1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅③
2019-03-05
本日で3日目を迎えた。皆もそろそろ列車に乗って過ごす事に慣れてきたようで、逆に乗り物に乗っていないと落ち着かない体質に変化していった。そして列車の中で仮眠する術も知らず知らずの内に身につけてきたようだ。とはいえ「18」による同業者が全国に多数犇めくため、下り夜行列車は軒並み満員御礼である。
そんな我々を乗せた普通夜行列車「山陰」は、大山口付近で日の出を見た、というより我々が大山口付近で朝日を見た。大山口では列車交換の為少々停車時間がある。私にとってはかなりマイナーな駅であったが、こういう時こそ見逃さない鉄道少年は、わずかな停車時間でも欠かさず「入場券」を購入しに出向く。もちろん皆で行くのではなく、グループ行動の特権である「代表」が皆の分も合わせて買ってくる。米子での停車時間で朝食を購入。丁度通勤通学時間帯であるが、春休みのため学生はそれほど多くないであろう。

2013年訪問時の米子にて。山陰の夏は意外に暑い!いや、夏は基本暑いのだが訪問当時は想像以上の猛暑日であった。1982年の訪問時は4月に限りなく近い3月だったのでそろそろ桜の咲く季節。環境にはそれほど気にせず旅を楽しめた。
米子で大半の乗客が下車したが、もちろん乗車してくる乗客もいる。つまり入れ替わりが激しいのだが、車内の混雑度はさほど変化なく、松江を過るとやや車内が落ち着いてきた。
そして9時24分、宍道に到着した。ここで9時42分発の木次線に乗り換える。木次線の模様は「木次恋しぐれ」で詳細に紹介しているのでそちらを参考にしていただきたいが、なんといっても出雲坂根の雄大なスイッチバックが印象的で、当時中学生であった私でもその景色に圧倒された。そんな優雅な風景をを堪能しつつ、備後落合に到着。備後落合では5分後に芸備線に乗り換えるのだが、顧問の教諭が我々に秘境の地にある分岐駅の素晴らしさを伝授したかったのだろう、一時間後にくる芸備線列車に身を任せる事にして駅を散策しようというのだ。それでも途中で計画通りの行程に戻るので私はOKを出した。「出した」といってもそれほど偉い立場ではないのだが、元々私が立案した行程である。私もそれなりにプライドがあった・・・などとこんな場所で意地を張っても仕方がない。
備後落合では駅員に「あの丘に行けば駅の全景が撮影できるよっ❗」と親切に伝授してくれた。ひと目見てわかるであろう我々の身なりに、駅員さんは実に協力的。列車の待ち時間など忘れてしまいそうな時間が過ぎていった。
残念ながら「おでんそば」は、看板こそ出ていたが、暖簾は既になく、いつ頃から営業をしていないのであろう。

宍道は木次線の分岐駅である。かつては4・5番線より発着していたが、現在は4・5番線が使用されなくなり、3番線よりの発着となってしまった。木次線の存続問題は今のところ浮上していないのはラッキーであるが、将来的にも浮上しないとは限らない・・・
やがて芸備線のDCがやってきた。我々が訪問した1982年春はまだ芸備線にCTC(列車集中制御装置)が導入されておらず、列車交換駅では備後落合も含め駅員が必ずいた。翌年CTCが導入されて一気に無人駅が増え、そして現在ではその交換設備でさえ外された駅も少なくない。中国自動車道が開通し、陰陽連絡の役割を完全に奪われてしまった今、いつ廃止されてもおかしくない風景に寂しい限りであったが、現在ではそんな風景も当たり前になってしまった。そんな芸備線に揺られ新見に到着。そして伯備線で岡山に向かう。伯備線はこの時電化直前であり、ホームもリニューアルされていて、張り巡らされている架線も初々しい。この伯備線ではキハ181の「やくも」の通過シーンを、確か新見か備中高梁で拝んでいる。顧問の教諭が「写真撮っとけよ」と皆にアドバイス。「言われなくても撮るに決まってるじゃん!」。とはいうものの、その言葉の重さや意味にあまり実感がなかった。
しかし、伯備線が電化されるという事は陰陽連絡の役割を果たしているという証しであろう。ただ、山間部を貫くためどうしても線形的な制約を受けてしまうのでスピードアップに歯止めがかかってしまうのはJRにとっても悩みの種であろう。
そしていよいよ岡山に到着。そして四国に向け今夜の「宿」を拾う予定だ。若いレールファンには信じられないかも知れないが、今回の旅の訪問時に瀬戸大橋は無い❗という事は、つまり宇高航路、すなわち船での移動となるが既に宇野線の風景は真っ暗だ。今宵の宿は0時49分発中村行きの夜行列車で、通称「中村夜行」である。
20時57分到着のため約4時間もある!

芸備線の道後山であるが、今回の訪問時も確か交換設備は外されていたはずだ。今でもかつての旧ホームが残っているが、駅前にあるスキー場が閉鎖されてしまった現在、この駅を利用する人はほぼ皆無に近いと聞いているが・・・
ハッキリ言って高松での待ち時間は、何をしていたか覚えていないが、席を確保するため交代で代表が並んだ。実はこの中村夜行は終点中村で折りかえし急行「あしずり」になる。そしてグリーン車仕様の車両も連結されているわけであるが、実はこのグリーン車、「あしずり」になってもグリーン車としての運用ではなく「指定席」としての運用である。なんともグリーン料金は要らないよ、なんて太っ腹っはではないか!しかも中村夜行でもグリーン料金な無しで開放してくれるのだ!つまり「18」のみで乗車できる!しかもグリーン車仕様のためリクライニングができるので夜行列車的にはかなり重宝してくれよう。事実、事情を知っている者のみが出発前からホームで列を作っていた。この待ち時間も実はもちろん教諭の横槍案であるが、よくもまぁ、ここまで先を読んで私に計画を立案させたものだ。さすがは数学の教諭であるが、若干24歳で大学出の新米教諭がここまで「計算」するとは、今考えるとさすがであると感心する。
しかし3時間以上も待ち時間があると、何をしていいのかわからない。店も営業時間外となり、何もすることない。ここで少しでも時間潰しにと高松駅で得意の「入場券」を買いに行った時のエピソードを紹介しよう。入場券にハサミを入れるよう駅員に申し出ると、改札口の駅員は私にパンチ(切符にハサミを入れる道具)を渡し「好きな所に入れな」と笑顔で応対してくれた!なんて素晴らしい駅員さんなのか!さすが四国の玄関口。「18」で改札を出て入場券を片手にすぐさま改札に戻って来るのだから素人でも私達を「その道の人」と判断できるであろう。高松の職員は鉄道ファンの気持ちを十二分に理解していらっしゃる。というより自身も「ファン」なのではないか・・・国鉄職員の接客態度は当時全国各地で話題となり、RJ社の某書籍の某コーナーで「炎上」していたが、中にはこういう駅員さんもいるんです!と声を大にして言いたい気持ちであった。というより、むしろこうした駅員さんの方が当たり前のように多く、一部の怠慢な鉄道員の為に他の鉄道員まで嫌なイメージが植えつけられてしまうのは、全く持って心外であろうと思うのは私だけであろうか?

かつては東京から寝台特急が発着していた宇野。優等列車用の長いホームもあり、宇高航路との連絡客でかつては賑わった。あくまで役割的に「連絡」のため、特に上り列車では四国からの深夜・未明の乗り換えはかなりハードであった(経験者は語る)。
約4時間待ちは肉体的にも精神的にも参ってしまったが、とリあえずおかげで座席を確保できた中村夜行はキハ58の「731D」である。これで高知まで乗車予定だ。次の章で若干解説するが、快適な「リクライニングシート」に座り、高松で買った入場券をしばらく眺めていた。

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そんな我々を乗せた普通夜行列車「山陰」は、大山口付近で日の出を見た、というより我々が大山口付近で朝日を見た。大山口では列車交換の為少々停車時間がある。私にとってはかなりマイナーな駅であったが、こういう時こそ見逃さない鉄道少年は、わずかな停車時間でも欠かさず「入場券」を購入しに出向く。もちろん皆で行くのではなく、グループ行動の特権である「代表」が皆の分も合わせて買ってくる。米子での停車時間で朝食を購入。丁度通勤通学時間帯であるが、春休みのため学生はそれほど多くないであろう。

2013年訪問時の米子にて。山陰の夏は意外に暑い!いや、夏は基本暑いのだが訪問当時は想像以上の猛暑日であった。1982年の訪問時は4月に限りなく近い3月だったのでそろそろ桜の咲く季節。環境にはそれほど気にせず旅を楽しめた。
米子で大半の乗客が下車したが、もちろん乗車してくる乗客もいる。つまり入れ替わりが激しいのだが、車内の混雑度はさほど変化なく、松江を過るとやや車内が落ち着いてきた。
そして9時24分、宍道に到着した。ここで9時42分発の木次線に乗り換える。木次線の模様は「木次恋しぐれ」で詳細に紹介しているのでそちらを参考にしていただきたいが、なんといっても出雲坂根の雄大なスイッチバックが印象的で、当時中学生であった私でもその景色に圧倒された。そんな優雅な風景をを堪能しつつ、備後落合に到着。備後落合では5分後に芸備線に乗り換えるのだが、顧問の教諭が我々に秘境の地にある分岐駅の素晴らしさを伝授したかったのだろう、一時間後にくる芸備線列車に身を任せる事にして駅を散策しようというのだ。それでも途中で計画通りの行程に戻るので私はOKを出した。「出した」といってもそれほど偉い立場ではないのだが、元々私が立案した行程である。私もそれなりにプライドがあった・・・などとこんな場所で意地を張っても仕方がない。
備後落合では駅員に「あの丘に行けば駅の全景が撮影できるよっ❗」と親切に伝授してくれた。ひと目見てわかるであろう我々の身なりに、駅員さんは実に協力的。列車の待ち時間など忘れてしまいそうな時間が過ぎていった。
残念ながら「おでんそば」は、看板こそ出ていたが、暖簾は既になく、いつ頃から営業をしていないのであろう。

宍道は木次線の分岐駅である。かつては4・5番線より発着していたが、現在は4・5番線が使用されなくなり、3番線よりの発着となってしまった。木次線の存続問題は今のところ浮上していないのはラッキーであるが、将来的にも浮上しないとは限らない・・・
やがて芸備線のDCがやってきた。我々が訪問した1982年春はまだ芸備線にCTC(列車集中制御装置)が導入されておらず、列車交換駅では備後落合も含め駅員が必ずいた。翌年CTCが導入されて一気に無人駅が増え、そして現在ではその交換設備でさえ外された駅も少なくない。中国自動車道が開通し、陰陽連絡の役割を完全に奪われてしまった今、いつ廃止されてもおかしくない風景に寂しい限りであったが、現在ではそんな風景も当たり前になってしまった。そんな芸備線に揺られ新見に到着。そして伯備線で岡山に向かう。伯備線はこの時電化直前であり、ホームもリニューアルされていて、張り巡らされている架線も初々しい。この伯備線ではキハ181の「やくも」の通過シーンを、確か新見か備中高梁で拝んでいる。顧問の教諭が「写真撮っとけよ」と皆にアドバイス。「言われなくても撮るに決まってるじゃん!」。とはいうものの、その言葉の重さや意味にあまり実感がなかった。
しかし、伯備線が電化されるという事は陰陽連絡の役割を果たしているという証しであろう。ただ、山間部を貫くためどうしても線形的な制約を受けてしまうのでスピードアップに歯止めがかかってしまうのはJRにとっても悩みの種であろう。
そしていよいよ岡山に到着。そして四国に向け今夜の「宿」を拾う予定だ。若いレールファンには信じられないかも知れないが、今回の旅の訪問時に瀬戸大橋は無い❗という事は、つまり宇高航路、すなわち船での移動となるが既に宇野線の風景は真っ暗だ。今宵の宿は0時49分発中村行きの夜行列車で、通称「中村夜行」である。
20時57分到着のため約4時間もある!

芸備線の道後山であるが、今回の訪問時も確か交換設備は外されていたはずだ。今でもかつての旧ホームが残っているが、駅前にあるスキー場が閉鎖されてしまった現在、この駅を利用する人はほぼ皆無に近いと聞いているが・・・
ハッキリ言って高松での待ち時間は、何をしていたか覚えていないが、席を確保するため交代で代表が並んだ。実はこの中村夜行は終点中村で折りかえし急行「あしずり」になる。そしてグリーン車仕様の車両も連結されているわけであるが、実はこのグリーン車、「あしずり」になってもグリーン車としての運用ではなく「指定席」としての運用である。なんともグリーン料金は要らないよ、なんて太っ腹っはではないか!しかも中村夜行でもグリーン料金な無しで開放してくれるのだ!つまり「18」のみで乗車できる!しかもグリーン車仕様のためリクライニングができるので夜行列車的にはかなり重宝してくれよう。事実、事情を知っている者のみが出発前からホームで列を作っていた。この待ち時間も実はもちろん教諭の横槍案であるが、よくもまぁ、ここまで先を読んで私に計画を立案させたものだ。さすがは数学の教諭であるが、若干24歳で大学出の新米教諭がここまで「計算」するとは、今考えるとさすがであると感心する。
しかし3時間以上も待ち時間があると、何をしていいのかわからない。店も営業時間外となり、何もすることない。ここで少しでも時間潰しにと高松駅で得意の「入場券」を買いに行った時のエピソードを紹介しよう。入場券にハサミを入れるよう駅員に申し出ると、改札口の駅員は私にパンチ(切符にハサミを入れる道具)を渡し「好きな所に入れな」と笑顔で応対してくれた!なんて素晴らしい駅員さんなのか!さすが四国の玄関口。「18」で改札を出て入場券を片手にすぐさま改札に戻って来るのだから素人でも私達を「その道の人」と判断できるであろう。高松の職員は鉄道ファンの気持ちを十二分に理解していらっしゃる。というより自身も「ファン」なのではないか・・・国鉄職員の接客態度は当時全国各地で話題となり、RJ社の某書籍の某コーナーで「炎上」していたが、中にはこういう駅員さんもいるんです!と声を大にして言いたい気持ちであった。というより、むしろこうした駅員さんの方が当たり前のように多く、一部の怠慢な鉄道員の為に他の鉄道員まで嫌なイメージが植えつけられてしまうのは、全く持って心外であろうと思うのは私だけであろうか?

かつては東京から寝台特急が発着していた宇野。優等列車用の長いホームもあり、宇高航路との連絡客でかつては賑わった。あくまで役割的に「連絡」のため、特に上り列車では四国からの深夜・未明の乗り換えはかなりハードであった(経験者は語る)。
約4時間待ちは肉体的にも精神的にも参ってしまったが、とリあえずおかげで座席を確保できた中村夜行はキハ58の「731D」である。これで高知まで乗車予定だ。次の章で若干解説するが、快適な「リクライニングシート」に座り、高松で買った入場券をしばらく眺めていた。

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コメント
1982年春
稚拙#EBUSheBA様
コメントありがとうございます。
高校生とは、人生を左右する大切な時期でさぞかしご多用であった事でしょう。
とはいうものの、私は高校生時代はあまり勉強とかしなかったのてこんな大人になってしまいました。
確かに日本の各地は遠い存在でしたが「18」が登場して以来、18が身近な存在にしてくれました。ただ、北海道だけは当時高嶺の花で、18では確実に効率悪いのはわかっていたので、周遊券の使用を夢見ながら計画ばかりをたてていました。結局、翌年の10月に4日間ではありますが北海道行が実現しましたが、乗車できたのは白糠線だけで、これが唯一の国鉄時代の訪問でした。
私の場合、時刻表を小学生時代から読んでいたので日本の地理に関しては授業を受けなくても優秀なくらいの学力でしたので、「ミツギ」の件に関しては恐らくその場で間違えを指摘していた事でしょう。
ですが、そうした訂正など印象の積み重ねで自身の知識が蓄積されていくものですよね。逆に三次に訪問した際にはその教諭の事を思い出したりして・・・その繰返しですよね。
高校生とは、人生を左右する大切な時期でさぞかしご多用であった事でしょう。
とはいうものの、私は高校生時代はあまり勉強とかしなかったのてこんな大人になってしまいました。
確かに日本の各地は遠い存在でしたが「18」が登場して以来、18が身近な存在にしてくれました。ただ、北海道だけは当時高嶺の花で、18では確実に効率悪いのはわかっていたので、周遊券の使用を夢見ながら計画ばかりをたてていました。結局、翌年の10月に4日間ではありますが北海道行が実現しましたが、乗車できたのは白糠線だけで、これが唯一の国鉄時代の訪問でした。
私の場合、時刻表を小学生時代から読んでいたので日本の地理に関しては授業を受けなくても優秀なくらいの学力でしたので、「ミツギ」の件に関しては恐らくその場で間違えを指摘していた事でしょう。
ですが、そうした訂正など印象の積み重ねで自身の知識が蓄積されていくものですよね。逆に三次に訪問した際にはその教諭の事を思い出したりして・・・その繰返しですよね。
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芸備線と言うと、さかのぼって中1の社会の時間、教育実習の社会担当の女性が、三次を「ミツギ」と呼んで、次の日に正しくはミヨシですと訂正していたことを思い出します。
中学時代、ほとんどの日本の場所は遠い場所でした。そんな時代に日本地理を習っても身につきません。でも初めて三次に来た1994年、駅前の薬局で南天のど飴を買ったことは覚えています。