ドリームにちりんへの旅(後編)
2014-06-13
新幹線からの乗り換え客の多さに座席があるか心配であったが、やって来た「ハイパー」は結果的に空席が目立った。と言うより私の乗った車両は2~3名ほどしか乗っていなかったので早速回転式のリクライニングシートを向い合せにして「戦闘態勢」を整えた。暫くすると女性車掌による車内改札が始まった。周遊券を見せると「どちらまで?」の問いに「空港まで」と答えた。いかにも「ツウ」らしき表現であったが、車掌もまるで「カー」の様に「わかりました」と答えた。空港とはもちろん宮崎空港の事であるが、私にとってみたら宮崎空港は非常に新しい存在である。しかも日南線が一部ではあるが電化されている事も非常に新鮮であった。

(途中の津久見では完全に深夜の時間帯。利用者はほぼ皆無に近いであろう。昼間の時間帯は隣の臼杵と共に利用者が多い。)
そんな宮崎空港を目指しハイパーは既に日付の変わった日豊本線を只管南に下って行く。中津を過ぎるころには私の乗った車両は既に独占状態となっていた。他の車両も小倉で座席の確保を心配していたのがうそのような程ほとんど空席になっていた。行橋、中津辺りまでは終列車の役割もしている。そして大分に着くと、高架工事中となっている上りの部分を見上げた。大分は後ほど訪問するという予定であったのでその場はすぐに目を閉じ仮眠体制を取ったが、ここ大分に来るのはそれこそ小学校以来であった!約30年振り位に見た大分駅は既に新しく生まれ変わろうとしていた。私の乗った「ハイパー」はまだ高架化されていない昔からの地上ホームであった。しかしそれもいずれ近い将来に無くなってしまうであろうと思い、後ほどの訪問でしっかりと記録する事を心に誓った。

(かつては杉安までの「妻線」を分岐していた佐土原。現在でも宮崎までの通勤・通学駅として利用者が多い。佐土原付近になると完全に空は明るくなっていた。)
夜がだんだん明けてきた。所々記憶が無いのはやはり寝ていたのであるが、基本的に座席での仮眠は意識は働いているものだ。高架化された鉄路を進むとやがて日向市に着いた。私の初訪は1978年8月であったが、その時は地上であったので全く印象が違ってしまっていた。そして何より大きなバッグを持った乗客が数十名ホームにいるではないか!しかも高校生まで数名いる。そう、この「ドリームにちりん」は始発列車の役割もしているのだ。大きな荷物を持った乗客はもちろん終点の宮崎空港までの乗車と思われるが、特急列車で通学する高校生はいったいどのような思いで「ドリーム」に乗車しているのであろうか?
高鍋、佐土原と停車し宮崎に着く。ここも私の知らぬ間に高架化されていて、ものすごく新鮮な感じであった。しかし停車時間は確か1分であったのでじっくりと確認できなかったのが残念であるが、乗客がかなり下車した。私が小学生時代にこの宮崎に来た時は当然地上駅で、寝台特急「富士」での訪問であった。当時宮崎~西鹿児島は非電化であったので東京からやって来た「富士」はここ宮崎で機関車をELからDLに交換する作業があった。その時はDF50であり、そんな機関車は湘南地区在住の私にとって書籍でしか見た事なかったためもう「シャイニング・ウィザード」をまともに食らったような衝撃であった。

(宮崎空港で出発をまつ「普通列車」。つまり「ドリーム」が折り返しての変身である。随分と豪華な普通列車だ。)
そんな宮崎から更に南に下るのが現在の姿である「空港」まで列車は足を伸ばす。空港利用者にとっては非常に便利な制度が、つまり宮崎~宮崎空港間は特急列車に乗っても自由席ならば特急券無で乗車できる制度がある。日本で最初に空港アクセス駅として機能したのが「千歳空港」、つまり現在の南千歳である。当時はこの駅を通る全列車が停車し、文字通り「アクセス駅」として活躍。駅舎にあった雪印のマークが非常に印象的であった。現在はその地位を新千歳空港に譲ったが、そんなアクセス駅としてこの宮崎空港も活躍している。とはいうものの島式ホーム1本でやや華奢な印象ではあるが。そして地形の制約からか、若干ホームが弧を描いていてやや細い印象だ。しかしながらハイパーをはじめ普通列車などの列車が多く発着しておりアクセス駅としては「合格」であると私は思う。

(「ハイパー」で南宮崎に戻り日南線制覇に向かった。南宮崎は宮崎駅を補完する意味でも重要な駅だ。と言うより運転・運用上の「宮崎駅」であろう。)
「ドリームにちりん」から大きな荷物を持った全ての乗客は改札に向かった。改札を出ずに折り返すのは私たちくらいだけであった。ただここから普通列車で折り返し日南線を制覇する予定なのだが、その肝心の普通列車がやって来ない。もしやと思い改札に向かい駅員に問うた。「スミマセン、ここに表示されている普通列車の宮崎行ってこの特急列車が折り返しになるのですか?」と言ったら「そうだよ」と簡単に答えられてしまった。えっ、特急が普通列車になって折り返すんだ・・・と、なんだかマギー司郎に縦縞のハンカチを横縞のハンカチに変化させる手品を見せられた思いであった。一応、時刻表には臨時列車扱いで毎日運転されているような表示であったが、恐らく宮崎への回送列車を解放したものであろうと推測。有効な活用の仕方だ。もちろん座席は満席ではないが、約10名くらいであろうか、快適な「普通列車」で宮崎に向かっていった。

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(途中の津久見では完全に深夜の時間帯。利用者はほぼ皆無に近いであろう。昼間の時間帯は隣の臼杵と共に利用者が多い。)
そんな宮崎空港を目指しハイパーは既に日付の変わった日豊本線を只管南に下って行く。中津を過ぎるころには私の乗った車両は既に独占状態となっていた。他の車両も小倉で座席の確保を心配していたのがうそのような程ほとんど空席になっていた。行橋、中津辺りまでは終列車の役割もしている。そして大分に着くと、高架工事中となっている上りの部分を見上げた。大分は後ほど訪問するという予定であったのでその場はすぐに目を閉じ仮眠体制を取ったが、ここ大分に来るのはそれこそ小学校以来であった!約30年振り位に見た大分駅は既に新しく生まれ変わろうとしていた。私の乗った「ハイパー」はまだ高架化されていない昔からの地上ホームであった。しかしそれもいずれ近い将来に無くなってしまうであろうと思い、後ほどの訪問でしっかりと記録する事を心に誓った。

(かつては杉安までの「妻線」を分岐していた佐土原。現在でも宮崎までの通勤・通学駅として利用者が多い。佐土原付近になると完全に空は明るくなっていた。)
夜がだんだん明けてきた。所々記憶が無いのはやはり寝ていたのであるが、基本的に座席での仮眠は意識は働いているものだ。高架化された鉄路を進むとやがて日向市に着いた。私の初訪は1978年8月であったが、その時は地上であったので全く印象が違ってしまっていた。そして何より大きなバッグを持った乗客が数十名ホームにいるではないか!しかも高校生まで数名いる。そう、この「ドリームにちりん」は始発列車の役割もしているのだ。大きな荷物を持った乗客はもちろん終点の宮崎空港までの乗車と思われるが、特急列車で通学する高校生はいったいどのような思いで「ドリーム」に乗車しているのであろうか?
高鍋、佐土原と停車し宮崎に着く。ここも私の知らぬ間に高架化されていて、ものすごく新鮮な感じであった。しかし停車時間は確か1分であったのでじっくりと確認できなかったのが残念であるが、乗客がかなり下車した。私が小学生時代にこの宮崎に来た時は当然地上駅で、寝台特急「富士」での訪問であった。当時宮崎~西鹿児島は非電化であったので東京からやって来た「富士」はここ宮崎で機関車をELからDLに交換する作業があった。その時はDF50であり、そんな機関車は湘南地区在住の私にとって書籍でしか見た事なかったためもう「シャイニング・ウィザード」をまともに食らったような衝撃であった。

(宮崎空港で出発をまつ「普通列車」。つまり「ドリーム」が折り返しての変身である。随分と豪華な普通列車だ。)
そんな宮崎から更に南に下るのが現在の姿である「空港」まで列車は足を伸ばす。空港利用者にとっては非常に便利な制度が、つまり宮崎~宮崎空港間は特急列車に乗っても自由席ならば特急券無で乗車できる制度がある。日本で最初に空港アクセス駅として機能したのが「千歳空港」、つまり現在の南千歳である。当時はこの駅を通る全列車が停車し、文字通り「アクセス駅」として活躍。駅舎にあった雪印のマークが非常に印象的であった。現在はその地位を新千歳空港に譲ったが、そんなアクセス駅としてこの宮崎空港も活躍している。とはいうものの島式ホーム1本でやや華奢な印象ではあるが。そして地形の制約からか、若干ホームが弧を描いていてやや細い印象だ。しかしながらハイパーをはじめ普通列車などの列車が多く発着しておりアクセス駅としては「合格」であると私は思う。

(「ハイパー」で南宮崎に戻り日南線制覇に向かった。南宮崎は宮崎駅を補完する意味でも重要な駅だ。と言うより運転・運用上の「宮崎駅」であろう。)
「ドリームにちりん」から大きな荷物を持った全ての乗客は改札に向かった。改札を出ずに折り返すのは私たちくらいだけであった。ただここから普通列車で折り返し日南線を制覇する予定なのだが、その肝心の普通列車がやって来ない。もしやと思い改札に向かい駅員に問うた。「スミマセン、ここに表示されている普通列車の宮崎行ってこの特急列車が折り返しになるのですか?」と言ったら「そうだよ」と簡単に答えられてしまった。えっ、特急が普通列車になって折り返すんだ・・・と、なんだかマギー司郎に縦縞のハンカチを横縞のハンカチに変化させる手品を見せられた思いであった。一応、時刻表には臨時列車扱いで毎日運転されているような表示であったが、恐らく宮崎への回送列車を解放したものであろうと推測。有効な活用の仕方だ。もちろん座席は満席ではないが、約10名くらいであろうか、快適な「普通列車」で宮崎に向かっていった。

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