上田で荷物を忘れてしまいましたが①
2023-01-28
いきなり怪しいタイトルを付けてしまい申し訳ないが、今回紹介する旅にはちょっとした事件があった。それは追々お伝えする事になるので、今はあえて記さずにいよう。と言っても文字通りの出来事であるのだが、それは割りと後半に登場するであろうと予告しておこう。
別に出し惜しみしている訳でもないのだが、こちらは鉄道を主題とするブログのため鉄道を前面に押したいためである。しかしながらこんな事を言っていると、かつて某歌手が歌っていた「木綿のハンカチーフ」や、平成のガールズバンドの曲で「パイロットになりたくて」のように歌の終盤になってようやく歌のタイトルの意味がわかるという、なんとなくそれに近い展開となってしまいそうな今回の旅の紹介である。だが、ここまできたら私はあえて「木綿のハンカチーフ」を貫くかも知れない。もちろん、このブログは鉄道を主題とするのでパイロットになるつもりは無いのだが・・・

今回の旅では中央西線が初の乗車となり制覇となる。普通の一般なら特急でビューンと行くのであろうが、今回の乗車券は「18」を使用するため当然ながらご覧の列車にての行程になる。だが「本線」を普通列車で行くのはある意味特急列車では発見できない何かを見つけるのも大きな楽しみとなる。
さて、今回の旅も「18きっぷ」による旅であったが、昔と違い夜行普通列車が少なくなっていた当時の旅では、密に計画を立案し、そして宿泊地を選定しなければならない。
そんな中、18きっぷで利用できる夜行列車はほぼほぼ限られてしまうが、今回は長野方面の会社線を制覇する旅に決めた。意外にも中央西線が未制覇となっていたので、これを「ムーンライトながら」と組み合わせ、このふたつのブロックを制覇する事で効率よく計画を企てる事ができる。長野の会社線では長野電鉄と松本電鉄・・・いわゆる現在のアルピコ交通、そして昔の上田交通、つまり現在の上田電鉄であるが、これを一気に制覇する事にした。そして長野地区より帰郷の際に中央東線を利用する事になるため、実質中央線の制覇を促す事になる。ただ、中央東線に関しては1982年に「長野夜行」で制覇しているため制覇重複となるが、それから25年以上経過しているので国鉄時代からの変化も気になるところであるので楽しみ感満載かも知れない。そんな中、途中の大月より出ている富士急行も未制覇だったため、こちらも併せて制覇する事にしたのは2007年12月の事であった。

中央東線は1982年に制覇済みなので改めての訪問となるが、実に25年ぶりとなるのでどこがどう変化したのか比較するだけでも楽しそうだ。
富士急行といえば列車よりも観光バスでお世話になっているイメージが多く、更にマイカーなどでは免許取り立て時期やデートコースとして基本である富士五湖や富士急ハイランドなどに寄る際に富士吉田駅に寄ったりと、レール以外での接触が多かった。ただ、今回の旅で初の富士急行の制覇となるため期待度も大きい。現在、富士急行は分社化され「富士山麓電気鉄道」となり、かつての「富士急行」に社名が変更される前の社名に変更されたが、路線名は「富士急行線」として一般的な案内があるので、馴染みのある「富士急行」を通称として残した形となった。

中央線の特徴として山間部ばかりを貫くため勾配やカーブが少なくないが、特に東線の場合、スイッチバックを解消し勾配上に駅ホームを新たに設置した場面も多く、列車ドアとホームの高低差が激しい場合もある(写真は初狩にて)。
今回も最寄駅である小田急線・本厚木からの出発となるが、本厚木までは路線バスで行く事になる。ただ、朝の時間帯に上りのバスに乗るのは通常の風景であるが、夜遅く、しかも「ムーンライトながら」の小田原発着の時間に合わせる形でバスに乗る行為はものすごく違和感を感じてならない。仕事から帰ってきて寝床へ着こうかという時間帯にバスに乗るのはやはりこれから始まる非日常の時間にワクワク感がこみ上げてくる。
しかしながら、長野方面へ行くのにわざわざ東京方面から名古屋経由で長野入りするのは物好きな私くらいであろう。一般的にはあり得ない裏技でのアプローチとなる。プロレスで言うなら、三沢光晴が奥の手である「タイガースープレックス'85」を出すかのようなイメージであろうか。住宅街の灯りもところどころ消えていく中、私はコロコロバッグを引きずりながら、小田急線の本厚木駅へ向け路線バスの整理券を握り締めた。

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別に出し惜しみしている訳でもないのだが、こちらは鉄道を主題とするブログのため鉄道を前面に押したいためである。しかしながらこんな事を言っていると、かつて某歌手が歌っていた「木綿のハンカチーフ」や、平成のガールズバンドの曲で「パイロットになりたくて」のように歌の終盤になってようやく歌のタイトルの意味がわかるという、なんとなくそれに近い展開となってしまいそうな今回の旅の紹介である。だが、ここまできたら私はあえて「木綿のハンカチーフ」を貫くかも知れない。もちろん、このブログは鉄道を主題とするのでパイロットになるつもりは無いのだが・・・

今回の旅では中央西線が初の乗車となり制覇となる。普通の一般なら特急でビューンと行くのであろうが、今回の乗車券は「18」を使用するため当然ながらご覧の列車にての行程になる。だが「本線」を普通列車で行くのはある意味特急列車では発見できない何かを見つけるのも大きな楽しみとなる。
さて、今回の旅も「18きっぷ」による旅であったが、昔と違い夜行普通列車が少なくなっていた当時の旅では、密に計画を立案し、そして宿泊地を選定しなければならない。
そんな中、18きっぷで利用できる夜行列車はほぼほぼ限られてしまうが、今回は長野方面の会社線を制覇する旅に決めた。意外にも中央西線が未制覇となっていたので、これを「ムーンライトながら」と組み合わせ、このふたつのブロックを制覇する事で効率よく計画を企てる事ができる。長野の会社線では長野電鉄と松本電鉄・・・いわゆる現在のアルピコ交通、そして昔の上田交通、つまり現在の上田電鉄であるが、これを一気に制覇する事にした。そして長野地区より帰郷の際に中央東線を利用する事になるため、実質中央線の制覇を促す事になる。ただ、中央東線に関しては1982年に「長野夜行」で制覇しているため制覇重複となるが、それから25年以上経過しているので国鉄時代からの変化も気になるところであるので楽しみ感満載かも知れない。そんな中、途中の大月より出ている富士急行も未制覇だったため、こちらも併せて制覇する事にしたのは2007年12月の事であった。

中央東線は1982年に制覇済みなので改めての訪問となるが、実に25年ぶりとなるのでどこがどう変化したのか比較するだけでも楽しそうだ。
富士急行といえば列車よりも観光バスでお世話になっているイメージが多く、更にマイカーなどでは免許取り立て時期やデートコースとして基本である富士五湖や富士急ハイランドなどに寄る際に富士吉田駅に寄ったりと、レール以外での接触が多かった。ただ、今回の旅で初の富士急行の制覇となるため期待度も大きい。現在、富士急行は分社化され「富士山麓電気鉄道」となり、かつての「富士急行」に社名が変更される前の社名に変更されたが、路線名は「富士急行線」として一般的な案内があるので、馴染みのある「富士急行」を通称として残した形となった。

中央線の特徴として山間部ばかりを貫くため勾配やカーブが少なくないが、特に東線の場合、スイッチバックを解消し勾配上に駅ホームを新たに設置した場面も多く、列車ドアとホームの高低差が激しい場合もある(写真は初狩にて)。
今回も最寄駅である小田急線・本厚木からの出発となるが、本厚木までは路線バスで行く事になる。ただ、朝の時間帯に上りのバスに乗るのは通常の風景であるが、夜遅く、しかも「ムーンライトながら」の小田原発着の時間に合わせる形でバスに乗る行為はものすごく違和感を感じてならない。仕事から帰ってきて寝床へ着こうかという時間帯にバスに乗るのはやはりこれから始まる非日常の時間にワクワク感がこみ上げてくる。
しかしながら、長野方面へ行くのにわざわざ東京方面から名古屋経由で長野入りするのは物好きな私くらいであろう。一般的にはあり得ない裏技でのアプローチとなる。プロレスで言うなら、三沢光晴が奥の手である「タイガースープレックス'85」を出すかのようなイメージであろうか。住宅街の灯りもところどころ消えていく中、私はコロコロバッグを引きずりながら、小田急線の本厚木駅へ向け路線バスの整理券を握り締めた。

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西遊記⑩
2023-01-21
普通列車での制覇となった智頭急行であるが、やがて姫新線との交点でもある佐用に着いた。智頭から別れ暫く山あいの中を走っていたため佐用に着くと一大ターミナルに感じる。
佐用では姫新線と連絡しており文字通り姫路から津山を結ぶが、「白うさぎ」はわざわざ上郡経由で佐用にやって来る。もちろんその理由についてはご覧の皆様の方がよくご存じであろうが、せっかくの「陰陽連絡」である姫新線を使わないのはややもったいない気がする。

智頭急行では駅名標の撮影しかできなかった。というより、制覇の証として起点駅と終点駅の駅名標を収める事はもちろん、途中駅の駅名標も収める事にしている。だが、こうした個性あふれる駅には改めて訪問する必要がありそうだ。現在は桃色に染まっている恋山形もそのひとつ。
本竜野や播磨新宮など利用者もそれなりにあって、なおかつ高速化事業も完成しているので佐用までは姫新線経由もおもしろいであろう。しかしながら、やはりせっかく智頭急行を敷設したのだから上郡経由も大いに活用したい思惑もあるであろう。もちろんスピード面では智頭急行が圧勝であるため、というよりそうした目的で敷設されたのだから一般的には当然ながら活用するのが当然であろう。ただ私の場合、陰陽連絡のスピードを気にする旅ではない。そこにレールがある限り、制覇する宿命を背負っている以上、陰陽連絡の目的は二の次になってしまう。制覇したら自動的に「連絡している」という事になろう。

そして智頭急行の中間駅を代表する駅である大原。周囲は山に囲まれ静寂な雰囲気を醸し出している。利用者はそれほど多くはないが、車庫などの設備があり智頭急行の要衝駅となっている。
そういえば私は北越急行を「はくたか」で制覇している。私が中学生の頃はまさかほくほく線が本当に開通し、そして特急列車が走るとは思っていなかった。しかしそれは実現し、暫くの間北陸方面への近道として活用され多くの乗客に貢献してきた。
もちろん、将来的に北陸新幹線開通後の経営的な部分も初めから計算され視野に入れていたので大きな混乱も無く現在に至っているのであろう。ただやはり、私の個人的な考えではほくほく線は特急列車での制覇だけではややもったいない想いだ。北越急行も、もともとの目的は「スピード」であって、会社名にもその想いが込められている。なのに私はあえて北越急行を普通列車で再訪したいとは、何ともひねくれ者ではないか。何となく世間に対し申し訳ない気持ちになる。しかしながら、そんな思いもあり今回の智頭急行訪問は敢えて普通列車にしたのだ。

何となく人名的な駅名が多い智頭急行であるが、中でも歴史上の人物そのままは珍しいであろう。会社名にも冠されている通り「急いで行く」を売りにしている智頭急行であるが、普通列車でしか巡り会えない魅力的な風景も沢山ある。今回の旅は「智頭鈍行」で良かったのだ!
そして終点の上郡に着いたが、山深い中にありターミナルという印象には遥か彼方に遠いイメージであった。山陽本線の上り列車に乗り帰郷するわけだが、やたらホームが長く、乗り換えるという作業のはずなのにかなりの運動量になり、普段は運動不足の私にはかなり健康管理に貢献した事であろう。
国鉄時代には割りと地味な存在であった上郡であるが、JRになり智頭急行が開通してからはかなりそのポジションも変わった。ただ、変わったのは鉄道設備など鉄道運用の都合に関する事が殆どであるが、上郡の街自体は恐らく昔の静寂な雰囲気を醸し出す素敵な街として現在も進行形であろう。

智頭急行のもうひとつの要衝駅となる佐用。姫新線との接続駅となるが、特急列車がやって来るようになって大きく変化した。姫路へは姫新線でも智頭急行でも行けるが、智頭急行の場合、普通列車なら上郡で乗り換えが発生するため姫新線の方が便利であろう。ただ、佐用の利用者にとっては選択肢が増えますます利便性が向上した。
相生を過ぎ姫路に着く頃にはそろそろ昼間の食事が気になる時間となってきた。もちろん所持しているきっぷは「18」のため乗車できる列車が制限されてしまうが、本日の到着予定地は神奈川である!つまり普通列車のみで帰郷するわけだ。私はこの時点で「西日本」と呼ばれる日本国土の左半分の地域にいる。姫路から新快速などの速達列車を利用させてもらうが、当然ながら新幹線を利用するのが一般的なため、ここからは己との戦いとなる。直通で東京行きの普通列車が姫路からでていたら早速乗車しているであろう。しかも583系の運用であったなら尚更新幹線など利用せず、いや、振り向きもせずに乗車している事であろう。もちろん自由席で寝台がセットされている状態の列車であるが・・・そんな夢のような事を頭に描きながら、姫路のホームでわずかな待ち時間にたぬきそばをすすっていた。

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佐用では姫新線と連絡しており文字通り姫路から津山を結ぶが、「白うさぎ」はわざわざ上郡経由で佐用にやって来る。もちろんその理由についてはご覧の皆様の方がよくご存じであろうが、せっかくの「陰陽連絡」である姫新線を使わないのはややもったいない気がする。

智頭急行では駅名標の撮影しかできなかった。というより、制覇の証として起点駅と終点駅の駅名標を収める事はもちろん、途中駅の駅名標も収める事にしている。だが、こうした個性あふれる駅には改めて訪問する必要がありそうだ。現在は桃色に染まっている恋山形もそのひとつ。
本竜野や播磨新宮など利用者もそれなりにあって、なおかつ高速化事業も完成しているので佐用までは姫新線経由もおもしろいであろう。しかしながら、やはりせっかく智頭急行を敷設したのだから上郡経由も大いに活用したい思惑もあるであろう。もちろんスピード面では智頭急行が圧勝であるため、というよりそうした目的で敷設されたのだから一般的には当然ながら活用するのが当然であろう。ただ私の場合、陰陽連絡のスピードを気にする旅ではない。そこにレールがある限り、制覇する宿命を背負っている以上、陰陽連絡の目的は二の次になってしまう。制覇したら自動的に「連絡している」という事になろう。

そして智頭急行の中間駅を代表する駅である大原。周囲は山に囲まれ静寂な雰囲気を醸し出している。利用者はそれほど多くはないが、車庫などの設備があり智頭急行の要衝駅となっている。
そういえば私は北越急行を「はくたか」で制覇している。私が中学生の頃はまさかほくほく線が本当に開通し、そして特急列車が走るとは思っていなかった。しかしそれは実現し、暫くの間北陸方面への近道として活用され多くの乗客に貢献してきた。
もちろん、将来的に北陸新幹線開通後の経営的な部分も初めから計算され視野に入れていたので大きな混乱も無く現在に至っているのであろう。ただやはり、私の個人的な考えではほくほく線は特急列車での制覇だけではややもったいない想いだ。北越急行も、もともとの目的は「スピード」であって、会社名にもその想いが込められている。なのに私はあえて北越急行を普通列車で再訪したいとは、何ともひねくれ者ではないか。何となく世間に対し申し訳ない気持ちになる。しかしながら、そんな思いもあり今回の智頭急行訪問は敢えて普通列車にしたのだ。

何となく人名的な駅名が多い智頭急行であるが、中でも歴史上の人物そのままは珍しいであろう。会社名にも冠されている通り「急いで行く」を売りにしている智頭急行であるが、普通列車でしか巡り会えない魅力的な風景も沢山ある。今回の旅は「智頭鈍行」で良かったのだ!
そして終点の上郡に着いたが、山深い中にありターミナルという印象には遥か彼方に遠いイメージであった。山陽本線の上り列車に乗り帰郷するわけだが、やたらホームが長く、乗り換えるという作業のはずなのにかなりの運動量になり、普段は運動不足の私にはかなり健康管理に貢献した事であろう。
国鉄時代には割りと地味な存在であった上郡であるが、JRになり智頭急行が開通してからはかなりそのポジションも変わった。ただ、変わったのは鉄道設備など鉄道運用の都合に関する事が殆どであるが、上郡の街自体は恐らく昔の静寂な雰囲気を醸し出す素敵な街として現在も進行形であろう。

智頭急行のもうひとつの要衝駅となる佐用。姫新線との接続駅となるが、特急列車がやって来るようになって大きく変化した。姫路へは姫新線でも智頭急行でも行けるが、智頭急行の場合、普通列車なら上郡で乗り換えが発生するため姫新線の方が便利であろう。ただ、佐用の利用者にとっては選択肢が増えますます利便性が向上した。
相生を過ぎ姫路に着く頃にはそろそろ昼間の食事が気になる時間となってきた。もちろん所持しているきっぷは「18」のため乗車できる列車が制限されてしまうが、本日の到着予定地は神奈川である!つまり普通列車のみで帰郷するわけだ。私はこの時点で「西日本」と呼ばれる日本国土の左半分の地域にいる。姫路から新快速などの速達列車を利用させてもらうが、当然ながら新幹線を利用するのが一般的なため、ここからは己との戦いとなる。直通で東京行きの普通列車が姫路からでていたら早速乗車しているであろう。しかも583系の運用であったなら尚更新幹線など利用せず、いや、振り向きもせずに乗車している事であろう。もちろん自由席で寝台がセットされている状態の列車であるが・・・そんな夢のような事を頭に描きながら、姫路のホームでわずかな待ち時間にたぬきそばをすすっていた。

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西遊記 ⑨
2023-01-14
さて本題に入ろう。因美線は久々の乗車であるが、正直、懐かしい感じがしたのは改良が石勝線ほど大胆にされていなかったからであろう。郡家では若桜鉄道が分岐するが、私が来た時は「若桜線」であったハッキリとした記憶が薄く、記録だけがしっかりと残っている。何せ高校1年の夏休みであったのと、咄嗟に思い付いての旅だったので、事前の計画も旅立つ一週間前くらいだったと思う。しかも当時はデジタルカメラなど存在せず、Canon AE-1プログラムというネガ式のアナログカメラであったが、実は帰郷後にネガを現像しようと写真屋に持っていく際に一部のネガを途中で落としてしまい紛失してしまったのだ!せっかくの記録が…と当時はもちろん、現在も悔やみきれない大きな痛手として私の心に深いダメージが残ってしまったのだ。そのためこの若桜線や因美線などの部分は当時の写真が無い!実に悔しく、皆様に画像でお伝えできない事が残念でならない。と言っても仕方がない。再びこうして訪問できただけでも神に感謝しなければならないのかも知れない。
そんなこともあり当時の記憶が薄いという事になるが、やはり懐かしさみたいなのは肌で感じることができるのは既に私の身体には「鉄道」というものが身体の一部になってしまっているのかも知れない。

郡家では若桜鉄道と接続する。実は1984年に国鉄若桜線時代に制覇しているのだが、正直言ってほとんど記憶に無い。失礼ながら、写真を現像しようと写真やにもっていく途中でネガを落としてしまい写真も残ってないのが超残念である。
その郡家では国鉄時代の風景を感じる事ができてある意味懐かしさが伝わってくるが、車両に関しては、特にJRになり「スーパーはくと」や「スーパーいなば」など私にはあまり馴染みの無い特急がいつの間にか誕生しており、かなり斬新なデザインの車両が因美線の一部で走っておりイメージが全く変わってしまった。いや、因美線は「陰陽連絡」であるのだからこれが本来の姿なのであろう。「砂丘」などの急行列車が走っていてはいけないのかも知れない。

智頭では津山方面への「JR」が待っていた。私は智頭方面へとわざわざ別料金を支払って智頭急行へ貢献しているため、残念ながらこの列車に乗ることはできない。ただ、この列車に乗れば国鉄時代からの風景が売るほど待っているので後ろ髪引かれる思い出あった。もちろん未知の世界である智頭急行への旅路も計り知れないワクワク感があるため、いわば苦渋の選択で計画通り智頭急行の案内に従うことにした。
そしていよいよ智頭に到着した。ここより未知の世界である智頭急行になるが、智頭急行の開業により島式ホームが一本増えた。隣に停車する智頭「急行」の普通列車は1両編成でホームをやや持て余し気味だ。ただ、私の今回の制覇では智頭より「急」いで「行」く旅ではないので各駅をじっくり堪能したい。

別の日にレンタカーで訪れた智頭以南にある美作滝尾であるが、智頭から津山まではこうした趣のある風景が続く。映画「男はつらいよ」にも出てくる美作滝尾は現在駅員無配置であるが、かつては数多くの別れや出会いを見てきた事であろう。
いよいよ別料金での旅が始まるべく、列車は因美線を大きく突き放し、一気に智頭急行モードとなった。もちろん、特急列車が走るため線形やレール等はそうした基準に満ちているが、とにかく山深いので建設公団の苦労が手に取れるようにわかる風景が車窓を彩る。もちろん、近年の技術ではかつてほどの苦労はそう多くないであろうが、お陰で我々は旅の醍醐味を車窓から感じとる事ができるのだから嬉しい。そして特急列車が走る前提での敷設のため踏切が無く、途中の駅では街を列車から見下ろす場面も少なくない。

そしてこちらも別の日に撮影した智頭以南にある知和である。因美線では、いや西日本では現在もこうした風景が少なくなく、むしろ貴重な存在をこうして維持されている事に感謝しなければならない!
特に大原は智頭急行が開業してできた新しい駅であるから地元の方の期待も無限に大きいであろう。特急停車駅であるという事からも智頭急行スタイルを感じることができる。更に智頭急行では「恋山形」や「宮本武蔵」など個性的な名前の駅もあり「白うさぎ」で一気に通過してしまうのはもったいない!やはり普通列車を選んで私はラッキーだった。

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そんなこともあり当時の記憶が薄いという事になるが、やはり懐かしさみたいなのは肌で感じることができるのは既に私の身体には「鉄道」というものが身体の一部になってしまっているのかも知れない。

郡家では若桜鉄道と接続する。実は1984年に国鉄若桜線時代に制覇しているのだが、正直言ってほとんど記憶に無い。失礼ながら、写真を現像しようと写真やにもっていく途中でネガを落としてしまい写真も残ってないのが超残念である。
その郡家では国鉄時代の風景を感じる事ができてある意味懐かしさが伝わってくるが、車両に関しては、特にJRになり「スーパーはくと」や「スーパーいなば」など私にはあまり馴染みの無い特急がいつの間にか誕生しており、かなり斬新なデザインの車両が因美線の一部で走っておりイメージが全く変わってしまった。いや、因美線は「陰陽連絡」であるのだからこれが本来の姿なのであろう。「砂丘」などの急行列車が走っていてはいけないのかも知れない。

智頭では津山方面への「JR」が待っていた。私は智頭方面へとわざわざ別料金を支払って智頭急行へ貢献しているため、残念ながらこの列車に乗ることはできない。ただ、この列車に乗れば国鉄時代からの風景が売るほど待っているので後ろ髪引かれる思い出あった。もちろん未知の世界である智頭急行への旅路も計り知れないワクワク感があるため、いわば苦渋の選択で計画通り智頭急行の案内に従うことにした。
そしていよいよ智頭に到着した。ここより未知の世界である智頭急行になるが、智頭急行の開業により島式ホームが一本増えた。隣に停車する智頭「急行」の普通列車は1両編成でホームをやや持て余し気味だ。ただ、私の今回の制覇では智頭より「急」いで「行」く旅ではないので各駅をじっくり堪能したい。

別の日にレンタカーで訪れた智頭以南にある美作滝尾であるが、智頭から津山まではこうした趣のある風景が続く。映画「男はつらいよ」にも出てくる美作滝尾は現在駅員無配置であるが、かつては数多くの別れや出会いを見てきた事であろう。
いよいよ別料金での旅が始まるべく、列車は因美線を大きく突き放し、一気に智頭急行モードとなった。もちろん、特急列車が走るため線形やレール等はそうした基準に満ちているが、とにかく山深いので建設公団の苦労が手に取れるようにわかる風景が車窓を彩る。もちろん、近年の技術ではかつてほどの苦労はそう多くないであろうが、お陰で我々は旅の醍醐味を車窓から感じとる事ができるのだから嬉しい。そして特急列車が走る前提での敷設のため踏切が無く、途中の駅では街を列車から見下ろす場面も少なくない。

そしてこちらも別の日に撮影した智頭以南にある知和である。因美線では、いや西日本では現在もこうした風景が少なくなく、むしろ貴重な存在をこうして維持されている事に感謝しなければならない!
特に大原は智頭急行が開業してできた新しい駅であるから地元の方の期待も無限に大きいであろう。特急停車駅であるという事からも智頭急行スタイルを感じることができる。更に智頭急行では「恋山形」や「宮本武蔵」など個性的な名前の駅もあり「白うさぎ」で一気に通過してしまうのはもったいない!やはり普通列車を選んで私はラッキーだった。

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西遊記⑧
2023-01-07
翌日、鳥取で朝を迎えたのは1982年に「山陰」に乗りやって来て以来実に約30年ぶりになるが、下車するのは初めてなので実に新鮮だった。その30年の間に国鉄は民営化され、全国各地のローカル線の多くが廃止された。だが、廃止されず生き残った路線も経営的に苦戦する場面が多く、存続の危機にたたされている路線も少なくない。そうした中、私は1984年以来の乗車になる因美線を使い智頭へ向かい、新たに開通した智頭急行へのチャレンジを計画していた。

鳥取は山陰本線の駅とは思えないほど立派に生まれ変わったが、高架化されたのは1978年と、以外にその歴史は古い。新幹線の駅を彷彿させるような造りは、現在でも昭和なイメージを感じさせないくらいモダンな雰囲気を醸し出す。
ところで全く私事であるが、私が国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」として旅に出ていた時代と、レールファンを23年ぶりに復活させて「勝手に」チャレンジ20000kmとして旅をしている現在との決定的な違い・・・それは、現在のチャレンジの旅は旅費が全て2倍かかっている事だ!つまり私が現在行っているチャレンジの旅は常に妻が同行しているため、切符にしても宿泊にしても常にふたり分の経費がかかってしまうのだ。子供の頃は運賃半額などの特典はあったが、大人になり、その半額分を、いや、更に倍返しとして公共に収めるわけであるから人生うまくできている。というより、得することもあれば損をする事もあるのだから、つまり人生をトータルで考えた場合、その人の運命バロメーター的なものが最終的に平均値を指すように仕組まれているような気がする。

鳥取のホームでは静岡や浜松と間違いそうな風景であるが、高架化完成当時は「ナウい」設計であったのだろう。現在もそのエッセンスを受け継いでいるが、特にJR化後に完成した駅に見る高知や福井、そして旭川や札幌、金沢などのように駅ホーム全体を屋根が覆う設計が現在の主流となっているのは利用者にとっても嬉しい設計である。特に雪国などでのそれはかなり重宝するであろう。
というか、妻がレールファンであれば問題ないのだが「家にひとりでいてもつまらないし」という理由からの同行であるので私もやや複雑な思いである。というより「自分だけ旅行に行って私は待ってろというのか」という考えであろうと思うが、その「旅行」にも人それぞれの考え方や価値観があり、私のように列車ばかり一日中乗っていて有名な観光地や豪華な食事をするわけでもない旅に同行して本当に楽しいのかと思う。近年ではレンタカーによる駅めぐりも増えていささか融通は利くが、基本、駅から駅への移動のみで、しかも「東オサワ」などの秘境を喜んで行く私にくっついてきて果たして本人はどう思っているのか・・・いわゆる一般の旅行とはかけ離れて異なるわけだし、周りからは「旅行に行ってきたんだ~いいねェ~」みたいに言われるが、私はいいとして、妻は一体どう感じているのか・・・それこそ古い駅名標や駅舎を「風光明媚」と感じる私をどう思っているのか・・・沢山の疑問を抱え、いつも旅に出ていた。

最近の列車では窓を開放できないためやや写真が霞んでしまう。どこかで聴いた歌ではないが「くもりガラスの向こうは・・・」風の街ではなく因幡社であった。
おかげで現在はJRとJR以外のいわゆる民鉄の98%近くを現在制覇しているが、旅番組を視ている時でも「ここ、私行った事ある?」みたいに自身が訪問した場所や日時がほとんど記憶になく、そこで食べたスイーツや朝食などはしっかりと記憶している妻をこれからも本当に同行させていいのかどうか・・・そんな思いを抱えながら乗車する因美線の列車は、鳥取のプラットホームを持て余してしまうほどの編成である。

智頭よりいよいよ「別料金」での制覇となる。「急行」と冠された鉄道会社なのに普通列車での制覇は少々失礼か・・・いや、普通列車でこそ地域密着的制覇となる!
因美線の乗車は1984年以来である事は先述しているが、当時との決定的は違いは鳥取~智頭間には特急列車が運転されている事である!国鉄時代は急行「砂丘」が岡山~鳥取間を走っていたが、現在の主役は姫路からの特急「スーパーはくと」になり智頭を境に因美線の役割や使命が全く異なってしまう異色の路線に変化した。
全く私個人の意見であるが、石勝線の開通時には夕張線に特急列車が走り、そしてその駅の数々が立派に改良された姿に度胆を抜かれたが、因美線の変化については石勝線のような驚きは少なかった。なぜだろうかと思ったが、それは今回の旅で実際に現地に訪れた時に何となく気付いたイメージであった。

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鳥取は山陰本線の駅とは思えないほど立派に生まれ変わったが、高架化されたのは1978年と、以外にその歴史は古い。新幹線の駅を彷彿させるような造りは、現在でも昭和なイメージを感じさせないくらいモダンな雰囲気を醸し出す。
ところで全く私事であるが、私が国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」として旅に出ていた時代と、レールファンを23年ぶりに復活させて「勝手に」チャレンジ20000kmとして旅をしている現在との決定的な違い・・・それは、現在のチャレンジの旅は旅費が全て2倍かかっている事だ!つまり私が現在行っているチャレンジの旅は常に妻が同行しているため、切符にしても宿泊にしても常にふたり分の経費がかかってしまうのだ。子供の頃は運賃半額などの特典はあったが、大人になり、その半額分を、いや、更に倍返しとして公共に収めるわけであるから人生うまくできている。というより、得することもあれば損をする事もあるのだから、つまり人生をトータルで考えた場合、その人の運命バロメーター的なものが最終的に平均値を指すように仕組まれているような気がする。

鳥取のホームでは静岡や浜松と間違いそうな風景であるが、高架化完成当時は「ナウい」設計であったのだろう。現在もそのエッセンスを受け継いでいるが、特にJR化後に完成した駅に見る高知や福井、そして旭川や札幌、金沢などのように駅ホーム全体を屋根が覆う設計が現在の主流となっているのは利用者にとっても嬉しい設計である。特に雪国などでのそれはかなり重宝するであろう。
というか、妻がレールファンであれば問題ないのだが「家にひとりでいてもつまらないし」という理由からの同行であるので私もやや複雑な思いである。というより「自分だけ旅行に行って私は待ってろというのか」という考えであろうと思うが、その「旅行」にも人それぞれの考え方や価値観があり、私のように列車ばかり一日中乗っていて有名な観光地や豪華な食事をするわけでもない旅に同行して本当に楽しいのかと思う。近年ではレンタカーによる駅めぐりも増えていささか融通は利くが、基本、駅から駅への移動のみで、しかも「東オサワ」などの秘境を喜んで行く私にくっついてきて果たして本人はどう思っているのか・・・いわゆる一般の旅行とはかけ離れて異なるわけだし、周りからは「旅行に行ってきたんだ~いいねェ~」みたいに言われるが、私はいいとして、妻は一体どう感じているのか・・・それこそ古い駅名標や駅舎を「風光明媚」と感じる私をどう思っているのか・・・沢山の疑問を抱え、いつも旅に出ていた。

最近の列車では窓を開放できないためやや写真が霞んでしまう。どこかで聴いた歌ではないが「くもりガラスの向こうは・・・」風の街ではなく因幡社であった。
おかげで現在はJRとJR以外のいわゆる民鉄の98%近くを現在制覇しているが、旅番組を視ている時でも「ここ、私行った事ある?」みたいに自身が訪問した場所や日時がほとんど記憶になく、そこで食べたスイーツや朝食などはしっかりと記憶している妻をこれからも本当に同行させていいのかどうか・・・そんな思いを抱えながら乗車する因美線の列車は、鳥取のプラットホームを持て余してしまうほどの編成である。

智頭よりいよいよ「別料金」での制覇となる。「急行」と冠された鉄道会社なのに普通列車での制覇は少々失礼か・・・いや、普通列車でこそ地域密着的制覇となる!
因美線の乗車は1984年以来である事は先述しているが、当時との決定的は違いは鳥取~智頭間には特急列車が運転されている事である!国鉄時代は急行「砂丘」が岡山~鳥取間を走っていたが、現在の主役は姫路からの特急「スーパーはくと」になり智頭を境に因美線の役割や使命が全く異なってしまう異色の路線に変化した。
全く私個人の意見であるが、石勝線の開通時には夕張線に特急列車が走り、そしてその駅の数々が立派に改良された姿に度胆を抜かれたが、因美線の変化については石勝線のような驚きは少なかった。なぜだろうかと思ったが、それは今回の旅で実際に現地に訪れた時に何となく気付いたイメージであった。

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2023年・新年のご挨拶
2023-01-01
新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
いよいよ2023年になり、今年こそ感染症の話題がなくなってくれる事を祈りたい気持ちであるが、そんな中、去年に続き今年も新規開業路線が予定されている。
我が地元・神奈川では相鉄が新横浜まで延伸する予定であるが、令和になってな尚躍進している相鉄は実に素晴らしく勢いがあると思う。かつては砂利輸送で旧相鉄である相模線と共に活躍した神中鉄道であるが、現在は相模鉄道を名乗り、旅客鉄道として新横浜まで路線を伸ばしてしまうのだから凄い事だ。
しかしその影ではスカイレールや、やや先になるが函館本線の一部区間が廃止されるという未来が待っている。

今年は、将来貴重なショットになるであろう新幹線を集めてみた。「マルチ・アメニティ・エクスプレス」との並びは現在見られないであろうE5系は現在の主役である。新陳代謝の激しい新幹線車両では、このE5系もそう遠くない将来に引退という文字を見る日がくるであろうかも知れない。
という事で、今年は私の鉄道観について少し述べてみよう。などと偉そうな事を言える立場でもないが、私の鉄道ファン全盛期は間違いなく1970年代後半から1984年頃である。
1983年にはピークを迎え、夏に周遊券を使い東北を一周し、更に秋には生涯初の北海道上陸を果たした。ただ、その後は高校進学もあるのと、北海道制覇にはかなりの資金がかかることから、ある意味断念する形で鉄道から身を引くことになった。
しかし、1984夏には「いい旅チャレンジ20000km」制覇の野望は捨てきれず、四国の国鉄路線全線制覇を果たした。
その四国制覇を最後に暫く鉄道から離れたが、それから23年後の2007年に、当時バンド活動を共にしていた時の仲間から「秘境駅へ行こう」という書籍を勧められ、やがてその仲間と実際に秘境駅へ行こうという事になり、正式に鉄道ファンを復活させ「いい旅チャレンジ」を再開する事になり現在に至るという事になるわけだ。当然ながら「いい旅~」のキャンペーンはとっくの昔に終了していたので、私は「いい旅~」を勝手にキャンペーンしているわけである。

そして私が唯一所有するE4系の写真である。8両編成を2本連結して16両編成にした場合、最大1634人まで乗車できる世界一の定員数である鉄道車両であった。1600人が一気に乗車できるなんてすごい!後楽園ホールでプロレス興業した場合、主催者発表の入場者数で2100人が超満員であるからホールを超満員にはできないが、それでも満員の発表はできることであろう。
そして2007年以降はこのブログで先述の通りであるが、沖縄のゆいレールを除く私鉄全線制覇とJR全線制覇を果たした2013年以降、私の旅は「線」から「点」に変化した。それまで行くことができなかった途中駅や気になる駅を精力的に訪問、そして北海道については初めてレンタカーによる駅巡りを実現させ、私が日本で一番好きな石勝線を鉄道以外で訪問し、信号場も巡るという念願が叶った事になった。
そして現在は感染症の流行により鉄道を暫く離れているが、未乗車路線の制覇をいずれ実現させたい気持ちである。

これも将来的に貴重な写真になるであろう「こまち」との2ショットである。何度もこのブログで述べているが、やはりJR東海の歩み寄りにより東北新幹線と東海道新幹線のレールを繋げて、いわゆる「上野・東京ライン」や「湘南新宿ライン」のような形で東京駅をスルー式にすれば東京駅の負担がかなり減ると思われるのだが・・・「大宮発新大阪行き」や「三島発仙台行」などバリエーションが豊富になりそう。
ところで、私は先述通り1983年頃がレールファンの最盛期であり、どちらかというと現在のJRよりも国鉄時代が好きだ。一部、コメントいただいた方にはお伝えしているが、やはりあの国鉄時代のノスタルジックな雰囲気がたまらなく好きである。
国鉄とJRの違いって何だろう?と考えた場合、私なりの感覚では「アナログ」か「デジタル」の違いのようなイメージになる。JRになり派手なデザインの車両や豪華列車が登場する中、やはり私は国鉄時代の旧型客車やプルートレインが好きだし、かつて北海道などにあったいわゆる赤字ローカル線などには非常にワクワクする。

そして晩年の「国鉄型」はJRカラーに染まっていた。しかしながら21世紀になって尚「国鉄」が健在だったのは奇跡に近いイメージであった。ただ、連結器の部分はオリジナルの当初とは異なり改造されているが、それでもよくこの時まで運用されていたと思う。「Max」との並びだと随分と華奢に見えるのは気のせいか。
もしタイムスリップ出来るなら私は1960年代後半から1970年代に戻り、夜行普通列車「からまつ」や新大阪発西方面行きの「阿蘇」「くにさき」などに乗ってみたい。そして東京発西鹿児島行きの夜行急行列車「高千穂」などにもチャレンジしてみたい。また、155系や159系の修学旅行用の車両にも乗ってみたい気持ちである。実際に155系などは子供の頃に急行「伊豆」として伊豆急下田辺りや東海道線の茅ヶ崎付近の踏切などでもたまに見かけた事があり憧れたものだが実現には至らなかった。
そして鉄道路線としては「1円電車」と呼ばれた明神電車や加悦鉄道、そして別府鉄道などにも乗車してみたかった。これらに関しては私の中学時代はまだ健在であり、その気になれば訪問できたのでますます勿体無い思いをしている。


晩年に200系の運用終了が発表されオリジナルカラーが復元されたのは嬉しい材料であった。もちろん隣にいる車両との2ショットは間違いなく貴重であろう。私が中学2年の時に開通した東北新幹線は大宮暫定開業であったが、その時の記憶が蘇るオリジナル塗装時代ではまだまだ夜行列車が東北方面へ頻繁に運転されており新幹線は発展途上であった。
さて、私のブログをご覧になってお分かりであると思うが、私はいわゆる「乗り鉄」である。そしてブルトレ世代であるため夜行列車が一番好きである。また、先述通り、地方の私鉄路線もノスタルジックを感じてしまう。
そんな中、国鉄からJRに変わり定期便の夜行列車や急行列車はほぼ消滅し寂しい内容となってしまった。そういう経緯もあり、私はやはり「瑞風」などの豪華列車より24系25形の「北斗星」のロイヤルや583系寝台のパン下の方が好きだ。
つまり私がJRではく国鉄を求める理由として夜行列車の存在が大きい。私が子供の頃は夜行列車が特急・急行問わず全国にゴマンと運転されていた。更に定期運用の旧型客車が運転されており、ギリギリ経験する事に間に合っているのもひとつであると思う。

1987年に私が運転免許取得のため福島へ合宿の参加をするため新幹線に乗車したが、その時はすでに上野まで到達しており、地下から乗る新幹線は実に斬新な風景であった。
つい最近まで生き残っていた岩泉線や三江線などは国鉄時代からの生え抜きであり貴重な存在であった。ただ、私が近年に訪問した時はやはり「国鉄」ではなく「JR」的な感覚であった。もちろん当然の事であるが、なぜそう感じたのであろう。JRになりワンマン化が進み車掌の存在が地方では薄れていく中、駅の無人化がどんどん進み合理化されポイント操作もCTCによる制御が当たり前になった時代である。もちろんこうした流れは企業として生き残るためには当然の手段であるのだが、なんというか、合理化に支配され「人間臭さ」みたいなものが薄れてしまったのであろうか。もちろんそれは私個人の意見であるのだが、私が最も好んだ昭和の国鉄時代は、SL時代の名残がある人間臭さと現在のデジタルが支配する合理的な形が入り混じはじりめた過渡期であった気がする、いや、過渡期であった。更に私が小学生の頃はブルートレイン全盛期であったから、EF65が牽引するブルートレインが格別であり、尚且つ上野から北方面へと散っていく夜行列車の数々の存在が私を魅了したが、東北・上越新幹線の開業により上野から出る優等列車の姿は次々と消え、何となく「北の玄関口」の風格が薄れていった。そうした時代の移り変わりの新陳代謝の激しい時代にレールファンになったのだから、当然ながら現在はその頃にもどれないというもどかしさが更に国鉄時代の魅力に拍車を掛けているイメージである。

そして私が所有する唯一の0系写真であるが、ご覧の通りの撮影状態であるのでやや申し訳ない気持ちである。すでにこの時はJR西でしか見れなくなっていて、この列車は博多南発であった。いや、博多南線を制覇するためにこの列車に乗り博多~博多南間を往復しているのでこの時が0系最後の乗車となった。
それでも私が中学生時代の1982年春に登場した「青春18」が私に普通列車の旅の楽しさを教えてくれたのだから、ブルートレインしか知らない少年にとっては実に新鮮であった。更に周遊券という新たな手段を使い、東北の旅ではトラブル続きであったが何とか成功したため、次の北海道チャレンジには確かな手応えを感じていた。国鉄時代の北海道は、最終的に白糠線と開業間もない石勝線の体験しかできなかったが、それでも自身としては大きな成果と確信している。

以前にも紹介した事がある写真であるが、岡山で撮影した100系は、新幹線の新しいスタイルを提案した。後の300系登場で更に新幹線が飛躍する時代がやっていくるわけであるが、いずれにしても新幹線の初代0系から現在まで経験している自分はある意味ラッキーであろうとつくづく思う。
これから先、時代と共に国鉄カラーはますます影が薄れるであろう。そしていつしかJRカラーが100%の時代が来るであろう。また、地方の私鉄路線も時代とともに消え去り、そして忘れ去られていく路線もあるであろう。更にアナログ的な感覚はほぼ完全に消え去り、デジタルが支配する鉄道はピークを迎える事であろう。そして更に時代は進み、技術の飛躍的な進歩は止まらないかも知れない。
実は、私の将来的な予定として、現在の未制覇路線を定年後に「フルムーンパス」で一気に制覇しようと考えていた。しかし2022年以降のフルムーンパスは発行の予定が無く、事実上消滅してしまったらしい!現在でもフルムーンパスが使える年齢に達しているのだが、将来の予定が組めなくなったので実に残念な思いである。
昔に比べフリーパスも少なくなった現在、乗りつぶし派にしてみたらやや肩身の狭い思いである・・・などと言ったら語弊があるが、やはりJR各社が時代に合ったフリーパスを提供してくれると私も旅の意欲が沸いてくる。もしそんな切符と出会えたら、新たなる「国鉄探し」が始められるであろう。そんな有意義な時間が近い将来に待っていたら幸いである。

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いよいよ2023年になり、今年こそ感染症の話題がなくなってくれる事を祈りたい気持ちであるが、そんな中、去年に続き今年も新規開業路線が予定されている。
我が地元・神奈川では相鉄が新横浜まで延伸する予定であるが、令和になってな尚躍進している相鉄は実に素晴らしく勢いがあると思う。かつては砂利輸送で旧相鉄である相模線と共に活躍した神中鉄道であるが、現在は相模鉄道を名乗り、旅客鉄道として新横浜まで路線を伸ばしてしまうのだから凄い事だ。
しかしその影ではスカイレールや、やや先になるが函館本線の一部区間が廃止されるという未来が待っている。

今年は、将来貴重なショットになるであろう新幹線を集めてみた。「マルチ・アメニティ・エクスプレス」との並びは現在見られないであろうE5系は現在の主役である。新陳代謝の激しい新幹線車両では、このE5系もそう遠くない将来に引退という文字を見る日がくるであろうかも知れない。
という事で、今年は私の鉄道観について少し述べてみよう。などと偉そうな事を言える立場でもないが、私の鉄道ファン全盛期は間違いなく1970年代後半から1984年頃である。
1983年にはピークを迎え、夏に周遊券を使い東北を一周し、更に秋には生涯初の北海道上陸を果たした。ただ、その後は高校進学もあるのと、北海道制覇にはかなりの資金がかかることから、ある意味断念する形で鉄道から身を引くことになった。
しかし、1984夏には「いい旅チャレンジ20000km」制覇の野望は捨てきれず、四国の国鉄路線全線制覇を果たした。
その四国制覇を最後に暫く鉄道から離れたが、それから23年後の2007年に、当時バンド活動を共にしていた時の仲間から「秘境駅へ行こう」という書籍を勧められ、やがてその仲間と実際に秘境駅へ行こうという事になり、正式に鉄道ファンを復活させ「いい旅チャレンジ」を再開する事になり現在に至るという事になるわけだ。当然ながら「いい旅~」のキャンペーンはとっくの昔に終了していたので、私は「いい旅~」を勝手にキャンペーンしているわけである。

そして私が唯一所有するE4系の写真である。8両編成を2本連結して16両編成にした場合、最大1634人まで乗車できる世界一の定員数である鉄道車両であった。1600人が一気に乗車できるなんてすごい!後楽園ホールでプロレス興業した場合、主催者発表の入場者数で2100人が超満員であるからホールを超満員にはできないが、それでも満員の発表はできることであろう。
そして2007年以降はこのブログで先述の通りであるが、沖縄のゆいレールを除く私鉄全線制覇とJR全線制覇を果たした2013年以降、私の旅は「線」から「点」に変化した。それまで行くことができなかった途中駅や気になる駅を精力的に訪問、そして北海道については初めてレンタカーによる駅巡りを実現させ、私が日本で一番好きな石勝線を鉄道以外で訪問し、信号場も巡るという念願が叶った事になった。
そして現在は感染症の流行により鉄道を暫く離れているが、未乗車路線の制覇をいずれ実現させたい気持ちである。

これも将来的に貴重な写真になるであろう「こまち」との2ショットである。何度もこのブログで述べているが、やはりJR東海の歩み寄りにより東北新幹線と東海道新幹線のレールを繋げて、いわゆる「上野・東京ライン」や「湘南新宿ライン」のような形で東京駅をスルー式にすれば東京駅の負担がかなり減ると思われるのだが・・・「大宮発新大阪行き」や「三島発仙台行」などバリエーションが豊富になりそう。
ところで、私は先述通り1983年頃がレールファンの最盛期であり、どちらかというと現在のJRよりも国鉄時代が好きだ。一部、コメントいただいた方にはお伝えしているが、やはりあの国鉄時代のノスタルジックな雰囲気がたまらなく好きである。
国鉄とJRの違いって何だろう?と考えた場合、私なりの感覚では「アナログ」か「デジタル」の違いのようなイメージになる。JRになり派手なデザインの車両や豪華列車が登場する中、やはり私は国鉄時代の旧型客車やプルートレインが好きだし、かつて北海道などにあったいわゆる赤字ローカル線などには非常にワクワクする。

そして晩年の「国鉄型」はJRカラーに染まっていた。しかしながら21世紀になって尚「国鉄」が健在だったのは奇跡に近いイメージであった。ただ、連結器の部分はオリジナルの当初とは異なり改造されているが、それでもよくこの時まで運用されていたと思う。「Max」との並びだと随分と華奢に見えるのは気のせいか。
もしタイムスリップ出来るなら私は1960年代後半から1970年代に戻り、夜行普通列車「からまつ」や新大阪発西方面行きの「阿蘇」「くにさき」などに乗ってみたい。そして東京発西鹿児島行きの夜行急行列車「高千穂」などにもチャレンジしてみたい。また、155系や159系の修学旅行用の車両にも乗ってみたい気持ちである。実際に155系などは子供の頃に急行「伊豆」として伊豆急下田辺りや東海道線の茅ヶ崎付近の踏切などでもたまに見かけた事があり憧れたものだが実現には至らなかった。
そして鉄道路線としては「1円電車」と呼ばれた明神電車や加悦鉄道、そして別府鉄道などにも乗車してみたかった。これらに関しては私の中学時代はまだ健在であり、その気になれば訪問できたのでますます勿体無い思いをしている。


晩年に200系の運用終了が発表されオリジナルカラーが復元されたのは嬉しい材料であった。もちろん隣にいる車両との2ショットは間違いなく貴重であろう。私が中学2年の時に開通した東北新幹線は大宮暫定開業であったが、その時の記憶が蘇るオリジナル塗装時代ではまだまだ夜行列車が東北方面へ頻繁に運転されており新幹線は発展途上であった。
さて、私のブログをご覧になってお分かりであると思うが、私はいわゆる「乗り鉄」である。そしてブルトレ世代であるため夜行列車が一番好きである。また、先述通り、地方の私鉄路線もノスタルジックを感じてしまう。
そんな中、国鉄からJRに変わり定期便の夜行列車や急行列車はほぼ消滅し寂しい内容となってしまった。そういう経緯もあり、私はやはり「瑞風」などの豪華列車より24系25形の「北斗星」のロイヤルや583系寝台のパン下の方が好きだ。
つまり私がJRではく国鉄を求める理由として夜行列車の存在が大きい。私が子供の頃は夜行列車が特急・急行問わず全国にゴマンと運転されていた。更に定期運用の旧型客車が運転されており、ギリギリ経験する事に間に合っているのもひとつであると思う。

1987年に私が運転免許取得のため福島へ合宿の参加をするため新幹線に乗車したが、その時はすでに上野まで到達しており、地下から乗る新幹線は実に斬新な風景であった。
つい最近まで生き残っていた岩泉線や三江線などは国鉄時代からの生え抜きであり貴重な存在であった。ただ、私が近年に訪問した時はやはり「国鉄」ではなく「JR」的な感覚であった。もちろん当然の事であるが、なぜそう感じたのであろう。JRになりワンマン化が進み車掌の存在が地方では薄れていく中、駅の無人化がどんどん進み合理化されポイント操作もCTCによる制御が当たり前になった時代である。もちろんこうした流れは企業として生き残るためには当然の手段であるのだが、なんというか、合理化に支配され「人間臭さ」みたいなものが薄れてしまったのであろうか。もちろんそれは私個人の意見であるのだが、私が最も好んだ昭和の国鉄時代は、SL時代の名残がある人間臭さと現在のデジタルが支配する合理的な形が入り混じはじりめた過渡期であった気がする、いや、過渡期であった。更に私が小学生の頃はブルートレイン全盛期であったから、EF65が牽引するブルートレインが格別であり、尚且つ上野から北方面へと散っていく夜行列車の数々の存在が私を魅了したが、東北・上越新幹線の開業により上野から出る優等列車の姿は次々と消え、何となく「北の玄関口」の風格が薄れていった。そうした時代の移り変わりの新陳代謝の激しい時代にレールファンになったのだから、当然ながら現在はその頃にもどれないというもどかしさが更に国鉄時代の魅力に拍車を掛けているイメージである。

そして私が所有する唯一の0系写真であるが、ご覧の通りの撮影状態であるのでやや申し訳ない気持ちである。すでにこの時はJR西でしか見れなくなっていて、この列車は博多南発であった。いや、博多南線を制覇するためにこの列車に乗り博多~博多南間を往復しているのでこの時が0系最後の乗車となった。
それでも私が中学生時代の1982年春に登場した「青春18」が私に普通列車の旅の楽しさを教えてくれたのだから、ブルートレインしか知らない少年にとっては実に新鮮であった。更に周遊券という新たな手段を使い、東北の旅ではトラブル続きであったが何とか成功したため、次の北海道チャレンジには確かな手応えを感じていた。国鉄時代の北海道は、最終的に白糠線と開業間もない石勝線の体験しかできなかったが、それでも自身としては大きな成果と確信している。

以前にも紹介した事がある写真であるが、岡山で撮影した100系は、新幹線の新しいスタイルを提案した。後の300系登場で更に新幹線が飛躍する時代がやっていくるわけであるが、いずれにしても新幹線の初代0系から現在まで経験している自分はある意味ラッキーであろうとつくづく思う。
これから先、時代と共に国鉄カラーはますます影が薄れるであろう。そしていつしかJRカラーが100%の時代が来るであろう。また、地方の私鉄路線も時代とともに消え去り、そして忘れ去られていく路線もあるであろう。更にアナログ的な感覚はほぼ完全に消え去り、デジタルが支配する鉄道はピークを迎える事であろう。そして更に時代は進み、技術の飛躍的な進歩は止まらないかも知れない。
実は、私の将来的な予定として、現在の未制覇路線を定年後に「フルムーンパス」で一気に制覇しようと考えていた。しかし2022年以降のフルムーンパスは発行の予定が無く、事実上消滅してしまったらしい!現在でもフルムーンパスが使える年齢に達しているのだが、将来の予定が組めなくなったので実に残念な思いである。
昔に比べフリーパスも少なくなった現在、乗りつぶし派にしてみたらやや肩身の狭い思いである・・・などと言ったら語弊があるが、やはりJR各社が時代に合ったフリーパスを提供してくれると私も旅の意欲が沸いてくる。もしそんな切符と出会えたら、新たなる「国鉄探し」が始められるであろう。そんな有意義な時間が近い将来に待っていたら幸いである。

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