廃止路線を訪ねて⑬ 佐賀線
2014-01-23
全く地味すぎて、古いレールファンでも殆ど記憶に無い人が多いであろう。「佐賀線」はその名の通り九州の佐賀から南下し瀬高に至る路線で、鹿児島本線と長崎本線を、鳥栖を介さずに近道出来る不思議な路線であった。この佐賀線も1980年代に例外なく「83線区」に名を連ね消えていったが、九州のローカル線の中では「添田線」や「室木線」等に比べたらかなり地味な存在であったろう。いや、こういう言い方はおかしいかもしれないが、むしろ添田線などの方が一般的には地味かもしれない。

(筑後柳川駅。列車交換もできる。意外に重厚な造りだ。)
それはさておき、この佐賀線で最もたる特徴として「筑後川信号場」付近にある「可動橋」がある事だ。私が制覇したのが1983年4月であるが、当時の写真が全く残っていない。しかし、私のブログで相互リンクさせていただいてる「プラットホームの旅」の管理人でいらっしゃる「massil様」がきめ細かい記録をなさっていた!今回の記事を公開するにあたってお写真を提供していただき全面協力していただいた。と言う事で、この記事の写真は全て「massil様」提供です。ご協力、心より感謝いたします。


(筑後大川駅。典型的な地方交通線の佇まいである。)
私は1983年4月1日に訪問している。なぜこんなに細かく覚えているかと言うと「鹿児島交通」が3月31日に廃止「モドキ」であったため拍子抜け。その翌日の訪問であったためよく覚えているのだ。佐賀線は、佐賀から瀬高までの路線であったが、ウィキペディアを開いてみると「改正鉄道敷設法別表第113号に規定する予定線<佐賀縣(県)佐賀ヨリ福岡縣矢部川、熊本縣隈府ヲ經テ肥後大津ニ至ル鐡道及隈府ヨリ分岐シテ大分縣森付近ニ至ル鐡道>の一部である。矢部川は現在の瀬高、隈府は菊池市であり、さらに豊肥本線の肥後大津へ、隈府からは分岐線が久大本線の豊後森に至るという壮大な計画であった。矢部川からは東肥鉄道(後に九州肥筑鉄道と改称)が熊本県南関までを開業、分岐線も1937年(昭和12年)に国鉄宮原線として豊後森 - 肥後小国間が一部開業したが、いずれも廃止されている。」と記されている。ここに登場する「宮原線」は超懐かしいが、こちらも佐賀線に負けないくらい「地味」な存在であったろう。ちなみに「みやのはるせん」と読む。

(筑後川信号場=可動橋である。当時は清水港線などと共に全国的にも珍しい存在であった。)
しかし上記を見る限り、それこそ「壮大な」計画であった事に気付かされたが、まさか豊後森までの予定とは・・・しかし現役当時はその「計画」を象徴するかのように矢部線と佐賀線の「連係プレー」はなかなかのものであった。現に私の訪問時には矢部線の到着に合わせて羽犬塚発瀬高行のDC普通列車があった。もちろん私はそれに乗車。だがこの設定、非常におかしいと思わんか?鹿児島本線の、しかもこんな短い区間に電化区間でありながらわざわざDCを、しかも矢部線と接続が良く、さらにこれから乗ろうとする佐賀線にもバッチリのタイミングでの接続であった。
もうお判りであろう。実は羽犬塚発佐賀行の佐賀線直通DCであったのだ。羽犬塚~瀬高は時刻表上のマジック。ちゃんと「壮大な計画」に則っているかのようにしっかりと矢部線と佐賀線は、まるでひとつの路線であるかのように運転していたのである。

(筑後若津駅は駅舎がとっても魅力的だ。隣にある電話ボックスも印象的。)
1980年代に次々と廃止された「特定地方交通線」の数々。北海道の美幸線や標津線、九州では先述した添田線や室木線など・・・私が訪問できなかった数多くの廃止路線と共に、地味ながらこんな魅力のあるローカル線も「伝説」となってしまった。特に美幸線などは「日本一の赤字路線」として世に売り込んだ。その甲斐あって一時期「日本一」ではなくなった時があったのは素晴らしいと思う。確かに「日本一赤字」ではあったが、それは「率」であって「額」ではないはずだ。当時の国鉄は「収支係数」という数値で判断された。つまり100円の利益をあげるのにいくら経費が掛かったかと言う事だ。添田線なども一時期3000くらいの数値を弾き出し「日本一」を名乗った事がある。つまり100円の儲けに対し3000円の経費が掛かっている事になるのだが、この数値を見る限り「凄い」と確かに思う。しかし、例えば「赤字率」ではなく「赤字額」を考えた場合、当時の「東海道線」と比べたら全然桁が違うのである。

(筑後若津を過ぎるとすぐに可動橋がある。と言うより見える。とてもローカル線とは思えないロケーションだ。)
「特定地方交通線83線区」を廃止すれば本当に国鉄の赤字が解消されると本気で国鉄は考えていたのであろうか?もちろんそうは考えていなかったであろう。周りからとやかく言われるので、仕方なく「苦肉の策」だったのか、また責任逃れや問題先送りであったのか。この「83線区」を廃止したところで国鉄の赤字額の約1割しか解消されないと聞いた事もある。では残りの9割の対策はどうするの?と言う事になる。それこそ東海道線を廃止すれば問題は解決するのではないか・・・くらいの「レベル」であろう。やはり数値のマジックを前面に出し「ここは赤字だ」等と変なレッテルを貼り次々と魅力的なローカル線を廃止した国鉄の体質そのものを変えていかない限り、いくらローカル線を廃止したところで黒字にはならないであろう。
私は「いい旅チャレンジ20000km」で1980年代に日本全国をかけめくっていた。その時は「消化試合」であった数多くのローカル線も、現在は廃止され記憶が薄いながらも貴重な体験になってしまったものも少なくない。佐賀線もそのひとつであったが、こうして記事を書いていると当時の記憶が段々甦ってきた。
かつては急行「ちくご」が佐賀線を経由していた時代もあったが、私の訪問時は既に普通列車のみが走る「ローカル線」であった。もし、この佐賀線が現存していたならば、私は今からでも逢いに行ったであろう。再びそこにある「何か」を求めて・・・

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(筑後柳川駅。列車交換もできる。意外に重厚な造りだ。)
それはさておき、この佐賀線で最もたる特徴として「筑後川信号場」付近にある「可動橋」がある事だ。私が制覇したのが1983年4月であるが、当時の写真が全く残っていない。しかし、私のブログで相互リンクさせていただいてる「プラットホームの旅」の管理人でいらっしゃる「massil様」がきめ細かい記録をなさっていた!今回の記事を公開するにあたってお写真を提供していただき全面協力していただいた。と言う事で、この記事の写真は全て「massil様」提供です。ご協力、心より感謝いたします。


(筑後大川駅。典型的な地方交通線の佇まいである。)
私は1983年4月1日に訪問している。なぜこんなに細かく覚えているかと言うと「鹿児島交通」が3月31日に廃止「モドキ」であったため拍子抜け。その翌日の訪問であったためよく覚えているのだ。佐賀線は、佐賀から瀬高までの路線であったが、ウィキペディアを開いてみると「改正鉄道敷設法別表第113号に規定する予定線<佐賀縣(県)佐賀ヨリ福岡縣矢部川、熊本縣隈府ヲ經テ肥後大津ニ至ル鐡道及隈府ヨリ分岐シテ大分縣森付近ニ至ル鐡道>の一部である。矢部川は現在の瀬高、隈府は菊池市であり、さらに豊肥本線の肥後大津へ、隈府からは分岐線が久大本線の豊後森に至るという壮大な計画であった。矢部川からは東肥鉄道(後に九州肥筑鉄道と改称)が熊本県南関までを開業、分岐線も1937年(昭和12年)に国鉄宮原線として豊後森 - 肥後小国間が一部開業したが、いずれも廃止されている。」と記されている。ここに登場する「宮原線」は超懐かしいが、こちらも佐賀線に負けないくらい「地味」な存在であったろう。ちなみに「みやのはるせん」と読む。

(筑後川信号場=可動橋である。当時は清水港線などと共に全国的にも珍しい存在であった。)
しかし上記を見る限り、それこそ「壮大な」計画であった事に気付かされたが、まさか豊後森までの予定とは・・・しかし現役当時はその「計画」を象徴するかのように矢部線と佐賀線の「連係プレー」はなかなかのものであった。現に私の訪問時には矢部線の到着に合わせて羽犬塚発瀬高行のDC普通列車があった。もちろん私はそれに乗車。だがこの設定、非常におかしいと思わんか?鹿児島本線の、しかもこんな短い区間に電化区間でありながらわざわざDCを、しかも矢部線と接続が良く、さらにこれから乗ろうとする佐賀線にもバッチリのタイミングでの接続であった。
もうお判りであろう。実は羽犬塚発佐賀行の佐賀線直通DCであったのだ。羽犬塚~瀬高は時刻表上のマジック。ちゃんと「壮大な計画」に則っているかのようにしっかりと矢部線と佐賀線は、まるでひとつの路線であるかのように運転していたのである。

(筑後若津駅は駅舎がとっても魅力的だ。隣にある電話ボックスも印象的。)
1980年代に次々と廃止された「特定地方交通線」の数々。北海道の美幸線や標津線、九州では先述した添田線や室木線など・・・私が訪問できなかった数多くの廃止路線と共に、地味ながらこんな魅力のあるローカル線も「伝説」となってしまった。特に美幸線などは「日本一の赤字路線」として世に売り込んだ。その甲斐あって一時期「日本一」ではなくなった時があったのは素晴らしいと思う。確かに「日本一赤字」ではあったが、それは「率」であって「額」ではないはずだ。当時の国鉄は「収支係数」という数値で判断された。つまり100円の利益をあげるのにいくら経費が掛かったかと言う事だ。添田線なども一時期3000くらいの数値を弾き出し「日本一」を名乗った事がある。つまり100円の儲けに対し3000円の経費が掛かっている事になるのだが、この数値を見る限り「凄い」と確かに思う。しかし、例えば「赤字率」ではなく「赤字額」を考えた場合、当時の「東海道線」と比べたら全然桁が違うのである。

(筑後若津を過ぎるとすぐに可動橋がある。と言うより見える。とてもローカル線とは思えないロケーションだ。)
「特定地方交通線83線区」を廃止すれば本当に国鉄の赤字が解消されると本気で国鉄は考えていたのであろうか?もちろんそうは考えていなかったであろう。周りからとやかく言われるので、仕方なく「苦肉の策」だったのか、また責任逃れや問題先送りであったのか。この「83線区」を廃止したところで国鉄の赤字額の約1割しか解消されないと聞いた事もある。では残りの9割の対策はどうするの?と言う事になる。それこそ東海道線を廃止すれば問題は解決するのではないか・・・くらいの「レベル」であろう。やはり数値のマジックを前面に出し「ここは赤字だ」等と変なレッテルを貼り次々と魅力的なローカル線を廃止した国鉄の体質そのものを変えていかない限り、いくらローカル線を廃止したところで黒字にはならないであろう。
私は「いい旅チャレンジ20000km」で1980年代に日本全国をかけめくっていた。その時は「消化試合」であった数多くのローカル線も、現在は廃止され記憶が薄いながらも貴重な体験になってしまったものも少なくない。佐賀線もそのひとつであったが、こうして記事を書いていると当時の記憶が段々甦ってきた。
かつては急行「ちくご」が佐賀線を経由していた時代もあったが、私の訪問時は既に普通列車のみが走る「ローカル線」であった。もし、この佐賀線が現存していたならば、私は今からでも逢いに行ったであろう。再びそこにある「何か」を求めて・・・

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コメント
懐かしい佐賀駅の想い出
Re: トム様
コメントありがとうございます。
佐賀線沿線に親戚がいらっしゃるとは実に素晴らしく羨ましいですね。ご意見いただいたように佐賀市内は確かに佐賀線の面影すら無いと聞いてますが、例えば可動橋などは「国の管理下」となり今も健在というのが嬉しいですね。実は今年の1月に九州を訪問しております。その時に、計画では佐賀線の訪問予定だったのですが、残念ながらタイムアップで実現しませんでした。
佐賀駅に私が初めて訪れたのは1978年に家族で旅行に行ったときですね。高架化された静岡や浜松などによく似ていて、当時ではある意味「流行り」だったのかも知れません。
佐賀線沿線に親戚がいらっしゃるとは実に素晴らしく羨ましいですね。ご意見いただいたように佐賀市内は確かに佐賀線の面影すら無いと聞いてますが、例えば可動橋などは「国の管理下」となり今も健在というのが嬉しいですね。実は今年の1月に九州を訪問しております。その時に、計画では佐賀線の訪問予定だったのですが、残念ながらタイムアップで実現しませんでした。
佐賀駅に私が初めて訪れたのは1978年に家族で旅行に行ったときですね。高架化された静岡や浜松などによく似ていて、当時ではある意味「流行り」だったのかも知れません。
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今はなき佐賀線の筑後大川駅の近くにあったので祖母とよく佐賀線の列車で出掛けていました!
国鉄分割民営化から早30年、日本国有鉄道と共に心中した佐賀線、佐賀市内の鉄道敷地は都市計画道路や自転車道路と変貌を遂げました!