更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>③
2019-12-20
志布志からは旧・志布志線の代替バスで都城に向かう。志布志線はかなり廃線跡として数々の遺構が残っており、廃線マニアにとっては実に訪問し甲斐があるであろう。志布志から乗ったバスからもその跡が確認出来、例えば国道から大きくカーブして北に向かう道路が「いかにも」であるし、途中駅の数々も、例えば大隅松山や末吉、今町など至るところで確認できると聞いているが、私が実際に確認できたのは末吉駅であった。現在でも記念館のような形で保存されていたが、特にバスからその遺構が確認出来、踏切などはまさにリアル。まだ現役ではないかと錯覚してしまうほどであった。

(日南線終点の志布志は国鉄時代より若干駅が移転した。かつての駅があった場所はスーパーマーケットや駐車場に変身している。そしてかつてはそこから志布志線と大隅線が分岐し活気に満ちていた。そんな過去が想像できないくらいに現在はひっそりとしてしまった。)
ようやく街並みが開けてくると、街の中心に近い西都城を過ぎ都城に着く。定刻より5分~7分くらいの遅れであったが、小林方面に向かうには問題ない遅れであった。もちろん想定の範囲内である。
しかしこの都城を「みやこのじょう」と読むのはなんとなくロマンティックではなかろうか?1978年に寝台特急「富士」に乗り初めてこの駅を見た時に父が「トシロとは読まないんだなぁ」みたいな、大きな声でみんなにわかるような独り言を言っていたのを思い出した。実はそれ以来の今回の訪問は実に30年ぶり(当時)であった。しかしながら駅舎こそ変わったものの、ホームなど当時のものとほとんど変わっていなかった。懐かしい・・・まだまだ九州にはこうした昔の面影を残す場所が多く残っている。

(吉松はSL時代の面影をかなり残す。かつては「本線」であったが、高速道路の開通や時代の変遷などで完全に寂れてしまった。)
さて、私たちは都城から吉都線経由で隼人に向かう。途中、吉松からは肥薩線であるが、吉都線と直通であるため乗換は不要だ。肥薩線は翌日に「はやとの風」での再訪を予定している。とりあえず今日は「予行」という事で・・・
隼人からは「きりしま」に乗って鹿児島に向かった。国鉄時代には無い「特急列車」であったので新鮮であるが、かつてのイメージと違い区間ごとに細分化された列車設定は実に効率が良いと思う。私が九州に初上陸した時代にはこうした細分された輸送の部分は急行列車が担当していた。更に宮崎~鹿児島は非電化であったので普通列車はキハ20とかが運転され実にローカルムード満点であった。そして今回下車した鹿児島は昔と変わらぬ佇まい。特に貨物駅のように使われている斜めに敷かれた多くの線路は、かつてそちらが鹿児島駅の本体で、それこそ現在の肥薩線が「本線」であった名残であろう。かつての鹿児島本線は宮崎寄りから入線していたためその線路は全て宮崎側に向かっている。そんな中心的地位も現在は鹿児島中央駅に譲り、鹿児島駅自身は何だか「社長」から「会長」になり優雅に過ごしているような印象だ。

(鹿児島駅の線路配線は変形Yの字のような形になっており、宮崎方面に向かって線路が収束している。かつては肥薩線が「本線」であったための名残であるが、かつての鹿児島駅施設は現在でも貨物駅として使用されている。ちなみにウィキを開いてみたら、ご覧の写真と殆ど変わらないものが掲載されていた・・・が、これは私自身が撮影したものであるのであしからず!)
ある意味、鹿児島駅に下車した事は非常に有意義だったかも知れない。多分貴重な経験であろう。しかし、なぜ鹿児島中央ではなく鹿児島駅に下車したのか・・・それはちょっとした私の小細工が隠れていたのだ。

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(日南線終点の志布志は国鉄時代より若干駅が移転した。かつての駅があった場所はスーパーマーケットや駐車場に変身している。そしてかつてはそこから志布志線と大隅線が分岐し活気に満ちていた。そんな過去が想像できないくらいに現在はひっそりとしてしまった。)
ようやく街並みが開けてくると、街の中心に近い西都城を過ぎ都城に着く。定刻より5分~7分くらいの遅れであったが、小林方面に向かうには問題ない遅れであった。もちろん想定の範囲内である。
しかしこの都城を「みやこのじょう」と読むのはなんとなくロマンティックではなかろうか?1978年に寝台特急「富士」に乗り初めてこの駅を見た時に父が「トシロとは読まないんだなぁ」みたいな、大きな声でみんなにわかるような独り言を言っていたのを思い出した。実はそれ以来の今回の訪問は実に30年ぶり(当時)であった。しかしながら駅舎こそ変わったものの、ホームなど当時のものとほとんど変わっていなかった。懐かしい・・・まだまだ九州にはこうした昔の面影を残す場所が多く残っている。

(吉松はSL時代の面影をかなり残す。かつては「本線」であったが、高速道路の開通や時代の変遷などで完全に寂れてしまった。)
さて、私たちは都城から吉都線経由で隼人に向かう。途中、吉松からは肥薩線であるが、吉都線と直通であるため乗換は不要だ。肥薩線は翌日に「はやとの風」での再訪を予定している。とりあえず今日は「予行」という事で・・・
隼人からは「きりしま」に乗って鹿児島に向かった。国鉄時代には無い「特急列車」であったので新鮮であるが、かつてのイメージと違い区間ごとに細分化された列車設定は実に効率が良いと思う。私が九州に初上陸した時代にはこうした細分された輸送の部分は急行列車が担当していた。更に宮崎~鹿児島は非電化であったので普通列車はキハ20とかが運転され実にローカルムード満点であった。そして今回下車した鹿児島は昔と変わらぬ佇まい。特に貨物駅のように使われている斜めに敷かれた多くの線路は、かつてそちらが鹿児島駅の本体で、それこそ現在の肥薩線が「本線」であった名残であろう。かつての鹿児島本線は宮崎寄りから入線していたためその線路は全て宮崎側に向かっている。そんな中心的地位も現在は鹿児島中央駅に譲り、鹿児島駅自身は何だか「社長」から「会長」になり優雅に過ごしているような印象だ。

(鹿児島駅の線路配線は変形Yの字のような形になっており、宮崎方面に向かって線路が収束している。かつては肥薩線が「本線」であったための名残であるが、かつての鹿児島駅施設は現在でも貨物駅として使用されている。ちなみにウィキを開いてみたら、ご覧の写真と殆ど変わらないものが掲載されていた・・・が、これは私自身が撮影したものであるのであしからず!)
ある意味、鹿児島駅に下車した事は非常に有意義だったかも知れない。多分貴重な経験であろう。しかし、なぜ鹿児島中央ではなく鹿児島駅に下車したのか・・・それはちょっとした私の小細工が隠れていたのだ。

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