廃止路線を訪ねて② 東武熊谷線(リメイク版・後編)
2021-09-15
上熊谷まで秩父鉄道と並走し、上熊谷も秩父鉄道と共同使用となってるが、その先は大きくカーブし妻沼に向け大きく北上していく。基本的には軍事輸送目的で敷かれた路線のため旅客輸送で銭儲けをしようという沿線風景ではない。確かに首都圏でもあるし住宅も多いが、まだまだ農業的な風景が印象深いイメージであった。

単独駅としては唯一の中間駅である大幡。かつては東北地方に「大畑」も存在したが、現在は両方とも過去のものになってしまった。我々が想像する東武鉄道とはややかけ離れたイメージの駅である。
上熊谷と妻沼の間に唯一の中間駅「大幡」がある。やや地元の利用者数名が下車したが、基本的に私の乗った列車は廃止情報が流れてからの参戦のため「その道の」乗客が9割9分7厘3毛くらいを占めていた。もちろんそれらの乗客は同じ顔ぶれのまま次の終点・妻沼まで変わることはなかった。
すでに棒線化されたホームは私のような「同業者」たちで溢れ、それ以外の乗客は僅少に近い。とはいえ、熊谷からそれほど離れていないため朝晩は利用がそれなりにあると思われる。運転本数も、記憶は薄いが日中でも一時間に一本あったはずだ。
とりあえず可愛い単行1両の列車から離れて早速入場券を求めに駅舎へむかった。更に駅舎を撮影しようと駅前に出ると「熊谷線廃止反対」の看板が目に飛び込んできたが、その文字はなぜか弱々しい印象であった。既に廃止が決定されてはいるが、せめてもの最後の抵抗であろうか。

そして終点の妻沼であるが、大幡とほぼ変わらないイメージであった。私の記憶だとホームは大幡と共に砂利を盛り上げ縁をコンクリートで仕上げた感じであった。
ホームに戻る際に車両に向けシャッターを切ってみた。当時は全く季節感覚無く景色等に興味無かったが、その写真を見てみると桜の花が満開になっている。つまり春休み辺りに訪問した事が裏付けられるが、当然ながら無意識の撮影でありターゲットは車両のみであった。そしてよく見ると、列車の左側が不自然な空間になっており、かつての盛栄が伺えた。まさか小泉までの延伸による準備ではなかろうが、もし仮に小泉まで延伸されたら「パレオエクスプレス」が乗り入れたりしたら面白かったかも知れない。「太田発三峰口」が実現していたら、熊谷ではスイッチバックしなければならないイベントが発生する。逆に熊谷線のDCが羽生方面へ乗り入れるのもありだったかも知れない。勿論現実的ではないが、想像するだけでも楽しいではないか。

ご覧の通り、素敵な造りの妻沼駅舎には東武の歴史を感じる事が出来る。「廃止反対」の文字があるのは最後の抵抗か。
東武熊谷線廃止は、丁度国鉄赤字ローカル線廃止ブームの波に乗ったイメージで同じ時期に散っていった。我々レールファンは鉄道の運営に関する書物を見た時必ず「モータリゼーション」という単語を目にする。鉄道路線廃止とモータリゼーションは切っても切れない縁なのであろうか。とは言え、沿線ではそれなりに宅地化されている部分も少なくない。地理院地図で航空写真を見て現在と当時を比較した場合、特に妻沼付近は駅の東側に大きな変化を感じた。とは言え、もし熊谷線が現存していたら何らかの形で数値の変化があったであろうが、遅かれ早かれ熊谷線の寿命はそう長くはなかったであろう。

妻沼駅全景、といっても地上からの撮影のためホームと列車しか被写体に無いが、ホーム左側には不自然な空間がある。かつては貨物側線などがあった事が想像出来る。
1980年代はローカル線廃止ブームの真っ只中であったが、私は「廃止」と聞くとすぐにそこへ駆けつけた。もちろん当時は子供だったため遠方は無理であったが、東京近郊だけでもかなりの路線が廃止になる情報が舞い込んで来たのでその度に出向いていた。それでも子供なりに「将来は貴重になる」などと思いながら熊谷線に向けシャッターを切っていたが、廃止から40年近く経ち、その意味や重みが最近になって物凄くわかるようになってきた。ただ、私にとっては「西寒川」ほど地元ではないので熊谷線は一度きりの訪問であったが、ほぼ毎日のように利用していた地元の方々は複雑な気持ちであったろう。もちろん路線バスや代行バスに切り替えられ便利になった部分もあろうが、やはり鉄道のそれとは比較できない何かを失った部分も多いと思う。

こちらは地理院地図より妻沼駅付近の航空写真である。1974~1978年頃であるが、写真中央下部に妻沼駅ホームと駅舎がある。そしてその上部にはスイッチバックする形で車庫があるのがわかる。
相模線,西寒川は廃止後の代替えバスではルートでも運転本数でも格段に便利になり行き先のバリエーションもウン十倍に増えた。それこそ西寒川から先の廃止区間である四之宮付近までも代替バスで行けるようになったのだから「移動する」という意味だけを考えれば百万倍便利である。東武熊谷線のその後はどうなったのであろうか。恐らく「移動」に関しては鉄道時代よりも便利になったかも知れないが、その鉄道の偉大さは歴史とともに現在も語り継がれているかも知れない。
我々レールファンは、華やかなご豪華列車や新型車両のデビューなどの喜ばしいニュースとともに、常にこうした廃止路線など寂しいニュースとも向き合わなければならない。というか、レールに限らず世の中の事象にはほぼ全てプラスがあればマイナスがある。陽があるから陰がある。光があるから影がある。始まりがあれば終わりがある。そう思うとこの熊谷線の廃止は実に複雑な気持ちになるが、やはりレールファンのためよりも、鉄道は旅客や貨物をたくさん乗せて初めてそのメリットが活かされその存在に価値が出てくる。そう考えると熊谷線の廃止は仕方なかったであろう。ただ、私はこの熊谷線が存在した時代にこうして時間を共有できた事がある意味非常にラッキーだったと思う。地元の方ほどではないにしても、やはり今になってこの熊谷線の経験は実に大きく価値のあるものであった。それは私の地元の路線である相模線、寒川支線と同じように…

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単独駅としては唯一の中間駅である大幡。かつては東北地方に「大畑」も存在したが、現在は両方とも過去のものになってしまった。我々が想像する東武鉄道とはややかけ離れたイメージの駅である。
上熊谷と妻沼の間に唯一の中間駅「大幡」がある。やや地元の利用者数名が下車したが、基本的に私の乗った列車は廃止情報が流れてからの参戦のため「その道の」乗客が9割9分7厘3毛くらいを占めていた。もちろんそれらの乗客は同じ顔ぶれのまま次の終点・妻沼まで変わることはなかった。
すでに棒線化されたホームは私のような「同業者」たちで溢れ、それ以外の乗客は僅少に近い。とはいえ、熊谷からそれほど離れていないため朝晩は利用がそれなりにあると思われる。運転本数も、記憶は薄いが日中でも一時間に一本あったはずだ。
とりあえず可愛い単行1両の列車から離れて早速入場券を求めに駅舎へむかった。更に駅舎を撮影しようと駅前に出ると「熊谷線廃止反対」の看板が目に飛び込んできたが、その文字はなぜか弱々しい印象であった。既に廃止が決定されてはいるが、せめてもの最後の抵抗であろうか。

そして終点の妻沼であるが、大幡とほぼ変わらないイメージであった。私の記憶だとホームは大幡と共に砂利を盛り上げ縁をコンクリートで仕上げた感じであった。
ホームに戻る際に車両に向けシャッターを切ってみた。当時は全く季節感覚無く景色等に興味無かったが、その写真を見てみると桜の花が満開になっている。つまり春休み辺りに訪問した事が裏付けられるが、当然ながら無意識の撮影でありターゲットは車両のみであった。そしてよく見ると、列車の左側が不自然な空間になっており、かつての盛栄が伺えた。まさか小泉までの延伸による準備ではなかろうが、もし仮に小泉まで延伸されたら「パレオエクスプレス」が乗り入れたりしたら面白かったかも知れない。「太田発三峰口」が実現していたら、熊谷ではスイッチバックしなければならないイベントが発生する。逆に熊谷線のDCが羽生方面へ乗り入れるのもありだったかも知れない。勿論現実的ではないが、想像するだけでも楽しいではないか。

ご覧の通り、素敵な造りの妻沼駅舎には東武の歴史を感じる事が出来る。「廃止反対」の文字があるのは最後の抵抗か。
東武熊谷線廃止は、丁度国鉄赤字ローカル線廃止ブームの波に乗ったイメージで同じ時期に散っていった。我々レールファンは鉄道の運営に関する書物を見た時必ず「モータリゼーション」という単語を目にする。鉄道路線廃止とモータリゼーションは切っても切れない縁なのであろうか。とは言え、沿線ではそれなりに宅地化されている部分も少なくない。地理院地図で航空写真を見て現在と当時を比較した場合、特に妻沼付近は駅の東側に大きな変化を感じた。とは言え、もし熊谷線が現存していたら何らかの形で数値の変化があったであろうが、遅かれ早かれ熊谷線の寿命はそう長くはなかったであろう。

妻沼駅全景、といっても地上からの撮影のためホームと列車しか被写体に無いが、ホーム左側には不自然な空間がある。かつては貨物側線などがあった事が想像出来る。
1980年代はローカル線廃止ブームの真っ只中であったが、私は「廃止」と聞くとすぐにそこへ駆けつけた。もちろん当時は子供だったため遠方は無理であったが、東京近郊だけでもかなりの路線が廃止になる情報が舞い込んで来たのでその度に出向いていた。それでも子供なりに「将来は貴重になる」などと思いながら熊谷線に向けシャッターを切っていたが、廃止から40年近く経ち、その意味や重みが最近になって物凄くわかるようになってきた。ただ、私にとっては「西寒川」ほど地元ではないので熊谷線は一度きりの訪問であったが、ほぼ毎日のように利用していた地元の方々は複雑な気持ちであったろう。もちろん路線バスや代行バスに切り替えられ便利になった部分もあろうが、やはり鉄道のそれとは比較できない何かを失った部分も多いと思う。

こちらは地理院地図より妻沼駅付近の航空写真である。1974~1978年頃であるが、写真中央下部に妻沼駅ホームと駅舎がある。そしてその上部にはスイッチバックする形で車庫があるのがわかる。
相模線,西寒川は廃止後の代替えバスではルートでも運転本数でも格段に便利になり行き先のバリエーションもウン十倍に増えた。それこそ西寒川から先の廃止区間である四之宮付近までも代替バスで行けるようになったのだから「移動する」という意味だけを考えれば百万倍便利である。東武熊谷線のその後はどうなったのであろうか。恐らく「移動」に関しては鉄道時代よりも便利になったかも知れないが、その鉄道の偉大さは歴史とともに現在も語り継がれているかも知れない。
我々レールファンは、華やかなご豪華列車や新型車両のデビューなどの喜ばしいニュースとともに、常にこうした廃止路線など寂しいニュースとも向き合わなければならない。というか、レールに限らず世の中の事象にはほぼ全てプラスがあればマイナスがある。陽があるから陰がある。光があるから影がある。始まりがあれば終わりがある。そう思うとこの熊谷線の廃止は実に複雑な気持ちになるが、やはりレールファンのためよりも、鉄道は旅客や貨物をたくさん乗せて初めてそのメリットが活かされその存在に価値が出てくる。そう考えると熊谷線の廃止は仕方なかったであろう。ただ、私はこの熊谷線が存在した時代にこうして時間を共有できた事がある意味非常にラッキーだったと思う。地元の方ほどではないにしても、やはり今になってこの熊谷線の経験は実に大きく価値のあるものであった。それは私の地元の路線である相模線、寒川支線と同じように…

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