蝦夷からアイヌへ、アゲイン 広尾線④ 愛国
2022-02-25

一大ブームを巻き起こした元祖・縁起切符の「愛の国から幸福へ」でお馴染みの愛国であるが、昭和生まれの方なら一度は耳にした事があるであろう。ただ、私でさえ小学校低学年であった記憶のため、むしろ私より先輩方のほうがより深く体験している事と思われる。
ただ、愛国も後述する幸福も、どちらも無人駅だったので、切符などの販売・管理は隣の大正が行っていた記憶だ。ただ、その大正も「たいそう幸福」という怪しい文句でブームに便乗していたという記憶はあるが、私の知る限りではバイプレーヤー的な位置での活躍しか記憶に無い。

それはともかく、現在も残る愛国の駅舎であるが、実はそのブームによる恩恵で1978年頃に立て替えられたものである。もちろん何度もメンテナンスや改良もなされたと思われるが、あのモダンな駅舎は当時の象徴として現在まで残されている。
愛国の現役時代の利用者は、乗車人員のみでカウントすると1日平均700人を超えており、沿線の人口などを考えたらまずあり得ない数値であるため如何にブームが凄かったかが伺える。

これが愛国の駅舎であるが、何と殆ど国鉄時代のまま残されていた。というより、今の時代でも古さを感じさせないのは縁起切符のお陰で国鉄時代に駅舎を建て替えたからであるが、昭和50年代でこれだけの設計がなされたのは相当の衝撃であったろう。
という事で「赤字ローカル線」という単語も恐らくこの頃からブームになった記憶であるが、やはりブームは一時的なもので根本的な赤字解消の決定打となったわけではなく、その後広尾線自体も廃止されてしまった。そして愛国と幸福の両駅もこの世から姿を消したのであった。
ただ、公式には姿を消したが、観光用として現在もご覧のように駅舎自体は保存されているのでこうしていつでも会いに来る事が出来る訳だ。こうした昭和の記憶を新しい世代に少しでも体感してもらえたら実に嬉しい。特に「国鉄」という単語を!


そしてホームへ出てみるとご覧の機関車がお出迎えしてくれた。ただ、私の知る時代はDCだったので絵的にはややアンマッチに感じるが、それでも雰囲気充分!
さて、ブームとは別の視点から見た場合の愛国であるが、ブーム以前は列車交換が出来る2面2線の駅であった。しかしながら私の知る愛国は既に棒線化され交換設備は外されていたが、レールは側線的なイメージで残っていた。その名残を現在でも感じる広い構内は、地元の幼稚園児などのちょっとしたお出かけ的な行動には持ってこいの場所になっている。
後述する幸福ほどの派手さはないが、今でもあの当時を思い出させてくれる愛国であるが、これからも憩いの場として第二の人生を送っていただきたい。私は見守る事しかできないが…

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蝦夷からアイヌへ・アゲイン 広尾線 ③忠類
2022-02-20

帯広から約50kmくらいに位置する忠類で遺構が残されていたのは今回の旅の出発直前くらいに知った。ある意味意外でもあったが、駅舎もほぼ現役時代に近い形で残されており、国鉄時代の勇姿を彷彿させるような佇まいだ。広尾線と日高本線を襟裳経由で繋いで列車を走らせる壮大な夢は既に葬り去られているが、もし実現していたらここ忠類はまた違った立ち位置になっていたであろう。
「廃止時点では一面一線の駅であった」「かつては交換設備があった」とウィキに記されていたが、確かに愛国、更別、忠類、豊似はかつて交換駅であった。だが、列車本数減少とともに列車交換機能を外している。ただ、ホームは無いものの、レールは残されていた駅が殆どであったので、襟裳方面への期待をまだまだ捨ててなかったのであろうか。いずれにしても、北海道でよく聞く炭鉱路線のカラーは見当たらず、純粋に襟裳経由で結んで物資輸送を目的に敷かれた鉄道である。
忠類は大樹や広尾に比べるとやや小さい集落となるが、現役当時は駅員も配置されており広尾線の中では要衝駅のひとつとして機能していたイメージであった。

「交通公園」として現在も残る忠類。国鉄末期では交換設備が外されていたが、SL時代では多くの列車が行き来していた事であろう。




そしてこちらはプラットホーム側からの駅舎風景。広尾線廃止時に忠類村(当時)が忠類駅を買い取ったとウィキに記載されていたが、老朽化のため壊してしまう案が可決したらしい。しかし住民の猛反対を受け規模を縮小し現在に至るとも記されていた。ご覧の通りSL時代を彷彿させるよな風景は、世代が変われど沿線住民の「広尾線愛」が無言で伝わってくる。




現役時代とほぼ変わらないレールの位置であろうが、上りホームがあったであろう位置の左側にもう一本側線があった。その名残も感じる事が出来るのが素晴らしい。旧・上りホームに接していたであろう側線には、現在ご覧の車両が停泊しているが、1980年代には既に上りホームは撤去されていた。

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蝦夷からアイヌへ・アゲイン 広尾線② 広尾
2022-02-15

東京ではなくても広尾はある!そう教えてくれたのが北海道にあった国鉄広尾線の終点、広尾であった。いや、実際はその逆で、例えばコロタン文庫の「駅名全百科」や「国鉄全線全駅」などを隈無く読むのが好きだった小学生の頃の私が北海道は広尾線の終点・広尾を知らないわけが無く、日比谷線にも広尾があるんだ!と当時子供ながらに得した気分になっていた。
親戚が東京の三ノ輪にある事もあり、子供の頃よくひとりで日比谷線に乗り親戚宅へお邪魔していた。小学校2~3年生くらいの子供が神奈川県からやって来る、しかも迷わずに指定の駅に到着する事自体最初は驚いていた叔父や叔母も既に他界してしまったが、今となってはいい思い出になっている。

現役当時のまま残っていた旧・広尾駅舎。JRバスと十勝バスのターミナルとなっていて駅舎は待合室として使われていたが、残念ながら私の訪問した直後くらいから解体工事が始まり、現在は新しい建物で再スタートを切っている。
最初は東海道線~山手線で御徒町で乗り換え仲御徒町で日比谷線に乗り換えるパターンで仲御徒町に叔父などが迎えにくるパターンであったが、年齢と共に上野で乗り換えたり、更に小田急で千代田線直通の列車を厚木より乗り大手町から日比谷線に乗り換え三ノ輪に行くなど、私の訪問旅は常に進化してきた。感動したのが小田急の5000系が地下に潜っていく姿であった。こんな事があればもちろん千代田線も気になる存在になっていくわけであるが、その件に関してはまた別の機会に枠を設けよう。だが、上野や大手町、たまに国会議事堂前とかから三ノ輪までしか乗車できない日比谷線にやや限界を感じる自分が常にあった。ならばと北千住はもちろん、もっと西方面に乗るためにわざわざ相鉄~東横のパターンで中目黒乗り換えで三ノ輪に向かうというパターンも身に付け「マッコウクジラ」に乗り日比谷線全線を乗車した際に初めて広尾を通過した時は子供ながらに「北海道にもあるぞ~」と心でつぶやきながら実にワクワクしていたものだ。



駅舎内に入ってみた。ご覧の通り現役時代を彷彿させる風景であったのだが、私は訪問当時この駅舎が解体され新しくなるという情報を持っていなかったので、事実上国鉄時代を体感できる最後の訪問となった。虫の知らせか神の導きか・・・貴重な体験をありがとう!
と、全く別の広尾でひとり盛り上がってしまったが、いつか広尾線に乗ってみたいなと日比谷線の広尾を見ながらいつも思っていた。特に広尾から先、襟裳へ向かう風景はどうなっているのだろうと、勉強よりもそちらのほうが重要な小学生であった。
残念ながら現役時代に訪問する事は叶わなかったが、今回はレンタカーという形でそんな昔の思いを実現させた感じであったのである。だが、やはり現役時代に訪問してみたかったのが正直な気持ちである。

当時レールがあった場所はご覧の通り駐車場にかわってしまったが、往年の風景が蘇ってくるイメージがまだ残っている。
既に大樹は紹介しているが、かなり現役時代に近い形で残っており、広尾線という鉄道路線の歴史があった事を改めて感じることができたのがなによりの収穫だったろう。そして訪問当時は国鉄時代に近い形で大樹の駅舎にそっくりな駅舎が残っており、路線バスの待合室兼案内所の役割をしていた。


広尾から襟裳経由で様似までレールを繋ぐ昭和の夢は消え去ってしまったが、路線バスは現在でも繋がっている。もちろん帯広方面へも広尾線の役割を現在も残す形でバスが繋がっている。近年では某バス旅番組で苫小牧から襟裳を経由して広尾、帯広と乗り継ぐシーンが放送されたが、やはり列車の車窓からその景色を見る事ができたら、それはこの上ない格別な贅沢であろうと感じてしまう風景であった。
ウィキにも記されているが、国鉄時代では「最長片道切符」の終点・起点として有名であり、私の世代ではカリスマ的存在の宮脇俊三氏の著書「最長片道切符の旅」では始発駅として登場する事はあまりにもメジャーである。確かこの著書では都内の電車(を宮脇氏は国電と表現。実に懐かしい響き!)に乗る際にはお子様を連れての乗車シーンも記されており(記憶違いだったらごめんなさい!⇒「時刻表2万キロ」だと思います。「用があっても乗りたくない国電に、用も無いのに乗るなんて・・・の表現が素晴らしい!)実に微笑ましい著書の印象であった。平成を過ぎ令和になった現在「最長片道切符」の終・起点はどの駅なのであろう・・・

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蝦夷からアイヌへ・アゲイン 広尾線 ①プロローグ
2022-02-10
以前に紹介した2017年に訪問した北海道の駅めぐりであるが、まだまだ紹介していない駅が実はたくさんある。今回はその蔵出しバージョンでいくつかの駅を紹介してみよう。
今回の蔵出しは1987年に廃線となった広尾線の駅をランダムに巡った時の模様である。前回は大樹のみを紹介したが、実は愛国、幸福、忠類、広尾も訪問している。今回はその4駅訪問を紹介するが、そのうち幸福は、特に私の世代では愛国と共に一世を風靡した超メジャーな駅として一般にも知られている存在であった。

かつて一大ブームを巻き起こした切符「愛の国から幸福へ」の愛の国である旧・愛国駅。現在でもこうして保存されているという事が嬉しい。
1983年に初めて北海道への上陸となった私であるが、当時は「いい旅チャレンジ20000km」がブームとなっており、私もその波に乗り全国を駆け巡った事は何度もこのブログで紹介してきた。ただ、効率良く乗り潰すには日高本線~日勝バス~広尾線、士幌線というパターンでどうしてもひとつのグループで組み込みたい気持ちがあった。だが、列車本数などの関係からなかなか自分の理想とする計画ができなかったのは自身の能力の無さと未熟な部分も当然ながらあり、なかなか乗り潰し泣かせのグループとして私の前にそびえ立っていた。

現在はJRバスと十勝バスのターミナルとなっている旧・広尾駅。ホームやレールがあった場所は駐車場になっているものの、現役当時の雰囲気が充分に味わえる。
近年では日高本線~日勝バス~広尾線のパターンを某路線バス旅番組で例の「黄金タッグ」が実践しており、現役時代の様似やバス営業所として旧広尾駅も登場しているのを視ると、やはり国鉄時代に経験しておきたかったとつくづく思う。
しかし鉄道としては廃止されても広尾線はその遺構の数々が多く残されているのも特徴であろう。
今回の訪問は鉄道ではなくレンタカーでの訪問となったが、それでも未成線の、いや、計画で終わってしまった日勝線は、鉄道車両から見る車窓が実現していたらもっと素晴らしかったろうなと唸らせる内容であった。

忠類ではホームやレールも残っていた!近年では帯広まで高速道路も開通して付近には道の駅も出来たが、こちら「鉄道の駅」は何ともノスタルジックな趣きで私を迎えてくれた。
広尾線と日高本線がレールで繋がっていたら、当然ながら特急又は急行が襟裳に向けて走っていたであろう。特に広尾や大樹は街も賑やかだし特急や急行は絶対に停車していたであろうし、更にその先庶野、襟裳、様似、浦河、静内と停車すれば実に頼もしい列車となっていたかも知れない。胸踊らせながら現地で取材していたが、そんなワクワク感が少しでも伝わったら嬉しさを感じずにはいられない!的な思いである。

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今回の蔵出しは1987年に廃線となった広尾線の駅をランダムに巡った時の模様である。前回は大樹のみを紹介したが、実は愛国、幸福、忠類、広尾も訪問している。今回はその4駅訪問を紹介するが、そのうち幸福は、特に私の世代では愛国と共に一世を風靡した超メジャーな駅として一般にも知られている存在であった。

かつて一大ブームを巻き起こした切符「愛の国から幸福へ」の愛の国である旧・愛国駅。現在でもこうして保存されているという事が嬉しい。
1983年に初めて北海道への上陸となった私であるが、当時は「いい旅チャレンジ20000km」がブームとなっており、私もその波に乗り全国を駆け巡った事は何度もこのブログで紹介してきた。ただ、効率良く乗り潰すには日高本線~日勝バス~広尾線、士幌線というパターンでどうしてもひとつのグループで組み込みたい気持ちがあった。だが、列車本数などの関係からなかなか自分の理想とする計画ができなかったのは自身の能力の無さと未熟な部分も当然ながらあり、なかなか乗り潰し泣かせのグループとして私の前にそびえ立っていた。

現在はJRバスと十勝バスのターミナルとなっている旧・広尾駅。ホームやレールがあった場所は駐車場になっているものの、現役当時の雰囲気が充分に味わえる。
近年では日高本線~日勝バス~広尾線のパターンを某路線バス旅番組で例の「黄金タッグ」が実践しており、現役時代の様似やバス営業所として旧広尾駅も登場しているのを視ると、やはり国鉄時代に経験しておきたかったとつくづく思う。
しかし鉄道としては廃止されても広尾線はその遺構の数々が多く残されているのも特徴であろう。
今回の訪問は鉄道ではなくレンタカーでの訪問となったが、それでも未成線の、いや、計画で終わってしまった日勝線は、鉄道車両から見る車窓が実現していたらもっと素晴らしかったろうなと唸らせる内容であった。

忠類ではホームやレールも残っていた!近年では帯広まで高速道路も開通して付近には道の駅も出来たが、こちら「鉄道の駅」は何ともノスタルジックな趣きで私を迎えてくれた。
広尾線と日高本線がレールで繋がっていたら、当然ながら特急又は急行が襟裳に向けて走っていたであろう。特に広尾や大樹は街も賑やかだし特急や急行は絶対に停車していたであろうし、更にその先庶野、襟裳、様似、浦河、静内と停車すれば実に頼もしい列車となっていたかも知れない。胸踊らせながら現地で取材していたが、そんなワクワク感が少しでも伝わったら嬉しさを感じずにはいられない!的な思いである。

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SWS(相模線の、私の記憶に残る、車両たち) ⑰南橋本
2022-02-05

いよいよこのシリーズの千秋楽である南橋本。あえて起点の茅ヶ崎と終点の橋本は外し別の機会に紹介する事にした今回の相模線巡りであったが、ある意味南橋本で終えるのも私らしいであろうか。
ここ南橋本は原当麻と同じく非電化時代からかなり激変した駅のひとつである。周囲は工場等に囲まれ北茅ヶ崎的なイメージもあったが、現在は立派な橋上駅舎に生まれ変わりロータリーも出現。工場のいくつかはマンション等に変わり引き込み線なども撤去された。北茅ヶ崎と比べたらかなり派手なイメージであるが、意外にも日中はゆったり的な時間が流れているイメージが強い。
駅前、そして周囲にも商業施設が増え賑やかであるが、なぜか南橋本駅だけは時間が止まったかのような空間に感じた。


ご覧の通り立派な橋上駅舎に生まれ変わった南橋本。駅周辺では現在も工場などの施設は残っているものの、住宅などが俄然増えた。かつては貨物側線だった場所までマンションが迫る勢いだ。
かつて横浜線が部分的に単線だった頃,、橋本は相模線ホームが1面1線しかなく現在の3番線が相模線専用ホームであった。横浜線が全線複線化された頃に相模線ホームが増設され現在の形になったが、更にその後京王線も乗り入れるようになり利用者が急増したことであろう。であるから南橋本の交換設備も活かされると思われる。そう、終点の橋本も激変したのである。
京王線の橋本から先の延伸計画というか構想ではそのまま西に向かい小倉橋付近を通り津久井方面の三ケ木(みかげ)辺りまで考えていたようだが、恐らく具現化しないであろう。

切符売り場もシンプルになったが、近年のSuicaなどの普及により「切符を買う」という行為自体が少なくなったのだろう。かつては3台あったと思われる券売機の一部スペースが覆われている事だけでも時代の変化を無言で語りかけてるようだ。
ところで北茅ヶ崎より北に向かい各駅の205系のいる風景を紹介してきたが、気付いたら厚木以北の歴史が新しい区間ほど改良の度合いが高いイメージであった。むしろ茅ヶ崎~厚木間の方が改良されてはいるものの、昔の面影を遺す場所が多い。寒川は別として、その他の駅は非電化時代の私が子供の頃に見た風景とさほど変わらない。昔からの風景が今もそこにあるということはある意味貴重であろう。
車両が更新される事でまたひとつ新しい風景が増えると共に現在の風景が過去のものになろうとしているわけであるが、非電化時代からの変化が自身の記憶に残っている私は、ある意味贅沢な経験をしたのかも知れない。



今まで当たり前だった205系の列車交換風景もそろそろ当たり前ではなくなってくる時間がやってくる。今後は「E」の付くJR車両がレギュラーとなる。

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