廃止路線を訪ねて④ 清水港線(リメイク版)<後編>
2015-05-24
何の工場かは分からないが、線路の両脇を壁のように固められ、更に引込み線が次から次へと枝を別れしていく。2両の客車はいうまでも無く「おまけ」であるが、そのおまけに乗車していた客は約170人ほどで、乗車率に換算すると40%くらいになる、と部長がデータを残していた。一応学校は春休みであるので学生は僅少である。では誰が乗っているのか・・・もうお分かりであろう、私の様な物好き連中である。そんな列車は、最初の停車駅「清水埠頭」に到着。工場と工場の間に、辛うじてスペースを見つけたかのような造りだ。乗降客は皆無!やがて何事も無かったように列車は動き出した。

僅かなスペースに造られた清水埠頭「駅」。工場群に挟まれ引き込み線感満載であるが、基本的に乗客はほとんどが折戸の高校までの乗車なので、こちらはほとんどゼロに近いイメージであった。
先ほど混合列車ということには触れたが、旧型客車の中間車両のため、最後尾は連結部の通路がむき出しになっており、一歩間違えば「あの世への招待」である。しかしここから観る景色は実にスリリングで、いわゆる「逆かぶりつき」が体験できる。そんな中、全国でも珍しい「可動橋」を渡る。その名の通り「動く橋」で、舟が通るときは橋が上に上がり船が通れるという仕組みだ。鉄道可動橋は当時、この清水港線と九州の佐賀線(1987年に廃止)の2箇所あり、その存在感を示していた。現在清水港線の可動橋は無くなってしまったが、佐賀線の可動橋は現在も国の重要文化財として残されており、列車は通らないものの、歩道として現役で活躍している。

(清水港線にあった可動橋。撮影技術は当時中学生であったのでその辺をご了承頂きたいが、この可動橋は当時九州にある佐賀線のそれと共に貴重な存在であった。)
可動橋を渡るとすぐにレールを左右に分け、巴川口に8時17分56秒に到着した。貨物用の側線が沢山あり、いかにも「貨物駅」の佇まいである。8時20分35秒に発車したのだから約2分半停車していたことになる。勿論乗降客は皆無に等しい。やがて景色は住宅街へと変化しつつあり、町並みも人間臭くなってきた、などと中学生なりにジャーナリスト気分で取材をしていたら、突然「キキーッ」と鉄の摩擦音と共に体を進行方向に持って行かれた。すぐさま車掌が先頭に向って走り出した。車内にはただならぬ緊張感が走る。しばらくして戻ってきた車掌に一言二言尋ねると「踏切で車が飛び出してきて衝突しそうになった」そうだ。取りあえず「しそうになった」で済んだのでホッと一安心していたら、すぐさま三保に到着。ホームに足を降ろした瞬間に感じたが、ホームには点字ブロックや白線などの「設備」は無く、砂利を盛り上げただけのホームは「日本三大松原」を控え、観光路線として活躍できるとは到底思えなかった。

(巴川口は貨物側線も多く存在し構内は広い。私の感覚であるが、清水港線の中で最も清水港線「らしい」駅であったと思う。木造駅舎の存在もキラリと光っていた。)
「平日は400人ぐらいで殆んどが高校生だ。休日になると80人位に減る。その乗客はほぼ“物好き”になる」と、ホームで一息ついてた車掌の弁。更に「清水港線もそう(営業的に)長くは無いだろう」と付け加えた。実に感慨深く、重く貴重な「現場の声」であったと思うが、中学生のぺーぺーにしてみたらなんて事はない、というより意味がわからない。というより、当時の事を今の私が振り返って初めて「重み」を感じたものだ。
そして鉄道設備をカメラに収めるのに飽きてきた頃、並走する路線バスで清水に帰る時間となった。時刻表を見ると、何と1日150~200本くらいの時刻が書かれていた。この地区の主役は路線バスだ。清水港線の存在意義を疑われるものだが、バスに比べ運賃の安い国鉄は高校生の「必需品」となっている。しかし私の様な「物好き」は、まるで骨董品でも扱うかのようにここに訪れるのであるが、地元民に利用されてこそ鉄道としての価値が出てくるのが本来の姿であろう。三保駅の駅舎を見つめながら、なんとなく清水港線を制覇した達成感を中学生なりに感じ、三保駅を後にした。

(終点の三保駅舎。現在駅舎は取り壊されているが、ホームはまだ現存する!)
あれから20年以上経過し、再びこの地に訪れる機会があった。勿論清水港線の姿はない。あれだけ広かった清水駅の構内も、現在では旅客設備に必用最低限のスペースに縮小されてしまった。更に清水港線のホームや貨物側線も既に撤去されてしまいロータリーなどに転用されかつての面影は無い。しかし三保に向けて車を走らせると、一部不自然な空き地と遊歩道があり、そこに鉄道の歴史が存在した事を無言で語りかけていた。そして、記憶に刻み込まれていたかつての勇姿は確かなものへと変化し、その時代に生きて清水港線と時間を共有できた事を誇りにさえ思えるようになっていた。

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僅かなスペースに造られた清水埠頭「駅」。工場群に挟まれ引き込み線感満載であるが、基本的に乗客はほとんどが折戸の高校までの乗車なので、こちらはほとんどゼロに近いイメージであった。
先ほど混合列車ということには触れたが、旧型客車の中間車両のため、最後尾は連結部の通路がむき出しになっており、一歩間違えば「あの世への招待」である。しかしここから観る景色は実にスリリングで、いわゆる「逆かぶりつき」が体験できる。そんな中、全国でも珍しい「可動橋」を渡る。その名の通り「動く橋」で、舟が通るときは橋が上に上がり船が通れるという仕組みだ。鉄道可動橋は当時、この清水港線と九州の佐賀線(1987年に廃止)の2箇所あり、その存在感を示していた。現在清水港線の可動橋は無くなってしまったが、佐賀線の可動橋は現在も国の重要文化財として残されており、列車は通らないものの、歩道として現役で活躍している。

(清水港線にあった可動橋。撮影技術は当時中学生であったのでその辺をご了承頂きたいが、この可動橋は当時九州にある佐賀線のそれと共に貴重な存在であった。)
可動橋を渡るとすぐにレールを左右に分け、巴川口に8時17分56秒に到着した。貨物用の側線が沢山あり、いかにも「貨物駅」の佇まいである。8時20分35秒に発車したのだから約2分半停車していたことになる。勿論乗降客は皆無に等しい。やがて景色は住宅街へと変化しつつあり、町並みも人間臭くなってきた、などと中学生なりにジャーナリスト気分で取材をしていたら、突然「キキーッ」と鉄の摩擦音と共に体を進行方向に持って行かれた。すぐさま車掌が先頭に向って走り出した。車内にはただならぬ緊張感が走る。しばらくして戻ってきた車掌に一言二言尋ねると「踏切で車が飛び出してきて衝突しそうになった」そうだ。取りあえず「しそうになった」で済んだのでホッと一安心していたら、すぐさま三保に到着。ホームに足を降ろした瞬間に感じたが、ホームには点字ブロックや白線などの「設備」は無く、砂利を盛り上げただけのホームは「日本三大松原」を控え、観光路線として活躍できるとは到底思えなかった。

(巴川口は貨物側線も多く存在し構内は広い。私の感覚であるが、清水港線の中で最も清水港線「らしい」駅であったと思う。木造駅舎の存在もキラリと光っていた。)
「平日は400人ぐらいで殆んどが高校生だ。休日になると80人位に減る。その乗客はほぼ“物好き”になる」と、ホームで一息ついてた車掌の弁。更に「清水港線もそう(営業的に)長くは無いだろう」と付け加えた。実に感慨深く、重く貴重な「現場の声」であったと思うが、中学生のぺーぺーにしてみたらなんて事はない、というより意味がわからない。というより、当時の事を今の私が振り返って初めて「重み」を感じたものだ。
そして鉄道設備をカメラに収めるのに飽きてきた頃、並走する路線バスで清水に帰る時間となった。時刻表を見ると、何と1日150~200本くらいの時刻が書かれていた。この地区の主役は路線バスだ。清水港線の存在意義を疑われるものだが、バスに比べ運賃の安い国鉄は高校生の「必需品」となっている。しかし私の様な「物好き」は、まるで骨董品でも扱うかのようにここに訪れるのであるが、地元民に利用されてこそ鉄道としての価値が出てくるのが本来の姿であろう。三保駅の駅舎を見つめながら、なんとなく清水港線を制覇した達成感を中学生なりに感じ、三保駅を後にした。

(終点の三保駅舎。現在駅舎は取り壊されているが、ホームはまだ現存する!)
あれから20年以上経過し、再びこの地に訪れる機会があった。勿論清水港線の姿はない。あれだけ広かった清水駅の構内も、現在では旅客設備に必用最低限のスペースに縮小されてしまった。更に清水港線のホームや貨物側線も既に撤去されてしまいロータリーなどに転用されかつての面影は無い。しかし三保に向けて車を走らせると、一部不自然な空き地と遊歩道があり、そこに鉄道の歴史が存在した事を無言で語りかけていた。そして、記憶に刻み込まれていたかつての勇姿は確かなものへと変化し、その時代に生きて清水港線と時間を共有できた事を誇りにさえ思えるようになっていた。

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コメント
風旅記様
コメントありがとうございます。
国鉄時代、多くのローカル線が廃止されたのは周知の通りですが、この清水港線の例に漏れず典型的な赤字路線でした。
私の清水港線訪問当時は、いわゆる経営的な事情や細かい歴史などはわかりませんでしたが、とにかくこの清水港線は1日1往復の列車設定から特に際立った存在でした。いつかは乗りたいと思っていたことを実現させたわけですが、今の私がタイムマシンに乗り当時の清水港線を体験したら、また違った記事がかけたかも知れません。
とは言え、とにかく貨物の引き込み線のような存在であったにも関わらず「旅客」があったのは折戸にある高校の存在が大きかったようで、実質「スクールトレイン」でした。そんな列車で通学できた高校生達が実に羨ましいです。
国鉄時代、多くのローカル線が廃止されたのは周知の通りですが、この清水港線の例に漏れず典型的な赤字路線でした。
私の清水港線訪問当時は、いわゆる経営的な事情や細かい歴史などはわかりませんでしたが、とにかくこの清水港線は1日1往復の列車設定から特に際立った存在でした。いつかは乗りたいと思っていたことを実現させたわけですが、今の私がタイムマシンに乗り当時の清水港線を体験したら、また違った記事がかけたかも知れません。
とは言え、とにかく貨物の引き込み線のような存在であったにも関わらず「旅客」があったのは折戸にある高校の存在が大きかったようで、実質「スクールトレイン」でした。そんな列車で通学できた高校生達が実に羨ましいです。
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貨物輸送が段々と下火になり、こちらの路線も廃止されてしまったのでしょうね。国鉄の最後の期間まで、古い輸送携帯の残っていた路線だけに、時代さえ合えば訪ねてみたかった路線です。
旧型の客車も、くたびれつつも最後まで地域輸送に活躍したのだと思いますが、ローカル線でも気動車が更新されていた時代に入ってからは珍しかったものと思います。
バスの方が街の中をこまめに周り、便利なのかもしれませんが、この路線も今の時代ならばLRT化するなどして、飛躍できていたかもしれないと想像すれば、廃止は残念に感じられます。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc