姿なき挑戦者⑥ 普通夜行列車「山陰」
2013-08-19
1982年3月、私は中学1年から2年へのステップアップの春休みに登場した「青春18」。普通列車限定のこの切符は、国鉄全線全駅にこの切符で辿り着けることができ、「18」の登場がものすごく斬新な出来事であった。そしてこの切符が私に「普通夜行列車」「旧型客車列車」の存在を教えてくれた。1980年より始まった「いい旅チャレンジ20000km」の人気に、さらに拍車をかけたのがこの青春18であるが、当時「ブルトレ少年」であった私は、自身の所属している学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」の活動の一環として青春18を駆使し西日本方面へ旅に出るとは、予想もしなかった。なぜそうなったかは覚えていないが、おそらく顧問の教諭が働きかけたのであろう。時刻表を「愛読書」とする私に「工程作り」の白羽の矢が立ったのである。

(PHOTO:1980JNR.com)
そして私が旅の行程を決定するという、実に責任重大な作業に取り掛かる事となったわけだが、最終的に「顧問」があれやこれやと口を出し、決定したのが「私の旅の乗車記録」にも紹介されている1982年3月の旅である。そして6日間の行程の中で「宿代わり」としてお世話になったのが「山陰」であった。当時、山陰本線と言えば、というより全国的に一部の幹線と言えば電気機関車やディーゼル機関車に牽引される客車列車が主流であり、山陰本線も例外ではなかった。そして夜になると大阪発の夜行急行「だいせん」と共に、普通夜行列車「山陰」が京都発で設定されていた。初「18」シーズンとあってか、軒並み普通夜行列車は満員御礼で、座席を確保するのに始発駅で1~2時間待ちは当然の覚悟であり、私も例外なくセオリー通りに予定を組んだ。

(PHOTO:1980JNR.com)
普通列車ながら愛称があるのは寝台車が連結されているからで、当時は10系寝台車が1両連結されていたが、私は当然「18」のため寝台料金はおろか運賃まで別料金となってしまうため乗車できなかった・・・のは残念である。
さて、私たちは「鉄道研究クラブ」なる中学校のクラブ活動の一環として青春18を握りしめ、京都に着いたのが20時半。22時4分発の夜行列車「山陰」に乗車の為ホームに順番待ちの代表1名を残し、他の5人は駅を撮影したり入場券を買いに行ったり、はたまた食料を買い込んだりと、思い思いの時間を過ごしていた。もちろん順番待ちは交代制である。

(PHOTO:1980JNR.com)
順番待ちの作戦も実り、全員が着席することができたのを確認すると一安心。早速今夜の「宿」で体を休める体制に入る、と言っても中学生。この旧型客車の価値みたいなのが分かっているのかいないのか、只管菓子に手を突っ込んでいたが、流石に睡魔が襲ったか、無意識のうちに園部や福知山など過ぎていた。
安栖里と立木の間で日付が変わったものの、そんな事一切気づくはずもなく、気が付けば鳥取付近にいた。「餘部鉄橋」等、まだ朝靄に濡れ美しさがあふれていたろうが、全くその景色を共有することができず、我ひとり「ゴーイング・マイウェイ」であった。
鳥取でかなり下車客があり座席に余裕ができた。もちろん乗車組もおられるが、下車客と乗車客の足し算引き算をすると空席の数が多いという事だ。恐らく普段とは違うこの列車の「乗車率」は地元の方にとっては通常の風景ではなかったはずだ。要するに「青春18現象」とでも言おうか、通常でない乗客が乗車率の跳ね上げに貢献しているのが分かる。

(PHOTO:1980JNR.com)
倉吉を過ぎ大山口付近では、一行は完全に「活動体勢」となっており、全員が「水を得た魚」状態であった記憶であるが、その大山口では、列車交換のわずかな時間でも入場券を買いに情熱を燃やす青年たちであった。米子でかなり乗客が下車し、鳥取よりも座席に余裕ができてひとりワンボックスでも良いくらいにまで成長した。やはり下車した「その道の人」は境線や伯備線へと散って行ったのであろう「いい旅チャレンジ20000km」連中であったに間違いない。と言っても私も「いい旅~」の一部を構成しており、他人の事は言えた義理ではないが、その私は、というより私たち御一行は宍道で下車した。ということはここから木次線に乗り換えるという事である。

(PHOTO:1980JNR.com)
普通夜行列車「山陰」は出雲市まで行くが私たちは宍道での下車は前述の通り。私が訪問した時は伯備線の電化直前で、嵩上げされた真新しいホームが米子や松江で見受けられた。もちろん下車した宍道でも。で、私はその電化直後の1982年7月にもこの地を訪れている。今度は上り「山陰」に乗るためだ。当時、山陰本線に機関車が牽引する客車と一緒に電車化された普通列車が共存している姿は非常に複雑な風景に映った。普段私が見ていた「東海道線」がここ、山陰本線にも登場したのだ。115系の編成は短いが、既に「時代の流れ」の変化のプロローグでもあった。
現在は電車の方が当たり前の風景となったが、「サンライズ」で降り立って見る「それ」とは違う。京都から旧型客車に揺られ遥々やって来た見知らぬ土地で迎える朝はひと際新鮮だ。宍道のホームでとりあえず両手を上げ伸びのポーズを決めると、別のホームに来る木次線の車両に気持ちが逸る。これは、普通列車でしか味わえない、別の意味での「サンライズ」なのであろうか?
今回の山陰の記事の写真については、すべて「1980年代国鉄撮影日記」の管理人でいらっしゃる「mgpc64」様にご協力いただきました。大変感謝しておりますと同時に、この場を借りてお礼申し上げます。

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(PHOTO:1980JNR.com)
そして私が旅の行程を決定するという、実に責任重大な作業に取り掛かる事となったわけだが、最終的に「顧問」があれやこれやと口を出し、決定したのが「私の旅の乗車記録」にも紹介されている1982年3月の旅である。そして6日間の行程の中で「宿代わり」としてお世話になったのが「山陰」であった。当時、山陰本線と言えば、というより全国的に一部の幹線と言えば電気機関車やディーゼル機関車に牽引される客車列車が主流であり、山陰本線も例外ではなかった。そして夜になると大阪発の夜行急行「だいせん」と共に、普通夜行列車「山陰」が京都発で設定されていた。初「18」シーズンとあってか、軒並み普通夜行列車は満員御礼で、座席を確保するのに始発駅で1~2時間待ちは当然の覚悟であり、私も例外なくセオリー通りに予定を組んだ。

(PHOTO:1980JNR.com)
普通列車ながら愛称があるのは寝台車が連結されているからで、当時は10系寝台車が1両連結されていたが、私は当然「18」のため寝台料金はおろか運賃まで別料金となってしまうため乗車できなかった・・・のは残念である。
さて、私たちは「鉄道研究クラブ」なる中学校のクラブ活動の一環として青春18を握りしめ、京都に着いたのが20時半。22時4分発の夜行列車「山陰」に乗車の為ホームに順番待ちの代表1名を残し、他の5人は駅を撮影したり入場券を買いに行ったり、はたまた食料を買い込んだりと、思い思いの時間を過ごしていた。もちろん順番待ちは交代制である。

(PHOTO:1980JNR.com)
順番待ちの作戦も実り、全員が着席することができたのを確認すると一安心。早速今夜の「宿」で体を休める体制に入る、と言っても中学生。この旧型客車の価値みたいなのが分かっているのかいないのか、只管菓子に手を突っ込んでいたが、流石に睡魔が襲ったか、無意識のうちに園部や福知山など過ぎていた。
安栖里と立木の間で日付が変わったものの、そんな事一切気づくはずもなく、気が付けば鳥取付近にいた。「餘部鉄橋」等、まだ朝靄に濡れ美しさがあふれていたろうが、全くその景色を共有することができず、我ひとり「ゴーイング・マイウェイ」であった。
鳥取でかなり下車客があり座席に余裕ができた。もちろん乗車組もおられるが、下車客と乗車客の足し算引き算をすると空席の数が多いという事だ。恐らく普段とは違うこの列車の「乗車率」は地元の方にとっては通常の風景ではなかったはずだ。要するに「青春18現象」とでも言おうか、通常でない乗客が乗車率の跳ね上げに貢献しているのが分かる。

(PHOTO:1980JNR.com)
倉吉を過ぎ大山口付近では、一行は完全に「活動体勢」となっており、全員が「水を得た魚」状態であった記憶であるが、その大山口では、列車交換のわずかな時間でも入場券を買いに情熱を燃やす青年たちであった。米子でかなり乗客が下車し、鳥取よりも座席に余裕ができてひとりワンボックスでも良いくらいにまで成長した。やはり下車した「その道の人」は境線や伯備線へと散って行ったのであろう「いい旅チャレンジ20000km」連中であったに間違いない。と言っても私も「いい旅~」の一部を構成しており、他人の事は言えた義理ではないが、その私は、というより私たち御一行は宍道で下車した。ということはここから木次線に乗り換えるという事である。

(PHOTO:1980JNR.com)
普通夜行列車「山陰」は出雲市まで行くが私たちは宍道での下車は前述の通り。私が訪問した時は伯備線の電化直前で、嵩上げされた真新しいホームが米子や松江で見受けられた。もちろん下車した宍道でも。で、私はその電化直後の1982年7月にもこの地を訪れている。今度は上り「山陰」に乗るためだ。当時、山陰本線に機関車が牽引する客車と一緒に電車化された普通列車が共存している姿は非常に複雑な風景に映った。普段私が見ていた「東海道線」がここ、山陰本線にも登場したのだ。115系の編成は短いが、既に「時代の流れ」の変化のプロローグでもあった。
現在は電車の方が当たり前の風景となったが、「サンライズ」で降り立って見る「それ」とは違う。京都から旧型客車に揺られ遥々やって来た見知らぬ土地で迎える朝はひと際新鮮だ。宍道のホームでとりあえず両手を上げ伸びのポーズを決めると、別のホームに来る木次線の車両に気持ちが逸る。これは、普通列車でしか味わえない、別の意味での「サンライズ」なのであろうか?
今回の山陰の記事の写真については、すべて「1980年代国鉄撮影日記」の管理人でいらっしゃる「mgpc64」様にご協力いただきました。大変感謝しておりますと同時に、この場を借りてお礼申し上げます。

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