夕張線への招待①
2012-12-23
昭和56年10月、道東アクセスの一貫として「石勝線」が開通した。「石勝」とは北海道の「石狩」と「十勝」を結ぶ、という意味でのネーミングである。その名の通り札幌と道東方面を短絡させる目的で開通させたのだが、その内容は、当時の鉄道技術結集の証として実に斬新な内容であった。しかし、新線区間では沿線人口が希薄で駅間距離が長く、信号所が2~3か所連なるという結果になる。当然CTC化されているため信号所は無人である。そのためポイント部分はスノーシェルターで覆われ、ヒーターが取り付けられているなどの工夫がなされている。
そんな新線区間を「石勝線」と呼ぶが、ここにはもう一つの顔がある。そう、夕張線だ。石勝線は、旧・夕張線の一部を飲み込み、石勝線開業よりひと足早く「紅葉山」が移転し「新夕張」に改称、さらに競合する「登川支線」を廃止し、楓と登川の中間地点に新「楓」が誕生、とまぁ、ザッと変遷を綴ってみたが、先述した「旧・夕張線」の部分が私にとっては非常に重要・・・なぜ新夕張~夕張間も「石勝線」としたのか疑問が残る。そして「紅葉山」を「新夕張」と改称した裏には何があるのか・・・

夕張駅は2回移転した。一回目は市街地の近くに、2回目はスキー場「Mr.レースイ」の目前である。特に2回目の移転の時、数百メートル移転するのに住民の抗議が市長のもとに相当数あったらしい。住民との協議を重ねた結果、ようやく現在地に移転したらしい。
夕張市の人口は約1万人(2012年現在)。これは小田急線・参宮橋駅の乗車人員よりも少ない。夕張市の全盛期の人口は10万人を軽く超えていたが、エネルギー革命を境に人口が減少し、夕張線も同じようにして鉄道としての役割を終えた。しかし紅葉山~追分間は「道東アクセス」として新たな役割を担う事になった事が嬉しい。だが沿線人口が希薄が故にローカル輸送が厳しい。所謂「登川支線」の代替のような形で開業した新「楓」も、現在は信号場に降格してしまった。新夕張~新得間も、本当はもっと駅を設置する予定であったのであろうが、結局現在の形での開業となった。

次回の記事で、以前に私のホームページでタイトルの「夕張線への招待」として夕張線への思いを綴っているので、紹介してみたい。

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そんな新線区間を「石勝線」と呼ぶが、ここにはもう一つの顔がある。そう、夕張線だ。石勝線は、旧・夕張線の一部を飲み込み、石勝線開業よりひと足早く「紅葉山」が移転し「新夕張」に改称、さらに競合する「登川支線」を廃止し、楓と登川の中間地点に新「楓」が誕生、とまぁ、ザッと変遷を綴ってみたが、先述した「旧・夕張線」の部分が私にとっては非常に重要・・・なぜ新夕張~夕張間も「石勝線」としたのか疑問が残る。そして「紅葉山」を「新夕張」と改称した裏には何があるのか・・・

夕張駅は2回移転した。一回目は市街地の近くに、2回目はスキー場「Mr.レースイ」の目前である。特に2回目の移転の時、数百メートル移転するのに住民の抗議が市長のもとに相当数あったらしい。住民との協議を重ねた結果、ようやく現在地に移転したらしい。
夕張市の人口は約1万人(2012年現在)。これは小田急線・参宮橋駅の乗車人員よりも少ない。夕張市の全盛期の人口は10万人を軽く超えていたが、エネルギー革命を境に人口が減少し、夕張線も同じようにして鉄道としての役割を終えた。しかし紅葉山~追分間は「道東アクセス」として新たな役割を担う事になった事が嬉しい。だが沿線人口が希薄が故にローカル輸送が厳しい。所謂「登川支線」の代替のような形で開業した新「楓」も、現在は信号場に降格してしまった。新夕張~新得間も、本当はもっと駅を設置する予定であったのであろうが、結局現在の形での開業となった。

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