サマーアクションシリーズ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑦
2018-07-15
臨時急行「おが」はB寝台を自由席として開放するという太っ腹であったが、お陰で逆に興奮してしまい寝れなかった。だが、先述した急行「津軽54号」の車掌の配慮のお陰で新庄に戻ってくる事ができ、予定通り陸羽東線を制覇する。基本的に「駅寝を嫌う」と先述したが、今回の旅では早速「駅寝」を予定に組み込んでいたのが新庄であった。1時20分到着で5時10分発の列車に乗る予定が、新庄到着が4時45分となり駅寝をぜずに済んだ。だが、基本的にここまでは寝ていない・・・つまり陸羽東線の始発列車が「宿」となってしまったのだ。ハッキリ言って陸羽東線を記録上は制覇したが、新庄から小牛田まで記憶が無い(2014年に陸羽東線全線再訪しています)。小牛田到着は8時ちょうどであるが、不思議な事に、小牛田に着く直前でしっかり目が覚めたのだ。それをさっきの新庄でやってくれよなぁ・・・みたいに心でつぶやいたが、これから先の行程の中でも例え熟睡していたとしてもしっかりと乗り換え駅の直前で目が覚めるクセが付いた。これは自分でも不思議なのであるが、よっぽど新庄の件がトラウマだったのか、それとも「野生の勘」なのかはハッキリ言って不明である。

急行「おが」は、私がこの旅で乗車した時は既に季節運転に格下げされていた。秋田~男鹿間は普通列車であるが、編成はオール20系で、自由席の一部は寝台車を座席として開放!椅子席に改造された座席もあったが、余剰とは言え当時の国鉄にしてみたらかなりの太っ腹であろう。
小牛田で30分ほどのインターバルの後、気仙沼線で気仙沼に向かった。のの岳や志津川、柳津など私の趣味心をくすぐるような駅がたくさんあり、窓を眺めていても楽しかったが・・・ご存知、2011年の震災により一部区間が不通になってしまった。非常に残念ではあるが、現在は一部区間でBRTによる仮復旧がなされており、ひとまずホッとした感じであるが、もちろん、できれば鉄道による全線開通が好ましいであろう。

こちらは2011年に訪問した陸前高田。なんと震災の2ヶ月前に訪問していた。国鉄からJRに母体も変わりワンマン化されて久しいが、現在はBRTが代行。もちろん鉄道の復活を期待したい。
さて、気仙沼に11時7分に着いた私は11時24分発の大船渡線快速「むろね」に乗り換える。実に接続がいい。ここで私は一気に盛に向かう。であるが、ここ大船渡線もご存知の通り震災の影響で気仙沼~盛間は多大な被害を受けた。この区間も現在はBRTによる仮復旧となっているが、実は2011年の1月に私はこの地に再訪している。実に約28年ぶりであるが、まさかその2ヶ月後に悲劇が訪れるとは思っても見なかった。普通に陸前高田や大船渡など懐かしく感じたし、特に大船渡は路線名にもなっている代表駅的存在でありながら棒線型の駅であったのには驚いた。もちろんその役割は隣の終点盛が担っているのであるが、1983年訪問時はなんとなく不思議な感じがした。そして2011年に訪問した最大の理由は「三陸鉄道」であった。1983年訪問当時、三陸鉄道はまだ開通前であった。確かに工事は行われていたし、レール誌も初の第三セクターを大々的に報じていた。だが、私的には先述した阿仁合線のように、現在の三陸鉄道のようになるのは信じられなかった。であるが、現在は震災の被害を乗り越え全線復旧を果たしたという素晴らしい結果を残している。

盛からは盛線に乗り換える。現在は三陸鉄道の一部としてがんばっているが、当時は吉浜までの盲腸線であり、その先工事をしていると聞いていたが、まさか本当に繋がり現在の姿になろうとは思いもしなかった。ただ、経営母体が違うため、乗車区間によっては料金面で懸念される部分もあろうが・・・
その三陸鉄道の一部であった盛線に乗るため盛で乗り換える。約15分のインターバルが過ぎ盛を出たのが12時48分であった。盛線の終点である吉浜に13時19分の定刻に到着。同じ列車が13時24分発で折り返す。たった5分のインターバルだったので「いい旅チャレンジ20000km」の撮影も素早くやらなければならず、何かと忙しい。なので新線区間の確認などじっくりできなかったが、基本工事は進んでいる印象であったし、レールもやや先に伸びていた印象であった。もちろん現在の吉浜は中間駅になった。
さて、盛に13時54分に戻ってきた私は14時08分発の大船渡線に乗り再び気仙沼方面を目指す。ところで盛と言えば、当時はまだ岩手開発鉄道が旅客輸送を営業していた。もちろん乗車する事も考えたが、確か接続列車が無かったと思った。乗車は断念したが、あの日頃市や岩手石橋など生で見てみたかった。現在も貨物輸送は営業していると聞いているので機会があったら、というより機会を作って是非訪れてみたい。盛などは今も岩手開発鉄道の旅客ホームが残っているし、日頃市や岩手石橋などもかつての勇姿をとどめているらしい。是非いつかは再訪してみたい気持ちである。

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急行「おが」は、私がこの旅で乗車した時は既に季節運転に格下げされていた。秋田~男鹿間は普通列車であるが、編成はオール20系で、自由席の一部は寝台車を座席として開放!椅子席に改造された座席もあったが、余剰とは言え当時の国鉄にしてみたらかなりの太っ腹であろう。
小牛田で30分ほどのインターバルの後、気仙沼線で気仙沼に向かった。のの岳や志津川、柳津など私の趣味心をくすぐるような駅がたくさんあり、窓を眺めていても楽しかったが・・・ご存知、2011年の震災により一部区間が不通になってしまった。非常に残念ではあるが、現在は一部区間でBRTによる仮復旧がなされており、ひとまずホッとした感じであるが、もちろん、できれば鉄道による全線開通が好ましいであろう。

こちらは2011年に訪問した陸前高田。なんと震災の2ヶ月前に訪問していた。国鉄からJRに母体も変わりワンマン化されて久しいが、現在はBRTが代行。もちろん鉄道の復活を期待したい。
さて、気仙沼に11時7分に着いた私は11時24分発の大船渡線快速「むろね」に乗り換える。実に接続がいい。ここで私は一気に盛に向かう。であるが、ここ大船渡線もご存知の通り震災の影響で気仙沼~盛間は多大な被害を受けた。この区間も現在はBRTによる仮復旧となっているが、実は2011年の1月に私はこの地に再訪している。実に約28年ぶりであるが、まさかその2ヶ月後に悲劇が訪れるとは思っても見なかった。普通に陸前高田や大船渡など懐かしく感じたし、特に大船渡は路線名にもなっている代表駅的存在でありながら棒線型の駅であったのには驚いた。もちろんその役割は隣の終点盛が担っているのであるが、1983年訪問時はなんとなく不思議な感じがした。そして2011年に訪問した最大の理由は「三陸鉄道」であった。1983年訪問当時、三陸鉄道はまだ開通前であった。確かに工事は行われていたし、レール誌も初の第三セクターを大々的に報じていた。だが、私的には先述した阿仁合線のように、現在の三陸鉄道のようになるのは信じられなかった。であるが、現在は震災の被害を乗り越え全線復旧を果たしたという素晴らしい結果を残している。

盛からは盛線に乗り換える。現在は三陸鉄道の一部としてがんばっているが、当時は吉浜までの盲腸線であり、その先工事をしていると聞いていたが、まさか本当に繋がり現在の姿になろうとは思いもしなかった。ただ、経営母体が違うため、乗車区間によっては料金面で懸念される部分もあろうが・・・
その三陸鉄道の一部であった盛線に乗るため盛で乗り換える。約15分のインターバルが過ぎ盛を出たのが12時48分であった。盛線の終点である吉浜に13時19分の定刻に到着。同じ列車が13時24分発で折り返す。たった5分のインターバルだったので「いい旅チャレンジ20000km」の撮影も素早くやらなければならず、何かと忙しい。なので新線区間の確認などじっくりできなかったが、基本工事は進んでいる印象であったし、レールもやや先に伸びていた印象であった。もちろん現在の吉浜は中間駅になった。
さて、盛に13時54分に戻ってきた私は14時08分発の大船渡線に乗り再び気仙沼方面を目指す。ところで盛と言えば、当時はまだ岩手開発鉄道が旅客輸送を営業していた。もちろん乗車する事も考えたが、確か接続列車が無かったと思った。乗車は断念したが、あの日頃市や岩手石橋など生で見てみたかった。現在も貨物輸送は営業していると聞いているので機会があったら、というより機会を作って是非訪れてみたい。盛などは今も岩手開発鉄道の旅客ホームが残っているし、日頃市や岩手石橋などもかつての勇姿をとどめているらしい。是非いつかは再訪してみたい気持ちである。

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コメント
ダイヤモンド☆トナカイ様
にわか者様
コメントありがとうございます。
震災2ヶ月前、私は一ノ関から三陸方面に向い三陸鉄道制覇後に八戸に宿泊。翌日は十和田観光電鉄と津軽鉄道を制覇しました。
まさかその2ヶ月後に悲劇が起こるとは想像だにしなかった出来ごとですが、特に常磐線沿線は更に「原発」が加わり何とも残念な気持ちです。特に原発は国の政策だったので「国の対応」が話題になりました。
常磐線は1979年に「ゆうづる」で、1983年には急行「ときわ」で上野から平(現・いわき)まで、また2008年には18切符で仙台から綾瀬までそれぞれ訪問してますが、やはり18切符で全線乗り通した時と1983年の急行「ときわ」がとても印象に残ってます。特に「ときわ」は最近の記事で紹介してますが、平で磐越東線に乗り換えた時がなんとも言えずたまらなかったです。
今も常磐線は一部区間が不通なんですよね?本当に復活できるのでしょうか・・・
震災2ヶ月前、私は一ノ関から三陸方面に向い三陸鉄道制覇後に八戸に宿泊。翌日は十和田観光電鉄と津軽鉄道を制覇しました。
まさかその2ヶ月後に悲劇が起こるとは想像だにしなかった出来ごとですが、特に常磐線沿線は更に「原発」が加わり何とも残念な気持ちです。特に原発は国の政策だったので「国の対応」が話題になりました。
常磐線は1979年に「ゆうづる」で、1983年には急行「ときわ」で上野から平(現・いわき)まで、また2008年には18切符で仙台から綾瀬までそれぞれ訪問してますが、やはり18切符で全線乗り通した時と1983年の急行「ときわ」がとても印象に残ってます。特に「ときわ」は最近の記事で紹介してますが、平で磐越東線に乗り換えた時がなんとも言えずたまらなかったです。
今も常磐線は一部区間が不通なんですよね?本当に復活できるのでしょうか・・・
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まさか、こんなことになろうとは・・・