西遊記 ⑦
2022-12-31
寺前までは電車で来れたが、ここから先和田山まではディーゼルカーとなる。つまり非電化となるので昔のままの風景である。しかしながら、車両や駅がリニューアルされている部分もあり国鉄時代そのままというわけにはいかない。だが何となく僅かながらに播但線らしさを、いや、国鉄の匂いを私は感じた。


播但線の終点、和田山に着いた。山陰本線ではまだまだ国鉄色豊かな風景が見られる。運転台を取り付ける改造を施し延命措置をとられた国鉄車両はまだまだ現役である事を無言でアピールしているようだ。
さて、和田山に着いた私は山陰本線に乗り鳥取に向かう。実は山陰本線のこの区間の乗車は約27年振りであり、当時は旧型客車の運用による夜行普通列車「山陰」で乗車して以来となる。更にこの区間を何回か通っているが、夜行列車での行き来しかないため昼間の姿を知らないのである。ある意味今回が「初」的な経験であろうがため、特に餘部鉄橋付近は実に楽しみであった。


国鉄カラーが豊富な山陰本線では、点在する電化区間でも国鉄車が対応していた。もちろん播但線も電化・非電化の両区間を乗り換え無しで対応していて、バリエーションが豊かで止まらない!
城崎や豊岡も昼間の姿を見るのが初めてであるが、城崎は国鉄時代より駅名が変わりますます観光色を増したイメージだ。そして豊岡では宮津線、いわゆるかつての北近畿タンゴ鉄道、現在の京丹後鉄道との連絡があり構内が広いイメージもあったが、側線に列車が留置されて構内の様子がわからなかった、しかしまだまだ国鉄時代の雰囲気が充分に伝わってきており、初めてみる日中の豊岡にやや懐かしさを感じる事ができたのが嬉しい材料であった。

車両ばかりではなく、駅風景も国鉄時代を彷彿させる。風光明媚な豊岡ではご覧の景色が健在であった。もちろん、風光明媚とは鉄道関係の設備を指す。
さて、私の乗った列車はいよいよ餘部橋梁にさしかる。先述通りこの場所は夜中にしか通った事がないため迫力とか雰囲気を味わった事が無かった。つまり実質初体験物語である。だが、私の訪問時には既にフェンスが線路脇両サイドに貼られ、国鉄時代の昭和カラー溢れる大迫力のノーフェンスではなかったが、それでも雄大な迫力は圧巻であった。恐らく小橋や武藤辺りがムーンサルトとかを繰り広げたら、それはそれは芸術的に映るであろう、くらいの大パノラマであるが、受ける方も大変であろう…
そんな事を考えながら橋を渡るとすぐに餘部「駅」に接するが、こちらも近年に安全対策が取られかつての迫力は薄れたものの、説得力大であった。
こうして昭和の思い出を見つけながら、私の旅は更に進化し深化していくのであろう。

そしてこんな風景も車窓から飛び出してくる。かつて鉄道が主役だった時代は24時間休むまもなく稼働していた事であろう。
やがて今夜の宿泊地である鳥取に着いた。私の初訪である1982年は既に高架化されていたので、高架化され既に40年以上経過している事になる。そう感じさせない鳥取のホームはなぜか初々しい気持ちになった。旧型客車による普通夜行列車「山陰」から見た朝一番の鳥取の風景とほとんど変わり無く、懐かしさも感じるが、今回の旅では夜の時間帯の到着である。ひさびさに見る鳥取の駅名標を暫く見ていると、何だか豆腐ちくわが食べたくなってきた。私は売店に足を急がせいくつかの酒類を買い込むと、そのまま今宵の宿のある方角に消えていった。

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播但線の終点、和田山に着いた。山陰本線ではまだまだ国鉄色豊かな風景が見られる。運転台を取り付ける改造を施し延命措置をとられた国鉄車両はまだまだ現役である事を無言でアピールしているようだ。
さて、和田山に着いた私は山陰本線に乗り鳥取に向かう。実は山陰本線のこの区間の乗車は約27年振りであり、当時は旧型客車の運用による夜行普通列車「山陰」で乗車して以来となる。更にこの区間を何回か通っているが、夜行列車での行き来しかないため昼間の姿を知らないのである。ある意味今回が「初」的な経験であろうがため、特に餘部鉄橋付近は実に楽しみであった。


国鉄カラーが豊富な山陰本線では、点在する電化区間でも国鉄車が対応していた。もちろん播但線も電化・非電化の両区間を乗り換え無しで対応していて、バリエーションが豊かで止まらない!
城崎や豊岡も昼間の姿を見るのが初めてであるが、城崎は国鉄時代より駅名が変わりますます観光色を増したイメージだ。そして豊岡では宮津線、いわゆるかつての北近畿タンゴ鉄道、現在の京丹後鉄道との連絡があり構内が広いイメージもあったが、側線に列車が留置されて構内の様子がわからなかった、しかしまだまだ国鉄時代の雰囲気が充分に伝わってきており、初めてみる日中の豊岡にやや懐かしさを感じる事ができたのが嬉しい材料であった。

車両ばかりではなく、駅風景も国鉄時代を彷彿させる。風光明媚な豊岡ではご覧の景色が健在であった。もちろん、風光明媚とは鉄道関係の設備を指す。
さて、私の乗った列車はいよいよ餘部橋梁にさしかる。先述通りこの場所は夜中にしか通った事がないため迫力とか雰囲気を味わった事が無かった。つまり実質初体験物語である。だが、私の訪問時には既にフェンスが線路脇両サイドに貼られ、国鉄時代の昭和カラー溢れる大迫力のノーフェンスではなかったが、それでも雄大な迫力は圧巻であった。恐らく小橋や武藤辺りがムーンサルトとかを繰り広げたら、それはそれは芸術的に映るであろう、くらいの大パノラマであるが、受ける方も大変であろう…
そんな事を考えながら橋を渡るとすぐに餘部「駅」に接するが、こちらも近年に安全対策が取られかつての迫力は薄れたものの、説得力大であった。
こうして昭和の思い出を見つけながら、私の旅は更に進化し深化していくのであろう。

そしてこんな風景も車窓から飛び出してくる。かつて鉄道が主役だった時代は24時間休むまもなく稼働していた事であろう。
やがて今夜の宿泊地である鳥取に着いた。私の初訪である1982年は既に高架化されていたので、高架化され既に40年以上経過している事になる。そう感じさせない鳥取のホームはなぜか初々しい気持ちになった。旧型客車による普通夜行列車「山陰」から見た朝一番の鳥取の風景とほとんど変わり無く、懐かしさも感じるが、今回の旅では夜の時間帯の到着である。ひさびさに見る鳥取の駅名標を暫く見ていると、何だか豆腐ちくわが食べたくなってきた。私は売店に足を急がせいくつかの酒類を買い込むと、そのまま今宵の宿のある方角に消えていった。

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西遊記 ⑥
2022-12-24
姫路では私の想像を遥かに超えた列車が待っていた。何と播但線のホームには電車が停まっていたのだ!つまり私の知らぬ間に播但線は電化されていたのだ。確かに姫路寄りでは利用者も少なくなく、電化した方が能率が良いであろう。私は大納得で瞬時にそれを受け入れる事が出来た。もちろん計画段階ではその事実を既にわかっていたが、実際に目の当たりにすると妙に嬉しい。

昭和生まれの方ならお馴染みの列車であろう。少年時代によく見かけた首都圏の車両は、今や地方路線の主役となっていた。もちろん年数の経過とともに後輩の車両に随時入れ替わっていくであろうから、ここが最後の活躍の場として余生を送っている事になる。
さて、私は播但線初体験物語であるが、忘れてはならないのが飾磨支線であろう。現役時代も割りと地味な存在であったが、運転本数も地味なので乗り潰し泣かせな路線であった。飾磨という駅名は現在、山陽電気鉄道にその名を譲っているが、国鉄時代の廃線跡の面影は全線通してほぼ無いであろう。特に姫路は高架化されたため飾磨支線の「し」の字も無い。更に本線は電車になったため、私の知る播但線、つまり80系のようなディーゼル特急「はまかぜ」が播但線全駅を通過するイメージの雰囲気はほとんど無かった。全く新しい鉄道路線にチャレンジする思いで乗り込む播但線は、学校帰りの学生諸君たちが播但線の売り上げにかなり貢献しているイメージである。昔とは比較にならないくらい便利になった播但線は、途中の福崎辺りまで生活感溢れた車内風景が描かれていた。


播但線の中でも利用者が多い部類に入る福崎。そして播但線の代表格である寺前。寺前では電化区間と非電化区間の境界線隣、電車とディゼルカーが共存する。
しかしながら、寺前が特急停車駅に格上げされたことは嬉しい限りであるが、恐らく急行列車が廃止になったための対応策であろう。そして国鉄時代には市販の時刻表の表示が発車時間のみであったが、現在では発着時間で2行となり、ますます代表駅の風格が増した感がある。しかしながら姫路寄りの各駅に比べたらややひっそりとしていて、利用者も姫路寄りほどではない。正直いって私の印象では、播但線は割りと地味な部類に入るのかなと思っていたが、実際に乗ってみると、こうして寺前ひとつとっても実に愛着が湧いてくるではないか。
今回の旅の切符は「18」を使用しているため乗車できる列車が制限されてしまうが、そんな中でも小さな喜びと発見を求めながら、更に和田山方面へと心弾ませていた。

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昭和生まれの方ならお馴染みの列車であろう。少年時代によく見かけた首都圏の車両は、今や地方路線の主役となっていた。もちろん年数の経過とともに後輩の車両に随時入れ替わっていくであろうから、ここが最後の活躍の場として余生を送っている事になる。
さて、私は播但線初体験物語であるが、忘れてはならないのが飾磨支線であろう。現役時代も割りと地味な存在であったが、運転本数も地味なので乗り潰し泣かせな路線であった。飾磨という駅名は現在、山陽電気鉄道にその名を譲っているが、国鉄時代の廃線跡の面影は全線通してほぼ無いであろう。特に姫路は高架化されたため飾磨支線の「し」の字も無い。更に本線は電車になったため、私の知る播但線、つまり80系のようなディーゼル特急「はまかぜ」が播但線全駅を通過するイメージの雰囲気はほとんど無かった。全く新しい鉄道路線にチャレンジする思いで乗り込む播但線は、学校帰りの学生諸君たちが播但線の売り上げにかなり貢献しているイメージである。昔とは比較にならないくらい便利になった播但線は、途中の福崎辺りまで生活感溢れた車内風景が描かれていた。


播但線の中でも利用者が多い部類に入る福崎。そして播但線の代表格である寺前。寺前では電化区間と非電化区間の境界線隣、電車とディゼルカーが共存する。
しかしながら、寺前が特急停車駅に格上げされたことは嬉しい限りであるが、恐らく急行列車が廃止になったための対応策であろう。そして国鉄時代には市販の時刻表の表示が発車時間のみであったが、現在では発着時間で2行となり、ますます代表駅の風格が増した感がある。しかしながら姫路寄りの各駅に比べたらややひっそりとしていて、利用者も姫路寄りほどではない。正直いって私の印象では、播但線は割りと地味な部類に入るのかなと思っていたが、実際に乗ってみると、こうして寺前ひとつとっても実に愛着が湧いてくるではないか。
今回の旅の切符は「18」を使用しているため乗車できる列車が制限されてしまうが、そんな中でも小さな喜びと発見を求めながら、更に和田山方面へと心弾ませていた。

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西遊記 ⑤
2022-12-17
揖斐には初めて来たが、何故か初めての感じがしないのは子供の頃にコロタン文庫の書籍で散々見ていた行き先だからかも知れない。ただ、揖斐という地名は何となく名鉄のイメージが張り付いていたので近鉄の駅とは意外なアンサーであった。だが、過去の時刻表を見てみると、やはり名鉄と近鉄が競合しており、しかも名鉄揖斐線は岐阜市内線との直通運転という懐かしい響きが確認出来た。やはり私の記憶は間違っていなかったのだ。しかも現在の樽見鉄道・本巣付近は名鉄と近鉄で入り組んでおり、やはり先述した通りであったのでなんとなく嬉しくなったのだが、やはり現存の近鉄揖斐線=養老鉄道という図式に早く馴染まなければならないと感じた。

ウィキペディアより引用させていただいた現在の新快速。JRになってから、正直言って斬新なデザインの車両が多くなり区別がつかなくなってきたのは気のせいか・・・だが、国鉄時代に比べ、地域ごと・JRごとに何となくのデザインや雰囲気の特徴が現れている印象があり「これは西日本、これは東日本」などの区別は何となくつくようになってきた(あくまで個人的な意見だが)。
揖斐より折り返し大垣に戻ってきた。そして大垣より東海道にて今回の旅の主役である智頭急行へと向かうが、先述通り「18」のめ新幹線などの移動ではなく、18による制約を受けた列車に乗り関ヶ原越えをしなければならない。そして今回は智頭急行制覇の前に播但線を制覇するため姫路で下車する事が確定している。だが、米原から新快速で一気に姫路まで行けるためある意味得した気分にもなる。
既に今回の旅では、というより、23年のブランクを乗り越え、ひとり「いい旅チャレンジ20000km」を敢行するに当たり、レールファン復活後はただ闇雲に乗り潰すのではなく、未乗車路線を各ブロック毎に分けて制覇する事にした。そのため後の予定が組みやすくなり効率良く回る事ができるわけだ。つまり今回は播但線と智頭急行の組み合わせであるが、気が付けば「あとあそことあそこを乗れば全線いくな」という先が見えてきた感が出てきた。そうなると俄然バイタリティーが湧いてくる。私は勇んで更に西に向かうべく、JR西日本の車両に流れ込んだ。

かつての新快速221系であるが、現在は新快速の定期運用から外れている。JR化後に登場した車両で、私にしてみたら新しい車両的イメージの部類に入る。カメラ機能の低下によりやや画像が赤みかかっているが・・・
米原よりは先述の新快速にて軽快に関西付近を駆け抜ける。私が新快速に初めて乗ったのは1981年の夏で、当時開催されていた神戸万博、いわゆるポートピアの真っ最中であったが、その時は当時新鋭の117系だった。その117系も現在は終焉を迎えるタイミングという事からして時代を感じてしまう。
他の競合他社と激しいデッドヒートを繰り広げている関西圏であるが、大阪をスルーする形は現在の首都圏の形である上野東京ラインや湘南新宿ライン的な感覚であろう。ようやく首都圏も東京スルー形になったが、時代は既に夜行列車や急行列車が無くなり「あゝ、上野駅」的な情緒溢れる風景が少なくなってしまった。

1980年代の新快速といえば・・・ご覧の117系であるが、写真は1983年の浜松である。つまり東海地区にも117系が登場し、「快速」として運転されていた。117系の登場当時は「ライバル」との戦いに強烈な光を注ぎ込んだイメージであった。
ただ、JRについて関西圏と首都圏で決定的に違うのは、路線別運転か方向別運転かの差であろう。関西については方向別運転であり緩行系列車と快速系列車が同一ホームで乗り換えができてわりとスムーズに移動できるのに対し、首都圏では路線別運転となっており、例えば京浜東北線と東海道線が同一ホームで乗り換えができる場面が無い。これは常磐線や東北本線などにも恐らく言える事でであろう事象で、歴史が古く、継ぎ足しに次ぐ継ぎ足しの結果が現在の姿になったであろうが、利用者にとってはある意味不便他ならない。まぁ、意図的(かも知れない)に階段を使う乗り換えが東海地区に無くもないが、基本、関西の東海道線は乗り換えが実に便利だと実感する。しかしながら今回は新快速の終点、姫路での乗り換えのためやはり階段を使う事になる。まぁ、それはそれでいいのだが、いずれにしても国鉄時代からすっかり様変わりした風景も内容的には昔のままなのだからぜひこれからも便利に進化してほしいなと偉そうな事を考えていたら、高架化が完成して間もない姫路のホームに滑り込んだ。

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ウィキペディアより引用させていただいた現在の新快速。JRになってから、正直言って斬新なデザインの車両が多くなり区別がつかなくなってきたのは気のせいか・・・だが、国鉄時代に比べ、地域ごと・JRごとに何となくのデザインや雰囲気の特徴が現れている印象があり「これは西日本、これは東日本」などの区別は何となくつくようになってきた(あくまで個人的な意見だが)。
揖斐より折り返し大垣に戻ってきた。そして大垣より東海道にて今回の旅の主役である智頭急行へと向かうが、先述通り「18」のめ新幹線などの移動ではなく、18による制約を受けた列車に乗り関ヶ原越えをしなければならない。そして今回は智頭急行制覇の前に播但線を制覇するため姫路で下車する事が確定している。だが、米原から新快速で一気に姫路まで行けるためある意味得した気分にもなる。
既に今回の旅では、というより、23年のブランクを乗り越え、ひとり「いい旅チャレンジ20000km」を敢行するに当たり、レールファン復活後はただ闇雲に乗り潰すのではなく、未乗車路線を各ブロック毎に分けて制覇する事にした。そのため後の予定が組みやすくなり効率良く回る事ができるわけだ。つまり今回は播但線と智頭急行の組み合わせであるが、気が付けば「あとあそことあそこを乗れば全線いくな」という先が見えてきた感が出てきた。そうなると俄然バイタリティーが湧いてくる。私は勇んで更に西に向かうべく、JR西日本の車両に流れ込んだ。

かつての新快速221系であるが、現在は新快速の定期運用から外れている。JR化後に登場した車両で、私にしてみたら新しい車両的イメージの部類に入る。カメラ機能の低下によりやや画像が赤みかかっているが・・・
米原よりは先述の新快速にて軽快に関西付近を駆け抜ける。私が新快速に初めて乗ったのは1981年の夏で、当時開催されていた神戸万博、いわゆるポートピアの真っ最中であったが、その時は当時新鋭の117系だった。その117系も現在は終焉を迎えるタイミングという事からして時代を感じてしまう。
他の競合他社と激しいデッドヒートを繰り広げている関西圏であるが、大阪をスルーする形は現在の首都圏の形である上野東京ラインや湘南新宿ライン的な感覚であろう。ようやく首都圏も東京スルー形になったが、時代は既に夜行列車や急行列車が無くなり「あゝ、上野駅」的な情緒溢れる風景が少なくなってしまった。

1980年代の新快速といえば・・・ご覧の117系であるが、写真は1983年の浜松である。つまり東海地区にも117系が登場し、「快速」として運転されていた。117系の登場当時は「ライバル」との戦いに強烈な光を注ぎ込んだイメージであった。
ただ、JRについて関西圏と首都圏で決定的に違うのは、路線別運転か方向別運転かの差であろう。関西については方向別運転であり緩行系列車と快速系列車が同一ホームで乗り換えができてわりとスムーズに移動できるのに対し、首都圏では路線別運転となっており、例えば京浜東北線と東海道線が同一ホームで乗り換えができる場面が無い。これは常磐線や東北本線などにも恐らく言える事でであろう事象で、歴史が古く、継ぎ足しに次ぐ継ぎ足しの結果が現在の姿になったであろうが、利用者にとってはある意味不便他ならない。まぁ、意図的(かも知れない)に階段を使う乗り換えが東海地区に無くもないが、基本、関西の東海道線は乗り換えが実に便利だと実感する。しかしながら今回は新快速の終点、姫路での乗り換えのためやはり階段を使う事になる。まぁ、それはそれでいいのだが、いずれにしても国鉄時代からすっかり様変わりした風景も内容的には昔のままなのだからぜひこれからも便利に進化してほしいなと偉そうな事を考えていたら、高架化が完成して間もない姫路のホームに滑り込んだ。

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西遊記 ④
2022-12-10
久々の関西線で桑名に着いた。何度か来てはいるが下車するのは初めてである。四日市と違いJRと近鉄だ駅を共用しているためやたら広い。国鉄時代とはさほど駅風景に変化が感じられなかったのである意味懐かしさを感じるが、ここで乗り換えるのは養老鉄道という鉄道会社の路線だ。養老鉄道…聞いたこと無いな…新しい鉄道路線が私の知らない間に開業したのか。それにしては昔からある鉄道の雰囲気を醸し出しているな…などと計画段階で考えていたら、かつては近鉄の路線であったと知った。そうか、なるほど。そういえば桑名から北に向かう近鉄線って昔あったな、みたいに時刻表の地図に描かれた路線を思い出した。そうか、つまり最近よく見かけるようになった経営分離方式で、経営的に厳しい部分を分社化して運営しているということだ。私にしてみたら完全に浦島太郎状態であった。それ以前に、私は西方面の私鉄路線にとても疎い。云わば私のウィークポイントでもある。

桑名よりいよいよ養老鉄道の初体験である。実は養老鉄道の名はレールファン復活まで全く知らなかったし聞かなかったが、後に元近鉄路線であると判明し、納得。
さて、生まれて初めての養老鉄道。全く予備知識の無いまま養老鉄道のホームに着いたら私を待っていたのは近鉄の車両であった。いや、正確に言うと、近鉄の車両という事さえわからなかった。ただでさえ車両知識が疎いのに、更に輪をかけて西方面の私鉄にはかなり馴染みが無いため、極端に言うと京阪と阪急の区別がつかないくらい西の私鉄は難しかった。ビスタカー、テレビカー、パノラマカーくらいはわかるが、普通列車が登場するともう判別がつかない。大げさに言うとこんなイメージであるが、逆にそんな私だからこそ養老鉄道などは新鮮味が出てくるのかも知れない。

そしてこれが養老鉄道の車両であるが、やはり近鉄仕様!と言いたいところであるが、正直、私は関西の私鉄に関しては知識が疎く、皆様に胸を張って「近鉄だよ!」と言えないのが本音である・・・しかしやはり近鉄の顔をしているのでやはり納得!
タイフォンが鳴り止み、早速桑名を後にすると一気にJR路線が小さく見え隠れする風景が窓の向こう側に映し出された。私にしてみたら新しく聞く鉄道会社の名前であるが、設備や駅を見ると懐かしい雰囲気を醸し出しているのが違和感である。そんな違和感の中、列車は中心駅である養老に着いた。ホーム屋根の内側には無数の瓢箪が吊るされている。なんだか不思議な空間であるが、ここは瓢箪の町なのかと改めて「国内旅行業務取扱管理者」のライセンスホルダーとしての私の血が騒ぐ。そういえば千葉方面にも養老ってあったよなぁ・・・我が地元にもそんな名前の居酒屋チェーンあったよなぁ・・・それと何か関係があるのかなぁ。など考えながら、駅名標に向けシャッターを切っていた。


養老鉄道の中心である養老ではご覧の通りひょうたんだらけであった。某居酒屋チェーンの屋号は恐らくこの町にある滝が語源であろうと思われる。
大垣で完結すると思い込んでいた養老鉄道であったが、実はその先の揖斐まで行かなければならない。あれ?揖斐って名鉄じゃなかったっけ?などと曖昧な知識で予定を組んでいたが、実はかつて名鉄と近鉄、そして国鉄が入り乱れていた激戦地区だったのだ。正直、私にしてみたらかつての北九州に網の目を張り巡らしていた炭坑路線のように見えて何が何だかわからない大垣付近であったが、現在では揖斐までの養老鉄道と樽見鉄道の2社でスッキリ感がある。もちろん東海道線の赤坂支線もあるが、それでも私には複雑さが半減して見えた。ただ、揖斐へはもちろん初めての訪問なので緊張感はある。何れにしても大垣はJRと連絡する要衝の駅であるから一旦完結するイメージになる。

大垣駅の入場券。ご覧の通り、他の国鉄の入場券の値段との違いが分かる。訪問当時理由はわからなかったが、実は近鉄と駅を共用していたため近鉄の入場券プライスにしたという。事情を知らなかった私は当時10枚くらい一気に購入。
そういえばかつて国鉄時代に大垣には何度も寄ったが、当時、大垣の入場券は80円であった。国鉄の入場券は基本的に120円なのだが、なぜか大垣はディスカウント思考なイメージだったので、私は10枚くらいまとめて購入した事柄ある。
当時ディスカウントの理由はわからなかったのだが、現在の養老鉄道が近鉄より分社化される前に国鉄と駅を共用していたための措置であるとの事だった。利用者にすれば40円の差は大きく、特に私のようなマニアには持ってこいの材料であった。
そんな大垣を退き、再び養老鉄道で揖斐にむかう。これから先、どんな試練が待ち受けている事であろうか。

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桑名よりいよいよ養老鉄道の初体験である。実は養老鉄道の名はレールファン復活まで全く知らなかったし聞かなかったが、後に元近鉄路線であると判明し、納得。
さて、生まれて初めての養老鉄道。全く予備知識の無いまま養老鉄道のホームに着いたら私を待っていたのは近鉄の車両であった。いや、正確に言うと、近鉄の車両という事さえわからなかった。ただでさえ車両知識が疎いのに、更に輪をかけて西方面の私鉄にはかなり馴染みが無いため、極端に言うと京阪と阪急の区別がつかないくらい西の私鉄は難しかった。ビスタカー、テレビカー、パノラマカーくらいはわかるが、普通列車が登場するともう判別がつかない。大げさに言うとこんなイメージであるが、逆にそんな私だからこそ養老鉄道などは新鮮味が出てくるのかも知れない。

そしてこれが養老鉄道の車両であるが、やはり近鉄仕様!と言いたいところであるが、正直、私は関西の私鉄に関しては知識が疎く、皆様に胸を張って「近鉄だよ!」と言えないのが本音である・・・しかしやはり近鉄の顔をしているのでやはり納得!
タイフォンが鳴り止み、早速桑名を後にすると一気にJR路線が小さく見え隠れする風景が窓の向こう側に映し出された。私にしてみたら新しく聞く鉄道会社の名前であるが、設備や駅を見ると懐かしい雰囲気を醸し出しているのが違和感である。そんな違和感の中、列車は中心駅である養老に着いた。ホーム屋根の内側には無数の瓢箪が吊るされている。なんだか不思議な空間であるが、ここは瓢箪の町なのかと改めて「国内旅行業務取扱管理者」のライセンスホルダーとしての私の血が騒ぐ。そういえば千葉方面にも養老ってあったよなぁ・・・我が地元にもそんな名前の居酒屋チェーンあったよなぁ・・・それと何か関係があるのかなぁ。など考えながら、駅名標に向けシャッターを切っていた。


養老鉄道の中心である養老ではご覧の通りひょうたんだらけであった。某居酒屋チェーンの屋号は恐らくこの町にある滝が語源であろうと思われる。
大垣で完結すると思い込んでいた養老鉄道であったが、実はその先の揖斐まで行かなければならない。あれ?揖斐って名鉄じゃなかったっけ?などと曖昧な知識で予定を組んでいたが、実はかつて名鉄と近鉄、そして国鉄が入り乱れていた激戦地区だったのだ。正直、私にしてみたらかつての北九州に網の目を張り巡らしていた炭坑路線のように見えて何が何だかわからない大垣付近であったが、現在では揖斐までの養老鉄道と樽見鉄道の2社でスッキリ感がある。もちろん東海道線の赤坂支線もあるが、それでも私には複雑さが半減して見えた。ただ、揖斐へはもちろん初めての訪問なので緊張感はある。何れにしても大垣はJRと連絡する要衝の駅であるから一旦完結するイメージになる。

大垣駅の入場券。ご覧の通り、他の国鉄の入場券の値段との違いが分かる。訪問当時理由はわからなかったが、実は近鉄と駅を共用していたため近鉄の入場券プライスにしたという。事情を知らなかった私は当時10枚くらい一気に購入。
そういえばかつて国鉄時代に大垣には何度も寄ったが、当時、大垣の入場券は80円であった。国鉄の入場券は基本的に120円なのだが、なぜか大垣はディスカウント思考なイメージだったので、私は10枚くらいまとめて購入した事柄ある。
当時ディスカウントの理由はわからなかったのだが、現在の養老鉄道が近鉄より分社化される前に国鉄と駅を共用していたための措置であるとの事だった。利用者にすれば40円の差は大きく、特に私のようなマニアには持ってこいの材料であった。
そんな大垣を退き、再び養老鉄道で揖斐にむかう。これから先、どんな試練が待ち受けている事であろうか。

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西遊記 ③
2022-12-03
名古屋で下車したムーンライトながらを名残惜しみながら見送り、そして中央線のホームへ向かう。中央線では金山までは東京方面に戻る形になるが、かつては東海道線のホームは無く、現在の姿が何となく不自然に感じる。もちろん現在は周知の通り金山で東海道線や名鉄に乗り換えられるメリットが発生するため非常に便利になったが、どうも私は国鉄時代の感覚が抜けないらしい。
その金山を過ぎ、私が下車した駅は勝川。正直、あまり馴染みの無い未知の駅であったが、東海交通事業の始発となりその名を知る事になった。とは大袈裟であるが、恐らくこういう機会が無ければ縁がなかったであろう。JRとはやや離れた場所にある東海交通事業の勝川は、私の訪問時にはまだ完成形ではなく、いかにも今すぐ中央線とドッキングするかのような状態であったが、駅は仮住居のような佇まいであった。ただ、その時からかなり時間が経過している現在であるが、未だ当時のまま「仮設」である。
というより、元々は貨物列車専用的な路線として計画されていたため基本的には客流動的な事は最初から計画の範囲外だった。そして本来は終点だった清洲が後に枇杷島に変更された事については皆様の方がよくご存知であろうと思われるが、要するに名古屋を迂回する形で貨物専用路線が計画されていたのを旅客路線に転用した訳なので、沿線はかなり宅地化が進んだものの、利用者が進みたい方向に路線が敷かれているがどうかは未知数であるため利用者数値的にはやや劣勢になっているという事だ。

勝川で中央線より東海交通事業に乗り換えるのだが、お互い離れている位置にあるため少々歩く。高架が途中で途切れているような造りになっているのは、当然ながら中央線とドッキング予定であるのがわかりやすい設計になっているので、一応JR側に乗り入れるような意思を感じる事ができる。しかし、私の訪問時より十年以上経過した現在も中央線とは繋がっておらず、ご覧の状態のまま現在に至る。
しかしながらあのような立派なレールに1両編成の単行列車を走らせるのはややもったいない気もするが、せっかく作ったのだから活用しようという意味も込められていよう。ただ、勝川からの沿線風景は私の予想に反して意外にも宅地化されている場面も少なくない。
そして立派な高架橋を走っているのだから大都会の鉄道と何ら遜色無いのだが、肝心の愛知県中心部へは競合他社と路線が交差するものの連絡機能がないため乗り換える駅が無い。更に運賃がやや高値なのと、大都会近郊にしては運転本数もそう多くなく、走っている車両がレールバスのような華奢な車両のためスピード感がやや薄いイメージである。つまり地元の方にしてみたら利用しやすいとは言えないかも知れない状況の城北線であるので、更に親会社も路線の飛躍に積極性を感じられない状況になっているのだ。
とは言うものの、何だかんだ言っても散々楽しんでいた私であるが、気が付けば終点の枇杷島に着いてしまい少々残念な思いを抱いていたのだから、やはり「全線制覇」という課題が無ければ知る事ができなかったわけだ。人生何があるかわからない。少々名残惜しい気持ちであるが、通勤時間帯でありながらややひっそりした跨線橋を渡り東海道線のホームへ急いだ。


最初はほとんど区別がつかないであろう勝川の駅名標である。上がJR東海で下が東海交通事業であるのはお分かりであろうが、東海交通事業の方が仮駅というのがややもったいない。
東海道線のホームへ来た途端一気に気持ちが切り替わり、枇杷島よりひとつ戻り名古屋で関西線に乗り換える。私が関西線を訪れたのは1982年3月と8月であるが、関西線の名古屋~亀山まで電化されたのは1982年5月なので、私は電化直前と直後に訪れたことになる。この辺りでは並走する競合他社とデッドヒートを繰り広げ…と言いたいところであるが、当時はスピードでも料金でも運転本数でも競合他社の圧勝で、国鉄はDCやDLが牽引する旧型客車などが運用されていたわけだから、当然ながらほとんどの地元民は近鉄を利用するであろう。

大都会近郊なのにたった一両編成で大丈夫?と言いたくなるのだが、その大都会を迂回するような形をとる城北線なので少々残念な気持ちもある。しかし沿線人口は決して少なくないのでもっと良い活用法が出てくる事に期待したい。
それでも国鉄は少しでも抵抗しようと電化したわけであるが、あれから40年程経過した現在はどのように変化しているのであろうか。今回の旅で私が乗車した限りでは、朝のラッシュ時では少なくとも車両編成は短いながらも上り列車はフルハウスであった。私が乗車した下り方面は座席が選べるほどの乗車率だったが、旧型客車の国鉄時代からすれば格段の進歩であろう。もちろん、旅情を誘うには旧型客車のほうが俄然テンションマックスであろうが…

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その金山を過ぎ、私が下車した駅は勝川。正直、あまり馴染みの無い未知の駅であったが、東海交通事業の始発となりその名を知る事になった。とは大袈裟であるが、恐らくこういう機会が無ければ縁がなかったであろう。JRとはやや離れた場所にある東海交通事業の勝川は、私の訪問時にはまだ完成形ではなく、いかにも今すぐ中央線とドッキングするかのような状態であったが、駅は仮住居のような佇まいであった。ただ、その時からかなり時間が経過している現在であるが、未だ当時のまま「仮設」である。
というより、元々は貨物列車専用的な路線として計画されていたため基本的には客流動的な事は最初から計画の範囲外だった。そして本来は終点だった清洲が後に枇杷島に変更された事については皆様の方がよくご存知であろうと思われるが、要するに名古屋を迂回する形で貨物専用路線が計画されていたのを旅客路線に転用した訳なので、沿線はかなり宅地化が進んだものの、利用者が進みたい方向に路線が敷かれているがどうかは未知数であるため利用者数値的にはやや劣勢になっているという事だ。

勝川で中央線より東海交通事業に乗り換えるのだが、お互い離れている位置にあるため少々歩く。高架が途中で途切れているような造りになっているのは、当然ながら中央線とドッキング予定であるのがわかりやすい設計になっているので、一応JR側に乗り入れるような意思を感じる事ができる。しかし、私の訪問時より十年以上経過した現在も中央線とは繋がっておらず、ご覧の状態のまま現在に至る。
しかしながらあのような立派なレールに1両編成の単行列車を走らせるのはややもったいない気もするが、せっかく作ったのだから活用しようという意味も込められていよう。ただ、勝川からの沿線風景は私の予想に反して意外にも宅地化されている場面も少なくない。
そして立派な高架橋を走っているのだから大都会の鉄道と何ら遜色無いのだが、肝心の愛知県中心部へは競合他社と路線が交差するものの連絡機能がないため乗り換える駅が無い。更に運賃がやや高値なのと、大都会近郊にしては運転本数もそう多くなく、走っている車両がレールバスのような華奢な車両のためスピード感がやや薄いイメージである。つまり地元の方にしてみたら利用しやすいとは言えないかも知れない状況の城北線であるので、更に親会社も路線の飛躍に積極性を感じられない状況になっているのだ。
とは言うものの、何だかんだ言っても散々楽しんでいた私であるが、気が付けば終点の枇杷島に着いてしまい少々残念な思いを抱いていたのだから、やはり「全線制覇」という課題が無ければ知る事ができなかったわけだ。人生何があるかわからない。少々名残惜しい気持ちであるが、通勤時間帯でありながらややひっそりした跨線橋を渡り東海道線のホームへ急いだ。


最初はほとんど区別がつかないであろう勝川の駅名標である。上がJR東海で下が東海交通事業であるのはお分かりであろうが、東海交通事業の方が仮駅というのがややもったいない。
東海道線のホームへ来た途端一気に気持ちが切り替わり、枇杷島よりひとつ戻り名古屋で関西線に乗り換える。私が関西線を訪れたのは1982年3月と8月であるが、関西線の名古屋~亀山まで電化されたのは1982年5月なので、私は電化直前と直後に訪れたことになる。この辺りでは並走する競合他社とデッドヒートを繰り広げ…と言いたいところであるが、当時はスピードでも料金でも運転本数でも競合他社の圧勝で、国鉄はDCやDLが牽引する旧型客車などが運用されていたわけだから、当然ながらほとんどの地元民は近鉄を利用するであろう。

大都会近郊なのにたった一両編成で大丈夫?と言いたくなるのだが、その大都会を迂回するような形をとる城北線なので少々残念な気持ちもある。しかし沿線人口は決して少なくないのでもっと良い活用法が出てくる事に期待したい。
それでも国鉄は少しでも抵抗しようと電化したわけであるが、あれから40年程経過した現在はどのように変化しているのであろうか。今回の旅で私が乗車した限りでは、朝のラッシュ時では少なくとも車両編成は短いながらも上り列車はフルハウスであった。私が乗車した下り方面は座席が選べるほどの乗車率だったが、旧型客車の国鉄時代からすれば格段の進歩であろう。もちろん、旅情を誘うには旧型客車のほうが俄然テンションマックスであろうが…

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