1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅②
2019-02-25
さて、我々御一行は「大垣夜行」にて一路名古屋を目指す。もちろん「初」の為、皆の衆は興奮の雨・霰で一睡もできない・・・わけでもない。一体何をしていたのかはハッキリ覚えていないが、私はとにかく起きていたのはハッキリ覚えている、いや、寝られなかった。そんな状態がのらりくらりと続き、東京を出てから約6時間半オーバーで名古屋着した。ここで関西本線に乗り換え亀山に向かうのだが、我々が座席を離れた瞬間、座席に座れず東京から乗車していた「同業者」たちが我々の占領していた座席を目指し一目散に向かってきた。そうだろう。例えこの先岐阜や大垣までであっても座って仮眠したいのは誰でも同じだ。大垣までならばその先「大垣ダッシュ」が待っている。少しでもエネルギーを蓄えなければ・・・

電化直前の富田浜で列車交換の合間の停車時間に撮影した。ご覧の通り上部には真新しい架線が見え、そして隣のホームはかさ上げされている。大垣夜行からこの列車に乗り換えたが、思ったほど乗客はいなかった。通勤時間の下り列車という事もあろうが、やはり並走する近鉄との競合関係が一番大きいのではなかろうか。
さて、私達御一行は名古屋で関西本線の列車に乗り換えるのだが、我々が乗ったのはDLが牽引する旧型客車だ!現在では考えられないが、関西本線の名古屋~亀山はこのころ電化直前で、もうすぐこういう光景が無くなる事も重々承知の上、と顧問の教諭が言っていた。だが、私達中学生の少年にとってはあまりその言葉の中身や重さもあまり感じられずにいたが、とりあえずわからないままじっくりと堪能させていただいた。
途中、富田浜で列車交換があり3~4分位停車時間があったため最後尾を一枚。その最後尾から蒸気が噴き出しているのが若干気になったが、それよりも、よく考えたら「初」の旧型客車であった。顧問の教諭が「こういうのはいずれ乗れなくなるぞ~」と、今しかできない貴重な体験を我々に仕切りにアピールしていた。
旧型客車を捨て亀山で関西本線DCに乗り換え、柘植に向かう。柘植といえば大きくカーブしたホームが印象的であるが、ここで乗り換える草津線は電化されたばかりで初々しさが抜けない印象であった。Wikipediaで確認してみたら1980年に全線電化と記されていた。つまりその2年後に我々が訪問したので新しくなった草津線をそう感じてしまうのは当然であろう。何せ、柘植のホームに東海道線(湘南色の113系車両を私達はこう表現していた)が停車していたのだから、それはそれは斬新であった。真新しい・・・
そんな画期的な草津線に乗り貴生川に向かい信楽線に乗りかえる。現在は「信楽高原鉄道」となり活躍している鉄道路線だ。せっかく画期的な草津線に乗ったのに乗り換えに慌ただしい。

関西本線にある中在家信号場は通過式のスイッチバック信号場で列車交換ができた。確かコロタン文庫の書籍でこの駅を見て以来いつか訪問してみたいと思っていたが、ウィキによると現在はほぼ機能していないらしい。かつては加太越の要衝としてレールファンにとっては地味に有名であった。現在はかなりシンプルな配線に改められたらしい。
さて、信楽と言えば「焼き物」で有名であると思われるが「鉄道少年」にはそのようなものに全く興味を示さず、いい旅チャレンジ20000kmの証明写真撮影に夢中になる。
写真撮影を即座に済まし即行貴生川に戻り再び草津線で京都へ向かい、奈良線に乗り換え奈良へ向かう。奈良といえば日本を代表する観光地。現在の奈良駅は高架化されスッキリしているが、当時の地上時代は側線が多数あり賑わっていた。しかしここでの乗り換え時間は6分。観光もなにも無いまま桜井線で高田に向かうのであった。またまた慌ただしい・・・
さて、高田に向かう最中、先ほどよりメンバーのひとりが何やら騒がしい。その犯人は我ら鉄道研究クラブの「部長」であった。部長所有のカメラがどうやら故障してしまったらしいのだ。どうやっても我々素人の技術では修正できない。そうなると「いい旅チャレンジ20000km」のせっかくの旅に支障を来す。落ち込む部長を励ますだけでは何もならない。仕方なく高田で下車し駅前のカメラ店(よくあったと思う)でカメラを購入。もちろん現在のようなデジタルカメラではなく、アナログ式のカラーフィルムを使い撮影するもので、フィルムを絞るようにクルクルと下部を回して巻くという、なかなか渋いカメラだ。当時の中学生が8000円の出費はいたいと思うが「証明写真」の為に仕方ないであろう。もちろん「証明写真」の為だけではないが・・・

「ハットリくん」が伊賀ならこちらは甲賀。こう「が」では無くこう「か」と濁らないのは、市名決定の際の市民による投票らしいが、甲賀と言えば「ケムマキ」はいるのか・・・
そのカメラを買った高田では1時間半くらいの待ち時間があるため「駅前食堂」で腹ごしらえする。これは顧問である教諭の提案だ。もちろんファミレスではない。いや、当時は現在ほどファミレスが浸透していなかったと思う。デニーズはおろか、すかいらーくもまだ珍しかった記憶である。もちろん、セブンイレブンなどのコンビニもようやく台頭してきたイメージだったと思う。
久々に食べ物らしい食べ物頬張りエネルギーを蓄えた我々は再び高田に今度は戻り桜井線~和歌山線直通列車で和歌山に向かう。
だが、当時和歌山線の五条~和歌山は当時非電化であったため、必ず五条で乗り換えが発生する。乗り換えが発生しない列車はDC急行の「紀の川」に乗るしかないが、残念ながら我々は「18」のため急行料金はおろか、運賃まで発生してしまう。中学生の私にとってこの事実は大きな出費につながってしまう!というわけで、五条への乗り換え条件を快く引き受けた。
和歌山より阪和線と大阪環状線で大阪へ出た。さすが大都会!列車本数が多い。大阪環状線は、東京で言えば山手線であるが、当時乗車したのは内回りか外回りか忘れてしまった。だが、この乗車で大阪環状線の「半周」を踏破。いずれあと半分はは後日に必ず来るだろう。そう決意して京都へ向かい、山陰本線の夜行普通列車「山陰」で宍道に向かう行程だ。もちろん大阪環状線の残り半分は後日に決着をつけてある。
さて、京都着は20時34分。乗り換える山陰本線の夜行列車「山陰」はDLが牽引する旧型客車であるが、寝台車も連結されているため愛称が付いている。もちろん「18」では別料金が発生するため座席での出向となるが、22時04分発のため座席確保の縦としてはある意味待ち時間が少ない方であろうか。
「山陰」に乗り込むと、さすがの私も熟睡体制に入った。前日の疲れと夜行列車に慣れたので安心したのであろう。列車は深夜の丹波路をすり抜けながら、安栖里と立木の間で日付が変わった。

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電化直前の富田浜で列車交換の合間の停車時間に撮影した。ご覧の通り上部には真新しい架線が見え、そして隣のホームはかさ上げされている。大垣夜行からこの列車に乗り換えたが、思ったほど乗客はいなかった。通勤時間の下り列車という事もあろうが、やはり並走する近鉄との競合関係が一番大きいのではなかろうか。
さて、私達御一行は名古屋で関西本線の列車に乗り換えるのだが、我々が乗ったのはDLが牽引する旧型客車だ!現在では考えられないが、関西本線の名古屋~亀山はこのころ電化直前で、もうすぐこういう光景が無くなる事も重々承知の上、と顧問の教諭が言っていた。だが、私達中学生の少年にとってはあまりその言葉の中身や重さもあまり感じられずにいたが、とりあえずわからないままじっくりと堪能させていただいた。
途中、富田浜で列車交換があり3~4分位停車時間があったため最後尾を一枚。その最後尾から蒸気が噴き出しているのが若干気になったが、それよりも、よく考えたら「初」の旧型客車であった。顧問の教諭が「こういうのはいずれ乗れなくなるぞ~」と、今しかできない貴重な体験を我々に仕切りにアピールしていた。
旧型客車を捨て亀山で関西本線DCに乗り換え、柘植に向かう。柘植といえば大きくカーブしたホームが印象的であるが、ここで乗り換える草津線は電化されたばかりで初々しさが抜けない印象であった。Wikipediaで確認してみたら1980年に全線電化と記されていた。つまりその2年後に我々が訪問したので新しくなった草津線をそう感じてしまうのは当然であろう。何せ、柘植のホームに東海道線(湘南色の113系車両を私達はこう表現していた)が停車していたのだから、それはそれは斬新であった。真新しい・・・
そんな画期的な草津線に乗り貴生川に向かい信楽線に乗りかえる。現在は「信楽高原鉄道」となり活躍している鉄道路線だ。せっかく画期的な草津線に乗ったのに乗り換えに慌ただしい。

関西本線にある中在家信号場は通過式のスイッチバック信号場で列車交換ができた。確かコロタン文庫の書籍でこの駅を見て以来いつか訪問してみたいと思っていたが、ウィキによると現在はほぼ機能していないらしい。かつては加太越の要衝としてレールファンにとっては地味に有名であった。現在はかなりシンプルな配線に改められたらしい。
さて、信楽と言えば「焼き物」で有名であると思われるが「鉄道少年」にはそのようなものに全く興味を示さず、いい旅チャレンジ20000kmの証明写真撮影に夢中になる。
写真撮影を即座に済まし即行貴生川に戻り再び草津線で京都へ向かい、奈良線に乗り換え奈良へ向かう。奈良といえば日本を代表する観光地。現在の奈良駅は高架化されスッキリしているが、当時の地上時代は側線が多数あり賑わっていた。しかしここでの乗り換え時間は6分。観光もなにも無いまま桜井線で高田に向かうのであった。またまた慌ただしい・・・
さて、高田に向かう最中、先ほどよりメンバーのひとりが何やら騒がしい。その犯人は我ら鉄道研究クラブの「部長」であった。部長所有のカメラがどうやら故障してしまったらしいのだ。どうやっても我々素人の技術では修正できない。そうなると「いい旅チャレンジ20000km」のせっかくの旅に支障を来す。落ち込む部長を励ますだけでは何もならない。仕方なく高田で下車し駅前のカメラ店(よくあったと思う)でカメラを購入。もちろん現在のようなデジタルカメラではなく、アナログ式のカラーフィルムを使い撮影するもので、フィルムを絞るようにクルクルと下部を回して巻くという、なかなか渋いカメラだ。当時の中学生が8000円の出費はいたいと思うが「証明写真」の為に仕方ないであろう。もちろん「証明写真」の為だけではないが・・・

「ハットリくん」が伊賀ならこちらは甲賀。こう「が」では無くこう「か」と濁らないのは、市名決定の際の市民による投票らしいが、甲賀と言えば「ケムマキ」はいるのか・・・
そのカメラを買った高田では1時間半くらいの待ち時間があるため「駅前食堂」で腹ごしらえする。これは顧問である教諭の提案だ。もちろんファミレスではない。いや、当時は現在ほどファミレスが浸透していなかったと思う。デニーズはおろか、すかいらーくもまだ珍しかった記憶である。もちろん、セブンイレブンなどのコンビニもようやく台頭してきたイメージだったと思う。
久々に食べ物らしい食べ物頬張りエネルギーを蓄えた我々は再び高田に今度は戻り桜井線~和歌山線直通列車で和歌山に向かう。
だが、当時和歌山線の五条~和歌山は当時非電化であったため、必ず五条で乗り換えが発生する。乗り換えが発生しない列車はDC急行の「紀の川」に乗るしかないが、残念ながら我々は「18」のため急行料金はおろか、運賃まで発生してしまう。中学生の私にとってこの事実は大きな出費につながってしまう!というわけで、五条への乗り換え条件を快く引き受けた。
和歌山より阪和線と大阪環状線で大阪へ出た。さすが大都会!列車本数が多い。大阪環状線は、東京で言えば山手線であるが、当時乗車したのは内回りか外回りか忘れてしまった。だが、この乗車で大阪環状線の「半周」を踏破。いずれあと半分はは後日に必ず来るだろう。そう決意して京都へ向かい、山陰本線の夜行普通列車「山陰」で宍道に向かう行程だ。もちろん大阪環状線の残り半分は後日に決着をつけてある。
さて、京都着は20時34分。乗り換える山陰本線の夜行列車「山陰」はDLが牽引する旧型客車であるが、寝台車も連結されているため愛称が付いている。もちろん「18」では別料金が発生するため座席での出向となるが、22時04分発のため座席確保の縦としてはある意味待ち時間が少ない方であろうか。
「山陰」に乗り込むと、さすがの私も熟睡体制に入った。前日の疲れと夜行列車に慣れたので安心したのであろう。列車は深夜の丹波路をすり抜けながら、安栖里と立木の間で日付が変わった。

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コメント
羨ましい限り
キネ様
コメントありがとうございます。
この「1982年青春18~」は5回に分けて執筆していますのであと3回あります。中在家は「通過」だったため、若干「ブレ気味」に写ってますが、私も「お気に入り」であったため根性で撮りました。
「山陰」に関しては、この旅「以降」の旅にも2~3度利用してます。現在は普通夜行列車の定期便が全廃され、18きっぷもなかなか使いにくくなりましたが、逆にシーズンになると「ムーンライト」系が設定されるので「指定席」で楽々旅路に着けるのが「時代」を感じます。
この「1982年青春18~」は5回に分けて執筆していますのであと3回あります。中在家は「通過」だったため、若干「ブレ気味」に写ってますが、私も「お気に入り」であったため根性で撮りました。
「山陰」に関しては、この旅「以降」の旅にも2~3度利用してます。現在は普通夜行列車の定期便が全廃され、18きっぷもなかなか使いにくくなりましたが、逆にシーズンになると「ムーンライト」系が設定されるので「指定席」で楽々旅路に着けるのが「時代」を感じます。
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乗りたかったリ、撮りたかったものばかり。その後の10年で国鉄からJR
に変わったりと大きく変わりましたね。