったろう。もちろん路線バスや代行バスに切り替えられ便利になった部分もあろうが、やはり鉄道のそれとは比較できない何かを失った部分も多いと思う。

こちらは地理院地図より妻沼駅付近の航空写真である。1974~1978年頃であるが、写真中央下部に妻沼駅ホームと駅舎がある。そしてその上部にはスイッチバックする形で車庫があるのがわかる。
相模線,西寒川は廃止後の代替えバスではルートでも運転本数でも格段に便利になり行き先のバリエーションもウン十倍に増えた。それこそ西寒川から先の廃止区間である四之宮付近までも代替バスで行けるようになったのだから「移動する」という意味だけを考えれば百万倍便利である。東武熊谷線のその後はどうなったのであろうか。恐らく「移動」に関しては鉄道時代よりも便利になったかも知れないが、その鉄道の偉大さは歴史とともに現在も語り継がれているかも知れない。
我々レールファンは、華やかなご豪華列車や新型車両のデビューなどの喜ばしいニュースとともに、常にこうした廃止路線など寂しいニュースとも向き合わなければならない。というか、レールに限らず世の中の事象にはほぼ全てプラスがあればマイナスがある。陽があるから陰がある。光があるから影がある。始まりがあれば終わりがある。そう思うとこの熊谷線の廃止は実に複雑な気持ちになるが、やはりレールファンのためよりも、鉄道は旅客や貨物をたくさん乗せて初めてそのメリットが活かされその存在に価値が出てくる。そう考えると熊谷線の廃止は仕方なかったであろう。ただ、私はこの熊谷線が存在した時代にこうして時間を共有できた事がある意味非常にラッキーだったと思う。地元の方ほどではないにしても、やはり今になってこの熊谷線の経験は実に大きく価値のあるものであった。それは私の地元の路線である相模線、寒川支線と同じように…

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単独駅としては唯一の中間駅である大幡。かつては東北地方に「大畑」も存在したが、現在は両方とも過去のものになってしまった。我々が想像する東武鉄道とはややかけ離れたイメージの駅である。
上熊谷と妻沼の間に唯一の中間駅「大幡」がある。やや地元の利用者数名が下車したが、基本的に私の乗った列車は廃止情報が流れてからの参戦のため「その道の」乗客が9割9分7厘3毛くらいを占めていた。もちろんそれらの乗客は同じ顔ぶれのまま次の終点・妻沼まで変わることはなかった。
すでに棒線化されたホームは私のような「同業者」たちで溢れ、それ以外の乗客は僅少に近い。とはいえ、熊谷からそれほど離れていないため朝晩は利用がそれなりにあると思われる。運転本数も、記憶は薄いが日中でも一時間に一本あったはずだ。
とりあえず可愛い単行1両の列車から離れて早速入場券を求めに駅舎へむかった。更に駅舎を撮影しようと駅前に出ると「熊谷線廃止反対」の看板が目に飛び込んできたが、その文字はなぜか弱々しい印象であった。既に廃止が決定されてはいるが、せめてもの最後の抵抗であろうか。

そして終点の妻沼であるが、大幡とほぼ変わらないイメージであった。私の記憶だとホームは大幡と共に砂利を盛り上げ縁をコンクリートで仕上げた感じであった。
ホームに戻る際に車両に向けシャッターを切ってみた。当時は全く季節感覚無く景色等に興味無かったが、その写真を見てみると桜の花が満開になっている。つまり春休み辺りに訪問した事が裏付けられるが、当然ながら無意識の撮影でありターゲットは車両のみであった。そしてよく見ると、列車の左側が不自然な空間になっており、かつての盛栄が伺えた。まさか小泉までの延伸による準備ではなかろうが、もし仮に小泉まで延伸されたら「パレオエクスプレス」が乗り入れたりしたら面白かったかも知れない。「太田発三峰口」が実現していたら、熊谷ではスイッチバックしなければならないイベントが発生する。逆に熊谷線のDCが羽生方面へ乗り入れるのもありだったかも知れない。勿論現実的ではないが、想像するだけでも楽しいではないか。

ご覧の通り、素敵な造りの妻沼駅舎には東武の歴史を感じる事が出来る。「廃止反対」の文字があるのは最後の抵抗か。
東武熊谷線廃止は、丁度国鉄赤字ローカル線廃止ブームの波に乗ったイメージで同じ時期に散っていった。我々レールファンは鉄道の運営に関する書物を見た時必ず「モータリゼーション」という単語を目にする。鉄道路線廃止とモータリゼーションは切っても切れない縁なのであろうか。とは言え、沿線ではそれなりに宅地化されている部分も少なくない。地理院地図で航空写真を見て現在と当時を比較した場合、特に妻沼付近は駅の東側に大きな変化を感じた。とは言え、もし熊谷線が現存していたら何らかの形で数値の変化があったであろうが、遅かれ早かれ熊谷線の寿命はそう長くはなかったであろう。

妻沼駅全景、といっても地上からの撮影のためホームと列車しか被写体に無いが、ホーム左側には不自然な空間がある。かつては貨物側線などがあった事が想像出来る。
1980年代はローカル線廃止ブームの真っ只中であったが、私は「廃止」と聞くとすぐにそこへ駆けつけた。もちろん当時は子供だったため遠方は無理であったが、東京近郊だけでもかなりの路線が廃止になる情報が舞い込んで来たのでその度に出向いていた。それでも子供なりに「将来は貴重になる」などと思いながら熊谷線に向けシャッターを切っていたが、廃止から40年近く経ち、その意味や重みが最近になって物凄くわかるようになってきた。ただ、私にとっては「西寒川」ほど地元ではないので熊谷線は一度きりの訪問であったが、ほぼ毎日のように利用していた地元の方々は複雑な気持ちであったろう。もちろん路線バスや代行バスに切り替えられ便利になった部分もあろうが、やはり鉄道のそれとは比較できない何かを失った部分も多いと思う。

こちらは地理院地図より妻沼駅付近の航空写真である。1974~1978年頃であるが、写真中央下部に妻沼駅ホームと駅舎がある。そしてその上部にはスイッチバックする形で車庫があるのがわかる。
相模線,西寒川は廃止後の代替えバスではルートでも運転本数でも格段に便利になり行き先のバリエーションもウン十倍に増えた。それこそ西寒川から先の廃止区間である四之宮付近までも代替バスで行けるようになったのだから「移動する」という意味だけを考えれば百万倍便利である。東武熊谷線のその後はどうなったのであろうか。恐らく「移動」に関しては鉄道時代よりも便利になったかも知れないが、その鉄道の偉大さは歴史とともに現在も語り継がれているかも知れない。
我々レールファンは、華やかなご豪華列車や新型車両のデビューなどの喜ばしいニュースとともに、常にこうした廃止路線など寂しいニュースとも向き合わなければならない。というか、レールに限らず世の中の事象にはほぼ全てプラスがあればマイナスがある。陽があるから陰がある。光があるから影がある。始まりがあれば終わりがある。そう思うとこの熊谷線の廃止は実に複雑な気持ちになるが、やはりレールファンのためよりも、鉄道は旅客や貨物をたくさん乗せて初めてそのメリットが活かされその存在に価値が出てくる。そう考えると熊谷線の廃止は仕方なかったであろう。ただ、私はこの熊谷線が存在した時代にこうして時間を共有できた事がある意味非常にラッキーだったと思う。地元の方ほどではないにしても、やはり今になってこの熊谷線の経験は実に大きく価値のあるものであった。それは私の地元の路線である相模線、寒川支線と同じように…

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廃止路線を訪ねて② 東武鉄道・熊谷線(リメイク版・前編)
2021-09-10
1983年5月に営業を終えた東武鉄道の非電化路線「熊谷線」は、首都圏の鉄道としては異色の存在であった。現在も活躍している秩父鉄道の熊谷ととなりの上熊谷は秩父鉄道とホームを共用していたが、熊谷では島式ホームの片側を東武と秩父鉄道で分断して使用していたので、秩父鉄道にしてみたらダイヤを組む上で非常にネックになっていたであろうが、それは今に始まった事では無いので対応も万全であったろう。そんな東武熊谷線も、晩年には営業係数が500を超えていたとの噂も聞いたことがあるが「率」では大きいが「額」ではそれほどの損益ではなかったのでは?と思っていた。だが年間2億くらいの赤字があったらしいので、東武社内で当時の熊谷線はやや重たい存在であったろう。当初の計画では同じ東武鉄道の小泉線と繋がる予定であったが、戦時中の資金難で頓挫したらしい。
まぁ、数値的な事は当時中学生の私にとって理解の範囲に達しないが、それより首都圏でキハ2000が拝見できるのに廃止されてしまう事の方がとても重要であった。

秩父鉄道と共用する東武熊谷線ホーム。現在は東武熊谷線であったところも秩父鉄道で使用され、熊谷駅で列車交換ができるようになった。
さて、私は1983年の某月某日、この熊谷線を廃止前に乗ろうと神奈川県よりはるばるやってきた。廃止された日が1983年5月なので、恐らく4月だったと思う。恐らく春休みを利用しての行動であったが、どこから情報が入ってきたのかは記憶にない。ただ、当時私は所属していた中学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」では、文字通りその道を極めるメンバーが揃っていたため、そのメンバーやRJ誌などの情報からであろう。ちなみにこの学校での部活であるが、鉄道を主題とする部活は当時は珍しかったらしい。確かにサッカー部や野球部、そしてテニス部などの運動系に比べれば割と地味な方であるし「朝練」などの作業も無い。そして県大会などの試合も無いため活動の目標が定まらない、ある意味特殊な部活だったのかも知れないが、私はどの中学にもあると思っていたので中学入学と同時に当たり前のようにその部活にのめり込むようになっていった。
今回の熊谷線もその部活のメンバーとの訪問であったのだが、あくまで個人での参戦であり「部活」での訪問ではなかった。そう考えると部活と個人的との境界線が曖昧な部分もあるが、野球部で言うならグラウンドで部活のメンバーとキャッチボールをするか、近所の公園で部活のメンバーとキャッチボールをするかの差であろう・・・などとあまり良い例えではないが、要するに東武熊谷線の参戦は「個人練習」的な表現で伝わるであろうか。

そして車両であるがなんとなくかつての流行である「80系」に似ているが、若干小ぶりな趣きである。既に隣には「新幹線」が開通し、新潟までの交通手段が格段に進歩した時代に、このDCが健在とは!なかなか愛らしいではないか。
どういう形であれ、東武熊谷線に訪問できたのは、現在では実に貴重な体験となっているが、何せ東武鉄道の他の路線とは全く接続していない。しかしながら起点の熊谷においてはなんと開業したばかりの新幹線と連絡する!という素晴らしいシチュエーションである。という事で、私は新幹線ではなく高崎線で熊谷入りして東武鉄道・熊谷線を体験する事になった。
東武熊谷線のホームは秩父鉄道のホームを共用していたのは先述したが、東武熊谷線が使用する島式ホームの片側ではホームの中央付近で線路に盛土がなされており直通出来ない構造となっていた。そのため秩父鉄道同士の列車交換が出来ない仕組みとなっており、ダイヤを組む際に恐らくその事でやや制約を受けていたであろう。
そのホームより出発する列車では、私のような「通常客ではない」乗客がちらほらみられ写真を撮るのに忙しい。春休みという事もあって私と同年代の同業者が多かった印象であるが、当時は何たって廃止が「ブーム」となっており、国鉄の赤字ローカル線廃止路線が全国のあちらこちらで、ある意味「行事」として行われていた時代でもあった。その時代の波に乗ったかのような東武熊谷線の廃止であったが、秩父鉄道の設備を間借りして営業していたので肩身の狭い思いをしていそうな表情にも見えたDCは、廃止が決まりなんだかホッとした表情にも見て取れた。私を乗せたDCは一両編成ではとてもさばききれない程のフルハウス!普段からこれくらいの利用者があれば私もこの地にやって来なかったであろう。そんな思いを乗せて終点妻沼へとエンジン音を唸らせた。

既に最近も紹介している写真であるが、熊谷で撮影した秩父鉄道はこの東武熊谷線の訪問時に撮影。手前に車止めがあるのがお分かりだと思うが、当時の秩父鉄道は熊谷での上下列車交換ができなかったのがダイヤを組む上で制約になっていたのかも知れない。

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まぁ、数値的な事は当時中学生の私にとって理解の範囲に達しないが、それより首都圏でキハ2000が拝見できるのに廃止されてしまう事の方がとても重要であった。

秩父鉄道と共用する東武熊谷線ホーム。現在は東武熊谷線であったところも秩父鉄道で使用され、熊谷駅で列車交換ができるようになった。
さて、私は1983年の某月某日、この熊谷線を廃止前に乗ろうと神奈川県よりはるばるやってきた。廃止された日が1983年5月なので、恐らく4月だったと思う。恐らく春休みを利用しての行動であったが、どこから情報が入ってきたのかは記憶にない。ただ、当時私は所属していた中学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」では、文字通りその道を極めるメンバーが揃っていたため、そのメンバーやRJ誌などの情報からであろう。ちなみにこの学校での部活であるが、鉄道を主題とする部活は当時は珍しかったらしい。確かにサッカー部や野球部、そしてテニス部などの運動系に比べれば割と地味な方であるし「朝練」などの作業も無い。そして県大会などの試合も無いため活動の目標が定まらない、ある意味特殊な部活だったのかも知れないが、私はどの中学にもあると思っていたので中学入学と同時に当たり前のようにその部活にのめり込むようになっていった。
今回の熊谷線もその部活のメンバーとの訪問であったのだが、あくまで個人での参戦であり「部活」での訪問ではなかった。そう考えると部活と個人的との境界線が曖昧な部分もあるが、野球部で言うならグラウンドで部活のメンバーとキャッチボールをするか、近所の公園で部活のメンバーとキャッチボールをするかの差であろう・・・などとあまり良い例えではないが、要するに東武熊谷線の参戦は「個人練習」的な表現で伝わるであろうか。

そして車両であるがなんとなくかつての流行である「80系」に似ているが、若干小ぶりな趣きである。既に隣には「新幹線」が開通し、新潟までの交通手段が格段に進歩した時代に、このDCが健在とは!なかなか愛らしいではないか。
どういう形であれ、東武熊谷線に訪問できたのは、現在では実に貴重な体験となっているが、何せ東武鉄道の他の路線とは全く接続していない。しかしながら起点の熊谷においてはなんと開業したばかりの新幹線と連絡する!という素晴らしいシチュエーションである。という事で、私は新幹線ではなく高崎線で熊谷入りして東武鉄道・熊谷線を体験する事になった。
東武熊谷線のホームは秩父鉄道のホームを共用していたのは先述したが、東武熊谷線が使用する島式ホームの片側ではホームの中央付近で線路に盛土がなされており直通出来ない構造となっていた。そのため秩父鉄道同士の列車交換が出来ない仕組みとなっており、ダイヤを組む際に恐らくその事でやや制約を受けていたであろう。
そのホームより出発する列車では、私のような「通常客ではない」乗客がちらほらみられ写真を撮るのに忙しい。春休みという事もあって私と同年代の同業者が多かった印象であるが、当時は何たって廃止が「ブーム」となっており、国鉄の赤字ローカル線廃止路線が全国のあちらこちらで、ある意味「行事」として行われていた時代でもあった。その時代の波に乗ったかのような東武熊谷線の廃止であったが、秩父鉄道の設備を間借りして営業していたので肩身の狭い思いをしていそうな表情にも見えたDCは、廃止が決まりなんだかホッとした表情にも見て取れた。私を乗せたDCは一両編成ではとてもさばききれない程のフルハウス!普段からこれくらいの利用者があれば私もこの地にやって来なかったであろう。そんな思いを乗せて終点妻沼へとエンジン音を唸らせた。

既に最近も紹介している写真であるが、熊谷で撮影した秩父鉄道はこの東武熊谷線の訪問時に撮影。手前に車止めがあるのがお分かりだと思うが、当時の秩父鉄道は熊谷での上下列車交換ができなかったのがダイヤを組む上で制約になっていたのかも知れない。

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懐かしの盟友たち⑬ 機関車
2021-09-05
「懐かしの盟友たち」も既に2ヶ月くらいの連載になるが、ほとんどが以前に紹介している写真なので、今回はまだ公開していない写真も含めて機関車を彩ってみよう。国鉄⇒JRに移管され「機関車」という概念が薄れ、旅客列車のほとんどが分散式のモーターによる形式となってきた。そのため機関車が客車を牽引するという光景が、貨物列車や観光列車以外では見るのがむつかしくなってきた。かつては地方に行けば普通にELやDLが旧型客車や50系客車を牽引している姿が日常であったが、JR以降はその地方にも近代化の波が押し寄せ、機関車自体がフェードアウトしていく光景は時代の変化という言葉だけでは片付けられないさみしさが漂う。しかしながら貨物列車の牽引という活躍の場がまだある事が機関車たちにとってはまだまだ救いなのかも知れないが、国鉄時代のような機関車全盛の姿は恐らく未来にはないであろうから、逆に機関車自体が貴重な存在になっていくであろう。

まず最初は現在も現役である電気機関車であり「懐かしの~」ではないが、2012年頃と思われる岡山で撮影したEF210のいわゆる「桃太郎」である。全く私には馴染みのない機関車であったが、EF65やEF66の後釜として製造されたと聞いて愛着が湧くようになってきた。見るからにパワーがありそうなイメージであるが、EF66よりは何となく車体が軽量のような感じがするのは気のせいか。

1983年に豊橋(だと思う)で撮影したEF61の1号機である。部活で清水港線制覇の後、二俣線(現天竜浜名湖鉄道)乗り換えの待ち時間での撮影であった記憶であるが、今思えばさりげなく撮影した1枚が偶然の貴重な1枚となってしまった。

撮影場所が全く記憶に無いDD16は、車体の前後で長さが違うのが特徴であった。DLは茅ヶ崎で貨物の入れ替え作業をしている姿をよく見かけたのは相模線経由で貨物列車が運転されていたからで、砂利輸送時代から続いた貨物輸送がまだ行われていた時代でもあった。

そしてこちらは1983年頃東海道線・大磯で撮影した臨時特急「平和」である。一応「部活」としての活動の一環であるが、茶色系のEF58を見るのはこの時が初めてだったと思う。ただ、この時は我々以外に多くのギャラリーが参戦しており、場所取りが大変だった。もちろん我々はマナーを守り営業の邪魔にならないように細心の注意をはらっていた(と顧問の教諭に指導されていた)が、EF58の車体にエルボーが入ってしまったのは残念な結果であった(アックスボンバーならもっと残念であったが・・・)。

最後はお馴染みの写真で締めくくろう。何度もこのブログに登場している写真であるが、改めて、1978年8月に、なんと地上時代の宮崎で撮影したDF50である。寝台特急「富士」に乗車の際、機関車交換のための停車時間に撮影したが、東京から西鹿児島(当時)まで乗車した時間は24時間25分で、機関車交換が3回行われた。当日はまる1日全てをこの寝台特急「富士」に捧げたようなものだったが、私の鉄道史の記憶の中ではこの「富士」の乗車が恐らく1番の思い出であろう。

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まず最初は現在も現役である電気機関車であり「懐かしの~」ではないが、2012年頃と思われる岡山で撮影したEF210のいわゆる「桃太郎」である。全く私には馴染みのない機関車であったが、EF65やEF66の後釜として製造されたと聞いて愛着が湧くようになってきた。見るからにパワーがありそうなイメージであるが、EF66よりは何となく車体が軽量のような感じがするのは気のせいか。

1983年に豊橋(だと思う)で撮影したEF61の1号機である。部活で清水港線制覇の後、二俣線(現天竜浜名湖鉄道)乗り換えの待ち時間での撮影であった記憶であるが、今思えばさりげなく撮影した1枚が偶然の貴重な1枚となってしまった。

撮影場所が全く記憶に無いDD16は、車体の前後で長さが違うのが特徴であった。DLは茅ヶ崎で貨物の入れ替え作業をしている姿をよく見かけたのは相模線経由で貨物列車が運転されていたからで、砂利輸送時代から続いた貨物輸送がまだ行われていた時代でもあった。

そしてこちらは1983年頃東海道線・大磯で撮影した臨時特急「平和」である。一応「部活」としての活動の一環であるが、茶色系のEF58を見るのはこの時が初めてだったと思う。ただ、この時は我々以外に多くのギャラリーが参戦しており、場所取りが大変だった。もちろん我々はマナーを守り営業の邪魔にならないように細心の注意をはらっていた(と顧問の教諭に指導されていた)が、EF58の車体にエルボーが入ってしまったのは残念な結果であった(アックスボンバーならもっと残念であったが・・・)。

最後はお馴染みの写真で締めくくろう。何度もこのブログに登場している写真であるが、改めて、1978年8月に、なんと地上時代の宮崎で撮影したDF50である。寝台特急「富士」に乗車の際、機関車交換のための停車時間に撮影したが、東京から西鹿児島(当時)まで乗車した時間は24時間25分で、機関車交換が3回行われた。当日はまる1日全てをこの寝台特急「富士」に捧げたようなものだったが、私の鉄道史の記憶の中ではこの「富士」の乗車が恐らく1番の思い出であろう。

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