風は秋色・・・秘境駅への招待⑤
2022-09-24
某大手飲食店より意外に距離があった豊橋駅に戻った私たちは飯田線のホームへ。国鉄からJRに変わって初めて訪問する豊橋の風景は、ホームなどがリニューアルされているものの、名鉄とJRで共用しているので若干の違和感と昔のままの風景が融合され不思議な空間を産みだしていた。
豊橋では名鉄は普通列車はやって来ない。それは恐らく豊橋の列車処理能力によると思われるが、もし高架化され名鉄とJRが分断されればまた違った方向性になろうが、今はまだ昔の名残を留めたまま時が過ぎていくイメージなので歴史を知る上では非常に貴重な存在であろう。

(再掲載で申し訳ないが、同じ日の同じ時間帯に私が撮影した名鉄の名車である。当時の小田急ロマンスカーにかなり近いデザインであるが、飯田線と肩を並べるとものすごい風景になった。もちろん地元の方にとっては日常の風景であったろうが・・・)
そんな歴史も知らず、ただ秘境駅の訪問を楽しみにしている今回の旅に同行する相方とはバンド活動を通じて知り合ったわけであるが、現在では、いや、もう既にこの飯田線の旅の時点で音楽家同士の絡みはほぼなくなっていた。昔の私を引っ張りだし、私にレールファンを復活させた彼は、そんなことお構い無しに到着した119系の開いた扉に消えていった。
この飯田線車両119系は、私がレールファン全盛期であった1982年頃に当時の旧型車両との置き換えにより新造された車両で、誕生当時は飯田線にセンセーショナルを巻き起こした。当時は水色の車体に白の帯であったが、今回の訪問ではJR東海カラーに染められ新しい印象の119系もいつしかベテランの域に達していた。

飯田線と名鉄は平井信号場まで共用する。共用区間には「鉄道公安官(というドラマが昔ありました!)」のオープニング~後にエンディングに登場する鉄橋がある(にわか者様の情報提供!)が、平井信号場のすぐ手前にある。
既に空は明るく、これから更に強い日差しに進化するだろうと簡単に予測できてしまうほどの晴天に恵まれた豊橋のホームは、「チャレンジ20000km」の時に訪問した時よりかなりきれいにリニューアルされたが、現在も続く名鉄の共用に懐かしさを感じてしまう。やってきた119系の涼しい車内では先程まで滞在していた飲食店でいただいたアルコール入り清涼飲料水のお陰で心地よい眠りについてしまうであろうと思っていたが、何故だか私はある一定量以上飲むと酔いすらまわらない体質のためしっかりと飯田線を堪能できそうだ。いよいよ秘境駅へ向け出発である。ところで…
「いい旅チャレンジ20000km」キャンペーン中に私は飯田線と身延線を制覇した事になっている。しかし私はこのシリーズの冒頭で「飯田線は初めて」と記した。矛盾している表記しているのだが、何故…

飯田線はかつて民営鉄道(現在もであるが)の名残からか駅間距離が短い。某全駅下車トラベルライターはこの飯田線の駅のすべてに下車したという事であるからものすごい精神力と体力である!
告白しよう。「いい旅~」の制覇路線を証明する際には起点と終点の証明写真が必要となる。事務局に証明写真を送れば制覇の証となる路線名と区間が記された赤いシールが送られてくる。もちろん、その時点で制覇となるのだが・・・
おわかりいたたけただろうか。つまり「チャレンジ」では乗る、乗らないは別として証明写真だけあれば良い話なので証明写真のみの「制覇」となっていたのだ。ただ、公的には「制覇」であっても本当の自分は嘘をつけない。やはり心のどこかにずっと引っかかっており、こうした「嘘」を後に引きずるのに嫌気が差していた。そんな事もあって段々と普段の生活にもこのような事を否定する行為を取り入れてきた。すると、何故だかスッキリする自分がいるではないか!
であるから、こうした過去の自分を悔み、そして深い反省と共に今回の旅においてそうした自分を精算する意味でもこの旅は必要だったのであろう。ある意味、相方は私の救世主だったのかも知れない。

意外にも飯田線沿線には温泉場も少なくない。別府や熱海ほど派手ではないが、一人旅などでひっそりと過ごすには最適なのかも知れない。
そんな思いを胸に、本当に意味での私の飯田線制覇はここから始まる。当然ながら「初」飯田線に見る風景はもちろん新鮮。まだ夜が明けきらぬ空の向こうでは太陽が今か今かと出番を待っているように僅かな光を見せ始めた。ただ、残念ながら旧型車両の宝庫全盛期に訪問しなかった自分を悔やむところであるが、今更過去は取り戻せない。せめて現在の飯田線が魅せてくれる風景を存分に楽しまなければ未来の自分が後悔する事であろう。
共用区間を過ぎ飯田線らしい駅名が続く中、途中の水窪で暫くの停車時間があった。というよりなかなか出発しない。一体何があったのか…

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豊橋では名鉄は普通列車はやって来ない。それは恐らく豊橋の列車処理能力によると思われるが、もし高架化され名鉄とJRが分断されればまた違った方向性になろうが、今はまだ昔の名残を留めたまま時が過ぎていくイメージなので歴史を知る上では非常に貴重な存在であろう。

(再掲載で申し訳ないが、同じ日の同じ時間帯に私が撮影した名鉄の名車である。当時の小田急ロマンスカーにかなり近いデザインであるが、飯田線と肩を並べるとものすごい風景になった。もちろん地元の方にとっては日常の風景であったろうが・・・)
そんな歴史も知らず、ただ秘境駅の訪問を楽しみにしている今回の旅に同行する相方とはバンド活動を通じて知り合ったわけであるが、現在では、いや、もう既にこの飯田線の旅の時点で音楽家同士の絡みはほぼなくなっていた。昔の私を引っ張りだし、私にレールファンを復活させた彼は、そんなことお構い無しに到着した119系の開いた扉に消えていった。
この飯田線車両119系は、私がレールファン全盛期であった1982年頃に当時の旧型車両との置き換えにより新造された車両で、誕生当時は飯田線にセンセーショナルを巻き起こした。当時は水色の車体に白の帯であったが、今回の訪問ではJR東海カラーに染められ新しい印象の119系もいつしかベテランの域に達していた。

飯田線と名鉄は平井信号場まで共用する。共用区間には「鉄道公安官(というドラマが昔ありました!)」のオープニング~後にエンディングに登場する鉄橋がある(にわか者様の情報提供!)が、平井信号場のすぐ手前にある。
既に空は明るく、これから更に強い日差しに進化するだろうと簡単に予測できてしまうほどの晴天に恵まれた豊橋のホームは、「チャレンジ20000km」の時に訪問した時よりかなりきれいにリニューアルされたが、現在も続く名鉄の共用に懐かしさを感じてしまう。やってきた119系の涼しい車内では先程まで滞在していた飲食店でいただいたアルコール入り清涼飲料水のお陰で心地よい眠りについてしまうであろうと思っていたが、何故だか私はある一定量以上飲むと酔いすらまわらない体質のためしっかりと飯田線を堪能できそうだ。いよいよ秘境駅へ向け出発である。ところで…
「いい旅チャレンジ20000km」キャンペーン中に私は飯田線と身延線を制覇した事になっている。しかし私はこのシリーズの冒頭で「飯田線は初めて」と記した。矛盾している表記しているのだが、何故…

飯田線はかつて民営鉄道(現在もであるが)の名残からか駅間距離が短い。某全駅下車トラベルライターはこの飯田線の駅のすべてに下車したという事であるからものすごい精神力と体力である!
告白しよう。「いい旅~」の制覇路線を証明する際には起点と終点の証明写真が必要となる。事務局に証明写真を送れば制覇の証となる路線名と区間が記された赤いシールが送られてくる。もちろん、その時点で制覇となるのだが・・・
おわかりいたたけただろうか。つまり「チャレンジ」では乗る、乗らないは別として証明写真だけあれば良い話なので証明写真のみの「制覇」となっていたのだ。ただ、公的には「制覇」であっても本当の自分は嘘をつけない。やはり心のどこかにずっと引っかかっており、こうした「嘘」を後に引きずるのに嫌気が差していた。そんな事もあって段々と普段の生活にもこのような事を否定する行為を取り入れてきた。すると、何故だかスッキリする自分がいるではないか!
であるから、こうした過去の自分を悔み、そして深い反省と共に今回の旅においてそうした自分を精算する意味でもこの旅は必要だったのであろう。ある意味、相方は私の救世主だったのかも知れない。

意外にも飯田線沿線には温泉場も少なくない。別府や熱海ほど派手ではないが、一人旅などでひっそりと過ごすには最適なのかも知れない。
そんな思いを胸に、本当に意味での私の飯田線制覇はここから始まる。当然ながら「初」飯田線に見る風景はもちろん新鮮。まだ夜が明けきらぬ空の向こうでは太陽が今か今かと出番を待っているように僅かな光を見せ始めた。ただ、残念ながら旧型車両の宝庫全盛期に訪問しなかった自分を悔やむところであるが、今更過去は取り戻せない。せめて現在の飯田線が魅せてくれる風景を存分に楽しまなければ未来の自分が後悔する事であろう。
共用区間を過ぎ飯田線らしい駅名が続く中、途中の水窪で暫くの停車時間があった。というよりなかなか出発しない。一体何があったのか…

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風は秋色・・・秘境駅への招待④
2022-09-17
深夜の時間帯になる東海地区は停車駅が少ないが、元々「ムーンライトながら」は快速のため始発である東京から既に主要駅にしか停車しない。大垣夜行時代は確か小田原辺りまでは各駅に停車していた記憶である。そのため終電車的な役割も果たしており、途中駅で下車する乗客もいる中、着席のチャンスも無いわけではない。だが、特にシーズン中は長距離客で埋め尽くされてしまうため地元の利用者は皆無であると思われる。「ムーンライト」になり座席指定化したが、もし国鉄時代の大垣夜行時代に座席指定が可能であったなら、私の旅風景もまた違ったカラーを醸し出していた事であろう。

(1983年に訪問した清水であるが、写真奥に停車中の旧型客車は在りし日の清水港線である。晩年では一日一往復のみの旅客列車設定であり乗りつぶし泣かせでもあったが、同区間では静鉄バスが頻繁に運転されていたため、清水港線の廃止は地元の方にとっては特に問題はなかったであろう。現在写真の場所はロータリーなどに変身していてかつての面影はほとんど無い。)
国鉄時代、私は清水港線を制覇するのに大垣夜行を使った事がある。一応、自慢ではないが湘南地区に在住のため始発などを使えば清水港の始発に間に合いそうであるが、残念ながらタッチの差で手が届かなかったのだ。そのため大垣夜行で浜松まで行き、折り返し上り列車で清水へ向かった。だが、逆にそれだと時間がかなり余ってしまい、浜松で2時間、清水で一時間半のインターバルがあった。清水の1時間半がいいとしても、浜松の2時間はかなり辛い。しかも未明の4時台のため飲食店なども営業していないのでかなりの精神修行となる。それでも間に合わないよりは良いと、7~8人の集団に了解を得た。いや、正確には私の所属していた「鉄道研究クラブ」の顧問の提案であるが、逆にそれしか方法は無かった。
「鉄道研究クラブ」とは中学校の部活であるが、クラブ活動の一環として行われたため当然顧問である教諭も同行。清水港線巡りはまだ「青春18」が登場して2年~3年目くらいだったが、既に何度か「18」を使い旅に出ているので、この切符も徐々に私の中で馴染んで来ていた頃でもあった。

(そしてこちらも別の日に撮影した浜松である。静岡同様の高架駅に生まれ変わり、正直、ほとんど区別がつかないが、ムーンライトの長時間停車時にはやたら貨物列車が追い抜いていく。)
そんな思い出ある大垣夜行も「ムーンライトながら」に変わり途中駅からでも指定席を購入する事で座れるまでに成長した大垣夜行であるが、更に165系のボックスシートではなくなりリクライニングもできて嬉しい事は何度も述べてしまった。
ただ、今回は未明の豊橋で下車する初体験物語なのだ。しかも鉄道素人を引き連れての旅は、私の舵取りひとつにかかっている。とりあえずここは後の事を考え、豊橋までは無理してでも仮眠を取らなければならない。私はいつしか回るアルコールに身を任せ夢の中へと誘われたのであった。

(そしてこちらは当日「おさる」が撮影した豊橋である。民衆駅第一号として知れ渡っているが、名鉄と飯田線は同じ乗り場から発着する。途中の平井信号場まで線路を共用するのはかつての歴史的名残であるのは周知の通り。)
やがて豊橋に到着した。既に何駅か前に意識が戻り下車への準備が整っていたのだからたいしたものだ。やはり「野生の勘」とでもいおうか、国鉄時代に培われた私の乗りつぶし旅の野生の勘は23年のブランクなど関係なかった。
ではなぜ野生の勘が働いたのか?
理由は単純だ。実は飯田線の始発まで約2時間待ちであるのだが、その待ち時間を利用して飲食店にて早めの朝食を摂ろうと計画していたのだ。もちろんリカー対応の飲食店をネット検索。朝の目覚めの一杯には最適であろうと出発前からひとつの目玉としていたからだ。当然ながら相方の「おさる」も二つ返事で了解していた。

(1983年に豊橋で撮影したかつて飯田線で運用されていた車両である・・・などと回りくどい言い方をしたが、かつては旧型車の宝庫であった。だが、後の119系に置き換わり面目を一新した。これは私が撮影。)
しかし、地図上では近いはずだが、飲食店になかなか着かない。ようやく到着した頃には滞在時間が1時間を切っていた。だが、久々の鉄道旅で気心知れた仲間との旅は、そんな小さなハプニングも気にしないで済む。だが、これから先に待っている更なるハプニングも知らぬまま、新しい旅のスタイルのドアを開けた瞬間でもあったのだ。

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(1983年に訪問した清水であるが、写真奥に停車中の旧型客車は在りし日の清水港線である。晩年では一日一往復のみの旅客列車設定であり乗りつぶし泣かせでもあったが、同区間では静鉄バスが頻繁に運転されていたため、清水港線の廃止は地元の方にとっては特に問題はなかったであろう。現在写真の場所はロータリーなどに変身していてかつての面影はほとんど無い。)
国鉄時代、私は清水港線を制覇するのに大垣夜行を使った事がある。一応、自慢ではないが湘南地区に在住のため始発などを使えば清水港の始発に間に合いそうであるが、残念ながらタッチの差で手が届かなかったのだ。そのため大垣夜行で浜松まで行き、折り返し上り列車で清水へ向かった。だが、逆にそれだと時間がかなり余ってしまい、浜松で2時間、清水で一時間半のインターバルがあった。清水の1時間半がいいとしても、浜松の2時間はかなり辛い。しかも未明の4時台のため飲食店なども営業していないのでかなりの精神修行となる。それでも間に合わないよりは良いと、7~8人の集団に了解を得た。いや、正確には私の所属していた「鉄道研究クラブ」の顧問の提案であるが、逆にそれしか方法は無かった。
「鉄道研究クラブ」とは中学校の部活であるが、クラブ活動の一環として行われたため当然顧問である教諭も同行。清水港線巡りはまだ「青春18」が登場して2年~3年目くらいだったが、既に何度か「18」を使い旅に出ているので、この切符も徐々に私の中で馴染んで来ていた頃でもあった。

(そしてこちらも別の日に撮影した浜松である。静岡同様の高架駅に生まれ変わり、正直、ほとんど区別がつかないが、ムーンライトの長時間停車時にはやたら貨物列車が追い抜いていく。)
そんな思い出ある大垣夜行も「ムーンライトながら」に変わり途中駅からでも指定席を購入する事で座れるまでに成長した大垣夜行であるが、更に165系のボックスシートではなくなりリクライニングもできて嬉しい事は何度も述べてしまった。
ただ、今回は未明の豊橋で下車する初体験物語なのだ。しかも鉄道素人を引き連れての旅は、私の舵取りひとつにかかっている。とりあえずここは後の事を考え、豊橋までは無理してでも仮眠を取らなければならない。私はいつしか回るアルコールに身を任せ夢の中へと誘われたのであった。

(そしてこちらは当日「おさる」が撮影した豊橋である。民衆駅第一号として知れ渡っているが、名鉄と飯田線は同じ乗り場から発着する。途中の平井信号場まで線路を共用するのはかつての歴史的名残であるのは周知の通り。)
やがて豊橋に到着した。既に何駅か前に意識が戻り下車への準備が整っていたのだからたいしたものだ。やはり「野生の勘」とでもいおうか、国鉄時代に培われた私の乗りつぶし旅の野生の勘は23年のブランクなど関係なかった。
ではなぜ野生の勘が働いたのか?
理由は単純だ。実は飯田線の始発まで約2時間待ちであるのだが、その待ち時間を利用して飲食店にて早めの朝食を摂ろうと計画していたのだ。もちろんリカー対応の飲食店をネット検索。朝の目覚めの一杯には最適であろうと出発前からひとつの目玉としていたからだ。当然ながら相方の「おさる」も二つ返事で了解していた。

(1983年に豊橋で撮影したかつて飯田線で運用されていた車両である・・・などと回りくどい言い方をしたが、かつては旧型車の宝庫であった。だが、後の119系に置き換わり面目を一新した。これは私が撮影。)
しかし、地図上では近いはずだが、飲食店になかなか着かない。ようやく到着した頃には滞在時間が1時間を切っていた。だが、久々の鉄道旅で気心知れた仲間との旅は、そんな小さなハプニングも気にしないで済む。だが、これから先に待っている更なるハプニングも知らぬまま、新しい旅のスタイルのドアを開けた瞬間でもあったのだ。

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風は秋色・・・秘境駅への招待③
2022-09-10
全く初対面のJR東海373系に「初乗車」した私は更にテンションマックス!車両型式からもわかるように「直流の特急用」車両である。なんたって18切符で乗車できる夜行列車に乗っているのにリクライニングシートだから、それはもう別世界であった。それまでの私の感覚では、普通夜行列車といえば固定ボックスシートが当たり前。リクライニングの夜行列車は、私の経験では国鉄時代の四国で唯一「中村夜行」のみであったのだからそれはもうスペシャルなイメージであった。というか、それ以上にJR東海の車両が東京駅にお目見えする事自体今考えたら貴重な事であろう。

(画像はウィキペディアより拝借させていただいたJR東海の373系。もし1980年代の国鉄時代、大垣夜行でこの車両が運用されていたら画期的な出来事であったろう。私的には何度もこのブログで述べているが、大垣夜行はやはり583系での運用なら最高であった。)
そしてもうひとつ。車内で頂く飲料が、国鉄時代に旅していた私は清涼飲料であったが、現在ははアルコール入り清涼飲料へと変化した事だ。申し訳ないが、23年という月日は飲み物まで私を変えてしまったようだ。ただ、一応深夜の時間帯のため仮眠する意味も込めて飲んではいるが、益々テンションが上がってくる。もちろの周りに迷惑がかかるため音量を最小限に食い止めながらではあるが、恐らく他の乗客も少なくない停車駅でのアクションであまり熟睡できないのが普通であろう。

(別の日の撮影であるが熱海である。JR東日本とJR東海の境界でもあり両者の車両がお目見えする、ある意味貴重な駅でもある。先述の寝台特急「富士」でも少し触れたが、別府や登別など「温泉」と名乗らなくても地名のみで温泉場とわかる意味では非常に名が高い。)
熱海、沼津、富士などを停車し、やがて静岡に到着した。走っている間はところどころ記憶がないという事は若干寝落ちしていた事になるが、やはりリクライニングだと気持ちにもゆとりがでる。本来私は深夜の仮眠時にはむかしからそうなのだが、防犯機能が働いて眠りが浅くなる。つまり意識はあるのだ。ただ、リクライニングとなるとやや油断してしまったのであろう。気を引き締めなければいかんななどと考えてうとうとしているとやがて静岡に到着した。

(そしてこちらも別の日の撮影であるが静岡である。1979年に高架化が完成されているが、私は1977年頃に初訪している。その時は下り線のみ高架化されていたと記録されているが、確かに高架化の工事真っ最中で地上の駅舎に出た記憶が僅かにある。後に放送された「西部警察」では高架化完成後の駅前再開発により地上時代のレールなどを撤去しで更地になっていた場所に石原裕次郎がヘリコプターで着陸するシーンが放送された。もちろん駅前はギャラリー多数!)
「べんと~うっ!」の声がこだまする風景は大垣夜行時代で終了し、ムーンライトになってからの静岡は静寂に包まれ、逆に変な違和感を感じたのは私だけであろうか?しかし、静岡辺りって凄く空腹感に襲われるんだよな~的なドンピシャでの駅弁販売は昔の名物になっていた。既に過去の思い出となってしまった静岡の駅弁売りであるが、昼間の売れ残りではなくわざわざ大垣夜行のために新たに製造した弁当が売られいるのだから驚いてしまう。そして弁当はもちろんだがあの「お茶」がまた旨いんだよな~的なお馴染み感が私を襲った。昔よく上野とかで買ったよな~と思ったが、既に時代は変わりペットボトル等の飲料が自販機などで気軽に買える。ただ、こうした昭和の名物も無くなり寂しい限りであるが、鉄道素人の「おさる」を引き連れ、おさるが教えてくれた秘境駅というジャンルを迎えるだけでも新鮮なのに、こうしてお年玉も付いてくるのだから鉄道旅は面白い。豊橋までまだまだ時間がある。私は興奮覚め止まぬまま、アルコールで一旦喉を潤し、コアラのような体制で仮眠をとり始めた。

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(画像はウィキペディアより拝借させていただいたJR東海の373系。もし1980年代の国鉄時代、大垣夜行でこの車両が運用されていたら画期的な出来事であったろう。私的には何度もこのブログで述べているが、大垣夜行はやはり583系での運用なら最高であった。)
そしてもうひとつ。車内で頂く飲料が、国鉄時代に旅していた私は清涼飲料であったが、現在ははアルコール入り清涼飲料へと変化した事だ。申し訳ないが、23年という月日は飲み物まで私を変えてしまったようだ。ただ、一応深夜の時間帯のため仮眠する意味も込めて飲んではいるが、益々テンションが上がってくる。もちろの周りに迷惑がかかるため音量を最小限に食い止めながらではあるが、恐らく他の乗客も少なくない停車駅でのアクションであまり熟睡できないのが普通であろう。

(別の日の撮影であるが熱海である。JR東日本とJR東海の境界でもあり両者の車両がお目見えする、ある意味貴重な駅でもある。先述の寝台特急「富士」でも少し触れたが、別府や登別など「温泉」と名乗らなくても地名のみで温泉場とわかる意味では非常に名が高い。)
熱海、沼津、富士などを停車し、やがて静岡に到着した。走っている間はところどころ記憶がないという事は若干寝落ちしていた事になるが、やはりリクライニングだと気持ちにもゆとりがでる。本来私は深夜の仮眠時にはむかしからそうなのだが、防犯機能が働いて眠りが浅くなる。つまり意識はあるのだ。ただ、リクライニングとなるとやや油断してしまったのであろう。気を引き締めなければいかんななどと考えてうとうとしているとやがて静岡に到着した。

(そしてこちらも別の日の撮影であるが静岡である。1979年に高架化が完成されているが、私は1977年頃に初訪している。その時は下り線のみ高架化されていたと記録されているが、確かに高架化の工事真っ最中で地上の駅舎に出た記憶が僅かにある。後に放送された「西部警察」では高架化完成後の駅前再開発により地上時代のレールなどを撤去しで更地になっていた場所に石原裕次郎がヘリコプターで着陸するシーンが放送された。もちろん駅前はギャラリー多数!)
「べんと~うっ!」の声がこだまする風景は大垣夜行時代で終了し、ムーンライトになってからの静岡は静寂に包まれ、逆に変な違和感を感じたのは私だけであろうか?しかし、静岡辺りって凄く空腹感に襲われるんだよな~的なドンピシャでの駅弁販売は昔の名物になっていた。既に過去の思い出となってしまった静岡の駅弁売りであるが、昼間の売れ残りではなくわざわざ大垣夜行のために新たに製造した弁当が売られいるのだから驚いてしまう。そして弁当はもちろんだがあの「お茶」がまた旨いんだよな~的なお馴染み感が私を襲った。昔よく上野とかで買ったよな~と思ったが、既に時代は変わりペットボトル等の飲料が自販機などで気軽に買える。ただ、こうした昭和の名物も無くなり寂しい限りであるが、鉄道素人の「おさる」を引き連れ、おさるが教えてくれた秘境駅というジャンルを迎えるだけでも新鮮なのに、こうしてお年玉も付いてくるのだから鉄道旅は面白い。豊橋までまだまだ時間がある。私は興奮覚め止まぬまま、アルコールで一旦喉を潤し、コアラのような体制で仮眠をとり始めた。

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風は秋色・・・秘境駅への招待②
2022-09-03
「いい旅チャレンジ20000km」を勝手に再開した私であるが、今回の未乗車路線の制覇予定は飯田線と身延線がセットされている。「おさる」には申し訳ないが、私のわがままに少々お付き合いいただこう。
という事で約23年ぶりの遠征となるわけであるが、実は今回の旅の予行練習として18切符を使い銚子電鉄を日帰りで訪問している。約23年ぶりという事でおさるに迷惑をかけてはならないと、銚子を訪問する事で少しでも旅の感覚を取り戻そうというわけだ。もちろん銚子への訪問のお陰で昔の感覚を取り戻す事が出来たが、国鉄時代とは違いJR化後にリニューアルされている駅や車両が当然ながら多く、少々戸惑う部分も正直あった。
ただ、車両や駅は変われど肌感覚というか、いわゆる「第六感」的な感覚が私のどこかに根付いており、鉄道という偉大な「神」が私を素直に受け入れてくれた感じがした。そのため乗り換えや撮影もスムーズに進行され、数日後に迫ったおさるとの遠征も「よし、行ける!」との感覚が芽生えてきた。

小田急線・藤沢はスイッチバックの形状をしているため全ての列車が停車するが、昭和初期の開業のため現在のニーズには合わず、改良に次ぐ改良でも苦難の色が見える。駅前も開業当時の面影等ほとんどないほど発展しており制約を受けるためホームがポイントギリギリまで延伸されているが、もしホームを更に延伸改良するならば、残された道は地下化しかないであろう。しかし現実的ではないので、あとはダイヤモンドビルを飲み込み町田のような形にするしかない。
そんな感覚を維持しながら夜に向かうおさる宅は何となく違和感を感じた。夜におさる宅へ向かうという事は、普段は「飲み」のイベントが当たり前だったので、これから彼と旅へ行くという事は初めてのイベントである。全く異なる新世界への挑戦は、新たな二人を発見しそうだ。
ところでなぜ夜なのか?それは夜行列車乗車を意味する。23年ぶりの旅をするために銚子へ予行練習をしたが、夜行列車については感覚を取り戻していない。いや、正確には半年前に寝台特急「北陸」に乗り久々の夜行列車を体験しているので大丈夫だと思うが、今回は国鉄時代の「大垣夜行」から変身した「ムーンライトながら」に乗車する予定を組んだため少々不安もあった。ただ、大垣夜行とムーンライトながらで決定的に違うのは、ムーンライトながらは全席指定のため、途中の停車駅である小田原などから乗車できるようになった事だ。大垣夜行時代は「18切符」の利用期間中は東京駅で2~3時間くらい待たないと座れないイメージだったので、これは嬉しい変化であった。

今回乗車した「ムーンライトながら」は373系であったが、写真がなかったので189系バージョンにて代用させていただいた。ご存知、189系「ながら」は臨時列車バージョンであるが、こういった形で使用していただくと乗車する方も得した気分になる。
なんだかんだ言いながら、理屈をつけつつも昔の感覚を取り戻していた私はおさるとふたり、夜の鵠沼海岸「駅」に歩いて向かう。いつもはこの時間帯にふたりが会合すると必ず赤ちょうちん的になるのだが、今日は駅に向かう事がふたりにとっても新鮮であった。
鵠沼海岸より小田急江ノ島線に乗り藤沢へ向かう。そして東海道線に乗り換え小田原より「ムーンライトながら」に乗る予定だ。未明の豊橋で下車し若干のインターバル後、飯田線へと突入するわけであるが、久々の普通夜行列車。いや、快速列車に昇格した「大垣夜行」であるが、感覚を取り戻したとは言え、果たして体力的に持つのか・・・そんな不安が頭によぎったが、ここはレールファンの名誉にかけてもおさるを不安にさせてはいけない。藤沢より乗車した東海道線の車内でそんな事をしばらく考えていた。
いよいよ小田原に到着。意外にも「ムーンライト」を利用すると思われる乗客が少なくなかった。マルスで発券された指定席券も新鮮である。そしてやってきた「ムーンライト」は・・・初めて見るJR東海の車両であった。

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という事で約23年ぶりの遠征となるわけであるが、実は今回の旅の予行練習として18切符を使い銚子電鉄を日帰りで訪問している。約23年ぶりという事でおさるに迷惑をかけてはならないと、銚子を訪問する事で少しでも旅の感覚を取り戻そうというわけだ。もちろん銚子への訪問のお陰で昔の感覚を取り戻す事が出来たが、国鉄時代とは違いJR化後にリニューアルされている駅や車両が当然ながら多く、少々戸惑う部分も正直あった。
ただ、車両や駅は変われど肌感覚というか、いわゆる「第六感」的な感覚が私のどこかに根付いており、鉄道という偉大な「神」が私を素直に受け入れてくれた感じがした。そのため乗り換えや撮影もスムーズに進行され、数日後に迫ったおさるとの遠征も「よし、行ける!」との感覚が芽生えてきた。

小田急線・藤沢はスイッチバックの形状をしているため全ての列車が停車するが、昭和初期の開業のため現在のニーズには合わず、改良に次ぐ改良でも苦難の色が見える。駅前も開業当時の面影等ほとんどないほど発展しており制約を受けるためホームがポイントギリギリまで延伸されているが、もしホームを更に延伸改良するならば、残された道は地下化しかないであろう。しかし現実的ではないので、あとはダイヤモンドビルを飲み込み町田のような形にするしかない。
そんな感覚を維持しながら夜に向かうおさる宅は何となく違和感を感じた。夜におさる宅へ向かうという事は、普段は「飲み」のイベントが当たり前だったので、これから彼と旅へ行くという事は初めてのイベントである。全く異なる新世界への挑戦は、新たな二人を発見しそうだ。
ところでなぜ夜なのか?それは夜行列車乗車を意味する。23年ぶりの旅をするために銚子へ予行練習をしたが、夜行列車については感覚を取り戻していない。いや、正確には半年前に寝台特急「北陸」に乗り久々の夜行列車を体験しているので大丈夫だと思うが、今回は国鉄時代の「大垣夜行」から変身した「ムーンライトながら」に乗車する予定を組んだため少々不安もあった。ただ、大垣夜行とムーンライトながらで決定的に違うのは、ムーンライトながらは全席指定のため、途中の停車駅である小田原などから乗車できるようになった事だ。大垣夜行時代は「18切符」の利用期間中は東京駅で2~3時間くらい待たないと座れないイメージだったので、これは嬉しい変化であった。

今回乗車した「ムーンライトながら」は373系であったが、写真がなかったので189系バージョンにて代用させていただいた。ご存知、189系「ながら」は臨時列車バージョンであるが、こういった形で使用していただくと乗車する方も得した気分になる。
なんだかんだ言いながら、理屈をつけつつも昔の感覚を取り戻していた私はおさるとふたり、夜の鵠沼海岸「駅」に歩いて向かう。いつもはこの時間帯にふたりが会合すると必ず赤ちょうちん的になるのだが、今日は駅に向かう事がふたりにとっても新鮮であった。
鵠沼海岸より小田急江ノ島線に乗り藤沢へ向かう。そして東海道線に乗り換え小田原より「ムーンライトながら」に乗る予定だ。未明の豊橋で下車し若干のインターバル後、飯田線へと突入するわけであるが、久々の普通夜行列車。いや、快速列車に昇格した「大垣夜行」であるが、感覚を取り戻したとは言え、果たして体力的に持つのか・・・そんな不安が頭によぎったが、ここはレールファンの名誉にかけてもおさるを不安にさせてはいけない。藤沢より乗車した東海道線の車内でそんな事をしばらく考えていた。
いよいよ小田原に到着。意外にも「ムーンライト」を利用すると思われる乗客が少なくなかった。マルスで発券された指定席券も新鮮である。そしてやってきた「ムーンライト」は・・・初めて見るJR東海の車両であった。

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