国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。信越編① 軽井沢
2023-09-30

新幹線の停車駅になったのは1998年の事であった。それまではアプト式こそ廃止されたていたものの、この区間専用の機関車による補助を強いられ、ここ軽井沢ととなりの横川は全ての列車が停車しなければならなかった。碓氷峠は日本有数の難所としてその名を馳せ、我々の先輩たちはその難所を越えるために血の滲む努力と苦労をなされてきた。私は今回マイカーでの訪問になったが、新幹線や高速道路など、この碓氷峠越えを気軽にできる手段を選ばす、私はあえて熊ノ平経由を選んだ。つまり軽井沢へは群馬側からのアプローチとなったのだ。
熊ノ平の紹介は次章になるが、横川から出発して200以上ものカーブと上り坂を越え登りきった所に軽井沢はあったのだ。日本屈しの避暑地として名高い軽井沢はものすごい高原にあり、先輩達はかねてからこの地に足を踏み入れる事に血の滲むような努力をしていたのだ。



立派な駅舎に生まれ変わったのは新幹線開通時であるが、在来線は隣の横川までが途切れてしまった。そして軽井沢から長野方面へ向けては経営者も変わり、様々な風景が変化した日本有数の避暑地である。
かつて、この軽井沢と草津温泉を繋ぐ草軽鉄道があった。今回の旅で、実はこの草軽鉄道の取材を予定していたのだが、タイムオーバーで軽井沢に着いた時点で諦めてしまった。軽井沢より北上し、万座・鹿沢口と大前を取材し、更に吾妻線を辿りながら伊香保温泉へアプローチする予定であったのだが、残念ながら実現しなかった。だが、この軽井沢より万座・鹿沢口へ抜けるルートこそ草軽鉄道のルートそのもので、日本有数の避暑地と温泉街を繋ぐルートに私は大変興味を持ったのだ。
ただ、この草軽鉄道は建設の経費を抑えるためにスイッチバックやカーブを連続させ、所要時間がかかりすぎてしまった結果、利用者が振るわなかった。つまり、その経費を掛けなかった事が仇となり、結果として利用者数が思惑通りにならずに廃止になってしまったわけであるが、例えトンネルやルート選択に相当投資したとしても、モータリゼーションの影響を間違いなく受けたであろうから何れ廃止になった事だと思われる。

以前は機回し線など多くの側線があったと思われる場所は新しい何かが生まれる予兆を感じる風景であった。しかしながら、新幹線が開通し20年以上経過しているはずであるが、令和の現在になってから更に進化するとは、さすが日本有数の避暑地である。
さて、私が軽井沢に到着した時には多くの観光客で賑わっていた。夏はゴルフ、テニス、冬はスキーなどバリエーション豊富な軽井沢はどちらかというと高貴なイメージがあり私のような貧困層など寄せ付けない雰囲気を醸し出すような感じがしたが、意外にも若者を多く見かけた。喫茶店なども割りとリーズナブルであり、私のような庶民でも楽しめる場面も少なくなかったが、感染症の制限が解除された事もあり、その数は通常に近い形になりつつあったのであろう。そんな軽井沢をじっくり堪能できたのも、私がレールファンであったからだと思う。恐らくレールファンでなかったら一生軽井沢へ訪れる事はなかったかも知れない。

駅舎内に入ってみた。早速目に付いたのが「名物」である。国鉄時代はもちろんお隣の横川でお目にかかれたものであるが、新幹線が開通し、こうして立ち食いそば店にも姿を現すようになった。
さて肝心の駅であるが、在来線の横川~軽井沢間が廃止され補助機関車の付け替えが必要無くなった事から構内はスリムになった。そしてしなの鉄道となった在来線と新幹線は同じ高さの位置にホームがあり、私がイメージしていた「新幹線は高架」という概念が無く、なんとなくフランス辺りの鉄道風景的雰囲気なイメージになるのであろうか。もちろん、在来線と新幹線の乗り換えの際には中間改札があるのは当然の風景であるが、ただ軽井沢の場合の両者は経営母体が異なるため、中間改札では無く両者の独立した改札を通過しなければならないのでやや手間がかかりそうだ。
それより、私からしたら軽井沢が終端駅である事が不自然でならない。もちろん、現在のそれは当たり前であるのだが、横川~軽井沢間が廃止されたことで貨物列車の往来とかどうするのかみたいな単純な疑問も生まれてきてしまう。だが恐らく高速道路によるトラック輸送にシフトしているのと、他の路線を経由すれば、例えば東京からなら長野方面へは問題はなく、当然ながらその事を視野に入れての横川~軽井沢間の廃止という判断であったはずだ。もちろん新幹線開業後は在来線の旅客輸送が減るわけであるから名より実を取った形になった。



こちらはコンコースを撮影してみた。ご覧の通り、実に広々としているが、しなの鉄道と新幹線との間には高低差がない。つまり私個人のイメージでは新幹線は常に高架上を走っている感覚であるが、ここ軽井沢ではしなの鉄道と新幹線が同じ高さの位置にホームがある事になる。
今回の旅において、伊香保温泉へのアプローチとして軽井沢方面への訪問は一種の通過点と考えていた。だがしかし、日本有数の避暑地には思いがけないドラマが隠れていた。「そこに鉄道を敷く!」という先人たちの熱き想いが2本のレールに込められていたのだ。その思いは次の熊ノ平やアーチ橋に向かい横川へ繋がっていく。私はその技術の高さに、そしてアーチ橋の高さにただただ敬服するのみであった。

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国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編⑥ 湯檜曽
2023-09-23

国境越え3駅の中で最も文明を感じることができるのは湯檜曽であろう。駅前には郵便局があり、更に車で5~6分くらい下れば道の駅もある。
今回私が訪問したタイミングによるものであろうか、やはり定期的な利用者ではない乗客がほぼシェアしていると思われかなりのギャラリーを感じることができた。



モダンな駅舎に生まれ変わった湯檜曽。かつてのログハウス風の駅舎のイメージは全く無いが、基礎部分にその雰囲気を感じることができる。すぐ隣には郵便局があり、駐車場を共用しているイメージであった。
近年に駅舎を建て替えたばかりでかつての国鉄式駅舎のイメージは全く無いが、ひとたびホームへ出るとそのイメージは全く異なるものとなる。この駅も土合と同様に上りホームと下りホームが分かれており下りホームはトンネル内にあるが、駅舎からホームまでは460段以上の階段は無く、短い通路を伝ってすぐにホームに到着する。そして何と、駅舎に入った途端、一気に冷風が舞い込み汗だくの私を大きく包んでくれたのだ。恐らく25~26℃くらいと思われ、外部の気温と比べるとかなり涼しい。つまりトンネル内からの冷たい冷気が天然の冷房となり、猛暑の中の訪問客を心地よくしてくれているのだ。トンネル内は恐らく冬季も外気より気温が暖かいと思われ、天然の空調による経済効果は絶大であろう。これは経営者側も大きな経費節約になると思われ、それこそ「トンネル効果」であろう。



駅舎内は以外にシンプルであるが、清潔感もあり新しさをとても感じる。この駅舎内に入ったとたん、とても冷たい空気が流れてきた。つまり下りホーム側から天然の冷風が舞い込んできて一気に猛暑の苦しみから逃れる事ができたのだ。
ところで先程「文明を感じる」と述べたが、旅客輸送のみで鉄道会社が潤うであろうほどの文明を感じる事は比較的難しい。やはり中心は登山者や私のような「専門家」が利用者数をシェアしていると思われるが、首都圏から近いこともありその数は少なくないイメージであった。私の訪問時にも、下りホームには少なくとも10人以上が列車を待っていたし、駅前にも登山者が絶え間なく歩いていたイメージであった。つまりこうした事情によりこの地に駅が設置されているのだなと改めて感じることができた。それはちゃんと意味を持っているんだよ、との無言のアンサーだったのかも知れない。増して18きっぷのシーズンでもあったため、それ以外の利用者も不特定多数いたことになる。もちろん、その中に私の「一名」が含まれているが…



地上ホームは築堤というか一段高い場所にある。一面一線ではあるが、架線柱をご覧いただくともう一本レールがあるイメージだ。ちょっと古い資料で調べてみたら、上下線の渡り線的な役割をする線路があったらしい。ただ、30年以上前には既に役割を終えていたらしいので、いまだその遺構が感じる事が出来るのは嬉しい材料である。
さて、地上ホームであるが、一面一線のシンプル構造であり築堤上にある。ウィキによるとこの湯檜曽は移転後の新しい駅であり、かつての湯檜曽は北湯檜曽信号場として閉塞的な役割として使用されていたらしい。恐らく列車本数に応じて列車の待避など行われていた可能性もあるが、新幹線開通後の1984年に廃止されたらしく、ほとんど使用されていなかったと思われる。ただ、現在も遺構などが若干残っていると聞いているので是非とも訪れてみたかったが、恐らく一般の進入は禁止であろうと思われ、大掛かりな許可をいただくが、保線員としてJR東日本に就職する以外にこの地の訪問は難しいと思われる。
特にSL時代には相当の苦労があったと思われる水上~越後湯沢間であるが、新清水トンネルの開通や大清水トンネル開通による新幹線の恩恵を受け、国境越えが非常にスムーズになった。もちろん、関越トンネルによる高速道路の存在も忘れてはならないが、いずれにせよ、いくつもの難題を乗り越えて現在に継承してくれている先輩方の英知と勇気、そして決断に感謝したい。

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続きを読むをクリックすると下りホームの様子がご覧になれます。
国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編⑤ 土合(後編)
2023-09-16

さて、今回は土合の下りホームへのアプローチとなる。東京方面からの場合には土合は群馬県最後の駅となるが、長野県側から来る場合は群馬県に入って最初の駅となる。
下りホームは新清水トンネル内にあるのは既に先告ご承知の通りであるが、真夏の炎天下での参戦となればこの特殊な構造はかなりの恩恵を受ける事であろうとかなりの期待が持てる。




駅舎よりちょっとした通路を通り、いよいよ462段へと向かう。まるでジェットコースターが一気に加速する前に登る坂道の如く、前置きが少々長い。
だが、実際はちがった。実は土合に来る前に湯檜曽へ寄ったが、トンネル内の下りホームは通路に入った瞬間に物凄い冷気を感じ、天然クーラーが効いているイメージであったが、土合の場合はホームへ繋がる階段ではむしろ湿度が高く湿気ているイメージが強い。そのため冷気をさほど感じることができずホームへのアプローチにやや負担がかかってしまった。それでも駅舎から下りホームへは下り階段のためさほど体力を使わないが、下りホームから駅舎へ伝う場合は上り階段となるためスタミナのロスが大きい。私はそれを覚悟の上、下りホームへと向かった。




「人生は振り返らずに前進あるのみ!」とは言うものの、時には振り返るのも必要だ。私は下り階段で下りホームへ向かう際に何度も振り返って撮影していた。ご覧の通りシーズンともありギャラリー多数!
同伴の妻は駅舎で待ってもらい、私は人生で2度目となる土合下りホームへの階段を下り始めた。先述通りギャラリー多数・満員御礼であるが、すれ違う登り階段ギャラリーは皆全て疲労の表情を隠せずにいた・・・とにかくギャラリーが多いため、なんとなく四国88ヶ所巡りかなと錯覚を起こしてしまいそうな感じであった。いや、軽装備による登山であるならむしろこの土合の方が都合がいいのではないか。かつて首都圏某所にあった人工雪スキー場「ザウ○」のような感覚で、気軽に列車で訪れ登山ができる。これは素晴らしい事だ。
そして登山に疲れたら、駅舎内には喫茶店、そして駅前にはドライブインなどの飲食店があり、何かと重宝する。まさに、私が今回訪問したタイミングは「18」のシーズンだったため、そうしたギャラリーも多かったはずだ。


階段は5段ずつで区切られているので何段登ったかがわかりやすいのだが、その分歩数も多くなり462段以上の歩数が必要になってくる。
さて、今回は下りホームの紹介だが、先述通り待避線側にあったホームが本線上に新設され待避線側のホームは使用できなくなった。つまり待避線が撤去された事を意味するが、旧ホームはまだ残っており、かつての土合を感じることができる。ただ、WCは閉鎖されたため、用を足したい方は駅舎まで移動しなければならない。場合によってはある種の試練かも知れないが、基本、経営者側は極力経費や維持費を押さえたいわけだからいざ仕方ない事であろう。
ところで、下りホームからの帰り道の事である。下ってきた462段の階段を、今度は登らなければならない。その階段を登っていて気がついたのだが、先述通り、駅舎へと繋がる長い階段は5段ずつ区切られて一旦階段がなくなる。つまり5段登ったら2~3歩歩いてまた5段を登るというパターンの繰り返しとなるわけだ。要するに、帰りの登り階段は必要以上にスタミナをロスする。あの「無尽蔵のスタミナ」といわれたジャンボ鶴田もこの登り階段を見たら唖然とするであろう。階段を見上げるとゴールは遥か彼方にある。460段越えの階段に対しこのパターンを何回繰り返せばいいのか・・・計算したら気が遠くなった。







ようやくホームへ到着した。ご覧の通り、待避線のあった場所にホームが新たに作られ本線と接する形になった。つまり列車待避が必要なくなった、又は待避しなくてもいいようにダイヤを整理した結果を表わす象徴と言えるであろう。新たに設置されたホームは短編成での対応のみ可能となったが、トンネル内のホームであるという特徴的な独特ムードは昔も今も変わらない!
200段目に近づいた頃であった。ホームに列車が通過又は到着したらしく、ホーム側から一気に強り風圧がこみ上げ辺り一帯が白く曇りだした。強烈な風圧だったので恐らく貨物列車の通過であったと思われるが、その風圧によりトンネル内の冷たい空気が押し上げられ階段の暖かい空気と融合し、水蒸気が冷却された結果だと思われる。確かに、ホームへ繋がる通路は猛暑の余韻を感じていたが、ホームに到着する2~3段前くらいの階段の位置からは空気が冷たくなり、天然の冷房感を感じた。つまりホームと階段にはかなりの温度差があったわけだ。そこへ貨物列車の通過があり上下の空気が混ざり合ったわけである。
確かに、下りホームへ繋がる階段はかなりの湿気を感じたのは先述通りであるが、こうした化学反応(とはオーバーかもしれないが)が見られるのもこうした構造ならではである。
何れにしても、現世まで生き残っているのは奇跡としか思えないこの土合の風景は来世にも同じ姿で末長く残っていただきたいものである。

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国境の長いトンネルを抜けると、そこはぐんまちゃんだった。上越編④ 土合(前編)
2023-09-09

上越線の土合と言えば知る人ぞ知る、いや、私が説明するまでもなく大変有名な駅である。ご存じの通り、土合は日本一のモグラ駅として名高いが、下りホームと駅舎をつなぐ通路には460段以上の階段があり、ダイエット効果は抜群である。また、トレーニングにも最適で、やたらと下手なジム通いをするよりもかなり効果的であろう。
歴史の紐を解くまでもなく下りホームが後付けとう事は明白であるが、上りホームは単線時代から受け継いでいた交換設備が新清水トンネル開通後も待避線として暫く使われてきたイメージになる。現在は上り・下りホーム併せて棒線化されているが、上りホームは島式ホームの片側は鉄柵が施されている。ただ、島式ホームだった面影もややとどめており、除雪用のラッセルの格納庫と思われる部分へ繋がる側線は残されかつての名残を感じる事もできる。



お馴染み、土合の駅舎風景である。夏休みともあってギャラリー多数!基本的に登山客が中心となる性格の駅であるが、ご覧の通り、登山に向かうにはちょっと軽装備な利用者も・・・
さて、今回も2回に分けて紹介したいが、まずは地上部分の紹介である。もともとこちらが本家本元の土合であり、単線だったため信号場としてのスタートだったと聞いているが、私はその頃にはまだこの世に存在していなかったため新清水トンネルが開通し「とき」や「佐渡」などの花形列車が活躍した時代からが私のテリトリーとなる。また、寝台急行「天の川」や急行~特急「鳥海」などもここを通過していったと思うと何だか感慨深い。


国鉄型の風景が今も残る。もちろん、以前は職員が対応するシーンも見られたであろうが、正直、もし私がこの駅の勤務を任されたら、特に夜間などは業務を全うできるか心配なイメージだ。
私が初めて土合に訪れたのは1982年の夏で、何と長岡夜行での訪問であった。ただ、当時は予定の都合から下車できず、ただ窓越しに確認するのみにとどまってしまった。実際に下車したのは2008年3月で、まだ雪が残る土合の上りホームに降り立った。だが今回は真夏の炎天下の中での参戦のためできれば日射を避けたい思いで溢れていた。ただ、前回と今回の訪問で決定的に違うのは積雪の有無の他に、やはり先述通り交換設備(待避線)が外された事だった。

待合室もあるが、連日の猛暑日の中の訪問ではこの場所も例外ではない。空調設備がないので、ある意味自己防衛の世界になるが、日差しが直接当たる場所と比較するとその差は一目瞭然であるため、この場所があるだけでもありがたい。
私が知る限りでは、新清水トンネルが開通し複線化されて以降、上り島式ホームの片側はほとんど使用される事は無かった記憶であるが、これは下りホームにも言える事で、新幹線開通以降、列車本数の減少と共に列車の退避が不要になったという事である。
この事は土樽の章でも既に述べた通りで、優等列車は全て新幹線にシフトしてしまったため在来線が無用の長物になってしまったイメージになってしまった。もちろん、貨物輸送に関しては現在も大動脈であることには変わりないが、特に土合では下りホームはトンネル内のため維持管理も大変であろう。
ただ、貨物列車も減少すれば単線化や、それこそ廃止のような事態にもなりかねない。もちろん私はそのような事を望まないので、ぜひ今後も活躍していただきたい国境越えである。
「続きを読む」をクリックすると、上りホーム風景がご覧になれるので是非!
国境の長いトンネルと抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編③ 土樽(後編)
2023-09-02

この土樽にマイカーで到達するためには越後湯沢方面からのアプローチのみとなる。そのため、東京方面からきた場合でも一旦越後湯沢に出てから土樽へ向かう事になるのでやや手間がかかる作業となるが、つまり東京方面から来る場合はひとつの大きな山を超えなければならないという事の象徴でもあるのだ。その作業は当然ながら関越道を利用しても同様で、私自身も一旦湯沢ICで降りてから土樽へ向かったのだ。

ホーム側から見た待合室の入口であるが、意外にもシンプルである。既に無人化され駅員室の窓は固くカーテンで閉ざされているが、恐らく保線員などが詰所として使用するため現在も残されているのであろう。
という環境下の中、当然ながら旅客列車の運転のみでは大きな収入を見込めないと思われるが、新潟と群馬の「国境越え」ということもあり、上越線の収入は貨物列車の通過が収入がそれなりのシェアがあると思われる。その事は上越線全体でも顕著に表れていて、特に国境越え3駅のうち2駅は既に配線が変更され待避線が撤去された状態になった。そして他の上越線の駅も軒並み待避線などが撤去され線路や駅の規模が縮小されている。この事はもちろん、それまで在来線で運転されていた特急列車等が新幹線にシフトした事で空き容量ができたという事である。つまり過剰な設備は極力省き必要最低限の設備となり現在に至っているというわけだ。




ご覧の通り、かつての旧ホームが今も残る。かつて待避線だった部分に現在のホームが作られ、しかも現在の輸送量に合わせホームも短くなった。かつての有効長の長いホームは途中で途切れ、イタズラに進入できないように施されている。
国鉄時代の土樽は上下合わせて2本の待避線があり、その待避線上に旅客ホームが設置されていたが、現在はその待避線が撤去され本線上に新たなホームを設置した形になった。後に紹介する土合も同様で、待避線上のホームを本線上に移し、列車の待避ができなくなっている。つまりそれだけ上越線の、特に国境越えの運転本数が減少した事を表しているのだ。ただ、設備投資を極力抑えるため、例えば跨線橋などは旧ホームと新ホームの間に通路を設置する事により既存の跨線橋を使っている。




普通列車が到着した。登山風の利用者が乗車していったが、確か編成は4両くらいだったと思う。車両形式がわからなくて申し訳ないが、国鉄時代にはなかった車両である事は間違いない。
ところで、私の訪問時にはちょうど上り列車の到着時間で、登山客風の方がホームで列車を待っていた。シーズンになるとそうした乗客が定期的にいらっしゃるであろうがためそれなりの利用者があると思われるが、冬季には恐らく利用者が減少すると思われる。以前は駅前にスキー場があり、その利用者がそれなりにあったと思われるが、そのスキー場も2004年に閉鎖されたらしく、その面影は見つからなかった。
私個人的には国境越え3駅の内で最も訪れてみたい駅のひとつであり今回その夢が実現したわけであるが、内容的には国鉄時代から比べかなり変化があり、鉄道経営の現実を見せつけられた思いでもあった。ローカル輸送が主体となった上越線であるが、是非とも今後これからも活躍して欲しい次第である。

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