題名の無い鉄道旅 part1 ばんえつ物語号 ⑤
2023-06-10
白新線から新発田へ抜け、坂町で折り返し再び羽越線に乗り新津を目指す。これより弥彦線を制覇するるためであるが、弥彦線制覇のためにわざわざ新発田へ出るなど、普通ならこのような鉄道利用をする方はいないであろう。しかし、単純に「乗りつぶし」という己の道楽をあえて貫くために、当時未制覇だった新発田~坂町にたどり着かなければならない。だがしかし、後年に寝台特急「あけぼの」でも制覇したのであえてこのタイミングで行く必要があったかは別として、これで1983年以来の羽越線全線制覇となったわけだ。
さて、白新線は運転頻度が高く、しかも特急列車も運転されているため新発田~新津間の羽越線は乗りつぶし派には意外にも落とし穴的な同区間であるが、かつては寝台特急や特急列車が新潟へ寄らずに同区間を走る列車があり、さりげなく制覇していた方も少なくないであろう。だがやはり、何気に普通列車での制覇の方が味があって良い。以前に私が赤谷線制覇の際に、その行程で新発田~新津間を旧型客車で制覇した場面もあったが、今回はロングシートによる「三沢式フェイスロック」での再訪となった。やはりロングシートで車窓を眺めるという事はかなりの労力を必要とする(プロレスファンではない方には伝わりにくいが・・・)。

別の日に上越新幹線でやってきた新潟であるが、開業から30年以上経って初めて上越新幹線を新潟まで制覇した。この訪問後に在来線も高架化され、更に進化した新潟の今後に期待したい。
同区間の中心的な存在である水原も、通学時間に差し掛かろうという時間帯であるが、新潟方面へのアクセスが賑やかな海岸沿いに比べ実に穏やかな時間が過ぎていた。ちなみに水原は「すいばら」と読む(だが、決して水曜バラエティではない)が、水原と聞くと、我々世代では某製薬会社の殺虫剤で、街中のホーロー看板に登場するシーンを思い出す(こちらは「みずはら」と読むが)。現在でもレトロ調のお店などで見かける場合があるのは嬉しい限りであるが、ペアで「渦巻」の看板も見かけると尚更嬉しい。
車窓は穏やかな時間ではあるが、こちらは小刻みに乗り換えをするために慌ただしい時間が過ぎていた。新潟より新発田~坂町~新津と歩んでいるのに、今いる新津では何とまだ、朝の6時台である!いかに乗り換えがスムーズかお分かりであろう。そのスムーズな乗り換えは更に続き、東三条より弥彦線へと繋がっていく。

今回の旅で弥彦で撮影した115系であるが、2022年に定期運用を終了してしまった。上越新幹線開業とともに電化され導入された車両であるが、こうして当たり前だった風景が見られなくなるのは寂しい限りだ。
上越新幹線開業に合わせて電化された弥彦線であるが、国鉄時代からご存じの方は、現在の弥彦線の姿とはやや異なっていた事が記憶の片隅にあるであろう。弥彦線は信越本線と越後線を縦に貫く形で敷設されているが、実は東三条から更に南に伸びる路線が存在した。もちろん電化されること無く葬り去られてしまったが、今思えば、弥彦線のなかでも特殊な存在であり、地図上での、そして戸籍上での「弥彦線」としてのくくりでは収められない、何か特別な輝きがあった。播但線でいう「飾磨港」や、福知山線でいう「尼崎港」のような異端児的な輝きは薄いものの、しっかりとしたバイプレーヤー的な存在であった。もちろん支線ではなかったので列記とした起点駅であったが、なくなってしまうとやはり鉄道地図に不自然さが残る。そんな鉄道地図には載っていない弥彦線の終点駅は越後長沢と名乗っていた。

そしてこちらはウィキペディアによる現在の越後長沢「駅跡」である。ご覧のように現在はバス停留所の待合室として第二の人生を送っているが、名称が非常にわかりやすいのでビギナーでもここに鉄道の歴史があったと感じる事ができる。ただ、数々の国鉄赤字路線が廃止されバス転換された中、そのバス運営もかなりの苦戦が強いられている。中にはバスも廃止されてしまう場面も少なくなく、国鉄時代の赤字路線をそのまま受け継ぐのがいかに大変かという事が近年に特に顕著になってきている。
国鉄時代に越後長沢への訪問ができなかったのは悔いが残るが、電化後にウン十年経ってから初めて訪れた弥彦線は、国鉄色豊かな路線であった。
早速東三条より北上し弥彦に向かう。途中、新幹線と交差する燕三条に寄るが、周知の通り新幹線開業と同時にできた駅である。お陰で浦和ほどではないが、ひとつ間違えば戸惑いそうな駅名の数々なのに、またひとつ駅名が増えて、更にややっこしくなったイメージである。
そして隣の燕からはかつて新潟交通が新潟県の中心部までレールを伸ばしていた。白山下から県庁前までは路面電車的な軌道となっており、異色な路線であったが、それは既に「リバプールの風」となっており、昭和の思い出となってしまった。こうして弥彦線ひとつ乗るだけでも色々な思いがフラッシュバックしてくる。
1982年に訪れた吉田を過ぎまもなく弥彦に着こうとしている。弥彦は全く初めて訪れる駅なのに、なぜか懐かしさと親しみを感じずにはいられなかった。

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さて、白新線は運転頻度が高く、しかも特急列車も運転されているため新発田~新津間の羽越線は乗りつぶし派には意外にも落とし穴的な同区間であるが、かつては寝台特急や特急列車が新潟へ寄らずに同区間を走る列車があり、さりげなく制覇していた方も少なくないであろう。だがやはり、何気に普通列車での制覇の方が味があって良い。以前に私が赤谷線制覇の際に、その行程で新発田~新津間を旧型客車で制覇した場面もあったが、今回はロングシートによる「三沢式フェイスロック」での再訪となった。やはりロングシートで車窓を眺めるという事はかなりの労力を必要とする(プロレスファンではない方には伝わりにくいが・・・)。

別の日に上越新幹線でやってきた新潟であるが、開業から30年以上経って初めて上越新幹線を新潟まで制覇した。この訪問後に在来線も高架化され、更に進化した新潟の今後に期待したい。
同区間の中心的な存在である水原も、通学時間に差し掛かろうという時間帯であるが、新潟方面へのアクセスが賑やかな海岸沿いに比べ実に穏やかな時間が過ぎていた。ちなみに水原は「すいばら」と読む(だが、決して水曜バラエティではない)が、水原と聞くと、我々世代では某製薬会社の殺虫剤で、街中のホーロー看板に登場するシーンを思い出す(こちらは「みずはら」と読むが)。現在でもレトロ調のお店などで見かける場合があるのは嬉しい限りであるが、ペアで「渦巻」の看板も見かけると尚更嬉しい。
車窓は穏やかな時間ではあるが、こちらは小刻みに乗り換えをするために慌ただしい時間が過ぎていた。新潟より新発田~坂町~新津と歩んでいるのに、今いる新津では何とまだ、朝の6時台である!いかに乗り換えがスムーズかお分かりであろう。そのスムーズな乗り換えは更に続き、東三条より弥彦線へと繋がっていく。

今回の旅で弥彦で撮影した115系であるが、2022年に定期運用を終了してしまった。上越新幹線開業とともに電化され導入された車両であるが、こうして当たり前だった風景が見られなくなるのは寂しい限りだ。
上越新幹線開業に合わせて電化された弥彦線であるが、国鉄時代からご存じの方は、現在の弥彦線の姿とはやや異なっていた事が記憶の片隅にあるであろう。弥彦線は信越本線と越後線を縦に貫く形で敷設されているが、実は東三条から更に南に伸びる路線が存在した。もちろん電化されること無く葬り去られてしまったが、今思えば、弥彦線のなかでも特殊な存在であり、地図上での、そして戸籍上での「弥彦線」としてのくくりでは収められない、何か特別な輝きがあった。播但線でいう「飾磨港」や、福知山線でいう「尼崎港」のような異端児的な輝きは薄いものの、しっかりとしたバイプレーヤー的な存在であった。もちろん支線ではなかったので列記とした起点駅であったが、なくなってしまうとやはり鉄道地図に不自然さが残る。そんな鉄道地図には載っていない弥彦線の終点駅は越後長沢と名乗っていた。

そしてこちらはウィキペディアによる現在の越後長沢「駅跡」である。ご覧のように現在はバス停留所の待合室として第二の人生を送っているが、名称が非常にわかりやすいのでビギナーでもここに鉄道の歴史があったと感じる事ができる。ただ、数々の国鉄赤字路線が廃止されバス転換された中、そのバス運営もかなりの苦戦が強いられている。中にはバスも廃止されてしまう場面も少なくなく、国鉄時代の赤字路線をそのまま受け継ぐのがいかに大変かという事が近年に特に顕著になってきている。
国鉄時代に越後長沢への訪問ができなかったのは悔いが残るが、電化後にウン十年経ってから初めて訪れた弥彦線は、国鉄色豊かな路線であった。
早速東三条より北上し弥彦に向かう。途中、新幹線と交差する燕三条に寄るが、周知の通り新幹線開業と同時にできた駅である。お陰で浦和ほどではないが、ひとつ間違えば戸惑いそうな駅名の数々なのに、またひとつ駅名が増えて、更にややっこしくなったイメージである。
そして隣の燕からはかつて新潟交通が新潟県の中心部までレールを伸ばしていた。白山下から県庁前までは路面電車的な軌道となっており、異色な路線であったが、それは既に「リバプールの風」となっており、昭和の思い出となってしまった。こうして弥彦線ひとつ乗るだけでも色々な思いがフラッシュバックしてくる。
1982年に訪れた吉田を過ぎまもなく弥彦に着こうとしている。弥彦は全く初めて訪れる駅なのに、なぜか懐かしさと親しみを感じずにはいられなかった。

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コメント
にわか者様
コメントありがとうございます。
私も越後線は電化直前に行ってます。ただ、当時は予定の組み方がまだ三流だったので、弥彦線や魚沼線に乗ることが出来ませんでした。試しに、当時の時刻表を使い今予定を組んだら同じ行程内で弥彦線全線制覇できました。駅寝をすれば恐らく魚沼線も乗車できたと思いますが、まだまだ卵の殻を付けたひよっ子でしたね。
私の場合、赤谷線は別枠で行ってますから、別枠を繰り返せば魚沼線なども完全に決着が付いていたはずです。
ただ、もし当時我々が大学生とかだったら、現在はもう会社定年くらいの内容ですから、退職後に未制覇部分の穴埋めの旅に出ている事でしょう。
しかし、残念ながら鉄道風景も変わり、寝台特急などの夜行列車が壊滅し、唯一のサンライズも車両年数を考えたら今後の動向が気になるところですね。鉄道旅にどれだけの付加価値を付けられるかが課題となりそうです。
私も越後線は電化直前に行ってます。ただ、当時は予定の組み方がまだ三流だったので、弥彦線や魚沼線に乗ることが出来ませんでした。試しに、当時の時刻表を使い今予定を組んだら同じ行程内で弥彦線全線制覇できました。駅寝をすれば恐らく魚沼線も乗車できたと思いますが、まだまだ卵の殻を付けたひよっ子でしたね。
私の場合、赤谷線は別枠で行ってますから、別枠を繰り返せば魚沼線なども完全に決着が付いていたはずです。
ただ、もし当時我々が大学生とかだったら、現在はもう会社定年くらいの内容ですから、退職後に未制覇部分の穴埋めの旅に出ている事でしょう。
しかし、残念ながら鉄道風景も変わり、寝台特急などの夜行列車が壊滅し、唯一のサンライズも車両年数を考えたら今後の動向が気になるところですね。鉄道旅にどれだけの付加価値を付けられるかが課題となりそうです。
魚沼線!
これまた懐かしい…
ここも昼間の便はなかったような記憶があります。
違っていたらすみません…
清水港線は別格としても、当時は昼間走らない路線は日中線もそうですが、今にして思えば結構あったんですよね…
私は魚沼線も乗りましたが、国鉄を乗り潰せたのは保育園と小学生時代、すでに親と結構な数の路線を乗りつぶしていたのが大きかったと思います。
おそらくそれがなければ、中、高の6年間では無理だったかと…
ただ、やはり小学生までに乗りつぶした路線は、ほぼ覚えてないですね…それでも国鉄乗りつぶしにカウントしてしまい、車両も好みのが走っていない路線は単独で乗り直しに行くこともありませんでした(^_^;)
前にもコメしましたが、尼崎港が現時点では親と行った最後の路線であります。
これまた懐かしい…
ここも昼間の便はなかったような記憶があります。
違っていたらすみません…
清水港線は別格としても、当時は昼間走らない路線は日中線もそうですが、今にして思えば結構あったんですよね…
私は魚沼線も乗りましたが、国鉄を乗り潰せたのは保育園と小学生時代、すでに親と結構な数の路線を乗りつぶしていたのが大きかったと思います。
おそらくそれがなければ、中、高の6年間では無理だったかと…
ただ、やはり小学生までに乗りつぶした路線は、ほぼ覚えてないですね…それでも国鉄乗りつぶしにカウントしてしまい、車両も好みのが走っていない路線は単独で乗り直しに行くこともありませんでした(^_^;)
前にもコメしましたが、尼崎港が現時点では親と行った最後の路線であります。
にわか者様
コメントありがとうございます。
小学生時代に既に魚沼線を経験済みとは、異次元の様な凄さですね!私の小学生時代はせいぜいブルートレインでしたから、到底レベルが違いすぎます。
尼崎港や飾磨港なども既にクリアされているわけですから、素晴らしい経験です。
ただ、日中線ではないですが、魚沼線も日中に走っていないため乗りつぶし泣かせでしたね。
全く関係ないですが、10年くらい前に鯨波駅に行った時、なぜか魚沼線にあった片貝駅のスタンプが大きくプリントされ無人のきっぷ売場に貼ってありましたが、あれは一体何を意味するものだったのでしょうかのでしょうか…
小学生時代に既に魚沼線を経験済みとは、異次元の様な凄さですね!私の小学生時代はせいぜいブルートレインでしたから、到底レベルが違いすぎます。
尼崎港や飾磨港なども既にクリアされているわけですから、素晴らしい経験です。
ただ、日中線ではないですが、魚沼線も日中に走っていないため乗りつぶし泣かせでしたね。
全く関係ないですが、10年くらい前に鯨波駅に行った時、なぜか魚沼線にあった片貝駅のスタンプが大きくプリントされ無人のきっぷ売場に貼ってありましたが、あれは一体何を意味するものだったのでしょうかのでしょうか…
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越後長沢にも行きましたが、ここは昼間の便がなかったような???確かに飾磨港に比べれば、異端児度は低いですかね?
あの頃は、越後線も非電化でしたね。
貴殿の行った赤谷線もまだありましたね。
あの頃、せめて大学生だったなら…と、思えてなりません…