東北乗り潰しの旅②(リメイク版)
2012-11-28
陸羽東線で小牛田へ行き、気仙沼線と大船渡線で盛に着いた。半日で日本海側から太平洋側へと縦断、いや、横断した。盛からは当時「岩手開発鉄道」が旅客営業をしていたが、運転本数が少なく制覇せずにそのまま盛線(当時)に乗った。今考えたら悔しい思いでいっぱいだが、岩手開発鉄道は貨物営業を現在も続けているため路線自体は残っているのが嬉しい。盛線に関しては、現在は「南リアス線」として第2の人生を歩んでいる。盛線制覇当時は、確かに延伸工事はしていたが、本当に実現するのかは「?」であった。しかし、レールはつながり「第3セクターの模範」と言われた時代もあった。20年以上経過した現在「例に漏れず」ハジけたバブルと少子高齢化と共に乗客は減少の一途を辿ってる。しかし、盛線の終点「吉浜」に着いた時の鉄路の先にある光景は、確かに明るい未来を目指していた。そんな盛線に別れを惜しみつつ、今度は折り返し大船渡線で一ノ関に出た。そして東北本線で北上に出て、北上線で横手に着いた。既に9時10分前であり、そろそろ「床」に着く時間であるが、これからの予定は急行「おが」に乗り深夜の乗換えをして山形に戻ってくる予定であった。しかし深夜の乗り換えは今回の旅において「トラウマ」状態で、深夜の乗り換えの自信が若干揺らいだため、無難に山形で下車し、始発まで「待たせて」もらう事にした。という事で山形に着いたのは深夜0時55分。左沢線の制覇予定であるが、次の列車は始発の6時7分である。約5時間の待ち合わせだ。

(東北本線の普通列車は旧型客車から順次50系に置き換えられていった。写真は盛岡にて。)
翌朝、しっかりと始発に間に合う心地よい目覚めであった。早速列車に乗り込むが、下り列車のためほぼ回送状態だ。左沢線を制覇し、山形から仙山線で仙台へ向った。全線電化路線だが、電気機関車の牽引する「客車列車」が走っている。勿論、事前調査通りにこの列車に乗車。仙山線は仙台と山形を結ぶ都市路線であるが、ひと山ふた山越えるため、実際はローカル色濃い路線である。そのため山形方は山肌や生い茂る草木が窓際まで迫り来る。仙台に近づくにつれ文明色がにじみ出てくる。仙台より仙石線に乗り換え石巻に行く予定だ。またも半日で景色が一転してしまう忙しい旅である。仙石線のホームは他の路線のホームとはやや離れてた、と言うより独立してた。これは、かつて仙石線は私鉄であった名残である。現在は地下化され、仙台より若干延伸され「あおば通」が終点となり、地下鉄との乗換えを便利にした。そんな仙台を離れ、仙石線で一路石巻へ。東北地方の電化路線は交流区間ばかりだが、唯一仙石線のみ直流のため、首都圏からの「お下がり」である101系が走っている。途中、松島付近はいわゆる「日本三景」を控えており、それらの乗客も無くはないが、いかんせん「ロングシート」では旅情たるものが薄らぐような・・・東塩釜で複線区間は終了し石巻までは単線だ。終点石巻に着き石巻線に乗り換えるが、仙石線と石巻線の駅は200~300m離れており乗り換えには不便であった。これは先ほど述べたように前身が私鉄であったためだが、現在は石巻線側に統一され難なく乗り換えできるようになったが、統一前の石巻駅を体験できただけでも貴重な思い出の1ページとなった。とは言え、実はこの日は雨・・・降りしきる雨の中、小走りに石巻線に乗り込んだ。女川で折り返し、小牛田に出て石巻線を制覇し次は東北本線で槻木から丸森線を制覇。現在は「阿武隈急行」として活躍している第三セクター路線だが、当時は槻木~丸森までの盲腸線に過ぎなかった。再び東北本線で利府に向かい「支線」を制覇し白石へ向った。東北本線の上下線を行ったり来たりである。この時点でもう23時を回ってる。今夜の宿となる「八甲田」に乗るためわざわざ白石に出たわけだ。そして盛岡で降りて釜石線を制覇する訳だが、盛岡到着はなんと3時14分!釜石線は始発の5時19分。何とも無謀な乗り換えであるが、まだまだ東北制覇は終わらない・・・

(「はつかり」は583系と485系の2本立てであった。今回の東北の旅では583系版には乗車できず・・・写真は八戸にて撮影。)
盛岡より釜石線の始発で一気に宮古まで行き宮古線を制覇した後、山田線で再び盛岡に戻る予定だ。宮古線といえば、現在は「三陸鉄道」として活躍しているが、当時はまだ途中の「田老」までしか開通しておらず、田老より先の延伸を心待ちしていた。山田線は、途中に山越えがあり、かつてスイッチバック駅であった「大志田」や「浅岸」を通り過ぎた。実は私の行った時は「時既に遅し」で、前年のダイヤ改正でスイッチバックは解消されてしまった。しかし「残骸」はまだ残っており、一瞬に通過してしまったが、しっかりと目に焼きつけ「いつか必ず・・・」と心に誓った。帰省客をいっぱい乗せた山田線で盛岡に到着。ここから花輪線に乗り換え大館を目指す。花輪線と言えば、十和田南で「スイッチバック」がある。配線がどうなってるのか楽しみであったので、2時間のインターバルの後、勇んで花輪線に乗車。やはり帰省ラッシュで車内は超満員だ。何とかボックスシートを確保したが、予告無く睡魔が襲ってきた・・・ふと気が付くと陸中花輪(当時)付近を走っており、「十和田南」は残念ながら文字通り「夢」となってしまった・・・

(夜も真昼も列車で過ごす毎日の中、秋田駅では普段会えないこんな列車と遭遇。当時は数少ない「寝台急行」だ。)
いつの間にか、満員だった車内も既に人影は無く、ボックスシートで同じ席だった家族が席を移り変わり、そちらでトランプなどやってくつろいでいた。悔しい思いを胸に抱きながら大館に到着。そして急行「むつ」で青森に出た。時刻は21時ちょうどである。ここから今夜の宿となる「八甲田」の出発まで約3時間あるので、事前に駅前付近を「物色」しておいた「煙突」に向う。そう、「銭湯」である。そういえば、家を出て以来風呂に入っていない・・・ずっと列車に乗りっ放しである。当時はインターネットなどは普及しておらず、予め銭湯のありそうな駅を物色しておいて計画に落とし込んでいた。そして、実際に駅付近の街並みの中から「煙突」を探すのだ。これぞ「銭湯」の有りかである。青森は、駅の「裏口」にそれを見つけた。表口とは違い、裏口の駅前は何とも下町チックな風情が漂う。連絡船の桟橋が間近にあり、汽笛が鳴り響く港町の香りがたっぷりの「駅前一等地」の一角に、目指す銭湯は顔を出した。下駄の音をカラコロ響かせながら暖簾をくぐりたい気分であったが、なにせこちらは旅の途中。列車の出発時刻まで時間はあるものの、銭湯の閉店時間まで40分も無かった。私は即刻体を洗い流し、シャボンの香りを漂わせながら再び青森駅へ戻った。しかし「八甲田」の出発時刻まで約2時間近くある。さて、何をしようかと思っていたら10時半頃「八甲田」が入線してきた。これは嬉しい限りである!出発まで1時間半ほどホームに滞在してくれる。盛岡に2時49分に下車予定のため約4時間の休憩時間が出来た。「よし、汗も洗い流した事だし、今夜はじっくり寝るぞ!」と心に決め夢見心地のまま盛岡目指した。もう慣れたものだ。

(酒田か坂町での「白鳥」。当時は大阪~青森を結ぶ特急列車であった。)
乗り換え駅に近付くと、ちゃんと目が覚める。盛岡より今度は下りの急行「八甲田」に乗り換え再び東北本線を青森方面に折り返して八戸を目指した。今回の旅は、こんな感じで深夜の乗換えを繰り返し宿代をかけずに旅をするスタイルであった。やがて八戸に到着。ここより八戸線と久慈線を制覇し普代に着いた。久慈線とは、現在の「三陸鉄道」である。今回の旅日記では再三顔を出す会社名だが、それこそ当時は未開通で盲腸線ばかりであったのがお分かりであろう。しかし今回は普代から先は折り返さず、国鉄バスを使い、未開通の「三陸鉄道」を代替するのだ。北山崎展望台で乗り換え、今度は「岩泉」を目指し、岩泉線制覇の予定だ。岩泉は「龍泉洞」なる観光地を控えているが、列車本数が少なく、鉄道利用はほぼ皆無に近いであろう。しかし、延伸予定では岩泉から先、現三陸鉄道の小本までで、三陸の海岸から短絡できる予定なのだが、岩泉線は日本有数の「不採算路線」で知られており、例え延伸部分が開通したとしても赤字経営間違え無しであろう。その名の通り、岩泉駅は超山の中である。1時間半のインターバルの後、茂市目指して出発したが、とにかく山しかない。途中「押角」は、簡易ホームのみで、屋根や待合室など当然無く、辺りは民家の「み」の字も見当たらない。僅かに駅付近の狭いスペースにスイッチバックの痕跡を見つけ、地味ながらも盛栄の時期が存在した事を物語っていた。茂市より山田線で盛岡に抜け、更に田沢湖線を特急「たざわ」で制覇し、大曲より急行「おが」で今夜の宿となる山形に向った。

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(東北本線の普通列車は旧型客車から順次50系に置き換えられていった。写真は盛岡にて。)
翌朝、しっかりと始発に間に合う心地よい目覚めであった。早速列車に乗り込むが、下り列車のためほぼ回送状態だ。左沢線を制覇し、山形から仙山線で仙台へ向った。全線電化路線だが、電気機関車の牽引する「客車列車」が走っている。勿論、事前調査通りにこの列車に乗車。仙山線は仙台と山形を結ぶ都市路線であるが、ひと山ふた山越えるため、実際はローカル色濃い路線である。そのため山形方は山肌や生い茂る草木が窓際まで迫り来る。仙台に近づくにつれ文明色がにじみ出てくる。仙台より仙石線に乗り換え石巻に行く予定だ。またも半日で景色が一転してしまう忙しい旅である。仙石線のホームは他の路線のホームとはやや離れてた、と言うより独立してた。これは、かつて仙石線は私鉄であった名残である。現在は地下化され、仙台より若干延伸され「あおば通」が終点となり、地下鉄との乗換えを便利にした。そんな仙台を離れ、仙石線で一路石巻へ。東北地方の電化路線は交流区間ばかりだが、唯一仙石線のみ直流のため、首都圏からの「お下がり」である101系が走っている。途中、松島付近はいわゆる「日本三景」を控えており、それらの乗客も無くはないが、いかんせん「ロングシート」では旅情たるものが薄らぐような・・・東塩釜で複線区間は終了し石巻までは単線だ。終点石巻に着き石巻線に乗り換えるが、仙石線と石巻線の駅は200~300m離れており乗り換えには不便であった。これは先ほど述べたように前身が私鉄であったためだが、現在は石巻線側に統一され難なく乗り換えできるようになったが、統一前の石巻駅を体験できただけでも貴重な思い出の1ページとなった。とは言え、実はこの日は雨・・・降りしきる雨の中、小走りに石巻線に乗り込んだ。女川で折り返し、小牛田に出て石巻線を制覇し次は東北本線で槻木から丸森線を制覇。現在は「阿武隈急行」として活躍している第三セクター路線だが、当時は槻木~丸森までの盲腸線に過ぎなかった。再び東北本線で利府に向かい「支線」を制覇し白石へ向った。東北本線の上下線を行ったり来たりである。この時点でもう23時を回ってる。今夜の宿となる「八甲田」に乗るためわざわざ白石に出たわけだ。そして盛岡で降りて釜石線を制覇する訳だが、盛岡到着はなんと3時14分!釜石線は始発の5時19分。何とも無謀な乗り換えであるが、まだまだ東北制覇は終わらない・・・

(「はつかり」は583系と485系の2本立てであった。今回の東北の旅では583系版には乗車できず・・・写真は八戸にて撮影。)
盛岡より釜石線の始発で一気に宮古まで行き宮古線を制覇した後、山田線で再び盛岡に戻る予定だ。宮古線といえば、現在は「三陸鉄道」として活躍しているが、当時はまだ途中の「田老」までしか開通しておらず、田老より先の延伸を心待ちしていた。山田線は、途中に山越えがあり、かつてスイッチバック駅であった「大志田」や「浅岸」を通り過ぎた。実は私の行った時は「時既に遅し」で、前年のダイヤ改正でスイッチバックは解消されてしまった。しかし「残骸」はまだ残っており、一瞬に通過してしまったが、しっかりと目に焼きつけ「いつか必ず・・・」と心に誓った。帰省客をいっぱい乗せた山田線で盛岡に到着。ここから花輪線に乗り換え大館を目指す。花輪線と言えば、十和田南で「スイッチバック」がある。配線がどうなってるのか楽しみであったので、2時間のインターバルの後、勇んで花輪線に乗車。やはり帰省ラッシュで車内は超満員だ。何とかボックスシートを確保したが、予告無く睡魔が襲ってきた・・・ふと気が付くと陸中花輪(当時)付近を走っており、「十和田南」は残念ながら文字通り「夢」となってしまった・・・

(夜も真昼も列車で過ごす毎日の中、秋田駅では普段会えないこんな列車と遭遇。当時は数少ない「寝台急行」だ。)
いつの間にか、満員だった車内も既に人影は無く、ボックスシートで同じ席だった家族が席を移り変わり、そちらでトランプなどやってくつろいでいた。悔しい思いを胸に抱きながら大館に到着。そして急行「むつ」で青森に出た。時刻は21時ちょうどである。ここから今夜の宿となる「八甲田」の出発まで約3時間あるので、事前に駅前付近を「物色」しておいた「煙突」に向う。そう、「銭湯」である。そういえば、家を出て以来風呂に入っていない・・・ずっと列車に乗りっ放しである。当時はインターネットなどは普及しておらず、予め銭湯のありそうな駅を物色しておいて計画に落とし込んでいた。そして、実際に駅付近の街並みの中から「煙突」を探すのだ。これぞ「銭湯」の有りかである。青森は、駅の「裏口」にそれを見つけた。表口とは違い、裏口の駅前は何とも下町チックな風情が漂う。連絡船の桟橋が間近にあり、汽笛が鳴り響く港町の香りがたっぷりの「駅前一等地」の一角に、目指す銭湯は顔を出した。下駄の音をカラコロ響かせながら暖簾をくぐりたい気分であったが、なにせこちらは旅の途中。列車の出発時刻まで時間はあるものの、銭湯の閉店時間まで40分も無かった。私は即刻体を洗い流し、シャボンの香りを漂わせながら再び青森駅へ戻った。しかし「八甲田」の出発時刻まで約2時間近くある。さて、何をしようかと思っていたら10時半頃「八甲田」が入線してきた。これは嬉しい限りである!出発まで1時間半ほどホームに滞在してくれる。盛岡に2時49分に下車予定のため約4時間の休憩時間が出来た。「よし、汗も洗い流した事だし、今夜はじっくり寝るぞ!」と心に決め夢見心地のまま盛岡目指した。もう慣れたものだ。

(酒田か坂町での「白鳥」。当時は大阪~青森を結ぶ特急列車であった。)
乗り換え駅に近付くと、ちゃんと目が覚める。盛岡より今度は下りの急行「八甲田」に乗り換え再び東北本線を青森方面に折り返して八戸を目指した。今回の旅は、こんな感じで深夜の乗換えを繰り返し宿代をかけずに旅をするスタイルであった。やがて八戸に到着。ここより八戸線と久慈線を制覇し普代に着いた。久慈線とは、現在の「三陸鉄道」である。今回の旅日記では再三顔を出す会社名だが、それこそ当時は未開通で盲腸線ばかりであったのがお分かりであろう。しかし今回は普代から先は折り返さず、国鉄バスを使い、未開通の「三陸鉄道」を代替するのだ。北山崎展望台で乗り換え、今度は「岩泉」を目指し、岩泉線制覇の予定だ。岩泉は「龍泉洞」なる観光地を控えているが、列車本数が少なく、鉄道利用はほぼ皆無に近いであろう。しかし、延伸予定では岩泉から先、現三陸鉄道の小本までで、三陸の海岸から短絡できる予定なのだが、岩泉線は日本有数の「不採算路線」で知られており、例え延伸部分が開通したとしても赤字経営間違え無しであろう。その名の通り、岩泉駅は超山の中である。1時間半のインターバルの後、茂市目指して出発したが、とにかく山しかない。途中「押角」は、簡易ホームのみで、屋根や待合室など当然無く、辺りは民家の「み」の字も見当たらない。僅かに駅付近の狭いスペースにスイッチバックの痕跡を見つけ、地味ながらも盛栄の時期が存在した事を物語っていた。茂市より山田線で盛岡に抜け、更に田沢湖線を特急「たざわ」で制覇し、大曲より急行「おが」で今夜の宿となる山形に向った。

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>
> 当方にもコメントしましたが、リンクの件はOKです。で、こちらもリンクにぜひ貼らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?
早速の返信ありがとうございます。私のリンク、ぜひ貼って頂くよう、こちらこそよろしくお願いいたします。ちなみに紹介した東北の旅の記事は1983年なので約29年も前になり、ちょうど東北新幹線や上越新幹線が開通して東北方面の接続アクセスが一新されたころでした。田沢湖線にL特急が走るのはすごく斬新で新鮮でした。ただ、わざわざ禁煙車に乗ったのに(最後尾の車両)、車掌が乗客席でタバコを吸っていた、嫌な印象があり、当時の「国鉄」を象徴しているようでした。勿論、現在では考えられない事ですが・・・今は更に改良され「こまち」の走る姿は素敵ですね。実は私、震災の2ヶ月前に角館からの帰りに乗車しましたが、盛岡で乗り換えないのが、私の感覚では不思議でしたよ。
これからもよろしくお願いいたします!