1983年・春爛漫<青春18>⑥
2019-05-15
四国・高松では既に日付が変わっていた。しかし我々「中村夜行」に乗り昼間と同じような乗り換えを深夜未明に敢行しなければならない。「しなければならない」とは、実際問題、行程を考えたのは誰でも無い自分自身である。そんな行程は同行した相方もさぞ体力的に辛かったであろう。
まず深夜の琴平で中村夜行731Dの上りバージョン「764D」に乗り換える。琴平着1時53分、2時20分発。高松着が3時22分、宇高航路が3時52分発、宇野に4時52分着で乗り換える宇野線が5時4分発である。乗換時間をザッと列挙してみたが、もちろん寝ている暇がない。というより高松での列車接続がよくこんな時間に設定されているなと逆に関心してしまう。そして連絡船は宇野で宇野線の始発に接続する。これって乗客に「寝るな」と言っているようなものではないか?それに付き合う私も私であるが・・・
たが、これには深い事情がある。つまりこれは「岡山発(着)」の列車であると仮定して運転されているのだ。ただ、当時は瀬戸大橋が無いため途中は船になる。これがうまい具合に深夜未明の時間帯になるので高松や宇野では、ある意味人間の限界を超えた乗り換えが発生するわけだ。


(画像はウィキペディアより、現役時代の飾磨港。一応播但線に所属していたが、播但線全線通して運転される列車はなく、姫路で完全に分断されていた。つまり播但線ではなく「飾磨港線」として完全に別の路線となっていた。)
四国の夜行列車を旅籠とする考えであったが、結果的に痺れるような乗り換えを強いられるためある意味旅籠の役割をしないまま岡山に戻ってきたが、いっその事岡山で駅寝を敢行した方が効率が良かったのかもしれない。いや、駅寝を嫌う私にはこうした旅籠の選択はお似合いだったのか・・・しかし凄まじい旅籠であった。
さて、本日の行程は加古川線とそれから枝分かれする支線各種を制覇予定だ。しかし、なぜか播但線の一部区間を私は入れてなかった。これは接続の関係からであると思われるが、いつしか廃止されてしまい永遠に訪れる事ができなくなってしまった飾磨港駅。実は姫路~飾磨港まではかつて播但線の支線があった。現在も播但線は存在するが、それとはまったく異色の存在で際立って地味に目立つ存在であった。だが列車本数の関係からどう行程を組んでも組み入れることができなかったため「後回し」としたのであろう。この判断が後に響くとは・・・
そんな事を言ってもしょうがない。当時はただただ只管乗りつぶす事を最優先としていたため「楽しむ」みたいな事が出来なかったのであろう。


(国鉄時代に最初で最後の訪問となった三木線の各駅。加古川線とその枝線は実に接続がよく、乗り換えに非常に便利であった。現在、その枝線は廃止や三セク化などの変遷を辿ったが、我々の記憶に輝かしく刻まれている。)
当時非電化であった加古川線に乗り三木線、北条線、鍛冶屋線と制覇していく。特に三木線と鍛冶屋線は現在は無いため、貴重な体験となってしまったが、鍛冶屋線は西脇市の中心部にあった西脇駅があったため少々もったいない印象である。そして三木線に関しては、同じく北条線と一緒に第三セクター化されたが、残ったのは北条線だけになってしまった。
三木線に関しては途中「国包」で近代的な「カプセル駅舎」が話題となり将来の無人駅の姿を印象づけたが、現在では「貨車駅」が、特に北の国では定番となている。
終点の三木では付近に「電鉄三木」があるためひっそりとした印象であったが、とにかく私は「いい旅チャレンジ」の制覇路線が増えていくのが嬉しく、三木線の経営事情などほとんど分からない中学生であった。
そして厄神にもどり北条線を制覇。再び加古川線に乗り鍛冶屋線へ向かう。終点鍛冶屋では停車時間が約6分の為、入場券購入や「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するのに忙しい。しかし間に合わず発車の時間になってしまったため、走り出した列車から「証明写真撮影」という荒業にでた!結果的に成功したが、この「一か八か」の懸けに失敗していたら、証明写真を撮影するだけの為に再び訪れる事は出来なかったはずだ。ひとまず安心したが、再三加古川線に戻るのはかなりハードな行程だが、それを作ったのは誰でもない、自分自身である。
加古川線と枝分かれする支線との接続が良く、すんなり制覇に成功。若干粟生で1時間くらいの待ち時間があったが、これがいい調整時間となり、加古川線やその支線たちの奥深さを知る事になった。

経営母体は変わったものの、現在も頑張って営業している北条町。現在は国鉄時代から駅が100mくらい移転して新たな駅舎に生まれ変わった。
野村から加古川線で谷川まで行き福知山線に乗り換え、福知山から綾部経由で舞鶴線に乗り西舞鶴まで一気に駆け巡る。しかし、隣の東舞鶴まで行かないと舞鶴線の制覇とはならないため東舞鶴まで行くが、折り返す列車がなんと西舞鶴行き(か福知山行きだと思った)のDLが牽引する旧型客車だったのだ!だが隣の西舞鶴までしか乗れないなんて、もったいない。東舞鶴までは5~6分位しか乗れないのに、西舞鶴ではこれから1時間以上待って宮津線に乗り換える。なんと不憫な・・・この時、時計は夜七時を回っていた。この時間帯から宮津線とは・・・天橋立を車窓から眺めようと考えるが、ハッキリ言って日本三景は闇に包まれている事であろう。景色は完全にあきらめ普通に「いい旅チャレンジ」制覇のため宮津線で豊岡に向かうことにした。


(画像はウィキペディアより拝借した国鉄時代の東舞鶴駅舎(上)と、私撮影の西舞鶴駅名標。特に東舞鶴は近年に高架化されスッキリした印象である。跨線橋を使わずに乗り換えができ非常に便利になった、)
景色は見えなかったのは残念であるが、それより宮津線を制覇する事の方が大切であった。日本三景の「天橋立」とは、幻想的な名前であるが中学生の少年には全く分からない!日本有数の観光地を前にしてもこの少年は全く動じなかった。
さて、とうとう宮津線を豊岡まで乗り、宮津線の制覇となったわけだが、時計の針は22時30分をまわろうとしていた。こんな時間に豊岡に着いても乗り換える列車が無い。つまり「駅寝」をするか3時間待って夜行列車「山陰」に乗るか・・・当然の事ながら事前に計画しておいた「後者」の選択となるわけだが、こんな時間から夜行列車の乗るなんて・・・途轍もなく無謀な計画を組んだものだ。夜中の豊岡で何をしていろというのか。相方も文句ひとつ言わず良く付き合てくれたと思う。
3時間後、ようやく豊岡に姿を現した「山陰」であるが、深夜だというのにこれから私の予想をはるかに超えた事が起こったのだ。

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まず深夜の琴平で中村夜行731Dの上りバージョン「764D」に乗り換える。琴平着1時53分、2時20分発。高松着が3時22分、宇高航路が3時52分発、宇野に4時52分着で乗り換える宇野線が5時4分発である。乗換時間をザッと列挙してみたが、もちろん寝ている暇がない。というより高松での列車接続がよくこんな時間に設定されているなと逆に関心してしまう。そして連絡船は宇野で宇野線の始発に接続する。これって乗客に「寝るな」と言っているようなものではないか?それに付き合う私も私であるが・・・
たが、これには深い事情がある。つまりこれは「岡山発(着)」の列車であると仮定して運転されているのだ。ただ、当時は瀬戸大橋が無いため途中は船になる。これがうまい具合に深夜未明の時間帯になるので高松や宇野では、ある意味人間の限界を超えた乗り換えが発生するわけだ。


(画像はウィキペディアより、現役時代の飾磨港。一応播但線に所属していたが、播但線全線通して運転される列車はなく、姫路で完全に分断されていた。つまり播但線ではなく「飾磨港線」として完全に別の路線となっていた。)
四国の夜行列車を旅籠とする考えであったが、結果的に痺れるような乗り換えを強いられるためある意味旅籠の役割をしないまま岡山に戻ってきたが、いっその事岡山で駅寝を敢行した方が効率が良かったのかもしれない。いや、駅寝を嫌う私にはこうした旅籠の選択はお似合いだったのか・・・しかし凄まじい旅籠であった。
さて、本日の行程は加古川線とそれから枝分かれする支線各種を制覇予定だ。しかし、なぜか播但線の一部区間を私は入れてなかった。これは接続の関係からであると思われるが、いつしか廃止されてしまい永遠に訪れる事ができなくなってしまった飾磨港駅。実は姫路~飾磨港まではかつて播但線の支線があった。現在も播但線は存在するが、それとはまったく異色の存在で際立って地味に目立つ存在であった。だが列車本数の関係からどう行程を組んでも組み入れることができなかったため「後回し」としたのであろう。この判断が後に響くとは・・・
そんな事を言ってもしょうがない。当時はただただ只管乗りつぶす事を最優先としていたため「楽しむ」みたいな事が出来なかったのであろう。


(国鉄時代に最初で最後の訪問となった三木線の各駅。加古川線とその枝線は実に接続がよく、乗り換えに非常に便利であった。現在、その枝線は廃止や三セク化などの変遷を辿ったが、我々の記憶に輝かしく刻まれている。)
当時非電化であった加古川線に乗り三木線、北条線、鍛冶屋線と制覇していく。特に三木線と鍛冶屋線は現在は無いため、貴重な体験となってしまったが、鍛冶屋線は西脇市の中心部にあった西脇駅があったため少々もったいない印象である。そして三木線に関しては、同じく北条線と一緒に第三セクター化されたが、残ったのは北条線だけになってしまった。
三木線に関しては途中「国包」で近代的な「カプセル駅舎」が話題となり将来の無人駅の姿を印象づけたが、現在では「貨車駅」が、特に北の国では定番となている。
終点の三木では付近に「電鉄三木」があるためひっそりとした印象であったが、とにかく私は「いい旅チャレンジ」の制覇路線が増えていくのが嬉しく、三木線の経営事情などほとんど分からない中学生であった。
そして厄神にもどり北条線を制覇。再び加古川線に乗り鍛冶屋線へ向かう。終点鍛冶屋では停車時間が約6分の為、入場券購入や「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するのに忙しい。しかし間に合わず発車の時間になってしまったため、走り出した列車から「証明写真撮影」という荒業にでた!結果的に成功したが、この「一か八か」の懸けに失敗していたら、証明写真を撮影するだけの為に再び訪れる事は出来なかったはずだ。ひとまず安心したが、再三加古川線に戻るのはかなりハードな行程だが、それを作ったのは誰でもない、自分自身である。
加古川線と枝分かれする支線との接続が良く、すんなり制覇に成功。若干粟生で1時間くらいの待ち時間があったが、これがいい調整時間となり、加古川線やその支線たちの奥深さを知る事になった。

経営母体は変わったものの、現在も頑張って営業している北条町。現在は国鉄時代から駅が100mくらい移転して新たな駅舎に生まれ変わった。
野村から加古川線で谷川まで行き福知山線に乗り換え、福知山から綾部経由で舞鶴線に乗り西舞鶴まで一気に駆け巡る。しかし、隣の東舞鶴まで行かないと舞鶴線の制覇とはならないため東舞鶴まで行くが、折り返す列車がなんと西舞鶴行き(か福知山行きだと思った)のDLが牽引する旧型客車だったのだ!だが隣の西舞鶴までしか乗れないなんて、もったいない。東舞鶴までは5~6分位しか乗れないのに、西舞鶴ではこれから1時間以上待って宮津線に乗り換える。なんと不憫な・・・この時、時計は夜七時を回っていた。この時間帯から宮津線とは・・・天橋立を車窓から眺めようと考えるが、ハッキリ言って日本三景は闇に包まれている事であろう。景色は完全にあきらめ普通に「いい旅チャレンジ」制覇のため宮津線で豊岡に向かうことにした。


(画像はウィキペディアより拝借した国鉄時代の東舞鶴駅舎(上)と、私撮影の西舞鶴駅名標。特に東舞鶴は近年に高架化されスッキリした印象である。跨線橋を使わずに乗り換えができ非常に便利になった、)
景色は見えなかったのは残念であるが、それより宮津線を制覇する事の方が大切であった。日本三景の「天橋立」とは、幻想的な名前であるが中学生の少年には全く分からない!日本有数の観光地を前にしてもこの少年は全く動じなかった。
さて、とうとう宮津線を豊岡まで乗り、宮津線の制覇となったわけだが、時計の針は22時30分をまわろうとしていた。こんな時間に豊岡に着いても乗り換える列車が無い。つまり「駅寝」をするか3時間待って夜行列車「山陰」に乗るか・・・当然の事ながら事前に計画しておいた「後者」の選択となるわけだが、こんな時間から夜行列車の乗るなんて・・・途轍もなく無謀な計画を組んだものだ。夜中の豊岡で何をしていろというのか。相方も文句ひとつ言わず良く付き合てくれたと思う。
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