熊に逢ったらどうするか・アゲイン <プロローグ>
2022-04-29
前回の「蝦夷からアイヌへ」に引き続き、2014年に訪問した北海道の旅「熊に逢ったらどうするか」にてもまだまだ紹介していない駅があったので蔵出しバージョンで紹介してみよう。

国鉄池北線から引き継いたふるさと銀河線の陸別では現在も列車が走る。道の駅+鉄道の駅として第二の人生を送っているが、もちろん鉄道は観光用としての運営であり、池田や北見へは路線バスを利用しなければならない。
今回は石北本線と、廃止された湧網線と池北線(ふるさと銀河線)の一部を紹介してみたいと思うのだが、池北線はともかく、湧網線においては若い世代では馴染みの無い単語であろう。国鉄時代には赤字路線のワーストとして常連であったが、特に冬季にはオホーツクを臨む車窓は圧巻で、名寄本線とともにレールファンの間では有名な路線であったと思う。
湧網線とは中湧別と網走を結んでいた路線であり、中湧別で連絡する名寄本線の湧別支線と一体で運用され湧別支線イコール湧網線のイメージがあった。中湧別で湧網線と名寄本線の連携がものすごく悪く、乗り潰し泣かせの印象が深い路線であったが、名寄本線と石北本線では連携が良かった印象で、夜行急行「大雪」の下り列車で未明の遠軽に着くと、遠軽始発で名寄本線に接続しており非常に計画が組みやすかったが、実践する事は出来かなかった。ただ、この夜行列車から名寄本線で中湧別に着いても湧網線との連絡が悪く、運転本数の少ない北海道の乗りつぶし計画は相当頭をひねらなければならない印象であった。

湧網線の計呂地は予想外の保存状態であった。湧網線とは素敵なネーミングであるが、その名の通り、冬季に眺めるオホーツクの車窓は抜群であった。
また池北線であるが、かつては北見、網走方面へのルートとして高速化案も出ていた。しかしながら実現には至らなかったが、帯広から北見、網走と特急を走らせればそれなりに需要が見込めたかも知れない雰囲気もある。恐らく国鉄も本気で考えていたかも知れないが、いずれにしても山越えが待っているのでレールを敷くにはかなりの技術を必要とするという事である。もちろんそれはSL時代の話であるから、石勝線のような技術やノウハウが揃う前の事であるため先代の方は相当の苦労をなされた事であろう。
今回の池北線巡りは時間の制約から巡った駅はそう多くないが、限られた時間の中でかなり私の思いを多く詰め込んだ計画となった。途中の足寄から西にスライドして士幌線を巡るという、鉄道では絶対にできなかった事ができたため非常に未知との遭遇的出会いもあった。足寄から西方面へは鉄道敷設法の計画線に「足寄~士幌(上士幌?)」の区間があって、白糠~北進~足寄の路線と新得~士幌の路線をつないで根室本線のバイパス計画もあったほどであるが、肝心の帯広を通らないため計画が頓挫したと思われる。ただ、私の通ったルートは足寄から黒石平に抜けるルートであったので、更に未知なるルートであり秘境度が増していた印象でもあった。
既に今回の旅の紹介は80%くらい終了していてこのブログの過去記事にてその様子をご覧いただけるが、今回はその続編という事で、北海道への私の思いが更に皆様に伝われば幸いであろう。

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国鉄池北線から引き継いたふるさと銀河線の陸別では現在も列車が走る。道の駅+鉄道の駅として第二の人生を送っているが、もちろん鉄道は観光用としての運営であり、池田や北見へは路線バスを利用しなければならない。
今回は石北本線と、廃止された湧網線と池北線(ふるさと銀河線)の一部を紹介してみたいと思うのだが、池北線はともかく、湧網線においては若い世代では馴染みの無い単語であろう。国鉄時代には赤字路線のワーストとして常連であったが、特に冬季にはオホーツクを臨む車窓は圧巻で、名寄本線とともにレールファンの間では有名な路線であったと思う。
湧網線とは中湧別と網走を結んでいた路線であり、中湧別で連絡する名寄本線の湧別支線と一体で運用され湧別支線イコール湧網線のイメージがあった。中湧別で湧網線と名寄本線の連携がものすごく悪く、乗り潰し泣かせの印象が深い路線であったが、名寄本線と石北本線では連携が良かった印象で、夜行急行「大雪」の下り列車で未明の遠軽に着くと、遠軽始発で名寄本線に接続しており非常に計画が組みやすかったが、実践する事は出来かなかった。ただ、この夜行列車から名寄本線で中湧別に着いても湧網線との連絡が悪く、運転本数の少ない北海道の乗りつぶし計画は相当頭をひねらなければならない印象であった。

湧網線の計呂地は予想外の保存状態であった。湧網線とは素敵なネーミングであるが、その名の通り、冬季に眺めるオホーツクの車窓は抜群であった。
また池北線であるが、かつては北見、網走方面へのルートとして高速化案も出ていた。しかしながら実現には至らなかったが、帯広から北見、網走と特急を走らせればそれなりに需要が見込めたかも知れない雰囲気もある。恐らく国鉄も本気で考えていたかも知れないが、いずれにしても山越えが待っているのでレールを敷くにはかなりの技術を必要とするという事である。もちろんそれはSL時代の話であるから、石勝線のような技術やノウハウが揃う前の事であるため先代の方は相当の苦労をなされた事であろう。
今回の池北線巡りは時間の制約から巡った駅はそう多くないが、限られた時間の中でかなり私の思いを多く詰め込んだ計画となった。途中の足寄から西にスライドして士幌線を巡るという、鉄道では絶対にできなかった事ができたため非常に未知との遭遇的出会いもあった。足寄から西方面へは鉄道敷設法の計画線に「足寄~士幌(上士幌?)」の区間があって、白糠~北進~足寄の路線と新得~士幌の路線をつないで根室本線のバイパス計画もあったほどであるが、肝心の帯広を通らないため計画が頓挫したと思われる。ただ、私の通ったルートは足寄から黒石平に抜けるルートであったので、更に未知なるルートであり秘境度が増していた印象でもあった。
既に今回の旅の紹介は80%くらい終了していてこのブログの過去記事にてその様子をご覧いただけるが、今回はその続編という事で、北海道への私の思いが更に皆様に伝われば幸いであろう。

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蝦夷からアイヌへ・アゲイン 深名線④ 北母子里
2022-04-23

朱鞠内はオブジェが残るのみとなってしまった。ここより湖畔へ向かいたかったのだが、時間の制約と湖畔から先の訪問が困難な雰囲気であったので、今回は広い道路を使い北母子里へ向かう事にした。
かつて列車交換が出来た駅であった北母子里であるが、現在もその痕跡があると聞いて訪問してみた。本当は湖畔や白樺、そして蕗ノ台への訪問を計画していたが、特に白樺や蕗ノ台は通じる道路が閉鎖されている可能性があったので断念。その代わりと言ってはなんだが、痕跡が残ると聞いていた北母子里へチャレンジしてみた。結果は・・・「桜、散る」であった。いや、厳密に言えば「桜、咲く」であったのだが、万字同様に、とにかく自然の猛威には敵わない。
そこはNTTか何かの電波中継点になっていたが、確かにホームなどの残骸はあったろう。しかしながらその場所は6月という事でジャングルになっていた。時間が押し迫っている事もあったが、流石にその場で草刈りをする勇気も無く、見事に退散してしまったのであった。ただ、国鉄時代では列車交換ができたので、駅舎は無くとも名残だけでも確認したかった。残念ながら、目の前にして夢は叶わなかったが、駅周辺の雰囲気や風景を確認できただけでも良かったのであろう。
もちろん、グーグルのストリートビューなどでも確認できるが、やはり肉眼での感覚は一際違うであろう。中途半場な訪問に終ってしまったが、それでも別の意味で達成感もあり、充実した時間となった。
やはり物資輸送なくして深名線は成り立たないと改めて感じた一巻でもあった。





鉄道ブログに関する画像にしては程遠い絵になってしまったが、こちらがかつての北母子里「駅」であった場所だ。この設備の向こう側にホームなどの跡があると聞いていたが、私はその向こう側に進む勇気が無かった。一般的に考えたら間違いなく「怪しい人」と思われてしまう私の行動であろうが、やはり怪しい行動をしてもホームを確認するべきであったか・・・

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蝦夷からアイヌへ、アゲイン 深名線② 添牛内
2022-04-16

晩年には超過疎化地帯を走っていた深名線であるが、それでもちゃんと利用者がいらっしゃったのだから、沿線住民にとってみれば貴重な交通機関であったのだ。
私は深名線の現役時代には乗ることができなかったが、今回の旅では鉄道以外での訪問によりこの地を訪れる事ができた。本当は時間がもっとあれば朱鞠内より先の湖畔や蕗ノ台など、冬期には消えてしまう駅にぜひ足を運んでみたかった。特に湖畔は国鉄時代には仮駅だったので一般の時刻表には掲載されていない「隠れキャラ」だったので俄然興味があった。ただ現在は痕跡がほとんど残ってないのと、白樺や蕗ノ台に関しては通じる道路が狭い事や途中で通行止めになっている場合があると聞いていたので訪問を断念した。しかしながら最近になって、例え痕跡がなくとも湖畔は通行止めなども無く道も広いので近い将来には必ず会いに行きたいと思うようになってきた。


深名線が廃止され20年以上経過しているが、現在も駅へ通じる道は健在である。その道の先に待っていたのはご覧の建築物であった。豪雪地帯の駅舎には「男の勲章」がしっかりと刻み込まれていた。泣きたくなるような辛い時もあるけど、いつも駅舎は耐えてきた事であろう。時の重さに流されそうになった時でも・・・
蕗ノ台や白樺は国鉄時代は時刻表に掲載されていたが、特に湖畔は仮駅であり超隠れキャラだったのでその思いも一際だ。私が行くまでぜひ待っててもらいたい。
ただ、今回の旅では天北線の山軽へも出向いたが、やはり熊との共存は私の好みではなく、あくまで鉄道と共存するのが使命である。したがって、湖畔などの訪問の際は最も注意を促す最重要事項であろう。

添牛内に着く前に政和温泉付近にある幌加内町の道の駅に立ち寄った。その際に近くにあった深名線の痕跡を発見!できればもっと接近したかったが、雨天であったのと、スケジュールの詰まり具合から接近を断念。というより、接近するのにはそんなに時間がかからないのでやはり接近すれば良かったと後悔の念・・・
ところで今回紹介する添牛内であるが、個人などの支援により現在もその姿をとどめている。レールこそ無いものの、ホームや駅舎は現役時代とほとんど変わらなく健在である。
深名線の要衝駅であった幌加内は不審火により消失してしまったが、こうして深名線の駅がひとつでもあると、そこに鉄道の歴史があったという証になり安心材料にもなる。朱鞠内のようにレプリカ的なものも悪くはないが、やはりこうした古い木造駅舎を目の当たりにすると深名線の歴史を、そして自らのレールファンとしての歴史を感じずにはいられなくなる。



プラットホームも健在であった。先に紹介した沼牛に似たような風景が広がる。「ナイ」「ウシ」「べつ(ペツ)」などの地名を聞くと北海道らしいと感じてしまうが、まさに深名線はそのような駅名が多い。
私の感覚では深名線は「赤字ワーストのローカル線」的なイメージしかないが、かつては、特に深川寄りではかなりの利用者があり、それなりに鉄道らしい風景が続いていたのだ。
とは言うものの、先述の白樺や蕗ノ台などでは全盛期でも付近の集落は鉄道の運営に多大な影響を及ぼすほどの人口ではなかったので、旅客営業のみの運営はまず考えられないであろう。だが、開拓部落の方々にとってはなくてはならない移動手段だったに違いない。特に冬期には閉鎖される道路も少なくなかったはずだ。
しかしながら過疎化と利用者減少はエネルギー革命以降顕著化しており、木材や石炭などの貨物物資が衰退してしまっては、もはや慈善事業的な運営以外に深名線維持の方法が見つからない。更に過疎化が進行してしまっては打つ手無しであろう。

プラットホーム側からの駅舎展望。「展望」というほど遠くからの眺めではないが、そこに見えたのは「国鉄」であった。JR時代にも深名線は活躍したが、逆にJRしか知らない世代に国鉄を感じてもらう貴重な資料であろう。
鉄道敷設には時間と計画性、そして計算が必要以上に必要となり、かなり先を見越して敷設しないと開通の頃にはタイムラグが発生してしまい無駄になる場合も少なくない。特に青函トンネルでは開通する頃には既に飛行機等が台頭し、更に新幹線も敷設が遅れ在来線でのスタートとなった。現在は新幹線も通るようになったが、在来貨物列車との共存がネックとなり新幹線のスピードアップに支障が出ている。三線軌条で複線という当初の設計では現在の我々の要求には答えられない構造になっている。つまり時代に合っていないのだ。「第二青函トンネル」の案もでているが、そのトンネルが開通する頃には世の中の情勢がどうなっているのであろうか。また、現在の青函トンネルも寿命を迎えるなど様々な問題がで来るはずだ。
青函トンネルに比べ規模は小さいながら本来は「名羽線」であった朱鞠内~名寄間は結局築別~朱鞠内も石炭の衰退により未成線に終ってしまった。羽幌炭鉱が全盛期の時代に開通していたらまた違った運命をたどっていたかも知れない。

添牛内の「駅前一等地」ではこうした風景が展開されている。私のような神奈川県民などが想像する駅前とはかなりイメージが異なるが、それでも厳しい自然と戦いながら人の営みがあると思うと、なんだか人のたくましさを感じずにいられなくなる。
かつては開拓部落の人たちにとって無くてはならない鉄道路線であったはずだ。添牛内の駅舎に刻み込まれた数々の傷跡は、先人の方達を雪や風から守り、開拓への情熱が刻み込まれた証であろう。胸打たれた私の目には、いつしか駅舎の姿が滲み、雨降りしきる駅前一等地に立ちすくんでいた。やがて雨を遮り車のドアを開ける私は雨以外の何かで濡れた目を拭っていた。

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蝦夷からアイヌへ、アゲイン 深名線① 沼牛
2022-04-09

深名線と言えば泣く子も黙る赤字ローカル線のワースト常連であり国鉄時代には美幸線等と共に1、2を争った事もある路線であるが、JRになってからも沿線道路未整備ということで90年代まで生き残った数少ないレアな路線であったのは周知の通りであろう。
全線通して直通運転する列車は無く、必ず朱鞠内で乗り換えが発生するのは豪雪地帯を走るためダイヤが乱れるのを防ぐためという公式の理由であったが、実際はどうなのであろうか。
しかしながら沿線人口がどんどん減少し、もともと希少だったと思われる沿線人口が更に減っていくのだから、旅客だけで銭儲けをするには至難の技であろう。

2017年時点で健在であった沼牛駅舎。廃止年月が1995年であるから、私から見たら比較的新しい部類に入る。1980年代には北海道乗り潰し計画を何度も立てたが、この深名線も列車本数の少なさプラス接続の悪さで乗り潰し泣かせの路線でもあった。
例えば深名線に新富という駅があったのだが、利用者僅少という事で国鉄時代に幌加内町へ駅廃止の打診をし町は沿線住民の利用者などに確認をせずにOKしたところ、廃止後に通院で駅を利用していた年配ご夫婦が孤立してしまうという現状が起きてしまったのだ。高齢化社会、過疎化など日本が抱えてる大きな問題を象徴する場面として当時話題になったらしい。
国鉄時代には果たせなかったが、近年に私も実際に現地に訪れる事ができた。もちろん「リバプールの風」になってからであるが、やはりとても山深く、よくぞこの地にレールを敷いたなと、先人の苦労に胸打たれる思いであった。
残念ながら現役時代には訪問できなかった事が悔やまれるが、ある意味深名線の偉大さが無言の叫びで車の車窓からでも伝わって来た感じであった。




昭和の風景満載の駅舎であるが、先輩たちは北国特有の気候からこの建物に何度守られた事であろう。後輩の私たちは単純に古いだけの建物に見えるかも知れないが、先輩達はこの傷だらけの守り神にたくましさを感じる事であろう。
ところで深名線であるが、歴史的には北海道でよく聞く炭鉱などの話を聞いたことがない。いや、正確には羽幌線の築別から分岐し朱鞠内で合流する「名羽(めいう)線」では石炭輸送が目的とされ、名寄~朱鞠内~築別が基本的に名羽線として建設されたので一部区間は石炭輸送も当然ながら視野に入っていたが、深名線では基本、森林資源などが主なお客様であったと思われる。しかし時代は流れ貨物が衰退してからは旅客が「お荷物」となってしまった。それでも数少ない利用者には長距離利用が多く、代行バスになってからもそのままシフトしたと思われ、数ある廃止路線の中でも深名線は長距離旅客が多いのが特徴でもあった。





レールは無いものの、プラットホームは健在であった。車が通ったと思われる轍がある意味レールのあった証のように想像力を高めてくれる。その先には開拓部落の方々の期待がたくさん込められてたはずだ。
かつては北母子里や鷹泊なとにも列車交換設備があったが、晩年は幌加内と朱鞠内のみになり、極力経費削減をしていたイメージであった。しかし時代の波には勝てず、1990年代に入りとうとう力尽きてしまったのは残念な話であろう。ただ、営業最終日までワンマン化されず車掌が乗車していたのは特筆すべき事で、現在の地方鉄道では当たり前の光景であるワンマン運転が赤字ワーストの深名線に導入されなかったのは逆にワンマン化に対応する設備投資を抑える為であろうと考えられる。恐らくCTC化もされず、交換駅である朱鞠内と幌加内は終日職員がポイント操作を行っていたと思われる。つまり昔の国鉄がそのままJR後も続いていたわけなのだ。
さて、沼牛の現在は…ご覧の通り駅舎が現存しホームもあった。ホーム前の轍(わだち)に鉄道の歴史を感じる事ができるのは嬉しい材料であるが、とにかく旅客を主体にする運営には向いている事を否定せざるを得ない風景であった。周囲には若干ながらの集落を形成しているが、使用されていないであろう建物も少なくなく、鉄道の歴史だけが淡々と輝いている沼牛訪問であった。

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蝦夷からアイヌへ、アゲイン 万字線③ 朝日
2022-04-02

ハッキリ言って、万字線にこのような駅があるとつい最近知った。「つい最近」と言っても10年は経っているであろうが、まさか万字線のこうした地味な駅がしっかり保存されているとは夢にも思わなかった。そこは一見、日本各地にあるような鉄道公園的な風景であったのだが、私には石炭全盛期の先人の思いがしっかり伝わってきた。
近年に新たな整備を施したであろうゆとりある二車線道路から分かれる旧道に入り即座にわかる「朝日」は、それまでその駅の存在をほとんど知らなかった私を一気に振り向かせた。もちろんこの駅の訪問は今回の旅プログラムに入っていたが、万字や万字炭山の方が昔から興味津々だったのでさほど事前調査せずに、ある意味「消化試合」的なイメージのまま現地入りしたのであった。
ところがドッコイ!鉄道公園的なはずなのに、何かが私を引き留める…
結局その答えは見つからなかったが、昭和の面影がたっぷり詰まっていたところに何かヒントがありそうな気がした。初めて訪れた朝日「駅」は否応なしに汽車時代のオーラを放ちながら、私の中で万字線の「キレンジャー」から「赤レンジャー」に昇格した思いであった。




現役時代のイメージをほぼ保ったまま健在の朝日駅舎。メンテナンスもしっかり行き届いている印象であるが、だからこそ現役時代の盛栄が蘇る思いであった。


早速ホームへ移動してみる。鉄道公園として恐らくリニューアルされたのであろうと思われるホームにはかつての主力メンバーであったろう一部が静態保存されていた。




ホーム向かい側のスペースにはかつて石炭専用の貨物側線と、更に木が生い茂る山側には炭鉱があった。つまり都心のマンションなどでも見られる「駅直結型」とでも言おうか。現在は全て撤去され面影はないが、若干のコンクリ基礎などが残りノスタルジックな印象である。



ホームの先には更に現役時代のホームが。「キレちゃいないよ。まぁ、キレていいのか悪いのか・・」とでも言いたくなりそうだが、やはり現役時代に比べ短いホームは「キレている」であろう。長い編成の列車にも対応出来たホームであったが、という事はつまり万字線の輸送量がこの事からでも伺えるが、私の知る晩年は単行列車の行き来であった記憶なので少々持て余し気味であった。

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