いつどこで、どういう状況においても、誰の挑戦でも受ける!(前編)
2014-04-25
少々強引かも知れないが、時刻表の地図上で唐津線と筑肥線をペアで見た場合「白鳥座」になんとなく見える。とはいうもののかなり「翼の位置」が異なる配置になるが・・・
この唐津線と筑肥線は、私の知る限りでもかなりの変遷があり興味を引く。私は1983年の春に訪問しているが、筑肥線の東側がまさに電化直後であった。これは非常に残念な事である・・・と言うのも「非電化時代」を体験できなかったからだ。若く、または新しいレールファンにしてみたら現在の筑肥線の姿が異様な光景に映る事であろう。もちろん歴史の紐を解いて自身でその変遷を解決しておられるであろうが、やはり唐津線を挟んでの現在の筑肥線の姿はやや違和感を感じる。いっそのこと路線名を変更した方が利用者もスムーズになろう。レールファンならともかく、一般の方からすれば全く理解に苦しむ存在かもしれない。

(1983年に虹ノ松原~山本間が廃止されたと同時にこの旧・東唐津駅も無くなってしまった。スイッチバック式の駅であり、運行上はネックとなっていた。画像はウィキぺディアより。)
さて、この筑肥線の変遷で注目すべき点はなんといっても「東唐津」の存在であろう。かつての東唐津は唐津市の中心部から見て松浦川の対岸にあった。博多方面から来た列車はここで進行方向を変えて南に下り山本方面へと行く・・・つまり東唐津はスイッチバックの駅であった。唐津市の中心部の人にとって鉄道で博多方面に向かう際には、一旦山本まで出るか松浦川を渡り東唐津駅まで出向かなければならず、かなりの不便さを感じずにはいられなかった。この解決策として以前に紹介した「塩尻」同様、当時の国鉄事情を考えた場合かなりの「英断」であったろう「ビフォーアフター」が敢行された。以前から工事されていた「呼子線」の一部区間を開業させ「東唐津」「唐津」「山本」の三つに分散されていた唐津市の鉄道事情を「唐津」に一本化しようというプロジェクトが動いたのだ。

(1983年の電化と同時に大きく変貌した唐津。それまでは唐津線の単なるローカル駅の佇まいであったが、ご覧の通り高架化され筑肥線と唐津線の接続駅となった。利用者も一気に増えて市の中心としてマジェスティックな印象を醸し出す。画像はウィキペディアより。)
「呼子線」とは、筑肥線の虹ノ松原から唐津を経て呼子に至る路線で1968年から着工されていた。路盤やトンネル、高架橋などはほとんど完成していたが、唐津周辺での土地の取得に時間がかかっているうちに「国鉄事情」が変化していき頓挫してしまった。しかしながら需要が見込めると思われる虹ノ松原~唐津を筑肥線に組み込む事で工事を完成させ電化と併せて開業させようと企てた。それが現在の姿である。

(1983年、電化直後に私が訪問した時の唐津駅。真新しいホームと車両が初々しい。昼間の時間帯であったため駅は若干閑散としていたが、当時はとても唐津線の「唐津駅」とは思えぬ変貌振りであった。)
電化は唐津線の唐津~西唐津も併せて電化され、西唐津には電車区が置かれた。西唐津から先はそれこそ「呼子線」であるが、現在においてとうとうレールに走る列車の姿を見ることが出来なかった。しかし唐津市にとって、この「プロジェクト」は博多方面への交通手段として相当の飛躍であったろう。だが、その陰には筑肥線の虹ノ松原~東唐津~山本の区間が廃止されたという「空(むな)しさ」がある。つまりこの区間が無くなってしまった事により筑肥線が分断されてしまったのだ。「分断された」だけでなく、筑肥線を名乗る両者は姿・カラー・運用など全く異なる存在となってしまった。
私たちのようなレールファンにすれば筑肥線の「西側」は非常に気になる存在になる事であろう。しかし華やかに見える「東側」も近年は運賃・所要時間でも勝る高速バスに若干押され気味と聞いた。改良から30年経った現在、さらなる改良の時期に来たのではなかろうか。新しく高架上に移設された東唐津駅も、もしかしたらそう願っているかも知れない。

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この唐津線と筑肥線は、私の知る限りでもかなりの変遷があり興味を引く。私は1983年の春に訪問しているが、筑肥線の東側がまさに電化直後であった。これは非常に残念な事である・・・と言うのも「非電化時代」を体験できなかったからだ。若く、または新しいレールファンにしてみたら現在の筑肥線の姿が異様な光景に映る事であろう。もちろん歴史の紐を解いて自身でその変遷を解決しておられるであろうが、やはり唐津線を挟んでの現在の筑肥線の姿はやや違和感を感じる。いっそのこと路線名を変更した方が利用者もスムーズになろう。レールファンならともかく、一般の方からすれば全く理解に苦しむ存在かもしれない。

(1983年に虹ノ松原~山本間が廃止されたと同時にこの旧・東唐津駅も無くなってしまった。スイッチバック式の駅であり、運行上はネックとなっていた。画像はウィキぺディアより。)
さて、この筑肥線の変遷で注目すべき点はなんといっても「東唐津」の存在であろう。かつての東唐津は唐津市の中心部から見て松浦川の対岸にあった。博多方面から来た列車はここで進行方向を変えて南に下り山本方面へと行く・・・つまり東唐津はスイッチバックの駅であった。唐津市の中心部の人にとって鉄道で博多方面に向かう際には、一旦山本まで出るか松浦川を渡り東唐津駅まで出向かなければならず、かなりの不便さを感じずにはいられなかった。この解決策として以前に紹介した「塩尻」同様、当時の国鉄事情を考えた場合かなりの「英断」であったろう「ビフォーアフター」が敢行された。以前から工事されていた「呼子線」の一部区間を開業させ「東唐津」「唐津」「山本」の三つに分散されていた唐津市の鉄道事情を「唐津」に一本化しようというプロジェクトが動いたのだ。

(1983年の電化と同時に大きく変貌した唐津。それまでは唐津線の単なるローカル駅の佇まいであったが、ご覧の通り高架化され筑肥線と唐津線の接続駅となった。利用者も一気に増えて市の中心としてマジェスティックな印象を醸し出す。画像はウィキペディアより。)
「呼子線」とは、筑肥線の虹ノ松原から唐津を経て呼子に至る路線で1968年から着工されていた。路盤やトンネル、高架橋などはほとんど完成していたが、唐津周辺での土地の取得に時間がかかっているうちに「国鉄事情」が変化していき頓挫してしまった。しかしながら需要が見込めると思われる虹ノ松原~唐津を筑肥線に組み込む事で工事を完成させ電化と併せて開業させようと企てた。それが現在の姿である。

(1983年、電化直後に私が訪問した時の唐津駅。真新しいホームと車両が初々しい。昼間の時間帯であったため駅は若干閑散としていたが、当時はとても唐津線の「唐津駅」とは思えぬ変貌振りであった。)
電化は唐津線の唐津~西唐津も併せて電化され、西唐津には電車区が置かれた。西唐津から先はそれこそ「呼子線」であるが、現在においてとうとうレールに走る列車の姿を見ることが出来なかった。しかし唐津市にとって、この「プロジェクト」は博多方面への交通手段として相当の飛躍であったろう。だが、その陰には筑肥線の虹ノ松原~東唐津~山本の区間が廃止されたという「空(むな)しさ」がある。つまりこの区間が無くなってしまった事により筑肥線が分断されてしまったのだ。「分断された」だけでなく、筑肥線を名乗る両者は姿・カラー・運用など全く異なる存在となってしまった。
私たちのようなレールファンにすれば筑肥線の「西側」は非常に気になる存在になる事であろう。しかし華やかに見える「東側」も近年は運賃・所要時間でも勝る高速バスに若干押され気味と聞いた。改良から30年経った現在、さらなる改良の時期に来たのではなかろうか。新しく高架上に移設された東唐津駅も、もしかしたらそう願っているかも知れない。

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