長良川艶歌 (後編)
2021-10-30
名湯「子宝温泉」で入浴まで済ませ心身ともに蘇った私は、再び列車で北濃方面へ向かう。というのも、残念ながら子宝温泉に宿泊施設は無く、美濃白鳥にある宿を素泊まりでインターネットで予約する事にした。
民宿をインターネットで予約する・・・私の「いい旅チャレンジ20000km」時代では民宿ガイドや時刻表の巻末辺りの宿の羅列を上から下まで見ながら探していたので、クリックひとつで、などありえなかった、というよりそんな概念など全く無い時代だ。私の旅に新しい息吹を吹き込んだ宿はほぼ割烹旅館。確か料金前払いで予め女将に「明日は朝一で出発で~す」と伝えたので本当に寝るだけ!超素泊まりであった。
ところでこちらの割烹旅館、私の寝る部屋は4枚くらいの障子にロックが掛かるシステムであったが、今考えたら普段は宴会場として使用しているのであろう。そして宿泊希望者がいたらその宴会場が宿部屋に早変わりする…そんなシステムになっているようだ。

終点の北濃であるが、とうとう右側に駅名が書かれる事はなかった。地形的には美濃白鳥からの方が九頭竜湖方面への延伸は自然であるが、北濃から先は白川郷などへのバス連絡も考えられていたのであろうか。
翌朝6時に起床。素泊まりのため朝食などはない。しかしながらその事は予定通りであり、この長良川鉄道の特長を充分に発揮させるべくあえて朝食を後回しにした訳は後程詳しく紹介しよう。
6時59分の美濃白鳥発北濃行に乗車するため身支度を急いだ。宿の女将に丁寧にあいさつをした後、日曜日ではなかったが、田中星児氏のように爽やかでビューティフルな朝を迎え美濃白鳥駅界隈を歩く。夜は暗くて分からなったが、こうして歩いてみるとなかなか風情ある街並みではないか!旅の疲れも一気に吹き飛んでしまうような素敵な街並みは、素泊まりで素通りするには勿体ない風景!だが、素通りしなければならないのは乗り潰しの宿命でもあろう。
早速美濃白鳥駅に着いたら既に駅には列車がいた。昨日の美濃白鳥止まりの最終列車が停泊していたのだ。もちろん美濃白鳥始発のため座って北濃まで行ける、というより北濃発の上りの始発となるための回送をわざわざ旅客扱いしているのであろうが、私たち以外の乗客は皆無に等しかったのは仕方がない。

北濃からの一番列車は美濃白鳥始発の下り北農行き一番列車がそのまま折り返す。北濃発の上り一番列車を美濃白鳥より回送しているわけであるが、営業運転として開放しているので利用者にとってはありがたい。
昔の私なら美濃白鳥で一泊するなどという発想というか概念が無かった。もちろん駅寝等はしたくなかったし、専ら夜行列車を宿代わりにしていたので途中駅で切るという発想が無かった。とはいえ、既に紹介している東北の旅では駅寝の連続であったが・・・だからこそ、こうして年齢を重ね新たなチャレンジを試みながら北濃へ向かうのは実に新鮮だ。
さっきまで美濃白鳥駅で改札をしていた初老の紳士が、今度はマスコンを持って運転席へ。そう、朝一の美濃白鳥での改札員は、実は運転手だったのだ。地方交通線ならではの「一人何役」であるが、現在は本当に合理化がドラスティックにシステム化されている。1970年代では鉄道のワンマン化など考えられなかったので、現在のワンマン化が当たり前の時代は改めてその確立されたシステムに感心してしまう。

北濃は越美北線と繋がった暁には当然ながら島式ホームの列車交換駅となっていたであろう。かつては九頭竜湖まで国鉄バスが連絡していたが、現在は途中で途切れてしまっている。ある意味「太川・蛭子コンビ泣かせ」の徒歩区間は8キロくらいの道のりであるらしい。
やがて北濃に到着した。途中から乗車して来た若干の乗客も下車。私は事前に運転手に同じ列車で折り返す旨を伝えてあったため切符回収等は無く、運転手も「あいつはその道を極める最重要人物であろう」とお察しいただいていたであろうが為、私は遠慮なくホーム等の駅設備にシャッターを切る事ができた。
驚いたのは北濃にはまだ「ターンテーブル」がいた事だ!もし使えるのなら、観光用にSLを走らせるのも夢ではないであろうが・・・しかし、ターンテーブルの横にあるレールはその先で途切れ、越美線の「過去の未来」が閉ざされていた。無理してでも九頭竜湖まで繋げたらまた違った運命を辿っていたろうが、線形が悪く、所要時間等を考えても全線通しての利用はまず無いと思われる。何せ旅客だけでは企業として利益を産むには至難の業であろう。既に叶わぬ夢となってしまったが、それでも夢だけは見ていたい。そんな思いを抱きながらレールの先にある何かを振りほどき、北濃を後にした。
郡上踊りで有名な郡上八幡をほぼ無関心に、いや、とても関心はあるのだが乗りつぶしの宿命上、どうしても無関心を装わなければならず辛いところであるが、二つ先の「深戸」に向かった。そう、ここでようやく朝食の「後述」が出てくるのだ。深戸では駅舎に食堂「ステーション深戸」が併設されており、地元民の憩いの場になっている。「後述」とは深戸で朝食をいただく計画だったのだ。

北濃より折り返し深戸で遅い朝食を頂く。そう、ここの駅舎には飲食店「ステーション深戸」が入居しているので超便利!
深戸で朝食をいただく・・・こんな概念も「いい旅チャレンジ20000km」時代の私には無かったプログラムである。頼んだモーニングセットはコーヒーにパン、そしてなぜか素麺がセットになっている優れものだ。暫くして我々以外にもお客様が入ってきたため冷房のスイッチオン。昭和の冷風が風鈴を鳴らす長閑な風景。駅直結の「ステーション深戸」は長良川鉄道最大の特長であろう❗
ここで1時間半のインターバルの後、美濃太田に向い帰路についた。

同じく深戸のホームより撮影。駅舎を出てすぐの場所で撮影したのだが、列車乗り場はホームの先端方面にあるようだ。
朝の越美南線は新鮮であった。既に夢敗れ、越美北線と繋がり「越美線」となる日は永遠に無いであろう。だが、今もこうして地元民に愛されながら活躍している鉄道がそこにはある。私はこんな風景を求めるために旅に出るのかなと自身に問いながら、寄り添う長良川のせせらぎの反射に瞳を細める時、私の「いい旅チャレンジ20000km・第2章」は既に始まっていた。

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民宿をインターネットで予約する・・・私の「いい旅チャレンジ20000km」時代では民宿ガイドや時刻表の巻末辺りの宿の羅列を上から下まで見ながら探していたので、クリックひとつで、などありえなかった、というよりそんな概念など全く無い時代だ。私の旅に新しい息吹を吹き込んだ宿はほぼ割烹旅館。確か料金前払いで予め女将に「明日は朝一で出発で~す」と伝えたので本当に寝るだけ!超素泊まりであった。
ところでこちらの割烹旅館、私の寝る部屋は4枚くらいの障子にロックが掛かるシステムであったが、今考えたら普段は宴会場として使用しているのであろう。そして宿泊希望者がいたらその宴会場が宿部屋に早変わりする…そんなシステムになっているようだ。

終点の北濃であるが、とうとう右側に駅名が書かれる事はなかった。地形的には美濃白鳥からの方が九頭竜湖方面への延伸は自然であるが、北濃から先は白川郷などへのバス連絡も考えられていたのであろうか。
翌朝6時に起床。素泊まりのため朝食などはない。しかしながらその事は予定通りであり、この長良川鉄道の特長を充分に発揮させるべくあえて朝食を後回しにした訳は後程詳しく紹介しよう。
6時59分の美濃白鳥発北濃行に乗車するため身支度を急いだ。宿の女将に丁寧にあいさつをした後、日曜日ではなかったが、田中星児氏のように爽やかでビューティフルな朝を迎え美濃白鳥駅界隈を歩く。夜は暗くて分からなったが、こうして歩いてみるとなかなか風情ある街並みではないか!旅の疲れも一気に吹き飛んでしまうような素敵な街並みは、素泊まりで素通りするには勿体ない風景!だが、素通りしなければならないのは乗り潰しの宿命でもあろう。
早速美濃白鳥駅に着いたら既に駅には列車がいた。昨日の美濃白鳥止まりの最終列車が停泊していたのだ。もちろん美濃白鳥始発のため座って北濃まで行ける、というより北濃発の上りの始発となるための回送をわざわざ旅客扱いしているのであろうが、私たち以外の乗客は皆無に等しかったのは仕方がない。

北濃からの一番列車は美濃白鳥始発の下り北農行き一番列車がそのまま折り返す。北濃発の上り一番列車を美濃白鳥より回送しているわけであるが、営業運転として開放しているので利用者にとってはありがたい。
昔の私なら美濃白鳥で一泊するなどという発想というか概念が無かった。もちろん駅寝等はしたくなかったし、専ら夜行列車を宿代わりにしていたので途中駅で切るという発想が無かった。とはいえ、既に紹介している東北の旅では駅寝の連続であったが・・・だからこそ、こうして年齢を重ね新たなチャレンジを試みながら北濃へ向かうのは実に新鮮だ。
さっきまで美濃白鳥駅で改札をしていた初老の紳士が、今度はマスコンを持って運転席へ。そう、朝一の美濃白鳥での改札員は、実は運転手だったのだ。地方交通線ならではの「一人何役」であるが、現在は本当に合理化がドラスティックにシステム化されている。1970年代では鉄道のワンマン化など考えられなかったので、現在のワンマン化が当たり前の時代は改めてその確立されたシステムに感心してしまう。

北濃は越美北線と繋がった暁には当然ながら島式ホームの列車交換駅となっていたであろう。かつては九頭竜湖まで国鉄バスが連絡していたが、現在は途中で途切れてしまっている。ある意味「太川・蛭子コンビ泣かせ」の徒歩区間は8キロくらいの道のりであるらしい。
やがて北濃に到着した。途中から乗車して来た若干の乗客も下車。私は事前に運転手に同じ列車で折り返す旨を伝えてあったため切符回収等は無く、運転手も「あいつはその道を極める最重要人物であろう」とお察しいただいていたであろうが為、私は遠慮なくホーム等の駅設備にシャッターを切る事ができた。
驚いたのは北濃にはまだ「ターンテーブル」がいた事だ!もし使えるのなら、観光用にSLを走らせるのも夢ではないであろうが・・・しかし、ターンテーブルの横にあるレールはその先で途切れ、越美線の「過去の未来」が閉ざされていた。無理してでも九頭竜湖まで繋げたらまた違った運命を辿っていたろうが、線形が悪く、所要時間等を考えても全線通しての利用はまず無いと思われる。何せ旅客だけでは企業として利益を産むには至難の業であろう。既に叶わぬ夢となってしまったが、それでも夢だけは見ていたい。そんな思いを抱きながらレールの先にある何かを振りほどき、北濃を後にした。
郡上踊りで有名な郡上八幡をほぼ無関心に、いや、とても関心はあるのだが乗りつぶしの宿命上、どうしても無関心を装わなければならず辛いところであるが、二つ先の「深戸」に向かった。そう、ここでようやく朝食の「後述」が出てくるのだ。深戸では駅舎に食堂「ステーション深戸」が併設されており、地元民の憩いの場になっている。「後述」とは深戸で朝食をいただく計画だったのだ。

北濃より折り返し深戸で遅い朝食を頂く。そう、ここの駅舎には飲食店「ステーション深戸」が入居しているので超便利!
深戸で朝食をいただく・・・こんな概念も「いい旅チャレンジ20000km」時代の私には無かったプログラムである。頼んだモーニングセットはコーヒーにパン、そしてなぜか素麺がセットになっている優れものだ。暫くして我々以外にもお客様が入ってきたため冷房のスイッチオン。昭和の冷風が風鈴を鳴らす長閑な風景。駅直結の「ステーション深戸」は長良川鉄道最大の特長であろう❗
ここで1時間半のインターバルの後、美濃太田に向い帰路についた。

同じく深戸のホームより撮影。駅舎を出てすぐの場所で撮影したのだが、列車乗り場はホームの先端方面にあるようだ。
朝の越美南線は新鮮であった。既に夢敗れ、越美北線と繋がり「越美線」となる日は永遠に無いであろう。だが、今もこうして地元民に愛されながら活躍している鉄道がそこにはある。私はこんな風景を求めるために旅に出るのかなと自身に問いながら、寄り添う長良川のせせらぎの反射に瞳を細める時、私の「いい旅チャレンジ20000km・第2章」は既に始まっていた。

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長良川艶歌 (前編)
2021-10-25
岐阜県といえば鵜飼や焼き物、刃物などで有名だが、そんな伝統ある町にも私好みの「ローカル」がいる。かつて国鉄時代は「越美南線」ど呼ばれていたが、現在もその名を受け継いでいるのは感慨深い。本来は福井側にある越美北線と繋がって「越美線」となる予定であったが、1980年代の「特定地方交通線」に名を連ね、第三セクターに転換された所謂「赤字ローカル線」であった。
私の生涯目標の「制覇」だけを考えたら、終点の北濃より国鉄バスに乗り換え九頭竜湖方面へむかうか、美濃太田まで折り返すしか手段はなく、ある意味厄介な鉄路であったが、視点を変えれば面白くもなる。

長良川鉄道は「関」と名の付く駅名が多い。長良川鉄道にとってもこの「関」は要衝の地として活躍している。
そんな長良川鉄道を制覇するにあたり近江鉄道と伊賀鉄道をペアで組んで旅に出た事は既に紹介した。伊賀鉄道といえばかつての近鉄伊賀線である。しかしながら経営上の問題から近鉄直営の管理ではなくなってしまった。しかし廃止されるよりは現存するだけでもありがたいであろう。更に越美南線も国鉄時代に同じく廃止の候補に挙がったが「第三セクター」という形で現存してくれているのだが、いずれにしでも「企業」としてみた場合、利益を出すのにかなり苦戦しているであろう事がうかがえる。

そして長良川鉄道最大の駅である関。車庫や本社もあり、間違いなく中心駅である。ふたつとなりの関口との間にある「はものかいかんまえ」や、更に隣の「せきしやくしょまえ」とともに長良川鉄道は関市の中心部を走り抜く。
さて、近江鉄道を経て米原より関ヶ原を越え長良川鉄道に訪れたのは平日、つまり「フリー切符」が使える休日ではないので正規料金での制覇となった。経費はそれこそ倍以上違う・・・私としてはかなり辛いところであるが、ある意味長良川鉄道にはかなり貢献した事であろうと自負する。早速高山本線で美濃太田に着いたのがなんと17時24分である。えっ?こんな時間から長良川鉄道へ?と思われるであろう。しかしこれには特段の事情があった(大したことではないが)。
季節柄まだ日は明るい夕方5時台であるが、乗り換える長良川鉄道は関界隈まではそこそこの乗車率であった。

今夜の宿は素泊まりの予定であるため、というより、長良川鉄道利用者には素敵な特典が付いているので、ここは「特典」を使いひとっ風呂浴びる計画を組んでいた。
長良川鉄道の「最重要人物」である関を過ぎると車内はやや落ち着いた雰囲気をみせたが、更にこの先「郡上踊り」で有名な郡上八幡がある。
長良川鉄道の沿線資源はかなり豊かな印象であるが、実は長良川鉄道に寄り添うように高速道路が張り付いている。そのため利用者の偏りがかなり感じられるであろう。もちろんスピード面では試合前から決着がついているようなものであるが、お互いに一長一短あるわけだし、いい意味で足りない部分をフォローし合えば共存できるのではないか、などと素人ながらに思ってしまう。ただ、鉄道は大量輸送が最大の長所であるら、沢山利用してもらわないと利益を産み出せない。

今夜の宿となる予定の美濃白鳥。その模様は次章で紹介しよう。
ところで長良川鉄道は、その名の通り長良川に寄り添うように北上する。既に「越美南線」の面影は感じられない、というより、設備的には国鉄時代のものをそのまま流用しているが「長良川」がすっかり地元に定着している感がある。もちろん、地方鉄道の主役である学生の利用者はお得意様であるが、私が今回の旅で最大に注目したのが「みなみ子宝温泉」であった。
みなみ子宝温泉は国鉄時代には無かった駅であるが、転換後に駅を新設。更に駅構内にスーパー銭湯を併設し、なんとホーム直結のスーパー銭湯が産まれたのだ!施設利用の際には運転手さんに「子宝温泉を利用します」と申し出れば、なんと50円で利用できる優れものである!先述の「特段の事情」とはこういう事であったのだが、やはり「特段の事情」とは時に使うものだ。もちろん私は50円にて施設を利用。ついでに夕食も施設内で済ませてしまった。
施設内では列車の出発時間が近づくと信号機で知らせてくれる。JR北上線の「ほっとゆだ」にも同じように見られるこの光景は、レールファンにしてみたら嬉しいサービス。1日いてもリラックスできる事であろう。
そういえば何かの旅番組で視たが、野口〇郎もこの施設を利用。親父ギャグ的な要素をしっかり含めながら「地元民」を盛大にアピールしていた。

ホームに接する駅舎は国鉄時代によく見られた。大都市でもこうした仕様の駅が多く、しかも駅舎がひとつしかない場合も多かったので、いわゆる駅の反対側は駅に入るのには大きく迂回しなければならなかった。現在、主要都市の駅は次第に高架化されたり改良されたしながら街の発展にも貢献してきた。

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私の生涯目標の「制覇」だけを考えたら、終点の北濃より国鉄バスに乗り換え九頭竜湖方面へむかうか、美濃太田まで折り返すしか手段はなく、ある意味厄介な鉄路であったが、視点を変えれば面白くもなる。

長良川鉄道は「関」と名の付く駅名が多い。長良川鉄道にとってもこの「関」は要衝の地として活躍している。
そんな長良川鉄道を制覇するにあたり近江鉄道と伊賀鉄道をペアで組んで旅に出た事は既に紹介した。伊賀鉄道といえばかつての近鉄伊賀線である。しかしながら経営上の問題から近鉄直営の管理ではなくなってしまった。しかし廃止されるよりは現存するだけでもありがたいであろう。更に越美南線も国鉄時代に同じく廃止の候補に挙がったが「第三セクター」という形で現存してくれているのだが、いずれにしでも「企業」としてみた場合、利益を出すのにかなり苦戦しているであろう事がうかがえる。

そして長良川鉄道最大の駅である関。車庫や本社もあり、間違いなく中心駅である。ふたつとなりの関口との間にある「はものかいかんまえ」や、更に隣の「せきしやくしょまえ」とともに長良川鉄道は関市の中心部を走り抜く。
さて、近江鉄道を経て米原より関ヶ原を越え長良川鉄道に訪れたのは平日、つまり「フリー切符」が使える休日ではないので正規料金での制覇となった。経費はそれこそ倍以上違う・・・私としてはかなり辛いところであるが、ある意味長良川鉄道にはかなり貢献した事であろうと自負する。早速高山本線で美濃太田に着いたのがなんと17時24分である。えっ?こんな時間から長良川鉄道へ?と思われるであろう。しかしこれには特段の事情があった(大したことではないが)。
季節柄まだ日は明るい夕方5時台であるが、乗り換える長良川鉄道は関界隈まではそこそこの乗車率であった。

今夜の宿は素泊まりの予定であるため、というより、長良川鉄道利用者には素敵な特典が付いているので、ここは「特典」を使いひとっ風呂浴びる計画を組んでいた。
長良川鉄道の「最重要人物」である関を過ぎると車内はやや落ち着いた雰囲気をみせたが、更にこの先「郡上踊り」で有名な郡上八幡がある。
長良川鉄道の沿線資源はかなり豊かな印象であるが、実は長良川鉄道に寄り添うように高速道路が張り付いている。そのため利用者の偏りがかなり感じられるであろう。もちろんスピード面では試合前から決着がついているようなものであるが、お互いに一長一短あるわけだし、いい意味で足りない部分をフォローし合えば共存できるのではないか、などと素人ながらに思ってしまう。ただ、鉄道は大量輸送が最大の長所であるら、沢山利用してもらわないと利益を産み出せない。

今夜の宿となる予定の美濃白鳥。その模様は次章で紹介しよう。
ところで長良川鉄道は、その名の通り長良川に寄り添うように北上する。既に「越美南線」の面影は感じられない、というより、設備的には国鉄時代のものをそのまま流用しているが「長良川」がすっかり地元に定着している感がある。もちろん、地方鉄道の主役である学生の利用者はお得意様であるが、私が今回の旅で最大に注目したのが「みなみ子宝温泉」であった。
みなみ子宝温泉は国鉄時代には無かった駅であるが、転換後に駅を新設。更に駅構内にスーパー銭湯を併設し、なんとホーム直結のスーパー銭湯が産まれたのだ!施設利用の際には運転手さんに「子宝温泉を利用します」と申し出れば、なんと50円で利用できる優れものである!先述の「特段の事情」とはこういう事であったのだが、やはり「特段の事情」とは時に使うものだ。もちろん私は50円にて施設を利用。ついでに夕食も施設内で済ませてしまった。
施設内では列車の出発時間が近づくと信号機で知らせてくれる。JR北上線の「ほっとゆだ」にも同じように見られるこの光景は、レールファンにしてみたら嬉しいサービス。1日いてもリラックスできる事であろう。
そういえば何かの旅番組で視たが、野口〇郎もこの施設を利用。親父ギャグ的な要素をしっかり含めながら「地元民」を盛大にアピールしていた。

ホームに接する駅舎は国鉄時代によく見られた。大都市でもこうした仕様の駅が多く、しかも駅舎がひとつしかない場合も多かったので、いわゆる駅の反対側は駅に入るのには大きく迂回しなければならなかった。現在、主要都市の駅は次第に高架化されたり改良されたしながら街の発展にも貢献してきた。

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「青春18」で伊賀の里から近江へ⑥
2021-10-20
高宮へ戻ってきた私は、いよいよ終点の米原を目指す。しかしながら鉄道地図を見てるとどうしてもマイナーに映ってしまう彦根を忘れてはならない。かつては城下町として栄えた彦根であるが、現在も利用者は多い。街としてはむしろ米原より彦根の方が繁栄しており、米原は新幹線と在来線との乗り換え駅としての役割が大きい。もちろん彦根でも東海道本線に乗り換えられるので、その重要性に変わりはない。

八日市ではご覧の車両と出会った。私的には馴染みある700形であるが、なんと2019年に引退していたとの情報を得たのは驚きであった。もちろん私も乗車したが、クロスシートの車内は優等列車的優越感がたまらない乗り心地であった。
そんなこんなで終点の米原に着く。米原~彦根間は東海道本線と並走する形をとるが、完全に並列したりJRの線路を共同使用するわけでなく、あくまでも別ルートにこだわりを見せ両者は一旦離れた位置を並走する。
米原では新幹線もやってくるため近江鉄道がやや華奢に見えてしまうが、JR側もかなりの配線変更や整理が行われたらしく、かなりスリムになった。そしてそのスリムなJRに近江鉄道が歩み寄る感じでホームが新設され乗り換えが非常にスムーズになった。
次の制覇路線は長良川鉄道である。米原より東海道線で「関ヶ原越え」をしなければならない。長良川鉄道の模様は既に過去に紹介した「長良川艶歌」を若干リメイクして次の章でお届けしようと思う。
ただ、国鉄の越美南線時代を含め長良川鉄道は初体験である。既に樽見鉄道も制覇しているが、そちらは国鉄時代の「樽見線」も経験してからの制覇である。その模様も後日にお届けしようと思うが、どちらも「元国鉄」という事である。
よく鉄道誌やウィキなどでその路線の歴史を見てみると、概ね私鉄で発足し国が買収したり私鉄同士で吸収や合併などの歴史が存在する。特に私の地元である相模線ではその歴史に大きな変遷がいくつもありとても複雑だ。ただ、子供の頃の私は目の前の事象しかわからないので「昔は相模鉄道だった」などといわれてもあまりピンと来なかった。しかし、年月が流れ現在は「昔、長良川鉄道は国鉄だった」といわれてピンと来る。もしかしたら私はこうした「ピンと来る」ものを全線制覇の名を借りて求めているのかも知れない。

デイタイムの車内はこのようなイメージであろうか。特に今回の訪問時は夏休み期間であったろうがため朝夕の通学時間帯でもいつものような賑わいは感じられなかったかも知れない。
そして私はその「ピンと来る」ものを発見した時、当然ながらそこに歴史を感じることであろう。そしてかつての勇姿を頭に描いた時に感動がよろこびに変わる。
「旧き良き」という言葉があるが「新しいもの好き」もおられるであろう。私のブログをご覧になってお気付きであろうが「旧き良き」のウエイトが大きいが、らこれからはもう少し「新しいもの好き」を少々加えていくのもいいかなと思う。というより、ただ「新しいもの好き」を加えるのでなく「こうして旧き良きがあるから現在はこう変化してきたんだよ」というカラーが出せたらいいかなと思う。
もうすぐ相模線の車両更新が始まろうとしている。
もうあの205系が見られなくなるのは何となく複雑であるが、新たな可能性を見つけて更に羽ばたいてもらいたい。

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八日市ではご覧の車両と出会った。私的には馴染みある700形であるが、なんと2019年に引退していたとの情報を得たのは驚きであった。もちろん私も乗車したが、クロスシートの車内は優等列車的優越感がたまらない乗り心地であった。
そんなこんなで終点の米原に着く。米原~彦根間は東海道本線と並走する形をとるが、完全に並列したりJRの線路を共同使用するわけでなく、あくまでも別ルートにこだわりを見せ両者は一旦離れた位置を並走する。
米原では新幹線もやってくるため近江鉄道がやや華奢に見えてしまうが、JR側もかなりの配線変更や整理が行われたらしく、かなりスリムになった。そしてそのスリムなJRに近江鉄道が歩み寄る感じでホームが新設され乗り換えが非常にスムーズになった。
次の制覇路線は長良川鉄道である。米原より東海道線で「関ヶ原越え」をしなければならない。長良川鉄道の模様は既に過去に紹介した「長良川艶歌」を若干リメイクして次の章でお届けしようと思う。
ただ、国鉄の越美南線時代を含め長良川鉄道は初体験である。既に樽見鉄道も制覇しているが、そちらは国鉄時代の「樽見線」も経験してからの制覇である。その模様も後日にお届けしようと思うが、どちらも「元国鉄」という事である。
よく鉄道誌やウィキなどでその路線の歴史を見てみると、概ね私鉄で発足し国が買収したり私鉄同士で吸収や合併などの歴史が存在する。特に私の地元である相模線ではその歴史に大きな変遷がいくつもありとても複雑だ。ただ、子供の頃の私は目の前の事象しかわからないので「昔は相模鉄道だった」などといわれてもあまりピンと来なかった。しかし、年月が流れ現在は「昔、長良川鉄道は国鉄だった」といわれてピンと来る。もしかしたら私はこうした「ピンと来る」ものを全線制覇の名を借りて求めているのかも知れない。

デイタイムの車内はこのようなイメージであろうか。特に今回の訪問時は夏休み期間であったろうがため朝夕の通学時間帯でもいつものような賑わいは感じられなかったかも知れない。
そして私はその「ピンと来る」ものを発見した時、当然ながらそこに歴史を感じることであろう。そしてかつての勇姿を頭に描いた時に感動がよろこびに変わる。
「旧き良き」という言葉があるが「新しいもの好き」もおられるであろう。私のブログをご覧になってお気付きであろうが「旧き良き」のウエイトが大きいが、らこれからはもう少し「新しいもの好き」を少々加えていくのもいいかなと思う。というより、ただ「新しいもの好き」を加えるのでなく「こうして旧き良きがあるから現在はこう変化してきたんだよ」というカラーが出せたらいいかなと思う。
もうすぐ相模線の車両更新が始まろうとしている。
もうあの205系が見られなくなるのは何となく複雑であるが、新たな可能性を見つけて更に羽ばたいてもらいたい。

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「青春18」で伊賀の里から近江へ・・・⑤
2021-10-15
再び八日市に戻ってきた私は、彦根方面へ乗り換え高宮へ向かう。高宮より多賀線に乗り換えるのだが、多賀大社前とは聞きなれない駅名と感じるという事はやはり私の国鉄漬けの名残であるのか。西方面の私鉄路線はなかなか不得手の私であるが、東京近郊の私鉄路線や地下鉄路線さえ未だにまともに頭に入ってない。そんな私が私鉄路線も全て乗り尽くしてしまおうというのだから我ながら大したものだと我ながら感心してしまう。とはいえ、当時はまだまだ私鉄路線全線制覇の入口の段階であったので、これから数々の試練が待ち構えている事であろう。

「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」と聞いてピンときた貴方!それはまさしくグレイトですぞ!「日本の放送業界から締め出し喰ってけっこう悪名高いシビレる曲」としてファンの間では超有名である。
さて、高宮でいよいよ多賀線に乗るのであるが、八日市と同じく米原方面からは進行方向を変えずに直通できる配線となっている。小野田線の雀田的なイメージの三角ホームがあり、非常に乗り換えに便利な構造になっている。駅舎はかなりモダンな造りであったが2002年の完成とウィキに記されていたのでもう20年近く経とうとしているので意外に時間が経過していた。だがホームなどは昔ながらのイメージが強く、オールドファンには「待ってました!」的存在であろう。

高宮では例の三角ホームから多賀線に乗り換える。駅舎等のリニューアル化が進む中、昔のまま残されている設備も多く歴史を感じる連続であるため、退屈しない。いや、している暇がない。
三角ホームから大きくカーブすると、早速「スクリーン」に到着する。ご覧の通り通勤客の利便性を考慮して造られた駅である事は明確であるが、ちょっとウィキを覗いたら興味深い事が記されていた。この駅の開業は2008年であるが「SCREENホールディングス彦根事業所」の敷地内に駅があると記され、更に一企業の敷地内であるにも関わらず「鶴見線の海芝浦駅とは違い従業員以外も乗降が可能である」となっていた。それは凄い事である!私自身、海芝浦は何度か体験しているが、こちらのスクリーンは外部へと羽ばたけるのだから海芝浦とは違い訪問時の行動選択肢が格段に増えることであろう。

こちらは多賀大社前「駅」である。櫛形ホームの2面3線は、かつての賑わいを無言で語りかけている。とは言え、元旦等はこのホームもフル回転するのであろうか。

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「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」と聞いてピンときた貴方!それはまさしくグレイトですぞ!「日本の放送業界から締め出し喰ってけっこう悪名高いシビレる曲」としてファンの間では超有名である。
さて、高宮でいよいよ多賀線に乗るのであるが、八日市と同じく米原方面からは進行方向を変えずに直通できる配線となっている。小野田線の雀田的なイメージの三角ホームがあり、非常に乗り換えに便利な構造になっている。駅舎はかなりモダンな造りであったが2002年の完成とウィキに記されていたのでもう20年近く経とうとしているので意外に時間が経過していた。だがホームなどは昔ながらのイメージが強く、オールドファンには「待ってました!」的存在であろう。

高宮では例の三角ホームから多賀線に乗り換える。駅舎等のリニューアル化が進む中、昔のまま残されている設備も多く歴史を感じる連続であるため、退屈しない。いや、している暇がない。
三角ホームから大きくカーブすると、早速「スクリーン」に到着する。ご覧の通り通勤客の利便性を考慮して造られた駅である事は明確であるが、ちょっとウィキを覗いたら興味深い事が記されていた。この駅の開業は2008年であるが「SCREENホールディングス彦根事業所」の敷地内に駅があると記され、更に一企業の敷地内であるにも関わらず「鶴見線の海芝浦駅とは違い従業員以外も乗降が可能である」となっていた。それは凄い事である!私自身、海芝浦は何度か体験しているが、こちらのスクリーンは外部へと羽ばたけるのだから海芝浦とは違い訪問時の行動選択肢が格段に増えることであろう。

こちらは多賀大社前「駅」である。櫛形ホームの2面3線は、かつての賑わいを無言で語りかけている。とは言え、元旦等はこのホームもフル回転するのであろうか。

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「青春18」で伊賀の里から近江へ④
2021-10-10
全くノーマークだった近江鉄道の風景は、まさに昭和を受け継ぐ風景であった。車両こそモダンな構えであるが、駅や駅舎は昔ながらが主だっている。もちろん近江鉄道の存在は知っていたが、実際に訪問してみると発見的な何かを感じる。そしてアドベンチャーな気分にさせてくれる。
地方の私鉄に関しては書物的な知識が殆どで、昔でいう国鉄路線ばかりを巡っていた私にとってこうした地方の私鉄はいつも新鮮であることは先述通りであるが、特に「古き良き」が健在である場合が多いのは大きな収穫であろう。人によっては「古臭い」などと感じるかも知れないが、逆にいえば先輩たちがリアルタイムで感じていた事を、我々後輩も同じような気持ちで体感できるチャンスでもあるのだ。そうした中での近江鉄道は正にチャンス到来なのである。

貴生川で乗り換える近江鉄道はご覧の通り西武鉄道の車両が主役である。後で調べてみると、近江鉄道は西武グループであることが判明。西武といえばライオンズ。ライオンズといえば・・・西鉄であった事がある意味有名であるが、その後「太平洋クラブ」「クラウンライター」と変遷して現在の西武傘下になったのは、特に若い世代ではご存知であろうか?クラウンライターは確か2年くらいの短命であったが、白とオレンジっぽいユニフォームが当時は斬新で私は好きであった。
さて、歴史を感じる貴生川を出ると、やがて草津線や信楽高原鐵道が早速小さくフェードアウトしていく。失礼ながら乗客は僅少であったが、やはり冒頭で感じたように近江鉄道は風情ある駅がそのまま健在のイメージであったのである意味「いい意味で裏切られた」といったような思いであった。途中、桜川でもその風情っぷりは満載で、思わず降りてしまおうかと思ってしまうくらい昔を感じてしまう駅であった。
そして隣はズバリ「京セラ前」という事で通勤客が多く見込めそうな駅名であるが、京セラといえば、あの人気プロレスラー小橋建太がサラリーマンとして数年勤めていた会社である!この近江鉄道沿線にある京セラにいたかどうかは別として、小橋建太を語る上ではこの京セラは欠かせないキーワードであろう(かどうかは別として・・・)。

ご覧の通り桜川は昭和を感じる風情ある駅である。駅建家にある「アース」は定番のアイテムであろうが、それこそ「水原弘」や「松山容子」が揃っていたらもう文句は無しであろう。
さて、私の旅は「全線制覇」がテーマであるため次の八日市で下車し近江八幡へ向かう。八日市は米原からの列車はそのまま進行方向を変えずに近江八幡方面へ進めるが、貴生川からだとスイッチバックの形をとらなければ進めない配線となっている。八日市から近江八幡までは9.9キロと短いが、駅はかなりリニューアルされているものが多い。その中でも新八日市や太郎坊宮前など風情ある駅も多いのが特徴である。

八日市線や八日市周辺では複雑な変遷があったらしいが、現在の形になったのは1946年らしい。ここで近江八幡方面へ乗り換える。
終点の近江八幡では計画的に昼食タイムを組んであるが、私が想像していた以上に駅周辺は繁栄していた。駅前にある飲食店でしばしの休憩タイム。かつての私の旅ではこうして予め昼食を予定に組み込むなど考えられない事であったので何となく新鮮である。列車がある限り前に進む、計画を詰め込むということに美学を感じていたのだから、やっている本人も当時はやや違和感を感じたほどだ。であるが、やはり年齢を重ねるとこうした余裕をもった旅をしないと逆に息が詰まってくるかも知れない。しかしながら更にその逆もあり、計画が詰まっていないと不安になってしまうのも昔の癖が抜けないという事なのだろうか。複雑な気持ちを抱えながら近江八幡を後にした。

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地方の私鉄に関しては書物的な知識が殆どで、昔でいう国鉄路線ばかりを巡っていた私にとってこうした地方の私鉄はいつも新鮮であることは先述通りであるが、特に「古き良き」が健在である場合が多いのは大きな収穫であろう。人によっては「古臭い」などと感じるかも知れないが、逆にいえば先輩たちがリアルタイムで感じていた事を、我々後輩も同じような気持ちで体感できるチャンスでもあるのだ。そうした中での近江鉄道は正にチャンス到来なのである。

貴生川で乗り換える近江鉄道はご覧の通り西武鉄道の車両が主役である。後で調べてみると、近江鉄道は西武グループであることが判明。西武といえばライオンズ。ライオンズといえば・・・西鉄であった事がある意味有名であるが、その後「太平洋クラブ」「クラウンライター」と変遷して現在の西武傘下になったのは、特に若い世代ではご存知であろうか?クラウンライターは確か2年くらいの短命であったが、白とオレンジっぽいユニフォームが当時は斬新で私は好きであった。
さて、歴史を感じる貴生川を出ると、やがて草津線や信楽高原鐵道が早速小さくフェードアウトしていく。失礼ながら乗客は僅少であったが、やはり冒頭で感じたように近江鉄道は風情ある駅がそのまま健在のイメージであったのである意味「いい意味で裏切られた」といったような思いであった。途中、桜川でもその風情っぷりは満載で、思わず降りてしまおうかと思ってしまうくらい昔を感じてしまう駅であった。
そして隣はズバリ「京セラ前」という事で通勤客が多く見込めそうな駅名であるが、京セラといえば、あの人気プロレスラー小橋建太がサラリーマンとして数年勤めていた会社である!この近江鉄道沿線にある京セラにいたかどうかは別として、小橋建太を語る上ではこの京セラは欠かせないキーワードであろう(かどうかは別として・・・)。

ご覧の通り桜川は昭和を感じる風情ある駅である。駅建家にある「アース」は定番のアイテムであろうが、それこそ「水原弘」や「松山容子」が揃っていたらもう文句は無しであろう。
さて、私の旅は「全線制覇」がテーマであるため次の八日市で下車し近江八幡へ向かう。八日市は米原からの列車はそのまま進行方向を変えずに近江八幡方面へ進めるが、貴生川からだとスイッチバックの形をとらなければ進めない配線となっている。八日市から近江八幡までは9.9キロと短いが、駅はかなりリニューアルされているものが多い。その中でも新八日市や太郎坊宮前など風情ある駅も多いのが特徴である。

八日市線や八日市周辺では複雑な変遷があったらしいが、現在の形になったのは1946年らしい。ここで近江八幡方面へ乗り換える。
終点の近江八幡では計画的に昼食タイムを組んであるが、私が想像していた以上に駅周辺は繁栄していた。駅前にある飲食店でしばしの休憩タイム。かつての私の旅ではこうして予め昼食を予定に組み込むなど考えられない事であったので何となく新鮮である。列車がある限り前に進む、計画を詰め込むということに美学を感じていたのだから、やっている本人も当時はやや違和感を感じたほどだ。であるが、やはり年齢を重ねるとこうした余裕をもった旅をしないと逆に息が詰まってくるかも知れない。しかしながら更にその逆もあり、計画が詰まっていないと不安になってしまうのも昔の癖が抜けないという事なのだろうか。複雑な気持ちを抱えながら近江八幡を後にした。

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「青春18」で伊賀の里から近江へ③
2021-10-05
伊賀上野を出ると早速伊賀鉄道の中心であり沿線最大の都市でもある上野市に着く。かつて西名張にあった伊賀線の車両基地がここ上野市に移されますます重要性を高め賑やかになった。ただ、私はその当時はまだ生まれてなかったのであまり実感的なものを感じないが、やはり車庫の無かった当時、そして当時の西名張を体験したくなる。せめて日を改めて廃線跡でも辿りたい気持ちであるが、西名張と言えば当然ながら名張の西に位置するであろう。更に名張といえば、あの名松線の伊勢奥津から延伸予定であった終着駅である。もちろん名松線の「名」の字は名張からチョイスしたものであるが、周知の通り、松阪からのこの区間は完全に近鉄と並走する形となり、国鉄時代からのルートでは当然ながら試合前から決着がついているようなものだ。それ以前に赤字ローカル線廃止候補に挙がった記憶であるが、よく今の時代まで生き延びたものだ。

伊賀上野より伊賀鉄道に乗車。駅名標の表示はJRだが、となりの駅名は伊賀鉄道となっていて何かと複雑。
と話が逸れてしまったが、上野市でのインターバルはたったの4分。どこかの路線バス的な旅番組ではないが、伊賀鉄道を制覇するのが目的である。じっくりと車庫の車両を堪能する時間も余裕もない。ひたすら前に進むのみである。
しかしながらこの上野市前後では「ここは東京か?」と思ってしまうくらいの駅名が続く。「西大手」「広小路」「茅町」など、どこかで聞いたような名前やそれに近い駅名ばかりだ。

やはり「メーテル」っぽい原作者の特徴が現れている特殊メイクの東急車輛。「忍び」にしては目立ちすぎているよねっ!
更に進むと、私の訪問時にはなかったが「四十九」付近を過ぎる。というか、その存在すら知らなかったのであるからむしろ今の四十九は新駅としてのイメージが強い。現在はイオンタウンの最寄駅として使命を果たしているが、2017年の移転復活までの間は、なんと正式廃止の1969年からずっと駅が無かった事になるのだから感慨深い。そして1969年といえば私の生まれた年。もちろん私は四十九駅の生まれ変わりでもなんでも無いのだが、何となく新駅誕生は嬉しい気持ちになる。
やがて列車は利用者ワーストの上林を過ぎ終点の伊賀神戸に着く。すぐ横には近鉄のビスタカーあたりがビュンビュン飛ばしながら通過していく。私の訪問前には駅の改良工事がなされたが、改良前の姿が経験無いためどう変化したのかはわかりづらいのだが、西名張までの廃止路線は全く面影がなく、その存在すら最初から無かったかのようであった。

伊賀神戸では伊賀鉄道は独立したホームより発着する。元々は近鉄であったが、フェンスではっきり仕切られ「全く別会社だよっ!」とアピールしているようだ。
伊賀上野に戻り再びJRで、今度は近江鉄道を目指す。柘植で草津線に乗り換えるのだが、実はこの柘植にくるのも1982年以来で超久々である。当時から変わらぬあの弧を描くホームは健在であつったが、更にここから草津線に乗るのも1982年以来なのでこれからワクワクする。
草津線で貴生川に到着すると、前回の訪問ではここで信楽線(現信楽高原鐵道)に乗り換えたが、今回は「別料金」の近江鉄道に乗り換える。ほぼ昔と変わらぬ風景では久々感を得たが、せっかくレールが繋がっているのであれば、いや、例え繋がっていなくても、草津線も電化されているのだから相互乗り入れ何かも面白いのではと勝手に想像してしまう。機関車牽引式にして信楽高原鐵道との直通運転も面白い。

桃色バージョンもある!私からしたら何となく近鉄らしくないイメージである木造のホーム屋根が健在であるのは意外であった。「今しか見れない鉄道風景」であろうが、是非とも永遠に残して欲しい。
いずれにしても、貴生川は鉄道の要衝であることは間違いない。ただ、駅の雰囲気は既に昭和の香りがする。今回の伊賀鉄道も近江鉄道も予備知識の無いままの参戦であるが、国鉄にはそこそこの知識はあるのに私鉄にはかなり疎い。それは恐らく「時刻表」にあると思う。1980年代の私の愛読書といえば時刻表であったのだが、例えば交通公社の時刻表では「国鉄監修」のためか、大手私鉄でさえ巻末付近の始発と終電くらいしか掲載されていない。むしろ地方私鉄の方が全列車掲載されていたりするのだが、第三セクターの一部路線のように国鉄(JR)と同じページなどに掲載されておらず、むしろ地味なイメージになってしまっているためページを開くタイミングが少なかった気がする。もちろんそれは時刻表に限ってのイメージかも知れないが、現在のようにインターネットなどで簡単に情報を得ることができなかったため、いわゆる知識不足が現在に至っているのである。特に関西方面の大手私鉄に至っては近年に得た情報が多いため昔からの馴染み深さが薄い。そのような事からJRと私鉄の格差が私の中ではできてしまっている。

柘植はこの弧を描く独特のホームが特徴的。昔と変わらぬ風景が実に素晴らしい。
2007年以降にJRのみならず私鉄を含む鉄道路線全線制覇を決意してからその格差が徐々に埋まっていくのが自分の中では面白い。こうしてかつての空白も埋まっていくのだなとの実感しながら未知の路線に挑むのも悪くない。
近江鉄道の時刻表は確認してあるが、基本的にどこの駅にどのような特徴があるとかは全くわからない。とはいえ、行き当たりバッタリで新たな発見をするのもいいではないか。とりあえず今回の目的は制覇にある。まずは八日市で乗り換え近江八幡に行けばいいではないか。などと呑気にロングシートに腰を掛けたら、この先にはとんでもない風景が待っていた。

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伊賀上野より伊賀鉄道に乗車。駅名標の表示はJRだが、となりの駅名は伊賀鉄道となっていて何かと複雑。
と話が逸れてしまったが、上野市でのインターバルはたったの4分。どこかの路線バス的な旅番組ではないが、伊賀鉄道を制覇するのが目的である。じっくりと車庫の車両を堪能する時間も余裕もない。ひたすら前に進むのみである。
しかしながらこの上野市前後では「ここは東京か?」と思ってしまうくらいの駅名が続く。「西大手」「広小路」「茅町」など、どこかで聞いたような名前やそれに近い駅名ばかりだ。

やはり「メーテル」っぽい原作者の特徴が現れている特殊メイクの東急車輛。「忍び」にしては目立ちすぎているよねっ!
更に進むと、私の訪問時にはなかったが「四十九」付近を過ぎる。というか、その存在すら知らなかったのであるからむしろ今の四十九は新駅としてのイメージが強い。現在はイオンタウンの最寄駅として使命を果たしているが、2017年の移転復活までの間は、なんと正式廃止の1969年からずっと駅が無かった事になるのだから感慨深い。そして1969年といえば私の生まれた年。もちろん私は四十九駅の生まれ変わりでもなんでも無いのだが、何となく新駅誕生は嬉しい気持ちになる。
やがて列車は利用者ワーストの上林を過ぎ終点の伊賀神戸に着く。すぐ横には近鉄のビスタカーあたりがビュンビュン飛ばしながら通過していく。私の訪問前には駅の改良工事がなされたが、改良前の姿が経験無いためどう変化したのかはわかりづらいのだが、西名張までの廃止路線は全く面影がなく、その存在すら最初から無かったかのようであった。

伊賀神戸では伊賀鉄道は独立したホームより発着する。元々は近鉄であったが、フェンスではっきり仕切られ「全く別会社だよっ!」とアピールしているようだ。
伊賀上野に戻り再びJRで、今度は近江鉄道を目指す。柘植で草津線に乗り換えるのだが、実はこの柘植にくるのも1982年以来で超久々である。当時から変わらぬあの弧を描くホームは健在であつったが、更にここから草津線に乗るのも1982年以来なのでこれからワクワクする。
草津線で貴生川に到着すると、前回の訪問ではここで信楽線(現信楽高原鐵道)に乗り換えたが、今回は「別料金」の近江鉄道に乗り換える。ほぼ昔と変わらぬ風景では久々感を得たが、せっかくレールが繋がっているのであれば、いや、例え繋がっていなくても、草津線も電化されているのだから相互乗り入れ何かも面白いのではと勝手に想像してしまう。機関車牽引式にして信楽高原鐵道との直通運転も面白い。

桃色バージョンもある!私からしたら何となく近鉄らしくないイメージである木造のホーム屋根が健在であるのは意外であった。「今しか見れない鉄道風景」であろうが、是非とも永遠に残して欲しい。
いずれにしても、貴生川は鉄道の要衝であることは間違いない。ただ、駅の雰囲気は既に昭和の香りがする。今回の伊賀鉄道も近江鉄道も予備知識の無いままの参戦であるが、国鉄にはそこそこの知識はあるのに私鉄にはかなり疎い。それは恐らく「時刻表」にあると思う。1980年代の私の愛読書といえば時刻表であったのだが、例えば交通公社の時刻表では「国鉄監修」のためか、大手私鉄でさえ巻末付近の始発と終電くらいしか掲載されていない。むしろ地方私鉄の方が全列車掲載されていたりするのだが、第三セクターの一部路線のように国鉄(JR)と同じページなどに掲載されておらず、むしろ地味なイメージになってしまっているためページを開くタイミングが少なかった気がする。もちろんそれは時刻表に限ってのイメージかも知れないが、現在のようにインターネットなどで簡単に情報を得ることができなかったため、いわゆる知識不足が現在に至っているのである。特に関西方面の大手私鉄に至っては近年に得た情報が多いため昔からの馴染み深さが薄い。そのような事からJRと私鉄の格差が私の中ではできてしまっている。

柘植はこの弧を描く独特のホームが特徴的。昔と変わらぬ風景が実に素晴らしい。
2007年以降にJRのみならず私鉄を含む鉄道路線全線制覇を決意してからその格差が徐々に埋まっていくのが自分の中では面白い。こうしてかつての空白も埋まっていくのだなとの実感しながら未知の路線に挑むのも悪くない。
近江鉄道の時刻表は確認してあるが、基本的にどこの駅にどのような特徴があるとかは全くわからない。とはいえ、行き当たりバッタリで新たな発見をするのもいいではないか。とりあえず今回の目的は制覇にある。まずは八日市で乗り換え近江八幡に行けばいいではないか。などと呑気にロングシートに腰を掛けたら、この先にはとんでもない風景が待っていた。

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