1982年・何も言えなくて・・・夏④
2019-04-05
18時30分に長野を出た「中央夜行」は、ほぼ「空気輸送90%」状態で新宿目指したが、松本でなんと1時間の小休止。松本に来る途中「姨捨」では「100万ドルの夜景」を拝められるはずであるがやや薄暗い。だが、スイッチバックは非常に興味あり、列車の進行方向がたびたび変わる風景はワクワクする。そして松本での1時間待ちは、普通なら駅そばや信州味噌でも堪能しようが、どうしても座席が気になり席を離れることが出来なかった。というか、普通夜行列車は終点駅の到着時間があまり早すぎてもその後の接続列車等の事も考えなければならないであろうから、ある程度途中駅で時間調整しなければならない。そのため、例えば松本などのように一時間待ちなんかザラではない。だからその気になれば駅そばなど余裕で食べられる。そう考えると旅のアクセントにもなろう。

(長野駅で列車を待っているとこんな列車がやってきた。当時、全線電化区間を走るDC急行で有名であった「赤倉」は急行列車としてはかなり風格があった。)
座席でひたすら待つ一時間のインターバル後、松本を出るとすぐに塩尻に到着。この時の塩尻はちょうど駅が移転した直後で真新しいホームが迎えてくれたが、たった5分くらいしか停車時間が無く、じっくりと観察できなかった。
というのも、以前の塩尻は名古屋方面からくる特急列車等(しなの、ちくま等)は松本方面に向かうのにここ塩尻でスイッチバックの形をとっていた。つまり中央線同士での直通はスイッチバックしなくて済んだのだが、いわゆる中央西線と篠ノ井線はお互いに乗り入れの際、塩尻で進行方向を変えなければならない。たが、現在の中央線の運転系統を見てわかるように、塩尻を境に東京方面からも名古屋方面からもほぼ全ての列車が松本方面に向かう。つまり駅の配線と実態が合ってなかったわけだ。これは歴史的背景によるものであるが、21世紀を目前とした時代にこの配線は時代遅れとなってしまった。
だが、この不便さを解消しようと国鉄は起き上がった。塩尻駅の配線のみを変えてスイッチバックを解消させるのは困難なので、駅自体を数百メートル移転、地図上で寝ていた「人」の文字を起こした「人」の文字の形になるよう「名」より「実」を取った形となった。

(2014年に訪問した姨捨。現在でもスイッチバックが残る貴重な駅となったが、私の訪問時にはなんと貨物列車までスイッチバックしていった。)
そして現在、JR中央線の境界駅となっている事もあるが、国鉄時代からも「東線」と「西線」の旅客直通列車はほぼ皆無に等しく、もしそのような運転がある場合4番線を介してスイッチバックをさせれば対応できる配線となり実に機能的な駅に変身した。塩尻を通過する列車は中央西線の旧線を利用した短絡線を使えばスイッチバックしなくて済むような、実に効率の良い配線となった。
松本方面への乗り場は基本1番線か5番線となり事前に確認が必要であるが、その他の各方面へは基本的な乗り場が決まっているので利用する側もわかりやすい、実に芸術的な配線となった。もちろん、当時の国鉄の財政を考えればかなりの勇気を必要としたであろう。だが30年以上経過した現在でもその姿はほぼ健在であり、当時の国鉄の英断に拍手を送りたい気持ちになる。


(「かけめぐる青春」でも紹介した2014年訪問時の塩尻。1982年8月のこの旅でも訪問しているが、そのときは現在の塩尻駅に切り替わった直後の訪問であった。その時から既に30年以上経過しているが、現在も当時とほぼ同じ形でしっかり機能しているのが素晴らしい。当時の国鉄の英断に拍手!)
さて、そんな生まれ変わって間もない塩尻をたった5分の停車時間で出た中央夜行の上り列車はようやく「夜行」の雰囲気になってきたのだが、我々がうとうとしかけた頃に事件が起こった。確か日野春辺りであったと思うが、駅ではない場所で列車がいきなり急停車したのだ。何が起こったのかわからなかったが、暫くして車掌が慌ただしく動き回る。5分、10分と時間が経ち、全く列車が動き出す気配が無かったが、車内放送などによる案内も無かった。それほど乗客が乗っていないという事もあろうが、何かしらお知らせみたいな物が欲しかったのは正直な所だ。暫くして列車の外で何やら警察とか保線みたいな人がやってきたりと大騒ぎになっていた。しかも私たちが座っている座席付近だ。いろいろ話を聞いてみるとどうやら人身事故があったらしい。詳しい状況は分からなかったが、車掌が行き来している中、他の乗客が車掌に問い合わせていたのだ。その話を私は後からその乗客にお伺い立てた。そして窓を開け外を再び確認。はっきり言って蚊が入ってくるが、それより作業をしているのがちょうど私たちが座っている付近の真下付近のため非常に変な気分であった。

(2009年訪問時の「ムーンライト信州」は白馬駅にて。かつての「アルプス」からの流れでの夜行列車であることは周知の通りであるが、1982年当時はこういう車両が快速夜行列車などに使用される事などは全く持って考えられなかった。「18」でも乗車できるとは、時代も変わったものだ。)
無事作業が終わったらしく、車掌のアナウンスが入り間もなく出発。定刻より40分~1時間位の遅れでようやく出発した。車内放送などで長時間停車していた理由の説明があるかと思ったが、結局何も音沙汰の無いまま列車は新宿に向けて走り出した。
そんな事件がありながら新宿には定刻の4時23分に到着。見慣れた景色だ。車内放送で昨夜の説明が無かったのは乗客が僅少だった事と、恐らく途中の甲府や他の主要駅などの停車時間を考えたら1時間くらいになるため新宿には定刻で到着できるであろうという予測が車掌や運転手達にはあったのであろう。
だがこの中央夜行、通称「山男列車」は下り列車はかなりの乗車率で、それこそ現在においての「ムーンライト」が座席指定してるのもうなずける。そして下りしか設定がないが、文字通り「山男」は帰りも夜行列車で朝帰りするとは考えにくい。そう考えてみるとなかなか特徴ある列車であると今になって感じる。ただ、個人的な意見として583系などの車両を充てていただくと非常に価値が出てくると思うのだが・・・
そんな夜行列車は何事もなかったかのように時は過ぎて行った。中央夜行ではあまり寝れなかったが、東京から東海道線で今度は名古屋を目指す列車では完全に「爆睡」であった。完全に体質が昼夜逆転してしまったようだ。

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(長野駅で列車を待っているとこんな列車がやってきた。当時、全線電化区間を走るDC急行で有名であった「赤倉」は急行列車としてはかなり風格があった。)
座席でひたすら待つ一時間のインターバル後、松本を出るとすぐに塩尻に到着。この時の塩尻はちょうど駅が移転した直後で真新しいホームが迎えてくれたが、たった5分くらいしか停車時間が無く、じっくりと観察できなかった。
というのも、以前の塩尻は名古屋方面からくる特急列車等(しなの、ちくま等)は松本方面に向かうのにここ塩尻でスイッチバックの形をとっていた。つまり中央線同士での直通はスイッチバックしなくて済んだのだが、いわゆる中央西線と篠ノ井線はお互いに乗り入れの際、塩尻で進行方向を変えなければならない。たが、現在の中央線の運転系統を見てわかるように、塩尻を境に東京方面からも名古屋方面からもほぼ全ての列車が松本方面に向かう。つまり駅の配線と実態が合ってなかったわけだ。これは歴史的背景によるものであるが、21世紀を目前とした時代にこの配線は時代遅れとなってしまった。
だが、この不便さを解消しようと国鉄は起き上がった。塩尻駅の配線のみを変えてスイッチバックを解消させるのは困難なので、駅自体を数百メートル移転、地図上で寝ていた「人」の文字を起こした「人」の文字の形になるよう「名」より「実」を取った形となった。

(2014年に訪問した姨捨。現在でもスイッチバックが残る貴重な駅となったが、私の訪問時にはなんと貨物列車までスイッチバックしていった。)
そして現在、JR中央線の境界駅となっている事もあるが、国鉄時代からも「東線」と「西線」の旅客直通列車はほぼ皆無に等しく、もしそのような運転がある場合4番線を介してスイッチバックをさせれば対応できる配線となり実に機能的な駅に変身した。塩尻を通過する列車は中央西線の旧線を利用した短絡線を使えばスイッチバックしなくて済むような、実に効率の良い配線となった。
松本方面への乗り場は基本1番線か5番線となり事前に確認が必要であるが、その他の各方面へは基本的な乗り場が決まっているので利用する側もわかりやすい、実に芸術的な配線となった。もちろん、当時の国鉄の財政を考えればかなりの勇気を必要としたであろう。だが30年以上経過した現在でもその姿はほぼ健在であり、当時の国鉄の英断に拍手を送りたい気持ちになる。


(「かけめぐる青春」でも紹介した2014年訪問時の塩尻。1982年8月のこの旅でも訪問しているが、そのときは現在の塩尻駅に切り替わった直後の訪問であった。その時から既に30年以上経過しているが、現在も当時とほぼ同じ形でしっかり機能しているのが素晴らしい。当時の国鉄の英断に拍手!)
さて、そんな生まれ変わって間もない塩尻をたった5分の停車時間で出た中央夜行の上り列車はようやく「夜行」の雰囲気になってきたのだが、我々がうとうとしかけた頃に事件が起こった。確か日野春辺りであったと思うが、駅ではない場所で列車がいきなり急停車したのだ。何が起こったのかわからなかったが、暫くして車掌が慌ただしく動き回る。5分、10分と時間が経ち、全く列車が動き出す気配が無かったが、車内放送などによる案内も無かった。それほど乗客が乗っていないという事もあろうが、何かしらお知らせみたいな物が欲しかったのは正直な所だ。暫くして列車の外で何やら警察とか保線みたいな人がやってきたりと大騒ぎになっていた。しかも私たちが座っている座席付近だ。いろいろ話を聞いてみるとどうやら人身事故があったらしい。詳しい状況は分からなかったが、車掌が行き来している中、他の乗客が車掌に問い合わせていたのだ。その話を私は後からその乗客にお伺い立てた。そして窓を開け外を再び確認。はっきり言って蚊が入ってくるが、それより作業をしているのがちょうど私たちが座っている付近の真下付近のため非常に変な気分であった。

(2009年訪問時の「ムーンライト信州」は白馬駅にて。かつての「アルプス」からの流れでの夜行列車であることは周知の通りであるが、1982年当時はこういう車両が快速夜行列車などに使用される事などは全く持って考えられなかった。「18」でも乗車できるとは、時代も変わったものだ。)
無事作業が終わったらしく、車掌のアナウンスが入り間もなく出発。定刻より40分~1時間位の遅れでようやく出発した。車内放送などで長時間停車していた理由の説明があるかと思ったが、結局何も音沙汰の無いまま列車は新宿に向けて走り出した。
そんな事件がありながら新宿には定刻の4時23分に到着。見慣れた景色だ。車内放送で昨夜の説明が無かったのは乗客が僅少だった事と、恐らく途中の甲府や他の主要駅などの停車時間を考えたら1時間くらいになるため新宿には定刻で到着できるであろうという予測が車掌や運転手達にはあったのであろう。
だがこの中央夜行、通称「山男列車」は下り列車はかなりの乗車率で、それこそ現在においての「ムーンライト」が座席指定してるのもうなずける。そして下りしか設定がないが、文字通り「山男」は帰りも夜行列車で朝帰りするとは考えにくい。そう考えてみるとなかなか特徴ある列車であると今になって感じる。ただ、個人的な意見として583系などの車両を充てていただくと非常に価値が出てくると思うのだが・・・
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コメント
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宿はなし様
初めまして。ようこそ「鉄道全線完全制覇の旅」へ、そしてコメントありがとうございます。
2007年にレールファンを復活して以来、レール雑誌等の「情報源」がインターネットに変わり、それこそ時代も変わったものだと思います。ということで現在ではレール雑誌はほとんど購入せず、インターネットより情報を集めているような毎日です。
実は私の場合、1970年代~1984年頃までがレールファンの全盛で、先述の2007年にレールファンを復活して現在に至っております。その関係から私のブログに紹介しているのは「懐かしい」か「現在」のどちらかになってしまいバブル期頃の鉄道模様が全く出現しません。
ということで、1982年に塩尻駅が移転しましたが、既に32年が経過しているのですね。恥ずかしながら私は当時中学生で、まだ出たばかりの「18」を使って全国を巡ってました。と、よくこんな旅を親が許したものだと周りからよく言われたものですが、私は至って普通でしたので今となってはいい思い出です。
とは言え、宿に泊まるなどもっての他。宿は必然的に「夜行列車」になりましたが、その夜行列車も現在は「夜行高速バス」に変化してしまい残念ながら定期便では普通列車はなくなってしまいました。
普通夜行列車に関しては上り列車は本当に混雑度ゼロとは言いませんが、かなり優雅な旅ができたのも事実です。しかも始発駅の発車時間が早かったので短距離客も多く乗車しており、たとえ混雑していても途中から着席できる確率が非常に高かったです。
他にも懐かしの思い出を紹介しているのでよろしかったらご覧になってください。
そして宿はなし様のリンク、私のブログにも貼らしていただきました。よろしくお願いいたします。
2007年にレールファンを復活して以来、レール雑誌等の「情報源」がインターネットに変わり、それこそ時代も変わったものだと思います。ということで現在ではレール雑誌はほとんど購入せず、インターネットより情報を集めているような毎日です。
実は私の場合、1970年代~1984年頃までがレールファンの全盛で、先述の2007年にレールファンを復活して現在に至っております。その関係から私のブログに紹介しているのは「懐かしい」か「現在」のどちらかになってしまいバブル期頃の鉄道模様が全く出現しません。
ということで、1982年に塩尻駅が移転しましたが、既に32年が経過しているのですね。恥ずかしながら私は当時中学生で、まだ出たばかりの「18」を使って全国を巡ってました。と、よくこんな旅を親が許したものだと周りからよく言われたものですが、私は至って普通でしたので今となってはいい思い出です。
とは言え、宿に泊まるなどもっての他。宿は必然的に「夜行列車」になりましたが、その夜行列車も現在は「夜行高速バス」に変化してしまい残念ながら定期便では普通列車はなくなってしまいました。
普通夜行列車に関しては上り列車は本当に混雑度ゼロとは言いませんが、かなり優雅な旅ができたのも事実です。しかも始発駅の発車時間が早かったので短距離客も多く乗車しており、たとえ混雑していても途中から着席できる確率が非常に高かったです。
他にも懐かしの思い出を紹介しているのでよろしかったらご覧になってください。
そして宿はなし様のリンク、私のブログにも貼らしていただきました。よろしくお願いいたします。
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当ブログにも足跡がありたびたび拝見させて頂いております。
なかなか、こう言っては失礼かもしれませんが、
私が生まれた年に近い、鉄道の情報が得られてすごく新鮮です。
なかでも、塩尻駅の移転の話しは、なかなか驚きでした。
ものごころついた時には今の形だったので、
そういう歴史があったとは、、、感心いたしました。
あとは、夜行が、いまでは信じられないぐらいゆっくりだったんだなって。
長野を18時30分に出て、
新宿が4時32分とは、いまでは考えられないなと、、、。
また、楽しい話しを聞かせてください。
追伸、
当ブログのリンクに、トナカイさんのブログを追加させてください。
私も、JR全線の乗り鉄に挑戦しております。
よろしくお願いします。