夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっとワイドにリメイク版②
2022-06-25
東京駅に着いた私たち御一行は早速「富士」の入線してくるホームへ向かう。確か10番線だった記憶であるが、通路からホームまでの階段がやたら長く感じた。何故だろう…あまりにも段数が多く、何だか土合駅にでも来たのかと錯覚してしまうほどだ。クラスの連中と休日にはよく来ている東京駅のはずなのに、この日ばかりは何故だか階段に長さを感じてしまう。フットワークは軽いはずなのにホームまでなかなかたどり着かないのは普段持たない大量の荷物のせいなのであろうか。

2007年ころに撮影した「富士」であるが、私の乗車時は同じEF65の500番台であった。1000番台~EF66へと交代していった牽引機関車はブルートレインを牽引する機会が激減していき、この写真が撮影された頃には「昭和の名物」が時代とともにフェードアウトしていく時期でもあった。
既に「富士」はホームにいた。
「……グレイト❕」とは言わなかったが、何だかすごい事が始まる予感が止まらない。
青い車体に白い帯…いつも通院していた耳鼻科の帰りに見ていた茅ヶ崎を通過していくブルートレインの数々のうちのひとつに今日は乗るんだと、この日ばかりは興奮が止まらなかったのだ。

という事で、こちらはダイナミック✡トナカイ撮影のEF66バージョンであるが、恐らく東京駅での撮影と思われる。EF66のブルートレイン牽引って凄くかっこよく魅力的であると思うが、私のイメージでは「フレートライナー」がかなり強い。
私が乗ったのはB寝台の、いわゆる「二段ハネ」であった。当時は最新式の寝台車両で、それまでの三段式寝台とは全く異なる、言わば四次元空間にでも誘われたかのような錯覚に陥る。といっても寝台車自体乗るのが初めてのため、何とも言えぬ優越感が私を取り巻いていた。今でこそ個室寝台が当たり前の時代であり、豪華寝台列車が増えてきた中、定期便で唯一生き残っている「サンライズ」に見るノビノビ座席が往年の解放型寝台に近い形で現存するが、基本的には「あけぼの」や「北斗星」の終焉でその灯火は消えたと言っても過言ではないだろう。

東京駅で父が撮影した「富士」に乗車中のダイヤモンド✡トナカイ(つまり筆者)であるが・・・自身の登場にはやや複雑な思いである。よく見るとガラス越しに写る隣のホームには次発の「出雲」が停車中であったが殆ど記憶に無い。ちなみに被っている帽子は地元の某プロ野球・球団のものであるが、おわかりなら私と同世代、又は先輩ですね!
しかし、私が乗車した二段式寝台は先述通り当時は最新式だったため、やはり「富士」のグレードに圧巻された。ちなみに席種はA個室(後年のシングルデラックス)とB寝台(★★★)のみであったので、如何に後年の北斗星などが豪華だったかおわかりであろう。
そんな豪華寝台車では下段を陣取り、西へ向かう列車の汽笛に胸を踊らせていた。

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2007年ころに撮影した「富士」であるが、私の乗車時は同じEF65の500番台であった。1000番台~EF66へと交代していった牽引機関車はブルートレインを牽引する機会が激減していき、この写真が撮影された頃には「昭和の名物」が時代とともにフェードアウトしていく時期でもあった。
既に「富士」はホームにいた。
「……グレイト❕」とは言わなかったが、何だかすごい事が始まる予感が止まらない。
青い車体に白い帯…いつも通院していた耳鼻科の帰りに見ていた茅ヶ崎を通過していくブルートレインの数々のうちのひとつに今日は乗るんだと、この日ばかりは興奮が止まらなかったのだ。

という事で、こちらはダイナミック✡トナカイ撮影のEF66バージョンであるが、恐らく東京駅での撮影と思われる。EF66のブルートレイン牽引って凄くかっこよく魅力的であると思うが、私のイメージでは「フレートライナー」がかなり強い。
私が乗ったのはB寝台の、いわゆる「二段ハネ」であった。当時は最新式の寝台車両で、それまでの三段式寝台とは全く異なる、言わば四次元空間にでも誘われたかのような錯覚に陥る。といっても寝台車自体乗るのが初めてのため、何とも言えぬ優越感が私を取り巻いていた。今でこそ個室寝台が当たり前の時代であり、豪華寝台列車が増えてきた中、定期便で唯一生き残っている「サンライズ」に見るノビノビ座席が往年の解放型寝台に近い形で現存するが、基本的には「あけぼの」や「北斗星」の終焉でその灯火は消えたと言っても過言ではないだろう。

東京駅で父が撮影した「富士」に乗車中のダイヤモンド✡トナカイ(つまり筆者)であるが・・・自身の登場にはやや複雑な思いである。よく見るとガラス越しに写る隣のホームには次発の「出雲」が停車中であったが殆ど記憶に無い。ちなみに被っている帽子は地元の某プロ野球・球団のものであるが、おわかりなら私と同世代、又は先輩ですね!
しかし、私が乗車した二段式寝台は先述通り当時は最新式だったため、やはり「富士」のグレードに圧巻された。ちなみに席種はA個室(後年のシングルデラックス)とB寝台(★★★)のみであったので、如何に後年の北斗星などが豪華だったかおわかりであろう。
そんな豪華寝台車では下段を陣取り、西へ向かう列車の汽笛に胸を踊らせていた。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっとワイドにリメイク版①
2022-06-18
既に紹介している寝台特急富士の乗車記であるが、最近になってふと読み返して見たらかなり懐かしい思い出として当時が甦ってきた。既にブルートレインという単語や列車は過去のものになりつつあるが、いや、既に過去のものとなってしまったが、記憶の片隅にあったブルトレ初乗車のメモリーを更に頑張って引っ張りだしてリメイクバージョンにて紹介しよう。

(画像はウィキペディアより。JR化後の2004年に撮影された「富士」であるが、既に時代は飛行機が発達し主要都市駅も高架化などで駅前の再開発も進みビジネスホテルも増えた。また新幹線も「のぞみ」の登場によりスピードアップが進み、また夜行バスなどの台頭により夜行列車そのものがフェードアウトしていく時代でもあった中でブルートレインもその例外ではなかった。)
時は1978年8月、ブルートレイン全盛期である。私は小学校四年生の夏休みであったが、どうやら物心付いた時からレールファンだったようで、いつしか寝台特急に乗るのが夢でもあった。EF65の500番台が定番のブルートレイン牽引機関車であったが、EF58の急行「銀河」は急行でありながらある意味「紅一点」的なイメージで、ひときわ目立つ存在に思えた。
銀河に関しては臨時便のオール座席版しか乗車した事がないのだが、私が電車の話ばかりをする事に便乗したのか、家族で夏休みに旅行に行くことになった。東京発のブルートレインは全てが西に向かって走っていたので自然と行き先が九州になったのだが、ある意味当時の両親も満更じゃなかったであろう印象であった。
もちろんブルートレインに乗る。どうせ乗るなら走行時間が一番長い「富士」であろうと子どもながらに思いを寄せていたのだが、24時間26分というサバイバルに両親は耐えられるか?など考えもせず、富士の乗車は確定した。

(当時の旅行で唯一残っていた切符である。恐らく「富士」の切符各種は西鹿児島or指宿で回収されてしまったと思われ残っていなかった。当時、小学4年生だったのでもっと切符の知識があれば良かったのだが、この旅では旅行会社の提案により「普通周遊券」による旅となった。確か旅行程の中に指定周遊地を2箇所以上組み込んでオリジナルの周遊券を作り上げるというパターンだった記憶であるが、この旅では熊本の天草~長崎の雲仙などか組み込まれた。ちなみに隣の切符は翌年に青森への旅で使用した切符である。)
今回の九州旅行は総額30万と言っていた。昭和54年の30万円とはどれ程の価値だったのであろうか。当時の交通公社(現JTB)が発行する時刻表の価格を調べたが、なんと450円!現在はその3倍くらいにはなっているであろうが、何れにしても我が家のあるじはかなり頑張ったという事になる。その前年だか前々年に長野の嬬恋辺りに家族で旅をしていて自家用車で周ったが、正直印象が薄い。つまり、如何にあるじが見栄を切ったかお分かりであろう。お陰でこちらはブルートレインに乗れるのだから、強烈なローリングエルボーを喰らったかのように今もしっかりと記憶が残されている。

(こちらは今回の旅で使用したものではないが、確か中学時代にクラスメイトがら譲り受けたものである。N型端末機で発見されたマスルが時代を感じるが、今の時代で考えても寝台特急はかなりのプライスである。)
さて、寝台特急「富士」は東京発18時で西鹿児島(当時)着が18時26分着なので、わずか26分の乗車時間!というわけではなく、その間に「24時間」という隠れた時空が存在する。つまりマル1日の走行時間が26分にプラスされるわけである。これから乗車する「富士」は24時間26分後に西鹿児島に到着後するのだが、出発が夕方6時であるから当日の朝はやや時間をもて余してしまう。更に帰郷の際には「ひかり」に乗るため、西寒川駅前在住の私には停車しない小田原や新横浜を捨てなければならないため、一旦東京の親戚宅に寄りマイカーを停泊させていただいてからの旅立ちとなった。

(東京か西鹿児島か・・・どちらかで撮影したサボであるが、小学生時代の私が撮影したため身長の関係からやや低い位置からの撮影になってしまっている。しかも「キャノン デミ EE28」というカメラのため望遠等の機能は無く、ご覧の通りの絵がマックスであるが、ある意味時代を感じる良さがある!)
ただ…下町とはいえ都内在住の親戚宅にわれわれのマイカーを駐車するスペースは無く、確か旅の全日程になる七日間をなんと親戚宅前に路駐するという荒業に出たのだ!さすが私の父。時代は変われど、到底私には真似できない大技を用意していたのだ。私の中では既にスリーカウントどころかテンカウントのゴングが鳴らされている中、両親は何食わぬ涼しい顔で親戚宅を離れ日比谷線の三ノ輪に向けて・・・と思ったが、なんとタクシーを呼んで東京駅に向かったのであった。

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(画像はウィキペディアより。JR化後の2004年に撮影された「富士」であるが、既に時代は飛行機が発達し主要都市駅も高架化などで駅前の再開発も進みビジネスホテルも増えた。また新幹線も「のぞみ」の登場によりスピードアップが進み、また夜行バスなどの台頭により夜行列車そのものがフェードアウトしていく時代でもあった中でブルートレインもその例外ではなかった。)
時は1978年8月、ブルートレイン全盛期である。私は小学校四年生の夏休みであったが、どうやら物心付いた時からレールファンだったようで、いつしか寝台特急に乗るのが夢でもあった。EF65の500番台が定番のブルートレイン牽引機関車であったが、EF58の急行「銀河」は急行でありながらある意味「紅一点」的なイメージで、ひときわ目立つ存在に思えた。
銀河に関しては臨時便のオール座席版しか乗車した事がないのだが、私が電車の話ばかりをする事に便乗したのか、家族で夏休みに旅行に行くことになった。東京発のブルートレインは全てが西に向かって走っていたので自然と行き先が九州になったのだが、ある意味当時の両親も満更じゃなかったであろう印象であった。
もちろんブルートレインに乗る。どうせ乗るなら走行時間が一番長い「富士」であろうと子どもながらに思いを寄せていたのだが、24時間26分というサバイバルに両親は耐えられるか?など考えもせず、富士の乗車は確定した。

(当時の旅行で唯一残っていた切符である。恐らく「富士」の切符各種は西鹿児島or指宿で回収されてしまったと思われ残っていなかった。当時、小学4年生だったのでもっと切符の知識があれば良かったのだが、この旅では旅行会社の提案により「普通周遊券」による旅となった。確か旅行程の中に指定周遊地を2箇所以上組み込んでオリジナルの周遊券を作り上げるというパターンだった記憶であるが、この旅では熊本の天草~長崎の雲仙などか組み込まれた。ちなみに隣の切符は翌年に青森への旅で使用した切符である。)
今回の九州旅行は総額30万と言っていた。昭和54年の30万円とはどれ程の価値だったのであろうか。当時の交通公社(現JTB)が発行する時刻表の価格を調べたが、なんと450円!現在はその3倍くらいにはなっているであろうが、何れにしても我が家のあるじはかなり頑張ったという事になる。その前年だか前々年に長野の嬬恋辺りに家族で旅をしていて自家用車で周ったが、正直印象が薄い。つまり、如何にあるじが見栄を切ったかお分かりであろう。お陰でこちらはブルートレインに乗れるのだから、強烈なローリングエルボーを喰らったかのように今もしっかりと記憶が残されている。

(こちらは今回の旅で使用したものではないが、確か中学時代にクラスメイトがら譲り受けたものである。N型端末機で発見されたマスルが時代を感じるが、今の時代で考えても寝台特急はかなりのプライスである。)
さて、寝台特急「富士」は東京発18時で西鹿児島(当時)着が18時26分着なので、わずか26分の乗車時間!というわけではなく、その間に「24時間」という隠れた時空が存在する。つまりマル1日の走行時間が26分にプラスされるわけである。これから乗車する「富士」は24時間26分後に西鹿児島に到着後するのだが、出発が夕方6時であるから当日の朝はやや時間をもて余してしまう。更に帰郷の際には「ひかり」に乗るため、西寒川駅前在住の私には停車しない小田原や新横浜を捨てなければならないため、一旦東京の親戚宅に寄りマイカーを停泊させていただいてからの旅立ちとなった。

(東京か西鹿児島か・・・どちらかで撮影したサボであるが、小学生時代の私が撮影したため身長の関係からやや低い位置からの撮影になってしまっている。しかも「キャノン デミ EE28」というカメラのため望遠等の機能は無く、ご覧の通りの絵がマックスであるが、ある意味時代を感じる良さがある!)
ただ…下町とはいえ都内在住の親戚宅にわれわれのマイカーを駐車するスペースは無く、確か旅の全日程になる七日間をなんと親戚宅前に路駐するという荒業に出たのだ!さすが私の父。時代は変われど、到底私には真似できない大技を用意していたのだ。私の中では既にスリーカウントどころかテンカウントのゴングが鳴らされている中、両親は何食わぬ涼しい顔で親戚宅を離れ日比谷線の三ノ輪に向けて・・・と思ったが、なんとタクシーを呼んで東京駅に向かったのであった。

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熊に逢ったらどうするか 最終章 湧網線 計呂地
2022-06-11

さて、このシリーズもいよいよ千秋楽となった。最後に、私が現役時代に訪問する事のできなかった湧網線の計呂地を紹介してみよう。湧網線とはご存知、国鉄時代に赤字ローカル線の常連として顔を連ねていたが、以前にも触れた通り冬のオホーツクの車窓は雄大であった。といっても私は未制覇に終わったので私の口からいかにも的な事は言えないのだが、流氷を望める鉄道路線としては絶対的に唯一な存在であったイメージだ。



ご覧の通り、現在は鉄道公園的に整備されている計呂地。開通当時の湧網線には開拓部落の方々の期待がかなり込められていたのであろう。当時の輸送手段としては鉄道がほぼ唯一的な存在であったろうためにその思いも一際だったに違いない。
その湧網線にあった「ケロチ」であるが、かつて新日本プロレスでリングアナをしていたわけではない。しかしながらこうして鉄道公園的に保存されているとはつい最近まで知らなかった。もっといえば訪問直前まで知らなかったのだが、湧網線は私の思っていたイメージとは裏腹に、鉄道の証が意外に保存されていたのは驚きであった。
今回の湧網線訪問は計呂地しか訪問できなかったが、できれば保存されている佐呂間や卯原内にもいずれ訪問してみたいと思う。特に卯原内は駅こそ登場しないものの、日本映画の名作「男はつらいよ」の第11作で「開拓部落」として大きな牧場が登場しているのでぜひとも当時の情景と現在を照らし合わせてみたい。




ホームに行ってみるとご覧の車両が停泊していた。私は湧網線はDCの時代しか知らないため、こうしてPCの風景を見るのがある意味貴重なイメージがある。もちろんこうした車両は国鉄時代に全国で散々お世話になったので思い入れも深い。
湧網線の件に関しては既に述べているが、改めて乗りつぶし泣かせな路線であった。網走でも湧別でも乗り換えで2時間くらい待つ場面が多くなかなかすんなりと行かせてもらえない。先述通り、列車運転系統的に名寄本線の湧別支線と湧網線が一体化されているイメージが強く、時刻表自体も一体化されての表示であった。ただ、湧別支線の運転本数が極端に少なく、朝夕それぞれ一往復であったので、乗りつぶし計画は湧別支線の列車に合わせてプランニングしなければならない。


その旧型客車の先頭には・・・ご覧の車両がリーダーとなっていた。私的には先述通りDCのイメージが強いため、湧網線とはかなりかけ離れた印象であるが、北海道でよく聞く炭鉱的な目的での敷設ではなさそうなので尚更SL的な印象が薄い。
では石北本線の夜行急行「大雪」を使うとどうなるか。下り「大雪」で遠軽を下車すると名寄本線の連絡体制は取れてるが、中湧別で2時間待ちになる。ではその待ち時間に渚滑線など行こうとしても時間がたりない。結局中湧別で待つのが自然的な考えだ。 むしろ名寄本線制覇後に湧別から湧網線経由の最終列車に乗れば網走で上り大雪に連絡するので一番良い選択肢であろう。つまりこの湧別支線がひとつのネックとなる。湧別に寄らなければ中湧別で湧網線との連絡が良く、むしろひねくれた乗り方をする私自身が悪いという事になる!いずれにしても少ない列車本数の中でこうして連絡する列車同士は非常に貴重な存在であったが、そんなやりとりも過去の話となってしまい寂しい限りである。



先程から気にはなっていたが・・・リーダーの先には跨線橋が!もちろん現役引退後に設置されたものと思われるが(当然であるが)、意味があるかどうかは別にして、訪問当時は入口にネットが張ってあったので跨線橋を利用して隣のホームへ行く事ができなかった。

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熊に逢ったらどうするか・アゲイン 石北本線② 遠軽
2022-06-04

「えんがる」と言っても東京乾電池の一員でもなければ「あぶない刑事」のバイプレーヤー的存在だったわけでもない。
「えんがる」とは国鉄時代の全盛期ではSLの煙が絶えないイメージであった石北本線の要衝駅であるが、平地であるのにスイッチバック式となっているこの駅は、ここを通る全ての列車が停車する。

(平地であるがスイッチバック式の駅となっている遠軽。左右に分かれる鉄道風景は、ある意味塩尻に似ているような感じもする。列車が遠軽に近づくと少々の時間徐行運転をするので要衝駅の風格たっぷり!)
若い世代では、というか私の世代でもこの遠軽でのスイッチバックが、もちろん歴史的な知識はあっても違和感を感じるであろう。私はもちろん国鉄時代の、それこそ名寄本線のある時代から知ってはいるが、やはり石北本線として遠軽でのスイッチバックは名寄本線が健在であった時でも違和感を感じた。もちろんかつては湧別軽便鉄道としての歴史があり名寄本線と石北本線がひとつの路線としての活躍があって、スイッチバックでは無かった事を実体験ではなくとも知っているが、やはり遠軽のスイッチバックは実に素晴らしい。ある意味、平地でのスイッチバックという事は小田急の藤沢と類似の部類もあると思うが、何れにしても経営者側から見てもひとつの要衝であろう。


(北海道特有の気候から身を守るため、駅舎もやや高い位置に設置されている。網走でも同じような風景が見られるが、こちらは「番外地」では無い独特の雰囲気を醸し出す。)
特に国鉄時代ではやはりSL時代が最も全盛期であろうと思われるが、深夜の時間帯でも給水や機関車の入れ替えなどで活気付いていた事であるのが現在でも伝わって来るイメージでもある。しかしながらやはり名寄本線という片翼を失った遠軽の現在は、鉄道地図上でもアンバランスなイメージである。
既にプロローグでも触れているが、遠軽では夜行急行「大雪」と名寄本線との愛情が非常に良く、乗りつぶし派には大変重宝していた。名寄本線の始発でも最終でも連携プレーはバッチリで、上りは旭川や砂川辺りで、下りは北見や網走で乗り換えれば可能性もかなり広がるイメージであった。



(旅客ホームは国鉄時代から変わらぬ二面三線であるが、普通列車の到着時はかなりホームを持て余すイメージだ。2両でもまだまだ余裕あるホームは、3番線まで全てのホームが埋まる時間帯が現在はあるのか・・・)
そして遠軽から上川方面では白滝シリーズの駅がズラリと並んでいたし、網走方面では有名な常紋信号場があり、季節には多くのギャラリーが押し寄せていた事であろう。
とにかく石北本線は山深いイメージであるが、遠軽に来ると文明が開けある意味ホッとするのかも知れない。ただ、石北本線自体が存続問題の危機にさらされており、国鉄時代には考えられなかった「廃止」という二文字が現実になってしまうかも知れないところまで来ている。国鉄時代に赤字ローカル線と呼ばれる路線が廃止され北海道の鉄道路線は半減してしまったイメージであるが、更に将来的に「本線」と呼ばれる路線も廃止になってしまうと、北海道残る鉄道は札幌付近と室蘭本線、そして将来札幌まで開通予定の北海道新幹線のみになってしまう事も考えられなくもない!
しかしながら鉄道とは大量輸送する事で初めてメリットが生まれる。運ぶヒト・モノがないと逆にエネルギーをはじめ多くの労力が無駄になってしまうのだ。これからの地方鉄道は本当に時代に合った、いや、それを更に見越した活用法を見いださなければならない。

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