恋の列車はオオタキ発②
2015-11-11
いすみ鉄道と言えば、言わずと知れた国鉄木原線であるのは周知の通りだ。私は1981年頃に木原線廃止情報を受け一目散に旅立った・・・と言っても首都圏のため宿泊してまでという距離ではなく、完全に日帰り圏内であった。路線名となっている「木原」とは、私が述べるまでもなく皆様の方がご存知であろう。この事は小湊鉄道の章でも既に述べているが、やはりこの鉄道に関する変遷は実に興味深い。確か廃止情報を受けたのは私が中学1年生の時であったと思う。はっきりとした記録を残していなかったが、当時の写真が残っていた。その写真から判断した結論である。というのも、その写真の判断理由として「カメラ」にあった。それは後に購入する「キャノンAE-1プログラム」ではなく「キャノンdemi EE-28」と呼ばれる、言わば「バカチョンカメラ」での撮影とすぐに判断できるからであった。という事で、今回は1981年に訪問した木原線時代を中心に、2008年にいすみ鉄道として訪問した時と併せて紹介してみよう。

(確か1981年の訪問であったと思う大原にて。2008年には久々の訪問となったが、私的には懐かしさ満点であった。であるが、やはり木原線的な印象はかなり薄れ、いすみ鉄道的な印象がダイレクトに伝わってきたのも正直なところだ。)
という事で、はるばる神奈川県からやってきた私は、木原線の起点である大原までは実に遠く感じたものだ。1981年と言えば、まだまだ165系や153系などの「房総急行」が両国から出ていた時代だ。とは言え、既にこの時に房総急行全廃の情報は流れており、中学生ながらに「将来貴重になる」と思いその急行列車に向けひたすらシャッターを切る日々であった。そしてこの日も大原ではご覧の急行がいたため即座に反応。と言っても「バカチョン」のためなかなか披露しにくい作品であるが・・・

(同じく1981年の訪問時に大原で撮影した急行「外房」であるが・・・この撮影当時には既に房総急行廃止の情報が流れていた。実際に両国始発の列車がなくなってしまうのか・・・的な実感があまり感じられなかったが、現在は周知の通り「伝説」になってしまっている。)
さて、ここ大原に来るまでの道のりは記録していなかったが記憶はあった。1980年より横須賀線と総武線の相互乗り入れが開始され、いわゆる「品鶴線」を通るルートが斬新であった横須賀線に乗れば東京で乗り換えなしで千葉方面へ行ける。それを乗るのがひとつの快感となっていた私は、確か戸塚で上総一ノ宮行きに乗り換えた記憶だ。であるが、まだ相互乗り入れが開始され1年くらいしか経っていない。私はともかく、普段から通勤などで利用している方はこの行き先をどう感じていたのであろうか。2015年を迎えた現在「上野東京ライン」なる新たな仲間が加わったが、辻堂や茅ヶ崎等で「前橋行きがまいります」的なアナウンスは実にアンマッチ的に思える。だが、既に「湘南新宿ライン」でその事は経験済みであるのだが・・・

(こちらは2008年訪問時のものである、私的には「横須賀線」である。かなり外観的にもお疲れの様子であるが、2015年現在も活躍しているのであろうか。)
そんな横須賀線に乗り車窓に映る「新鶴見」は当時の私にとっては実に新しい景色。そして東京を「スルー」してしまうのも完全に新世界であった。そして上総一ノ宮で乗り換え大原に向かう・・・ある意味、千葉にも「横須賀線」が走っているのかと関心してしまうくらいであった。そして大原に到着。乗り換える木原線はパッと見「相模線」という印象。相模線で既に主流となっていたキハ30の姿が活躍していた。そんな大原では、当時全廃されるという情報が流れていた「房総急行」の姿が見ることが出来た。「本当に急行列車がなくなってしまうのか・・・」と子供ながらに思っていたが、現在は周知の通り。であるが、まだまだ両国駅はかつての面影が残っているのが嬉しい。貨物駅の方は既に「国技館」として第二の人生を送っているが、現在ではそのことがすっかり定着している。私自身も国技館には何度も足を運んでいたが、特にあの「マス席」は実に「青函連絡船」を思い出してしまう。なんとなくあの「桟敷席」的な雰囲気で枝豆でも頬張りながら観る「リキラリアット」「STF」などは実に声援にも熱がこもってしまう、と、相撲ではない話題で申し訳ないが・・・
と、いつも話が逸れてしまうが・・・私が乗った列車は既に上総中野に向けてエンジンを唸らせていた。

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(確か1981年の訪問であったと思う大原にて。2008年には久々の訪問となったが、私的には懐かしさ満点であった。であるが、やはり木原線的な印象はかなり薄れ、いすみ鉄道的な印象がダイレクトに伝わってきたのも正直なところだ。)
という事で、はるばる神奈川県からやってきた私は、木原線の起点である大原までは実に遠く感じたものだ。1981年と言えば、まだまだ165系や153系などの「房総急行」が両国から出ていた時代だ。とは言え、既にこの時に房総急行全廃の情報は流れており、中学生ながらに「将来貴重になる」と思いその急行列車に向けひたすらシャッターを切る日々であった。そしてこの日も大原ではご覧の急行がいたため即座に反応。と言っても「バカチョン」のためなかなか披露しにくい作品であるが・・・

(同じく1981年の訪問時に大原で撮影した急行「外房」であるが・・・この撮影当時には既に房総急行廃止の情報が流れていた。実際に両国始発の列車がなくなってしまうのか・・・的な実感があまり感じられなかったが、現在は周知の通り「伝説」になってしまっている。)
さて、ここ大原に来るまでの道のりは記録していなかったが記憶はあった。1980年より横須賀線と総武線の相互乗り入れが開始され、いわゆる「品鶴線」を通るルートが斬新であった横須賀線に乗れば東京で乗り換えなしで千葉方面へ行ける。それを乗るのがひとつの快感となっていた私は、確か戸塚で上総一ノ宮行きに乗り換えた記憶だ。であるが、まだ相互乗り入れが開始され1年くらいしか経っていない。私はともかく、普段から通勤などで利用している方はこの行き先をどう感じていたのであろうか。2015年を迎えた現在「上野東京ライン」なる新たな仲間が加わったが、辻堂や茅ヶ崎等で「前橋行きがまいります」的なアナウンスは実にアンマッチ的に思える。だが、既に「湘南新宿ライン」でその事は経験済みであるのだが・・・

(こちらは2008年訪問時のものである、私的には「横須賀線」である。かなり外観的にもお疲れの様子であるが、2015年現在も活躍しているのであろうか。)
そんな横須賀線に乗り車窓に映る「新鶴見」は当時の私にとっては実に新しい景色。そして東京を「スルー」してしまうのも完全に新世界であった。そして上総一ノ宮で乗り換え大原に向かう・・・ある意味、千葉にも「横須賀線」が走っているのかと関心してしまうくらいであった。そして大原に到着。乗り換える木原線はパッと見「相模線」という印象。相模線で既に主流となっていたキハ30の姿が活躍していた。そんな大原では、当時全廃されるという情報が流れていた「房総急行」の姿が見ることが出来た。「本当に急行列車がなくなってしまうのか・・・」と子供ながらに思っていたが、現在は周知の通り。であるが、まだまだ両国駅はかつての面影が残っているのが嬉しい。貨物駅の方は既に「国技館」として第二の人生を送っているが、現在ではそのことがすっかり定着している。私自身も国技館には何度も足を運んでいたが、特にあの「マス席」は実に「青函連絡船」を思い出してしまう。なんとなくあの「桟敷席」的な雰囲気で枝豆でも頬張りながら観る「リキラリアット」「STF」などは実に声援にも熱がこもってしまう、と、相撲ではない話題で申し訳ないが・・・
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