廃止路線を訪ねて② 東武鉄道・熊谷線(リメイク版・前編)
2021-09-10
1983年5月に営業を終えた東武鉄道の非電化路線「熊谷線」は、首都圏の鉄道としては異色の存在であった。現在も活躍している秩父鉄道の熊谷ととなりの上熊谷は秩父鉄道とホームを共用していたが、熊谷では島式ホームの片側を東武と秩父鉄道で分断して使用していたので、秩父鉄道にしてみたらダイヤを組む上で非常にネックになっていたであろうが、それは今に始まった事では無いので対応も万全であったろう。そんな東武熊谷線も、晩年には営業係数が500を超えていたとの噂も聞いたことがあるが「率」では大きいが「額」ではそれほどの損益ではなかったのでは?と思っていた。だが年間2億くらいの赤字があったらしいので、東武社内で当時の熊谷線はやや重たい存在であったろう。当初の計画では同じ東武鉄道の小泉線と繋がる予定であったが、戦時中の資金難で頓挫したらしい。
まぁ、数値的な事は当時中学生の私にとって理解の範囲に達しないが、それより首都圏でキハ2000が拝見できるのに廃止されてしまう事の方がとても重要であった。

秩父鉄道と共用する東武熊谷線ホーム。現在は東武熊谷線であったところも秩父鉄道で使用され、熊谷駅で列車交換ができるようになった。
さて、私は1983年の某月某日、この熊谷線を廃止前に乗ろうと神奈川県よりはるばるやってきた。廃止された日が1983年5月なので、恐らく4月だったと思う。恐らく春休みを利用しての行動であったが、どこから情報が入ってきたのかは記憶にない。ただ、当時私は所属していた中学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」では、文字通りその道を極めるメンバーが揃っていたため、そのメンバーやRJ誌などの情報からであろう。ちなみにこの学校での部活であるが、鉄道を主題とする部活は当時は珍しかったらしい。確かにサッカー部や野球部、そしてテニス部などの運動系に比べれば割と地味な方であるし「朝練」などの作業も無い。そして県大会などの試合も無いため活動の目標が定まらない、ある意味特殊な部活だったのかも知れないが、私はどの中学にもあると思っていたので中学入学と同時に当たり前のようにその部活にのめり込むようになっていった。
今回の熊谷線もその部活のメンバーとの訪問であったのだが、あくまで個人での参戦であり「部活」での訪問ではなかった。そう考えると部活と個人的との境界線が曖昧な部分もあるが、野球部で言うならグラウンドで部活のメンバーとキャッチボールをするか、近所の公園で部活のメンバーとキャッチボールをするかの差であろう・・・などとあまり良い例えではないが、要するに東武熊谷線の参戦は「個人練習」的な表現で伝わるであろうか。

そして車両であるがなんとなくかつての流行である「80系」に似ているが、若干小ぶりな趣きである。既に隣には「新幹線」が開通し、新潟までの交通手段が格段に進歩した時代に、このDCが健在とは!なかなか愛らしいではないか。
どういう形であれ、東武熊谷線に訪問できたのは、現在では実に貴重な体験となっているが、何せ東武鉄道の他の路線とは全く接続していない。しかしながら起点の熊谷においてはなんと開業したばかりの新幹線と連絡する!という素晴らしいシチュエーションである。という事で、私は新幹線ではなく高崎線で熊谷入りして東武鉄道・熊谷線を体験する事になった。
東武熊谷線のホームは秩父鉄道のホームを共用していたのは先述したが、東武熊谷線が使用する島式ホームの片側ではホームの中央付近で線路に盛土がなされており直通出来ない構造となっていた。そのため秩父鉄道同士の列車交換が出来ない仕組みとなっており、ダイヤを組む際に恐らくその事でやや制約を受けていたであろう。
そのホームより出発する列車では、私のような「通常客ではない」乗客がちらほらみられ写真を撮るのに忙しい。春休みという事もあって私と同年代の同業者が多かった印象であるが、当時は何たって廃止が「ブーム」となっており、国鉄の赤字ローカル線廃止路線が全国のあちらこちらで、ある意味「行事」として行われていた時代でもあった。その時代の波に乗ったかのような東武熊谷線の廃止であったが、秩父鉄道の設備を間借りして営業していたので肩身の狭い思いをしていそうな表情にも見えたDCは、廃止が決まりなんだかホッとした表情にも見て取れた。私を乗せたDCは一両編成ではとてもさばききれない程のフルハウス!普段からこれくらいの利用者があれば私もこの地にやって来なかったであろう。そんな思いを乗せて終点妻沼へとエンジン音を唸らせた。

既に最近も紹介している写真であるが、熊谷で撮影した秩父鉄道はこの東武熊谷線の訪問時に撮影。手前に車止めがあるのがお分かりだと思うが、当時の秩父鉄道は熊谷での上下列車交換ができなかったのがダイヤを組む上で制約になっていたのかも知れない。

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まぁ、数値的な事は当時中学生の私にとって理解の範囲に達しないが、それより首都圏でキハ2000が拝見できるのに廃止されてしまう事の方がとても重要であった。

秩父鉄道と共用する東武熊谷線ホーム。現在は東武熊谷線であったところも秩父鉄道で使用され、熊谷駅で列車交換ができるようになった。
さて、私は1983年の某月某日、この熊谷線を廃止前に乗ろうと神奈川県よりはるばるやってきた。廃止された日が1983年5月なので、恐らく4月だったと思う。恐らく春休みを利用しての行動であったが、どこから情報が入ってきたのかは記憶にない。ただ、当時私は所属していた中学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」では、文字通りその道を極めるメンバーが揃っていたため、そのメンバーやRJ誌などの情報からであろう。ちなみにこの学校での部活であるが、鉄道を主題とする部活は当時は珍しかったらしい。確かにサッカー部や野球部、そしてテニス部などの運動系に比べれば割と地味な方であるし「朝練」などの作業も無い。そして県大会などの試合も無いため活動の目標が定まらない、ある意味特殊な部活だったのかも知れないが、私はどの中学にもあると思っていたので中学入学と同時に当たり前のようにその部活にのめり込むようになっていった。
今回の熊谷線もその部活のメンバーとの訪問であったのだが、あくまで個人での参戦であり「部活」での訪問ではなかった。そう考えると部活と個人的との境界線が曖昧な部分もあるが、野球部で言うならグラウンドで部活のメンバーとキャッチボールをするか、近所の公園で部活のメンバーとキャッチボールをするかの差であろう・・・などとあまり良い例えではないが、要するに東武熊谷線の参戦は「個人練習」的な表現で伝わるであろうか。

そして車両であるがなんとなくかつての流行である「80系」に似ているが、若干小ぶりな趣きである。既に隣には「新幹線」が開通し、新潟までの交通手段が格段に進歩した時代に、このDCが健在とは!なかなか愛らしいではないか。
どういう形であれ、東武熊谷線に訪問できたのは、現在では実に貴重な体験となっているが、何せ東武鉄道の他の路線とは全く接続していない。しかしながら起点の熊谷においてはなんと開業したばかりの新幹線と連絡する!という素晴らしいシチュエーションである。という事で、私は新幹線ではなく高崎線で熊谷入りして東武鉄道・熊谷線を体験する事になった。
東武熊谷線のホームは秩父鉄道のホームを共用していたのは先述したが、東武熊谷線が使用する島式ホームの片側ではホームの中央付近で線路に盛土がなされており直通出来ない構造となっていた。そのため秩父鉄道同士の列車交換が出来ない仕組みとなっており、ダイヤを組む際に恐らくその事でやや制約を受けていたであろう。
そのホームより出発する列車では、私のような「通常客ではない」乗客がちらほらみられ写真を撮るのに忙しい。春休みという事もあって私と同年代の同業者が多かった印象であるが、当時は何たって廃止が「ブーム」となっており、国鉄の赤字ローカル線廃止路線が全国のあちらこちらで、ある意味「行事」として行われていた時代でもあった。その時代の波に乗ったかのような東武熊谷線の廃止であったが、秩父鉄道の設備を間借りして営業していたので肩身の狭い思いをしていそうな表情にも見えたDCは、廃止が決まりなんだかホッとした表情にも見て取れた。私を乗せたDCは一両編成ではとてもさばききれない程のフルハウス!普段からこれくらいの利用者があれば私もこの地にやって来なかったであろう。そんな思いを乗せて終点妻沼へとエンジン音を唸らせた。

既に最近も紹介している写真であるが、熊谷で撮影した秩父鉄道はこの東武熊谷線の訪問時に撮影。手前に車止めがあるのがお分かりだと思うが、当時の秩父鉄道は熊谷での上下列車交換ができなかったのがダイヤを組む上で制約になっていたのかも知れない。

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コメント
幻の東武熊谷線!
でこすけ様
コメントありがとうございます!
> 新聞記事の白黒写真でしかちゃんと車両を見た事がなかったので、カラーで見る事が出来て本当に嬉しいです(^^)
喜んでいただけたら幸いです!!以前はもっと多数の写真を所有してました。しかしながら、鉄道ファン休業中に処分してしまい、ブログにアップしたので全部です。
> 地元の伝説では、熊谷を抜けて東上線と小泉線を繋げようとしてダメだったと聞いた事がありますが、もし開通していても双方向から高崎線に客を取られていた気がします。
でこすけ様の「伝説」通り、小泉線と繋がる予定でした。繋がっていても高崎線の方がはるかにスピードで勝るのででこすけ様の言う通りでしょう。逆に観光化して「パレオエクスプレス」を乗り入れさせたら面白かったと思いますが・・・
廃線跡はいまだに確認できるみたいですね。
> 新聞記事の白黒写真でしかちゃんと車両を見た事がなかったので、カラーで見る事が出来て本当に嬉しいです(^^)
喜んでいただけたら幸いです!!以前はもっと多数の写真を所有してました。しかしながら、鉄道ファン休業中に処分してしまい、ブログにアップしたので全部です。
> 地元の伝説では、熊谷を抜けて東上線と小泉線を繋げようとしてダメだったと聞いた事がありますが、もし開通していても双方向から高崎線に客を取られていた気がします。
でこすけ様の「伝説」通り、小泉線と繋がる予定でした。繋がっていても高崎線の方がはるかにスピードで勝るのででこすけ様の言う通りでしょう。逆に観光化して「パレオエクスプレス」を乗り入れさせたら面白かったと思いますが・・・
廃線跡はいまだに確認できるみたいですね。
もったいない!!
こんばんは。
拙ブログのコメントでお知らせいただいて拝見しにきましたが、
ホントにめっちゃ貴重なお写真ですね!!
素晴らしい。この写真の中の世界に入る方法はないものでしょうか(号泣)。
他の方のレスで、「鉄道ファン休業中に処分」された写真も多数だとか。
もったいない~~!!
拙ブログのコメントでお知らせいただいて拝見しにきましたが、
ホントにめっちゃ貴重なお写真ですね!!
素晴らしい。この写真の中の世界に入る方法はないものでしょうか(号泣)。
他の方のレスで、「鉄道ファン休業中に処分」された写真も多数だとか。
もったいない~~!!
kyo-to様
コメントありがとうございます。
熊谷線の写真に関しては「ブログの写真で全部です」と記してますが、実はもう一枚あります。どちらにしても「処分」してしまったのは私自身悔やまれますが、特にネガも処分してしまったため「踏んだり蹴ったり」で過去の自分に「ウエスタン・ラリアット」でも食らわせたい気分です。
熊谷線訪問当時、私は中学生でした。確かに首都圏でこういったDCが存在したのは非常に珍しかったのですが、なにせ「少年」であったためあまり価値的な事がそれほどわかっておらず、ただ「廃止」という言葉に反応して訪問したに過ぎません。が、今となっては貴重な体験になっています。残った写真だけ見ても当時の思い出が甦ってくるので、こういう経験は理由はともかく、必ずした方が良いですね。
熊谷線の写真に関しては「ブログの写真で全部です」と記してますが、実はもう一枚あります。どちらにしても「処分」してしまったのは私自身悔やまれますが、特にネガも処分してしまったため「踏んだり蹴ったり」で過去の自分に「ウエスタン・ラリアット」でも食らわせたい気分です。
熊谷線訪問当時、私は中学生でした。確かに首都圏でこういったDCが存在したのは非常に珍しかったのですが、なにせ「少年」であったためあまり価値的な事がそれほどわかっておらず、ただ「廃止」という言葉に反応して訪問したに過ぎません。が、今となっては貴重な体験になっています。残った写真だけ見ても当時の思い出が甦ってくるので、こういう経験は理由はともかく、必ずした方が良いですね。
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新聞記事の白黒写真でしかちゃんと車両を見た事がなかったので、カラーで見る事が出来て本当に嬉しいです(^^)
地元の伝説では、熊谷を抜けて東上線と小泉線を繋げようとしてダメだったと聞いた事がありますが、もし開通していても双方向から高崎線に客を取られていた気がします。