題名の無い鉄道旅 part1 ばんえつ物語号 ⑦
2023-06-24
さて、いよいよ「ばんえつ物語号」に乗り磐越西線の制覇に乗り出す。やはり観光列車らしく、ギャラリーも少なくないが、正直、私はSLにさほど情熱を感じる場面が少なく、自らこうした観光列車に乗るのは珍しい。ただ、一般的な列車に乗車しながらレールファンを演じると、周りに迷惑をかけてしまいそうで、ある意味気を使ってしまう。しかし、こうした観光列車であれば周りに気遣う事無く撮影等出来るので都合が良い。更に牽引されている客車は懐かしの12系であるため、国鉄フリークの私にしたらグーの音も出ないであろう。

新潟で出発を待つ「ばんえつ物語号」である。ご覧の地上時代の在来線ホームは現在高架化されたが、在来線のホームも新幹線開業に合わせ若干リニューアルされている。その時から既に30年以上経っているとは思えないほどのメンテナスぶりだったので、壊してしまうのがやや勿体無いイメージである。
新潟を出た「ばんえつ」は沼垂(ぬったり)の広いヤードをすり抜け、ようやく線路が2本にまとまると、暫く新潟らしい風景が広がる。
たが、やがて再び線路が複数に別れ、ジョイント音が鳴り響き広い構内に入っていった。そう、ここは新津である。
新津は信越本線と羽越本線、そして磐越西線の交点として古くから鉄道の要衝として栄えた駅だ。国鉄時代には、特に新潟に寄らない特急列車の「新潟的な」役割をするイメージが強く、新津に停車する優等列車列車も少なくなかった。特に寝台特急「日本海」等は新潟に寄るとスイッチバックをしなければならず、新津に停車させて新潟までは普通列車などで繋ぐパターンがみられた。

蒸気機関車を動かすという事は、現在のようなワンマン体制というわけにはいかない。しかも化石燃料をその場で燃焼させながら動かすわけであるから、特に季節によっては相当の労力であろうと思う。
しかしながら、新津の配線はとても複雑でありよく出来ている。現在も恐らくさほど変更は無いかと思われるが、新津ではどの方向から来た列車でもどのホームへも進入できる配線となっている。パッと見複雑でありそうだが、やはりやや複雑かも知れない。
信越本線は複線なのに対し、羽越本線や磐越西線などは単線のため、意外にも処理しやすいように見受けられる。ただ、やはりどれも平面交差のためややリスクはあるものの、全体的にはスマートな配線と言えるであろう。1日眺めていても飽きない素晴らしさがある。

新津は四方から路線が集まる要衝である。当然ながら配線も複雑になっているが、国鉄時代は全ての方向から全てのホームへ進入できる配線になっていたが現在はどうなのであろうか。
「ばんえつ物語」はここ新津で若干の停車時間が設定されている。そんな新津の複雑な配線を跨線橋から眺めてみると、やはり複雑だ。それより、橋上駅舎での駅弁販売が気になる陳列具合である。「ばんえつ」の到着に合わせてのイベント的な特設会場的販売と思っていたが、別の日に新津へ訪れた時もこの特設会場的な弁当売場はあったので、ある意味、通年的な特設会場になるのであろうか。それはともかく、いわゆる駅弁の他にもおにぎりなど旨そうな弁当も並んでるではないか。SLのパッケージが私を誘惑してきたが、このあと喜多方に下車し名物のご当地ラーメンを食する予定なので、一旦私は鉄道施設の方角へと自身を集中させた。

磐越西線の非電化区間ではこうした駅名標が観光客を待っている。いや、非電化区間という表現は将来的に正しくない日が来るかも知れない。
ホームに戻ると観光仕様の駅名標が目に飛び込んできた。何というか「大正レトロ」的な雰囲気を醸し出していて、一般には、特に女性ウケそうなイメージになっているが、私個人ではそうした「新しいもの」に対してはトキメキが薄い反応であった。しかしながら、全てを私好みに染めてしまったら一般にはほとんどウケなくなってしまうであろう。やはりこれでいいのだ。観光列車には観光列車に相応しい空間が必要だ。そんな思いを胸に、窓に現れる薄黒い煙を眺めながら会津若松方面を再び目指した。

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新潟で出発を待つ「ばんえつ物語号」である。ご覧の地上時代の在来線ホームは現在高架化されたが、在来線のホームも新幹線開業に合わせ若干リニューアルされている。その時から既に30年以上経っているとは思えないほどのメンテナスぶりだったので、壊してしまうのがやや勿体無いイメージである。
新潟を出た「ばんえつ」は沼垂(ぬったり)の広いヤードをすり抜け、ようやく線路が2本にまとまると、暫く新潟らしい風景が広がる。
たが、やがて再び線路が複数に別れ、ジョイント音が鳴り響き広い構内に入っていった。そう、ここは新津である。
新津は信越本線と羽越本線、そして磐越西線の交点として古くから鉄道の要衝として栄えた駅だ。国鉄時代には、特に新潟に寄らない特急列車の「新潟的な」役割をするイメージが強く、新津に停車する優等列車列車も少なくなかった。特に寝台特急「日本海」等は新潟に寄るとスイッチバックをしなければならず、新津に停車させて新潟までは普通列車などで繋ぐパターンがみられた。

蒸気機関車を動かすという事は、現在のようなワンマン体制というわけにはいかない。しかも化石燃料をその場で燃焼させながら動かすわけであるから、特に季節によっては相当の労力であろうと思う。
しかしながら、新津の配線はとても複雑でありよく出来ている。現在も恐らくさほど変更は無いかと思われるが、新津ではどの方向から来た列車でもどのホームへも進入できる配線となっている。パッと見複雑でありそうだが、やはりやや複雑かも知れない。
信越本線は複線なのに対し、羽越本線や磐越西線などは単線のため、意外にも処理しやすいように見受けられる。ただ、やはりどれも平面交差のためややリスクはあるものの、全体的にはスマートな配線と言えるであろう。1日眺めていても飽きない素晴らしさがある。

新津は四方から路線が集まる要衝である。当然ながら配線も複雑になっているが、国鉄時代は全ての方向から全てのホームへ進入できる配線になっていたが現在はどうなのであろうか。
「ばんえつ物語」はここ新津で若干の停車時間が設定されている。そんな新津の複雑な配線を跨線橋から眺めてみると、やはり複雑だ。それより、橋上駅舎での駅弁販売が気になる陳列具合である。「ばんえつ」の到着に合わせてのイベント的な特設会場的販売と思っていたが、別の日に新津へ訪れた時もこの特設会場的な弁当売場はあったので、ある意味、通年的な特設会場になるのであろうか。それはともかく、いわゆる駅弁の他にもおにぎりなど旨そうな弁当も並んでるではないか。SLのパッケージが私を誘惑してきたが、このあと喜多方に下車し名物のご当地ラーメンを食する予定なので、一旦私は鉄道施設の方角へと自身を集中させた。

磐越西線の非電化区間ではこうした駅名標が観光客を待っている。いや、非電化区間という表現は将来的に正しくない日が来るかも知れない。
ホームに戻ると観光仕様の駅名標が目に飛び込んできた。何というか「大正レトロ」的な雰囲気を醸し出していて、一般には、特に女性ウケそうなイメージになっているが、私個人ではそうした「新しいもの」に対してはトキメキが薄い反応であった。しかしながら、全てを私好みに染めてしまったら一般にはほとんどウケなくなってしまうであろう。やはりこれでいいのだ。観光列車には観光列車に相応しい空間が必要だ。そんな思いを胸に、窓に現れる薄黒い煙を眺めながら会津若松方面を再び目指した。

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題名の無い鉄道旅 part1 ばんえつ物語号 ⑥
2023-06-17
「ばんえつ物語」と題しておきながらなかなか「ばんえつ」にたどり着かないのは前章の「木綿のハンカチーフ」のような展開になってしまったが・・・「ばんえつ物語」登場まで今暫くお待ちいただければ幸いである。
ところで、私のブログでは全線制覇に向けての過去の旅行程を紹介しているが、1984年に赤谷線を訪問した際の旅行程が抜けていたので追加させていただいた(こちらより)。

1984年3月に廃止された赤谷線は、新発田~東赤谷を結んでいた。いわゆる「83線区」に指定され、相模線の寒川支線と同時期に「リバプールの風」となったが、ちょうどこの時期はこうした廃止路線がある意味「ブーム」となっていたのは皮肉なものである。
その旅では確かな記録が手元に無かったため、記憶をたどり時刻表と照らし合わせながら作業させていただきアップした。その中でやや連絡接続が比較的よろしく無いようであったが、考え方次第では弥彦線の廃線区間である東三条~越後長沢の区間を制覇しても赤谷線の乗車には充分に間に合う事が判明した!同区間の制覇をしないまま廃線を向かえてしまったため非常に悔いが残って仕方がない。まだ子供だったので仕方がないが、それにしても柔軟性や可能性の広げ方に対して視野が狭い自分を改めて感じてしまったわけだ。その区間だけでも乗車していればまた一味違った旅になっていたであろうが…

何故か信越本線の鯨波にあった魚沼線の痕跡。魚沼線とは信越本線の来迎寺から西小千谷間を結んでいた路線で、赤谷線や相模線の寒川支線と同時期に廃止された。終点の西小千谷は小千谷市のほぼ中心部に近かったが、長岡へ行くのには信越本線を経由するためやや遠回りになる事と、川を挟んだ対岸には上越線の小千谷があり、長岡方面や東京方面へは当時、在来線特急「とき」や急行「佐渡」等頻繁に停車していたため利用者は少なく、更に併走する競合バス路線などもあり、魚沼線自体、鉄道としての役割や意味が薄くなっていた。だが、なぜ鯨波でこうしたアピールがなされていたかは不明である。
赤谷線制覇の際には、同じく同時期に廃止が発表されていた魚沼線も一緒に計画に組み込みたかったのだが、どう踠いても赤谷線と魚沼線の両方を組み込む事ができずにいたので、結局赤谷線を選ぶ事になった。だが、弥彦線の廃線区間は完全にその影に隠れてしまい、私の頭の回転の無さを引きずったまま現在に至ってしまったのを今さら気付いても仕方がない。後はドラえもんにでも頼むしかないであろう。
久々の吉田より越後線で新潟へ向かう。前回越後線に乗ったのは1982年8月で電化直前だったので気動車であった。ただ、新潟付近は、特に内野~新潟間は利用者も多く、気動車では限界でもあったであろう。上越新幹線開業に合わせて電化されたが、それは当然の流れであった。ただ、当時は子供ながらに吉田での弥彦線と越後線の交差処理が非常に気になった。平面なのか立体なのか…
もちろん、現在は既に答えは出ているが、当時はさぞかし複雑であろうと期待感ワクワクだったが、いざ現地に着いてみると、ある意味非常にシンプルだったのでやや拍子抜けした感があった。

いよいよ新潟より「ばんえつ物語号」に乗車する。やはりSLはどこへ行っても人気者であるが、運転する方は想像以上の労力が必要とされよう。石炭を燃やしながら水蒸気のチカラで列車を動かすという古典的な動力がなぜこの時代まで動態保存されているのか・・・世代が変わってもSLに対する人々の思いは変わらないという事であろう。
さて、ようやく新潟へ着いた。いよいよここよりばんえつ物語号の待つホームへ向かう。新幹線開業前に在来線ホームがリニューアルされたが、当時のままの姿でほぼ変わらずJRに引き継がれていたのは懐かしかった。現在は高架化されますますパワーアップした新潟であるが、高架化された事でホームから万代橋はみえるのであろうか…
ところで、私のブログでは全線制覇に向けての過去の旅行程を紹介しているが、1984年に赤谷線を訪問した際の旅行程が抜けていたので追加させていただいた(こちらより)。

1984年3月に廃止された赤谷線は、新発田~東赤谷を結んでいた。いわゆる「83線区」に指定され、相模線の寒川支線と同時期に「リバプールの風」となったが、ちょうどこの時期はこうした廃止路線がある意味「ブーム」となっていたのは皮肉なものである。
その旅では確かな記録が手元に無かったため、記憶をたどり時刻表と照らし合わせながら作業させていただきアップした。その中でやや連絡接続が比較的よろしく無いようであったが、考え方次第では弥彦線の廃線区間である東三条~越後長沢の区間を制覇しても赤谷線の乗車には充分に間に合う事が判明した!同区間の制覇をしないまま廃線を向かえてしまったため非常に悔いが残って仕方がない。まだ子供だったので仕方がないが、それにしても柔軟性や可能性の広げ方に対して視野が狭い自分を改めて感じてしまったわけだ。その区間だけでも乗車していればまた一味違った旅になっていたであろうが…

何故か信越本線の鯨波にあった魚沼線の痕跡。魚沼線とは信越本線の来迎寺から西小千谷間を結んでいた路線で、赤谷線や相模線の寒川支線と同時期に廃止された。終点の西小千谷は小千谷市のほぼ中心部に近かったが、長岡へ行くのには信越本線を経由するためやや遠回りになる事と、川を挟んだ対岸には上越線の小千谷があり、長岡方面や東京方面へは当時、在来線特急「とき」や急行「佐渡」等頻繁に停車していたため利用者は少なく、更に併走する競合バス路線などもあり、魚沼線自体、鉄道としての役割や意味が薄くなっていた。だが、なぜ鯨波でこうしたアピールがなされていたかは不明である。
赤谷線制覇の際には、同じく同時期に廃止が発表されていた魚沼線も一緒に計画に組み込みたかったのだが、どう踠いても赤谷線と魚沼線の両方を組み込む事ができずにいたので、結局赤谷線を選ぶ事になった。だが、弥彦線の廃線区間は完全にその影に隠れてしまい、私の頭の回転の無さを引きずったまま現在に至ってしまったのを今さら気付いても仕方がない。後はドラえもんにでも頼むしかないであろう。
久々の吉田より越後線で新潟へ向かう。前回越後線に乗ったのは1982年8月で電化直前だったので気動車であった。ただ、新潟付近は、特に内野~新潟間は利用者も多く、気動車では限界でもあったであろう。上越新幹線開業に合わせて電化されたが、それは当然の流れであった。ただ、当時は子供ながらに吉田での弥彦線と越後線の交差処理が非常に気になった。平面なのか立体なのか…
もちろん、現在は既に答えは出ているが、当時はさぞかし複雑であろうと期待感ワクワクだったが、いざ現地に着いてみると、ある意味非常にシンプルだったのでやや拍子抜けした感があった。

いよいよ新潟より「ばんえつ物語号」に乗車する。やはりSLはどこへ行っても人気者であるが、運転する方は想像以上の労力が必要とされよう。石炭を燃やしながら水蒸気のチカラで列車を動かすという古典的な動力がなぜこの時代まで動態保存されているのか・・・世代が変わってもSLに対する人々の思いは変わらないという事であろう。
さて、ようやく新潟へ着いた。いよいよここよりばんえつ物語号の待つホームへ向かう。新幹線開業前に在来線ホームがリニューアルされたが、当時のままの姿でほぼ変わらずJRに引き継がれていたのは懐かしかった。現在は高架化されますますパワーアップした新潟であるが、高架化された事でホームから万代橋はみえるのであろうか…
題名の無い鉄道旅 part1 ばんえつ物語号 ⑤
2023-06-10
白新線から新発田へ抜け、坂町で折り返し再び羽越線に乗り新津を目指す。これより弥彦線を制覇するるためであるが、弥彦線制覇のためにわざわざ新発田へ出るなど、普通ならこのような鉄道利用をする方はいないであろう。しかし、単純に「乗りつぶし」という己の道楽をあえて貫くために、当時未制覇だった新発田~坂町にたどり着かなければならない。だがしかし、後年に寝台特急「あけぼの」でも制覇したのであえてこのタイミングで行く必要があったかは別として、これで1983年以来の羽越線全線制覇となったわけだ。
さて、白新線は運転頻度が高く、しかも特急列車も運転されているため新発田~新津間の羽越線は乗りつぶし派には意外にも落とし穴的な同区間であるが、かつては寝台特急や特急列車が新潟へ寄らずに同区間を走る列車があり、さりげなく制覇していた方も少なくないであろう。だがやはり、何気に普通列車での制覇の方が味があって良い。以前に私が赤谷線制覇の際に、その行程で新発田~新津間を旧型客車で制覇した場面もあったが、今回はロングシートによる「三沢式フェイスロック」での再訪となった。やはりロングシートで車窓を眺めるという事はかなりの労力を必要とする(プロレスファンではない方には伝わりにくいが・・・)。

別の日に上越新幹線でやってきた新潟であるが、開業から30年以上経って初めて上越新幹線を新潟まで制覇した。この訪問後に在来線も高架化され、更に進化した新潟の今後に期待したい。
同区間の中心的な存在である水原も、通学時間に差し掛かろうという時間帯であるが、新潟方面へのアクセスが賑やかな海岸沿いに比べ実に穏やかな時間が過ぎていた。ちなみに水原は「すいばら」と読む(だが、決して水曜バラエティではない)が、水原と聞くと、我々世代では某製薬会社の殺虫剤で、街中のホーロー看板に登場するシーンを思い出す(こちらは「みずはら」と読むが)。現在でもレトロ調のお店などで見かける場合があるのは嬉しい限りであるが、ペアで「渦巻」の看板も見かけると尚更嬉しい。
車窓は穏やかな時間ではあるが、こちらは小刻みに乗り換えをするために慌ただしい時間が過ぎていた。新潟より新発田~坂町~新津と歩んでいるのに、今いる新津では何とまだ、朝の6時台である!いかに乗り換えがスムーズかお分かりであろう。そのスムーズな乗り換えは更に続き、東三条より弥彦線へと繋がっていく。

今回の旅で弥彦で撮影した115系であるが、2022年に定期運用を終了してしまった。上越新幹線開業とともに電化され導入された車両であるが、こうして当たり前だった風景が見られなくなるのは寂しい限りだ。
上越新幹線開業に合わせて電化された弥彦線であるが、国鉄時代からご存じの方は、現在の弥彦線の姿とはやや異なっていた事が記憶の片隅にあるであろう。弥彦線は信越本線と越後線を縦に貫く形で敷設されているが、実は東三条から更に南に伸びる路線が存在した。もちろん電化されること無く葬り去られてしまったが、今思えば、弥彦線のなかでも特殊な存在であり、地図上での、そして戸籍上での「弥彦線」としてのくくりでは収められない、何か特別な輝きがあった。播但線でいう「飾磨港」や、福知山線でいう「尼崎港」のような異端児的な輝きは薄いものの、しっかりとしたバイプレーヤー的な存在であった。もちろん支線ではなかったので列記とした起点駅であったが、なくなってしまうとやはり鉄道地図に不自然さが残る。そんな鉄道地図には載っていない弥彦線の終点駅は越後長沢と名乗っていた。

そしてこちらはウィキペディアによる現在の越後長沢「駅跡」である。ご覧のように現在はバス停留所の待合室として第二の人生を送っているが、名称が非常にわかりやすいのでビギナーでもここに鉄道の歴史があったと感じる事ができる。ただ、数々の国鉄赤字路線が廃止されバス転換された中、そのバス運営もかなりの苦戦が強いられている。中にはバスも廃止されてしまう場面も少なくなく、国鉄時代の赤字路線をそのまま受け継ぐのがいかに大変かという事が近年に特に顕著になってきている。
国鉄時代に越後長沢への訪問ができなかったのは悔いが残るが、電化後にウン十年経ってから初めて訪れた弥彦線は、国鉄色豊かな路線であった。
早速東三条より北上し弥彦に向かう。途中、新幹線と交差する燕三条に寄るが、周知の通り新幹線開業と同時にできた駅である。お陰で浦和ほどではないが、ひとつ間違えば戸惑いそうな駅名の数々なのに、またひとつ駅名が増えて、更にややっこしくなったイメージである。
そして隣の燕からはかつて新潟交通が新潟県の中心部までレールを伸ばしていた。白山下から県庁前までは路面電車的な軌道となっており、異色な路線であったが、それは既に「リバプールの風」となっており、昭和の思い出となってしまった。こうして弥彦線ひとつ乗るだけでも色々な思いがフラッシュバックしてくる。
1982年に訪れた吉田を過ぎまもなく弥彦に着こうとしている。弥彦は全く初めて訪れる駅なのに、なぜか懐かしさと親しみを感じずにはいられなかった。

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さて、白新線は運転頻度が高く、しかも特急列車も運転されているため新発田~新津間の羽越線は乗りつぶし派には意外にも落とし穴的な同区間であるが、かつては寝台特急や特急列車が新潟へ寄らずに同区間を走る列車があり、さりげなく制覇していた方も少なくないであろう。だがやはり、何気に普通列車での制覇の方が味があって良い。以前に私が赤谷線制覇の際に、その行程で新発田~新津間を旧型客車で制覇した場面もあったが、今回はロングシートによる「三沢式フェイスロック」での再訪となった。やはりロングシートで車窓を眺めるという事はかなりの労力を必要とする(プロレスファンではない方には伝わりにくいが・・・)。

別の日に上越新幹線でやってきた新潟であるが、開業から30年以上経って初めて上越新幹線を新潟まで制覇した。この訪問後に在来線も高架化され、更に進化した新潟の今後に期待したい。
同区間の中心的な存在である水原も、通学時間に差し掛かろうという時間帯であるが、新潟方面へのアクセスが賑やかな海岸沿いに比べ実に穏やかな時間が過ぎていた。ちなみに水原は「すいばら」と読む(だが、決して水曜バラエティではない)が、水原と聞くと、我々世代では某製薬会社の殺虫剤で、街中のホーロー看板に登場するシーンを思い出す(こちらは「みずはら」と読むが)。現在でもレトロ調のお店などで見かける場合があるのは嬉しい限りであるが、ペアで「渦巻」の看板も見かけると尚更嬉しい。
車窓は穏やかな時間ではあるが、こちらは小刻みに乗り換えをするために慌ただしい時間が過ぎていた。新潟より新発田~坂町~新津と歩んでいるのに、今いる新津では何とまだ、朝の6時台である!いかに乗り換えがスムーズかお分かりであろう。そのスムーズな乗り換えは更に続き、東三条より弥彦線へと繋がっていく。

今回の旅で弥彦で撮影した115系であるが、2022年に定期運用を終了してしまった。上越新幹線開業とともに電化され導入された車両であるが、こうして当たり前だった風景が見られなくなるのは寂しい限りだ。
上越新幹線開業に合わせて電化された弥彦線であるが、国鉄時代からご存じの方は、現在の弥彦線の姿とはやや異なっていた事が記憶の片隅にあるであろう。弥彦線は信越本線と越後線を縦に貫く形で敷設されているが、実は東三条から更に南に伸びる路線が存在した。もちろん電化されること無く葬り去られてしまったが、今思えば、弥彦線のなかでも特殊な存在であり、地図上での、そして戸籍上での「弥彦線」としてのくくりでは収められない、何か特別な輝きがあった。播但線でいう「飾磨港」や、福知山線でいう「尼崎港」のような異端児的な輝きは薄いものの、しっかりとしたバイプレーヤー的な存在であった。もちろん支線ではなかったので列記とした起点駅であったが、なくなってしまうとやはり鉄道地図に不自然さが残る。そんな鉄道地図には載っていない弥彦線の終点駅は越後長沢と名乗っていた。

そしてこちらはウィキペディアによる現在の越後長沢「駅跡」である。ご覧のように現在はバス停留所の待合室として第二の人生を送っているが、名称が非常にわかりやすいのでビギナーでもここに鉄道の歴史があったと感じる事ができる。ただ、数々の国鉄赤字路線が廃止されバス転換された中、そのバス運営もかなりの苦戦が強いられている。中にはバスも廃止されてしまう場面も少なくなく、国鉄時代の赤字路線をそのまま受け継ぐのがいかに大変かという事が近年に特に顕著になってきている。
国鉄時代に越後長沢への訪問ができなかったのは悔いが残るが、電化後にウン十年経ってから初めて訪れた弥彦線は、国鉄色豊かな路線であった。
早速東三条より北上し弥彦に向かう。途中、新幹線と交差する燕三条に寄るが、周知の通り新幹線開業と同時にできた駅である。お陰で浦和ほどではないが、ひとつ間違えば戸惑いそうな駅名の数々なのに、またひとつ駅名が増えて、更にややっこしくなったイメージである。
そして隣の燕からはかつて新潟交通が新潟県の中心部までレールを伸ばしていた。白山下から県庁前までは路面電車的な軌道となっており、異色な路線であったが、それは既に「リバプールの風」となっており、昭和の思い出となってしまった。こうして弥彦線ひとつ乗るだけでも色々な思いがフラッシュバックしてくる。
1982年に訪れた吉田を過ぎまもなく弥彦に着こうとしている。弥彦は全く初めて訪れる駅なのに、なぜか懐かしさと親しみを感じずにはいられなかった。

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題名の無い鉄道旅 part1 ばんえつ物語号 ④
2023-06-03
私の想像していた、いや、かつて私が制覇した時の白新線のイメージを覆し、飛び乗った車両はロングシートであった。
どちらかというと、白新線は新潟近郊の通勤通学路線のイメージが強いが「いなほ」や、かつての「白鳥」などが水原を経由せず、新潟から白新線を使っているため短絡線のイメージも強い。いや、短絡線という表現はおかしくて、かえって遠回りになるが新潟に寄るためのひとつの手段としての役割が大きい。ただ、新潟の市街地から沿線が急激に発展してきたため、国鉄時代の白新線に比べかなり役割も変化してきており、現在の「近郊形」「通勤形」のイメージが強くなってきたわけだ。その代表的なのが東新潟であろう。

私の能書きよりも図を見ていただく方が早いであろう。とはいえ、大変芸術的な配線図で申し訳ないが、これが新旧の東新潟駅である。国鉄時代は白新線が貨物ヤードを挟む形でホームがあったため、特に利用者の多い南側・・・つまり上りホーム側からの利用者は下り列車に乗る場合、又は上り列車から降りる場合は長い通路を歩く事になり非常に労力のいる作業であった。現在はご覧のような形になり、駅南側の利用者には大変便利になった。
国鉄時代では東新潟構内に大きなヤードがあり、上下のホームがヤードを挟む形で離れていた。現在では上りホームが移動する形でひとつの構内に収まり、ヤードも若干整理された。利用者にとっても経営する側にとっても非常にスリムになり多くのご利益があったであろう。更に、豊栄の利用者増や越後線の電化も併せて、新潟界隈はかなり賑やかになった。その根元となっているのはやはり新幹線の開通で、その恩恵も大きい。

JR職員が若干、大阪・難波の風景によく似たウイニングラン的ポーズを決めているが、こちらは運転終了が発表されてすぐの寝台特急「あけぼの」である。私はこの列車で改めて新発田~坂町間を制覇した。
さて、万代橋こそ眺められなかったが、深夜未明の新潟を去り、私は羽越線未制覇部分の新発田~坂町間の制覇に乗り出した。坂町~酒田は1983年に制覇しているが、その時は特急「白鳥」で、2014年には酒田~秋田を寝台特急「あけぼの」での制覇だったため一瞬で過ぎてしまい何となく味気ないものとして現在も心の片隅に残っている。いつかは普通列車又はレンタカーなどで各駅を訪問してみたいが、まだまだ先になるであろう。ただ新発田から坂町まで普通列車となり、何となく国鉄の面影と風情が残る羽越線を少しは堪能できたイメージであるが、ムーンライトから白新線を挟み、羽越線の道のりはまだまだ朝早い。ロングシートで振り返る窓の景色はやや三沢光晴式のフェースロック気味に首が決まっているが、いつしかじっくりと訪れてみたい駅が沢山鏤められているようだ。特急列車では見えなかった新たな何かを発見し、更に確認するために私は心に誓う何かを車窓から見つけた思いであった。

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どちらかというと、白新線は新潟近郊の通勤通学路線のイメージが強いが「いなほ」や、かつての「白鳥」などが水原を経由せず、新潟から白新線を使っているため短絡線のイメージも強い。いや、短絡線という表現はおかしくて、かえって遠回りになるが新潟に寄るためのひとつの手段としての役割が大きい。ただ、新潟の市街地から沿線が急激に発展してきたため、国鉄時代の白新線に比べかなり役割も変化してきており、現在の「近郊形」「通勤形」のイメージが強くなってきたわけだ。その代表的なのが東新潟であろう。

私の能書きよりも図を見ていただく方が早いであろう。とはいえ、大変芸術的な配線図で申し訳ないが、これが新旧の東新潟駅である。国鉄時代は白新線が貨物ヤードを挟む形でホームがあったため、特に利用者の多い南側・・・つまり上りホーム側からの利用者は下り列車に乗る場合、又は上り列車から降りる場合は長い通路を歩く事になり非常に労力のいる作業であった。現在はご覧のような形になり、駅南側の利用者には大変便利になった。
国鉄時代では東新潟構内に大きなヤードがあり、上下のホームがヤードを挟む形で離れていた。現在では上りホームが移動する形でひとつの構内に収まり、ヤードも若干整理された。利用者にとっても経営する側にとっても非常にスリムになり多くのご利益があったであろう。更に、豊栄の利用者増や越後線の電化も併せて、新潟界隈はかなり賑やかになった。その根元となっているのはやはり新幹線の開通で、その恩恵も大きい。

JR職員が若干、大阪・難波の風景によく似たウイニングラン的ポーズを決めているが、こちらは運転終了が発表されてすぐの寝台特急「あけぼの」である。私はこの列車で改めて新発田~坂町間を制覇した。
さて、万代橋こそ眺められなかったが、深夜未明の新潟を去り、私は羽越線未制覇部分の新発田~坂町間の制覇に乗り出した。坂町~酒田は1983年に制覇しているが、その時は特急「白鳥」で、2014年には酒田~秋田を寝台特急「あけぼの」での制覇だったため一瞬で過ぎてしまい何となく味気ないものとして現在も心の片隅に残っている。いつかは普通列車又はレンタカーなどで各駅を訪問してみたいが、まだまだ先になるであろう。ただ新発田から坂町まで普通列車となり、何となく国鉄の面影と風情が残る羽越線を少しは堪能できたイメージであるが、ムーンライトから白新線を挟み、羽越線の道のりはまだまだ朝早い。ロングシートで振り返る窓の景色はやや三沢光晴式のフェースロック気味に首が決まっているが、いつしかじっくりと訪れてみたい駅が沢山鏤められているようだ。特急列車では見えなかった新たな何かを発見し、更に確認するために私は心に誓う何かを車窓から見つけた思いであった。

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