サマーアクションシリーズ 1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑤
2018-07-05
川部に戻ってきた私は一旦弘前に向かう。それは五能線に乗るためだ。「おや?」と思われる方もおられるであろう。五能線と言えば川部からであり弘前ではないからだ。そんな理由は単純で、弘前発の五能線列車に乗るためである。というより、五能線の列車はほぼ全て弘前発であるため座席の確保に都合がいい。しかも弘前だと乗り換え時間が約10分ほどで済む。計算通りに順調に進行している今回の旅は、弘前でももちろん座席を確保し、8時10分発の列車は東能代に13時59分着までじっくりと旧型客車でくつろげる事に喜びを感じた。そう、わざわざ旧型客車で五能線制覇をと予め予定を組んでいたのだ。

五能線普通列車は弘前から乗車。もちろん座席を確保するためである。だが、当時の私には「お城」や「りんご」などを感じることなく、ただひたすら国鉄全線乗りつぶしに命をかけていた印象であった。
五能線と言えば、現在は「リゾートしらかみ」が活躍するが、当時はそんな列車など存在しなかったし、現在のように能代~東能代間の区間列車の設定もあまり無かった気がする。だが、この旧型客車の運転も全線通しは確か1日2往復くらいであった記憶のため貴重な存在であった。
五所川原くらいまではそれなりに乗客がいたが、それ以降はワンボックスを占領していい旅が出来た。真夏の旅であるが旧型客車のため冷房などは当然無い。しかしながら夏の東北は全開の窓から来る風のみでも心地よい。冷房などなくても普通に過ごせた感がある。そして窓の向こうではゴツゴツとした岩場ながら海水浴のグループが数名いる長閑な光景。中学生の私がこういう景色を見て何かを感じるという事は少しでも大人に近づいたという事であろうか。

鰺ヶ沢では確か列車交換があった。後年に「リゾートしらかみ」で再訪した五能線であるが、その間約30年くらいの月日が流れた。もちろん経営母体も国鉄からJRに代わりいろいろな面での変化が見られた。
能代に着くと「いよいよ」という実感が出てくる。なにせ約6時間も旧型客車に揺られているのであるからそろそろ足腰も痛くなってくる頃であろうが・・・なんてったって中学生!経済力は無いけれど体力的には情熱が溢れかえっていた!疲れ知らずと言おうか、まだまだ全然乗り足りない!!!!!!!!そんな印象しか記憶にない五能線であった。今思えば・・・若い!
東能代についた私は何事もなかったかのように鷹ノ巣方面へ向かう普通列車を待つ。時刻表上は客車列車の表示であるが、確か私が乗ったこの奥羽本線の普通列車639列車は50系であったと思う。旧型客車ではなかった記憶である。ただ、世間では「お盆」的なシーズンなので大きな手提げ袋を持った家族連れなどが多く列車に乗っていた記憶である。「記憶である」と表現しているが、なにせもう30年以上前の話。逆に「よくそんなに覚えているね?」と知人から聞かれそうであるが、こうしてキーボードを叩いていると意外にも当時の記憶がよみがえってくるものだ。しかもある意味細かい事まで。若かりし頃の記憶というのはすごいものだ。そんな私はこの普通列車に乗り鷹ノ巣に向かった。

鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。当時、現在の姿になるなんて全く想像出来なかったが、それでも現在は角館までつながっているのだから私にとっては実に革命的出来事であった。
鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。鷹ノ巣には14時57分着、阿仁合線は15時26分の出発で実に接続が良い。キハ20のDCであるが、もちろん冷房などは無い。ワンボックス占領し窓を全開にする。現在の鉄道路線では冷房が一般常識であるが、当時は非冷房が一般常識であった。もちろん今ほどの暑さは感じなかった記憶である。都会の列車は当然ながら冷房化が進んでいたが、地方ではこんな光景が当たり前であった。窓を開けると心地よい風が入ってくる。そして駅名標に向けシャッターを切る!実に「旅をしているな」という実感を中学生ながらに感じていた。

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五能線普通列車は弘前から乗車。もちろん座席を確保するためである。だが、当時の私には「お城」や「りんご」などを感じることなく、ただひたすら国鉄全線乗りつぶしに命をかけていた印象であった。
五能線と言えば、現在は「リゾートしらかみ」が活躍するが、当時はそんな列車など存在しなかったし、現在のように能代~東能代間の区間列車の設定もあまり無かった気がする。だが、この旧型客車の運転も全線通しは確か1日2往復くらいであった記憶のため貴重な存在であった。
五所川原くらいまではそれなりに乗客がいたが、それ以降はワンボックスを占領していい旅が出来た。真夏の旅であるが旧型客車のため冷房などは当然無い。しかしながら夏の東北は全開の窓から来る風のみでも心地よい。冷房などなくても普通に過ごせた感がある。そして窓の向こうではゴツゴツとした岩場ながら海水浴のグループが数名いる長閑な光景。中学生の私がこういう景色を見て何かを感じるという事は少しでも大人に近づいたという事であろうか。

鰺ヶ沢では確か列車交換があった。後年に「リゾートしらかみ」で再訪した五能線であるが、その間約30年くらいの月日が流れた。もちろん経営母体も国鉄からJRに代わりいろいろな面での変化が見られた。
能代に着くと「いよいよ」という実感が出てくる。なにせ約6時間も旧型客車に揺られているのであるからそろそろ足腰も痛くなってくる頃であろうが・・・なんてったって中学生!経済力は無いけれど体力的には情熱が溢れかえっていた!疲れ知らずと言おうか、まだまだ全然乗り足りない!!!!!!!!そんな印象しか記憶にない五能線であった。今思えば・・・若い!
東能代についた私は何事もなかったかのように鷹ノ巣方面へ向かう普通列車を待つ。時刻表上は客車列車の表示であるが、確か私が乗ったこの奥羽本線の普通列車639列車は50系であったと思う。旧型客車ではなかった記憶である。ただ、世間では「お盆」的なシーズンなので大きな手提げ袋を持った家族連れなどが多く列車に乗っていた記憶である。「記憶である」と表現しているが、なにせもう30年以上前の話。逆に「よくそんなに覚えているね?」と知人から聞かれそうであるが、こうしてキーボードを叩いていると意外にも当時の記憶がよみがえってくるものだ。しかもある意味細かい事まで。若かりし頃の記憶というのはすごいものだ。そんな私はこの普通列車に乗り鷹ノ巣に向かった。

鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。当時、現在の姿になるなんて全く想像出来なかったが、それでも現在は角館までつながっているのだから私にとっては実に革命的出来事であった。
鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。鷹ノ巣には14時57分着、阿仁合線は15時26分の出発で実に接続が良い。キハ20のDCであるが、もちろん冷房などは無い。ワンボックス占領し窓を全開にする。現在の鉄道路線では冷房が一般常識であるが、当時は非冷房が一般常識であった。もちろん今ほどの暑さは感じなかった記憶である。都会の列車は当然ながら冷房化が進んでいたが、地方ではこんな光景が当たり前であった。窓を開けると心地よい風が入ってくる。そして駅名標に向けシャッターを切る!実に「旅をしているな」という実感を中学生ながらに感じていた。

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コメント
ダイヤモンド☆トナカイ様
にわか者様
コメントありがとうございます。
五能線は私の記憶だとピュアな客車列車でした。昔は「リゾートしらかみ」なんかなかったですら、こうした客車列車がある意味貴重だったと思います。とはいえ、地元の方はそれか日常だったのかも知れませんが、なんたって車両の下部にモーターなど無いので停車中はシーンとなるのがまた良いですよね。
五能線は私の記憶だとピュアな客車列車でした。昔は「リゾートしらかみ」なんかなかったですら、こうした客車列車がある意味貴重だったと思います。とはいえ、地元の方はそれか日常だったのかも知れませんが、なんたって車両の下部にモーターなど無いので停車中はシーンとなるのがまた良いですよね。
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もちろん、私も旧客で乗りつぶしましたよ!
私は混合列車でしたが、ダイヤモンド☆トナカイさんのご乗車された客レはどうだったのでしょうか???