廃止路線を訪ねて①(白糠線)(リメイク版)
2012-12-02
国鉄末期に、いわゆる「赤字ローカル線」が国鉄再建法によって、次々と切り捨てられていった。そんな中でも「特定地方交通線」として、先陣を切って廃止されたのが「白糠線」であった。白糠線は、北海道は根室本線の白糠より北へ進み、文字通り「北進」へと向う33.1キロの盲腸線であった。営業係数(100円の利益を上げるのに係る経費の指数)ワーストの常連であったのを象徴するかのように1日3本の列車設定だ。当時中学生の私は、白糠線の廃止情報を聞き、衝撃を受けた。何とか廃止前に乗車したい・・・そんな募る思いの中、必然か偶然か、突然そのときはやって来た。学校の行事の都合とカレンダー上の連休が重なり、なんと4連休となった。私は早速きっぷの手配に取り掛かった。何と「北海道ワイド周遊券」を使うことにした。北海道ワイド周遊券は北海道の国鉄(当時)全線に乗車できて20日間有効であった。このきっぷを、なんと4日間で使用するという、何とも贅沢な企画となった。しかも季節割引があり、プラス、学割が適用されたため、何と4割近くの割引となった!現在ではもう夢のまた夢であるが、格安にての北海道「初」体験であった。

(白糠線制覇後に降り立ったと記憶している白糠駅にて。当然ながら「同業者」が多数。とは言え10月の平日であるが・・・私は中学生だったからいいとして、その他のギャラリーは一体どういうシチェーションなのであろうか・・・)
早速、北海道に行くため乗った列車は、急行「八甲田」である。ワイド周遊券は、フリー区間までの経路の急行利用は別料金が不要になるため、当然急行でのアプローチとなる。細かい乗車記録はリンク「私の旅の乗車記録」より参照していただくとして、私を乗せた列車は青森に6時15分に到着した。当時、青函トンネルは開通しておらず、青函連絡船での北海道入りだ。青森駅から連絡船へ向う通路は旅情たっぷり、旅心をくすぐる。桟橋を離れ「逆巻く波」を乗り越えていよいよ函館の桟橋が見えてきた時「初」の北の大地に期待が大きく膨らむ。函館で特急に乗り換え夕張線制覇のため苫小牧に向ったが、初めて見る北の大地の大自然は私の期待を裏切らなかった!大沼公園や羊蹄山など「北海道らしさ」を十分に見せ付けられながら、更に廃止予定の白糠線を目指し、夜行急行「まりも」で白糠へ向った。翌朝、白糠には私だけでなく「同業者」が多数降り立ち、1時間の待ち合わせの後ついに白糠線への旅になった。

(終点の北進にて。なんというか、文明と呼べるものは鉄道施設意外にあるのであろうか・・・)
もともと白糠線は、根室本線のバイパスを役割るべく白糠から足寄を経由して新得へ抜ける路線として計画されたが、石炭事業の衰退と共に中絶してしまった。それでも昭和39年には上茶路まで、昭和47年には北進まで開通した。沿線にこれといった観光資源も無く、せいぜい上茶路付近の炭坑への物資輸送くらいである。それでも開通させた裏には、どうやら政治的な匂いも無くは無いと考えざるをえないが、真相は・・・そんなことより、こういう超ローカルモードたっぷりの「特定地方交通線」こそ喜んで乗りにやってくるイチ鉄道少年であった。そんな私を乗せた列車は、乗客のほぼ9割9部8厘が「同業者」である事をお構いなしに白糠を走り出した。早速、遠ざかる根室本線を左に見ながら「秘境モード」に突入した。「鉄道の意味」を考えさせられる程の大自然の中をひたすら北へ進む。途中、白糠線唯一の仮乗降場「共栄」を過ぎ、景色の変化が無いまま「上茶路」に到着した。かつて付近に炭坑があって、その物資輸送があった事を象徴するかのように構内は広く、錆付いて使われなくなった側線が何本もあった。少なからず白糠線が盛隆した時期もあった事をうかがわせる・・・そして北進に到着した。「駅前一等地」には住宅は愚か、商店やその他、文明を示す物は鉄道意外にほぼ皆無に近い・・・それでも列車の着いた時、一時の賑わいを見せたが勿論、地元の利用者など皆無に近く、ほぼ全ての乗客が列車に向けシャッターを切っていた。そして再び乗ってきた列車で折り返してゆく・・・勿論私もその中の一人として白糠へ引き返したのだが・・・本来の鉄道としての使命を完全に果たせないまま、その役目を終えてしまう白糠線に対して「お疲れ様」と言うのは、なぜか「?」であると感じた。

(北進の駅名標。現在の北進駅跡は何もないそうであるが、約30年前には鉄道の歴史があった事を私が証明する。そのためにわざわざ北海道まで行ったのだから。)
それから2週間後、特定地方交通線の先陣を切って白糠線は廃止されてしまった。白糠線廃止後、次々と特定地方交通線が廃止され、気がついたら北海道の鉄道路線網に空白地帯が増え、抜け殻のようになってしまった・・・かつて、北海道の開拓時代には、鉄道にかける思いもかなりのものであったであろう。しかし時代は変わり、現在生き残った鉄道路線の沿線でさえ少子化と共に過疎化,更にモータリゼーションが進み、かつての「特定地方交通線」、またはそれ以下になっている路線も少なくない。これらの消え行く路線をただ指をくわえて見てる事しか出来ない自分が、ただただ歯がゆい思いでいた・・・

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(白糠線制覇後に降り立ったと記憶している白糠駅にて。当然ながら「同業者」が多数。とは言え10月の平日であるが・・・私は中学生だったからいいとして、その他のギャラリーは一体どういうシチェーションなのであろうか・・・)
早速、北海道に行くため乗った列車は、急行「八甲田」である。ワイド周遊券は、フリー区間までの経路の急行利用は別料金が不要になるため、当然急行でのアプローチとなる。細かい乗車記録はリンク「私の旅の乗車記録」より参照していただくとして、私を乗せた列車は青森に6時15分に到着した。当時、青函トンネルは開通しておらず、青函連絡船での北海道入りだ。青森駅から連絡船へ向う通路は旅情たっぷり、旅心をくすぐる。桟橋を離れ「逆巻く波」を乗り越えていよいよ函館の桟橋が見えてきた時「初」の北の大地に期待が大きく膨らむ。函館で特急に乗り換え夕張線制覇のため苫小牧に向ったが、初めて見る北の大地の大自然は私の期待を裏切らなかった!大沼公園や羊蹄山など「北海道らしさ」を十分に見せ付けられながら、更に廃止予定の白糠線を目指し、夜行急行「まりも」で白糠へ向った。翌朝、白糠には私だけでなく「同業者」が多数降り立ち、1時間の待ち合わせの後ついに白糠線への旅になった。

(終点の北進にて。なんというか、文明と呼べるものは鉄道施設意外にあるのであろうか・・・)
もともと白糠線は、根室本線のバイパスを役割るべく白糠から足寄を経由して新得へ抜ける路線として計画されたが、石炭事業の衰退と共に中絶してしまった。それでも昭和39年には上茶路まで、昭和47年には北進まで開通した。沿線にこれといった観光資源も無く、せいぜい上茶路付近の炭坑への物資輸送くらいである。それでも開通させた裏には、どうやら政治的な匂いも無くは無いと考えざるをえないが、真相は・・・そんなことより、こういう超ローカルモードたっぷりの「特定地方交通線」こそ喜んで乗りにやってくるイチ鉄道少年であった。そんな私を乗せた列車は、乗客のほぼ9割9部8厘が「同業者」である事をお構いなしに白糠を走り出した。早速、遠ざかる根室本線を左に見ながら「秘境モード」に突入した。「鉄道の意味」を考えさせられる程の大自然の中をひたすら北へ進む。途中、白糠線唯一の仮乗降場「共栄」を過ぎ、景色の変化が無いまま「上茶路」に到着した。かつて付近に炭坑があって、その物資輸送があった事を象徴するかのように構内は広く、錆付いて使われなくなった側線が何本もあった。少なからず白糠線が盛隆した時期もあった事をうかがわせる・・・そして北進に到着した。「駅前一等地」には住宅は愚か、商店やその他、文明を示す物は鉄道意外にほぼ皆無に近い・・・それでも列車の着いた時、一時の賑わいを見せたが勿論、地元の利用者など皆無に近く、ほぼ全ての乗客が列車に向けシャッターを切っていた。そして再び乗ってきた列車で折り返してゆく・・・勿論私もその中の一人として白糠へ引き返したのだが・・・本来の鉄道としての使命を完全に果たせないまま、その役目を終えてしまう白糠線に対して「お疲れ様」と言うのは、なぜか「?」であると感じた。

(北進の駅名標。現在の北進駅跡は何もないそうであるが、約30年前には鉄道の歴史があった事を私が証明する。そのためにわざわざ北海道まで行ったのだから。)
それから2週間後、特定地方交通線の先陣を切って白糠線は廃止されてしまった。白糠線廃止後、次々と特定地方交通線が廃止され、気がついたら北海道の鉄道路線網に空白地帯が増え、抜け殻のようになってしまった・・・かつて、北海道の開拓時代には、鉄道にかける思いもかなりのものであったであろう。しかし時代は変わり、現在生き残った鉄道路線の沿線でさえ少子化と共に過疎化,更にモータリゼーションが進み、かつての「特定地方交通線」、またはそれ以下になっている路線も少なくない。これらの消え行く路線をただ指をくわえて見てる事しか出来ない自分が、ただただ歯がゆい思いでいた・・・

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