SWS(相模線の、私の記憶に残る、車両たち)⑥ 倉見
2021-12-05
後述する社家と共に大正時代から続く駅舎を現在も持つ倉見は、何かと変遷や話題が多い駅である。と私個人の見解であるが、16~17年くらいの間、私の最寄り駅として活躍した場所でもあるが、残念ながら倉見在住時はレールファン休業中であったため、駅や列車を撮影したり深く追究したりする事は殆ど無く、むしろ「一般市民」としての利用に過ぎなかった。


2021年(上)と2012年(下)に撮影した倉見駅舎。間違い探しではないが、違いがお分かりであろうか。大きな変更点のひとつ目としては駅舎入口まで>形スロープが付き車椅子等の利用では優しい造りになった事。そしてふたつ目はバックに圏央道が出現した事。そして最後は何とエレベータが設置された事だ!倉見にエレベーター等私からすれば考えられない風景であったが、現在の風景には最も適しているであろう。
大きな話題としては、出ては消え行く「新相模駅」の構想である。新相模とはご存知、東海道新幹線の新横浜~小田原間に予定されている新駅の事で、相模線との交点である倉見付近が一番の有力候補地となっている。実は我が家がその区画にかかるということで立ち退き話が出たり消えたりしていたが、実際のところ未だ進展がない。ただ、本当に倉見付近に新幹線の新駅が設置された場合、湘南台で終点となっている相鉄いずみ野線を倉見まで延伸する構想もあるようで、まさに本気を出したら目が離せない状況だ。ただ、仮に新駅が開業したとしても「のぞみ」の停車や所要時間に懸念の声が出てくるであろうし、リニア新幹線の開通なども将来的に控えている中、具現化する可能性はかなり低いと思われ、恐らく現在の穏やかな風景が将来的にも末長く続くであろうと予測する。

跨線橋下は使われなくなった非電化時代の名残を感じるホームが未だに残っている。倉見は列車交換ができるが、かつて砂利輸送の貨物列車が走っていた関係からすれ違い区間の有効長がとても長い。特に倉見や社家等は関東大震災後に開通した路線の為、復興に使うレンガやコンクリートなどの材料となる砂利が大量に必要になり貨物列車の編成も長かったのであろう事が予測される。
ところで砂利輸送時代はというと、これがまたかなりの活躍をしていたようで、枝分かれする各採取場からのトロッコ線から集められた砂利をまとめる役割をする重要な駅であった。相模線全通以前は4ヶ月くらいであるが終点駅であった時代もあり、相模線の中ではかなり「要注意駅」としてのポジションであろう。


最新(2021年)の倉見駅画像。またも下り列車であるが、相模線と交差するのは新幹線・・・は更に奥に有り写真ではほとんど見えていない。手前に見えているのは新幹線ではなく、何と圏央道だ。私の小学生時代はこんな道路ができるなどと予想もしなかったが、倉見に住むようになってからその話がかなり具現化して来た。圏央道が開通する前にその住まいは退去したが、かつての我が家の近くにインターが設置されたというのは何とも複雑な気持ちである。
さて、倉見といえば先述のコンクリート製駅舎であろう。関東大震災の復興に砂利を大量に輸送した事で会社が潤い、寒川より先の延伸が可能になったわけであるが、その関東大震災を教訓に建てられた駅舎が倉見と社家のコンクリート駅舎であるのだ。もちろん材料は自社で輸送している相模川の砂利という事になるが、その駅舎が現在も続いているということは、如何に当時の設計や技術が優れていたかが伝わってくるであろう。
そして立地であるが、現在も砂利採取時代の面影がかなり残っている。特に駅の西側はすぐに相模川なので開発の余地が無く、河川敷がそのまま駅になったイメージでもある。駅西側の相模川との間には日本鉱業の工場と従業員駐車場があり、その駐車場の更に南西には倉見スポーツ公園がある。そして圏央道もありやや景色が変化しているものの、まだまだ昔の面影を感じずにはいられない。先述の日本鉱業従業員駐車場は、かつて砂利採取のホッパー車が活躍していた側線があり頻繁に砂利積み出しが行われていたであろうが、私が知る倉見の姿は既に現在の姿の原型であった。



そして私の知る非電化時代には無かった跨線橋より撮影した2021年の下り列車。開業当時、ホームから駅舎に伝う通路は島式ホームの真ん中くらいに切り込みが有りそこから駅舎につながっていたが、私が初めて見た倉見駅では茅ヶ崎寄りのホーム先端がスロープになっており、構内踏切を渡り橋本方面へ戻る形で駅舎に伝っていた。現在は橋本寄りに跨線橋がある。
現在は島式ホーム1面2線であるが、DC時代までは側線が数本あった記憶で、新幹線との交点辺りで分岐しカーブを描き暫く並走していた。その新幹線との交点付近には現在も相模興業があり、砂利輸送時代を今も受け継ぐ貴重な存在となっている。
現在その側線はないが、河川敷のような風景と、日鉱従業員駐車場が駅に沿い長方形のスペースになっている事により砂利輸送時代の面影を感じる事ができる。そしてここ倉見も橋本寄りに跨線橋が設置されたが、以前は茅ヶ崎寄りにスロープがあり、そこから構内踏切を渡り橋本方面へ戻るような形で駅舎に伝う通路があった。橋本寄りに乗車している乗客はかなりの徒歩を要する事になるが、そうした記憶も懐かしくなるほど私のレール人生も時間が経過してしまった事になるのであろう。

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既に紹介しているが、砂利輸送時代の倉見を見てみよう。倉見の駅舎は関東大震災直後に完成したため震災の教訓からコンクリート製で設計され、何と現在も使われているのだからその高い設計技術が伺えるであろう。

昭和30年代頃の倉見駅舎であるが、既に砂利輸送は衰退し翌年には貨物取扱が廃止になった。しかし駅前の自転車の数をご覧いただくとお分かりのように、旅客駅としての風格が見え始めてきたのではなかろうか。(写真は寒川文書館所蔵でJA相模所有。既に両者より公開許可を頂き掲載しております)

昭和35年頃の倉見である。貨物列車は運転されている景色であるが、先述通り砂利輸送は既に衰退していたイメージであったと思う。写真左側の旧型客車が凄く気になる。これってもしかしてかつて寒川に留置されていたあの客車なのであろうか。その頃は倉見に客車の留置は無かった記憶なのでもしかして・・・(写真は寒川文書館所蔵)

そして最近でも紹介した砂利輸送ピークよりやや過ぎた頃の倉見である。砂利積出線から相模線本線へ砂利を積み込みやすいよう段差を利用しているのがよくわかる貴重な写真だ。築堤の砂利線は現在日本鉱業の従業員駐車場になっているが、相模線に沿って細長い駐車場である事からかつての名残を感じる事ができる。

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2021年(上)と2012年(下)に撮影した倉見駅舎。間違い探しではないが、違いがお分かりであろうか。大きな変更点のひとつ目としては駅舎入口まで>形スロープが付き車椅子等の利用では優しい造りになった事。そしてふたつ目はバックに圏央道が出現した事。そして最後は何とエレベータが設置された事だ!倉見にエレベーター等私からすれば考えられない風景であったが、現在の風景には最も適しているであろう。
大きな話題としては、出ては消え行く「新相模駅」の構想である。新相模とはご存知、東海道新幹線の新横浜~小田原間に予定されている新駅の事で、相模線との交点である倉見付近が一番の有力候補地となっている。実は我が家がその区画にかかるということで立ち退き話が出たり消えたりしていたが、実際のところ未だ進展がない。ただ、本当に倉見付近に新幹線の新駅が設置された場合、湘南台で終点となっている相鉄いずみ野線を倉見まで延伸する構想もあるようで、まさに本気を出したら目が離せない状況だ。ただ、仮に新駅が開業したとしても「のぞみ」の停車や所要時間に懸念の声が出てくるであろうし、リニア新幹線の開通なども将来的に控えている中、具現化する可能性はかなり低いと思われ、恐らく現在の穏やかな風景が将来的にも末長く続くであろうと予測する。

跨線橋下は使われなくなった非電化時代の名残を感じるホームが未だに残っている。倉見は列車交換ができるが、かつて砂利輸送の貨物列車が走っていた関係からすれ違い区間の有効長がとても長い。特に倉見や社家等は関東大震災後に開通した路線の為、復興に使うレンガやコンクリートなどの材料となる砂利が大量に必要になり貨物列車の編成も長かったのであろう事が予測される。
ところで砂利輸送時代はというと、これがまたかなりの活躍をしていたようで、枝分かれする各採取場からのトロッコ線から集められた砂利をまとめる役割をする重要な駅であった。相模線全通以前は4ヶ月くらいであるが終点駅であった時代もあり、相模線の中ではかなり「要注意駅」としてのポジションであろう。


最新(2021年)の倉見駅画像。またも下り列車であるが、相模線と交差するのは新幹線・・・は更に奥に有り写真ではほとんど見えていない。手前に見えているのは新幹線ではなく、何と圏央道だ。私の小学生時代はこんな道路ができるなどと予想もしなかったが、倉見に住むようになってからその話がかなり具現化して来た。圏央道が開通する前にその住まいは退去したが、かつての我が家の近くにインターが設置されたというのは何とも複雑な気持ちである。
さて、倉見といえば先述のコンクリート製駅舎であろう。関東大震災の復興に砂利を大量に輸送した事で会社が潤い、寒川より先の延伸が可能になったわけであるが、その関東大震災を教訓に建てられた駅舎が倉見と社家のコンクリート駅舎であるのだ。もちろん材料は自社で輸送している相模川の砂利という事になるが、その駅舎が現在も続いているということは、如何に当時の設計や技術が優れていたかが伝わってくるであろう。
そして立地であるが、現在も砂利採取時代の面影がかなり残っている。特に駅の西側はすぐに相模川なので開発の余地が無く、河川敷がそのまま駅になったイメージでもある。駅西側の相模川との間には日本鉱業の工場と従業員駐車場があり、その駐車場の更に南西には倉見スポーツ公園がある。そして圏央道もありやや景色が変化しているものの、まだまだ昔の面影を感じずにはいられない。先述の日本鉱業従業員駐車場は、かつて砂利採取のホッパー車が活躍していた側線があり頻繁に砂利積み出しが行われていたであろうが、私が知る倉見の姿は既に現在の姿の原型であった。



そして私の知る非電化時代には無かった跨線橋より撮影した2021年の下り列車。開業当時、ホームから駅舎に伝う通路は島式ホームの真ん中くらいに切り込みが有りそこから駅舎につながっていたが、私が初めて見た倉見駅では茅ヶ崎寄りのホーム先端がスロープになっており、構内踏切を渡り橋本方面へ戻る形で駅舎に伝っていた。現在は橋本寄りに跨線橋がある。
現在は島式ホーム1面2線であるが、DC時代までは側線が数本あった記憶で、新幹線との交点辺りで分岐しカーブを描き暫く並走していた。その新幹線との交点付近には現在も相模興業があり、砂利輸送時代を今も受け継ぐ貴重な存在となっている。
現在その側線はないが、河川敷のような風景と、日鉱従業員駐車場が駅に沿い長方形のスペースになっている事により砂利輸送時代の面影を感じる事ができる。そしてここ倉見も橋本寄りに跨線橋が設置されたが、以前は茅ヶ崎寄りにスロープがあり、そこから構内踏切を渡り橋本方面へ戻るような形で駅舎に伝う通路があった。橋本寄りに乗車している乗客はかなりの徒歩を要する事になるが、そうした記憶も懐かしくなるほど私のレール人生も時間が経過してしまった事になるのであろう。

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既に紹介しているが、砂利輸送時代の倉見を見てみよう。倉見の駅舎は関東大震災直後に完成したため震災の教訓からコンクリート製で設計され、何と現在も使われているのだからその高い設計技術が伺えるであろう。

昭和30年代頃の倉見駅舎であるが、既に砂利輸送は衰退し翌年には貨物取扱が廃止になった。しかし駅前の自転車の数をご覧いただくとお分かりのように、旅客駅としての風格が見え始めてきたのではなかろうか。(写真は寒川文書館所蔵でJA相模所有。既に両者より公開許可を頂き掲載しております)

昭和35年頃の倉見である。貨物列車は運転されている景色であるが、先述通り砂利輸送は既に衰退していたイメージであったと思う。写真左側の旧型客車が凄く気になる。これってもしかしてかつて寒川に留置されていたあの客車なのであろうか。その頃は倉見に客車の留置は無かった記憶なのでもしかして・・・(写真は寒川文書館所蔵)

そして最近でも紹介した砂利輸送ピークよりやや過ぎた頃の倉見である。砂利積出線から相模線本線へ砂利を積み込みやすいよう段差を利用しているのがよくわかる貴重な写真だ。築堤の砂利線は現在日本鉱業の従業員駐車場になっているが、相模線に沿って細長い駐車場である事からかつての名残を感じる事ができる。

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