風は秋色・・・秘境駅への招待①
2022-08-27
私がこのブログを立ち上げた初期にこの飯田線の旅の模様を紹介しているが、飯田線をPCで入力した時に「いい打線」と変換されてしまった。およそ鉄道とは全く無縁の表現に変換されて少々戸惑ったが、最近では私のPCもよく学習していて、初めて入力する単語でもちゃんと鉄道用語になってくれるので、今ではかわいい相棒のような存在にまで成長した。そんなPCを使い、再び初心に返るような気持ちで飯田線の訪問記を綴ってみよう。

今回の飯田線の旅で主力となる車両119系は1982年頃にデビューした当時は水色の車体に白っぽい帯であった。旧型車両との置き換えにより新造されたが、訪問当時は誕生から既に20年以上経過しており、新たな車両の導入も囁かれる頃であった。写真提供は「おさる」。
さて、「風は秋色」などと某アイドル歌手並みのタイトルをつけておきながら、実は2007年の夏に訪問した飯田線であるが、考えてみたらもう15年前の事になっていた。私がこのブログを立ち上げた頃の初期に既に紹介している飯田線の旅の模様を再び紹介するわけであるが、今回紹介の旅は先述通り、私がレールファンを復活させ初めて本格的に遠征した旅である。以前にも紹介した、かつて私がやっていたバンド仲間の通称「おさる」とのふたり旅となったわけであるが、そのおさるこそ、私が約23年ぶりにレールファンを復活させるきっかけを作ってくれた張本人である。いつしか彼は某秘境駅訪問家の書籍に感銘を受け、それを私に勧めてきたのだ。

119系は一時期「するがシャトル」として静岡地区にも導入された経緯がある。だがその性能から東海道線での運用には不向きであると判断され飯田線へ出戻りとなった。写真は「ダイナミック✡トナカイ」提供で東海道線の茅ヶ崎~平塚間で試運転的な場面である。
当時は既にバンド活動はなかったものの、定期的に「飲み友達」として会合していたので音楽以外の話も自然と出てきた。ある時の会合での話題の中、いつもと違う話をする彼は、何となく秘境駅を語る姿が熱い!彼がバンド時代に見せたあのギターに対する情熱以上の何かが感じ取れたのだが、その思いを私も「ベーシスト」として受け止めるのはごくごく自然の事であろう。いつしかレールファンとして彼のエスコート役になり実際に秘境駅へ招待しようという流れが気が付けば出来上がっていた。
正直、ギターのサウンドはベースとドラムの息の合ったリズムに乗って初めて輝くモノかも知れない。つまり私のベースリズムに彼のギターが乗っかって初めて秘境駅の訪問旅はバランスが取れるのだ。当然ながら私の方が鉄道知識に長けているわけだから、計画自体はもちろん私が考えるわけである。そして彼の訪問したい駅と滞在時間の希望をしっかりと考慮しながら私のやりたい事も組み込んで旅計画を作成した。

田本の待合室で避暑中のダイヤモンド✡トナカイ。という事は同伴の「おさる」が撮影したものである。レールファン復活初年度であったが、そのブランクもほとんど感じる事なく普通に秘境駅に訪問していたイメージであったが、相方の「おさる」はどう感じていたのだろうか・・・
という私も実は23年のブランクを経て久々のレールファンとして、いわゆる「乗り鉄」に挑戦するのだ。というか、正直「○○鉄」という言葉はあまり好まない私であるが、私がレールファンを復活させた当時は某秘境駅訪問家とともに全駅制覇の「あのヒト」も全盛期を迎えており、○○鉄という言葉が定着していた時期でもあった。
今回の旅では、親友である「おさる」と共に秘境駅を訪問するのがメインテーマとなっているが、併せて、レールファン復活に伴い再開した「いい旅チャレンジ20000km」の未制覇区間の穴埋め作業に付き合ってもらう行程を組んだのだ。もちろん「いい旅~」のキャンペーンは既に終了しているので、全く個人で勝手に「チャレンジ」という訳である。キャンペーン中は確か150線区くらいの制覇しかできなかったので、今回の旅でも精力的にチャレンジする気満々であった。そんな思いを胸に抱きながら「おさる」の待つ藤沢市の鵠沼へと向かったのであった。

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今回の飯田線の旅で主力となる車両119系は1982年頃にデビューした当時は水色の車体に白っぽい帯であった。旧型車両との置き換えにより新造されたが、訪問当時は誕生から既に20年以上経過しており、新たな車両の導入も囁かれる頃であった。写真提供は「おさる」。
さて、「風は秋色」などと某アイドル歌手並みのタイトルをつけておきながら、実は2007年の夏に訪問した飯田線であるが、考えてみたらもう15年前の事になっていた。私がこのブログを立ち上げた頃の初期に既に紹介している飯田線の旅の模様を再び紹介するわけであるが、今回紹介の旅は先述通り、私がレールファンを復活させ初めて本格的に遠征した旅である。以前にも紹介した、かつて私がやっていたバンド仲間の通称「おさる」とのふたり旅となったわけであるが、そのおさるこそ、私が約23年ぶりにレールファンを復活させるきっかけを作ってくれた張本人である。いつしか彼は某秘境駅訪問家の書籍に感銘を受け、それを私に勧めてきたのだ。

119系は一時期「するがシャトル」として静岡地区にも導入された経緯がある。だがその性能から東海道線での運用には不向きであると判断され飯田線へ出戻りとなった。写真は「ダイナミック✡トナカイ」提供で東海道線の茅ヶ崎~平塚間で試運転的な場面である。
当時は既にバンド活動はなかったものの、定期的に「飲み友達」として会合していたので音楽以外の話も自然と出てきた。ある時の会合での話題の中、いつもと違う話をする彼は、何となく秘境駅を語る姿が熱い!彼がバンド時代に見せたあのギターに対する情熱以上の何かが感じ取れたのだが、その思いを私も「ベーシスト」として受け止めるのはごくごく自然の事であろう。いつしかレールファンとして彼のエスコート役になり実際に秘境駅へ招待しようという流れが気が付けば出来上がっていた。
正直、ギターのサウンドはベースとドラムの息の合ったリズムに乗って初めて輝くモノかも知れない。つまり私のベースリズムに彼のギターが乗っかって初めて秘境駅の訪問旅はバランスが取れるのだ。当然ながら私の方が鉄道知識に長けているわけだから、計画自体はもちろん私が考えるわけである。そして彼の訪問したい駅と滞在時間の希望をしっかりと考慮しながら私のやりたい事も組み込んで旅計画を作成した。

田本の待合室で避暑中のダイヤモンド✡トナカイ。という事は同伴の「おさる」が撮影したものである。レールファン復活初年度であったが、そのブランクもほとんど感じる事なく普通に秘境駅に訪問していたイメージであったが、相方の「おさる」はどう感じていたのだろうか・・・
という私も実は23年のブランクを経て久々のレールファンとして、いわゆる「乗り鉄」に挑戦するのだ。というか、正直「○○鉄」という言葉はあまり好まない私であるが、私がレールファンを復活させた当時は某秘境駅訪問家とともに全駅制覇の「あのヒト」も全盛期を迎えており、○○鉄という言葉が定着していた時期でもあった。
今回の旅では、親友である「おさる」と共に秘境駅を訪問するのがメインテーマとなっているが、併せて、レールファン復活に伴い再開した「いい旅チャレンジ20000km」の未制覇区間の穴埋め作業に付き合ってもらう行程を組んだのだ。もちろん「いい旅~」のキャンペーンは既に終了しているので、全く個人で勝手に「チャレンジ」という訳である。キャンペーン中は確か150線区くらいの制覇しかできなかったので、今回の旅でも精力的にチャレンジする気満々であった。そんな思いを胸に抱きながら「おさる」の待つ藤沢市の鵠沼へと向かったのであった。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑩
2022-08-20
小学生がブルートレインに乗って東京から西鹿児島にやってくる…これは凄い事だ。本当にとんでもない事が始まり、そして終えようとしていた。もちろん、親も同伴だが…
「ご乗車お疲れ様でした。次は終点西鹿児島です。どちら様もお忘れものなどございませんようご注意ください。お乗り換えのご案内をいたします。伊集院、川内方面…」

ようやく西鹿児島に到着した。このブログに再再々登場くらいの写真で申し訳ないがこれは到着翌日に撮影した記憶である。現在は新幹線が到達して駅の様子が全く変わってしまったが、ホームへ行くと意外にも昔の面影が残っている場面も少なくない。
最後のアナウンスが流れた。窓には留置線であろうか、やたらたくさんの列車が停まっている。アナウンスが終わってもなかなか西鹿児島のホームに着かない。波打つレールの分岐は果てしなく広がっていた。やはり西鹿児島はブルートレインの終点なのだから物凄く格式高い大きな駅なのだなと子供ながらに感じた。西鹿児島という駅名はコロタン文庫の書籍にもしょっちゅう出てくる駅だからとても大きく、到達するまでの距離感に納得してしまう。だが、西鹿児島へのプロローグという事は、寝台特急「富士」の終着駅というエピローグでもある。


「富士」を下車した私たち御一行は、更に本日の宿がある指宿へと目指した。指宿枕崎線の当時は冷房等無かった記憶であるが、それほど暑さを感じた記憶が無い。海辺へ出て砂風呂を楽しみたかったが・・・実現したのはそれから32年後の2010年であった。
西鹿児島のホームに生まれて初めて足を踏み入れた。首都圏と比べやや低いホームは車両のステップより更にもう一段降りるイメージで、首都圏の高さあるプラットホームに慣れてしまっている私からすればかなりの違和感を感じる。特に九州に入ってから気付いたのだが、こちらはやたらプラットホームの高さが低い。数々の写真をご覧いただければわかると思うが、車両の下部にある車輪などが見えるくらいしか高さが無い。恐らくSL時代から続く設備であろうが、列車に乗るにはかなり段差があり、現在の鉄道風景とはかなり異なる。もちろんバリアフリーなどの単語をほとんど聞かない時代であるから、当時はかなり大変な思いをされている利用者も少なくなかったであろう。現在は在来線ホームの真上を新幹線が通るようになり、近代的な駅に生まれ変わった。在来線ホームも嵩上げされホームと列車の段差がほぼなくなった。
そんなプラットホームに時代を感じながら私たちの御一行は更に南の「薩摩富士」目指し、指宿枕崎線の待つホームに足を急がせた。

こちらも散々このブログで登場しているが「富士」下車の翌日に撮影したDC版「にちりん」である。今回の旅で私たちは583系の有明に乗り熊本を目指したが、ちょうど向かいのホームに停車していた。その奥には更に583系が留置されており、昼夜問わず活躍していた事を象徴させる。
1978年8月21日、ブルートレインの旅は終わった。あれだけ憧れていたブルートレインに初めて乗車した感動と喜び。茅ヶ崎駅のホーム先端から写真を撮ったり相模線ホームから通過シーンを見ていたり…そしてこの「富士」の体験を皮切りに翌年の583系「ゆうづる」へと発展していき、やがて遠距離を仲間やひとりで旅をする事になっていく事になり私の旅は進化を遂げていった。
一夜明け「富士」から初めて見る九州の風景。車窓からは風光明媚な彩りが私を引き付けて止まなかった。それはもちろん大自然の景色ではなく、鉄道風景である。24時間26分…もし現存したらあなたはこの24時間26分のサバイバルに挑戦したいと思いますか?

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「ご乗車お疲れ様でした。次は終点西鹿児島です。どちら様もお忘れものなどございませんようご注意ください。お乗り換えのご案内をいたします。伊集院、川内方面…」

ようやく西鹿児島に到着した。このブログに再再々登場くらいの写真で申し訳ないがこれは到着翌日に撮影した記憶である。現在は新幹線が到達して駅の様子が全く変わってしまったが、ホームへ行くと意外にも昔の面影が残っている場面も少なくない。
最後のアナウンスが流れた。窓には留置線であろうか、やたらたくさんの列車が停まっている。アナウンスが終わってもなかなか西鹿児島のホームに着かない。波打つレールの分岐は果てしなく広がっていた。やはり西鹿児島はブルートレインの終点なのだから物凄く格式高い大きな駅なのだなと子供ながらに感じた。西鹿児島という駅名はコロタン文庫の書籍にもしょっちゅう出てくる駅だからとても大きく、到達するまでの距離感に納得してしまう。だが、西鹿児島へのプロローグという事は、寝台特急「富士」の終着駅というエピローグでもある。


「富士」を下車した私たち御一行は、更に本日の宿がある指宿へと目指した。指宿枕崎線の当時は冷房等無かった記憶であるが、それほど暑さを感じた記憶が無い。海辺へ出て砂風呂を楽しみたかったが・・・実現したのはそれから32年後の2010年であった。
西鹿児島のホームに生まれて初めて足を踏み入れた。首都圏と比べやや低いホームは車両のステップより更にもう一段降りるイメージで、首都圏の高さあるプラットホームに慣れてしまっている私からすればかなりの違和感を感じる。特に九州に入ってから気付いたのだが、こちらはやたらプラットホームの高さが低い。数々の写真をご覧いただければわかると思うが、車両の下部にある車輪などが見えるくらいしか高さが無い。恐らくSL時代から続く設備であろうが、列車に乗るにはかなり段差があり、現在の鉄道風景とはかなり異なる。もちろんバリアフリーなどの単語をほとんど聞かない時代であるから、当時はかなり大変な思いをされている利用者も少なくなかったであろう。現在は在来線ホームの真上を新幹線が通るようになり、近代的な駅に生まれ変わった。在来線ホームも嵩上げされホームと列車の段差がほぼなくなった。
そんなプラットホームに時代を感じながら私たちの御一行は更に南の「薩摩富士」目指し、指宿枕崎線の待つホームに足を急がせた。

こちらも散々このブログで登場しているが「富士」下車の翌日に撮影したDC版「にちりん」である。今回の旅で私たちは583系の有明に乗り熊本を目指したが、ちょうど向かいのホームに停車していた。その奥には更に583系が留置されており、昼夜問わず活躍していた事を象徴させる。
1978年8月21日、ブルートレインの旅は終わった。あれだけ憧れていたブルートレインに初めて乗車した感動と喜び。茅ヶ崎駅のホーム先端から写真を撮ったり相模線ホームから通過シーンを見ていたり…そしてこの「富士」の体験を皮切りに翌年の583系「ゆうづる」へと発展していき、やがて遠距離を仲間やひとりで旅をする事になっていく事になり私の旅は進化を遂げていった。
一夜明け「富士」から初めて見る九州の風景。車窓からは風光明媚な彩りが私を引き付けて止まなかった。それはもちろん大自然の景色ではなく、鉄道風景である。24時間26分…もし現存したらあなたはこの24時間26分のサバイバルに挑戦したいと思いますか?

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑨
2022-08-13
宮崎を過ぎ車窓から海岸線が消え山深くなってきた。「寝台特急がこんな凄い所を通るの?」と子供ながらに思っていたが、山肌に生い茂る草木が窓ガラスにぶち当たり音をたてながら通過していく。私は自分の座席から離れ通路でその光景を眺めていたが、相変わらず窓ガラスを引きちぎるような音をたてながら前進する「富士」に健気さを感じずにいられなかった。


2010年訪問時の都城。若干のリニューアルこそあるものの、私が「富士」で最初に訪問した当時の1978年とあまり変わっていないであろう昭和の風景を醸し出している。
都城に着くと、少年ながらにもSL時代の駅の雰囲気を感じたが、非電化区間は既に無煙化か終了しており、DCが主役の構内では旧型客車による普通列車の姿も見られた。
既に寝台特急としての機能はしていない中、宮崎からの乗客も入れ替りが多少あり昼間の特急らしい仕事をする「富士」であったが、父母が「トシロって読まないでミヤコノジョウって読むんだなぁ」などと普段聞かない地名の読み方に感心していた。


そしてこちらも2010年訪問時の隼人。駅舎はモダンにリニューアルされていたが、駅構内は昭和の、国鉄の雰囲気を醸し出している。ホームがかさ上げされている様子がわかるが、それでも列車の出入口との段差がやや気になる。
霧島神宮、隼人を過ぎると、やがて竜ヶ水付近ではお馴染みの景色が見えてきた。鹿児島県の象徴でもある風景が海の向こうで煙をあげながら見え隠れする。小学生の少年でもやはりその風景には圧巻され、何か自分はとんでもない場所に来ているのだなと改めて感じた。東京、いや、地元神奈川の中心、横浜から一体何キロあるのだろう…時計は既に夕方の6時を過ぎている。そう、昨日同じくらいの時間に東京からこの列車に乗ったんだよな~と、丸一日私を乗せた「富士」の偉大さに改めて気づかせられた。


2010年に撮影した鹿児島駅舎(上)は1976年に使用を開始したので私が「富士」に乗車して訪れた時は既に新しい駅舎として営業していた。それから月日が流れ現在の駅舎は2020年より使用を開始したので貴重な写真になってしまった。「富士」から撮影した鹿児島の向かい側のホームではキハ20(だったと思う)の普通列車が待っていた。既にこの時点で東京から24時間以上列車に乗っていた事になる。
鹿児島に着くとキハ20の普通列車が対面に停車していた。貨物側線が宮崎方面へ斜めに向いており、かつての主役だった名残を感じるが、逆に私は鹿児島が「風車の弥七」的な存在に感じ、その位置で輝く姿が素晴らしい。その証拠にこうして「富士」も停車するではないか!もちろんそれは年齢を重ねた私が今感じる事であるが、小学生でその経験ができるとは何と贅沢なのか…
やがて夕陽がかなり西に傾く頃「現在の主役」に到着するプロローグが幾つもの分岐機通過の音色を奏で始めた。

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2010年訪問時の都城。若干のリニューアルこそあるものの、私が「富士」で最初に訪問した当時の1978年とあまり変わっていないであろう昭和の風景を醸し出している。
都城に着くと、少年ながらにもSL時代の駅の雰囲気を感じたが、非電化区間は既に無煙化か終了しており、DCが主役の構内では旧型客車による普通列車の姿も見られた。
既に寝台特急としての機能はしていない中、宮崎からの乗客も入れ替りが多少あり昼間の特急らしい仕事をする「富士」であったが、父母が「トシロって読まないでミヤコノジョウって読むんだなぁ」などと普段聞かない地名の読み方に感心していた。


そしてこちらも2010年訪問時の隼人。駅舎はモダンにリニューアルされていたが、駅構内は昭和の、国鉄の雰囲気を醸し出している。ホームがかさ上げされている様子がわかるが、それでも列車の出入口との段差がやや気になる。
霧島神宮、隼人を過ぎると、やがて竜ヶ水付近ではお馴染みの景色が見えてきた。鹿児島県の象徴でもある風景が海の向こうで煙をあげながら見え隠れする。小学生の少年でもやはりその風景には圧巻され、何か自分はとんでもない場所に来ているのだなと改めて感じた。東京、いや、地元神奈川の中心、横浜から一体何キロあるのだろう…時計は既に夕方の6時を過ぎている。そう、昨日同じくらいの時間に東京からこの列車に乗ったんだよな~と、丸一日私を乗せた「富士」の偉大さに改めて気づかせられた。


2010年に撮影した鹿児島駅舎(上)は1976年に使用を開始したので私が「富士」に乗車して訪れた時は既に新しい駅舎として営業していた。それから月日が流れ現在の駅舎は2020年より使用を開始したので貴重な写真になってしまった。「富士」から撮影した鹿児島の向かい側のホームではキハ20(だったと思う)の普通列車が待っていた。既にこの時点で東京から24時間以上列車に乗っていた事になる。
鹿児島に着くとキハ20の普通列車が対面に停車していた。貨物側線が宮崎方面へ斜めに向いており、かつての主役だった名残を感じるが、逆に私は鹿児島が「風車の弥七」的な存在に感じ、その位置で輝く姿が素晴らしい。その証拠にこうして「富士」も停車するではないか!もちろんそれは年齢を重ねた私が今感じる事であるが、小学生でその経験ができるとは何と贅沢なのか…
やがて夕陽がかなり西に傾く頃「現在の主役」に到着するプロローグが幾つもの分岐機通過の音色を奏で始めた。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑧
2022-08-06
やがて列車は日向市に到着。当時は全く知らない初めての駅であり未知の駅である。駅自体は普通に中間駅とあまり変わらなかったが、というよりなぜこのような小さい駅に「富士」が停まるのだろうかと、利用者数ではなく駅の規模などで考えていた当時小学生の私であったが、近年には高架化され立派な佇まいとなった。某路線バス旅番組でも「黄金タッグ」が「歌のお姉さん」をゲストを迎えバスの乗り換えで日向市が登場するが、かなりモダンに生まれ変わり、かつての国鉄時代にあった典型的な片側だけ出口がある駅のイメージは全くなかった。私も近年に「ドリームにちりん」でも訪問しているが、確かにシンプルかつモダンな駅に生まれ変わりかつてのイメージは全く感じられず、旅客利用にはかなり便利になったと思う。この時ドリームにちりんに乗り久々に訪れた時はここ日向市ではかなりの乗客があった。中には学生の乗車もあり、ある意味貴重な「始発列車」の使命を果たしていた感が伺えたのだが、学生よ、特急で通学ですか!さすが「富士」の停車駅であった風格がひしひしと伝わってきた。

画像はウィキペディアより、現在の日向市。ご覧の通り立派な高架駅に生まれ変わった。近年でも某バス旅番組で乗り換え場面で登場する。現在は島式ホーム1本の1面2線でシンプルな構造になりかつては無かった東側からも駅を利用できるようになり、格段に便利になった。
そして日向市を過ぎるといよいよ宮崎に到着!この駅なら私も知っていた。だが…意外にも旅客設備は2面3線のシンプル構造の駅だったのである意味拍子抜けしてしまったが、側線は多く張り巡らされ、県を代表する駅としてのメンツを保ったイメージであった。ただ、運輸機能はお隣の南宮崎に任せてあるのでこちら宮崎では県の代表としての旅客駅の機能を充分に発揮してもらわなければならないであろう。その象徴としてJR化後の1993年に高架化され東西の分断が無くなったので更に代表としての風格が増した事であろう。

こちらもウィキペディアよりの画像であるが、高架化前の日向市駅舎。国鉄時代の典型的な駅の形であるホームに接する駅舎を持つ2面3線の構内は、2~3本の貨物側線があり細島への貨物線も分岐していた。現在の西口にしか駅舎が無く、東側からの利用は不便な構造であった。
この時の「富士」乗車時では到着が15時40分であるが、出発が15時48分であった。この8分間で、実は機関車交換が行われるのだ。当時、宮崎~鹿児島間は非電化区間であったのでここで電気機関車からディーゼル機関車に交換されるイベントが発生!もちろん事前にその事をコロタン文庫で確認していたので早速ホーム先端へと向かい写真バチバチさせていただいた。その後の1979年に宮崎~鹿児島間が電化されたので、ある意味非電化時代最後の制覇となり貴重な乗車となった。

得意の写真で申し訳無いが、宮崎で撮影したDF50はこの時に撮影したものだ。宮崎以降は非電化のため、新大阪発の「彗星」も当時は都城までDF50の牽引であった。地上時代の宮崎は2面3線の構造で側線2~3本のシンプル配線であった。県を代表する駅としては物足りない気もするが、現在は高架化され日向市と共に立派な面構えとなった。
私の記憶だと宮崎より全席自由席となり私の座席にも地元の乗車が次から次へと乗ってきたが、当時の時刻表を確認すると延岡から全席自由席になっていた。今になってこういう事に気づくというのも何となく嬉しいというか素敵な経験をしたと改めて感じるが、いずれにしても、以前に紹介した「鈍行列車、再発見!」でもあるように、この自由席化で他の乗客ゾロゾロに父が「鈍行列車になった」と間違ってしまうほどサプライズ的な光景であった。東京からずっと乗車してきた座席は、既にこの区間では地元の方の貴重な足として機能していたのだ。もう寝台列車としての役割は既に終了し「昼寝」どころか「夕寝」として機能していたのかも知れない。
自由席となりディーゼル機関車の牽引になった寝台特急「富士」の西鹿児島へと向かう車窓の向こうは、更に山深く草木は窓ガラスにブチ当たる風景がしばらく続いた。

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画像はウィキペディアより、現在の日向市。ご覧の通り立派な高架駅に生まれ変わった。近年でも某バス旅番組で乗り換え場面で登場する。現在は島式ホーム1本の1面2線でシンプルな構造になりかつては無かった東側からも駅を利用できるようになり、格段に便利になった。
そして日向市を過ぎるといよいよ宮崎に到着!この駅なら私も知っていた。だが…意外にも旅客設備は2面3線のシンプル構造の駅だったのである意味拍子抜けしてしまったが、側線は多く張り巡らされ、県を代表する駅としてのメンツを保ったイメージであった。ただ、運輸機能はお隣の南宮崎に任せてあるのでこちら宮崎では県の代表としての旅客駅の機能を充分に発揮してもらわなければならないであろう。その象徴としてJR化後の1993年に高架化され東西の分断が無くなったので更に代表としての風格が増した事であろう。

こちらもウィキペディアよりの画像であるが、高架化前の日向市駅舎。国鉄時代の典型的な駅の形であるホームに接する駅舎を持つ2面3線の構内は、2~3本の貨物側線があり細島への貨物線も分岐していた。現在の西口にしか駅舎が無く、東側からの利用は不便な構造であった。
この時の「富士」乗車時では到着が15時40分であるが、出発が15時48分であった。この8分間で、実は機関車交換が行われるのだ。当時、宮崎~鹿児島間は非電化区間であったのでここで電気機関車からディーゼル機関車に交換されるイベントが発生!もちろん事前にその事をコロタン文庫で確認していたので早速ホーム先端へと向かい写真バチバチさせていただいた。その後の1979年に宮崎~鹿児島間が電化されたので、ある意味非電化時代最後の制覇となり貴重な乗車となった。

得意の写真で申し訳無いが、宮崎で撮影したDF50はこの時に撮影したものだ。宮崎以降は非電化のため、新大阪発の「彗星」も当時は都城までDF50の牽引であった。地上時代の宮崎は2面3線の構造で側線2~3本のシンプル配線であった。県を代表する駅としては物足りない気もするが、現在は高架化され日向市と共に立派な面構えとなった。
私の記憶だと宮崎より全席自由席となり私の座席にも地元の乗車が次から次へと乗ってきたが、当時の時刻表を確認すると延岡から全席自由席になっていた。今になってこういう事に気づくというのも何となく嬉しいというか素敵な経験をしたと改めて感じるが、いずれにしても、以前に紹介した「鈍行列車、再発見!」でもあるように、この自由席化で他の乗客ゾロゾロに父が「鈍行列車になった」と間違ってしまうほどサプライズ的な光景であった。東京からずっと乗車してきた座席は、既にこの区間では地元の方の貴重な足として機能していたのだ。もう寝台列車としての役割は既に終了し「昼寝」どころか「夕寝」として機能していたのかも知れない。
自由席となりディーゼル機関車の牽引になった寝台特急「富士」の西鹿児島へと向かう車窓の向こうは、更に山深く草木は窓ガラスにブチ当たる風景がしばらく続いた。

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