SWS(相模線の、私の記憶に残る、車両達) ④寒川<後編>
2021-11-25

橋上駅舎はこんな感じ・・・であるが、かつての木造駅舎時代とは違い全く変貌した寒川の改札口。昔の寒川駅を知るものにとってこの光景はほぼ考えられない風景であろう。木造時代では当然ながら対面式の切符販売であったが、当時私はまだ小児料金であったので「小」の赤い文字入りの硬券か、または厚木経由で小田急に乗り換える直通切符を買うと切符の右側の部分を斜めに切り落として小児用の切符として販売するなど、今思えば懐かしき良い思い出をくれた窓口であった。現在はご覧の通り、PASMOやSuicaも対応出来る近代的な面構えになった。
寒川からかつては寒川支線が分岐しており、相模線が電化される前に廃止されてしまった。廃線跡はほぼそのまま辿ることができ、一之宮公園内に至ってはレールまで残されているという素晴らしさだ。廃線マニアのビギナーであれば打って付けの題材となることであろう。
寒川は旅客ホームの1番線側にかつて貨物ホームがあり、2番線側には貨物側線が2~3本あった。現在、その貨物ホームは跨線橋の土台となり消えてしまったが、昭和の相模線を知るものであれば建屋の無い棒線ホームを僅かながらに記憶しているであろう。


ほぼ同じ位置からの撮影であるが、デジカメ(上)とスマホ(下)での比較である。我々の知る旅客時代の「西寒川」は本線のホームより発着しており、この場所に寒川支線用の独立ホームがあったわけでは無く、砂利輸送時代の貨物側線が2~3本あったのを撤去したものだ。
そして現在、2番線側の貨物側線はレールが剥がされた痕跡やスペースがあり、そこが「寒川支線(西寒川方面)の跡地」と記されている見解をよく見かけるが、寒川支線の旅客列車は全て本線が使用する島式ホームから発着しており、寒川支線用に独立したホームがあったわけではない。そしてこの貨物側線も含め寒川駅構内付近の橋本寄りにある大山踏切を過ぎてから一旦全て収束し、更にその先より寒川支線を分岐する形っあった。そして寒川神社の鳥居がある県道の踏切付近まで暫く単線並列のような形をとりながら両者が分かれていくイメージである。川寒川は更にその先で本線上より分岐される事になるが、何れにしても砂利輸送が終了し我々が知る旅客時代の、いわゆる「西寒川」の旅客列車は本線ホームより発着していたので、側線の撤去跡地イコール旅客時代の西寒川の名残では無い事を改めてお伝えしておこう。

以前に紹介した昭和50年頃の寒川である。ご覧の通り、使われなくなった貨物側線に使われなくなった旧型客車が留置されていた。当時私は小学生ながらなぜこの場所に客車が留置されているのかわからなかったが、一度本気で乗せてもらおうかと考えた事もあった。ある情報筋によるとこの客車は大井川鉄道または清水港線辺りで再利用されたと聞いた事があるのだが・・・(写真はミックスマテリアル様提供)
しかしながら砂利輸送時代にはこれらの側線が頻繁に使われており、寒川支線の痕跡と考えていいと思う。恐らく四ノ宮や、川寒川からやって来た砂利を寒川でひとつの編成にまとめ茅ヶ崎に向かったものと思われるための側線であろう。
また、相模線を複線にする案があるような無いようイメージであるが、恐らく用地的に苦戦するのは先述の香川付近であり、その他はつまりその事ひとつとっても相模線の複雑な変遷が見え隠れするではないか。

この写真は寒川文書館提供の昭和35年頃の寒川である。旧駅舎とは反対側の、いわゆる現在の南口方面から橋本側より茅ヶ崎方面を望んだ風景である。写真中央左側の小さな小屋の中で構内のポイントや恐らく信号機などを切り替えていた。その奥が駅舎になるが、写真中央の島式ホームの更に奥に屋根付きの建家があり、そこにも棒線ホームが一本あった。かつては旅客ホームだったと思われるが、当時は貨物ホームとして使用していた。私が知る寒川は既にこのホームに建家は無く、ホームに看板広告がズラリと並んだ風景からである。
さて、寒川駅の駅舎は現在橋上化されているが、地上時代のいわゆる木造駅舎の時代は先述通りタブレット閉塞であり、駅のポイントも寒川、厚木、後に開業する海老名は駅員がポイント操作を行っていたがそれ以外の駅は、いわゆるスプリング式のポイント固定形であった。寒川の場合、ポイント切り替えは島式ホームの橋本寄りにある小屋で行われていたが、その小屋とホームの間にはホームと駅舎をつなぐ通路があり、構内踏切で駅舎へ伝っていた。
国鉄時代には茅ヶ崎~寒川の区間運転の列車が数本設定されていたが、子供ながらに「それを西寒川まで延長してくれればいいのになぁ~」と思っていた。その理由のひとつとして、茅ヶ崎からやってきた寒川止まりの列車は通常通り下りホームで乗客を降ろす。そして一旦ドアを閉め橋本方面へ向かい大山踏切付近で停車しポイントが切り替わるのを待って今度は上りホームへ侵入していくという工程を経るのだ。最初から上りホームに侵入すればいい事であろうと思うのだが、そこには何か隠された国鉄職員の意図でもあったのであろう。であるから、その作業工程を考えたら寒川支線に侵入させてしまえばと当時の私は思っていたのだ。そして西寒川に来る列車本数も増えるし一石十鳥くらいになる。もちろん経費など経営的な部分など度外視するなど子供の考えであるのだが、やはり寒川止まりの列車が西寒川に入ってこないのは勿体無いと思ってしまっていた。

こちらもミックスマテリアル様提供の昭和52年頃の寒川であるが、写真左側にホームが写っているのがお分かりいただけたであろうか。この風景が私が知る最も古い風景である。
今考えたら寒川は非常に趣のある駅であったが、やはり私は「西寒川」の人間だったので寒川「駅」に関しては違う感覚で見ていたのかも知れない。相模線は古くからの鉄道であるのと相模川沿いにある事で貨物輸送が主体だったため場所によっては地形的な制約や市街地から離れた場所にある事など様々な理由もあり、電化こそしたものの、劇的な飛躍ではなく未だローカル色濃い地元密着型の親しみやすい鉄道路線になっている。
新型車両の導入で、また更に変遷の項目がひとつ加わる。寒川支線の復活はあり得ないであろうが、厚木より相鉄への乗り入れは出来なくもない。その件については後程述べたいが、令和にしてまだまだ可能性を秘めた相模線から目が離せないのは気のせいであろうか。

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上が1984~1985年頃の旧・寒川駅舎(寒川文書館所蔵)で、下が2014年頃の、いわゆる現在の寒川。ほぼ同じ位置からの撮影であるが以前にも紹介しているので記憶されている方も少なくないであろう。国鉄時代は駅舎のすぐ横にキオスクが有り、その後ろに旧・貨物ホームがあったが、ご覧の跨線橋が作られる際にその土台になりホームは姿を消した。
私の記憶が曖昧な事もあったのでウィキを覗いてみたら、現在駅舎へと繋がる通路は「さかえばし」という事がわかった。1982年使用開始という事で「寒川支線が廃止されるよ~」的な噂が流れ沿線住民にアンケートが配布された頃だと思う。現在の駅舎が使用開始になったのが1985年と記されていたので寒川支線が廃止されてから一年後の事で、以外に時間が経過していた。私はJRになってからと思っていたが、1984年以降レールファン休業中であった事と、その頃は倉見に転居したため意外に接点が無かった、いわば残念で勿体無い時間であったと今更ながらに思う。
こうして改めて歴史を振り返ると懐かしい部分と見えなかった部分が有り自信も勉強させられた部分もあった。やはり寒川、そして相模線はレールファンとしての目から見てもかなり奥が深い。寒川文書館所蔵の旧駅舎と新駅舎の共演はかなり貴重な写真である。

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