西遊記 ②
2022-11-26
今回の旅のスタートはお馴染み「ムーンライトながら」であった。2022年現在では既に廃止されて久しくなってしまったが、夜行列車というジャンルは平成になってからは役割を夜行高速バスに譲ったイメージになり次々とフェードアウトしていった。そして大垣夜行時代から続いた「ムーンライトながら」も臨時便に格下げされ夜行列車の時代の終焉に拍車をかけた時期でもあった。であるが、臨時便があるだけでも嬉しい。私は残り少ないチャンスを少しでも活かそうと、ムーンライトの指定席奪取にいつしか全力を注ぐ日々が続いた。
先述通り、この旅はムーンライトでの出陣となったが、今回は189系での門出となったのは嬉しい材料である。189系といえば昔は信越方面で活躍していたイメージであるが、まさか東海道の道のりで身を委ねるとは思ってなかった。国鉄時代を知る者からすれば当時でもかなり貴重な存在になっていたが、例え快速列車であろうとクラッシュされずに生き残っていたのは嬉しい材料である。ただ、できればこのムーンライト系の運用は583系が望ましいのだが…

今回はウィキペディアの写真を拝借しての紹介で申し訳ないが、大垣に停車中の「ムーンライトながら」である。ここで下り大阪方面への乗り換える場合、通称「大垣ダッシュ」と呼ばれるイベントが発生する。なぜ同一ホームでの乗り換えにしてくれないのですか?と言いたくなるような大移動があり、乗り換える側も見ている側もヒヤヒヤする。
ということで、ムーンライトを小田原から乗る。かつての大垣夜行時代では、特に「18」シーズンでは東京以外の乗車で確実に座れるなど考えられなかった風景だったので、改めて新鮮さを感じる。もちろん、既にレールファンを復活させ何度かムーンライトにはお世話になっているが、かつての特急車両となればまた趣きも変わってくる。JR東海系車両も悪くないが、やはり私は当時「国鉄」の方が胸騒ぎが収まらなくなる。今回は大垣まで行かずに名古屋で下車予定なので、少々もったいないがアルコールで喉を潤しラッコのような体勢でしばらく仮眠をとることにした。

今回私が乗車した「ムーンライトながら」のイメージはウィキペディアより参照させていただいた。既に定期便から外れ臨時便に格下げされた「ながら」であるが、それでも運転されているという事自体が貴重であり嬉し限りであった。そのラッキーな自分の運を最大限に活用しなければならない今回の旅である。
静岡や浜松を過ぎるとなんと豊橋を通過した!のだが、確か笠寺か熱田だ辺りで一時間くらいの運転停車があった。レールファン以外であれば何でずっと止まっているのかとか、逆に全く気にならないかのどちらかであろうが、レールファンの私には即座にその列車の行動が「運転停車」という事に気付き、通過するいくつもの貨物列車等が気になってしまうので逆に寝れない。しかも国鉄時代の車両のためモーター音が懐かしくそっちも気になる。もうすぐ名古屋だというのに笠寺辺りでの運転停車により時間調整された「ムーンライトながら」はようやく薄暗い名古屋のホームに滑り込んだ。当然ながら下車客がかなりいたが、恐らくその不特定多数の方は「大垣ダッシュ」を嫌い、別の手段や路線を使って各方面へと散っていくのであろう。私もその下車客のひとりとなり、大垣ダッシュが無い行程にホッと旨を撫でおろしながら薄暗い空を見上げながら中央線のホームへ向かった。

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先述通り、この旅はムーンライトでの出陣となったが、今回は189系での門出となったのは嬉しい材料である。189系といえば昔は信越方面で活躍していたイメージであるが、まさか東海道の道のりで身を委ねるとは思ってなかった。国鉄時代を知る者からすれば当時でもかなり貴重な存在になっていたが、例え快速列車であろうとクラッシュされずに生き残っていたのは嬉しい材料である。ただ、できればこのムーンライト系の運用は583系が望ましいのだが…

今回はウィキペディアの写真を拝借しての紹介で申し訳ないが、大垣に停車中の「ムーンライトながら」である。ここで下り大阪方面への乗り換える場合、通称「大垣ダッシュ」と呼ばれるイベントが発生する。なぜ同一ホームでの乗り換えにしてくれないのですか?と言いたくなるような大移動があり、乗り換える側も見ている側もヒヤヒヤする。
ということで、ムーンライトを小田原から乗る。かつての大垣夜行時代では、特に「18」シーズンでは東京以外の乗車で確実に座れるなど考えられなかった風景だったので、改めて新鮮さを感じる。もちろん、既にレールファンを復活させ何度かムーンライトにはお世話になっているが、かつての特急車両となればまた趣きも変わってくる。JR東海系車両も悪くないが、やはり私は当時「国鉄」の方が胸騒ぎが収まらなくなる。今回は大垣まで行かずに名古屋で下車予定なので、少々もったいないがアルコールで喉を潤しラッコのような体勢でしばらく仮眠をとることにした。

今回私が乗車した「ムーンライトながら」のイメージはウィキペディアより参照させていただいた。既に定期便から外れ臨時便に格下げされた「ながら」であるが、それでも運転されているという事自体が貴重であり嬉し限りであった。そのラッキーな自分の運を最大限に活用しなければならない今回の旅である。
静岡や浜松を過ぎるとなんと豊橋を通過した!のだが、確か笠寺か熱田だ辺りで一時間くらいの運転停車があった。レールファン以外であれば何でずっと止まっているのかとか、逆に全く気にならないかのどちらかであろうが、レールファンの私には即座にその列車の行動が「運転停車」という事に気付き、通過するいくつもの貨物列車等が気になってしまうので逆に寝れない。しかも国鉄時代の車両のためモーター音が懐かしくそっちも気になる。もうすぐ名古屋だというのに笠寺辺りでの運転停車により時間調整された「ムーンライトながら」はようやく薄暗い名古屋のホームに滑り込んだ。当然ながら下車客がかなりいたが、恐らくその不特定多数の方は「大垣ダッシュ」を嫌い、別の手段や路線を使って各方面へと散っていくのであろう。私もその下車客のひとりとなり、大垣ダッシュが無い行程にホッと旨を撫でおろしながら薄暗い空を見上げながら中央線のホームへ向かった。

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西遊記 ①
2022-11-19
鉄道全線乗りつぶしもようやく先が見えて来た2010年頃、全国に所々に散らばっている未乗車区間の穴埋め作業が増えてきた。北方面は近年からの乗りつぶしが多いせいか、割りと計画通りに片付いていったため、ブロックごとの割り振りが出来て将来的な計画が組みやすかった。ただ、西方面はなぜか未乗車区間があちこちに点在し、その路線だけのために計画を組むことになるのは何とも複雑な気持ちであった。特に美祢線はその代表格で、とうとう西日本唯一の未乗車区間となっていた時期があった。もちろん現在は制覇しているが、この美祢線のためにサンライズで往復する旅が出来上がってしまった。

高架化完成間もない姫路で播但線に乗り換える際に見かけた見慣れない列車。私が「いい旅チャレンジ20000km」で全国を「かけめぐる青春」していた時にはこんな列車なかったぞっ!って、これ「超白うさぎ」であってますか?
ただ、美祢線は私の地元神奈川からだと「18」のみでは到底時間との戦いとなってしまうのでそれなりのプランと経費をかけなければならないが、関西方面では1泊2日でも充分可能な範囲である。
そこで私は国鉄時代に未制覇だった播但線と、国鉄時代にはなかった智頭急行をペアで組み込んだ。その道中では未制覇だった東海交通事業と養老鉄道もどさくさに紛れ組てみ込めば全て安泰となり効率よく制覇路線が増えていくわけだ。そして1泊2日で芸術的なプラニングを立案し「西遊記」がスタートするわけだ。

枇杷島で撮影した東海交通事業のキハ。「城北線」というのですね。元々は国鉄の貨物専用路線としての計画であったので設備は本線規格で立派なレールが敷かれてたが、そこに一両のキハとはややもったいない気持ちになる。
ただ、いくら芸術的なプラニングをしてもだれも誉めてくれるわけでもなく、そしてどこかの機関から賞などをもらえるわけでもない。更にこちらは芸術的と思っても、他の方はもっと芸術的なプラニングをしてくるかも知れない。とにかく良い・悪いは別として、その積み重ねでいつか全線制覇できる日がいつか必ず来る、と信じての旅立だった。
私にとっての「東海交通事業」「養老鉄道」などほとんど馴染みの無い未知の世界にこれから足を踏み入れようとしている。こうして「全線制覇」というテーマが無ければ一生乗らなかったであろう鉄道路線と向き合えるという特典も付いてくるのがラッキーとも言えるが、余りにもテーマが大きすぎる。しかしながら当時は一歩、また一歩と、それは将棋の「歩」のような歩みであったが、いつかは「成り歩」となり着実に前や横にもに進み、やがてそれは大きな足跡となることであろう。そんな思いを僅かながらに感じ始めた時期でもあった。

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高架化完成間もない姫路で播但線に乗り換える際に見かけた見慣れない列車。私が「いい旅チャレンジ20000km」で全国を「かけめぐる青春」していた時にはこんな列車なかったぞっ!って、これ「超白うさぎ」であってますか?
ただ、美祢線は私の地元神奈川からだと「18」のみでは到底時間との戦いとなってしまうのでそれなりのプランと経費をかけなければならないが、関西方面では1泊2日でも充分可能な範囲である。
そこで私は国鉄時代に未制覇だった播但線と、国鉄時代にはなかった智頭急行をペアで組み込んだ。その道中では未制覇だった東海交通事業と養老鉄道もどさくさに紛れ組てみ込めば全て安泰となり効率よく制覇路線が増えていくわけだ。そして1泊2日で芸術的なプラニングを立案し「西遊記」がスタートするわけだ。

枇杷島で撮影した東海交通事業のキハ。「城北線」というのですね。元々は国鉄の貨物専用路線としての計画であったので設備は本線規格で立派なレールが敷かれてたが、そこに一両のキハとはややもったいない気持ちになる。
ただ、いくら芸術的なプラニングをしてもだれも誉めてくれるわけでもなく、そしてどこかの機関から賞などをもらえるわけでもない。更にこちらは芸術的と思っても、他の方はもっと芸術的なプラニングをしてくるかも知れない。とにかく良い・悪いは別として、その積み重ねでいつか全線制覇できる日がいつか必ず来る、と信じての旅立だった。
私にとっての「東海交通事業」「養老鉄道」などほとんど馴染みの無い未知の世界にこれから足を踏み入れようとしている。こうして「全線制覇」というテーマが無ければ一生乗らなかったであろう鉄道路線と向き合えるという特典も付いてくるのがラッキーとも言えるが、余りにもテーマが大きすぎる。しかしながら当時は一歩、また一歩と、それは将棋の「歩」のような歩みであったが、いつかは「成り歩」となり着実に前や横にもに進み、やがてそれは大きな足跡となることであろう。そんな思いを僅かながらに感じ始めた時期でもあった。

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上り「2038レ」発車!
2022-11-12
「上り2038レ発車!」
そんな車掌の声がこだまする貨物・客車の「混合列車」は車掌の合図とともに只管雨の鉄路を突き進む・・・私はそんな列車に一気に引き付けられてしまった。今でもハッキリと覚えている車掌の声。と言うより「声紋」までハッキリと記憶にある感がある。
突然「2038レ」と言われても、相当のコアなファンで無い限り全く意味が分からないであろう。2038レ・・・1980年代の時刻表をお持ちの方は是非開いていただきたい。
当時の「国鉄監修・交通公社の時刻表」を開いていただくと貨物列車の時刻も掲載されていることに気付くはずだ。私の紹介している「2038レ(2038列車)」は鹿児島本線上り列車であった。貨物列車としては鹿児島発熊本行であるが、旅客列車としては川内発八代行の普通列車である。つまり今紹介している列車は貨物・旅客の混合列車である。

(画像はウィキぺディアより。「2038レ」ではないが、混合列車のイメージとして使用させていただいた。実際の「2038レ」は貨物編成の最先端に一両の旧型客車が連結されている姿であった。)
1983年3月31日、私は鹿児島交通制覇の後に鹿児島本線を北上。更に北へ向かうため既に夜の時間帯である川内よりこの「2038レ」に乗った。もちろん選んで乗車したわけではなく、単純に熊本方面へ向かうために予定を組んだ全くの偶然であった。その偶然が引き寄せた幸運とでも言おうか・・・よく人は「運命の出会い」などと表現する事が多々あるが、私の場合も例に漏れず、ラブストーリーは突然に・・・
私を待っていたのは長い編成の貨物列車の最先端、つまり機関車の後ろにポツンと旧客が一両連結されていた「普通列車」であった。
伊集院からやってきた私は早速川内で2038列車に乗り換える。当日は土砂降りの雨であったが、乗り換える列車へ向かうホームの屋根が途切れていた記憶で、やや濡れながら速攻で列車の先頭へ向かった。列車はいるのだが、混合列車のため客車を探すのにも大変だ。というより、混合列車という事を知ったのは後からで、当日はまったくその認識は無く、ただ、同じ方面へ向かうと思われる乗り換え客に付いて行っただけなのだ。だがそこに待っていたのは機関車の次に連結されている一両の旧型客車であった。「たった一両で座れるかなぁ・・・」という不安もあったが、結果的に座席を選べるほどの乗車率のためある意味助かった。
発車のベルが鳴り止み、雨の中健気に北へ向かう列車であるが、貨物列車としては「運転停車」としての扱いで各駅に停車し「普通列車」として乗客を降ろしていく。時間帯的にこの列車はもちろん最終列車の役割をしているが、この時間帯に運転される貨物列車に客車をつなぐ事で効率よく増収を図る・・・的な意味も何気なく込められている事であろう。何気ない普段着の混合列車であったが、何故か列車が進む毎に気持ちが高ぶってきた。

(当時の思い出として「2038レ」に乗車する前に鳥栖で買った、なんと入場券!硬券が欲しかったのだが在庫が無かったのであろう。取り合えず間に合わせの措置と思われるが、今となってはかなりレアな物になってしまった。)
さて、そんな列車に揺られながら八代目指すにはわけがあった。そう、この旅の乗車券・・・実は「18」なのだ。つまり乗車できる列車が制限されてしまう・・・
私がこの「2038レ」に揺られているのはもう夜の時間帯だ。本来なら普通夜行列車に乗って福岡方面へと入りたかったのだが、当時鹿児島本線には夜行普通列車が存在せず「かいもん」が夜行急行列車として活躍していた。もちろん別料金が、いや別料金どころか正規運賃が発生するので当時中学生の私が乗車するには勇気がいる。だが、夜行の「普通列車」が無い中、今回の旅の考え方としては、この夜となってしまった鹿児島本線を北上するため行けるところまで普通列車行き、途中に「かいもん」を挟み都合の良い始発列車のある駅で降りるという作戦を組んだ。確か乗車券込で2500円くらいだったと思うが、眠りながら移動できるのだから背に腹は変えられない。だが、そこで出会った「偶然」は30年以上経ってもしっかり記憶にある素敵な列車であった。
この「2038レ」は貨物列車としての使命もあり阿久根で14分、出水で25分、水俣で40分、と長時間の停車がある。変な話、袋から津奈木に乗車する乗客がいるとすると・・・普段は10分位の距離であるが、間に水俣を挟むことによって1時間もかかってしまうのだ!実際にそのような乗客がいるかどうかは別として、何とも異色な移動手段ではなかろうか?いや、基本的に、この列車の主役は貨物で、旅客扱いはバイプレイヤー的存在なのであろう。
そんな貨物列車の最先端にいるたった一両の「普通列車」は各駅ごとに車掌の合図がこだまする。つまりこの客車は「車掌室」も兼ねているのだ!しかもその車掌は乗務員室にはおらず、客席をワンボックス占領し乗務をしていた。そして列車が発車する際に「上り2038レ発車」と窓を開けて機関車に合図を送る!!素晴らしい!素晴らしく素敵だ、と思うのは恐らく私くらいか?この車掌の行動が私を一気に引き付ける最大のイベントとなったのだ。しかしながら主要駅では車掌室に向かい「次は阿久根です。お忘れ物ございませんようご注意ください。」のような車内放送が入る。これもなかなかいい!このメリハリが更にこの列車を魅力的にしていく。私は車掌の占領している座席の2、3列後ろ斜め向かいに座っていたが、車掌の動きの一部始終を確認できるため、時計の針が12時を越え日付が変わっても一向に眠くならない。いや、寝る体勢にはなっていたが、車掌の行動を見るのが楽しく寝れるわけがない!
そんなワクワク感を抱いたまま八代に着いたのは深夜1時15分。下車したのは私たちのみであった記憶だ。私たちが下車して間もなく客車内が消灯された。10分の停車後、たった一両の「普通列車」は車掌を乗せたまま回送という形で熊本に向かっていった。正直、車掌にそのまま熊本まで連れて行って欲しいと直談判しようとも思ったが、もちろん断られたであろう。私はおとなしくホームから2038レを見送った・・・

(ダイナミック☆トナカイより提供の清水港線の列車は、混合列車の「代表」と言っても過言ではないであろう。ちなみに私もこの清水港線は同行しているが、こちらも貨物編成の最後尾に2両の客車が連結されていた。)
私も数々の混合列車に乗って来たがこれほど印象強い列車は無かった。もちろんこの列車について各メディアなどが取り上げた記憶が無い。それこそ当時の鉄道誌などは「824レ」などが話題になっていた時代だ。「824レ」と聞いてすぐにお分かりの方は私と同世代が先輩であろうと思われるが、この列車は1980年代に「日本最長距離を走る普通列車」として有名であった。これは山陰本線で運転されていたものであるが、この「最長距離」をもってしても山陰本線を全区間運転されていたわけではない。そんな華やかな列車とはほど遠い私の「2038レ」は、私の中では失礼ながら「824レ」より輝いていた。
このブログをご覧になっている皆様も「思い入れのある列車」と言うのが必ずあるはずだ。私の場合、どうしてもこういうマイナーな列車になってしまうが人一倍思い入れが強い。かつて私が中学時代に所属していたクラブ活動「鉄道研究クラブ」にて鉄道誌を発行していたが、当時この「2038レ」の記事をその鉄道誌に載せてしまった。まぁ、私が編集長をしていたので「職権乱用」ではないが、このようなマイナーな列車の乗車記が果たして皆に受け入れられたかどうか・・・と今になって思う。しかし当時の部活顧問であった教諭からは普通に「評価」されたのが実に良かった。普段はあまり褒めたりする印象が無かったが(と思っていたのは私だけかもしれないが)、普通に「これ、いいね」と言っていた。まぁ、以前にも触れた事であるが、その教諭には鉄道誌数冊を貸し出しているのだが30年以上経過した現在も返却が無いし連絡もない・・・と全く個人的な事で申し訳ないが、こんな思い出がこの列車を振り返ると思い出される。

(画像はウィキぺディアよりの貨物列車。かつて混合列車と言えば先述の清水港線はもちろん、福知山支線<塚口~尼崎港>でも活躍していた。だが、私の紹介している「2038レ」は表に出てこない地味な存在であった。)
失礼ながら、このブログをご覧になっている皆様、「2038レ」と最初に言われて「?」であったと思う。私自身、この列車に乗る前は予備知識など全く無くノーマークであった。しかしこういった列車に偶然出会えたのは実に幸運であったとの思いは先述した通りだ。今となっては混合列車という列車自体が「伝説」となってしまった。もちろん体験したくても現在は叶わぬ夢かも知れない。しかしながら古き良き昭和の思い出としてこれからも私のブログで再び紹介する機会もある事であろう。その時はまたお付き合いいただければ幸いである。そしてこの車掌の言葉を再び記す事になろう。「上り2038レ発車!」

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続きを読むをクリックしていただくと、私が中学時代の学校でのクラブ活動「鉄道研究クラブ」の時に書いた「体験乗車記 2038レ に乗って」がご覧いただける。中学生の文章なのでそのあたりは「ご了承」いただきたいが、とりあえず原文のまま載せさせていただいた。ちなみにこの鉄道研究クラブで発行していた「えき」という鉄道誌では先述通り私は編集長であったので、編集長が編集した責任重大な記事であった!!とは言え、他の所属員の記事を前面に出し、私のこの記事は巻末に載せた。それくらい地味な列車であったがその思いは果てしない。(「いじらしい」の使い方を少々間違えている場面もあるが、なにせ「中学生」なもので・・・)
そんな車掌の声がこだまする貨物・客車の「混合列車」は車掌の合図とともに只管雨の鉄路を突き進む・・・私はそんな列車に一気に引き付けられてしまった。今でもハッキリと覚えている車掌の声。と言うより「声紋」までハッキリと記憶にある感がある。
突然「2038レ」と言われても、相当のコアなファンで無い限り全く意味が分からないであろう。2038レ・・・1980年代の時刻表をお持ちの方は是非開いていただきたい。
当時の「国鉄監修・交通公社の時刻表」を開いていただくと貨物列車の時刻も掲載されていることに気付くはずだ。私の紹介している「2038レ(2038列車)」は鹿児島本線上り列車であった。貨物列車としては鹿児島発熊本行であるが、旅客列車としては川内発八代行の普通列車である。つまり今紹介している列車は貨物・旅客の混合列車である。

(画像はウィキぺディアより。「2038レ」ではないが、混合列車のイメージとして使用させていただいた。実際の「2038レ」は貨物編成の最先端に一両の旧型客車が連結されている姿であった。)
1983年3月31日、私は鹿児島交通制覇の後に鹿児島本線を北上。更に北へ向かうため既に夜の時間帯である川内よりこの「2038レ」に乗った。もちろん選んで乗車したわけではなく、単純に熊本方面へ向かうために予定を組んだ全くの偶然であった。その偶然が引き寄せた幸運とでも言おうか・・・よく人は「運命の出会い」などと表現する事が多々あるが、私の場合も例に漏れず、ラブストーリーは突然に・・・
私を待っていたのは長い編成の貨物列車の最先端、つまり機関車の後ろにポツンと旧客が一両連結されていた「普通列車」であった。
伊集院からやってきた私は早速川内で2038列車に乗り換える。当日は土砂降りの雨であったが、乗り換える列車へ向かうホームの屋根が途切れていた記憶で、やや濡れながら速攻で列車の先頭へ向かった。列車はいるのだが、混合列車のため客車を探すのにも大変だ。というより、混合列車という事を知ったのは後からで、当日はまったくその認識は無く、ただ、同じ方面へ向かうと思われる乗り換え客に付いて行っただけなのだ。だがそこに待っていたのは機関車の次に連結されている一両の旧型客車であった。「たった一両で座れるかなぁ・・・」という不安もあったが、結果的に座席を選べるほどの乗車率のためある意味助かった。
発車のベルが鳴り止み、雨の中健気に北へ向かう列車であるが、貨物列車としては「運転停車」としての扱いで各駅に停車し「普通列車」として乗客を降ろしていく。時間帯的にこの列車はもちろん最終列車の役割をしているが、この時間帯に運転される貨物列車に客車をつなぐ事で効率よく増収を図る・・・的な意味も何気なく込められている事であろう。何気ない普段着の混合列車であったが、何故か列車が進む毎に気持ちが高ぶってきた。

(当時の思い出として「2038レ」に乗車する前に鳥栖で買った、なんと入場券!硬券が欲しかったのだが在庫が無かったのであろう。取り合えず間に合わせの措置と思われるが、今となってはかなりレアな物になってしまった。)
さて、そんな列車に揺られながら八代目指すにはわけがあった。そう、この旅の乗車券・・・実は「18」なのだ。つまり乗車できる列車が制限されてしまう・・・
私がこの「2038レ」に揺られているのはもう夜の時間帯だ。本来なら普通夜行列車に乗って福岡方面へと入りたかったのだが、当時鹿児島本線には夜行普通列車が存在せず「かいもん」が夜行急行列車として活躍していた。もちろん別料金が、いや別料金どころか正規運賃が発生するので当時中学生の私が乗車するには勇気がいる。だが、夜行の「普通列車」が無い中、今回の旅の考え方としては、この夜となってしまった鹿児島本線を北上するため行けるところまで普通列車行き、途中に「かいもん」を挟み都合の良い始発列車のある駅で降りるという作戦を組んだ。確か乗車券込で2500円くらいだったと思うが、眠りながら移動できるのだから背に腹は変えられない。だが、そこで出会った「偶然」は30年以上経ってもしっかり記憶にある素敵な列車であった。
この「2038レ」は貨物列車としての使命もあり阿久根で14分、出水で25分、水俣で40分、と長時間の停車がある。変な話、袋から津奈木に乗車する乗客がいるとすると・・・普段は10分位の距離であるが、間に水俣を挟むことによって1時間もかかってしまうのだ!実際にそのような乗客がいるかどうかは別として、何とも異色な移動手段ではなかろうか?いや、基本的に、この列車の主役は貨物で、旅客扱いはバイプレイヤー的存在なのであろう。
そんな貨物列車の最先端にいるたった一両の「普通列車」は各駅ごとに車掌の合図がこだまする。つまりこの客車は「車掌室」も兼ねているのだ!しかもその車掌は乗務員室にはおらず、客席をワンボックス占領し乗務をしていた。そして列車が発車する際に「上り2038レ発車」と窓を開けて機関車に合図を送る!!素晴らしい!素晴らしく素敵だ、と思うのは恐らく私くらいか?この車掌の行動が私を一気に引き付ける最大のイベントとなったのだ。しかしながら主要駅では車掌室に向かい「次は阿久根です。お忘れ物ございませんようご注意ください。」のような車内放送が入る。これもなかなかいい!このメリハリが更にこの列車を魅力的にしていく。私は車掌の占領している座席の2、3列後ろ斜め向かいに座っていたが、車掌の動きの一部始終を確認できるため、時計の針が12時を越え日付が変わっても一向に眠くならない。いや、寝る体勢にはなっていたが、車掌の行動を見るのが楽しく寝れるわけがない!
そんなワクワク感を抱いたまま八代に着いたのは深夜1時15分。下車したのは私たちのみであった記憶だ。私たちが下車して間もなく客車内が消灯された。10分の停車後、たった一両の「普通列車」は車掌を乗せたまま回送という形で熊本に向かっていった。正直、車掌にそのまま熊本まで連れて行って欲しいと直談判しようとも思ったが、もちろん断られたであろう。私はおとなしくホームから2038レを見送った・・・

(ダイナミック☆トナカイより提供の清水港線の列車は、混合列車の「代表」と言っても過言ではないであろう。ちなみに私もこの清水港線は同行しているが、こちらも貨物編成の最後尾に2両の客車が連結されていた。)
私も数々の混合列車に乗って来たがこれほど印象強い列車は無かった。もちろんこの列車について各メディアなどが取り上げた記憶が無い。それこそ当時の鉄道誌などは「824レ」などが話題になっていた時代だ。「824レ」と聞いてすぐにお分かりの方は私と同世代が先輩であろうと思われるが、この列車は1980年代に「日本最長距離を走る普通列車」として有名であった。これは山陰本線で運転されていたものであるが、この「最長距離」をもってしても山陰本線を全区間運転されていたわけではない。そんな華やかな列車とはほど遠い私の「2038レ」は、私の中では失礼ながら「824レ」より輝いていた。
このブログをご覧になっている皆様も「思い入れのある列車」と言うのが必ずあるはずだ。私の場合、どうしてもこういうマイナーな列車になってしまうが人一倍思い入れが強い。かつて私が中学時代に所属していたクラブ活動「鉄道研究クラブ」にて鉄道誌を発行していたが、当時この「2038レ」の記事をその鉄道誌に載せてしまった。まぁ、私が編集長をしていたので「職権乱用」ではないが、このようなマイナーな列車の乗車記が果たして皆に受け入れられたかどうか・・・と今になって思う。しかし当時の部活顧問であった教諭からは普通に「評価」されたのが実に良かった。普段はあまり褒めたりする印象が無かったが(と思っていたのは私だけかもしれないが)、普通に「これ、いいね」と言っていた。まぁ、以前にも触れた事であるが、その教諭には鉄道誌数冊を貸し出しているのだが30年以上経過した現在も返却が無いし連絡もない・・・と全く個人的な事で申し訳ないが、こんな思い出がこの列車を振り返ると思い出される。

(画像はウィキぺディアよりの貨物列車。かつて混合列車と言えば先述の清水港線はもちろん、福知山支線<塚口~尼崎港>でも活躍していた。だが、私の紹介している「2038レ」は表に出てこない地味な存在であった。)
失礼ながら、このブログをご覧になっている皆様、「2038レ」と最初に言われて「?」であったと思う。私自身、この列車に乗る前は予備知識など全く無くノーマークであった。しかしこういった列車に偶然出会えたのは実に幸運であったとの思いは先述した通りだ。今となっては混合列車という列車自体が「伝説」となってしまった。もちろん体験したくても現在は叶わぬ夢かも知れない。しかしながら古き良き昭和の思い出としてこれからも私のブログで再び紹介する機会もある事であろう。その時はまたお付き合いいただければ幸いである。そしてこの車掌の言葉を再び記す事になろう。「上り2038レ発車!」

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飯田線の後、実は身延線も制覇してましたが。③
2022-11-05
身延を出た私達はいつしか睡魔に襲われていたが、既に夜の時間帯ということもあり、身延を離れるにつれいつしか貸し切り状態になっていた。そのため逆に深い眠りには付けず、駅を停車すく毎に目が覚めた。なぜか防犯機能が働いてしまう私であるが、もちろんもっと乗客がいても防犯機能が働く。つまりいつ、どこで、どういう状況であろうと誰の挑戦でも受けているわけだ。

(身延線の中心駅である身延に到着した。昼間に来れたらもっと風光明媚な風景を楽しめたのかも知れない。もし国鉄時代に訪問を果たしていたらどんな風景が私を待っていたのであろうか。)
そうこうしているうちにやがて西富士宮に着いた。いままではある意味秘境駅訪問の延長みたいなイメージだったが、ここから一気に生活感あふれやや乗客が増えた。そして隣の富士宮より更に乗客が増えた。立ち席が出るほどてはなかったが、やはり通勤客でほぼ占められている。これが正常の鉄道風景であろうか。今までが正常ではなかったのかも知れない。

(富士で東海道線に乗り換える。更に熱海でもJR東日本の車両に乗り換えるのだが、西から東海道線で熱海に着くと、ようやく帰ってきたなという気分になるイメージだ。隣の湯河原より神奈川県になるという事もあろうが、なにせ相模湾が待っているのだから、湘南ボーイとしては安らぎの風景になってくれる。)
ただ、身延線はぜひ113系のクロスシートで制覇してみたかったのだが、叶わなかった。ロングシートでの制覇はややもったいない路線であろう。もちろん身延線には特急列車も運転されているが、クロスシートの普通列車での制覇はある意味醍醐味のような気がする。一昔前の国鉄の風景が見れないのはある意味寂しい。いや、時代の移り変わりに私が付いていけないだけなのだろうか。

(富士では既にご覧の風景。さすがの相方も披露を隠せずにいた。そして東海道線で藤沢へ向かい小田急に乗り換え鵠沼海岸で下車すれば完結となる。だが、流石にこの時間帯からではこの距離はかなり修行の領域となるイメージであった。)
私は一応北陸新幹線の長野~金沢間と北海道新幹線、更に新規開業の西九州新幹線以外ののJR全線を制覇している。いや、もっと正確に言えば東北本線と仙石線をつなぐ短絡線も未制覇である。だがしかし、これは素晴らしい事だ。自画自賛しては申し訳ないが、自分でもよくやったと思う。ただ、その半分くらいは国鉄時代に制覇した路線である。もちろんそれ以来訪問していない路線もあれば何度も再訪した路線もある。しかし、ただ「乗った、乗らない」に限らず昔見たあの国鉄時代の風景が残っているとなぜだか嬉しい。23年のブランクを経て再び乗りつぶしを再開したのは恐らくこの国鉄時代の風景を全国に求めたからであろう。白糠線や相模線寒川支線は廃止されてもまだまだ「国鉄」は全国に残っているはずだ。そんな思いを胸に、私の国鉄探しはこの時から本格的に幕を開けたのであった。

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(身延線の中心駅である身延に到着した。昼間に来れたらもっと風光明媚な風景を楽しめたのかも知れない。もし国鉄時代に訪問を果たしていたらどんな風景が私を待っていたのであろうか。)
そうこうしているうちにやがて西富士宮に着いた。いままではある意味秘境駅訪問の延長みたいなイメージだったが、ここから一気に生活感あふれやや乗客が増えた。そして隣の富士宮より更に乗客が増えた。立ち席が出るほどてはなかったが、やはり通勤客でほぼ占められている。これが正常の鉄道風景であろうか。今までが正常ではなかったのかも知れない。

(富士で東海道線に乗り換える。更に熱海でもJR東日本の車両に乗り換えるのだが、西から東海道線で熱海に着くと、ようやく帰ってきたなという気分になるイメージだ。隣の湯河原より神奈川県になるという事もあろうが、なにせ相模湾が待っているのだから、湘南ボーイとしては安らぎの風景になってくれる。)
ただ、身延線はぜひ113系のクロスシートで制覇してみたかったのだが、叶わなかった。ロングシートでの制覇はややもったいない路線であろう。もちろん身延線には特急列車も運転されているが、クロスシートの普通列車での制覇はある意味醍醐味のような気がする。一昔前の国鉄の風景が見れないのはある意味寂しい。いや、時代の移り変わりに私が付いていけないだけなのだろうか。

(富士では既にご覧の風景。さすがの相方も披露を隠せずにいた。そして東海道線で藤沢へ向かい小田急に乗り換え鵠沼海岸で下車すれば完結となる。だが、流石にこの時間帯からではこの距離はかなり修行の領域となるイメージであった。)
私は一応北陸新幹線の長野~金沢間と北海道新幹線、更に新規開業の西九州新幹線以外ののJR全線を制覇している。いや、もっと正確に言えば東北本線と仙石線をつなぐ短絡線も未制覇である。だがしかし、これは素晴らしい事だ。自画自賛しては申し訳ないが、自分でもよくやったと思う。ただ、その半分くらいは国鉄時代に制覇した路線である。もちろんそれ以来訪問していない路線もあれば何度も再訪した路線もある。しかし、ただ「乗った、乗らない」に限らず昔見たあの国鉄時代の風景が残っているとなぜだか嬉しい。23年のブランクを経て再び乗りつぶしを再開したのは恐らくこの国鉄時代の風景を全国に求めたからであろう。白糠線や相模線寒川支線は廃止されてもまだまだ「国鉄」は全国に残っているはずだ。そんな思いを胸に、私の国鉄探しはこの時から本格的に幕を開けたのであった。

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