恋の列車はナカミナト発①
2015-09-20
全く関係ない話であるしプロレスファン以外には全く興味が湧かない話であろうが、私は三沢光晴のファンであった。三沢光晴は2代目タイガーマスクとして1980年代に活躍したが、初代と比較されさぞかし苦悩した事であろう。というより、本人はタイガーマスクとしてでなく、三沢光晴として世間に認めてもらいたかった思いが強かったらしい。そんな三沢も月日が流れ、マスクを脱ぎトップレスラーの仲間入りを果たそうとしていた。

(常磐線の勝田とは改札が別であるが隣接しているので乗り換えに便利なひたちなか海浜鉄道の勝田駅。茨城交通時代とは車両が違い最初はやや戸惑ったが、これも時代の変化かと、既に心の中が対応できていた。)
そしてついには1991年9月4日に三沢はあの「怪物」ジャンボ鶴田からなんとギブアップを奪ってしまうほどに成長。その技が「フェイスロック」である。1990年代前半ではこのフェイスロックを武器に対スーパーヘビー級と張り合ってきたが、時が経つにつれ痛め技になっていってしまっていったのは残念であった。であるが、この地味な技の功績は実に大きい。それこそ三沢の代表的な技のようであるが、実は渕正信との共同開発であった。そして1991年5月17日の後楽園ホールで、その共同開発者であった渕正信から三沢はそのフェイスロックでギブアップを奪ってしまった。渕も、自身が開発した技でギブアップとは複雑であったろう。以降、フェイスロックは三沢の技として定着していったが・・・ちなみに私は5月も9月も会場にいた。

(途中、那珂湊ではこんな車両と擦れ違った。もちろんこちらに乗車したかったのは言うまでもない。であるが、こうした風景がまだまだ健在であったのがやたら嬉しく、妙な安心感があった。)
私は毎年夏が来るとそんな事を思い出してしまう。私がひたちなか海浜鉄道を初めて訪問したのが2008年夏。かつては茨城交通と称していたが、経営の悪化から第三セクターに移管されたのは周知の通りである。残念ながら茨城交通時代には訪問できなかったが、ひたちなか海浜鉄道に移管されてからでも充分に茨城交通を堪能出来た印象であった。
水戸から更にひとつ先に進み勝田に出ると、その勝田からひたちなか海浜鉄道、いわゆるかつての茨城交通の出発地点になる。そしてここから夏になると海水浴場として冬眠から覚めたかのように活躍する阿字ヶ浦までを結ぶ華奢な鉄道路線である。私は勝田からレールバス的な列車に揺られ阿字ヶ浦を目指した。まだレールファンを復活して1年くらいしか経っておらず、知識的にも25年くらい前の感覚で訪問したため既に「茨城交通」ではない湊線にいささか違和感を感じた。しかしながら、廃止されずにまだまだ健在であったのが実に嬉しい印象でもあった。

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そしてついには1991年9月4日に三沢はあの「怪物」ジャンボ鶴田からなんとギブアップを奪ってしまうほどに成長。その技が「フェイスロック」である。1990年代前半ではこのフェイスロックを武器に対スーパーヘビー級と張り合ってきたが、時が経つにつれ痛め技になっていってしまっていったのは残念であった。であるが、この地味な技の功績は実に大きい。それこそ三沢の代表的な技のようであるが、実は渕正信との共同開発であった。そして1991年5月17日の後楽園ホールで、その共同開発者であった渕正信から三沢はそのフェイスロックでギブアップを奪ってしまった。渕も、自身が開発した技でギブアップとは複雑であったろう。以降、フェイスロックは三沢の技として定着していったが・・・ちなみに私は5月も9月も会場にいた。

(途中、那珂湊ではこんな車両と擦れ違った。もちろんこちらに乗車したかったのは言うまでもない。であるが、こうした風景がまだまだ健在であったのがやたら嬉しく、妙な安心感があった。)
私は毎年夏が来るとそんな事を思い出してしまう。私がひたちなか海浜鉄道を初めて訪問したのが2008年夏。かつては茨城交通と称していたが、経営の悪化から第三セクターに移管されたのは周知の通りである。残念ながら茨城交通時代には訪問できなかったが、ひたちなか海浜鉄道に移管されてからでも充分に茨城交通を堪能出来た印象であった。
水戸から更にひとつ先に進み勝田に出ると、その勝田からひたちなか海浜鉄道、いわゆるかつての茨城交通の出発地点になる。そしてここから夏になると海水浴場として冬眠から覚めたかのように活躍する阿字ヶ浦までを結ぶ華奢な鉄道路線である。私は勝田からレールバス的な列車に揺られ阿字ヶ浦を目指した。まだレールファンを復活して1年くらいしか経っておらず、知識的にも25年くらい前の感覚で訪問したため既に「茨城交通」ではない湊線にいささか違和感を感じた。しかしながら、廃止されずにまだまだ健在であったのが実に嬉しい印象でもあった。

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コメント
No title
あいあんさいど様
コメントありがとうございます。
湊線は、数ある第三セクター社の中でも特に「地域密着」的なものを肌で感じました。2008年の訪問時はまだ移管されたばかりで「イバコウ」のイメージが強かったのですが、先月の訪問時には茨城交通のカラーがやや薄れた印象でした。
あいあんさいど様も湊線にはかなりの思い入れがお有りのようですが、これからも「第二の人生」頑張っていただきたい思いです。
ところで「フェイスロック」ですが・・・超世代軍時代に渕と三沢が道場であれやこれやと試行錯誤して開発したみたいです。このことは近年のインタビューで渕自身が語っていましたが「鶴田さんがギブアップした時に本人はギブアップしていないと見栄を張っていたけど、あれは相当効いていたはずだ」と、その威力を語っていました。だから自身もギブアップしてしまったのでしょうね。あの技を当時使っていたのは渕と三沢だけでしたが、私は当時、渕が三沢の真似をしているものと思っていましたが、まさかそんなカラクリがあるとは私も最近になって知った事です。
湊線は、数ある第三セクター社の中でも特に「地域密着」的なものを肌で感じました。2008年の訪問時はまだ移管されたばかりで「イバコウ」のイメージが強かったのですが、先月の訪問時には茨城交通のカラーがやや薄れた印象でした。
あいあんさいど様も湊線にはかなりの思い入れがお有りのようですが、これからも「第二の人生」頑張っていただきたい思いです。
ところで「フェイスロック」ですが・・・超世代軍時代に渕と三沢が道場であれやこれやと試行錯誤して開発したみたいです。このことは近年のインタビューで渕自身が語っていましたが「鶴田さんがギブアップした時に本人はギブアップしていないと見栄を張っていたけど、あれは相当効いていたはずだ」と、その威力を語っていました。だから自身もギブアップしてしまったのでしょうね。あの技を当時使っていたのは渕と三沢だけでしたが、私は当時、渕が三沢の真似をしているものと思っていましたが、まさかそんなカラクリがあるとは私も最近になって知った事です。
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湊線の歴史は確かにその長さの中に複雑なものを持っていますね。三セク系の中ではかなりがんばっている方だと思い、一時はずいぶんと乗りまくり、社長からコメントもずいぶんいただきました(笑)。
それはともかく、茨城交通という名の「仮面」を捨てて、地域密着的な三セクへの転身を図ったというプロセスは、三沢氏の成長過程にも通じるものがあるような気がします。
でも、フェイスロックが渕選手との共同開発というのは存じませんでした。そのお二人が袂を分かつことになったのは、いったいどういうことだったんでしょうね…。