サマーアクションシリーズ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版②
2018-06-20
さて、学割の申請が成功し計画を立て始めた。いや、学割を申請する前からもう計画は出来上がっていた。だが・・・夜行急行列車が臨時便を含め多々ある中、どうしても一箇所だけ「駅寝」が出来てしまった。私は事前に「飯詰」に往復はがきで「駅寝」を申し込んだ。というか、普通ならこんな行動はありえないのであるが、某レールウェイライターの著書に各駅の住所が記された書籍を所有していたため往復葉書を投函した。いかにも中学生らしいが、基本的に駅とは人が列車を利用するための施設であって宿泊施設ではない。「チェックインは何時ですか?」みたいな返事が来るわけもなく、きっちりと丁寧な文章で「お断り」であった。ではどうしたか・・・それは後ほど紹介しよう。

画像は「日本の旅・鉄道見聞録」より。EF58牽引の急行・八甲田。12系客車あるが、昼間と夜とでは同じ車両でも乗車してみたらものすごく違う空気が漂っていた。上野から乗車するのと青森から乗車するのもまた違った空気漂うイメージはこの旅が私に教えてくれた。
そんな事で周遊券も学割で購入した。上野から一番にアプローチする列車は急行「八甲田」に決定した。この「八甲田」は、若いレールファンには馴染みがないであろうが、一応夜行急行列車であり、寝台を連結していないオール座席であった。私の乗車時は12系客車であったのでリクライニングはできなかったが、この紹介している旅で後に乗る急行「津軽」は14系客車であったので乗り心地は最高であった記憶である。だが・・・出発直前になって予定を変更した。東北ワイドの有効範囲の地図を見ると、何と磐越西線や喜多方から出ている日中線も「有効」であったのだ!これは使わぬ手はない!という事で、急遽八甲田の乗車を取りやめ、というより、その八甲田を途中の郡山から乗車し元の計画に合わせるという手段に出た。多分出発の前日くらいであったと思う。当時の私にしてはもの凄い英断であった。

こちらは現在廃止となってしまった西寒川の現役時代。当時、我が家から自転車だと20秒かからないくらいで到着できた位置にあった。ただ、始発が朝8時45分くらいだったので東北方面へ朝から旅立つ場合、時間的に有利とは言えない。そういう場面では更に自転車で10~15分くらいで到着出来る寒川駅を利用した。今回の旅でも寒川駅までは自転車であった。東北方面へ旅立つのに自転車とは・・・
というわけで、最初のアプローチは相模線・寒川駅上り列車の始発である5時50分に乗車する。当時私は相模線・西寒川が最寄りであったが、何せ始発が朝8時40分くらいであったので日中線に間に合わなくなってしまう。ということで頑張って早起きして寒川駅に向かう事にした。
寒川を始発の上り相模線に乗り茅ヶ崎で6時02分発の上り東海道線に乗り換え東京に向かう。この6時02分発というのもまたいい。その「いい」というのは、当時まだニューフェイスであった185系だったからだ。普通列車なのに185系。当時は「湘南ライナー」などなかったので、純粋に普通列車である。勿論空き時間の有効活用または回送も兼ねているのであろう。ある意味「副産物」的な新型車両で東京まではかなりリラックスできるので、中学生の私にしてみればかなり気分が良い。しかしながら、もちろん当時は「上野・東京ライン」なんてなかったので東京から上野までは山手線である。

橋上駅舎化前の寒川駅。昭和59年頃の撮影と思われるが、かつては貨物ホームがあり、そして寒川支線も分岐していた。今回は寒川駅からの始発列車に変更しての旅立ちであった。
さて、上野からは「東北ワイド」の特権を早速利用する。そう、これから先、北を目指すため急行列車を使う事である。急行券無し!ただ、当時は東北新幹線が開通したばかり。まだまだ急行列車などが活躍していたとは言えかなり東北方面の急行は整理された印象であった。だが、目指す日中線を制覇するために丁度いい時間帯の列車があるもので、常磐線経由の急行「ときわ」が私の要求に応えてくれた。8時丁度の上野発は「あずさ」ではないのは申し訳ないが、私は急行「ときわ」で平(現・いわき)に向かった。

急行「ときわ」は常磐線経由で特急「ひたち」の補完的役割をしていた。その性格上、ご覧の通り交直両用電車であったが、上野ではこうした列車が多々見られたのが東京駅と違うところ。やはり当時の上野駅はレールファンにはたまらない存在であったろう。写真はダイナミック✩トナカイより。

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画像は「日本の旅・鉄道見聞録」より。EF58牽引の急行・八甲田。12系客車あるが、昼間と夜とでは同じ車両でも乗車してみたらものすごく違う空気が漂っていた。上野から乗車するのと青森から乗車するのもまた違った空気漂うイメージはこの旅が私に教えてくれた。
そんな事で周遊券も学割で購入した。上野から一番にアプローチする列車は急行「八甲田」に決定した。この「八甲田」は、若いレールファンには馴染みがないであろうが、一応夜行急行列車であり、寝台を連結していないオール座席であった。私の乗車時は12系客車であったのでリクライニングはできなかったが、この紹介している旅で後に乗る急行「津軽」は14系客車であったので乗り心地は最高であった記憶である。だが・・・出発直前になって予定を変更した。東北ワイドの有効範囲の地図を見ると、何と磐越西線や喜多方から出ている日中線も「有効」であったのだ!これは使わぬ手はない!という事で、急遽八甲田の乗車を取りやめ、というより、その八甲田を途中の郡山から乗車し元の計画に合わせるという手段に出た。多分出発の前日くらいであったと思う。当時の私にしてはもの凄い英断であった。

こちらは現在廃止となってしまった西寒川の現役時代。当時、我が家から自転車だと20秒かからないくらいで到着できた位置にあった。ただ、始発が朝8時45分くらいだったので東北方面へ朝から旅立つ場合、時間的に有利とは言えない。そういう場面では更に自転車で10~15分くらいで到着出来る寒川駅を利用した。今回の旅でも寒川駅までは自転車であった。東北方面へ旅立つのに自転車とは・・・
というわけで、最初のアプローチは相模線・寒川駅上り列車の始発である5時50分に乗車する。当時私は相模線・西寒川が最寄りであったが、何せ始発が朝8時40分くらいであったので日中線に間に合わなくなってしまう。ということで頑張って早起きして寒川駅に向かう事にした。
寒川を始発の上り相模線に乗り茅ヶ崎で6時02分発の上り東海道線に乗り換え東京に向かう。この6時02分発というのもまたいい。その「いい」というのは、当時まだニューフェイスであった185系だったからだ。普通列車なのに185系。当時は「湘南ライナー」などなかったので、純粋に普通列車である。勿論空き時間の有効活用または回送も兼ねているのであろう。ある意味「副産物」的な新型車両で東京まではかなりリラックスできるので、中学生の私にしてみればかなり気分が良い。しかしながら、もちろん当時は「上野・東京ライン」なんてなかったので東京から上野までは山手線である。

橋上駅舎化前の寒川駅。昭和59年頃の撮影と思われるが、かつては貨物ホームがあり、そして寒川支線も分岐していた。今回は寒川駅からの始発列車に変更しての旅立ちであった。
さて、上野からは「東北ワイド」の特権を早速利用する。そう、これから先、北を目指すため急行列車を使う事である。急行券無し!ただ、当時は東北新幹線が開通したばかり。まだまだ急行列車などが活躍していたとは言えかなり東北方面の急行は整理された印象であった。だが、目指す日中線を制覇するために丁度いい時間帯の列車があるもので、常磐線経由の急行「ときわ」が私の要求に応えてくれた。8時丁度の上野発は「あずさ」ではないのは申し訳ないが、私は急行「ときわ」で平(現・いわき)に向かった。

急行「ときわ」は常磐線経由で特急「ひたち」の補完的役割をしていた。その性格上、ご覧の通り交直両用電車であったが、上野ではこうした列車が多々見られたのが東京駅と違うところ。やはり当時の上野駅はレールファンにはたまらない存在であったろう。写真はダイナミック✩トナカイより。

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コメント
ダイヤモンド☆トナカイ様
にわか者様
コメントありがとうございます。
学割禁止?それはおかしいでしょう。学割は学生の特権であり日本の文化でもあり制度です。もちろん世界各国でも広く認識されています。いわば常識です。それを禁止するとは何事ですか!それは学校に、いや、教育委員会にクレームつけた方がいいでしょう。「田舎だから」とかそういう理由で片つけてはいけません。絶対にあり得ないです❗
改善しないと次世代の若いレールファンに影響することでしょう。それこそ我々のような旅ができなくなってしまうかも知れません。
学割禁止?それはおかしいでしょう。学割は学生の特権であり日本の文化でもあり制度です。もちろん世界各国でも広く認識されています。いわば常識です。それを禁止するとは何事ですか!それは学校に、いや、教育委員会にクレームつけた方がいいでしょう。「田舎だから」とかそういう理由で片つけてはいけません。絶対にあり得ないです❗
改善しないと次世代の若いレールファンに影響することでしょう。それこそ我々のような旅ができなくなってしまうかも知れません。
ダイヤモンド☆トナカイ様
これが当時の田舎の実情なんです・・・
生徒手帳に記載されていたかと思うので、生徒手帳を探しています。
そもそも隣の学校区へ行くだけで、届出が必要な校則でしたし・・・
私の場合、隣の学校区と隣接しており、隣に買い物に行ったほうがはるかに近かったのですが、それすら許されなかった・・・
そんな状況での全国行脚でしたので、見つかる度に大変な状況下におかれましたよ・・・体罰もありました。
今なら校長が謝罪会見かもしれないです。
生徒手帳に記載されていたかと思うので、生徒手帳を探しています。
そもそも隣の学校区へ行くだけで、届出が必要な校則でしたし・・・
私の場合、隣の学校区と隣接しており、隣に買い物に行ったほうがはるかに近かったのですが、それすら許されなかった・・・
そんな状況での全国行脚でしたので、見つかる度に大変な状況下におかれましたよ・・・体罰もありました。
今なら校長が謝罪会見かもしれないです。
にわか者様
コメントありがとうございます。
なんでそこまでして生徒を縛り付けるのでしょうか?学校の考え方おかしいですね。もし生徒が問題を起こした場合「校則違反だから」と物事を簡単に解決しようとする学校側の怠慢に過ぎませんね。
そういえばかつて「8時だよ!全員集合」という番組に対し、全国的に学校側は「番組を観ないように」的な指導をしていたと思います。
番組プロデューサーの居作昌果氏の著書に記されて
いますが、教育委員会や学校の教諭らが生徒に「全員集合」を観るななどと指導しておいて、その指導する側の人が私に「全員集合」の入場券を孫に子供に頼まれたので優遇してほしいと言ってくるのだから・・・みたいな事が記されてました。
何となくですが、それに近い雰囲気あるんじゃないですか?
今の私たちは当時を振り返り「おかしい」と思えるのですが、学生当時はあまりそういう考えできなかったので仕方ないですが、それでもその校長には今からでも遅くないので謝罪会見ですよ、謝罪!
なんでそこまでして生徒を縛り付けるのでしょうか?学校の考え方おかしいですね。もし生徒が問題を起こした場合「校則違反だから」と物事を簡単に解決しようとする学校側の怠慢に過ぎませんね。
そういえばかつて「8時だよ!全員集合」という番組に対し、全国的に学校側は「番組を観ないように」的な指導をしていたと思います。
番組プロデューサーの居作昌果氏の著書に記されて
いますが、教育委員会や学校の教諭らが生徒に「全員集合」を観るななどと指導しておいて、その指導する側の人が私に「全員集合」の入場券を孫に子供に頼まれたので優遇してほしいと言ってくるのだから・・・みたいな事が記されてました。
何となくですが、それに近い雰囲気あるんじゃないですか?
今の私たちは当時を振り返り「おかしい」と思えるのですが、学生当時はあまりそういう考えできなかったので仕方ないですが、それでもその校長には今からでも遅くないので謝罪会見ですよ、謝罪!
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これが私の学校の校則でした・・・
ちなみに、高校もですよ・・・
田舎の学校でしたから・・・