夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑦
2022-07-30
別府を出て間もなく大分に到着した。「富士」にとっても国鉄にとっても重要な駅である。構内はだだっ広い。「富士」はここで何両か車両を切り離し身軽になる。もちろん切り離された車両は上り「富士」に増結され東京へ帰って行く事であろう。既に時間は昼を迎え、私の乗車している「富士」は寝台特急としての機能は終了している雰囲気になっていた。つまり「ヒルネ」となっていつしか「にちりん」などの補完列車として我々を西鹿児島まで案内してくれるのだ。

画像はウィキペディアより。大分に停車中の「富士」であるが、恐らくこの頃は大分で終点の時代であったろう。だが、背景に注目いただくと高架化前の地上時代であるので国鉄時代の名残を充分に感じる事ができる。私の乗車時はここで数両切り離し、身軽になって西鹿児島へ向かった。
さて、私は「ヒルネ」をしながら大分を出るわけだが、その前に先ほど触れた切り離し作業を確認しなければならない。残念ながら写真は撮影したのだか現在は所有していない。ただ、私の記憶にはしっかりと焼き付いているのでその風景をプリントアウトしたいのだが…ドラえも―ん❕状態である。
そして初めて見る大分の駅はとにかく感動であるのだが、つい最近まで地上駅だったので、レールファンを復活させてからもギリギリその地上駅を体感できたのが実に懐かしく良い思い出になった。とはいえ既に高架化の工事は始まっていたので本当に意味でのギリギリだったが「富士」に乗りたどり着いた時とほとんど変わらない雰囲気が残っていた事が実に嬉しかった。

大分から先、鹿児島までの区間は単線区間が多くなる。途中駅では旅客扱いしなくても列車同士のすれ違いのために停車する駅もちらほら登場。どこの駅かは記憶に無いが「にちりん」と列車交換のため運転停車したが、今見るともの凄い貴重な風景ではないか!
食堂車も切り離し身軽になった「富士」は大分より先、佐伯・延岡・日向市・宮崎と停車する。幸崎や臼杵、津久見、などは停まらない特急の風格が溢れていたが、こうした駅は当時名前すら知らず、全く未知の世界の連続であったので新鮮過ぎるくらい新鮮だった。
更に大分から先は単線区間が多くなり、途中駅で何度か上り列車との待ち合わせをする場面も。佐伯を過ぎ宗太朗越えを終えたら延岡のひとつ手前の北延岡でも列車交換のアナウンスがあった。大阪や岡山すら停車しない「富士」が、時刻表上では停車駅では無い全く予定していない無人駅で「富士」が停車するのがものすごい出来事に思う。
その北延岡では上りの「富士」との交換であった。地味な無人駅で寝台特急「富士」同士の列車交換は、列車内でなく駅ホームなどで見学できたら見ごたえがあったであろう。隣の延岡でなく北延岡というところがなかなか渋い。24系25型の最新式寝台特急同士の列車交換は、意外にも地味なくらいにひっそりと催された。

こちらは「富士」乗車時に撮影した延岡。ひとつ手前の北延岡で上り「富士」と交換した後に到着したが、ご覧の通り貨物盛栄!この列車に乗車したお陰で色々な都市の名前を覚えるきっかけとなったといっても過言ではない。残念ながら現在は高千穂線の姿はないが、この「富士」に乗車した翌年頃から時刻表なども見るようになり高千穂線の存在も知るようになった。
「富士」同士の列車交換を無事に終えしばらくすると延岡に到着した。記憶はなかったが、当時の時刻表を調べてみたら何と延岡では4分停車!特に機関車交換などの行事が始まるわけではないが、実はここからB寝台は全席自由席となり西鹿児島へと向かうのだ!後述するが、私の記憶だと宮崎からと思っていたが・・・
延岡といえばかつては高千穂線の連絡駅としても活躍していたが、当時はそんな状況を全く知らなかった。もし高千穂線の存在を知っていたらもっと違う角度から延岡のホームを観察していたであろうが、なんたって小学4年生である。ブルートレインの停車駅を覚えるのに精一杯であった。現在は高千穂方面へは路線バスに譲り日豊本線に専念する形となった。大分以降ではややローカルなイメージの風景が続いていたが、久々の「大都会」は、果てしない夢を追い続けいつの日か大空駆け巡る気持ちになった。

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画像はウィキペディアより。大分に停車中の「富士」であるが、恐らくこの頃は大分で終点の時代であったろう。だが、背景に注目いただくと高架化前の地上時代であるので国鉄時代の名残を充分に感じる事ができる。私の乗車時はここで数両切り離し、身軽になって西鹿児島へ向かった。
さて、私は「ヒルネ」をしながら大分を出るわけだが、その前に先ほど触れた切り離し作業を確認しなければならない。残念ながら写真は撮影したのだか現在は所有していない。ただ、私の記憶にはしっかりと焼き付いているのでその風景をプリントアウトしたいのだが…ドラえも―ん❕状態である。
そして初めて見る大分の駅はとにかく感動であるのだが、つい最近まで地上駅だったので、レールファンを復活させてからもギリギリその地上駅を体感できたのが実に懐かしく良い思い出になった。とはいえ既に高架化の工事は始まっていたので本当に意味でのギリギリだったが「富士」に乗りたどり着いた時とほとんど変わらない雰囲気が残っていた事が実に嬉しかった。

大分から先、鹿児島までの区間は単線区間が多くなる。途中駅では旅客扱いしなくても列車同士のすれ違いのために停車する駅もちらほら登場。どこの駅かは記憶に無いが「にちりん」と列車交換のため運転停車したが、今見るともの凄い貴重な風景ではないか!
食堂車も切り離し身軽になった「富士」は大分より先、佐伯・延岡・日向市・宮崎と停車する。幸崎や臼杵、津久見、などは停まらない特急の風格が溢れていたが、こうした駅は当時名前すら知らず、全く未知の世界の連続であったので新鮮過ぎるくらい新鮮だった。
更に大分から先は単線区間が多くなり、途中駅で何度か上り列車との待ち合わせをする場面も。佐伯を過ぎ宗太朗越えを終えたら延岡のひとつ手前の北延岡でも列車交換のアナウンスがあった。大阪や岡山すら停車しない「富士」が、時刻表上では停車駅では無い全く予定していない無人駅で「富士」が停車するのがものすごい出来事に思う。
その北延岡では上りの「富士」との交換であった。地味な無人駅で寝台特急「富士」同士の列車交換は、列車内でなく駅ホームなどで見学できたら見ごたえがあったであろう。隣の延岡でなく北延岡というところがなかなか渋い。24系25型の最新式寝台特急同士の列車交換は、意外にも地味なくらいにひっそりと催された。

こちらは「富士」乗車時に撮影した延岡。ひとつ手前の北延岡で上り「富士」と交換した後に到着したが、ご覧の通り貨物盛栄!この列車に乗車したお陰で色々な都市の名前を覚えるきっかけとなったといっても過言ではない。残念ながら現在は高千穂線の姿はないが、この「富士」に乗車した翌年頃から時刻表なども見るようになり高千穂線の存在も知るようになった。
「富士」同士の列車交換を無事に終えしばらくすると延岡に到着した。記憶はなかったが、当時の時刻表を調べてみたら何と延岡では4分停車!特に機関車交換などの行事が始まるわけではないが、実はここからB寝台は全席自由席となり西鹿児島へと向かうのだ!後述するが、私の記憶だと宮崎からと思っていたが・・・
延岡といえばかつては高千穂線の連絡駅としても活躍していたが、当時はそんな状況を全く知らなかった。もし高千穂線の存在を知っていたらもっと違う角度から延岡のホームを観察していたであろうが、なんたって小学4年生である。ブルートレインの停車駅を覚えるのに精一杯であった。現在は高千穂方面へは路線バスに譲り日豊本線に専念する形となった。大分以降ではややローカルなイメージの風景が続いていたが、久々の「大都会」は、果てしない夢を追い続けいつの日か大空駆け巡る気持ちになった。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっとワイドにリメイク版⑥
2022-07-23
小倉より日豊本線経由になり、大分までの停車駅は中津と別府のみである。大分より先は佐伯、延岡、日向市、宮崎である。ご覧になってお気づきと思うが、現在の日豊本線を走る「ソニック」などの特急列車の停車駅に比べ格段に少ないのがお分かりであろう。もちろん特急としての「格」は充分であるが、それよりもむしろこれらの停車駅以外の都市間輸送に貢献していたのは「日南」「ゆのか」「しいば」などの急行列車である。現在のように急行列車が全廃されてからはその役割が特急列車に委ねられているが、逆に停車駅がグッと増えて特急列車としての風格みたいなものが無くなったような気がする。

画像はウィキペディアより転用させていただいたA寝台個室。後年はシングルデラックスと呼ばれるようになったが、寝台料金は1万円だった記憶!当時のイチマンエンであるから相当のブルジョア的存在であった。洗面台兼テーブルが付いた室内は「個室」というブランドが実に画期的な夢の寝台車的存在であった。
九州方面へは東京発着ばかりでなく、京都や新大阪からも寝台特急が発着していた。「明星」や「金星」などは一部583系で運転され、九州内の特急「有明」などとペアで運用された。昭和を知る世代ならよくご存知であろうが、583系は寝台だと3段式のため特に中段が狭く、当時小学生、中学生だった私でさえその居住性に疑問を感じざるを得なかった。そして座席特急としてはリクライニングができないという一番のウィークポイントがあり評判は今ひとつであった。
583系の運用で一番輝いたのは晩年の夜行急行「津軽」や「きたぐに」だったと思う。急行料金ならあの空間でも納得できるし、寝台、座席の両方で1編成組めるのも良い。さらに交直両用なので電化区間で狭軌であれば日本国内どこへでも走れるという最大の長所がある。できれば「ムーンライト」など快速での運用があると非常に個人的には嬉しかったが、なかなか時代とマッチしなかったのがある意味勿体ない気がする。

「富士」から撮影した中津。1977年に高架化されたが「富士」での訪問が1978年なのでご覧の通り真新しいではないか!地上時代の配線は全く知らないのだが、静岡や鳥取など当時流行していたのであろうシンプルな高架駅に変身した。
さて、日豊本線経由でわざわざ遠回りして西鹿児島へ向かう寝台特急「富士」を始発から終点までの切符を持っているのは恐らく私たち家族だけであったろう。いや、単純に私が「富士に乗りたい❕」と言わなければ普通に新幹線などで現地入りしていたはずだ。つまり私のわがままで家族が巻き添えを喰らったわけだ。しかも乗務員さえ途中駅で交代するのだから、もしかしたら始発から終点までの乗車はタブーなのかも知れない。

熱海・登別・箱根などと同様に「○○温泉」とつけなくても温泉!と一発でわかる別府は、日本を代表する温泉街として古くから親しまれている。写真奥に2本の急行列車が停車しているのがわかるが、当時の時刻表を確認してみたら豊肥本線経由の急行「火の山」と久大本線経由の急行「由布」であると思われる。いずれも「富士」との乗り換えを考慮しての連絡時間となってるが「富士」を別府で捨て「由布」に乗り換え由布院に行くなんて、何とも贅沢!そんな乗客が羨ましい・・・
そして別府も同じく高架化され温泉の玄関口として相応しい面構えとなった。とはいえ、高架化が完成されたのは1966年なので意外とその歴史は古い。私が生まれる前に既に高架化されていたという事は特筆すべき事であり、高架化されたホームにSLが発着していた事になる。これは素晴らしい景色であったろう。隣には急行列車が停車していたが、恐らく「富士」との連絡ダイヤであろう。グリーン車も連結され昔の豪華な急行はどこ行きだったのであろう。由布院方面なら私も興味あるが、当時の私にはそんな余裕はない。いや、由布院は当時、現在のイメージとは違いどちらかというと「湯治場」的な感じだったと思うが、その事すら知らない小学生であったので何よりも電車だ。普段茅ヶ崎や東京、そして上野辺りでしか見なかったブルートレインに乗っている私は何だかとんでもない事をしているようで、全く未知の世界だった「日本全国制覇」が恐らくこの旅より開花したと思う。そして数年後に始まる「いい旅チャレンジ20000km」のプロローグとして幼い私の心に根付いたのかも知れない。

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画像はウィキペディアより転用させていただいたA寝台個室。後年はシングルデラックスと呼ばれるようになったが、寝台料金は1万円だった記憶!当時のイチマンエンであるから相当のブルジョア的存在であった。洗面台兼テーブルが付いた室内は「個室」というブランドが実に画期的な夢の寝台車的存在であった。
九州方面へは東京発着ばかりでなく、京都や新大阪からも寝台特急が発着していた。「明星」や「金星」などは一部583系で運転され、九州内の特急「有明」などとペアで運用された。昭和を知る世代ならよくご存知であろうが、583系は寝台だと3段式のため特に中段が狭く、当時小学生、中学生だった私でさえその居住性に疑問を感じざるを得なかった。そして座席特急としてはリクライニングができないという一番のウィークポイントがあり評判は今ひとつであった。
583系の運用で一番輝いたのは晩年の夜行急行「津軽」や「きたぐに」だったと思う。急行料金ならあの空間でも納得できるし、寝台、座席の両方で1編成組めるのも良い。さらに交直両用なので電化区間で狭軌であれば日本国内どこへでも走れるという最大の長所がある。できれば「ムーンライト」など快速での運用があると非常に個人的には嬉しかったが、なかなか時代とマッチしなかったのがある意味勿体ない気がする。

「富士」から撮影した中津。1977年に高架化されたが「富士」での訪問が1978年なのでご覧の通り真新しいではないか!地上時代の配線は全く知らないのだが、静岡や鳥取など当時流行していたのであろうシンプルな高架駅に変身した。
さて、日豊本線経由でわざわざ遠回りして西鹿児島へ向かう寝台特急「富士」を始発から終点までの切符を持っているのは恐らく私たち家族だけであったろう。いや、単純に私が「富士に乗りたい❕」と言わなければ普通に新幹線などで現地入りしていたはずだ。つまり私のわがままで家族が巻き添えを喰らったわけだ。しかも乗務員さえ途中駅で交代するのだから、もしかしたら始発から終点までの乗車はタブーなのかも知れない。

熱海・登別・箱根などと同様に「○○温泉」とつけなくても温泉!と一発でわかる別府は、日本を代表する温泉街として古くから親しまれている。写真奥に2本の急行列車が停車しているのがわかるが、当時の時刻表を確認してみたら豊肥本線経由の急行「火の山」と久大本線経由の急行「由布」であると思われる。いずれも「富士」との乗り換えを考慮しての連絡時間となってるが「富士」を別府で捨て「由布」に乗り換え由布院に行くなんて、何とも贅沢!そんな乗客が羨ましい・・・
そして別府も同じく高架化され温泉の玄関口として相応しい面構えとなった。とはいえ、高架化が完成されたのは1966年なので意外とその歴史は古い。私が生まれる前に既に高架化されていたという事は特筆すべき事であり、高架化されたホームにSLが発着していた事になる。これは素晴らしい景色であったろう。隣には急行列車が停車していたが、恐らく「富士」との連絡ダイヤであろう。グリーン車も連結され昔の豪華な急行はどこ行きだったのであろう。由布院方面なら私も興味あるが、当時の私にはそんな余裕はない。いや、由布院は当時、現在のイメージとは違いどちらかというと「湯治場」的な感じだったと思うが、その事すら知らない小学生であったので何よりも電車だ。普段茅ヶ崎や東京、そして上野辺りでしか見なかったブルートレインに乗っている私は何だかとんでもない事をしているようで、全く未知の世界だった「日本全国制覇」が恐らくこの旅より開花したと思う。そして数年後に始まる「いい旅チャレンジ20000km」のプロローグとして幼い私の心に根付いたのかも知れない。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっとワイドにリメイク版⑤
2022-07-16
下関ではこれより海底トンネルを通過するため、専用の電気機関車に交換する作業が発生する、という表現は既に時代を感じる部類となってしまったが、もちろん乗客や地元の方々のギャラリー多数によりセレモニーは敢行されるわけである。関門トンネルで付け替えられる機関車は主に2種類の専用機関車がいた。EF81とEF30である。

画像はウィキペディアより。関門トンネル専用のEF30は数々の列車を牽引してきた。1978年に私が乗車した「富士」を牽引したのもこのEF30であった。
正確にいえばEF81は300番台であるが、あのステンレス的なきらめきが何ともたまらなかった。特に70年代後半まで活躍した14系客車のオール座席夜行急行列車「阿蘇」「くにさき」がEF81に牽引されている姿がえらいカッコよくコロタン文庫に掲載されていのを見てメチャクチャ感動していた当時小学生だったので、その想いもかなり深い。もちろん私はEF81がやって来るのが当たり前田のクラッカーだったのだが…姿を現したのは何とEF30であった…
別にEF30が嫌いとかではないのだが、期待し過ぎていただけに、若干の落胆を隠せずにいただけなのだ。私は気を取り直して被写体に向けシャッターを切り続けたのであった(EF30ファンの方、ごめんなさいネ)。

画像はウィキペディアより。こちらがEF30とともに活躍したEF81。コロタン文庫発行の鉄道書籍に急行「阿蘇」を牽引する写真が載っていたのが小学生当時もの凄く印象的であった。関門トンネル専用は300番台で、ステンレス製のボディがかっこいい!「富士」乗車当日はこちらのEF81が来るのを期待していたのだが・・・
ところで今回の旅は先述通り夏休みのため平日でもギャラリーの年齢層は低いのだが、それでも当時の私と同世代のギャラリーたちは私より遥かに高価なイメージのカメラを持っており、キャノンデミEE28の私はやや引けをとってしまった・・・が、間もなく機関車付け替えがはじまり、有名タレントの記者会見のようなフラッシュの数々を浴びながら、私も記者会見クルーのひとりとなりシャッターを切り続けた。
さて、関門トンネルを抜けると門司に着く。関門トンネル、下関、門司、九州…何もかもが初体験なので休む暇がない。ただ、小学生だったので地方の鉄道に関しての知識はそれほど無く、また古い駅舎や車両の価値なども全くわからないのだが、とにかく今乗っている「富士」が楽しくて仕方がない。下関や門司ではトンネル前後の果てしなく複雑な配線を解読するのにいそがしかった。

画像はダイナミック✡トナカイ提供のED76である。恐らく門司での撮影と思われるが、現在は新幹線の愛称として親しまれている列車名もかつてはブルートレインとして活躍していた。私の乗った「富士」も門司でED76に機関車を交換し、小倉より日豊本線経由で西鹿児島を目指す。
門司でも勿論機関車交換が行われギャラリーたちは休む暇が無いのだが、その前に、確か門司ではデッドセクションがあったはず。まぁ、電源車が連結されているので一瞬証明が消える的な事は起こらないであろうが、せっかくなので体験してみたかった。そう、九州に入ると電化区間が直流から交流に変わるのだ。つまり門司からは交流機関車のED76になるのだ!もちろん、当時相模線沿線住民だった私にはほとんど馴染みがない交流区間のため興味津々だ。などと言っても電気的な知識はほとんど無いため車体のデザインや首都圏ではお目にかかれない珍しさでつい興奮してしまう。そんな機関車に引かれながら、小倉より日豊本線経由で西鹿児島へ目指す事になる。

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画像はウィキペディアより。関門トンネル専用のEF30は数々の列車を牽引してきた。1978年に私が乗車した「富士」を牽引したのもこのEF30であった。
正確にいえばEF81は300番台であるが、あのステンレス的なきらめきが何ともたまらなかった。特に70年代後半まで活躍した14系客車のオール座席夜行急行列車「阿蘇」「くにさき」がEF81に牽引されている姿がえらいカッコよくコロタン文庫に掲載されていのを見てメチャクチャ感動していた当時小学生だったので、その想いもかなり深い。もちろん私はEF81がやって来るのが当たり前田のクラッカーだったのだが…姿を現したのは何とEF30であった…
別にEF30が嫌いとかではないのだが、期待し過ぎていただけに、若干の落胆を隠せずにいただけなのだ。私は気を取り直して被写体に向けシャッターを切り続けたのであった(EF30ファンの方、ごめんなさいネ)。

画像はウィキペディアより。こちらがEF30とともに活躍したEF81。コロタン文庫発行の鉄道書籍に急行「阿蘇」を牽引する写真が載っていたのが小学生当時もの凄く印象的であった。関門トンネル専用は300番台で、ステンレス製のボディがかっこいい!「富士」乗車当日はこちらのEF81が来るのを期待していたのだが・・・
ところで今回の旅は先述通り夏休みのため平日でもギャラリーの年齢層は低いのだが、それでも当時の私と同世代のギャラリーたちは私より遥かに高価なイメージのカメラを持っており、キャノンデミEE28の私はやや引けをとってしまった・・・が、間もなく機関車付け替えがはじまり、有名タレントの記者会見のようなフラッシュの数々を浴びながら、私も記者会見クルーのひとりとなりシャッターを切り続けた。
さて、関門トンネルを抜けると門司に着く。関門トンネル、下関、門司、九州…何もかもが初体験なので休む暇がない。ただ、小学生だったので地方の鉄道に関しての知識はそれほど無く、また古い駅舎や車両の価値なども全くわからないのだが、とにかく今乗っている「富士」が楽しくて仕方がない。下関や門司ではトンネル前後の果てしなく複雑な配線を解読するのにいそがしかった。

画像はダイナミック✡トナカイ提供のED76である。恐らく門司での撮影と思われるが、現在は新幹線の愛称として親しまれている列車名もかつてはブルートレインとして活躍していた。私の乗った「富士」も門司でED76に機関車を交換し、小倉より日豊本線経由で西鹿児島を目指す。
門司でも勿論機関車交換が行われギャラリーたちは休む暇が無いのだが、その前に、確か門司ではデッドセクションがあったはず。まぁ、電源車が連結されているので一瞬証明が消える的な事は起こらないであろうが、せっかくなので体験してみたかった。そう、九州に入ると電化区間が直流から交流に変わるのだ。つまり門司からは交流機関車のED76になるのだ!もちろん、当時相模線沿線住民だった私にはほとんど馴染みがない交流区間のため興味津々だ。などと言っても電気的な知識はほとんど無いため車体のデザインや首都圏ではお目にかかれない珍しさでつい興奮してしまう。そんな機関車に引かれながら、小倉より日豊本線経由で西鹿児島へ目指す事になる。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっとワイドにリメイク版④
2022-07-09
名古屋を出ると公式上での停車駅は福山であるが、実際には大阪で運転停車するらしい。「らしい」とあえて表現したが、つまり私は夢の中だったのだ。恐らく京都も運転停車していると思うが、明言する自信がない。しかしながらなぜか三ノ宮の駅名標を納めてはいないが見ているのだからやはり「西の駅風景を見る❕」という執念を昔の自分に感じた。
ただ、寝台なのだから寝る行為は当然であるが「西の駅風景を見る」がテーマとなっているため窓を見なければならない。しかしそれが私の寝台は下段のため、座った状態にならなければ景色が見れないのだ。更に当時は小学生だったので華奢な身体を深夜に直角体勢を維持するのは極めて困難な技でもあり至難の業でもある。私は空いている上段に一瞬でも移りたい気持ちになったが…上段寝台では寝ながら見れる小窓があり、上段にいる母がこの時ばかりは羨ましかった。

(画像はウィキペディアより転用させていただいた「2段ハネ」車内通路の風景である。恐らく晩年の風景でJR化後の寝台車ならではの様子が伺える。私の乗車時は小学生だったせいかもっと通路が広く感じたが、意外にも大人1.5人分くらいの通路は大きな荷物を持ってすれ違う場合には多少の不便を感じる事であろう。)
さて、三ノ宮から先の記憶は自信が持てるほど無い!恐らく岡山でも運転停車しているであろうが、残念ながら未確認のまま現在に至ってしまった。
ようやく日付けが変わって最初の停車駅である福山を過ぎ広島に着く頃には弁当などの車内販売がやって来た。確か朝6時頃だったと思う。もちろんここで買わないと24時間26分列車に乗っているわけであるから他に食料調達の術がない。いや、食堂車があるにはあるが、我が家にとっては高嶺の花だったのか、話題にすらでなかった。

(山陽本線の主要駅では各ブルートレインが振り分けて停車する。岩国や光・下松・糸崎や尾道などは「あさかぜ」など「富士」以外の列車が停車していた。「富士」は柳井・防府など、割にマニアックな駅に停車する。)
しかし…広島はデカイ!初めて見る広島「駅」には完全に圧倒されたが、基本、山陽本線の在来線優等列車は既に新幹線に吸収されてしまったので派手なバリエーションはほとんどないが、その分、ここを通る寝台特急の一部が、いわゆる「ヒルネ」として寝台を座席として解放する。確か私の乗った「富士」も柳井辺りで解放した記憶であるが、下関までは各寝台特急が主要駅を振り分けて停車するため、利用者も乗車前に確認が必要だ。

(こちらもウィキペディアより転用させていただいた「富士」はちょうど私が乗車した頃と同じ時期に撮影されたもであるが、物凄い鮮明度である。この記録はかなり貴重な存在であろう。24系25型が実に眩しい!)
ちなみに「富士」は広島を出ると柳井、防府、宇部、下関の順で停車する。意外に地味にマニアックな停車パターンであるのがまた「富士」に惹かれる理由のひとつであろう。
さて、下関に着いたらレールファンにはたまらないお馴染みのイベントが待っている。もちろん私も宇部を過ぎた辺りから先頭方面へ移動。下関に着くまでの時間がやたら長く感じたが、私はその時を今か今かとカメラを握りしめていた。

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ただ、寝台なのだから寝る行為は当然であるが「西の駅風景を見る」がテーマとなっているため窓を見なければならない。しかしそれが私の寝台は下段のため、座った状態にならなければ景色が見れないのだ。更に当時は小学生だったので華奢な身体を深夜に直角体勢を維持するのは極めて困難な技でもあり至難の業でもある。私は空いている上段に一瞬でも移りたい気持ちになったが…上段寝台では寝ながら見れる小窓があり、上段にいる母がこの時ばかりは羨ましかった。

(画像はウィキペディアより転用させていただいた「2段ハネ」車内通路の風景である。恐らく晩年の風景でJR化後の寝台車ならではの様子が伺える。私の乗車時は小学生だったせいかもっと通路が広く感じたが、意外にも大人1.5人分くらいの通路は大きな荷物を持ってすれ違う場合には多少の不便を感じる事であろう。)
さて、三ノ宮から先の記憶は自信が持てるほど無い!恐らく岡山でも運転停車しているであろうが、残念ながら未確認のまま現在に至ってしまった。
ようやく日付けが変わって最初の停車駅である福山を過ぎ広島に着く頃には弁当などの車内販売がやって来た。確か朝6時頃だったと思う。もちろんここで買わないと24時間26分列車に乗っているわけであるから他に食料調達の術がない。いや、食堂車があるにはあるが、我が家にとっては高嶺の花だったのか、話題にすらでなかった。

(山陽本線の主要駅では各ブルートレインが振り分けて停車する。岩国や光・下松・糸崎や尾道などは「あさかぜ」など「富士」以外の列車が停車していた。「富士」は柳井・防府など、割にマニアックな駅に停車する。)
しかし…広島はデカイ!初めて見る広島「駅」には完全に圧倒されたが、基本、山陽本線の在来線優等列車は既に新幹線に吸収されてしまったので派手なバリエーションはほとんどないが、その分、ここを通る寝台特急の一部が、いわゆる「ヒルネ」として寝台を座席として解放する。確か私の乗った「富士」も柳井辺りで解放した記憶であるが、下関までは各寝台特急が主要駅を振り分けて停車するため、利用者も乗車前に確認が必要だ。

(こちらもウィキペディアより転用させていただいた「富士」はちょうど私が乗車した頃と同じ時期に撮影されたもであるが、物凄い鮮明度である。この記録はかなり貴重な存在であろう。24系25型が実に眩しい!)
ちなみに「富士」は広島を出ると柳井、防府、宇部、下関の順で停車する。意外に地味にマニアックな停車パターンであるのがまた「富士」に惹かれる理由のひとつであろう。
さて、下関に着いたらレールファンにはたまらないお馴染みのイベントが待っている。もちろん私も宇部を過ぎた辺りから先頭方面へ移動。下関に着くまでの時間がやたら長く感じたが、私はその時を今か今かとカメラを握りしめていた。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっとワイドにリメイク版③
2022-07-02
18時丁度に汽笛を鳴らしカクーンと揺れを催した「富士」は西鹿児島目指し、文字通り西へ向かいだした。いつもは185系や113系から見る車窓も、寝台列車の大きな窓から見ると全く異なる風景となる。真夏のため18時過ぎてもまだまだ外は明るく、もちろん寝る時間でもないためなんとなく落ち着かない。
やがて神奈川県を代表する駅である横浜に停車する。当時はここ横浜を通る全ての旅客列車が停車するため当然ながら「富士」も停車。横浜に「富士」が停車する事に、神奈川県民である事の誇りと優越感を隠せずにいられないくらいドヤ顔の私はテンションマックスのまま、更に東海道を西へと流されていった。やはりいつも乗っている113系の車窓から見る横浜駅のホームは全然違った!列をなす乗客は次の普通列車を待っているのか微動たりともしなかったが、その横にはに大きな荷物を持った乗客も多々いた。つまり「富士」に乗ってくるのであろう方々もチラホラ・・・というよりかなりの数!若干空席があった私の乗った車両の寝台もところどころ埋まり寝台特急としての風格も更に増していった。やはり神奈川の首都・ミナトヨコハマは実に堂々としていた。というより、私達御一行も普通ならこの駅からの乗車であろうが、父も息子のためにわざわざ気を利かせてくれて東京からの、始発からの乗車を選んでくれたのだからここは感謝しなければ・・・という父は東京下町生まれのため、旧・東京都民というプライドのための東京駅出発だったのかも知れない。

(ダイナミック✡トナカイ撮影の電源車は、私の乗車した当時は最新式の24系25型の最後尾!東京発のブルートレインは14系か24系で、20系は「銀河」のみとなっていた。)
横浜を過ぎるとしばらくして車内改札が始まった。私は贅沢にも下段であったが、上段だと通路の天井になっている部分に荷物が置けるスペースがあるためそこから切符を取り出してもらい私が車掌に切符を見せた。車内改札においては、当時非電化で無人駅の西寒川から相模線を散々利用していたので「車掌に切符を」の行為は慣れてはいたが、この日は全く違う。クリーム色のようなコスチュームを纏った車掌だったので全く別格。格式高く何とも贅沢な車内改札は、更に私を夢の世界へ誘った。「西鹿児島までですね?ありがとうございます」とパンチ入りの乗車券を手渡された。小学校卒業アルバムの寄せ書きコーナーに「ブルートレインの車掌になりたい」と将来の夢を綴っていたので恐らくこの時の車内改札がきっかけとなったと思うが、時代とともにワンマン化が進み車掌自体が減少しフルートレインが廃止されてしまった現在、もし私がその道を歩んでいたら現在の私はどうなっていただろうか・・・
我々御一行は3名のため、上段のひとつには他の乗客が来るはずであるのだが、現時点ではまだ現れていない。途中の駅で乗ってくるのであろうと、もちろんその場には近寄らなかったが、最終的にはだれもその上段寝台には来ないまま西鹿児島へと到着した記憶である。

(こちらもダイナミック✡トナカイ撮影の「富士」であるが、茅ヶ崎の撮影である。上りホームなので東京行であるのだが、写真中央に注目して欲しい。「富士」の隣には貨物列車専用のレールであるが、現在ある湘南ライナー専用のホームが無い!時代を感じる風景である。現在は湘南ライナーもなくなってしまい、ライナー専用のホームはどう使われているのであろうか。まさか特急「湘南」専用のホームとなってしまったのか・・・いつか確認してみたい。)
さて、横浜を出ると停車駅は熱海、浜松、名古屋となり、次は何と福山、そして広島である。大阪付近では丁度深夜の時間帯となるため旅客扱いはしない。当時は寝台特急の運転も頻繁だったので東海地区付近では停車駅が振り分けられていたが、JRになってからは寝台特急の減少とともに熱海と静岡は必ず下り寝台特急は停車するようになった。
当時、静岡より西に行った事が無い私であったが、西に向かうにつれ段々と夜が深まっていくので起きているのが辛くなってくる。静岡より西、特に名古屋辺りの駅風景を見たかったのだが、この辺りの記憶がないのは既に「大人の時間」となっていたからであろう。名古屋の駅名標はカメラに納めてあるので所々起きていたのだが、基本、この時間帯では既に車内放送の記憶がなく、寝台列車らしい雰囲気を醸し出していたに違いない。当時小学生の私は列車内に流れる時間に逆らう勇気と体力は無く、いつしか夢の中へと誘われたのであった。

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やがて神奈川県を代表する駅である横浜に停車する。当時はここ横浜を通る全ての旅客列車が停車するため当然ながら「富士」も停車。横浜に「富士」が停車する事に、神奈川県民である事の誇りと優越感を隠せずにいられないくらいドヤ顔の私はテンションマックスのまま、更に東海道を西へと流されていった。やはりいつも乗っている113系の車窓から見る横浜駅のホームは全然違った!列をなす乗客は次の普通列車を待っているのか微動たりともしなかったが、その横にはに大きな荷物を持った乗客も多々いた。つまり「富士」に乗ってくるのであろう方々もチラホラ・・・というよりかなりの数!若干空席があった私の乗った車両の寝台もところどころ埋まり寝台特急としての風格も更に増していった。やはり神奈川の首都・ミナトヨコハマは実に堂々としていた。というより、私達御一行も普通ならこの駅からの乗車であろうが、父も息子のためにわざわざ気を利かせてくれて東京からの、始発からの乗車を選んでくれたのだからここは感謝しなければ・・・という父は東京下町生まれのため、旧・東京都民というプライドのための東京駅出発だったのかも知れない。

(ダイナミック✡トナカイ撮影の電源車は、私の乗車した当時は最新式の24系25型の最後尾!東京発のブルートレインは14系か24系で、20系は「銀河」のみとなっていた。)
横浜を過ぎるとしばらくして車内改札が始まった。私は贅沢にも下段であったが、上段だと通路の天井になっている部分に荷物が置けるスペースがあるためそこから切符を取り出してもらい私が車掌に切符を見せた。車内改札においては、当時非電化で無人駅の西寒川から相模線を散々利用していたので「車掌に切符を」の行為は慣れてはいたが、この日は全く違う。クリーム色のようなコスチュームを纏った車掌だったので全く別格。格式高く何とも贅沢な車内改札は、更に私を夢の世界へ誘った。「西鹿児島までですね?ありがとうございます」とパンチ入りの乗車券を手渡された。小学校卒業アルバムの寄せ書きコーナーに「ブルートレインの車掌になりたい」と将来の夢を綴っていたので恐らくこの時の車内改札がきっかけとなったと思うが、時代とともにワンマン化が進み車掌自体が減少しフルートレインが廃止されてしまった現在、もし私がその道を歩んでいたら現在の私はどうなっていただろうか・・・
我々御一行は3名のため、上段のひとつには他の乗客が来るはずであるのだが、現時点ではまだ現れていない。途中の駅で乗ってくるのであろうと、もちろんその場には近寄らなかったが、最終的にはだれもその上段寝台には来ないまま西鹿児島へと到着した記憶である。

(こちらもダイナミック✡トナカイ撮影の「富士」であるが、茅ヶ崎の撮影である。上りホームなので東京行であるのだが、写真中央に注目して欲しい。「富士」の隣には貨物列車専用のレールであるが、現在ある湘南ライナー専用のホームが無い!時代を感じる風景である。現在は湘南ライナーもなくなってしまい、ライナー専用のホームはどう使われているのであろうか。まさか特急「湘南」専用のホームとなってしまったのか・・・いつか確認してみたい。)
さて、横浜を出ると停車駅は熱海、浜松、名古屋となり、次は何と福山、そして広島である。大阪付近では丁度深夜の時間帯となるため旅客扱いはしない。当時は寝台特急の運転も頻繁だったので東海地区付近では停車駅が振り分けられていたが、JRになってからは寝台特急の減少とともに熱海と静岡は必ず下り寝台特急は停車するようになった。
当時、静岡より西に行った事が無い私であったが、西に向かうにつれ段々と夜が深まっていくので起きているのが辛くなってくる。静岡より西、特に名古屋辺りの駅風景を見たかったのだが、この辺りの記憶がないのは既に「大人の時間」となっていたからであろう。名古屋の駅名標はカメラに納めてあるので所々起きていたのだが、基本、この時間帯では既に車内放送の記憶がなく、寝台列車らしい雰囲気を醸し出していたに違いない。当時小学生の私は列車内に流れる時間に逆らう勇気と体力は無く、いつしか夢の中へと誘われたのであった。

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